「あッ、泥棒ッ」
初秋の
が、事件はそれだけではありません、その
今まで神妙に弁当を使って居た町人風の第二の男が、半十郎が席へ置いた、振り分けの荷物を引っ抱えて、これは裏口の方へ逃げ出したではありませんか。
「あッ」
半十郎、紙入をさらった第一の男を断念して、振り分け荷をさらった、第二の男に
「己れッ、待たぬかッ」
追う武士と、追わるる賊と、七月の明るい陽を浴びて、田も、畑も、藪も、林も、真一文字に突き切りました。泥棒の足の早さも抜群ですが、二十七歳の若さを、忿怒と驚愕に燃えさかる、井上半十郎の
「返せッ、それは金目の品ではない、||返さないと、己れッ、手裏剣が飛ぶぞ」
半十郎は駆け
早くもその気勢を察した曲者は、中腰に身を屈めると、サッと右手へ切れました。
「あッ」
一瞬、曲者の姿は見えなくなりました。大地を
続く井上半十郎、今度曲者の姿を見掛けたら、遠慮もなくその手裏剣を飛ばす積り、突き詰めた心持で、ツと木立の中へ||。
が、木立は思いの外浅く、飛込んだ半十郎の前には、広々と明るい道が開けて、
曲者は? ||と見ると、ほんの五六間先へ、頭を先へ押っ立てて、両手で梶を取るように、死物狂いで逃げて行くのです。
「己れッ」
振り上げた手裏剣は||不思議、宙に押えられました。
「お待ちなさいまし、お
若い女は見覚えある振り分けの荷物を、半十郎の眼の前へ
「どうしてそれを」
「御難渋の様子を拝見して、曲者の手から奪い還しました」
「||||」
半十郎は
「でも、手裏剣はお
若い女はそう言って、半十郎の前に振り分け荷を捧げるように、ニッコと含み笑いを見せました。小麦色の頬に淀んだ、深い
この女の美しさと醜さの、法外な不調和が、相対する限りの人に、造化の
「||||」
逃げて行く第二の曲者の姿を見乍ら、半十郎はさすがに渋りましたが、
「さア参りましょう」
委細構わず、女は歩き出します。命より大事な、振り分けの荷物を手に入れると、
一文無しになって尻込みばかりする井上半十郎正景は、赤痣の美女に
「どうせ私も江戸へ参ります。そのように御遠慮遊ばさずに、お伴をさして下さいまし、路用は私が||」
そう言って、女はサッと顔を赤らめました。女だてらに
「御親切は
井上半十郎は、
「まア、お堅いことを、見ず知らずと
女は裏淋しく
それにしても、井上半十郎の古い古い記憶の下積に、この女の
「拙者は江州の浪人者、井上半十郎と申す。それではお言葉に甘えて、江戸までの道中雑用拝借いたす、||路用を失った上は、乞食をしても古里の江州へ帰るところなれど、身にも世にも替えられぬ急ぎの用事で、江戸へ馳せ向うところ、我慢や対面にこだわっては、拙者一代の孝道が相立ち申さぬ||」
そう言って、片手を畳の上に落した半十郎の真剣さ、少し華奢ですが、秀でた眉目も、二十七の若さと、頼もしさにハチ切れそうです。
「まア、そんなにまで仰しゃらなくとも」
女は妙に湿りました。
「大事な荷物を奪い還して頂いた上、路用まで用立てて下さる恩人の、せめて御名前が承り
「江戸、小石川の生れ、武家には育ちましたが、仔細あって町人となった、||
「お静殿||と言われるか」
「孝道の為の御出府と仰しゃると、
お静は声を潜めました。井上半十郎の素朴を様子は、物語の敵討の主人公らしく見えたのでしょう。
「いや、敵討と申すわけではないが」
「||||」
「別に隠す事では無い、恩人のお静殿に、
井上半十郎は
話は今から
幕府大筒役として千石を
「出来る」「いや出来ぬ」「見事拙者がやってお目にかけよう」「何んの貴殿如き」と、
時の
この始末は「
公儀に
外記の
「
物を隠すことさえ知らぬ井上半十郎は、お静が奪い還してくれた振り分けの荷物を指して
「で、||その五年の間の工夫で、五貫目玉五十丁撃が、間違いもなく出来るでしょうか、井上様」
お静の息も思わず弾みます。ツイ乗り出した膝、赤い
「拙者五年の苦心は、大筒の
