井戸は車にて綱の長さ十二
尋、勝手は北向きにて
師走の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おお堪えがたと
竈の前に火なぶりの一
分は一
時にのびて、割木ほどの事も大台にして
叱りとばさるる
婢女の身つらや、はじめ
受宿の
老媼さまが言葉には御子様がたは
男女六人、なれども常住
家内にお
出あそばすは御総領と末お二人、少し
御新造は機嫌かいなれど、目色
顔色を
呑みこんでしまへば大した事もなく、結句おだてに乗る
質なれば、
御前の出様一つで
半襟半がけ
前垂の
紐にも事は欠くまじ、御身代は町内第一にて、その代り
吝き事も二とは
下らねど、よき事には
大旦那が甘い
方ゆゑ、少しの
ほまちは無き事も有るまじ、
厭やに成つたら私の
所まで
端書一枚、こまかき事は入らず、
他所の口を探せとならば足は惜しまじ、
何れ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無き
筈と定めて、かかる鬼の
主をも持つぞかし、目見えの済みて三日の
後、
七歳になる嬢さま踊りのさらひに午後よりとある、その支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る暁、あたたかき寝床の
中より御新造灰吹きをたたきて、これこれと、
此詞が目覚しの時計より胸にひびきて、三言とは呼ばれもせず帯より先に
襷がけの
甲斐々々しく、井戸端に
出れば月かげ流しに残りて、
肌を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は
据風呂にて大きからねど、二つの
手桶に
溢るるほど
汲みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、
輪宝のすがりし
曲み歯の水ばき
下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば
他愛の無きやう
成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと
覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ
臑したたかに打ちて、
可愛や雪はづかしき
膚に紫の生々しくなりぬ、手桶をも
其処に
投出して一つは満足成しが一つは底ぬけに成りけり、
此桶の
価なにほどか知らねど、身代これが
為につぶれるかの様に御新造の
額際に青筋おそろしく、
朝飯のお給仕より
睨まれて、その日一日物も
仰せられず、一日おいてよりは
箸の上げ
下しに、この
家の品は
無代では出来ぬ、
主の物とて粗末に思ふたら
罸が当るぞえと明け暮れの談義、来る人
毎に告げられて若き心には恥かしく、その
後は物ごとに念を入れて、
遂ひに
麁想をせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、
山村ほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は
平常の事、三日四日に帰りしもあれば一夜居て
逃出しもあらん、
開闢以来を尋ねたらば折る指にあの
内儀さまが
袖口おもはるる、思へばお
峯は辛棒もの、あれに
酷く
当たらば
天罸たちどころに、この
後は東京広しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、
美事の心がけと
賞めるもあれば、第一
容貌が申分なしだと、男は
直きにこれを言ひけり。
秋より
只一人の伯父が
煩ひて、商売の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋
住居に成しよしは聞けど、むづかしき
主を持つ身の給金を先きに
貰へばこの身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一
寸の間とても時計を目当にして幾足幾町とそのしらべの苦るしさ、
馳せ抜けても、とは思へど悪事千里といへば折角の辛棒を
水泡にして、お
暇ともならば
弥々病人の伯父に心配をかけ、
痩世帯に一日の厄介も気の毒なり、その内にはと手紙ばかりを
遣りて、身は
此処に心ならずも日を送りける。師走の月は世間
一躰物せわしき中を、こと更に選らみて
綾羅をかざり、
一昨日出そろひしと聞く
某の芝居、狂言も折から面白き
新物の、これを見のがしてはと娘共の騒ぐに、見物は十五日、珍らしく
家内中との触れに成けり、このお供を
嬉しがるは
平常のこと、
父母なき
後は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見
遊山に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらばそれまでとして遊びの代りのお暇を願ひしにさすがは日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く帰れと、さりとは気ままの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覚えで、
頓ては車の上に
小石川はまだかまだかと
鈍かしがりぬ。
初音町といへば
床しけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衛とて神はこの
頭に宿り
給ふべき
大薬罐の額ぎはぴかぴかとして、これを目印に田町より
菊坂あたりへかけて、
茄子大根の御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折から
直の安うて
嵩のある物より
外は
棹なき舟に乗合の
胡瓜、
苞に
松茸の初物などは持たで、八百安が物は
何時も帳面につけた様なと笑はるれど、
愛顧は有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて
八歳になるを
五厘学校に通はするほどの
義務もしけれど、世の秋つらし九月の末、
俄かに風が身にしむといふ朝、
神田に買出しの荷を我が家までかつぎ入れるとそのまま、
