「女は全く謎の塊のようなものですね」
奇談クラブの談話室||例の海の底のような幽幻な光の中で、第四番目の話の選手、望月晃は斯う始めました。
それは、十三人の会員達の度胆を抜く為に用意された、奇抜な序奏 と言うよりは、寧ろ話し手の腹の底から沁み出して来たやるせない述懐の言葉らしく響くのでした。
「私は大変な経験をして了いました。生涯忘れることの出来ない不愉快な記憶が、私の良心の上に、重大な軛 を置いてしまったのです。勿論、採るべき手段は残るところなく採り、話すべきところへは、全部話して見ましたが、事件があまりに常識を飛び離れて居るので、誰も相手にしてくれません。この上私の経験した事を話して歩くと、気違い扱いを受けるかも知れないような、極めて危険な立場にさえあるのです」
望月晃は、甚だ心外らしく肩をそびやかし乍ら、斯う言った調子で話を進めて行きました。
年の頃は三十二、三、若くて、美男で、雑貨の輸出入業を相当にやって居る人物ですから、固 より此の人が気違いなどであるべき筈はありません。
奇談クラブの談話室||例の海の底のような幽幻な光の中で、第四番目の話の選手、望月晃は斯う始めました。
それは、十三人の会員達の度胆を抜く為に用意された、奇抜な
「私は大変な経験をして了いました。生涯忘れることの出来ない不愉快な記憶が、私の良心の上に、重大な
望月晃は、甚だ心外らしく肩をそびやかし乍ら、斯う言った調子で話を進めて行きました。
年の頃は三十二、三、若くて、美男で、雑貨の輸出入業を相当にやって居る人物ですから、
ある晩十一時頃、私は日本ビルディングの屋上庭園を散歩して居りました。
これは私の癖の一つで、夜更けまで仕事をすると、一度は屋上庭園へ出て、夜の大都の景色を眺め乍ら、いくらか清らかな空気を吸わなければ我慢が出来なかったのです。
尤も、私と丸茂三郎と二人で経営して居る貿易商会は、このビルディングの八階を二た間占領して居たせいもあったでしょう。エレベーターの後ろへ廻って、厳重な
その日は意地悪く船が入って、急ぎの仕事は山ほど
屋上庭園へ出ると、春の夜の外気は恋人の呼吸のように
うろ覚えの
「あッ」
私は思わず飛び付きました。
胸壁に凭れて居た女は、私の姿を見ると、いきなり上半身を折り曲げて、九十尺下のペーヴメントへ身を投げようとしたのです。
「危ないッ、何んと言う不心得な||。こんな所から飛び降りたら、踏み潰した蛙のようになるじゃないか」
千切れ千切れの言葉が、私の唇から漏れて、両手は荒々しく女の身体を、胸壁から引っ剥しました。
女は少し身を揉みましたが、それも争う程度ではありません。芝居や物語にあるように、「死なして」とも「殺して」とも言わず、そのままクネクネと身体を預けて、私の
何んと言う異な心持でしょう。
妙に意地を立てて、この年になるまで独身を通して来た私は、若い女の冷たい前髪を胸に埋められて、暫らくは途方に暮れてしまったのです。
「どうしたと言うのです。話して御覧なさい||、私で出来ることなら相談にも乗りましょう。世の中に死ぬ程困るという事件は、そんなに沢山あるものじゃない||」
それでも、こんな月並な慰めの言葉が私の心持を裏切って、私の唇からお座なりらしく出て来るのでした。
「私は何うしたら宜いでしょう」
女は初めて口を切りました。
私の胸から離れて恥らう風情に俯向くと、美しい額から、少し高い鼻筋が、青白い月の光に浮いて、一種言うに言われぬ悩ましい心持を描いて行きます。
ウエーヴの跡の少しばかり残る髪、身だしなみは良いが、少し
「一体、何うなすったんです」
「私は心細かったんです」
「と言うと」
「身寄りも、お友達も何んにもありませんし、第一私は職業も無くしてしまったんです」
「そんな事なら、死ぬには及ばないでしょう」