井上半十郎の顔はサッと曇ります。大筒の尾栓は大丈夫でも、半十郎は江州鉄砲鍛冶の家伝を継いで、五十丁撃の猛烈な威力を持って居る、火薬
「五貫目玉を、五十丁の先まで
井上半十郎はよく知って居ります。それだけの焔硝を作り得る者は、名人一夢斎の
「まア、そのような御心配遊ばしたものでは御座いません、江戸までいらっしゃるうちに、また何んか良いこともありましょう」
お静がそう言い乍ら手を叩くと、
「これは?」
驚く井上半十郎の前に据えて、
「まア、御過ごし遊ばせ」
お静は自分で銚子を取上げます。片頬の痣は
「お静殿は、江戸小石川の生れと言われたが、||小石川ではなくて、
半十郎は盃を挙げました。この女の顔||
「いえ、私の生れは小石川の第六天、育ったのは遠州、||まア、そんなに私の顔を御覧になっては」
お静は片袖を
「ところで、お静殿、||拙者は一人で勝手に頂く、その間に風呂へ入られてはどうじゃ、疲れが直って、
「井上様は?」
「酒が腹へ入ってから、湯でもあるまい、拙者は止すとしよう、||それに」
井上半十郎は、振り分の荷物を顧みて、苦笑いをしました。
「井上流砲術秘巻」を片時も自分の側から離す気は無かったのです。
「それでは、御免下さいまし」
お静は丁寧に一礼して、風呂場へ降りて行きました。
やや
「お待たせいたしました」
お静は湯から上って、一陣の薫風と一緒に入って来ました。
「あッ」
井上半十郎、思わず声を立てます。
薄化粧の顔に、赤痣は火の如く燃えて、半面の醜くさが強調された代りに、左半面の美しさは比類もありませんが、半十郎の驚いたのはそれではなく、この女の顔が、風呂で洗い浄めて、情熱に
武家と武家との縁組は、恐ろしく儀式張ったもので、井上半十郎と繁代は、
が、似ているというのは、恐らく他人の空似でしょう、繁代の前歯が二本までも欠けている
「お静殿」
「ハイ」
「もしや、繁代殿とは言われなかったかな」
「まア、井上様、それは、どなたの御名前でございます」
「いや何んでない」
井上半十郎は盃を置いて、ツイ腕を組んでしまいました。
「繁代||可愛らしいお名前ではございませんか、私が、その繁代だったら、どんなに嬉しゅうございましょう」
静かに
「まだ、お酒がございます、お過しなさいまし、井上様」
美しい方の頬を見せて、一方の空いた手は、そっと、半十郎の膝の上へ||湯上の温もりが、着物の上から、熱鉄のように男の肌に通ります。
「違う、違う」
半十郎は頭を振って、盃を取上げました。喜三郎の妹、才色兼備と言われた繁代に、こんな媚態がある筈はありません。
「あッ」
中結いの真田紐を解いて、二つとも滅茶滅茶に引っ掻き廻してあるのです。
飛付くように調べて見ると、命より大事な井上流砲術秘巻が、
「無い」
あまりの事に、暫らくは茫然として
「どうなさいました、旦那様」
「泥棒が入った、この通り、荷物を掻き廻して、命にも代え難いものを盗って行った、早く、宿役人に訴えて、取り戻してくれ」
井上半十郎は立ったり坐ったり、廊下を覗いたり、欄干から外を見たりして居ります。
「そんな筈は御座いません、が、旦那様、帳場には一と晩私が頑張って居りましたし、戸締りには何んの変りもございません、一体盗られたと仰しゃるのは、何んでございます、小判で? それとも小粒?」
命より大事と言うと、番頭は金を盗られたに決めて居る様子です。
「いや、そんなものではない、大事な書き物だ、巻物になった伝書だよ」
「それはお気の毒様でございます」
そう言い乍らも番頭は、金で無くてよかった||と言った安堵の色になります。
「
「あの方なら||ツイ今しがたお発ちになりました」
「えッ」
「旦那様に
「||||」
井上半十郎の胸の中には、恐ろしい
「それから、旦那様に||江戸へいらっしゃるのを断念して、江州へお帰り遊ばすよう||とも仰しゃいました」
「あの女だッ」
そう迄念入に言う以上は、井上流砲術秘巻を盗んだのは、あの女||お静に紛れもありません。
「あの方が
