家の
間數は
三疊敷の
玄關までを
入れて
五間、
手狹なれども
北南吹とほしの
風入りよく、
庭は
廣々として
植込の
木立も
茂ければ、
夏の
住居にうつてつけと
見えて、
場處も
小石川の
植物園にちかく
物靜なれば、
少しの
不便を
疵にして
他には
申す
旨のなき
貸家ありけり、
門の
柱に
札をはりしより
大凡三月ごしにもなりけれど、いまだに
住人のさだまらで、
主なき
門の
柳のいと、
空しくなびくも
淋しかりき。
家は
何處までも
奇麗にて
見こみの
好ければ、
日のうちには
二人三人の
拜見をとて
來るものも
無きにはあらねど、
敷金三月分、
家賃は
三十日限りの
取たてにて
七圓五十錢といふに、それは
下町の
相場とて
折かへして
來るはなかりき、さるほどに
此ほどの
朝まだき
四十に
近かるべき
年輩の
男、
紡績織の
浴衣も
少し
色のさめたるを
着て、
至極そゝくさと
落つき
無きが
差配のもとに
來りて
此家の
見たしといふ、
案内して
其處此處と
戸棚の
數などを
見せてあるくに、
其等のことは
片耳にも
入れで、
唯四邊の
靜とさはやかなるを
喜び、
今日より
直にお
借り
申しまする、
敷金は
唯今置いて
參りまして、
引越しは
此夕暮、いかにも
急速では
御座りますが
直樣掃除にかゝりたう
御座りますとて、
何の
仔細なく
約束はとゝのひぬ。お
職業はと
問へば、いえ
別段これといふ
物も
御座りませぬとて
至極曖昧の
答へなり、
御人數はと
聞かれて、
其何だか
四五人の
事も
御座りますし、
七八人にもなりますし、
始終ごたごたして
埓は
御座りませぬといふ、
妙な
事のと
思ひしが
掃除のすみて
日暮れ
[#「日暮れ」はママ]がたに
引移り
來りしは、
合乘りの
幌かけ
車に
姿をつゝみて、
開きたる
門を
眞直に
入りて
玄關におろしければ、
主は
男とも
女とも
人には
見えじと
思ひしげなれど、
乘り
居たるは
三十許の
氣の
利きし
女中風と、
今一人は
十八か、
九には
未だと
思はるゝやうの
病美人、
顏にも
手足にも
血の
氣といふもの
少しもなく、
透きとほるやうに
蒼白きがいたましく
見えて、
折柄世話やきに
來て
居たりし
差配が
心に、
此人を
先刻のそゝくさ
男が
妻とも
妹とも
受とられぬと
思ひぬ。
荷物といふは
大八に
唯一くるま
來りしばかり、
兩隣にお
定めの
土産は
配りけれども、
家の
内は
引越らしき
騷ぎもなく
至極寂寞とせしものなり。
人數は
彼のそそくさに
此女中と、
他には
御飯たきらしき
肥大女および、
其夜に
入りてより
車を
飛ばせて
二人ほど
來りし
人あり、
一人は
六十に
近かるべき
人品よき
剃髮の
老人、
一人は
妻なるべし
對するほどの
年輩にてこれは
實法に
小さき
丸髷をぞ
結ひける、
病みたる
人は
來るよりやがて
奧深に
床を
敷かせて、
括り
枕に
頭を
落つかせけるが、
夜もすがら
枕近くにありて
悄然とせし
老人二人の
面やう、
何處やら
寢顏に
似た
處のあるやうなるは、
此娘の
若も
父母にてはなきか、
彼のそゝくさ
男を
始めとして
女中ども一
同旦那樣御新造樣と
言へば、
應々と
返事して、
男の
名をば
太吉太吉と
呼びて
使ひぬ。
あくる
朝風すゞしきほどに
