二人は葉蔭の濡れ縁に腰をおろして、夕陽の傾くのを忘れて話し込んで居りました。
千代之助は二十一、荒井家の冷飯食いで、男前ばかりは抜群ですが、腕も学問も大なまくら、親に隠れて、小唄浄瑠璃の稽古所に通ったり、小芝居の下座で、頼まれれば
真弓は取って十八、魂を吹っ込んだ人形のように綺麗な娘で、千代之助とは幼な友達、それが
若い二人は、
「真弓殿」
「ハイ」
「近頃
「
真弓は驚いて、唇を押えた二つ折の小菊を持ち直しました。
「真弓殿の唇は、よく熟れた
「あれ、千代助様、私は口紅は付けては居りません」
「それは言うまでもない。真弓殿の唇より紅い口紅が
千代之助はそう言い
調子は
「真弓殿」
「············」
「真弓殿」
「私はもう嫌、千代之助様は、からかいなすってばかり||」
華奢な撫肩をプイと
「真弓殿、からかいや冗談では無い||この通り大真面目な私の顔を見るが
千代之助は娘の膝へ手を掛けて、少し
「折入って一生の願いがある。真弓殿、聴いてくれまいか」と続けました。
「············」
「
「あれそんな事は||」
「黙って聴いておくれ||せめては、後の思い出に、その優れて美しい唇の跡を、口紅で紙へ
「まア」
「半沢氏は、やがて真弓殿の
千代之助は、打ち
まだ誰も知っては居ませんが、二人はもうそんな嬉しい仲だったのです。
「千代之助様、
真弓は一パイに紅を含んだ唇を濡らし、その上から半紙を二つ折にして、堅く押さえました。
二人は、人に見とがめられないように、真弓の部屋の前まで辿り付いて、化粧道具の中から、口紅の皿を
「もう宜いだろう」真弓の唇から、そっと半紙を取ると、その上には、紅々と可愛らしい唇の跡が
千代之助は、それを
「
「あれ千代之助様」
「まア、宜い、これはどうせ私が貰ったのだ。誰にも文句は言わせない」
そう言い乍ら千代之助は、半紙を四つに畳むと、そのまま押し戴くように、少しなまめく襦袢の袖の中、内懐深く仕舞い込むのでした。
「千代之助殿」
「真弓どの」
こんなつまらない遊戯が、二人の胸に潜む恋心を、どんなに煽るかわかりません。
「不義者ッ」
不意に、障子を蹴開いて、鞠のような感じのする男が
「あッ」
二人は危うく
「動くな不義者ッ」
「何が不義者だッ」
隙間もなく斬り立てる白刃を
「己れ、何にをッ」
「真弓殿は俺のものだ、
「え、言わして置けばッ」
半沢良平は藩中屈指の使い手、荒井千代之助は役者のように綺麗ですが、前にも言ったように、腕は藩中並ぶ者なき大なまくら、抜き合せる気力もなく、狭い真弓の室を、
「
「あれッ、堪忍して」
わななく二つの
「えッ、逃がしてなるものか」
激しく斬り下げた良平の一刀、
大なまくらでも武士は武士です。それを見ると、一刀抜く手も見せずサッと良平の腕へ||
「あッ」
ひるむところを付け入って、
気が付いて見ると、真弓の父の小田切三也、早くも
ものの
おろおろする真弓を後に、千代之助の
半沢良平は
せめてもの詫心、良平が命に賭けて恋い慕う娘を納得させて、一日も早く祝言の盃を交させようと思いましたが、真弓は、おどかしても、叱っても、
「武士の娘にあるまじき不行跡、此上は手討にして良平殿に詫をする」
父三也は刀を
良平のひたぶるに娘を慕うた心を見ると、三也もさすがに心が鈍ります。遂には娘の真弓を土蔵の中に押し込んで、半沢良平が継ぐ
その間に、荒井千代之助は堕落の淵へ
三日たたないうちに、千代之助はその師匠と落っこって、弟子達の眼を
併し、それも三月とは続きませんでした。美貌で調子の好い千代之助は、間もなく女から女へ渡り歩く一番下等で、一番卑しい生活を始めてしまったのでした。
千代之助は本当に好い男でした。
最後に千代之助は芝居者の群に身を落してしまいました。門閥のやかましい社会へ、そう
この仕事、||
その間にも女稼ぎは休んだわけではありません。あらゆる階級の、あらゆる年頃の、あらゆる女を、次から次へと漁って五年七年の後には、真弓も良平も何も
小田切三也は二年目に急病で