「あの女が巻物を盗んで行ったに相違ない、さては||矢張り?」
お静とは仮の名、真は稲富喜三郎の妹、曾ては自分の
「そう仰しゃれば、おかしなことがございます、昨夜お休み前まで、顔半面あんなひどい赤痣でしたが、今朝お発ちになるところを見ると、痣どころか、
下女の話は奇っ怪です。
「それは本当か」と井上半十郎、
「多分絵の具で書いた痣でございましょう、あんまり変って居るので、ツイ申上げますと、||道中は物騒だから、姿を変えて歩いたけれど、
下女の説明を空耳に、井上半十郎は大急ぎで旅仕度を調えました。此上は
「ところで女は
朝の食事の代りに、握り飯を三つ四つ用意させ、鳥の立つように、門口へ||、半十郎は上り下りの街道を、途方にくれて眺めます。
「江戸の方へいらっしゃるかと思いましたら||左へ折れて、二俣街道へ入った様子でございます」幸い、好奇な下女が、旅の女の変った様子に、門口まで見送って、暫らく
「有難い、||その二俣までは何里だ」
「五六里もあるでしょうか」
「その先は?」
「
井上半十郎はそれ以上は聴いて居りませんでした。一脈の不思議な糸に
父井上外記が、江州鍛冶の名家に生れ、一代の研鑽を傾け尽して編んだ伝書に、父に劣らぬ天才半十郎が、五年間、心血を注ぎ尽して、工夫改良を書き込んだ「井上流砲術秘巻」は、命よりも大事なことに何んの不思議もありません。二た月後に迫った晴れの御前試合に、首尾よく五貫目玉五十丁撃に成功すれば、井上家は元の一千石に取立てられ、次第によっては、幕府の大筒を預って、御持筒頭の栄位を
道芝の露を踏んで、心ばかりは先に立ちますが、
「二十四五||武家風に見える旅の女は通らなかったであろうか」
半十郎は見行く度に、幾度も幾度も訊ねました。
「あ、あの綺麗な女でしょう、||それならほんの十丁ばかり先へ行きましたよ」
誰でもそう言ってくれますが、不思議なことに、どんなに足を速めても、
日が高くなり、
あの繁代||少し
敵同士は敵同士、
あの眼の深い悩み、||声の柔かい魅惑、何も
二俣へ着いたのは丁度昼頃、
「二十四五の旅の女の人が通った筈だが||
井上半十郎は静かに声を掛けると、
「天龍を
「嘘だろう」
井上半十郎思わず
「嘘じゃないよ、||そう言って教えたんだもの||」
そう言う男の子の
「よしよし」
井上半十郎は、強いてもとがめず、其
この辺から、半十郎の胸は予感に波打ちます。心なしか、行手の藪蔭、木立の隙間、百姓家の角などに、時々チラと若い女の後ろ姿を見掛けるような気がしたのでした。
「あッ、繁代殿」
「あッ」
驚く繁代、振り返った顔は、痣の痕もなく、玲瓏として輝くばかり、
「待った、言うことがある」
飛び付いた半十郎の手が、危うく女の帯に掛ろうとするところを、
「何をしやがるッ、
横合から飛込み様、二人の間を
「あッ、理不尽、その女にはわけがある、邪魔立てすな」
辛くもかわして、繁代を追いますが、後から迫る道中差が三本、
「何を言やがる、旅の女にふざけた事なんかしやがって」
三人共思いの外の腕利き、井上半十郎
そのうちに女は姿を隠した様子。
漸く邪魔者を追い払った時は、その辺にはもう影も形もありません。
三尺坊から秋葉山までは、たしかに女を追いましたが、それから裏山の道は、日が暮れて、すっかり判らなくなってしまいました。
朝から何里歩き続けたことでしょう、その上山道へ迷い込んで、二た刻あまり、
「砲術秘巻」もさること乍ら、もう一度繁代に逢って、その本心を聴かないうちは、
満天の星は次第に鮮やかになって、
「おや?」
遥かの峰の上に、灯の
井上半十郎は漸く救われた心持になりました。心も
藪を潜り、木立を分け、岩角を踏み砕き、
灯はもう、十間ばかり先になりました。思わず駈け出した足が、サッとさらわれました。
「あッ」
こんな山の中に、縄を張って、罠を仕掛けてあったのです。
「捕えたぞ」
バラバラッと飛んで来たのは、荒くれた山男||と思いきや、都振りの武士が三四人、どこやら
