迅い
『おう。
昼寝をしていた
『······
||と。その
『お、大きいぞ。||これやあ、出向かずばなるまい』
平四郎は、
甲府城の森や天主には、過去に幾
もっともそれは、俗に『
平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、
『おい、婆や、お城へ行って参るぞ』
庭へ
『
と、云いたした。
『はい。はい』
婆やの返辞がしたが、ふと、縁先に取り込んである、一抱え程な
『はて、こんな物は、家には無い筈だが||。婆や、婆や、何処から取り込んで来たのだ』
云っているうちに、婆やは又、次の一抱えを、持って来て、縁先へ置いた。
その中にも、
『||旦那様。それは多分、上のお屋敷からでございましょう。きのうも今日も、虫干をして居らっしゃいましたから、風に舞って、お庭の中へ、吹き落ちて来たに違いございません』
『ウム、
平四郎は、その衣裳を手に持って、
婆やも、眼をみはって、
『たいそうお金に飽かせた衣裳でございまするの。
『婚礼着だな』
『きっと、お
『こんなもの!』
平四郎は、それを、ふわーっと庭先へ
『風に舞って来たとはいえ、これ見よがしな
庭へ捨てられた裾模様へ、もう白い雨の線が、斜めに降りかけていた。
その間にも、
甲府の御番城は、
城主はない。
幕府から支配役をいいつかって、御城番として
『やあ、お出合御苦労』
『よいあんばいに、大した事もないらしいな』
詰め合った番衆たちは、持場持場で、そう云い合った。
『これだから、夏中は非番の日でも、
『拙者も、きょうは大丈夫と、
『||が、まあ無事でよかった。休みはまだ三、四日あるし』
ふだんは二日
空を見さだめて、非番の者たちは、夕虹の下を帰って行ったが、平四郎は、
すると、同僚の
『高安。ちょっと顔を||』
と、外へ誘った。
『なんだ? ······』
『まだ
『知るまいとは』
『貴公が聞いたら、定めし小気味よがる事だろうと思って、そっと耳に入れるわけだが、図書係りの海野甚三郎な、何うやら、切腹ものらしいぞ』
『えっ、海野が』
『されば』
『いったい、それは
『貴公に取っては
『そうか、海野が切腹となるのか』
『いや、まだ決まった事ではないが、九分九厘までは······という破目になっておるのだ。もっと詳しい事を聞かせたいが』
と、見廻して、
『そうだ、
と、
三日ほど前から、御番城の
事件は、つい
御蔵奉行の
しかもそれは、この甲府城の宝物中でも、代表的なもので、
(あれが紛失したと!)
居合した者は青くなって、
(一大事だ。何と、
奉行の岩瀬志摩は、
(詮議の
と、云い渡した。
で||昨日から、甚三郎は、一室に閉じこめられ、紛失した歌仙本の行方には、密々、厳しい捜査が行われているが、今日に至るも、
× ×
× ×
『虫干の御蔵収めは、後四日。||その四日のうちに、紛失物が出なければ、甚三郎は、切腹するしかない。||まあ事情は、こういう
と、雑賀丹治は、薄ら笑って、
『そんな
ちょうど、
『ふーム、そうか。······そういう
とのみ
『どれ、帰ろうか』
丹治と別れて、彼は、帰途についた。
城の
平四郎も、
『何か、御城内に、変った事でもあったのでござるか』
知らぬ顔して聞くと、
『いや、ちと······』
と、口を濁して、役人たちは、真相に触れることを避けた。
||見たことか。人の思いでも。
同僚の前では、そんな顔は見せなかったが、平四郎は心のうちで、そう思わないこともなかった。
甚三郎とは、お互いに、終生、解けない宿怨に結ばれている仲である。
『萩井家のお小夜も思い知ったろう』
星になった夜空の下を歩きながら||彼は苦笑した。
||あの甚三郎さえなければ、お小夜は、自分の妻となっている筈の女だ。
(ちょうど、こんな、星の夜だった······)
と、彼は今も思い出される。
一夏、笛吹川の
身を
(娘の恩人だ)
と、いうので、それ以来、平四郎は萩井家の家族から、特別親しく扱われた。
お小夜も、年
||それはもう、七年前になる。
然し今では、萩井家の家族は何うか。
彼女が、自分を見る眼は何うか?
