「食えない者は、誰でもおれに
かんかん虫のトム公は、領土の人民を見廻るように、時々、自分の住んでいるイロハ長屋の
彼は、貧民街の同胞たちから、長屋のプリンスの如く人気があった。事こころざしと違って、二年や三年食いはぐれて見ても、外国のようで日本のようで、
「おじさん、労働したことがないって言ったね」
「まったく経験がないんです、勤人なんてものは、
「
「助かりますよ、今日から仕事があれば。||だが、僕にできますかな」
「のみこんでるよ」
「一つ、よろしく」
「だが、おじさん、帽子の縁を、鼻まで引ッ張ったり、女が来ると、下を向くのだけはよしねえ」
今朝の彼の同伴者は、イロハ長屋へ落ちて来てからまだ間のない四十前後のよく肥ったカイゼル
十四のトム公は、生活力をスリ
彼のいちばんお
「きょうは百二十人、百二十人」
前のめし屋のランプの影から、やがて二、三人
しかし、三分の一は、ハネをくって帰った。落伍者はたいがい労働にたえそうもない病人や老人だった。ほかへ行っても、ハジかれる率の多い者にきまっていた。
トム公には、あぶれて帰る人たちの執着がわかった。大人になったら、おれはかんかん虫の指揮者になりたい、病人や老人はあぶれさせないようにしてやる、と彼はポケットの中で握り拳を固くした。
「親方」
「なんだ、トム」
「この人をたのむよ」
「ほ、お髯さんか。立派なもんだな」
「官員さんだもの」
トムは顔が利く。お髯さんは処女みたいに顔を赤くした。まったく彼が着て来た失業前の
かんかん虫とは、星の夜に、秋草の蔭で、しおらしい美音をまろばすあの
トム公は、ほかのくろんぼ連と一緒に、七千トンの
その中をキョロキョロしながら、
「オーイ、おじさん」
あの立派な
「おじさーん。亀田さーん」
亀田は、別人のようになって、これもうろうろトム公を探していた。一等
「ここにいます」
「上がっていたのか」
「弁当を食べようと思って」
「そこはいけねえ、外国船の
「え、いけませんか」
小心そうに、亀田の大きな体がそこのブリッジを降りかけて来た時だった。ふとうしろから、茶色の丸ッこい動物が、彼の肩を越えて、上の
それと共に、一つの船室から、ハイヒールのあわただしく
「あれ! たれか、あれを捕えて下さい」
亀田の肩をたたいた。泣き出しそうな声だった。
彼の眼は、受令的に、船橋を
幾つもの扉が一時に押された。赤い顔や、のッぽや、デブが溢れ出して、亀田は早口な外語と葉巻くさい体臭に取り巻かれた。彼は、あわてて下甲板へ降りた。
「
「なんだ、あの女は」
「らしゃめん」
「芸者」
「いや、奥様に、お嬢様」
「わかるもんか」
「年増がいいな」
「おれは、若い方がいい」
「いや丸っこ過ぎる」
職工たちの無遠慮な眼や指が、わいわいと騒いでいた。
年上の婦人は、洋装だった。着こなしが肌につきすぎて、粋というのもおかしいが、
だが、ふたりとも衆目もなく、
「たれか、早くあれを!」
「たれか、取って来て」
「私のオペラバッグです、あの中には、大事な物ばかり、はいってるんですから」
彼女らの指につれて、人々は、
「猿だ」
「インド猿!」
「うまくやったぞ、オペラバッグを
「お
ワーッと
二人の水夫が、見事な速度で、
「誰か捕まえて下さい、いいえ、あのオペラバッグを取って下さい、あれを
婦人は、金持臭い哀命をふり
飛んでもない
「飼主は誰ですか!」
婦人の眼は、ヒステリカルに周囲を物色した。
「あの猿は、船のですか、それとも、誰か飼主があるんですか」
飼主は一等船客の外人だった。彼は、日本婦人の
「猿を買います!
飼主は、やや日本語がわかるとみえて、ひろい肩幅を婦人の前へ押して来た。
「いけません、猿、売りません」
「いいえ、売ってください」
「飼主、わたくし愛している、動物の生命を売る!