同時に真弓は土蔵の座敷牢から出され、当主良平が、恋人とも妹とも、
「お嬢様、
母の無い後の母の役目まで引受けて、真弓を我子のようにして居る
「乳母や、どうぞそれだけは、言わないでおくれ。よく私にも解って居るけれども、私の心持はどうにもならない」
「まだ、あの性悪の千代之助を思って在らっしゃるのでは御座いませんか」
「
「そんならば、旦那様と御一緒になっても、
老女の
「いえいえあの立派な良平様のお心持を考えると、私は涙がこぼれます||あんな気高い、立派な方と、こんなに汚れた私が
一方当主に直った良平は、真弓を妹のように愛撫して、その心持を
「余計なことを言って、真弓殿を苦しめてはいけない」
千代之助の身を持ち崩した浅ましい姿が、良平の眼に触れないでもありません。ことに、役者になって、元の名を其儘猿若町に顔を
一度、浅草の観音様の門前で、柴羽織の千代之助と避けもかわしもならず、ハタと顔を合わせたことがありました。
良平はさすがに顔色を変えましたが、次の瞬間には
千代之助は猟犬の姿を見た野兎のように、
賢いのか、寛大なのか、家祿が惜しいのか、それとも真弓の思惑を
その頃千代之助は、悪魔とも、餓鬼とも、言いようのない惨憺たる堕落振りでした。
或時は、
千代之助の淫蕩な生活は、そんなことで少しも懲りた様子はありません。唇から唇へと漁り歩く浅ましい姿は、さすがにそんな事には馴れ切っている筈の芝居者も、眼を
夏の暑い日、蓮の花の上に突き出した池の端の出逢い茶屋の奥に、千代之助はその何十人目かの女と、恋の果しもない遊戯に耽って居りました。
「ちょいと、お前さんは、もうこの私に嫌気がさしたんじゃないの」
「どうしてそんな事があるものか」
二枚目役者の千代之助は、青々として野郎頭ですが、薄化粧位はして居るらしく、上布の
「明日の朝まで
女は立膝にニジリ寄って、羽織の裾を掴みました。お
「それは言ったさ、だけど、考えて見ると、今日は二十五日だろう」
「好い加減になさいよ、考えなくたって、今日は二十五日さ、そんな事は昨年の暮、暦を買った時から解って居るじゃないの」
「弱ったねえ、二十五日は解って居るが、舞台稽古のあることをすっかり忘れて居たんだ。今度は盆狂言で、名題下のこちとらも
「何を言うのさ、お前さんなんかはどうせ
「
「ちょいと誰の罰さ畜生ッ、この
したたかに高股のあたりを
「あ、痛ッ、ッ、ッ、ひどい事をするじゃないか」
千代之助は焼火箸を当てられたように
「まア、何んと言う声だろう、聞けばお前さんは、元は侍だったって言うじゃないの、どう間違って又そんな弱いお侍が出来たんだろうねえ」
「侍だって、抓られれば痛いよ。
「呆れたねえ」
そんな事を言い乍ら、千代之助の手は羽織の紐を結んで、帰り支度を急しく運び、お梅の手は羽織の裾から、帯へ、胸へとまさぐり上げて、男の細面を
「お前さんは性悪だから、
「そんな事があるものかい」
「いえ、沢村千代之助の評判を知らないのは御本人のお前さんばかりさ、唇の手形を取られたら最後二度とお前さんに逢った女は無いって言って居るのをご存じかい」
「そんな馬鹿な」
「私は、とうとう昨夜、それを取られたんだから、もうお前さんに捨てられる番が来たんだねえ、それと知り乍ら、断わり切れなかったんだから本当に何んて馬鹿だろう」
お梅は千代之助の胸に顔を埋めて、シクシクと泣き出してしまいました。
「それは
「お前それは本当かい」
「本当にも嘘にも、私の胸は、それ、早鐘を打って、私の頬はこんなに燃えて居るじゃないか」
「嬉しいよ、私は。その言葉を、
「何んの」
二人は
一方の窓の外は池の端の人通り、夕暮を急ぐ人達の足音をうつつに聞いて、二人は時の経つのも忘れて居ります。
一足先に池の端の往来に出た千代之助は、お梅のことなどもうケロリと忘れて居りました。熟れ切った年増女の執拗な恋は、何んとなく倦怠を覚えさせないではありませんが、夕暮の池の風が||蓮の花の香ばしさを載せて顔を吹くと、そんな疲れも吹き飛んで仕舞います。