以前とは、まるで違う!
ひと頃は、彼女の
自分も、いつか心に、彼女を未来の妻として、抱いていた。
その為に、勉強した。誰よりも励んだ。兵学も、剣道も、弓道も。||やがて萩井十太夫の後を継いでも、
(彼なら恥しくない)
と、云われる迄、自分を
海野甚三郎は、そうした折へ、忽然と、帰って来た。甚三郎は、長崎へ遊学していた者である。新しい
(甚三郎様、甚三郎様)
萩井家の家族たちは、皆、彼の知識や新しい話に傾倒した。
わけて、お小夜は、彼に依って、
そのうちに、間もなく、甚三郎は正式に、縁談を持ちこんだらしい。異議なく
だが。
平四郎にとっては、延びようと、
未練がましく、近くに住んで居たくないとは、重々思う事であったが、崖下の番衆長屋は、いわゆる組屋敷で、勝手に転居する事も許されない||
近頃は、兵書、剣道の修行も抛って、くさくさすれば、町へ出て、居酒屋の
(まあ、我慢せい)
とか、
(お小夜ばかりが女じゃなし、もっといいのを持って見返してやるさ)
とか、同情する者もあった。
けれど彼の意中には、そんな程度の言葉では、慰めきれないものがある。||又、今日聞いた甚三郎の破滅を知っても||猶々、慰めきれないものがある。
それは、お小夜の心だった。
何うして、彼女が、自分に
帰りがけ||その晩も、いつもの居酒屋に立寄って、平四郎は、
『亭主、
薄暗い片隅の
誰か、後でコソコソ話し声がするので、何気なく振向いてみると、土間から上って、三畳ばかり敷ける小部屋に、
『||だって、何うせ京都へは上らなければなるまい』
と、一方が小声でいう。
『それやあそうだが······』
『してみれば、山越えして、
『
『いや、そう行くのは、誰も考える所だから、裾野へ出て五湖を横ぎり、東海道へ突き抜ける』
『ウム、だが何っ
と、云いかけた時、一方の浪人が、
『
と、目くばせして、
平四郎は、耳にも止めない様子をして、
『亭主、きょうの酒は、いつもの酒とは少し違いはせぬか。||もう一つ、
その間に||二人の浪人は、土間の
『
やや
市之丞。||確にそう聞えた。妙に、その名が、平四郎の耳へ残った。
(この城下で、市之丞と名乗る者は? ······)
と、考えていると、
『旦那、召上ってみて下さい。
と、亭主がそれへ、
『おやじ』
『へい』
『今出て行ったのは、毎度ここへ見える客か』
『いいえ、
『江戸者のようだな、言葉や
『左様でございます。けれど、何かお話の様子では、青沼の
『光沢寺といえば||一蓮寺の別院だな』
『はい、左様に聞いておりますが』
『ふウ······む』と、何か独り頷いて、
『亭主、きょうのも又、お帳面だぞ』
『へいへい、
平四郎は、ぶらぶら帰って来たが、
戸を軽く叩いて、呼び起しているまに、彼は、崖上の萩井家の
『······オ。お小夜はまだ、知らないと見える』
平四郎は崖を仰いで、ふと唇を噛んだ。
婆やが、眠たい顔して、戸を開けた。平四郎は家に這入るとすぐ、
『昼間、風に吹かれて、紛れ込んで来た女小袖は、萩井家へ返してくれたか』
『はい、お返しいたしました』
『誰が取りに来た?』
『わたくしが持って行って、裏門にいる小者へ渡してやりました』
聞くと、平四郎は不機嫌に、
『だれが届けて
と、珍らしく
萩井家でさえ、知らない様子なのである。
(もう後三日。||もう後二日)
と、平四郎は心のどこかで、朝夕、海野甚三郎の身に迫る死期を数えていた。
寝転んで、
(俺は何も知らぬ間に、
と、思う。
||琴の
『だが、思えば、可哀そうな』
と、平四郎もふと思わぬでもなかったが、強いて、自分の心を、残酷に持って、
(いや、当然だ。おれの苦しんで来たことに較べれば)
と、
もう今日は、
同時に、詮議の日数も、その日限り。
(分ったか。無い儘か?)