飼主の顔も猿みたいになった。
「あなた、会社の職長さん?」
「はっ」と、職長はいらいらした拳を腰につッかって、
「||高瀬さんの奥さまでございましたな」
「はい、弁天通りの高瀬でございます。主人の代理で、船へ、お贈り物を持って来たところですの」
「飛んだご災難ですな」
「何とか、会社として飼主へかけ合って下さいませんでしょうか」
「かけ合ってみましょう」
船底作業が終ったので、午後から
職長と飼主の間に、
「ふうッ······」
船長は当惑そうに首を振り動かした。
「射殺して下さい」
婦人はまた、それをくり返した。
職長も口をそえた。
「
発電所の煙突は、時間どおり、黒煙を吐いて
「困りましたなあ」
「ほんとに、どうして下さるの」
「船長!」
職長は、時計を示しながら、
「三時四十分に
「それは、いかんです」
「会社こそ困ります。次の入渠船へ、莫大な違約料をとられますからな」
船長は大きくうなずいて、ボーイに
短銃を見せても、猿は下りて来ない。問題は
トム公は、木靴を脱いだ。
「なにを騒いでやがンでい」
彼のすがたが、
「プリンス!」
「うまくやれ」
「一割取ってやるぞ」
「一割じゃ承知できねえ」
ワーッ、という
トム公は、太陽の中にいた。
猿は、白い歯を与えたのみで、敬礼を
半分は自分が食った。
半分は、彼が抱えて行った子猿に食わした。彼は、再び、親猿に敬礼した。
万雷のような歓呼の中へ、トム公は、二匹の猿を連れて
猿も、オペラバッグもたちまちどこかへ素っ飛んでしまった。船はいつのまにか、
三時四十分||
汽車の発車時刻のように、満潮期の海へ、船渠は口を
「どうしたい、あの、らしゃめんは」
「いつのまにか、ドロンでやがる。ふてえ奴だオイ、どうする気だ、プリンス」
「何がよ······」
ペンキ小屋の裏で、ストライキが起った。彼の支持者たちは、不平だった。トム公は、草原の中に乾いている
「何がって、あのオペラバッグよ、十万両の一割なら、一万両だぞ」
「会社へそう言ってやれ」
「黙ってるばかがあるもんか、職長へかけ合えよ」
だが||そのうちに六時半の解放汽笛が鳴ると、みんな頑張る気を失ってしまった。一刻も早く帰りたい方が、先になった。
「私服が来ている」
そんな
「私服、どうしたってんだい」
トム公は、反抗的に、前の者をグイグイ押した。すると、彼の前に立っていた髯の亀田が、
「ちょっと、君」
と、私服に引っ張り出された。
「なんですか」
「まあ、いい、こっちへ来い」
背中を小突かれて、守衛部屋へはいって行った。
トム公は、驚いた。
「開けてくれ、おじさん」
木靴の先で、守衛部屋の戸を蹴った。
「おまえに用はない」
会社の守衛は、彼をつまみ出そうとした。
「こっちで用があるんだ」
彼は、中へとびこんだ。
先刻の
刑事は、彼女たちを、眼でかばいながら、
「なんだおまえは」
「かんかん虫のトム」
「何しにはいって来た!」
「おれの連れだよ、その人は。一緒に帰るんだ」
「これは泥棒だ」
「冗談じゃない······」
「||奥様」
刑事は、体を横に
「ご紛失の腕輪は、これでしょうな」
「え、これですの! ······まあ、よかったわねえ、
「ほんとにネ」
「ほかに、まだ何か、あったように伺いましたが」
「え、書類と、粒の宝石が、······でも、ようございますわ、これさえ戻れば」
「宝石じゃ、ちょっと出ませんな。指輪ぐらいなものは、食ってしまいますからな、こういう動物は」
と、亀田の頭へ、手をのせた。
「動物だ?」
亀田は、刑事の手をふり落しながら、わなわなふるえる声で、
「動物たあ何ですか。その品が、
「いかんよ、後で聞こう」
「
「よせ! 興奮するな」
そこへ、会社の給仕が、扉を開けて、
「奥様、お馬車が参りました」
刑事や守衛は、いっせいに壁へひらいて、
「とんだご迷惑をかけましたが、どうぞ、ご主人に、悪しからず」
「じゃ、後はどうぞ······」
トム公は、
「待ってくれ、オイ」
「············」
奈都子は、まっ
「伯母さん、こわいわ」
「人に
「こら!」
「何がコラだ。もっと、調べろ」
「明白じゃないか」
「うそだい」
「君! このチビを追い出してくれんか」
守衛は、両方から、トム公の襟くびをつかんで、ズルズルと引っ張った。トム公は、両方の手を、
「こら、出んか」
「出ン」
「どうしましょう」
「よろしい」