今一人車に
乘りつけゝる
人のありけり、
紬の
單衣に
白ちりめんの
帶を
卷きて、
鼻の
下に
薄ら
髯のある
三十位のでつぷりと
肥りて
見だてよき
人、
小さき
紙に
川村太吉と
書て
貼りたるを
讀みて
此處だ/\と
車より
下りける、
姿を
見つけて、おゝ
番町の
旦那樣とお
三どんが
眞先に
襷をはづせば、そゝくさは
飛出していやお
早いお
出、よく
早速おわかりになりましたな、
昨日まで
大塚にお
置き
申したので
御座りますが
何分もう、その
何だか
頻に
嫌におなりなされて
何處へか
行かう
行かうと
仰しやる、
仕方が
御座りませぬで
漸とまあ
此處をば
見つけ
出しまして
御座ります、
御覽下さりませ
一寸斯うお
庭も
廣う
御座りますし、
四隣が
遠うござりますので
御氣分の
爲にもよからうかと
存じまする、はい
昨夜はよくお
眠になりましたが
今朝ほど
又少しその、
一寸御樣子が
變つたやうで、ま、いらしつて
御覽下さりませと
先に
立て
案内をすれば、
心配らしく
髯をひねりて、
奧の
座敷に
通りぬ。
氣分すぐれてよき
時は
三歳兒のやうに
父母の
膝に
眠るか、
白紙を
切つて
姉樣のお
製に
餘念なく、
物を
問へばにこ/\と
打笑みて
唯はい/\と
意味もなき
返事をする
温順しさも、
狂風一陣梢をうごかして
來る
氣の
立つた
折には、
父樣も
母樣も
兄樣も
誰れも
後生、
顏を
見せて
下さるな、とて
物陰にひそんで
泣く、
聲は
腸を
絞り
出すやうにて
私が
惡う
御座りました、
堪忍して
堪忍してと
繰返し/\、さながら
目の
前の
何やらに
向つて
詫るやうに
言ふかと
思へば、
今行まする、
今行まする、
私もお
跡から
參りまするとて
日のうちには
看護の
隙をうかゞひて
驅け
出すこと
二度三度もあり、
井戸には
蓋を
置き、きれ
物とては
鋏一挺目にかゝらぬやうとの
心配りも、
危きは
病ひのさする
業かも、
此纎弱き
娘一人とり
止むる
事かなはで、
勢ひに
乘りて
驅け
出す
時には
大の
男二人がゝりにてもむつかしき
時のありける。
本宅は
三番町の
何處やらにて
表札を
見ればむゝ
彼の
人の
家かと
合點のゆくほどの
身分、
今さら
此處には
言はずもがな、
名前の
恥かしければ
病院へ
入れる
事もせで、
醫者も
心安きを
招き
家は
僕の
太吉といふが
名を
借りて
心まかせの
養生、
一月と
同じ
處に
住へば
見る
物殘らず
嫌になりて、
次第に
病ひの
募ること
見る
目も
恐ろしきほど
凄まじき
事あり。
當主は
養子にて
此娘こそは
家につきての
一粒ものなれば
父母が
歎きおもひやるべし、
病ひにふしたるは
櫻さく
春の
頃よりと
聞くに、それより
晝夜瞼を
合する
間もなき
心配に
疲れて、
老たる
人はよろ/\たよ/\と
二人ながら
力なさゝうの
風情、
娘が
病ひの
俄かに
起りて
私はもう
歸りませぬとて
驅け
出すを
見る
折にも、あれあれ
何うかして
呉れ、
太吉々々と
呼立るほかには
何の
能なく
情なき
躰なり。
昨夜は
夜もすがら
靜に
眠りて、
今朝は
誰れより
一はな
懸けに
目を
覺し、
顏を
洗ひ
髮を
撫でつけて
着物もみづから
氣に
入りしを
取出し、
友仙の
帶に
緋ぢりめんの
帶あげも
