「道具立てが奇抜だから話が奇抜だとは限りません。私の秘蔵の奇談は、前半だけ聞くと、あり来りの講釈種の如く平凡ですが、後半を聞くと、聊斎志異か剪灯 新話にある、一番不思議な話よりも不思議な積りです。どうぞ、途中で||何んだつまらない||なんて仰しゃらずに、最後の一句までお聴きを願います」
第三の「話の選手」増田晋 は、斯う言った調子で始めました。
「||娘心を捉えしは誰 そ||という存分にロマンチックな標題を掲げて、私の話は、いきなり享保二年の早春、江戸神田橋外の舞台に移ります」
奇談クラブの集会室は、夢見るような微光の中に、春らしく更けて行きます。
第三の「話の選手」増田
「||娘心を捉えしは
奇談クラブの集会室は、夢見るような微光の中に、春らしく更けて行きます。
桜子はふと眼を覚しました。
そんな場合によくある、襲われるような不快な心持などは
誰やら、其の辺に居る様子||。
多分小間使のお春でしょう。
桜子はそう思い乍ら、もう一度うとうとしかけましたが、夜の物が厚かったせいか、少し汗ばむような気がして、我にもあらず、
「············」
今度ははっきり人の気配を感じます。
と、娘の敏感さで、一瞬の間に眼が水の如く冴えて、異常な亢奮に、胸の鼓動が高鳴ります。
「誰?」
片肱を枕に突いて、物音のした方を屹と見ると、有明の絹
「あッ」
桜子の声は喉のうちに消えて、軽い
眼を
そのうちに、政信の絵から脱け出したのではなく、政信の描いた若衆よりも、もっと艶麗な、もっと
藤色の大振袖、曙色にぼかした精巧の袴を着けて、前半に短か刀を一本、顔は、その頃の寺小姓や色子の風俗で、薄化粧をほどこし、笹色の口紅まで差して居りますが、頭は不思議に引っ詰めた一束の下げ髪、こればかりは、全体の派手な調子と相応しません。
併し、何んとなく凄味があって、美しいうちにも、鬼気が迫ります。
「お前は、お前は何んだえ?」
桜子は
が、枕に凭れた
寝乱れた美女の、わななく姿は、得も言われない魅惑だったでしょう、怪しい若衆は、暫らく凝っと瞳を据えましたが、やがて、
「お許し下さい桜子様、お慕い申してこれまで参りました。決して怪しい者では御座いません」
と申します。
五
物の本にある狐狸の業か、それとも、
桜子はゾッと身を顫わせました。
「桜子様、深い深い因縁の結ばれた、私と
紫の雲が揺ぐように、若衆の姿は二枚折の蔭に隠れると、其の儘音もなく消えてしまいました。
護持院の暁の鐘。
桜子はゾッと襟をかき合せました。緋鹿の子を絞った長襦袢が少し崩れて、燃えるような紅の
江戸、神田橋外に一町四方の屋敷を構え、
これがまた、たった一つ
これだけ美しくなると、
父の総左衛門は、取る年と共に気があせって、いろいろ娘の心を引いて見ますが、まるで相手にしません。毎日自分の部屋に籠って、黄表紙、青表紙を読み耽り、女だてらに理窟のひとつもわかると、今日の言葉で言えば、だんだん理想が高くなって、婿の口などは、振り向いて見ようともしないのです。
日本橋の呉服問屋の次男、歌舞伎役者のように美しい上、三千両の持参金附でというのがありましたが、桜子は軽蔑し切った様子で、取り合いません。
千五百石取の旗本の弟、学問武芸何一つ暗からぬ人物が、身を落して入婿してもという話もありましたが、桜子は唯
「それではお前、公坊様でも婿にとる気か、女も
父親の総左衛門は、到頭こんな愚痴まで娘に聞かせて居ります。
「お父様、御免下さいまし。私はお金や学問や武芸を鼻にかける男は、たったそれっ切りのような気がして、どうも心に染みません。世の中には、もう少し深味のある、奥底の知れない殿御は無いもので御座いましょうか」
和漢の物の本などに眼をさらした為でしょう、桜子は何時の間にやら、素晴らしい
丁度此の時、桜子の前へ、思いがけない若衆が、申し分の無い神秘的な雰囲気をもたらして現れたのです。