刑事は立って来て、柔道何段かの実力を示すように、トム公の喉首を壁際へ持って行った。
「さ······奥様、お通りください」
柔道何段かの前には、トム公も
「畜生」
トム公は、閉じられた鉄の門へぶつかッて行った。亀田を返してもらわなければ、十銭銀貨二枚を待ちこがれて、ランプの石油も買わずにいる彼の五人の家族に対してまみえることができない||という気持でいっぱいだった。
「やい、ヘッポコ、チョンガリ、
赤と青の角燈の光が、彼のうしろから虹のように投射して
「あっ、違ッた」
二頭立ての中に見えたのは、トム公の知らない
だが、彼は、それが先刻の二婦人でなかったことに
とたんに、馬車の戸を排して、ふたりの憲兵が、外をのぞいた。トム公は胆をひやした。横ッ飛びに逃げ出した。豪放な笑い声が、そのうしろで聞こえたように思った。
「プリンス!」
「どこへ行くのさ」
「なぜ、黙って通るの?」
女たちは、みんな、熱帯人種の好むような強い
夏に、秋に、春に、夕暮となると、享楽の開港場の街を押し流してあるくハンケチ工場の女工たちである。西戸部にはむらさき組、大田町には臙脂組、
「どうしたの? トム」
「まあ、やアだ!」
「泥だらけよ」
「血が」
「なめてあげよう」
トム公は甘んじて、頬と、右の
「喧嘩したの?」
「ううん」
トム公は、彼女たちを見廻して、
「たれか、五十銭一つ貸してくれ」
「五十銭?」
「貸してくれ」
「ないわ」
「たれか、あるだろう」
「二十銭なら」
「わたし、五銭ならある」
トム公のてのひらに、白銅が二つ、小さな銀貨が三ツばかり集まった。
「これから、
「それどこじゃねエよ。人の家へ持って行くンだ」
「違うわね、いつもの、プリンスと」
「
「まア、大した威勢だわよ」
「だから、好きサ」
トムは、肩をゆすぶって、女たちの手を振り落しながら、
「今夜は、ふざけッこなしさ。おれは怒ってるんだ。||弁天通りの高瀬って、何屋だい」
「高瀬なら石炭屋だわ」
「石炭かつぎかあ」
「違うわよ、百万長者だっていうじゃないの」
「もとは、おれッちと、おんなじだ」
「そうそう、それがどうしたの」
「火を
「え」
「ウソだよ」
トム公は、いきなり、足もとの砂利をつかんだ。左の手から一つずつ取っては、
暗い水面に、
「二つ切れた||」
「三つ切れた!」
プリンスに習って臙脂の女たちも、ポカポカと石を投げこんだ。キャッキャッと笑って手を打った。
木靴は、めんどう臭くなって、大きな石を一つ蹴落した。どぼーん! と白い水玉が岸まで上がった。
「ひどいわ!」
水鳥のように、女たちが分れ飛んだ。トム公は、野毛橋の
「||今のこと、誰にも言うな」
朝、まだ朝霧や紙屑がほの白い
それが、当時の浜ッ子には、いかにも
商館の通勤者、税関吏、お茶場女、燈台局の官員さん、
そんな時、彼らが、
だから彼等が、どんなにジャップを軽蔑し、また開港場の我利我利人種も、それに対していかに、安ッぽく
横浜で屈指といわれる豪商でも、ここぞと思う
そのためにか、店の横から裏通りへとおして華麗な、和洋
それを、送り出すと、
「もう、くさくさしちまう。いくら店の為になるったって、毛唐のお客は、たくさんだわ」
「············」
うすい髪の毛に、ていねいに櫛の歯をとおしている、脂肪性赤鼻質の彼女の主人の、高瀬理平は、ちらっと、新聞紙から
「あなた」
「ム?」
「わたし、きょう、
「なぜエ?」
「なぜって······」
「いかんわえ、そんなこたあ。ゆうべのもだいじなお客筋だが、きょうのは、なお大事なんじゃ。千歳の方をひきあげさせて、ぜひ、わしの
「まったく、今になって、大後悔だわ。
「ば、ばか!」
「でも、ここへ来て、
「よせ!」
誰か、ノックしていた。
「
「ええ」
理平は、
「奈都子、きょうは大隈伯のお顔を見せてやるぞ。前の総理大臣閣下、新聞でよりほか見たことはあるまい、御前様のお顔は」
「なんのご用事で
奈都子は、やがて義父になる伯父と、
「そりゃ、商売じゃ」
「だって大隈さんは、石炭なんぞ、買わないでしょう」
「大隈さんに、石炭は売りつけられんよ、運動してもらうんじゃ、海軍の方へ。こんどの遠洋航海の艦隊だけでも、たいへんなもんだよ。また、
石炭と生糸の話になると、奈都子は、理平の顔が、石炭に見えたり、さなぎに見えたりして来た。開港場成功者は、みんなそうであったがこの伯父が昔、石炭かつぎをしていた頃の姿まで見えて来て、いやであった。