人手を
借りずに
手ばしこく
締めたる
姿、
不圖見たる
目には
此樣の
病人とも
思ひ
寄るまじき
美くしさ、
兩親は
見返りて
今更に
涙ぐみぬ、
附そひの
女が
粥の
膳を
持來りて
召上りますかと
問へば、いや/\と
頭をふりて
意氣地もなく
母の
膝へ
寄そひしが、
今日は
私の
年季が
明まするか、
歸る
事が
出來るで
御座んしやうかとて
問ひかけるに、
年季が
明るといつて
何處へ
歸る
料簡、
此處はお
前さんの
家ではないか、
此ほかに
行くところも
無からうではないか、
分らぬ
事を
言ふものではありませぬと
叱られて、それでも
母樣私は
何處へか
行くので
御座りましやう、あれ
彼處に
迎ひの
車が
來て
居まする、とて
指さすを
見れば
軒端のもちの
木に
大いなる
蛛の
巣のかゝりて、
朝日にかゞやきて
金色の
光ある
物なりける。
母は
情なき
思ひの
胸に
迫り
來て、あれあんな
事を、
貴君お
聞遊ばしましたかと
良人に
向ひて
忌はしげにいひける、
娘は
俄に
萎れかへりし
面に
生々とせし
色を
見せて、あのそれ
一昨年のお
花見の
時ねと
言ひ
出す、
何えと
受けて
聞けば
學校の
庭は
奇麗でしたねえとて
面白さうに
笑ふ、あの
時貴君が
下さつた
花をね、
私は
今も
本の
間へ
入れてありまする、
奇麗な
花でしたけれどもゝう
萎れて
仕舞ました、
貴君にはあれから
以來御目にかゝらぬでは
御座んせぬか、
何故逢ひに
來て
下さらないの、
何故歸つて
來て
下さらぬの、もうお
目にかゝる
事は
一生出來ぬので
御座んするか、それは
私が
惡う
御座りました、
私が
惡いに
相違ござんせぬけれど、それは
兄樣が、
兄が、あゝ
誰れにも
濟みませぬ、
私が
惡う
御座りました
免して
免してと
胸を
抱いて
苦しさうに
身を
悶ゆれば、
雪子や
何も
餘計な
事を
考へては
成りませぬよ、それがお
前の
病氣なのだから、
學校も
花もありはしない、
兄樣も
此處にお
出でなさつては
居ないのに、
何か
見えるやうに
思ふのが
病氣なのだから
氣を
落つけて
舊の
雪子さんに
成つてお
呉れ、よ、よ、
氣が
附きましたかえと
脊を
撫でられて、
母の
膝の
上にすゝり
泣きの
聲ひくゝ
聞えぬ。
番町の
旦那樣お
出と
聞くより
雪や
兄樣がお
見舞に
來て
下されたと
言へど、
顏を
横にして
振向うともせぬ
無禮を、
常ならば
怒りもすべき
事なれど、あゝ、
捨てゝ
置いて
下さい、
氣に
逆らつてもならぬからとて
義母が
手づから
與へられし
皮蒲團を
貰ひて、
枕もとを
少し
遠ざかり、
吹く
風を
背にして
柱の
際に
默然として
居る
父に
向ひ、
靜に
一つ
二つ
詞を
交へぬ。
番町の
旦那といふは
口數少き
人と
見えて、
時たま
思ひ
出したやうに
はた/\と
團扇づかひするか、
卷煙草の
灰を
拂つては
又火をつけて
手に
持てゐる
位なもの、
絶えず
尻目に
雪子の
方を
眺めて
困つたものですなと
言ふばかり、あゝ
此樣な
事と
知りましたら
早くに
方法も
有つたのでしやうが
今に
成つては
駟馬も
及ばずです、
植村も
可愛想な
事でした、とて
下を
向いて
歎息の
聲を
洩らすに、どうも
何とも、
私は
悉皆世上の