紛失した歌仙本の安否よりも||実は海野甚三郎の生死のわかれに興味を抱いて、平四郎は、その日から、城へ詰めた。
城内へ来てみると、いつぞやは知らない顔をしていた者も、今日は、公然と、
『盗賊は一体、外の者か、内の者か?』
『元より、外部の者だろう』
『いや、外部から忍び込んで、盗まれたとすれば、吾々も共に落度ではないか』
『下手人が城内にあるとすれば?』
『いう迄もなく、図書係りの甚三郎を疑うしかあるまい』
『だが、
『金になるさ』
『なるかな?』
『しかも莫大な金になる。
などと、詰所を
紛失の歌仙本は、遂に、
||そこで、城番の松野豊後守は、係り役甚三郎に、自決を
事件は、そうして、その朝、全貌を衆に
||甚三郎が切腹する!
これも人々を驚かせたに違いない。
何処よりも真っ先に、彼の家には、夜明け方、使が走った。
萩井家へも、誰かが駈けた筈である。
(
と、彼の才気や新知識を、
(才人才に
と、密かに、歌仙本の行方も、彼の
半日は、騒ぎに暮れ、
その中では、誰も皆、
(近づいて来たな)
と、口には誰も出さないが、番衆小屋の人々も、皆、無口になった。
どんな人間に対しても、その死となれば、日頃の
『高安
乾門は、四人ずつ交代で、
平四郎は、黙々と頷いて、
||すると、後から馳けて来て、
『高安』
と、呼び止める者があった。
振向いて見ると、奥役の
与四郎兵衛は、胸と胸のつくほど近く寄って来て、
『平四郎。聞けばおぬしは、萩井家の道場でも、
『何ですか』
『
『······?』
『||嫌だろう。誰も嫌がって承知せんのだ。何といっても、日頃から一つお城に勤めていた同僚の首を斬るのだからな』
『甚三郎殿の介錯ですな』
『ウム』
『拙者で御不足がなければ勤めましょう』
『やってくれるか』
と、与四郎兵衛は
『じゃあ、奥の丸へすぐ来てくれい』
と、先に立った。
そこは、武器
ほかの部屋から持って来たらしい
『甚三郎殿』
頼母木与四郎兵衛が、
『はい』
と、割合に落着いた返事が聞えた。
甚三郎の声である。
数日、陽の目を見ず、ここに坐ったきりなので、色はよけいに白く見え、心もち
『もはや、時刻でござりますか』
と、与えられてある一枚の畳のうえから云った。
『いや||時刻はまだ||半刻の余もござるが、
『
『番衆の内より、高安平四郎を選びました故、左様御承知ねがいたい』
『えっ』
甚三郎は、髪の毛まで
『平四郎が、私の介錯人ですとな?』
『お望み
『はっ······。だが、お訊ねいたしとうござる』
『何か』
『それは、平四郎から申し出たことでございまするか、それとも又』
『いやいや、然るべき者がないので、立会人の吾々から頼んだことじゃ』
『······あ、左様でござりますか』
『まだ、時刻もある故、その間に、お
『御好意
『お、左様か。||では』
と、与四郎兵衛が引き退がろうとすると||
『あ、もし。······暫く』
『何ぞまだ······?』
『お願いがござります』
『仰っしゃってみるがいい』
『
『いや、
『
『はて、
『萩井十太夫殿の娘小夜は、十太夫殿の御病気のため、挙式は取り
『自分の一存では計らいかねる。お待ち下さい』
と、与四郎兵衛は退がった。
『お城からお使でござりまする』
『······はい、何ですか』
人の気配に、お小夜は、強いてきっとした声で振向いた。
『御城内から、使の者が見えて、甚三郎様の
水装束||云う迄もない死装束||彼女はぎくっとしたが、
『承知しましたと云って、使を返して下さい』
『お品は』
