「お
「あら、
「口の悪いのは通り者だが、お駒さんの綺麗なのと違って罪は作らねえ」
「何を言うのさ、いきなり悪口を言ったり、好い
二人は顔を合せさえすれば、
神田明神前にささやかな水茶屋を営んで居る

見てくれの美しさに似ず、
「ところで、お駒さん、内々の話があるんだが」
ひとわたり軽口を叩くと権次は案外真剣を顔になって、見事に尖った唇をペロリと
「厭だねえ、内々の話なんか、
「
「当り前さ、お前さんに口説かれたって驚きやしないが、又お小遣を借せってんじゃないの」
「人聞きの悪いことを言いっこなし、ありゃお前たった一度だぜ、割前勘定が不足して、飛んだ恥を掻きそうになったからお駒さんに頼んで埋め合せをして貰ったが、
「お土産まで吹聴されちゃ世話あ無い||」
「まア
「天下の大事と来たね、||それじゃ聴いてやらなきゃア
「
変な顔で見送って居る客をかき分けて、権次はお駒の後に続きました。店から帳場だけを隔てて、形ばかりの六畳ですが時々は
「閉め切って居ると暑いね、少し開けようか」
「ちょいと待った、
「だってもう四月だよ」
「四月だって五月だって、女を口説くのに開けっ放しと言う法は無い」
「本当に口説く
「権次さんと来たね、俺はもう十ばかり若いと、口説き
「若くなくたって、顔の造作は変えられない」
「言ったね、お駒
又脱線して
「冗談は宜い加減にして、早く用事を言ってお
お駒はそれでも、話の本筋へ引戻しました。少し
「思い切って話そう、お駒さん、お前は言い交した、
「えッ」
「そして、今の俺にはお主に当る、金座の後藤三右衛門の総領、
「そんな馬鹿な事を、誰が一体私に言い付けるのだえ、生意気じゃないか、
お駒はカッとすると、外して持って居た赤い
「お駒さん、腹を立てるのも尤もだが、これには深いわけがある、
「誰が落付いてなど居るものか、犬にでも食われて死んで
お駒がサッと
「小唄の文句の通りだ、俺もこんな非道な事を言うより、犬にでも食われた方が増しだよ」
「何をするのさ、離しておくれ、人の裾なんか掴んで、
「あ、存分に張り上げておくれ、お駒、俺は袋叩きにされて放り出されても怨みはしない、お前が相沢様と切れて、後藤の小倅のところへ切り込んでくれさえすれば、自慢じゃ無いが、痛い腹位は切っても宜いよ」
振り上げた権次の顔は、妙に突き詰めた真剣さに
「
「誰も聴いちゃ居ないか、お駒さん、
「えッ」
「お駒さん、俺は駿河守様に代って、お前を口説きに来たんだ、聴いてくれ」
権次の声もすっかりうるんで、お駒は引据えられたようにその前にうな垂れて居りました。
天保四年、七年再度の大飢饉の恐ろしさは、書いたものにも故老の話にも語り伝えましたが、特に八年は窮乏の絶頂で日本全土の人間が

大阪では
幕府の倉を開いて、窮民を賑わすとか、悪貨を
勘定奉行矢部駿河守は、後に
この時は若くもあり、元気でもあり、その代り新米の勘定奉行で、
第一に眼をつけたのは、勘定奉行配下にある、金座、銀座の役人です。これは貨幣鋳造の
銀座の方の役人も、これに劣らず豪奢を極め、中役の
駿河守はこの金座銀座の役人から、窮民救済の冥加金を
そこで、清廉謹直な駿河守ですが、日毎に加わる町人百姓の窮状を見兼ねて、金座銀座の役人の宅に隠密を放ち、その生活状態から、貯蓄の有無を調べさせ、本宅別荘の絵図造作までも写し取らせました。
この間の消息は「甲子夜話」などにも載って居りますが、良吏駿河守にしては、全く一代の密偵政策だったでしょう。
「何を隠そう。俺は矢部駿河守様から、金座の後藤に附けた隠密の一人||」
「えッ」
これは、お駒も驚きました。馬鹿な話ばかりして居る
その上、命を的に金座へ入り込んで居る権次が、軽々しく身分を
「こんな事をベラベラ喋ったら、お駒さんは
「············」
「聴いてくれ、お駒さん、外の役人の暮し