「おや」
千代之助はフト立ち止りました。
すれ違った女、それも墨染の法衣を着た若い尼法師の美しさに驚いたのです。
頭こそ青々と丸めて居りますが、柔かい眉の
墨染の法衣を着た、殊勝な姿に、なんの
千代之助の足は、
ふと尼の姿は見えなくなりました。
道は藪と木立に隠れて、一方はささやかな生垣に突き当って居ります。
「狐にやられたのかな」
そう思うと、臆病な千代之助はぞっとして、逃げ腰になりましたが、次の瞬間、
「||||」
思わず足を停めました。
眼の前、ほんの二三間先に、思いもよらぬ灯が入って、鉦の音||やがて静かに読経の声さえ聞えたのです。
見ると生垣の中は、ささやかな庵室で、灯も、鐘も、そこから漏れて来ることは間違いありません。二三間小戻りすると
忍び足で入口に近附くと、覗くまでもなく開け放した正面の仏壇に向って、美しい中音に経を誦して居るのは、池の端から付けて来た
千代之助は、泥棒猫のように入口の闇に立って、
やがて尼が立ち上るのと、
「お頼み申す」
千代之助の
「ハイ」
「
「ハイ」
深山幽谷にでも踏み込んだような、芝居がかりの声に呆気に取られたのでしょう。灯の灯先にすかすように、尼は其儘立ちすくみます。
「早速のお許しで
誰も入れとも何んとも言わないのに、千代之助は庵室の入口に腰をおろして居りました。男気が無いと見定めたからの事でしょうが、
「············」尼法師は鈍い光にすかして、黙って千代之助の顔を見詰めました。
「これは辱けない、御造作にあずかります」
そう言う千代之助は、もう庵室の中に上り込んで居りました。
相手が女でさえあれば、どんな事をしても、とがめられた事の無い千代之助はこんな時だけは、本当に素晴らしい勇者だったのです。
「何んと言う静かなことでしょう」
「············」
「お淋しくはありませんか」
「は、いいえ」
「御修業はさること乍ら、若くて美しいお方が、
「いえ、もう」
若い尼は、顔を赤らめて
「世を捨てられるまでには、いろいろの御物語もあることで御座いましょう。例えば恋とか||情けとか」
「いえいえそんなものは御座いません。私のは世を捨てたのではなくて、世に捨てられた身の上で御座います」
「ハテ、そんなに美しいお方を、捨てる世の中が憎いでは御座いませんか」
千代之助は優しく尼法師を見上げるように、ズイと膝を進めました。後ろは御仏の蓮台、退きもならず若い尼は、後ろ手に身を反らせるばかり。
不思議な空気の中に、千代之助の冒涜的な熱情は、
「私などは||」千代之助はゴックリ唾を呑み乍ら、続けました。
「||私は池の端から、
「え、えッ」
「その
「············」
「さア、もう一度世の中へ出て参りましょう。その黒髪を
千代之助の手は
「あれ、何をなさいます」
「私は何万、何千の女を見て参りました。変なことを言うようですが、世の中の女達は、私の
「············」
「何んと
千代之助の言葉は次第に熱を帯びて
「有難う御座います。そんなにまで仰しゃって下さるものを、
「ええ、それは、それは本当でしょうか」
「何んの嘘を申しましょう。けれども、今はこの通り御仏の御前に仕えて居ります。かりそめにも汚らわしい事があってはなりません。この庵の始末をして、髪を延してお後からお宿へ参りましょう」
何んとした事、美しい尼は思いの外早く珠数を捨てる気になったようです。
「有難う、私に取ってもこんな嬉しいことはありません。それではお言葉を胸に秘めて、後の日を待つとしましょう。が、たった一つ、私の言うことを聴き入れた証拠に起請を書いては下さるまいか」
千代之助は気の変らないうちにと押っかけます。
「え? 起請」
「と言っても筆で書く起請ではない。貴女の唇の紅をこの紙の上へ捺して貰いさえすれば宜いのです||」
「唇で紙へ?」
尼もさすがに驚いたようですが、気を取り直して、
「御仏に仕える私が、口紅など持って居る筈は御座いません」
「············」
千代之助もハタと