『後から私が自身でお城まで持参いたします』
取次が去ると、彼女は、次の化粧部屋へそっと移った。
彼女は、鏡台に向って、眉を
自分の所へ、死装束を取りによこしたのは、甚三郎もすでに、自分を妻として、検死や立会へ届け出たにちがいない。
(妻としてなら、死に
こう
お城までは、さして遠くもない。わざと
病床にいる父へも、何も告げなかった。十太夫の容態は今朝から
まだ、杯も挙げないうちに、この悲嘆である、
(
大手へ行く町通りを避けて、
||すると、野中のひょろ長い樹の下から、誰か、人影がうごいて、彼女の
『小夜どの。小夜どの』
と、呼びかけた。
彼女は、何かしら、ぞっとした。
高安平四郎の声||とすぐ感じたからである。
城内から使の出た後、平四郎も又すぐ、
『
と、立会衆の
||だが、果して、それが目的だったか、又は、彼女をここに待ち受けるのが目的だったかは分らない。
然し、打ち見た所、平常の腰の
『どなたかと思ったら、平四郎様でございましたか』
『暫くお目にかからなかったが、
『············』
彼女は、胸に抱いている水装束の台へ、ふと、眼を落したが、
『貴方に、不思議なお役目とは?』
と、涙も見せず問い返した。||いや、平四郎の姿を見た途端に、涙とは反対な、むしろ抗争的な強い意志が、ぐっと胸に立ち直っていた。
平四郎は、薄ら笑いに、歯を見せて、
『これが不思議な
『げッ······。あなたが······あの甚三郎様の御介錯を』
『お小夜どの。今、
『············』
彼女の涙は、遂に、理性の
けれどそれは、この
『あなたは······平四郎様! ······あなたはよくも、そんな事を、私の前で仰っしゃられます』
『云われないで何うしましょう。海野甚三郎に対して、一寸の恩もなければ、友達の
『けれど······そうして御自慢なさる
『······ム。それは貴女の父十太夫殿からだったなあ』
『又。······今誇って仰っしゃった、備前長船も、誰から戴いた刀だと思し召すか。それも、父の十太夫が······私が幼い時、笛吹川で溺れる所を、助けて戴いたお礼にと||貴方へ贈った物ではございませぬか』
『それを、覚えておられたか』
『忘れて何といたしましょう』
『||ならば、生涯、口が腐っても云うまいと思ったが、平四郎も一言申すぞ』
『オオ、仰っしゃいませ!』
『······いや。······止そう』
と、平四郎は、感情の儘、こみ上げかけた声をふと落して、
『······大人げない。はははは』
相手が、冷ややかになると、彼女はむしろ
『卑怯な! 卑屈な! ······。その通り、何も仰っしゃれないではございませんか』
『云えないと思うか』
『ええ、私には、何も云われる覚えはございませんもの』
『じゃあ云うが||小夜どの、
『え······弄ったとは』
『まだ、甚三郎が長崎表から帰らぬうちの事······よう胸に手を当てて思い出してみるがよい』
『思い出す事? べつに、あなたとの間に、そんな、心にふかく刻まれた憶い出は何もございません』
『ないっ?』
『ええ······ありませぬ!』
『では······では
『忘れもせぬ||』と、眼をふと
『そうだ、
『その事は覚えていますが······そんな言葉は忘れました』
『忘れた?』
と、早口にたたみかけて、
『||では、その夏、荒川の堤へ、螢狩りに行って、あの帰るさ、
『みんなして、笑いさざめきながら、冗談を云い合って帰りました』
『何! 冗談だと? ······。ウーム······冗談』