「伯母さん、きょう、どうなさるの」
「疲れているから、今、お断りしていたところなのよ。奈都子さんだって、大隈伯なんて、おじいちゃんの顔なぞ、見たくないわね」
「え······でも······何でしょう」
「おい、こら、お前たちゃ、きのう
と、新聞をたたいた。
「あらっ」
お槙と奈都子は、下品に笑い出した。
「ま、新聞に? ||じゃ、隠していてもムダだったわね、こう暴露しちまッては」
「ろくな所へ行きおらん、あんな、かんかん虫どもの集まッとる所へ行ったら、ペスト
「外国船のM号に」
「M号には、わしの店では、石炭を売っておらんが」
「ハムスンさんへ、お礼に伺ったんですわ」
「ハムスン? あのグランドホテルで、何かやった
「え。贈り物をいただきましたから||奈都子さんも、あたしも」
理平は、不快そうに、新聞をクシャクシャに持って、もう一度読み直しながら、
「それはええが、お槙は、わしがやった腕環を盗まれ損ねたというじゃないか。なぜあんな高価なものを持って歩く? すぐ、犯人が
「よく、ばかの出る朝ですこと」
「毛唐の客は、うるさいの、嫌いのと言って何だ、あんな西洋乞食のヴァイオリン弾きの尻などを追い廻して」
ちょうどよく、その時、電話のベルが鳴ってくれた。
「あ······
理平は、あわてて受話器を耳にあてた。
「······おウ、わしは高瀬、左様、主人の理平じゃがね······え······えっ······何? ······何だア? ······何じゃッて? ······」
耳を疑るように、何度も訊き返していたかと思うと、彼は、電話機が相手の顔に見えて来たように、
「||わしは、お前みたいな者は知らん。それでも来ると言っても、面会はせんぞ。||何、奥さんに? 奥は旅行中じゃ。||愚連隊じゃろう貴様は······来るなら来い! 刑事を呼ンでおくから!」
「おじ様、どうなすッたの」
奈都子は、電話口を離れて椅子へ戻った彼の顔いろに、彼以上の
「なに、愚連隊にちがいない」
「何だって言うんです」
お槙も、不気味そうに白けて言った。
「||今朝の新聞を見た奴じゃろう、そのことについて、わしかおまえに会いに来ると言うから、呶鳴りつけてくれたんじゃ、警察でも、あの愚連隊のやつらを、何とかしてくれんと困る」
そう言いかけて、彼はまた、ぎょっとしたように振り向いた。つづけさまに、電話は、生きた
「お槙、おまえ出ろ。あ······おまえじゃいかん、奈都子、女中になって、おまえが聞いとけ。······そしてな、今の奴じゃったら、ご主人は只今もう東京の方へお出ましになりましたと」
だが、今度かかって来たのは、港町の
「おじ様、千歳の女将さんよ」
「そうか、大隈の御前様はまだおいでるらしいのか」
「え。ですけれど、きょうはまた、水上警察旗相定祝賀会というのへご出席なんですって。晩には、グランドホテルで、大使館の方や知事さんなんかの晩餐会があるから、とても、きょうはお目にかかる
「だから、そこを頼んであるんじゃないか、あの
「いいえ、ですから、まだ三、四日は、ご
「分った、分った、それならば、それでいい。折角、
「どうしておじ様は、官員様ばかりそう
「崇拝はせんよ、
「わたし、勲章を下げた人、嫌いだわ」
「そうとも、お金持の方が、遥かにええ」
「金持なんか、なお嫌い」
「じゃ、貧乏人になりたいのか」
「働く人が好き。ねエ、おばさん、
「ま、変っているのね、奈都子さんは。わたしは、気持がわるくって、しじゅう鼻を抑えていたほどなのに」
「それみろ、あんな所へ連れて行くから、すぐペスト菌にたかられて
「千歳は、お見合せになったんでしょう」
「わしにも、招待状が来ておるから、グランドホテルの方へ出席してみよう、大隈伯にも、そんな場所で顔を知って戴いてからの方が都合がええ、||槙も、おまえも、うんと盛装せい、伯は派手好きじゃという話だから」

午後四時||やっと女中が馬車会社へ電話をかけている。
夕風を切って、馬車のムチは鳴る。
赤塗の
「あらっ?」
うしろの
「あ······」
理平も首を捻じ向けた。
そして、三人とも
「大将、今朝ほどは失敬」
と、言った。
「こらっ、そんな所へぶら下がッちゃいかん。降りろ、
少年マドロスは、
「怪我をすりゃ、病院に入れてくれるだろう。だが、ご心配はいりませんや、馬丁台に足を掛けているんだから」
「あぶない!