事に
疎しな、
母もあの
通りの
何であるので、
三方四方埓も
無い
事に
成つてな、
第一は
此娘の
氣が
狹いからではあるが、
否植村も
氣が
狹いからで、どうも
此樣な
事になつて
仕舞つたで、
私共二人が
實に
其方に
合せる
顏も
無いやうな
仕儀でな、
然し
雪をも
可愛想と
思つて
遣つて
呉れ、
此樣な
身に
成つても
其方への
義理ばかり
思つて
情ない
事を
言ひ
出し
居る、
多少教育も
授けてあるに
狂氣するといふは
如何にも
恥かしい
事で、
此方から
行くと
家の
恥辱にもなる
實に
憎むべき
奴ではあるが、
情實を
酌んでな、これほどまで
操といふものを
取止めて
置いただけ
憐んで
遣つて
呉れ、
愚鈍ではあるが
子供の
時から
是れといふ
不出來しも
無かつたを
思ふと
何か
殘念のやうにもあつて、
眞の
親馬鹿といふのであらうが
平癒らぬほどなら
死ねとまでも
諦めがつきかねるもので、
餘り
昨今忌はしい
事を
言はれると
死期が
近よつたかと
取越し
苦勞をやつてな、
大塚の
家には
何か
迎ひに
來るものが
有るなどゝ
騷ぎをやるにつけて
母が
詰らぬ
易者などにでも
見て
貰つたか、
愚な
話しではあるが
一月のうちに
生命が
危いとか
言つたさうな、
聞いて
見ると
餘り
快くもないに
當人も
頻りと
嫌がる
樣子なり、ま、
引移りをするが
宜からうとて
此處を
搜させては
來たが、いや
何うも
永持はあるまいと
思はれる、
殆んど
毎日死ぬ
死ぬと
言て
見る
通り
人間らしき
色艷もなし、
食事も
丁度一週間ばかり
一粒も
口へ
入れる
事が
無いに、そればかりでも
身躰の
疲勞が
甚しからうと
思はれるので
種々に
異見も
言ふが、
何うも
病の
故であらうか
兎角に
誰れの
言ふ
事も
用ひぬに
困りはてる、
醫者は
例の
安田が
來るので
斯う
素人まかせでは
我まゝばかり
募つて
宜くあるまいと
思はれる、
私の
病院へ
入れる
事は
不承知かと
毎々聞かれるのであるが、それも
何うあらうかと
母などは
頻にいやがるので
私も
二の
足を
踏んで
居る、
無論病院へ
行けば
自宅と
違つて
窮屈ではあらうが、
何分此頃飛出しが
始まつて
私などは
勿論太吉と
倉と
二人ぐらゐの
力では
到底引とめられぬ
働きをやるからの、
萬一井戸へでも
懸られてはと
思つて、
無論蓋はして
有るが
往來へ
飛出されても
難儀至極なり、
夫等を
思ふと
入院させやうとも
思ふが
何かふびんらしくて
心一つには
定めかねるて、
其方に
思ひ
寄もあらば
言つて
見て
呉れとてくる/\と
剃たる
頭を
撫でゝ
思案に
能はぬ
風情、はあ/\と
聞居る
人は
詞は
無くて
諸共に
溜息なり。
娘は
先刻の
涙に
身を
揉みしかば、さらでもの
疲れ
甚しく、なよ/\と
母の
膝へ
寄添ひしまゝ
眠れば、お
倉お
倉と
呼んで
附添ひの
女子と
共に
郡内の
蒲團の
上へ
抱き
上げて
臥さするにはや
正躰も
無く
夢に
入るやうなり、
兄といへるは
靜に
膝行寄りてさしのぞくに、
黒く
多き
髮の
毛を
最惜しげもなく
引つめて、
銀杏返しのこはれたるやうに
折返し
折返し
髷形に
疊みこみたるが、
大方横に
成りて
狼藉の
姿なれども、
幽靈のやうに
細く
白き