平四郎はもう、自分へ云って自分で答えるように
『すると······其女がこれ程の言葉は皆、
『もしも、何か貴方のお心に、恋として残るような言葉でも云ったことがあったでしょうか』
『||もうよい。アアそんなものか』
平四郎は、何か、悪夢から醒めたように、
『小夜どの。······よく判っきり云ってくれた。では、其女はこの平四郎を、
『ええ······。ただ、父から、
『······ふ、ふ。そうか。それだけのものか』と、
『それが、拙者を
『今のお言葉は、それ見た事かという意味でございますか』
『元よりの事』
『解りました。さては、卑劣な
『なにッ』
『いいえ! 貴方でございましょうが。問うに落ちず語るに落ちる、今の言葉、貴方の
『||で、あったら、
『もう、恩人とは云わさぬ。女ながら、萩井十太夫の娘、縄を打ってお城へ||』
『はははは。その細腕で』
『おのれっ』
お小夜は、抱えていた装束台を、小袖ぐるみ、相手の
平四郎は、
『
と、身をひらいた。
刃のような彼の
懐剣は、草むらへ飛び、彼女の体は、平四郎に手頸をつかまれて、前へ泳ぎかけた。
『
『······オオ。云やったな! ······。では
『もうここ迄云ったら、誰の
云いながら、平四郎は、彼女の体を、勢よく草の中へ突き放した。
||女の力! 及ばぬ腕! 口惜しさに、彼女はいちど、わっとその儘、泣き崩れたが、
『ま! まてッ||』
叫んで、再び起ちかけた時は、もう平四郎の姿は、草露の光る彼方へ、跳る
『
立会の者の控え部屋では、当夜の検死を初め、役人たちが、顔を見合せていた。
『もう、
『平四郎も戻らぬし』
『水装束もまだ届かぬというが』
云っている間に、その九刻は、髪切虫の啼く音のように、時計の
『いつ迄、待っても居られまい。||死罪の者に対して、
当夜の立会人のひとり||城番加役宮崎
それに
『では、
『小袖はよいが、介錯は誰がいたすな』
などと口々に呟きながら、時刻と、市之丞の言葉に促されて皆、起ち上った。
『平四郎の戻りが間にあわねば、ぜひもない、介錯はそれがしがする』
この中では、市之丞が若かった。||で当然の意気らしく、それは響いた。
然し、御城番の次席である若狭守の次男なので、家柄としては、この中の誰よりも高い。それを老人達は、やや
『いや、市之丞様のお手を
『いや、もう時刻がない』
市之丞は、大股に控え部屋を出、武器の
||と。そこへ
『お待ち下さい。甚三郎の切腹、暫く、お待ち下さいっ』
息を
『何で留めなさる』
一人が、強くたしなめた。
『いや、下手人が、分ったのでござる!』
与四郎兵衛の言葉は、絶叫するようだった。
『||われわれは[#「『||われわれは」は底本では「 ||われわれは」]、まんまと、その下手人に、
『||して、誰だ? 下手人とは』
市之丞は、眼を光らして、問い詰めた。
『されば高安平四郎と相分った』
『何、平四郎||が』
皆、意外な顔を見あわせて、
『然らば、紛失物を奪ったのは、平四郎の
『甚三郎に、恨みがあって、
『||誰の口からそれが知れましたか』
『今。御城門へ訴えて来た、萩井十太夫殿のお娘||小夜どのがそう申すのじゃ。しかも、その訴えによれば、平四郎自身が、小夜どのに、自己のやった
他に、下手人が出た以上、海野甚三郎にはもう、下手人の嫌疑はない。
然し、責任はまだ、充分にある。
それは、真実の下手人を、捕えることだ。人々の意見は、そこで即決を見て、すぐ甚三郎を、切腹部屋から出した。
そして、立会人と共に、すぐお小夜に会わせ、猶つぶさに、彼女の口から、真相を聞き取らせた。