「いいよ、グランドホテルまで送って行くよ」
「ああそうか、おまえ||波止場乞食か。これをやる。寄るな」
理平は、あわてて、五十銭銀貨一枚を彼の手に握らせた。彼は掌の銀貨に軽蔑をくれて理平の顔へ
「何をするッ」
「おれを、波止場乞食ッて言やがったからよ。こう! おれにゃ、立派な商売があるんだぞ」
「なんだッ貴様は」
「今朝も、電話で言ったじゃねえか、よく覚えとけよ、おいら、かんかん虫のトムってんだ」
「あっ、今朝のは||おまえか」
「おれだよ。紳士だろう、ちゃんと、電話で、お目にかかることを、断っておいたんだから」
「おい、
「おじさん」
トム公の海軍
「騒ぐと、お嬢さんの顔を、ここの、
「············」
「
馭者は、聾のように、自己の使命だけを守って、税関前の大通りを曲がり、前よりもはやく快走をつづけている。||理平は、子供だとは思いながら、幌の破れから突き出している顔だけを見ているので気味が悪かった。
「お槙、おまえは、このかんかん虫のトムというのを知っているのか」
「い、いいえ」
彼女のことばは、ひッつれた喉からやっと洩れた声だった。
「だって、今朝の電話では、昨日のことについてと言ったが······」
「そうだ、そのことさ!」と、トム公は流暢な
「||きのう、ここにいる女の人が、
「ウム······新聞で見た」
「||その礼なんかをセビリに来たんじゃねえぜ。||ところが、船渠の
「フーム」
「フームじゃねえよ、大変だよ、亀田さんが帰らねえと、イロハ長屋に残っている病気のおかみさんだの、子供だの、五人の者が
「だから、どうせいと言うのか、おまえの要求は」
「亀田さんを返せッてんだ」
「そりゃ、警察に言う筋じゃないか。ほんとに泥棒せんものなら、今に帰してくれるだろうし悪心のあるものなら、監獄へ行くのが当然じゃろう」
「それでいいのか」
「おまえ、
「大きなお世話だい。それでいいのか、それで······」
「子供のくせに、そんな心配は、せぬがええ、生意気じゃ。お
「木刀お
「············」
「やい、何とか言えよ、何とか」
「············」
「らしゃめん奴」
「············」
「それでいいのか。それでいいのか。そいつをきょうは聞きてえんだ。その返事次第で、こっちも宣戦布告をするからな。やい、何とか言えよ」
その時、トム公のからだは、後ろから大きな手に抱き込まれて、フワリと馬丁台からかかえ降ろされた。馬車は、いつのまにか、ピタリと止まっていたのである。
「やっ、いけねえッ」
トム公は、足を宙にバタバタさせながら、水上警察署の青い
「こんちょろチビ奴。
トム公の首根っこを抱き締めて、勇猛に
「あっ」
と彼の首をつよく押して、火のついた手袋を脱ぐように、振り離した。トム公は、仰向けに転びながら、巡査の指の肉片を、口から吐き出した。そこへ、飛びかかろうとした馭者は、彼の木靴の先ッぽで
トム公は、青い夜の中へ駈け込んだ。
彼は、居留地の七番館の塀の蔭に、首を沈めて
トム公は、煉瓦の上へ躍った。
何処かの領事館であった。巡査はたじろいだ。彼らが、門の前で何かガヤガヤ評議している間に、トム公は、コック部屋の外に干してあった白い
「おばさん、こんばんは」
豚の如く肥えたここの
「こんばんは」
と、お題目のあいだに言った。
「これネ、おばさん」
「はあ」
「ここンちの自転車だろう。居留地で、自転車を持っとる家は、何軒もないからね」
「そうだよ、
「八番館の横にあったから、持って来てやったよ。いいかい、ここへおいとくよ」
「おやじさんは、見なかったかね」
「見なかったよ。||駄ちんに、鶏卵一個貰っとくぜ」