「あッ」
千代之助は、あわてて取上げましたが及びません。数十枚とも知れぬ唇の捺形とその側に記入された年号月日に忙しく目を通した尼の顔は、怒りとも蓋恥とも付かず蒼ざめてワナワナと
「見られた上は隠しても仕様が無い、御覧の通りこれは私が今までに契った女の唇を捺したもの、丁度九十九枚だけ溜りました。
千代之助は、さすがに恥入る風情に首を垂れます。それにしても、この男の美しさももう三十近い筈ですが、
「よく解りました。そんな人数に加えて下すって、百人目の満願に私の唇を所望されるのは、女冥利というもので御座いましょう。この場ですぐ捺して差上げましょう」
「口紅は」
「これに」
尼の手は側の用箪笥に入りましたが、何やら探し出すと思う間もなく、サッと宙に
「あッ」
尼の逆手に握った
「何をする」
「お待ち、私は紅が欲しかったんだ」
尼は投げ出した「百唇の譜」を拾って流るる千代之助の血潮を唇に塗ると、帳面の最後の紙へ茱萸のような二つの唇は、正に紅々と百枚目の紙に印されたのでした。
「御覧、この血で捺した私の唇、お前、見覚えがあるに相違ない」
「何?」
千代之助は、あまりの驚きに
「九十九番目のも、そうじゃない。九十八番目のも違う。九十七番目のも||」
茱萸型、
尼はバラバラと紙を
「これに相違ない、この一番最初にある唇の
「何?」押しやった帳面を取上げた千代之助は、一番目の唇形と、百番目の唇形とを比べて、痛手の外の打撃に真蒼になってしまいました。
「そんな事は無い、そんな馬鹿な事は無い」
「よく御覧、この通り頭は丸めたが、私の顔にはまだ、八年前の真弓のおもかげが残って居る筈」
「えっ」
「お前に
「············」
若い尼||真弓は、恐るる色もなく千代之助の面を指して、怨と怒りとをない交ぜた言葉を
「それの辛さに、私は髪を下して、
「嘘だ嘘だお前は真弓に相違あるまい、それは俺が負けてやろうが、この千代之助を忘れて
「いえ、違う。違う」
「いや違わぬ、俺の
「············」千代之助は手負に屈せず、よろめき乍らも美しい尼姿の真弓へ抱き附こうとします。
「さア、来いよ真弓、俺は生れてから一度も同じ女を振り返った事は無いが、今度という今度は妙にお前に心が
血だらけになった千代之助は、執念深く真弓を追い廻して、御仏の御姿までが、斑々たる血潮の汚れに染む有様、その凄まじさは云いようもありません。
「悪魔、悪魔、寄ってはいけない。百人の唇を集める為に、お前はどれほど深い罪を重ねたか解るまい、そんな大それた事を神様も仏様もお許しになる筈は無い||退け、退け、汚らわしい」
「いや、百人の唇は、たしかに集って『百唇の譜』は見事に出来上ったぞ。百人目に血潮で唇を捺したお前は、一生俺とつれ添うのも約束事だ」
「え、汚らわしい、寄るな、寄るな」
さすがに悲鳴はあげませんが、襲いかかる手負の千代之助を逃れて、聖らかな仏具を取っては投げ取っては投げ、暫らくは庵室の中に悪闘を続けました。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、さア捕えたぞ、もう逃がすことでない、こう両腕の中に抱え込むと、お前ほど美しく、お前ほど可愛らしい女は無かったことも、ようく解る||もう俺は死んでもいい俺は||」
半死半生の尼姿を膝の下に組み敷いて、妖悪な笑いが引き劈くように千代之助の口辺を横ぎります。
丁度その時でした。
ふと門口にさした人影、中の様子を見ると、飛鳥の如く飛び込んで、
「
真弓を組敷く千代之助の肩先を掴んで、庭先に叩き附けざま浴せた一刀、
「わっ」
美しい悪魔千代之助は、ものの見事に引っくり返りました。
「良平様」
「真弓殿、無事であったか」
二人は、それっきり言葉もなく、犇とばかりに手を取り合うばかりです。
真弓は髪を蓄えて、間もなく良平と祝言の盃を挙げました。千代之助はそれっきり斬られ損になってしまったことは言うまでもありません。
「百唇の譜」はその後
千代之助は唇形の
世に