『||では平四郎は、尋常に勝負するなら、青沼の光沢寺で待つといったか。確かに、そう云ったか』
甚三郎は、何度も、お小夜に確めた。
人々も、そこを大事と、耳を
お小夜は、
『はい、まだ貴方の死を見ないで去るのが、心
と、答えた。
『それっ、すぐ手配をすれば||』
と、役人たちは、先を
討手の人数は、忽ち
日頃、平四郎と余り
それより一足先に、海野甚三郎と、お小夜の二人が、青沼村をさして、急いでいた。こう二人は、当然、討手の誰よりも真っ先に向わなければ、一分が立たない立場にある。
城下
まだ、明け方には、間があったが、水明り星明りに、何処となく
||それよりは、やや先に。
お小夜を突き放して、住み馴れた甲府の深夜も、
『起きろ。起きろ』
ほとほととそこの戸を揺すぶる。
寝ぼけ
『どなたで?』
と、見上げた。
『江戸の者だが||』
『泊っているだろう?』
と、訊ねた。
皆まで訊かずに、
『あ······御浪人方のお連れで』
『そうだ』
『どうぞ······』
すぐ、
『坊主』
『はい』
『この光沢寺は、一蓮寺の別院だな』
『左様で||』
『一蓮寺は、御勤番加役、甲府在住の宮崎若狭守どのの
『仰っしゃる通りでございます』
『||すると、この光沢寺と、宮崎家との縁故も、だいぶ浅くないな』
『はい。何かにつけ、お世話になっておりまする』
『江戸から来ている||おれ達の連れの浪人達は、そんな筋から、ここへ寝泊りしているのじゃないか』
『よく······存じませんが、何しろまあ、どうぞ』
『いや、ちょっと聞いておきたいのだ。御加役の御子息、市之丞どのは、
『今朝ほども、お見えになりました』
『今朝ほども||か。
『蚊がひどう御座いますから、どうか、中へお這入り遊ばして』
『奥に泊っている浪人たちは、何と申す名だな』
『えっ······御存じないので』
『忘れたのだ。まだ浅いつきあいだから』
『お一人は、
『どこにいる』
『この広い廊下を突き当って、右の
『それには及ばん。||おい坊主ちょっと出い。
『な······なんでござりまするか』
平四郎は、僧侶の襟元をぐいと掴みよせて、怖しい眼で
『怪我をしない所へ行っておれ。そして、静かにするのだぞ。声を立てたら、斬り捨てるぞよ』
柳町の
||でも、油断のない男とみえて、服部太蔵がふと、
『おい、馬之助、馬之助』
と、連れの菅馬之助の耳を引っ張った。
ううむ······と
『おかしいぞ。||おいっ、眼をさませよ。何か、
と、囁いた。
『人声が? ······何処に』
『もう聞えなくなったが』
『耳のせいだろう』
『風の音にも、心を措くという奴だな』
『金儲けとなれば仕方がない』
『
『だが、あれだけ持っていた所で、路銀がなくっちゃあ』
『今夜は、事が決まると云っていたから、明日はお見えになって、路銀もくださるだろう』
『······おやっ?』
『······?』
二人とも、
||と。障子のすぐ外であった。
『馬之助。太蔵。路銀をやろう、顔を貸せ』
『||げっ?』
『だ、だれだっ』
『この辺の遊び人だ。顔を貸してもらいてえ』
遊び人と聞いたので、頭から呑んで、
『こらっ、誰に断って、
馬之助が、がらりと、障子をあけて顔を出す途端に、
『
ぴゅっん||と細い
『||あッ』
仰天して、服部太蔵が逃げかける背へ、平四郎は跳びかかって、ぶんと、肩先へもう一つ入れた。
うーむと、服部太蔵は、仰向けにひっくり
平四郎は、太蔵の体を、横抱きにして、元の庫裡から、何処ともなく、出て行った。