近頃世の中を風靡して居る職業難が、この異常に美しい娘からも、パンを奪ったのでしょう。
「でも、私には、此の先何うして宜いかわからなかったんです」
「貴方は今まで何をして居ました」
「タイプライターを少し」
「英文ですか、和文ですか」
「英文の方で御座います」
「それなら丁度良い
「え? 本当ですか」
女の声は、蘇がえったように活々と響きました。
「一応私の店の共同経営者に話す必要はあるが、||文句は無いでしょう。どうせ要るタイピストなんだから」
二人は話し乍ら、八階に通ずる
「あッ、これはいけない」
「何うしたのでしょう?」
「締め出しを食わされた」
「エッ」
「小使が廻って来て、何時の間にか差掛屋根の扉を内から締めて行ったんです。屋上庭園に、人間が居るとは気が付かなかったでしょう」
「何うしましょう」
二人は、呆然として、厳重に
十二時になると、此のビルディングのすべての入口は鎖され、帰るべき人は帰り、留まるべき人はベッドに入ることになって居たのです。差掛屋根の直ぐ下には、エレベーターがある筈ですが、これは十一時に運転を中止して、エレベーター・ボーイはさっさと引き揚げますから、差掛屋根の鉄の扉を叩いた位では、誰も地下室の小使部屋まで報告してくれる筈もなく、第一この八階の数十室に、今頃まで踏み止まって居る者は一人もある筈は無かったのです。
そうかと言って、胸壁に乗り出して、九十尺下の往来を通る人に、救いを求めることなどは思いもよりません。喉の割れそうな大きな声を出したら、深夜のことでもあり、一人や二人気が付いてくれる人もあるでしょうが、気違い扱いにされたり警察沙汰になったりしては、若い婦人と一緒なだけ、恥を天下に曝すようなものです。
二人は無言のうちに、お互の心持を呑み込んで居りました。
「何うしたものでしょう」
「仕方がありませんワ」
思いの外蟠りの無い女の言葉は、それでも私の心持を軽くしてくれます。
温室の扉には、幸い締りがありません。二人は兎に角其処へ入って、電灯を点けて、有り合せの木造の台の上に押し並びました。
明るい電灯の下で顔を見合せて、私はもう一度驚きを新たにしました。この女の美しさは、全く法外です。
第一、その悩殺的な媚態が容易ではありません。顔の表情にいくらか知識的なところもありますが、珍らしく
これが、今死のうとした女だったでしょうか||。
あまりの事に私は、
「お名前は」
斯う言うのがやっとでした。
「香川礼子」
「お国は?」
「東京、それもツイ其の辺です」
日本橋あたりの灯の海を指し乍ら、自分でも可笑しかったか、ニッコリ首をかしげます。
「僕は此のビルディングの八階に事務所を持って居る||」
名乗りかけるのを押えて、
「存じて居ますワ。望月晃さんと仰しゃるのでしょう」
「あッ、それを知って居るのですか」
「エエ」
女はもう一度ニッコリ首をかしげます。
何んと言うことでしょう。私はすっかり面くらって、何が何やら解らなくなってしまいました。
「電灯を消しましょうか」
暫らく経って礼子は、斯んな事を言い出します。
「エ?」
「斯うして居るところを、外から見られると極りが悪いでしょう」
両の
「何処から見えるもんですか。此処より高い建物は、あんなに離れて居る丸ビルより外には無いんです。飛行機で見下せば別だが||」
電灯を消して、この素晴らしい美しさを、元の
「でも||」
礼子はそう言って立ち上りました。少し高い背が、舞姫のような美しいポーズになると、右の腕が美しい
「何んて暗いんでしょう。||黙って居ると、気味が悪くなりますね。街の遠音の中へ、引き入れられるような||」
「だから電灯を
「イエイエ私は矢張り此の方が宜いんです。万一、こんなところを見られたら、弁解の仕ようがありませんもの」
「············」