「何をするッ、拙者は江州の井上半十郎、手籠にされる
半十郎悲憤の声を絞りましたが、追い付きません。
「黙れッ、その井上半十郎と知って縛ったのだ、煮て喰うとは言わぬッ」
ピシリ縄尻で叩いて、
「御主人、獲物は罠に落ちましたぞ」
外から声を掛けるのは、半十郎を引立てた三四人の武士、
「それは辱けない」
中から一刀を提げて全身を現わしたのは、思いの外の若い男、灯に背いた小袖の折目も正しく、
「それでは、これにて御免
「
「日限は」
「多分九月の初め||八月中には一門だけ見本を造り、この山上にて試し撃をいたすとしよう、その間に地金の用意、万端お頼み申すぞ」
「心得申した」
「さらば」
三四人の武士は、縄付の半十郎を濡れ縁に差し置いたまま、謎のような問答を交して
「井上半十郎、久し振りだなア」
残る
「や、
「
二人は灯を挟んで、
「井上半十郎と知って、手籠にしたか、稲富」
「いかにも」
「卑怯だろう」
半十郎はハタと睨みました。疲れ切った
「卑怯かも知れぬ||が、お互に
喜三郎の面は夜の水のように無表情です。
「これが、五年目で逢った旧友のすることか、稲富、恥を知らぬか」
「旧友? ||
「友情は無くとも恥はあるだろう、||其方も武士なら、妹を使って、『井上流砲術秘巻』を奪わせて、平気で居られるか」
「||||」
「二た月後に迫る、砲術の御前試合に勝ち度さに、妹に
井上半十郎は縛られたまま、縁の上ににじり上って、涙を含んだ悲憤の
「貴公には、俺の本意が解らぬよ、井上」
「卑怯者の本意など、解ってたまるものか、其方はそれで本望だろうが、兄の卑怯な
「||||」
稲富喜三郎は黙って井上半十郎の爆発する激怒を見やりました。これほど迄に
隣の室からは、女の啜り泣く声が聞えます、曾ての
「井上、||貴公の言うのは、一応尤もだが、この稲富喜三郎、それ程卑怯者でないことは、長年の
喜三郎は静かに口を切りました。
「これが卑怯でないと言うのか」
自分の縛め、浅ましくも雁字がらめに締め上げられた姿を眺めて半十郎は肩を
「まア、聴け、井上、親同士の争、||それもこの稲富喜三郎は、ありようは心に掛けて居るのでない」
「何?」
「第一、この九月十三日の砲術試合に、俺は出る気は毛頭ないのだ」
「||||」
「俺の望みは外にある、それも追って言おう、が、井上、貴公は江州鍛冶の名家に生れ、鉄砲鍛冶の父祖の衣鉢を継いで、五貫目玉、五十丁撃の大筒を作り上げた筈だ」
「||||」
「俺は忍びの者を江州に入れて、何も彼も探っている。大筒の尾栓の
あまりの事に、井上半十郎暫らくは言葉もありません。
「が||、貴公は大筒は見事に造り上げたが、五貫目玉を五十丁の遠方まで撃ち込む、強力な焔硝を作る自信はあるまい」
「||||」
「俺は、
井上半十郎も、この間の微妙な関係はよく知って居ります。が、それを言い出した稲富喜三郎は、一体何を
「貴公の井上流の大筒に、俺の稲富流の強薬を用いさえすれば、五貫目玉五十丁撃は楽々と出来る筈だ」
「||||」
「繁代に貴公の『秘巻』を奪い取らせたのは、貴公の大筒に、俺の強薬を試み度い為だ、||貴公を
何んと言うこと、その真意は知りませんが、言い放って稲富喜三郎は、カラカラと笑い飛ばすのです。
「||||」
井上半十郎は無念の唇を噛むばかり、隣室の泣き声は次第に弱って、虫の声がそれを押し包んで行くのでした。
それから一と月余り、山の中には世にも不思議な日が続きました。
井上半十郎は物置のような一と間に入れられ、時々引出されて、大筒の尾栓鋳造に手伝わされますが、多くは三人の獰猛な男に監視されて、逃げ出すことなどは思いも寄りません。
繁代は赤い書き痣を洗い落して、世にも美しい昔の姿に還りましたが、半十郎を
が、恋する者の敏感さで、半十郎は繁代の顔や全身から、深酷無残な苦悩を察しないではありません。近づく折があったら、たった一言「許す」と
炭焼竃と見せて、