最初は恐ろしさで一杯、夜が明けたら、早速父親に話して、何んとかして貰う積りでしたが、明るい陽の光の下で考えると恐ろしさは霧の如く消えてしまって、妙にやるせない物足らない心持だけが残るのでした。
そして藤色の大振袖、精巧の袴||と言った、歌舞伎芝居へ出て来るような時代めかしい
財産自慢や学問武芸自慢の男達に比べて、それは又何んという
||そんな事を考えて居るうちに、桜子は、約束した今宵が待たれるような心持にさえなり切って居りました。
そして狐狸とも妖怪とも、素姓の知れない若衆を待つ心持になった自分が
不思議な力に引き摺られて行く、娘心の
待ち疲れた心持で、何時ともなしに桜子は眠りに陥ちて居りました。
揺籃の中で眼を覚した赤ん坊のような心持で、フト眼を開いて見ると、矢張り二枚折の蔭に、藤色の大振袖を着た、美しい若衆が思案に余る風情でションボリ坐って居ります。
「あッ」
それでも軽い驚きの声が、桜子の唇を漏れます。
「お目覚めで御座いましたか桜子様」
二人はソッと顔を見合せました。
誘われるように、桜子はニッコリして、思わずハッと顔を引き緊めます。
「お帰り、お帰りッ、もう此処へ来てはいけない。大きな声を出して人を呼びますよ」
急に、娘らしい恐怖が蘇返った桜子は、床の前に起き上り乍ら、それでも低い声で斯う言いました。
こんな事を期待するともなく、今宵は帯を解いたまま、
「何を仰しゃるのです桜子様、貴女の本心は決してそんな筈は無い、ツイ先刻までは、心待ちに私を待って
「エ?」
図星を指されて、桜子は思わず顔を赧らめました。
「何も彼も存じて居ります。父上様に仰しゃろうとして思い止まった事も、小間使のお春に、側へ寝てくれと一度言い付けて、後からそれには及ばないと断ったことも||」
「エ、エ?」
「何も彼も存じて居ります、桜子様は私の来るのを、心待ちにお待ちでした」
怪しの若衆は畳ざわりも滑らかに、スルスルと差し寄って、思い乱るる桜子の膝の上へ、そっと手を置きました。
思いの外温かい手。
桜子はゾッとして身を狭めましたが、もう声を立てる気も、追い退ける気もありません。
「お話申しましょう、桜子様」
男にしては少し
三日目の晩、二人はもう隔てもなく打ち解けて居りました。
「お前の名は、何んと云うの?」
「
「まあ、何んという古風な名でしょう」
桜子は可愛らしい
「家は?」
「ツイ其処」
「というと?」
「神田橋の下」
「まア」
何んと言う他愛の無さでしょう。神田橋の下には、汚なく濁った水と、冷たい石垣としか無いのに、桜子はそれを怪しむ気さえもう無くなっていたのです。
四日目の晩。
二人は火桶を囲んで、話したり笑ったり、
五日目の晩は、床の上へ雛のように並んで坐って、肩と肩とをもたれ合せ乍ら、二人は
広い屋敷の中、暫らくは誰知る者も無かったのですが、近頃桜子の変った様子に気が付いたのは、長年側に付いて居た忠義者の小間使のお春でした。
雀の子のように朝早く起きた桜子が、近頃大変朝寝をするようになったり、一日妙にぼんやりして暮して居るのに、日が暮れると急にソワソワし始めたり、今まで必ずお春を隣の部屋に寝かしたのが、近頃疳が
勘定して来ると沢山ありますが、一番お春に心配さしたのは、桜子の寝室から、夜半過ぎになると、何やら
七日目の晩、お春は到頭辛抱し切れなくなりました。ソッと忍んで行って、昼のうちに作って置いた、障子の隙間から覗くと、何んと言うことでしょう。
床の上に桜子と押し並んで坐ったのは、見も知らぬ美しい若衆、肩と肩と、頬と頬と触れるばかりに、真紅の紐で仲
「あら、又間違えたでしょう」
「御免なさい、桜子様」
四つの白い手に、真紅の紐が蛇のように
藤色の大振袖と、緋鹿の子の長襦袢と、精巧の袴と、紅綸子の夜の物と、何んという妖しい取り合せでしょう。
お春は全く気が遠くなるようでした。
桜子の美しさは、日頃見馴れておりますが、それと寄り添う若衆の美しさも、此の世の者とも思われません。
膝と手とで歩くようにして引き揚げたお春は、その足ですぐ、主人総左衛門の寝所の障子を叩きました。