「でも、怖いわねエ、熱帯植物の、強い香気のせいでしょうか、それとも||」
礼子の軟かい両手は、何時の間にやら私の膝の上に載って、若い血潮のほの匂う頬が、近々と私の唇のあたりに感じます。
何んと言う女でしょう。
私はそッと身を反らせました。
温室の中で、朝の爽やかな光に照し出された、二人の気まずさは申すまでもありません。それでも、小使が
共同経営者の丸茂三郎は、私より十五、六も年上で、相当
こんなに美しくて、こんなに技倆の優秀なタイピストは、丸ノ内界隈にも、全く三人とは無いでしょう。
翌る日から、香川礼子は私共の事務所へ通勤しました。きまり切った手続きで、戸籍謄本も取り、保証人も立てさせましたが、近い身寄が無いと言うだけで、身許にも、素行にも、少しの欠点もありません。
唯困ったことは、恐ろしいムラ気で、或る時は、はしゃぎ切って、殆んど狂気の沙汰かと思うほど媚態を尽しますが、或る時は、修道院の尼さんのように真面目臭って、何んと言われても、ろくに口も利かないような事もあります。
併し私との交情は、日に益し
ところで、それと同時に香川礼子は、共同経営者の丸茂三郎に対しても、決してつれなくは無かった事です。二人の関係はどれだけ進んで居たかわかりませんが、兎に角、私が外の用事で早帰りなどをした時、丸茂三郎と香川礼子と、たった二人だけ、事務所に夜更けまで居ることが、一回ならず、二回ならず、かなり
そのうちに、香川礼子の
その費用のうちの半分、どうかしたら三分の一位は、私の
私と礼子はよく
「香川さん遊びに行こうか」
「え、どうぞ」
仕事を終る前から打ち合せて置いて、二人はビルディングの玄関から円タクを招ぶこともあり、どうかすると、
「何時ものところで」
「············」
それだけで意味が通じて、銀座の「カフェー・エロス」の別室で落ち合うことなどもありました。それにしても礼子は、何んと言う魅惑的な、素晴らしい恋人だったでしょう。
不思議な事件は、その頃から私を悩ませ始めました。
或る晩、カフェー・エロスで散々遊んだ二人が、銀座の往来へ出たのはやがて九時半頃だったでしょう。渋谷のアパートへ帰る礼子を、有楽町から省線電車に乗せて、私だけ一人、フト思い出すことがあって、日本ビルディングの事務所へ引き返して見ました。
八階でエレベーターを降りて、自分の事務室の方へ一歩踏み出した私は、
「あッ」
驚いた事に、ツイ今しがた有楽町駅から省線電車に乗るところまで見定めて来た礼子が、私の事務室の扉を開けて、いとも静かに出て来たのです。
これが驚かずに居られましょうか。
私は釘付けになったように、物をも言わずに見て居ると早くも私の顔を見た礼子は、エレベーターに乗るのを止して、その後ろの
「香川さん香川さん」
呼んで見ましたが、元より返事をする筈もありません。私も一緒に||と一と足屋上庭園の砂利を踏みましたが、思い直して差掛屋根の中へ戻ると、扉を閉めて、幸い鍵穴に差し込んだ儘になって居る鍵をピンと廻してしまいました。
いつぞやの晩のように、あれで礼子は完全に屋上庭園の捕虜になってしまった訳です。あと二時間経って、小使が最後の見廻りに来る時でなければ、此の扉を開けてくれる者は、先ず絶対に無いものと言っても宜いでしょう。
私は嫉妬ですっかり眼が
私と婚約||互の口約束ではあるが||までした礼子の部屋を探して、動きの取れぬ証拠が手に入れたかったのです。時々私の耳へ入って来る社員達の蔭口のように、礼子が本当に私と丸茂とを、同じように色仕掛で綾なして居るとしたならば、私は考え直さなければなりません。
アパートへ飛び込んで、よく知って居る礼子の部屋の前に立つと、中には明かに人の気配があります。試みにノックすると、
「ハイ、
気軽に答えて中から扉を開けたのは、