手を
二つ
重ねて
枕のもとに
投出し、
浴衣の
胸少しあらはに
成りて、
締めたる
緋ぢりめんの
帶あげの
解けて
帶より
落かゝるも
艶かしからで
慘ましのさまなり。
枕に
近く
一脚の
机を
据ゑたるは、
折ふし
硯々と
呼び、
書物よむとて
有し
學校のまねびをなせば、
心にまかせて
紙いたづらせよとなり、
兄といへるは
何心なく
積重ねたる
反古紙を
手に
取りて
見れば、
怪しき
書風に
正躰得しれぬ
文字を
書ちらして、これが
雪子の
手跡かと
情なきやうなる
中に、
鮮かに
讀まれたる
村といふ
字、
郎といふ
字、あゝ
植村録郎、
植村録郎、よむに
得堪へずして
無言にさし
置きぬ。
今日は
用なしの
身なればとて
兄は
終日此處にありけり、
氷を
取寄せて
雪子の
頭を
冷す
附添の
女子に
代りて、どれ
少し
私がやつて
見やうと
無骨らしく
手を
出すに、
恐れ
入ます、お
召物が
濡れますと
言ふを、いゝさ
先させて
見てくれとて
氷嚢の
口を
開いて
水を
搾り
出す
手振りの
無器用さ、
雪や
少しはお
解りか、
兄樣が
頭を
冷して
下さるのですよとて、
母の
親心附けれども
何の
事とも
聞分ぬと
覺しく、
眼を
見開きながら
空を
眺めて、あれ
奇麗な
蝶が
蝶がと
言ひかけしが、
殺してはいけませんよ、
兄樣兄樣と
聲を
限りに
呼べば、こら
何うした、
蝶も
何も
居ない、
兄は
此處だから、
殺しはせぬから
安心して、な、
宜いか、
見えるか、
兄だよ、
正雄だよ、
氣を
取直して
正氣になつて、お
父さんやお
母さんを
安心させて
呉れ、こら
少し
聞分けて
呉れ、よ、お
前が
此樣な
病氣になつてから、お
父樣もお
母樣も
一晩もゆるりとお
眠になつた
事はない、お
疲れなされてお
痩せなされて
介抱して
居て
下さるのを
孝行のお
前に
何故わからない、
平常は
道理がよく
解る
人ではないか、
氣を
靜めて
考へ
直して
呉れ、
植村の
事は
今更取かへされぬ
事であるから、
跡でも
懇に
吊つて
遣れば、お
前が
手づから
香花でも
手向れば、
彼れは
快く
瞑することが
出來ると
遺書にもあつたと
言ふではないか、
彼れは
潔く
此世を
思ひ
切つたので、お
前の
事も
併せて
思ひ
切つたので
決して
未練は
殘して
居なかつたに、お
前が
此樣に
本心を
取亂して
御兩親に
歎をかけると
言ふは
解らぬではないか、
彼れに
對してお
前の
處置の
無情であつたも
彼れは
決して
怨んでは
居なかつた、
彼れは
道理を
知つて
居る
男であらう、な、
左樣であらう、
校内一の
人だとお
前も
常に
褒めたではないか、
其人であるから
決してお
前を
恨んで
死ぬ、
其樣な
事はある
筈がない、
憤りは
世間に
對してなので、
既にそれは
人も
知つて
居る
事なり
遺書によつて
明かではないか、
考へ
直して
正氣になつて、
其後の
事はお
前の
心に
任せるから
思ふまゝの
世を
經るが
宜い、
御兩親のある
事を
忘れないで、
御兩親がどれほどお
歎きなさるかを
考へて、
氣を
取直して
呉れ、え、
宜いか、お
前が
心で
直さうと
思へば
今日の
今も
直れるではないか、
醫者にも
及ばぬ、
藥にも
及ばぬ、
心一つ
居處をたしかにしてな、