「旦那様、大変で御座います」
「何んだ騒々しい」
飛び起きた総左衛門、障子を開けると、廊下にお春はガタガタ顫えて居ります。
「何うした、お春じゃないか」
「ハイ、お嬢様のお部屋に妖しい者が||」
「馬鹿な事を言え」
「いえいえ本当で御座います。芝居へ出て来る若衆のような、それはそれは美しい男で||とても人間とは思えません」
「兎に角行って見よう、あまり騒ぐな」
廊下伝い、娘桜子の部屋の外へ来て見ると、内は
「何んだ、娘の外には誰も居ないではないか」
「ハイ」
「つまらぬ事を言いふらしてはならんぞ」
総左衛門は以っての外の不機嫌な様子で、廊下へ一歩踏み出しましたが、何を見たか、ギョッとした様子で立ち止まりました。
「お春、手燭を持って来い」
「ハイ」
自分の部屋へ飛んで行って、紙燭を持って来て見ると、廊下は斑々たる獣の足跡。
「あッ」
お春は到頭手燭を取り落して、へた張ってしまいました。
お春には固く口止めして、それとなく邸の内外を堅め、蟻の這い込む隙間も無いようにしましたが、何んの役にも立ちません。
水も垂れそうな若衆は、雨戸の隙間からでも潜り込むものか、その翌晩も、その又翌晩も、風の如く入って来て、風の如く帰ってしまいます。後に残るものと言っては、斑々たる廊下の足跡だけ。総左衛門も全く
フト思い付いたのは、護持院の役僧で、加持祈祷にすぐれて居るという評判の隆順です、日頃顔見知りのことでもある、出向いて懇々と頼み込むと、
「それはさぞ御心配、多分お濠に棲んでいる獺の
恐ろしい
その晩からやって来て、夜っぴて有難いお経を上げてくれますが、怪異は風の如く入って来て、矢張り娘の桜子と一夜睦まじく語り明かして帰ります。
屋敷の外は庭男、下男、出入の
三晩の修法も何んの
「如何なる悪魔
という見識、されば一室に護摩壇を築き、秘仏を
相生総左衛門、思案に余った揚句、最後に眼をつけたのは、神田三河町に、佐分利流の槍の道場を開いて居る、
最早五十幾歳という年配ですが、槍を取っては、当時府内に並ぶ者なしと言われた名人、何う言うものか仕官を嫌って、心
或る日稽古の暇を見はからって訪ね、初対面乍ら、恥を打ち明けて懇々と頼み込むと、二つ返事で引き受けてくれるかと思うと大違い、
「それは困った、
と言うのです。
一応尤もな言葉ですが、左様で御座いますか、では帰られません。
「
総左衛門は涙を流さんばかりに頼み込みます。
「それでは兎に角行って見ることに致そう、成否のほどは受け合い難い」
「有難う御座います」
「ところで、相手は千里を見通す怪異の仕業では、これも余計な要心かも知れぬが、念には念を入れるのが武道の
「それは心得ました」
「今夜、正
「かしこまりました。何も彼も私一人が呑み込んで御案内いたします」
「
「ハイ」
総左衛門は
享保二年正月ある夜、わけても月の美しい時分でした。
高蔵人は
奥庭へ廻って、
「御苦労様で御座います」
「シッ||」二人は其の儘廊下の闇に身を潜めました。
一刻ばかりすると、二た間三間距てて娘桜子の部屋で、何やら物の気配がします。
二人の老人は、両方から廻って、廊下の左右から詰め寄せ、娘の部屋の前で顔が合うと、
「それッ」サッと障子を開けました。
中からは大鳥が立つように、藤色の大振袖が飜ります。
「あれーッ」というのは娘の悲鳴。
怪物は主人総左衛門を突き飛ばして、廊下へ真っ直ぐに逃げ出し、勝手口の大
後ろからは、
「
退路を絶たれて、元の廊下へ帰った振袖姿は、先刻高蔵人が入り込んだ雨戸が、僅かに閉め残して居るのを見付けて、
「己れッ、逃がすものか」年は取っても、武術で鍛錬した高蔵人、続いて手槍を構えたまま庭へ跳びます。
「あれ、父上様」
桜子は部屋から
大振袖を着た怪物は、月下の庭を突っ切って、隣の護持院の
言うまでも無く護持院というのは、将軍綱吉の生母、桂昌院の
怪異は真一文字にその境内に飛び込んだのですから、追い縋って来た高蔵人も驚きました。