あ、何んとした事でしょう。先刻有楽町の停車場で別れたばかりの、正真正銘の、紛れも間違いもない香川礼子自身だったのです。
「あッ」
私はもう一度呆気に取られて立ちすくみました。
先刻事務室から出て来て、屋上庭園へ消えたのも、誰が何んと言っても香川礼子に相違ありません。エレベーターの前の明るい電灯の下で、三間とも距たって居ないところで見たのですから、疑い度くとも疑いようは無かったのです。
「まア、何うなすったのでしょう。私も今着いたばかりよ||」
成程見ると先刻の服装を其の儘、まだ手袋も帽子も取っては居ません。
「ホホホ、ホ、ホ、ホ、何うなさいまして? まあ、中へお入り下さいな、人に見られると変ですから、もう、十時半になりますワ」
歓迎するのか、帰って欲しいのか、聴きようによっては、
「香川さんは今し方ビルディングの事務所へ行きはしなかったろうか」
私は中へ入って、粗末な長椅子の上へ並んで掛けると、第一番に斯う聞かなければなりませんでした。
「あら、何を仰しゃるんでしょう。私は有楽町から真っ直ぐに来て、いま此処へ入ったばかりじゃありませんか、何うかなすって?」
「いや、なに||」
私は爪を噛みました。此の不思議を何う解けば宜いのでしょう。礼子の言葉を信用すれば、一人の女が同時に二ヶ所に、完全に存在したことになります。
「可怪いなア、俺はたしかに、エレベーターの前で君を見たんだ」
「まだあんな事を言ってらっしゃる。サア、ヴェルモットでも差し上げましょう。甘くてお嫌?||今晩は全くどうかなすって入らっしゃるワ」
「僕は間違える筈は無い」
「嫌、もうそんな気味の悪いことを仰しゃっちゃ。私は一人此処に居さえすれば、それで宜いではありませんか。ね」
「············」
「今晩は、此処へ泊って下さいな。宜いでしょう。私、気味が悪いんですもの、変な事ばかり仰しゃるから」
礼子は帽子と手袋をかなぐり捨てて、意気な訪問着のまま私の身体へ全身的に凭れて来るのでした。
部屋の調度の粗末なのに似ず、身の廻りの素晴らしさ、この半分は私が買ってやったにしても、あとは何うして手に入れたでしょう。全くこの女は「謎の塊」そのものでした。
それにしても、この美しさはどうでしょう。私は暫らく女のなすが儘に任せて、その気違い染みた愛撫を、存分に受け容れました。
此の女の持って居る滴るような媚態や、溶け入るような魅力は人業の意力の抵抗を超越した悪魔の誘惑です。この女の豊麗な愛の技術の前には、鉄壁も飴の如くにとろけてしまった事でしょう。まして私のような独身の若い男が||。
翌る朝、ビルディングの八階へ行った私は、先ずその黒山の人間と、物々しい騒ぎに度胆を抜かれて了いました。
「あッ、望月さん、大変な事が起こりました。朝っから何べんお宅へ電話を掛けても、一向訳がわからないんで閉口しました」
というのはあのビルディングの管理者です。
「一体何うしたんです」
「丸茂さんが殺されたんです」
「エッ」
私は人垣を分けて、自分達の部屋へ飛び込みました。
「あッ、入っちゃいかん。コラ」
噛み付くように押し戻す警官へ、
「その方は、この事務所の御主人です。亡くなった丸茂さんの共同経営者です」
早くも私の顔を見付けた社員の一人が、そう言って弁解してくれます。
「何んだ、それでは大事な証人だ、入って下さい」
そう言われなくとも、私はもう惨憺たる部屋の中へ入り込んで居りました。
この
兇器は極めて鋭利な女持の短刀、柄に
傷は後頭部に一つだけ、絶対に致命的なもので、兇行の推定時間は、昨夜十二時前後、それより早くは無いということでした。
四囲の事情から、事業の共同経営者たる私が一番先に疑われました。併し、取りしらべの結果、仕事の上には少しの疑点もなく、反って丸茂の方に多少私に知られ度くない事があった有様で、私にかかる疑いは次第に薄らいで行きました。