卵の箱から、一箇取って、奥へ示しながら往来へ出た。彼は空腹だった。何しろ、きのうの銀貨は、みんな亀田の家族に
トム公は、木靴の
チュッと舌を鳴らしながら
「おれじゃねエや!」
トム公は、ポケットへ手を突っ込んで、ちょっと首をかしげていたが、ふいに、飛びこむように、うす暗い露地へはいった。
石造家屋のうす
幾つも、幾つも曲がった。曲がるほど、南京街の裏は、
屈んではいれる程度の、
そこを、トントンと降りて行く。
「だれ?」
「トム」
「トム?」
地下室の番人は、
トムは、ポケットをさぐって、
この
中は、真っ暗だった。
だが、石の歩廊を少し歩いて、左側のカーテンをあげると、
「ほう?」
と、その中で、間の抜けた驚き声を出した者がある。
「
「トムか」
李鴻章にそっくりな男は、もうひとりの清国人を相手に細長い網袋の両端を持ち合って、何かその中にある非常にいい音のする金属を、極めて気永に、揺りうごかしていた。
「何をしてるんだい?」
トム公は、そこにあったピンヘットを一本抜いて、
「何さ、李鴻章」
「これ?」
「ム」
「砂金採り」
「へえ」
「まだわからぬ?」
「わからねえヤ」
「これ、みんな金貨。五千円程ある、こうして一晩ゆすぶる、金貨の角と角がすれるな、それ細かい金のクズが下にたくさんたまる、また、銀行に持ってゆく、金貨の額少しも変りない、またお
「ちっとも、面白くねえヤ」
トム公は、歩廊へ出て、隣のカーテンを
「李鴻章、元町のお光さんは、来ねエかなあ」
「お光さん? 来る」
「何時頃?」
「何か用あるか」
「あるから聞くンだい、急に会いたいのさ、お光さんの智恵を借りたいことがあるんだよ、どうしても、おれだけじゃ、できねえことだから」
「それでは、薬師様へ行く方、はやい、こん夜縁日ある、ムラサキ組の女衆、みんな、あそこに寄る」
「あ! 薬師か」
トムは、阿片クラブの砂金窟をとび出した。
いい月が空にある。
赤い
いつも、どんなに遅くなっても、寝もやらずに、彼の帰りを闇の家で待っている彼の母は、たいへん、勘がいいので、それらしい木靴の音が、
「トムかえ? ······」
と、闇の中に坐りなおした。
この家にはランプがなかった。トム公の母親は、このイロハ長屋にあっては、どうかしてできた一つぶの天然真珠のように、若くて、美しくて、この細民窟のすべての人にない常識が
「トムかえ?」
「あ、あ」
トム公の返辞は、元気がなかった。六畳一室の闇の中には、なんにも、食物のにおいがなかった。
「おっ
「食べたよ||お民さんのお
「じゃ、もう何合も借りができたんだな。今に、倍にして、返してやるよ」
「お民さんは、親切だから、まだほかに、砂糖だのお醤油だの、お野菜まで」
「アア分ったよ、今に、みんなお礼するよ」
「おまえ、ご飯は」
「おら、眠たいヨ」
畳をなで廻す手が、トム公のからだへ探り寄った。そして、その重いからだを、
「おまえ、きょうも仕事に行かなかったの」
「仕事どこじゃないもの」
「悪いことをして歩くのは、やめておくれ。ネ······おっ母さんが、ひとりで、こうしていても、どんなに、心配だか。······分るだろう、おまえにも」
「おら、悪いことなんか、した覚えはねえ」
「だって、おまえは、愚連隊だって、言われているよ」
「誰に」
「警察の人に」
「警察のやつなんか、こっちの味方じゃないもの」
「小さな者のクセにして、そんなことを言うから、悪者に間違われるんですよ」
「そんなら、間違う方のやつが悪いんだ。おら、悪かあねえ!」
少し
トム公は、いきなり母の手をふり払って、
「おっ母あは、嫌えだ! すぐに、泣くんだもの!」
と、ふとんの外へ出て、足をバタバタさせた。てんかんのように拳を握った。