発熱につづいて骨病みの
出しやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして
天秤まで売る仕義になれば、
表店の
活計たちがたく、月五十銭の裏屋に人目の恥を
厭ふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも
無惨や車に乗するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。お峯は車より下りて
処此処と尋ぬるうち、
凧紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの
門に、もし三之助の交じりてかと
覗けど、影も見えぬに
落胆して思はず
徃来を見れば、我が居るよりは向ひのがはを
痩ぎすの子供が
薬瓶もちて行く後姿、三之助よりは
丈も高く余り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、やあ
姉さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い
処でと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奥深く、
溝板がたがたと薄くらき裏に
入れば、三之助は先へ駆けて、
父さん、
母さん、姉さんを連れて帰つたと
門口より呼び立てぬ。
何お峯が来たかと安兵衛が起上れば、
女房は内職の仕立物に余念なかりし手をやめて、まあまあこれは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一
間の戸棚只一つ、
箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ
形の箱に入れて、これがそもそもこの
家の道具らしき物、聞けば
米櫃も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峯はまづ涙ぐまれて、まづまづ風の寒きに寝てお
出なされませ、と
堅焼に似し
薄蒲団を伯父の肩に着せて、さぞさぞ
沢山の御苦労なさりましたろ、伯母様も
何処やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、それでも日増しに
快い方で御座んすか、手紙で様子は聞けど見ねば気にかかりて、今日のお
暇を待ちに待つて
漸との事、何
家などはどうでも
宜ござります、伯父様御全快にならば
表店に出るも訳なき事なれば、一日も早く
快く成つて下され、伯父様に何ぞと存じたれど、道は遠し心は
急く、
車夫の足が何時より遅いやうに思はれて、御好物の
飴屋が軒も見はぐりました、
此金は少々なれど私が小遣の残り、
麹町の御親類よりお客の有し時、その御隠居さま
寸白のお起りなされてお苦しみの有しに、夜を
徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お
家は
堅けれど
他処よりのお方が
贔負になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくくも御座んせぬ、この
巾着も半襟もみな頂き物、襟は
質素なれば伯母さま懸けて下され、巾着は少し
形を換へて三之助がお弁当の袋に丁度
宜いやら、それでも学校へは
行ますか、お清書が有らば姉にも見せてとそれからそれへ言ふ事長し。
七歳のとしに
父親得意場の
蔵普請に、足場を昇りて
中ぬりの
泥鏝を持ちながら、下なる
奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの仏滅とでも言ふ日で有しか、年来
馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模様がへの処ありて、掘おこして積みたてたる
切角に頭脳したたか打ちつけたれば
甲斐なし、哀れ四十二の
前厄と人々
後に恐ろしがりぬ、母は安兵衛が
同胞なれば此処に引取られて、これも二年の
後はやり風俄かに重く成りて
亡せたれば、
後は安兵衛夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は
弟のやうに
可愛く、此処へ此処へと呼んで背を
撫で顔を覗いて、さぞ
父さんが病気で淋しく
愁らかろ、お正月も直きに来れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、
母さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる処か、お峯聞いてくれ、
歳は八つなれど
身躰も
大きし力もある、
我が
寐てからは
稼ぎ
人なしの
費用は重なる、四苦八苦見かねたやら、表の塩物やが野郎と一処に、
蜆を買ひ出しては足の及ぶだけ担ぎ廻り、野郎が八銭うれば十銭の商ひは必らずある、一つは天道さまが
奴の孝行を
見徹してか、となりかくなり薬代は三が働き、お峯ほめて
遣つてくれとて、父は蒲団をかぶりて涙に声をしぼりぬ。学校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べると
馳け出して三時の
退校に道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにも
褒め物の子を、貧乏なればこそ蜆を担がせて、この寒空に小さな足に
草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても
八歳は八歳、
天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、
堪忍して下され、
今日よりは私も
家に帰りて伯父様の介抱
活計の助けもしまする、知らぬ事とて
今朝までも
釣瓶の縄の氷を
愁らがつたは
勿躰ない、学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物きてゐらりようか、伯父さま
暇を取つて下され、
私は
最早奉公はよしまするとて取乱して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに
衣破れて、
此肩に担ぐか見る目も
愁らし、安兵衛はお峯が暇を取らんと言ふにそれは以ての
外、志しは嬉しけれど帰りてからが女の働き、それのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて帰られる物では無し、
初奉公が
肝腎、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、お
主大事に勤めてくれ、我が
病気も長くは有るまじ、少しよくば気の張弓、引つづいて商ひもなる道理、ああ今半月の
今歳が過れば
新年は
好き事も来たるべし、何事も辛棒々々、三之助も辛棒してくれ、お峯も辛棒してくれとて涙を納めぬ。珍らしき客に馳走は出来ねど好物の今川焼、里芋の煮ころがしなど、沢山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと思へど見す見す
大晦日に迫りたる家の難義、胸に
痞への病は
癪にあらねどそもそも床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十円かりし、一円五拾銭は天利とて手に
入りしは八円半、九月の末よりなればこの月はどうでも約束の期限なれど、この中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血を
出して日に
拾銭の稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峯が
主は
白金の
台町に貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに
常綺羅美々しく、我れ一度お峯への用事ありて
門まで行きしが、千両にては出来まじき土蔵の普請、
羨やましき富貴と見たりし、その主人に一年の馴染、気に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、この月末に
書かへを泣きつきて、をどりの一両二分を此処に払へば又三月の
延期にはなる、かくいはば欲に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雑煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、
晦日までに金二両、言ひにくく共この才覚たのみたきよしを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んす
慥かに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と
家内とは違ひて
何処にも金銭の
埒は明きにくけれど、多くでは無しそれだけで此処の始末がつくなれば、
理由を聞いて厭やは仰せらるまじ、それにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は帰ります、又の宿下りは
春永、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて
此金を受合ける。金は何として
越す、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんにそれで御座んす、
常日さへあるに大晦日といふては私の身に
隙はあるまじ、道の遠きに
可憐さうなれど三ちやんを頼みます、昼前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峯は帰りぬ。
石之助とて山村の総領息子、母の違ふに
父親の愛も薄く、これを養子に
出して
家督は
妹娘の
中にとの相談、十年の昔しより耳に
挟みて面白からず、今の世に勘当のならぬこそをかしけれ、思ひのままに遊びて母が泣きをと
父親の事は忘れて、十五の春より
不了簡をはじめぬ、
男振にがみありて利発らしき
眼ざし、色は黒けれど好き
様子とて
四隣の娘どもが
風説も聞えけれど、
唯乱暴
一途に品川へも足は向くれど騒ぎはその座ぎり、
夜中に車を飛ばして
車町の
破落戸がもとをたたき起し、それ酒かへ
肴と、紙入れの底をはたきて無理を
徹すが道楽なりけり、
到底これに相続は石油蔵へ火を入れるやうな物、身代
烟りと成りて消え残る我等何とせん、あとの兄弟も
不憫と母親、父に
讒言の絶間なく、さりとて
此放蕩子を養子にと申
受る人この世にはあるまじ、とかくは有金の何ほどを分けて、若隠居の別戸籍にと内々の相談は
極まりたれど、本人うわの空に聞流して手に乗らず、分配金は一万、隠居
扶持月々おこして、遊興に関を据へず、父上なくならば親代りの我れ、兄上と
捧げて
竈の神の松一本も我が託宣を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸の御主人に成りて、この
家の為には働かぬが勝手、それ
宜しくば
仰せの通りに成りましよと、どうでも嫌やがらせを言ひて困らせける。
去歳にくらべて長屋もふゑたり、所得は倍にと世間の口より我が家の様子を知りて、をかしやをかしや、そのやうに延ばして
誰が物にする気ぞ、火事は燈明皿よりも出る物ぞかし、総領と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて巻きあげて貴様たちに好き正月をさせるぞと、
伊皿子あたりの貧乏人を喜ばして、大晦日を当てに大呑みの場処もさだめぬ。
それ
兄様のお帰りと言へば、
妹ども
怕がりて
腫れ物のやうに障るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我がままをつのらして、
炬燵に両足、
酔ざめの水を水をと
狼藉はこれに
止めをさしぬ、憎くしと思へどさすがに義理は
愁らき物かや、母親かげの毒舌をかくして風引かぬやうに
小抱巻何くれと
枕まで
宛がひて、
明日の支度のむしり
田作、人手にかけては粗末になる物と聞えよがしの経済を枕もとに見しらせぬ。
正午も近づけばお峯は伯父への約束こころもと無く、
御新造が御機嫌を見はからふに
暇も無ければ、
僅かの手すきに
頭りの