併し、脅しや冗談でやって来たわけでは無く、相手は妖怪変化ですから、お寺の境内であったところで、此のまま見のがして引き返すわけにも参りません。
尤もその頃は綱吉も桂昌院も死んで、さしもの護持院もすっかり勢力を失い、綱吉に
「己れッ、変化待てッ」
暫らくは木立を潜り、石灯籠を小楯に取り、縦横無尽に逃げ廻って居た怪物も、到頭高蔵人の鋭い槍先に追い詰められ、門前の鐘楼目がけて、バタバタと駆け登ってしまいました。
鐘楼と言ったところで、これも型ばかり、去年の秋の嵐に半ば崩されて、大釣鐘も落ちかかって居るような有様、其処へ藤色の大振袖を飜した怪異が、笹穂の手槍に追われて、三、四回ぐるぐると繞るうち、逃げ場を失って、落ちかかって居る鐘の下へ、パッと飛び込んでしまいました。
アッと言う間もありません。
鐘楼は一とたまりも無く崩れて、釣鐘は怪異の上へガバと落ちてしまいました。鐘に心あっての事か、兎に角、不思議な廻り合せです。
その内に、夜中乍ら多勢の者が騒ぎを聞いて駆け付けます。
息せき切って飛んで来た相生総左衛門も、此の様子には全く仰天してしまいました。
「先生、如何で御座いました」
「お、御主人か、
「して、あの正体は?」
「今にわかる、御覧下され」
一歩下って、鐘を見込んだまま、皆朱の手槍を流儀に構えました。
傾きかかる月を受けて、高蔵人の引き緊った顔の半面と、笹穂の
「エーッ」
と一喝。
電光の如く槍をくり出すと、鐘楼の上に伏せられた鐘は僅かに
鐘は
引き抜くと穂先にはベットリ血汐。
「手応は充分、大急ぎで鐘を起して貰い度い」
高蔵人は、血染の手槍を毘沙門突に斯う言います。
相生家の小者が多勢たかって、漸く鐘を引き倒したのは、かれこれ
人間に化けた怪異は、陽に照されれば本来の姿を現すと言いますが、不思議なことにこれは、昇る朝日に赤々と照されても、狸にも獺にもなりません。少し物足らない心持で、苦痛に引き歪められた若衆の顔を見て居る内に、
「どうも見た事のある面だ」
などと言い出す者があります。
段々調べて見ると、見たことがあるも無いもありません。相生家に久しく仕えた
「やァ、お前は綾吉じゃないか、何んと言う変な風をするんだ」
雇人達は大変な騒ぎ。
怪異と思ったのが人間で、しかも自分の家の奉公人では、相生総左衛門が黙って居るわけに行きません。鐘ごと突いた高蔵人も、何んか裏切られでもしたような心持。
「これこれ内密に調べることがある、お前達は皆んな遠慮するがいい」
総左衛門の声が掛ると、雇人小者達は悉く鐘楼を降りましたが、それでも燃えさかるような好奇心に、左まで遠くへも行かず、遠巻にしたままで下から眺めて居ります。
「
高蔵人は、差し寄って抱き起こしました。脇腹をえぐられて居りますから、傷は浅いが急所で、とても助かる見込はありません。
「ハイ」
「何んと言う事を
苦痛に打ち顫う綾吉の肩に手を掛けた主人の総左衛門は、今更乍ら愚痴めかしくなります。
「旦那様、この藤色の振袖に見覚えはありませんか」
「何?」
手負が不意に妙な事を言い出すので、総左衛門も思わずギョッとしました。朝陽を
「これは母の形見、私に取っては、思い出の深い振袖で御座います。」
「············」
手負は僅かに身を動かして、懐かしそうに肩から袖へ、朝陽の淀む自分の振袖を眺め廻しました。
「母はこの振袖を身に着けて、旦那様のお情けを頂きました」
「何、何?」
「もう三十年も前の話||、旦那様はとうにお忘れかもわかりませんが、一生に一度の恋をして、破れ草履のように捨てられた私の母は、それを怨み続けて亡くなったので御座います」
総左衛門は崩折れるように、引き倒された釣鐘に凭れました。犇々と思い当る様子||、そう言われると、藤色の大振袖を着た三十年前の恋人の姿が、まざまざと老の眼の底に蘇返って来ます。