それに私は、完全な
次に、社員全部、一人一人調べられましたが、疑わしいのは一人もありません。
最後に残ったのは、香川礼子でしたが、あれは、非常に悪いことが沢山あります。第一は、死んだ丸茂が私と張り合って礼子を追い廻し、礼子も相当色っぽい様子を見せて居たと言うことが、社員達の口から証明されたことで、もう一つは、ウイスキーの瓶や、短刀の柄に、礼子の指紋||いや礼子のと極めて紛らわしい指紋がベタ一面にあった事、最後の一つは、昨晩小使が最後の戸締りを見に来た時、屋上庭園に一人の女が閉め出されて居て、扉を開けてやると、物をも言わずに馳け込んだが、どうも、此の室へ入ったらしいという陳述です。時間は十二時少し前、小使の不確かな記憶ではあるが、その女の様子は、どうも香川礼子にそっくりであったと、念入りにも蛇足まで添えました。
礼子に対する疑いは、非常に濃厚になりましたが、併し、それも砂上の楼閣で、十時十分から今朝まで私と一緒に渋谷のアパートに居たことは、アパートの番人もよく知って、居りますから、此処にも上等過ぎるほど上等の
さて、この辺の事情を詳しくお話すると、まことに面白いのですが、これは探偵小説ではありませんから、大急ぎで最後の結着だけを申し上げます。
一と口に言えば、これほど証拠が揃って居るのに、此の事件は到頭犯人は挙らなかったのです。「ビルディングの殺人事件」として、皆様の中には、未だ記憶して居られる方も少なくないでしょう。
私と香川礼子の間は、此の血腥さい事件を転機として、妙にこじれて、
私は、礼子に双生児の姉妹がありはしないか||という疑いを、かなり根強く持って居ました。併しタイピストとして採用の時出した戸籍謄本にも、そんなものは無く、渋谷のアパートにも、二人住んで居る形跡は絶対にありません。
第一、いくら
私は全く途方に暮れました。一方は私の新しい恋人||今は少し熱がさめかけたにしても、未練は充分過ぎるほどありますが、一方、十年来共同に事業を経営して、互に援け合って来た丸茂三郎にも義理があります。疑いが無ければ文句はありませんが、腹の底に妙なこだわりを持って、そのままにして置くことは、私の性分としては出来ないことだったのです。
「俺は此の上我慢が出来ない。礼子さん、さア何も彼も話してくれ」
或る晩、全部の社員を帰してしまってから、礼子一人だけ事務所に残して置いて、私の疑いを全部ぶちまけて、本人の弁解を求めたのです。
その為に私は、この素晴らしい造化の傑作を恋人として失うかも知れません。併し疑問と
「俺のこの恐ろしい疑いを何んとかしてくれ、丸茂三郎を誰が殺したんだ。そして、礼子さんの身体が、同時に二箇所に現れたのは、何ういうわけなんだ。さア、隠さずに皆んな話してくれ」
私は本当に果し眼で女に迫りました。
間に
「············」
「此処に丁度丸茂三郎が掛けて居た椅子がある。||あの中に
私の指は部屋の一方に据えた
「ホ、ホホホホ、まア、私に殺したって白状させる積りらしいワね」
「············」
明るい電灯の下に、その豊麗な顔を振り仰ぎました。
「だけど、何時までも気をもませるのもお気の毒だから、思い切って白状して上げるワ」
「何?」
次第にぞんざいになる言葉の奥に潜んだ恐ろしい意味は、頭から冷水を注ぎかけたように私の身体を粟立たせます。
「その前に、今まで可愛がって頂いたお礼に、教えて上げる事があるワ。||丸茂が生きて居たら、一年経たない内に、この商会に持って居る貴方の権利がフイになる事に気が付きませんでした? まア、何んてお坊っちゃんでしょう。私と最初に逢った晩、
そう言えば、丸茂三郎が死んだ後、私は帳簿の上に幾多の恐ろしい疑問を見ましたが、そこまでは