||然し、それから後、間もなく、彼の姿は再び、本堂の前に現われた。そして、正面の階段に、腰をおろして、白い
『||おうっ、
今、此の寺の石段を
いう迄もなく、お小夜と、海野甚三郎のふたり。
白く、冴え切ったお小夜の決死の顔に反して、甚三郎の方は、むしろ土気いろに、体も
切腹部屋から出された瞬間から||彼は、ふたたびもう、死というものを、思うのも怖しくなってしまった。
わけて、お小夜の姿を見てから、
それに、武道にかけては、自信がない。
いわんや高安平四郎を相手にしては。
||だから、今、平四郎のすがたを、本堂の階段に見ると共に、
(まだ、
と、山門から
平四郎は、意地悪く、
『来たか!』
と、彼方から
声をかけられてはもうそれ迄だった。
『オ! 居ったな、高安平四郎』
『待っていたのだ』
そう云って、底気味のわるい眼で||
『相思相愛、死ぬも生きるも、一
『な、なにを云うぞ。この
『ふン······後の加勢が来るあいだ、世囈い言を聞いていたほうが、其っ
と、少し膝を向けかえて、
『
『······もう······もうそんな
彼女は、
眼にも入れない容子で、平四郎は、云いたい事を、云い続けた||
『そこで、凡痴なおれは、腹の底から、甚三郎も又
と、怪しく
『······では、甚三郎の御家内、お小夜どの、倖せに送るがよい。||又、お小夜どのの良人甚三郎へも云おう。どうか末長く、可愛がってやるがいい。
と、ぬっくと起ち上ったかと思うと、
『では、おさらば』
と、二人を捨てて、右の廻廊の方へ、ずかずか歩き出して行った。
何やら、謎めいた言葉に、お小夜も、甚三郎もやや
『||待てっ、御番城の宝物を
と、甚三郎は、大きく呶鳴りながら、廻廊の上へ、
ばっ||と、刃風を顔の前へ
『云い残した』
と、平四郎は、彼の小手先を、ぐいと掴んだ。
『お小夜どの』
と、次に、突いて
『紛失した歌仙本は、確かに、この寺の奥の客間にある筈。血まみれの中を後でよく

と、伸び上って、
『おお、後詰が来たな。||あの中には、御加番宮崎若狭守のせがれ市之丞も居ることだろう。あれも
と、笑って又、
『お小夜どの。
もうその時、早くも、廻廊の横へ、裏手へ、
『逃がすなっ』
討手の声||そして跫音の
||さらば!
と、云っている間もなかった。
どどどどっ······と廻廊の一角へ馳けて、ひらりと
『しまったっ。||早く、近道を登って、先を
市之丞は、
『うぬっ』
市之丞は、もんどり打って、
『あっ、何をいたすっ』
云わせも果てず、海野甚三郎は、彼の上へ、馬乗りになって、
『下手人ッ、召捕った』
と、呶鳴った。
市之丞は、もがきながら又、怒りの眼をつりあげて、
『ば、ばかなッ。わしを下手人とは、何を申す。||発狂したか、甚三郎』
『だまれっ。かねて不審なかどもあるにはあったが、よもや御加番の子息がと、打ち消していたのが不覚だった。||それがしを罪に
意外なことばに、役人や討手の侍たちも、ばらばらと駈け寄って来て、一時は、まったく甚三郎の発狂かと怪しんだが、お小夜も共に、信念をもっていうので、
『では』
と、言葉にまかせて、床下を捜すと、
『市之丞様、もう運の
と、泥を吐いてしまった。
彼の自白に依って、総ては、明白になった。
市之丞も又、かねてから、お小夜を恋していた一人だったのである。
だが、お小夜はそれも、平四郎に対するのと同じように、何の警戒もしなかったし、甚三郎に向って、べつに注意もしていなかった。
||けれど市之丞としては、多年の恋に、
だが、市之丞の
(昭和十三年八月)