「門前の長屋に住んだ貧乏な仕立屋の娘お蝶、美しくも可愛らしくもあった相ですが、相生長者の跡取息子と思い思われて、一時はどんなに喜んだことでしょう。親にせがんで、藤色の大振袖を
「············」
「母の歎きはどの様に深かったか、捨てた男には思いも及びません。親達にそれ見た事かと言われるのも辛く、世間の人に顔を見られるのは尚お浅ましい、到頭家出をして了って、せめて相生長者を見返すような男をと、二度目に契ったのは、金も家も無いが、その代り器量だけは人並すぐれて立派な浪人者でした。間もなく生れたのは此の私||」
長物語に綾吉の苦痛は募る様子、我にもあらず、高蔵人の膝に縋ってホッと熱い息を吐きました。が、言うだけ言わなければと言った勇猛心に促がされて、次第に死の色の濃くなり行く顔を
「夫の浪人者は、武術修業の為と言って家を出たっ切り、三年経っても五年経っても帰りません。可哀想な母親は、二度目の男にも捨てられてしまったのです。それから気が変になって此の振袖を抱いたまま、怨み続けて死んでしまいました」
「············」
「その忘れ形見の私が、素姓を包んで相生長者の屋敷へ住み込んだのは、言うまでも無い母の怨みを報ゆる為、||何うしたら腹の虫が
身につまされたか、総左衛門も、今は顔を挙げる気力もありません。鐘楼を取り巻く雇人小者達は、深い仔細は知らず、朝陽の中に描き出された、この劇的情景を何時までも見詰めております。
「桜子様はあの通りの変った気質、金にも器量にも、武芸にも心を
「············」
「お嬢様はもう、昔々旦那様から、身分違いと言って捨てられた者の子の種を宿しました。これで、母の怨みは報いたも同じこと||、それに、私の怨みも、何時の間にやら恋心に変って、今ではお嬢様を心からいとしいと思うようになりました。殺されても、もう惜い命では無い||」
綾吉の話は其処でプツリと切れました。折から、鐘楼の段々を、取り乱した姿で、美しい桜子が駆け登って来たのです。
「綾麿様」
高蔵人の膝から抱き起こすように、男を引き寄せて、頬と頬を、娘の涙は
「桜子様、私は厩番の綾吉||」
「それも聴かぬではないが、私の為には矢張り綾麿様、お前をこんな目に遭わせて、何んという人達だろう、私も一緒に死んで上げるから、堪忍しや||」
綾吉の腰から、脇差を抜いて、あわや自分の喉笛へ突き立てようとするのを、高蔵人が危うく支えて、
「お待ちなされ娘御、死なねばならぬのは此の高蔵人であった」
其の儘ズバリと自分の腹へ突き立てます。
「あッ、何故の生害」
驚きふためいて止める総左衛門を、左の手に払い退けて、
「お蝶を捨てて武芸修業に出たという此の者の父親は拙者だ」
「エッ」
「綾吉、許してくれ、若気の至り、高名栄達にあこがれて、お前と母親を捨てた罪は免れようが無い、二十年目に酬いられて、武芸自慢の槍先で自分の子を殺したのだ」
「父上」
綾吉は必死の苦痛を堪えて、右手を桜子に任せたまま、左に父親を探り寄りました。
「綾吉、この脇差は、お前の母へやった、形見の品だ、父子が斯うしてめぐり逢うのも
最早息も絶々の我が子を掻き寄せ乍ら、右手にキリキリと脇差を引き廻します。
朝陽はすっかり昇り切って、鐘楼の上の凄惨な情景を、明る過ぎるほど明るく照しました。
× ×
「私の話はこれで終りました」
第三の話の選手、増田晋は斯う言って軽く一揖しました。
「護持院は、その翌る日の大火に焼け落ちて、七珍八宝は言うまでもなく、将軍綱吉の書いた額も烏有に帰し、その後大塚の護国寺に併せられて、形ばかり残って居ります。時の人々は、鐘楼に血を流した呪いの為ではないかと取沙汰したそうです。
桜子は無事に男の子を生み落し、その養育に一生を捧げました。何を隠しましょう、かく申す私は、その血を引く子孫の一人で、増田というのは綾吉の姓になって居ります。
高蔵人が手槍で貫いた釣鐘は、音が悪くなったのと、血潮の呪いがかかったので、間もなく鋳潰されてしまいました。武道の語り草に、これは保存して置きたかったものです」