「丸茂はどんなに悪党か、貴方は何んにも御存じ無いんだワ。あの男は今から十五、六年前、或る未亡人に取り入って、その財産をすっかり横領した上、切れた靴下のように捨ててしまった事があるんです||気の毒なことに未亡人は、丸茂の薄情と冷酷を呪い続けて、間もなく自殺してしまいました。後に残された娘が、乞食の子のように卑しめられ乍ら、血と涙のにじむような奮闘を続けて、自分の才能と美しさで、何うやら彼うやら成人したとしたら、丸茂に対して、何んな事をしたら宜いでしょう」
話は急にしんみりして、振り仰いだ礼子の眼にも、真珠のような涙が光ります。
「それでは矢張り||」
「え、丸茂はたしかに私が殺しました。丸茂に虐げられて自殺した未亡人というのは、外ならぬ私の母親だったのです」
予期した事ではあるが、恐ろしい圧迫感が、私を息詰まらせてしまいました。
暫らく二人は、緊張し切った心持で顔を見合せました。夜の街の遠音が浪の音のように背後に迫って、ビルディングの中は荒涼として更けて行きます。
「渋谷のアパートに居た君が、どうして丸ノ内のビルディングへ行って、丸茂を殺したんだ||そんな事はあり得ない事だ。それから俺はこの眼で、二人の礼子さんが同時に存在したことを見て居る。あれは何う言うわけだ。||一人は多分君の双生児の妹か何んかだろう」
勢い込んで言う私の言葉を、礼子は面白そうに聞いて居りましたが、やがて、
「随分常識的な解釈ね。だけど、違ってるワ。私には双生児の妹なんか無い||」
「すると」
「分身術よ」
「え?」
「昔の人は
あまりの奇怪な話に、私は多分口を開けたまま聴いて居たでしょう。
「ホ、ホ、ホホ、まア、何んてお顔でしょう。私はこの分身術を行って、本当の私は恋しい貴方の側に、影法師の私は、憎らしい丸茂を附け狙って居たんです。それだけの事よ。||さア、警察へ届けて入らっしゃい。警察が分身術や生霊を信用するか何うか、全く面白い問題だわ」
「············」
「私は最初、丸茂を狙う道具に貴方を使ったけれど、お仕舞いには心から貴方を愛するようになってしまったワ。だけど、斯うなっては私達の愛もお仕舞いネ。ちょいと、素晴らしいカタストローフじゃなくって?」
礼子はスラリと立ち上りました。
「お待ち、もう少し話がある」
追いすがる私に意味の深い
「左様なら、望月さん、永久に||」
「お待ち」
私は卓を乗り越えるように、外から閉された扉に飛び付きました。
気違い染みた焦躁に追い立てられて、扉はなかなか開きません。
漸く外へ出ると、礼子の影も形もなく、折柄エレベーターが八階へ着いたばかりで、その網扉を私の前へ開けました。飛び乗るように、
「早く早く」
と急かせると、私とボーイだけ乗っけたエレベーターは、七階へ||六階へ||勢いよく降りましたが、丁度それは五階と六階の間に来た頃、何うした事か、ピタリと停まってしまいました。
「あッ、誰か上で扉を開けた奴がある」
エレベーターボーイはいまいましそうに、
「閉めろ、扉を閉めろ」
と怒鳴りましたが、深夜のビルディングの中に
折柄、朗らかな伊太利の小唄||、夜のビルディングの空気に、遠慮もなく美しいメツオ・ソプラノを響かせて、上の方から香川礼子が降りて来たのです。
「左様なら、檻の熊さん、ちょいと面白い冗談でしょう。||もうお目にかからないワ」
「礼子、礼子」
エレベーターとすれすれに、悠々と階段を下り行く美しい礼子の姿を見送って、私は意久地なくもエレベーターの床に崩折れてしまいました。
× ×
望月晃は、最後に斯う附け加えます。
「私の良心の苦しみと、燃えるような愛の悩みを残して、香川礼子は永久に姿を隠してしまいました。分身術の秘密は知る由もありませんが、精神科学、特に催眠術が進歩したら、この謎も自然解ける折があるでしょう」