手拭ひを
丸めて、このほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと
先方へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まするとて手をすりて頼みける、
最初いひ
出し時
にやふやながら
結局は
宜しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ
五月蠅いひては
却りて
如何と今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ
大晦日のひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢してかくと申ける、御新造は驚きたるやうの
惘れ顔して、それはまあ何の事やら、なるほどお前が伯父さんの病気、つづいて借金の話しも聞ましたが、今が今
私しの
宅から立換へようとは言はなかつた
筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は
毛頭も覚えの無き事と、これがこの人の十八番とはてもさても情なし。
花紅葉うるはしく仕立し娘たちが春着の小袖、
襟をそろへて
褄を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔ものの兄が見る目うるさし、早く出てゆけ
疾く
去ねと思ふ思ひは口にこそ
出さね、もち前の
疳癪したに
堪えがたく、智識の坊さまが目に御覧じたらば、炎につつまれて身は
黒烟りに心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事、金は
敵薬ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚えあれど何のそれを
厭ふ事かは、大方お前が聞ちがへと
立きりて、
烟草輪にふき私は知らぬと済しけり。
ゑゑ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたたぬに
耄ろくはなさるまじ、あれあの懸け
硯の引出しにも、これは手つかずの
分と一ト束、十か二十か
悉皆とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が
笑顔、三之助に雑煮のはしも取らさるると言はれしを思ふにも、どうでも欲しきはあの金ぞ、恨めしきは御新造とお峯は
口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る
術もなくて、すごすごと勝手に立てば正午の
号砲の音たかく、かかる折ふし
殊更胸にひびくものなり。
お
母さまに
直様お出下さるやう、
今朝よりのお苦るしみに、潮時は午後、
初産なれば旦那とり止めなくお騒ぎなされて、お
老人なき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出でをとて、
生死の
分目といふ初産に、
西応寺の娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり、家のうちには金もあり、
放蕩どのが
寐てはいる、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乗りけれど、かかる時気楽の
良人が心根にくく、今日あたり沖釣りでも無き物をと、
太公望がはり合ひなき人をつくづくと恨みて御新造いでられぬ。
行ちがへに三之助、此処と聞きたる
白金台町[#「白金台町」は底本では「白銀台町」]、相違なく尋ねあてて、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より
怕々のぞけば、
誰れぞ来しかと
竈の前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして
見出せばこの子、おお宜く来たとも言はれぬ仕義を何とせん、
姉さま
這入つても
叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて
行かれますか、旦那や御新造に宜くお礼を申て来いと
父さんが言ひましたと、子細を知らねば喜び顔つらや、まづまづ待つて下され、少し用もあればと
馳せ
行きて
内外を見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針は二階にてしかも
聾なれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の
真最中、拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、
罸をお当てなさらば
私一人、
遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお
免しなさりませ、
勿躰なけれどこの金ぬすませて下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし
後は夢とも
現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。
···························································· その日も暮れ近く旦那つりより
恵比須がほして帰らるれば、御新造も続いて、安産の喜びに送りの
車夫にまで愛想よく、
今宵を仕舞へば又見舞ひまする、
明日は早くに
妹共の
誰れなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労と
蝋燭代などを
遣りて、やれ忙がしや誰れぞ暇な
身躰を片身かりたき物、お峯小松菜はゆでて置いたか、数の子は洗つたか、大旦那はお帰りに成つたか、若旦那はと、これは小声に、まだと聞いて額に
皺を寄せぬ。
石之助その
夜はをとなしく、
新年は
明日よりの三ヶ日なりとも、我が家にて祝ふべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしき
袴づれに
挨拶も面倒、意見も実は聞あきたり、親類の顔に美くしきも無ければ見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束も御座れば、一
先お
暇として
何れ春永に
頂戴の数々は願ひまする、折からお
目出度矢先、お歳暮には何ほど下さりますかと、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは
此金なり、子は三界の
首械といへど、まこと
放蕩を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋といへば有るほどの
悪戯を尽して
瓦解の暁に落こむはこの
淵、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顔はづかしきに惜しき
倉庫をも開くぞかし、それを見込みて石之助、今宵を期限の借金が御座る、人の受けに立ちて判を
為たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣、
破落戸仲間に遣る物を遣らねばこの納まりむづかしく、我れは
詮方なけれどお名前に申わけなしなどと、つまりは
此金の欲しと聞えぬ。母は大方かかる事と
今朝よりの
懸念うたがひなく、
幾金とねだるか、ぬるき旦那どのの処置はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助の弁に、お峯を泣かせし今朝とは変りて父が顔色いかにとばかり、折々見やる
尻目おそろし、父は静かに金庫の間へ立ちしが
頓て五十円束一つ持ち来て、これは貴様に遣るではなし、まだ縁づかぬ妹どもが
不憫、姉が
良人の顔にもかかる、この山村は代々堅気一方に正直律義を
真向にして、悪い
風説を立てられた事も無き筈を、天魔の生れがはりか貴様といふ
悪者の出来て、無き余りの無分別に人の
懐でも
覗うやうにならば、恥は我が一代にとどまらず、重しといふとも身代は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴様にいふとも
甲斐は無けれど
尋常ならば山村の若旦那とて、
入らぬ世間に悪評もうけず、我が代りの年礼に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか、子供の時には本の少しものぞいた奴、
何故これが分りをらぬ、さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥は見するなとて父は奥深く這入りて、金は石之助が
懐中に入りぬ。
···························································· お母様御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左様ならば参りますと、
暇乞わざとうやうやしく、お峯下駄を直せ、お玄関からお帰りでは無いお出かけだぞと
図分々々しく大手を振りて、行先は
何処、父が
涕は一
夜の騒ぎに夢とやならん、持つまじきは
放蕩息子、持つまじきは
放蕩を
仕立る
継母ぞかし。塩花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、どうすればあのやうに図太くなられるか、あの子を生んだ
母さんの顔が見たい、と御新造例に
依つて毒舌をみがきぬ。お峯はこの出来事も何として耳に
入るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、
先刻の仕業はと今更夢路を
辿りて、おもへばこの事あらはれずして済むべきや、万が
中なる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの高に相応の
員数手近の処になく成しとあらば、我れにしても疑ひは
何処に向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかかる、我が罪は覚悟の上なれど物がたき伯父様にまで
濡れ
衣を着せて、
干されぬは貧乏のならひ、かかる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父様に
疵のつかぬやう、我身が
頓死する法は無きかと目は御新造が
起居にしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。
大勘定とてこの
夜あるほどの金をまとめて封印の事あり、御新造それそれと思ひ出して、懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり
彼金が二十御座りました、お筆お峯、かけ硯を此処へと奥の間より呼ばれて、最早この時わが命は無き物、大旦那が御目通りにて始めよりの事を申、御新造が無情そのままに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、欲かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様
同腹で無きだけを何処までも
陳べて、聞かれずば甲斐なしその場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて
嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は
屠処の羊なり。
···························································· お峯が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん束のまま見えずとて底をかへして振へども甲斐なし、怪しきは落散し紙切れにいつ
認めしか受取一通。
(引出しの分も拝借致し候 石之助)
さては
放蕩かと人々顔を見合せてお峯が
詮議は無かりき、孝の余徳は我れ知らず石之助の罪に成りしか、いやいや知りて
序に
冠りし罪かも知れず、さらば石之助はお峯が守り本尊なるべし、
後の事しりたや。