直つて
呉れ、よ、よ、こら
雪、
宜いか、
解つたかと
言へば、
唯點頭いて、はいはいと
言ふ。
女子どもは
何時しか
枕元をはづして
四邊には
父と
母と
正雄のあるばかり、
今いふ
事は
解るとも
解らぬとも
覺えねども
兄樣兄樣と
小き
聲に
呼べば、
何か
用かと
氷嚢を
片寄せて
傍近く
寄るに、
私を
起して
下され、
何故か
身躰が
痛くてと
言ふ、それは
何時も
氣の
立つまゝに
驅出して
大の
男に
捉へられるを、
振放すとて
恐ろしき
力を
出せば
定めて
身も
痛からう
生疵も
處々にあるを、それでも
身躰の
痛いが
知れるほどならばと
果敢なき
事をも
兩親の
頼母もしがりぬ。
おまへの
抱かれて
居るは
誰何、
知れるかえと
母親の
問へば、
言下に
兄樣で
御座りましやうと
言ふ、
左樣わかればもう
仔細は
無し、
今話して
下された
事覺えてかと
言へば、
知つて
居まする、
花は
盛りにと
又あらぬ
事を
言ひ
出せば、
一同顏を
見合せて
情なき
思ひなり。
良しばしありて
雪子は
息の
下に
極めて
恥かしげの
低き
聲して、もう
後生お
願ひで
御座りまする、
其事は
言ふて
下さりますな、
其やうに
仰せ
下さりましても
私にはお
返事の
致しやうが
御座りませぬと
言ひ
出づるに、
何をと
母が
顏を
出せば、あ、
植村さん、
植村さん、
何處へお
出遊ばすのと
岸破と
起きて、
不意に
驚く
正雄の
膝を
突きのけつゝ
縁の
方へと
驅け
出すに、それとて
一同ばら/\と
勝手より
太吉おくらなど
飛來るほどにさのみも
行かず
縁先の
柱のもとにぴたりと
坐して、
堪忍して
下され、
私がわるう
御座りました、
始めから
私が
惡う
御座りました、
貴君に
惡い
事は
無い、
私が、
私が、
申さないが
惡う
御座りました、
兄と
言ふては
居りまするけれど。むせび
泣きの
聲きこえ
初めて
斷續の
言葉その
事とも
聞わき
難く、
半かかげし
軒ばの
簾、
風に
音する
夕ぐれ
淋し。
雪子が
繰かへす
言の
葉は
昨日も
今日も
一昨日も、
三月の
以前も
其前もさらに
異る
事をば
言はざりき、
唇に
絶えぬは
植村といふ
名、ゆるし
給へと
言ふ
言葉、
學校といひ、
手紙といひ、
我罪、おあとから
行まする、
戀しき
君、さる
詞をば
次第なく
並べて、
身は
此處に
心はもぬけの
殼になりたれば、
人の
言へるは
聞分くるよしも
無く、
樂しげに
笑ふは
無心の
昔を
夢みてなるべく、
胸を
抱きて
苦悶するは
遣る
方なかりし
當時のさまの
再び
現にあらはるゝなるべし。
おいたはしき
事とは
太吉も
言ひぬ、お
倉も
言へり、
心なきお
三どんの
末まで
孃さまに
罪ありとはいさゝかも
言はざりき、
黄八丈の
袖の
長き
書生羽織めして、
品のよき
高髷にお
根がけは
櫻色を
重ねたる
白の
丈長、
平打の
銀簪一つ
淡泊と
遊ばして
學校がよひのお
姿今も
目に
殘りて、
何時舊のやうに
御平癒遊ばすやらと
心細し、
植村さまも
好いお
方であつたものをとお
倉の
言へば、
何があの
色の
黒い
無骨らしきお
方、
學問はえらからうとも
何うで
此方のお
孃さまが
對にはならぬ、
根つから
私は
褒めませぬとお
三の