「············」
「俺は吹屋町の屋敷に
「············」
「三戸前の蔵の鍵は、三右衛門が自分で持って居て、誰にも開けさせねえことにしてあるんだ」
「············」
権次の話が次第に核心に触れて行くのを、お駒は耳を
勘定奉行の下役||お駒と内証で夫婦約束までした相沢宗三郎と切れて、此間から熱くなって通う、後藤三右衛門の倅三之丞の
大概の事なら、真っ向から断って退けるお駒ですが、相手は矢部駿河守ではそうもなりません。何んと言う因果な通り合せか、駿河守がまだ一千五百石の小祿を
「後藤の小倅が、毎日明神様へ参詣して、呑み度くもない茶を呑むことを、矢部の殿様は
「············」
「俺には、矢部の殿様のお心持はよく解って居る、||吹屋町の三戸前の蔵は、女の腕で無きゃア開けようがねえ」
「············」
「お駒さん、余計な事は言わない、此境内からたった一ト足出て、
「||||」
権次は暗然と声を呑みました。
「
「············」
「こんな事を言っちゃ何んだが、お上の御金蔵は空っぽ、
「もう解ったよ、権次さん」
「えッ」
お駒はいきなり顔を挙げると、権次の饒舌を封じて
「理窟は知らないが、向うでも隣りでも、三度の食事は愚かろくなおも湯も
「えッ」
「後藤の小倅のところへ行って、あの三戸前の蔵の中に、何が入って居るか見届けてやるよ」
「本当かいお駒さん」
「だけどもさ、あの
「お駒さん」
「何んだって又、私はこんなに綺麗に生れ付いたんだい」
「そんな事を言ったってお駒さん」
「私は泣き度い、権の字、膝を貸しておくれよ」
「御安い御用だとも」
お駒は、権次の膝の上へ身を伏せて、泣いて泣いて泣き
湯のような美女の涙が、
「相沢さんはそれを御存じかい」
泣き疲れて、
「それは御存じだとも、相沢の旦那も一緒になって捜索したが、
今まで、美女の涙を膝に享楽して居た権次は、夢から呼び覚されたように
「それほど知って居なさるなら、
「こんな事をお駒さんに言う顔が無いと言うのだよ」
「意気地が無いんだねえ」
「えッ」
「そうじゃ無いか、外に良い女が出来ての切れ話なら、人に頼んで言わせる筋もあるだろうが、それほどの役目を引受けて、江戸中の人を助ける為に切れるのを、私は
「冗談、冗談じゃ無いよお駒さん、相沢の旦那は気が弱かったんだ、
「そうかねえ」
妙にそぐわない心持、お駒は襟に顎を埋めて、
「相沢の旦那を悪く思っちゃいけないよ、お駒さん」
「悪くは思わないが、意気地の無い人だと思うよ」
「············」
「そんな武士が
「お駒さん」
「黙っておくれ、||自分の女を人に取られているのに、指を食えて引込んで居るような男を、私は大嫌さ」
「お駒さん」
「権次さん、黙って居ておくれ、腹でも立てなきゃア、私は後藤の小倅のところへ行く張り
「············」
「畜生ッ」
権次は慰めようもなく、黙って女の取乱した様子を見守るばかりです。
「お駒さん、無理もない事だが、相沢さんには罪が無い」
「黙ってお
「あッ」
権次は
「権の字、私は
「お駒さん、気を
「相沢さんは勘定奉行与力で、二百石取の大身だろう、夫婦約束をしたって、水茶屋の娘の私とは
「お駒さん、それは無理だ、相沢さんは、お前を捨てる積りもなく、厄介
「解って居るよ権の字、だから、私は自分の勝手であの後藤の瓢箪野郎のところへ行くんだ、私は自分の身を捨てて江戸中のいや日本中の困って居る人を救えや宜いんだろう、相沢さんが何んだい」
「············」
「さア、帰ったらそう言っておくれ、相沢さんには、私の方から切れてやるって」
お駒は立上って、夕明りのほのかに射して来る窓へ寄りました。
もう、後藤三之丞が、お詣りに来る時刻だったのです。
「あら、後藤様」