この工程を見ているのは、井上半十郎に取っても、決して不愉快なものではありませんでした。強薬に自信の無いことが
「出来たッ」
井上半十郎が歓喜の声をあげたのは、八月の中旬、青銅五貫目玉撃ちの大筒が、物の見事に樫の砲架の上に乗ったのです。
「有難い、これでよし、||ところで、井上、最早、尾栓が打ち砕けるようなことはあるまいな」
稲富喜三郎は改めて訊ねます。
「断じて、その心配は無い、井上流の秘術を尽した大筒だ、これで五貫目玉が撃てなかったら俺は死んでも構わぬ」
「それを聴いて安心した。||が、少しばかり仔細がある。試し撃のすむまで、貴公は縛られていて貰い度い」
稲富喜三郎変なことを言い出しました。
「何を言う、稲富」
井上半十郎が反抗する隙もありません、
「それでよし、お前達二人は、的の方へ行って見ているが宜い、あと丁度一刻(二時間)経てば撃つ、あまり的の側に寄って怪我をするな」
「心得ました」
二人の助手||武士とも
すぐ後ろの小屋の蔭からは、時々白い顔が覗きました。この一と月、あまり半十郎の前に姿を見せなかった繁代が、このキナ臭いほど緊張した、クライマックスの空気に誘われて、それとなく、二人の様子を見ているのでしょう。
「井上」
「||||」
喜三郎は改まった物の言いようです。
「試し撃の前に言うことがある、命を賭けての話だ、聴いてくれるか」
「||||」
「他ではない、||今から五年前、お互の父親同士が、砲術のことから、争いが
喜三郎は変な事を言い出しました。
「||||」
「然るに、公儀の御とがめは峻烈を極め、井上稲富両家は断絶、士籍を削って追放||我等はその家を興し度さに、こんな山の中にまで入って、人外の暮しをする有様||」
喜三郎の声には涙があります。
「||||」
「非道ではないか井上」
「||||」
「豊家を亡ぼし、無辜の民を殺し、
「||||」
「俺はつくづく徳川家の粟を
「稲富」
あまりの事に、井上半十郎言葉も続きません。
「盟主は牛込に道場を構え、大名高家も及ばぬ勢威を張り、数千の門下を養う
「えッ、それは本当か」
「盟友、同志、雲の如く、その上、これは極内だが、御三家の俊傑、紀州
「||||」
井上半十郎思わず
「井上流の大筒と、稲富流の焔硝は、その為に役に立ったのだ。この二つの秘伝を併せ、七門の大筒を鋳て、京、駿府、江戸の三ヶ所に事を起せば、不平の大名は風を臨んで来り加わるは定、徳川を打ち亡ぼし、我等が由比殿を押し頂いて、天下に号令する日も遠くはあるまい、井上、||解ったか」
「己れッ、謀反人」
半十郎は必死と身を揉みますが、いましめの縄は益々固くなるばかり。
「騒ぐな、貴公の大筒も役に立つ時が来たのだ、この大筒で五貫目玉が撃てると解れば、気の毒だが、貴公の命に用事は無い、||この稲富喜三郎の天下を取った姿を見せないのは心残りだが、どうせ両立し難い俺と貴公だ、後腐れのないように、
「己れッ」
「が、
稲富喜三郎はズイと寄ると、縄付のままの井上半十郎を引っ立て、争い続くる半十郎をヘシ曲げるように、五貫目玉と強薬を装填して、口火を点ずるばかりに用意した大筒の尾栓に括り上げました。
「卑怯者ッ」
井上半十郎は血走る眼にハタと睨みましたが、今更争う愚かさを考えたか、思い直して眼を閉じました。尾栓は万に一つも破裂の心配はありません、その点は自信に充ち満ちた半十郎ですが、五貫目玉を発射した後で、いずれは生け置かれる自分ではないでしょう。
野心家で、その上卑怯者の稲富喜三郎が、謀反の陰謀を語り聞かせた上、自分の命を助けようとは、想像も出来ないことだったのです。
「よいか井上、観念せい」
火縄の匂いがプーンと鼻を打ちます。眼を開くと、近々と寄った喜三郎の片頬、嘲り笑いが渦を巻いて、眼には残忍な光が、地獄の焔を切り取って来たように、キラリと
「兄上」
たまりかねた繁代、恥も外聞も忘れて飛出しました。
「邪魔だッ、||半十郎はお前にも敵の片割れ、
ハタと