力めば、それはお
前が
知らぬから
其樣な
憎ていな
事も
言へるものゝ
三日交際をしたら
植村樣のあと
追ふて
三途の
川まで
行きたくならう、
番町の
若旦那を
惡いと
言ふではなけれど、
彼方とは
質が
違ふて
言ふに
言はれぬ
好い
方であつた、
私でさへ
植村樣が
何だと
聞いた
時にはお
可愛想な
事をと
涙がこぼれたもの、お
孃さまの
身になつては
辛からうではないか、
私やお
前のやうな
おつと來いならば
事は
無いけれど、
不斷つゝしんでお
出遊ばすだけ
身にしみる
事も
深からう、あの
親切な
優しい
方を
斯う
言ふては
惡いけれど
若旦那さへ
無かつたらお
孃さまも
御病氣になるほどの
心配は
遊ばすまいに、
左樣いへば
植村樣が
無かつたら
天下泰平に
治まつたものを、あゝ
浮世はつらいものだね、
何事も
明すけに
言ふて
退ける
事が
出來ぬからとて、お
倉はつく/″\まゝならぬを
痛みぬ。つとめある
身なれば
正雄は
日毎に
訪ふ
事もならで、
三日おき、
二日おきの
夜な/\
車を
柳のもとに
乘りすてぬ、
雪子は
喜んで
迎へる
時あり、
泣いて
辭す
時あり、
稚兒のやうになりて
正雄の
膝を
枕にして
寐る
時あり、
誰が
給仕にても
箸をば
取らずと
我儘をいへれど、
正雄に
叱られて
同じ
膳の
上に
粥の
湯をすゝる
事もあり、
癒つて
呉れるか。
癒りまする。
今日癒つて
呉れ。
今日癒りまする、
癒つて
兄樣のお
袴を
仕立て
上げまする、お
召も
縫ふて
上げまする、それは
辱し
早く
癒つて
縫ふて
呉れと
言へば、
左樣しましたらば
植村樣を
呼んで
下さるか、
植村樣に
遇はして
下さるか、むゝ
遇はして
遣る、
呼んでも
來る、はやく
癒つて
御兩親に
安心させて
呉れ、
宜いかと
言へば、あゝ
明日は
癒りますると
憚りもなく
言ひけり。
正しく
言ひしを
心頼みに
有るまじき
事とは
思へども
明日は
日暮も
待たず
車を
飛ばせ
來るに、
容躰こと/″\く
變りて
何を
言へどもいや/\とて
人の
顏をば
見るを
厭ひ、
父母をも
兄をも
女子どもをも
寄せつけず、
知りませぬ、
知りませぬ、
私は
何も
知りませぬとて
打泣くばかり、
家の
中をば
廣き
野原と
見て
行く
方なき
歎きに
人の
袖をもしぼらせぬ。
俄かに
暑氣つよくなりし
八月の
中旬より
狂亂いたく
募りて
人をも
物をも
見分ちがたく、
泣く
聲は
晝夜に
絶えず、
眠るといふ
事ふつに
無ければ
落入たる
眼に
形相すさまじく
此世の
人とも
覺えずなりぬ、
看護の
人も
勞れぬ、
雪子の
身も
弱りぬ、きのふも
植村に
遇ひしと
言ひ、
今日も
植村に
遇ひたりと
言ふ、
川一つ
隔てゝ
姿を
見るばかり、
霧の
立おほふて
朧氣なれども
明日は
明日はと
言ひて
又そのほかに
物いはず。
いつぞは
正氣に
復りて
夢のさめたる
如く、
父樣母樣といふ
折のありもやすると
覺束なくも
一日二日と
待たれぬ、
空蝉はからを
見つゝもなぐさめつ、あはれ
門なる
柳に
秋風のおと
聞こえずもがな。
●表記について
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- [#···]は、入力者による注を表す記号です。