「大層今日は愛想が好いな、お駒」
「誰も居ないから」
「ウ、フ、フ」
金座の後藤三右衛門の倅三之丞、少し病弱で青白くはありますが、
「それに、いつもより綺麗に見えるのは
羽織の裾を払って、長いのを側へ置くと、扇を斜に、少し気取った
「旦那がお見えになったからでしょう」
「ウ、フ、フ」
「それに、今日はあのいつぞやのお返事を申上げようと思って、朝からお待ちして居りました」
お駒は側へ坐ると、なよなよと上半身を曲げて、三之丞のノッペリした顔を下から見上げるのでした。
「それは
「吉か、凶かは存じませんが、旦那様のお
「え、本当か、それは、有難いな、いよいよ話が決れば、この水茶屋の株などは人にやって
「あの、お言葉中ですが」
「何んだお駒」
「旦那様の御側へ置いて下されば、妾、手掛はおろか、召し
「それは又異な望みだな、窮屈ではないか」
「それも覚悟して居ります、女と生れて、旦那様のような立派なお方と契った冥利に、金座のお屋敷にたった一日でも住んで見度いので御座います」
「フーム」
家門に対する自負心があるだけに、お駒の望みが、三之丞には尤もに聞えました。
「
「待て待て吹屋町へ入れることを、ならぬとは言わぬぞ、一応父上へ申上げて、近いうちに
「旦那様、お
お駒は一生懸命でした、ツイぞ側へ寄ったことも無い三之丞の膝に
話は思いの外トントン拍子に進みました。二十六まで独身を通して、お駒より外の女には、振り向いても見ようとしなかった三之丞の一克さが、頑固な父の三右衛門を動かして到頭「召使」という名儀でお駒を容れることになったのは、それからたった三日の後だったのです。
お駒は手軽に吹屋町に
鉄火者という評判を取ったお駒が、思いの外素直に仕えるので、三右衛門も少し予想外な心持でした。
二日、三日、五日、と日は経ちます。
凶作の後の恐ろしい
お駒は召使と言う名儀でも、実は若旦那の三之丞の愛妾でその存在は次第に火の如くはっきりして来ましたが、まだ、奥の三戸前の土蔵に近づくことなどは夢にも及びません。
七日目、
お駒はとうとうしびれを切らして
「旦那様」
お駒の愛撫の疲れでウトウトして居た三之丞は、不意に甘い夢から引戻されました。
「何んだ、お駒か」
「私は、眠られません」
「ジッとして居ると眠られるよ、今頃起き出す人間は無い」
三之丞の調子は寝そびれた子供をあやすようですが、お駒は、少し根の
「いえ、私は大変な
「なら||」
三之丞は少しからかい気味に半身を起しました。この情熱そのもののような女は、それ位の特異性を持って居るかも知れないと思ったのです。
「お願いで御座います、旦那様、私を裏の三戸前の蔵のどれかへ入れて下さい」
「それはならぬ」
三之丞も少し驚きました。
「
「あれは、父上のお
「こんな夜中でも?」
「夜でも昼でも」
「あ、あ」
お駒は投げ出したように言って、クルリと後ろ姿を見せました。
「寝ないか、お駒」
「どうぞ、お休み下さいまし、私は、どうせ眠られはしません」
「弱ったなア」
暫らく言葉が絶えました、が、お駒は身動きもせず、三之丞はその美しい後姿から目を離そうともしませんでした。
「あのお蔵の中には、何が入って居るので御座いましょう」
「さア」
お駒の
「世間の噂では、大判小判が一杯だと申しますが」
「さア」
「一と目、私に見せては下さいませんか」
「そんな解らぬことを言わずに、眠る工夫をしたら
「私はどうせ眠られはしません、こんなに火のように熱いんですもの||」
お駒は三之丞の手を取って、自分の胸へ差し入れました。大して熱いとは思いませんが、高鳴る心臓の鼓動が、男の手に響きます。
「それが
「私は、この熱い肌を、金で冷やして見度いので御座います」
「?」
「この焼けるような
「馬鹿なことを」
「そうさせて下さいまし、旦那様、私はこんなに、焼けるような心持で、もう我慢が出来ません」