「兄上、それはあんまり、||親同士の怨を忘れ、井上流の大筒と、稲富流の焔硝を併せて、天下の為五貫目玉五十丁撃の大業成就の為、井上様の伝書を奪い取れ、||井上様の火薬は五十丁撃の力は無いが、正面からかけ合っては、稲富流と力を協せるとは言うまい||と仰しゃった兄上のお言葉を誠と思い、恥を忍んで、井上様から伝書を盗み取りました」
繁代の顔||汗と涙に燻蒸して秋の陽に咲いたよう。
「えッ、黙らぬか」
「いえ、それはあんまりでございます、||伝書を奪い取れば、井上様は
繁代の言葉は涙に濡れて暫らく絶えます。
「えッ、止さぬか、女の愚痴だ、俺はもっともっと大きな事を考えて居たのだ」
「それが大それた謀反の
繁代はかき口説き乍ら、一生懸命、兄の手の火縄をむしり取ろうとするのです。
「えッ、
「兄上、||せめてその謀反だけは思い止って下さいまし、三代に
「||||」
「それから、井上様もお気の毒でございます。怨は親同士で果し果された筈、お願いでございます、井上様をお助け下さいまし、兄上、||兄上様、昔のお優しかった心持に返って、この私の為に、井上様をお助け下さいまし、お願い」
兄の首に、胸に、腕に、涙と共に絡み付く繁代は必死の思いでした、が、野心と怨に燃え立つ、兄の喜三郎を止めようはありません。
「えッ、邪魔だッ」
ドンと一つ突飛ばして、大輪の牡丹の如く
||ダ||ン||
山の大気を
「おッ、当った、五貫目玉は、首尾よく五十丁先の的を撃ち貫いたぞッ」
踊り上って喜ぶ喜三郎、繁代はそれに目もくれず、
「井上様、ご無事で||」
大筒に這い寄って、尾栓に括られたまま、何んの怪我も無かった井上半十郎に縋り付きます。
「有難い、大筒は無事だ」
自分の身体の危なかったことよりも、井上流大筒の無事を喜ぶ半十郎の顔には、縛られ乍らも歓喜の色が
「繁代、
稲富喜三郎左に妹を押し退けて、右手に一刀ギラリと秋の陽を受けます。
「あッ、兄上、それはあんまり」
「この口は
観念の眼を閉じた井上半十郎の首筋へ、喜三郎の兇刃は、幾度も幾度も臨むのです。
「兄上ッ」
争い続ける繁代の力が、
「あッ」
兄喜三郎の刃はもう、大筒の尾栓に縛られたままの井上半十郎の喉へ、||
繁代は物を考える隙もありませんでした。もがく手に触ったのは、兄が今しがた捨てたばかりの火縄、輪になって、ポッポと
何も彼も、天の摂理と見るべきでしょう。この投げた火縄が、局面をすっかり変えてしまったのです。
||ガン||
と天地も崩るる音、
繁代の
繁代が人心地付いたのは、それからほんの暫らく経ってから、見ると、小屋も大筒も
「あッ」
見ると、兄の喜三郎は、吹き飛された大きな石に打たれ、一と握りの肉塊となってこと切れている有様、繁代は暫らく呆然として居りましたが、気が付いて、大筒と一緒に、砲架から転げ落ちて、草叢の中に横たわっている井上半十郎を起して見ました。縛られ乍らも、大筒の蔭になっていた為に、気を
大急ぎで
「井上様」
呼びかけると、漸く眼を開きます。
「お、繁代殿」
「兄は、石に打たれて死にました。井上様」
「えッ」
振り返って見ると、一塊の血泥になった稲富喜三郎の死骸、井上半十郎は思わず息を呑みました。
「お許し下さいまし、あれは、私の本意ではございませんでした||それからもう一つのお願いは、兄の謀反の企てを、このままお忘れ下さいますように」
「||||」
「井上様さらばでございます、私は、今でも||」
ハッと思う間に、落ち散る兄の刀を拾い上げた繁代、いきなり自分の喉笛へ、それを持って行ったのです。
「あッ、待った繁代殿」
「||||」
「死んではならぬ。||
半十郎は疲れ果てた
半刻の後、二人は追われるように山を降りました。的へ行った、兄の仲間が帰って来る前に、兎にも
井上流と稲富流の伝書を持った半十郎と繁代が、江戸へ入ったのはそれから十日ばかり後のこと。御前試合が首尾よく済んで、井上半十郎が召し出され、稲富流を併せて砲術家として栄えたのは、又後のことです。
由比正雪の陰謀が発覚して、一味は