お駒は自分の言葉に勢い付けられたように、立ち上ると三之丞を床の中から引出しました。
「これ、何をする」
「旦那様、蔵へ参りましょう、私は栄耀も栄華も望みでは御座いません、此お屋敷へ上ったのは、たった一と目、何万両というお金が見度かったので御座います」
「············」
「蔵の中へ入れてお金を唸らせて置くなんて、随分勿体ないことでは御座いませんか、さア、参りましょう、私は、大判小判を
「············」
「でなければ、私を帰して下さい、明日と言わず、今
お駒は三之丞へ絡み付いて、離れようともしません、何んと言う素晴らしい情熱の体温でしょう、三之丞は唯もうおろおろするばかりでした。
お駒は到頭三之丞を説き伏せて
「シッ、静かに」
奥に並んだ三戸前の土蔵まで辿り付くうち、三之丞は何べんお駒をたしなめたことでしょう。
お駒はすっかり有頂天になって、執念深く三之丞に絡み付くのでした。
廊下が尽きるところに、金網の掛った、有明が
大一番の
「騒ぐんではないぞ」
お駒をさし招くと、籠
最初は、心の激動に何んにも見えませんでしたが、少し落付くと、蔵の中の光景は、想像以上の素晴らしいものだったことに気が付きます。
左右に杉なりに積んだのは、千両箱の山、これが何百あるとも見当が付かないのに、正面は、封をしない小判と大判が本当に砂利のように積んであるのです。
中に交った延べ板、なまこ、地金、砂金の袋などは、その砂利の中の石とも材木とも見られるでしょう、それが大地から掘り出したばかりの、純良無垢な山吹色で、行灯の灯に
「どうだお駒」
少し得意そうに、籠行灯を捧げる下から、
「あッ」
お駒は唯悲鳴のようなものを挙げて飛出しました。
いきなり、黄金の山を駆け登り、その上に二三度転がって、あとは両手ですくい上げて、大判小判の滝を頭の上からザクリザクリと
お駒が
本能的に枕元の手筐を見ると、蔵の鍵がありません。
ハッと思って挙げた目に、柱に掛けてあった筈の長鍵も無くなって居ることに気がついたのです。
三右衛門は、たしなみの帯を締めて、一刀を帯に落すと、
雨戸が一枚開いて居ります。
音は真ん中の蔵の中から、||と思うと躊躇はしません、板戸に手を掛けると、
「旦那様、危のう御座います」
「何んだ、権次か、
「旦那様は?」
「俺は中へ入って見る」
後藤三右衛門、充分胆が据って居ります。
「それは危う御座います、旦那様」
権次は
「えッ、
「あッ」
中は淡い灯に照されて、黄金の雨、黄金の洪水です。
「己れッ、
黄金の洪水を
「あッ」
薄桃色に上気した美女の肉体が、黄金の山の上へ
「権次、権次さん」
お駒はそう言って、顔をあげましたが、土蔵の外に、何やら物の気配を感じると、又ガックリ血潮の中へ崩折れて、其儘息は絶えて
黄金の音、||続く絶叫、自分を呼ぶ声などを聞いて、権次は何遍か蔵の中へ飛込もうとしましたが、思い直して一散に門の外へ飛出して
行手は勘定奉行、矢部駿河守の屋敷、自分の頭をカキ乱して、ゼイゼイ息を切らし乍ら、権次の
「仁兵衛娘、駒、親許の承諾を得、仮親を立てて、拙者の妻に申受くることに相成った、奉公中気の毒であるが早速引渡して貰い度い」と言う口上です。
三右衛門も、倅三之丞も申開きが付きません。奉公人を手討にするのはよくある例で、金蔵へ盗みに行ったと言えば事が済むようなものですが、その金蔵は数十万両の金が、血潮に染んで居ては、検視の受けようが無く、第一、権次が勘定奉行の隠密と解っては、争う余地もありません。
三右衛門は、黙って、即座に二十万両を上納しました。
これは歴史にも有名な話、続いて隠居願を
お駒の血潮で彩られた二十万両は、右から左へ窮民を救うの資に当てられ、天保の大飢鐘の始末も、これで一段落付きました。
矢部駿河守は後町奉行に転じて、天保十三年憤死し、相沢宗三郎は