そこへ、戸が開いた。亀田の細君であった。乳呑み児に、乳をふくませながら、
「奥さん||トムさんはお帰り?」
「え、今、帰りました」
「トムさん」
トム公は、頭をかかえたまま、こっちを向かなかった。
「きのうは、有難う。あんなに、お金をいただいてね。ほんとに······すみませんね。おかげ様で、五人が助かっていますの」
トム公の母には、何のことだか、わからなかった。トム公も、黙りこくっていた。
「||それから、きょう、警察の方が来ましてね、いろいろ調べて行きましたけれど、何だか、当分は、帰されそうもないようですね。······
「おばさん、心配しねえでも、大丈夫だよ。きっと、亀田さんは、おいらが、貰って来てやるよ」
「どうぞね、トムさん」
「横浜じゅうの愚連隊に頼んでも、ほんとの泥棒を見つけ出して、おれが、亀田さんを、きッと返すよ」
その時、四、五人の靴音がして、門口から無遠慮な角燈の光が、家の中を照らした。
「||相沢町
木刀を
「おまえの家に、千坂
「どなたでございましょうか」
桐代は、幸いにも、盲目であるために、なんの驚動もうけないで、ふとんの上に坐ったけれど、亀田の細君はふるえていた。
「水上警察署から電話があって、ちょっと調べに来たんだが」
「警察のお方ですか······」
彼女も、初めてわなわなした。
「山手警察署まで、来てもらいたい。······いやおまえじゃない、おまえの実子じゃろう、
「富麿なんていう子は、ここの
トム公が、母親のうしろで、
「これ、何を言うんです。おまえが、富麿じゃありませんか」と、桐代はもうおろおろとして、声が立たないほどである。が、||トム公は、巡査のすがたを見ると、反撥的に、反抗的に、
「おら、誰にだって、富麿なんて、呼ばれたことはねえもの。おら、トム公だ。かんかん虫のトムだ!」
「あれだろう、引ッぱり出したまえ」
と、部下へ言った。
巡査たちの泥靴が、床をふまないうちに、トム公はバネにかけられたように、木靴を両手にさげて、外へ飛び出した。
「逃げるもんか! 誰が逃げる!」
駄々ッ子のように呶鳴りちらして、彼が、木靴へ足を入れると、彼の母親の泣く声が長屋中を起した。隣、隣、隣、前、前、前、イロハ長屋のすべての戸があいて、同時に、露地をふさぐほどな人影が、真っ黒に、そこへ群れた。
「なんで、トム公を引っ張って行くんだ」
と、まっ先に、食ってかかったのは、
警官たちは、牛を殺す時のような
「山手署の方では、全然関知しないことだが
「ばか言ってやがら」
連中は服さなかった。
「||十四のトム公が、誰を恐喝するんでえ。何か、寝ぼけているんだろう。トム公は、このとおり、盲目の女親を養っているんだから、あいまいな嫌疑で、連れて行かれちゃ困ら」
「そうだ。それとも、警察じゃ、女親は、
ガラス工場の職工もいた、南京墓の番人もいた、貧乏異人館のコックもいた、競馬場の
だが、無力の者の力が、いかに多数でもイクォール無力だった。すくなくも、巡査部長の
「じゃお前らも、本署まで、一緒に来たらどうか」
「············」
その間に、トム公は、スタスタと自分で大股に
トム公は、馬車の中へと突き飛ばされた。その途端に、暴風のような長屋の同胞たちの喚きに交じって、ひとりの
彼は、唇を噛んだ。
絶望と、憤怒のいろを抑えて、可愛らしく閉じた眼に、涙はなかった。その代りに彼の手は、腰のバンドを探って、そこに挟んであった
商船の横ッ腹をなぐる時のように、小さな槌は、突然、馬車の木桟をグワラグワラと破壊しはじめた。馬車は、爆弾を乗せて走っているように木片を飛ばして
「こらッ」
と、中へはいった。
馬と車は、曲がッた
彼らはまず
「トム公! トム公!」
と、野太い声で呼びあった。
紺ガスリの羽織の長い紐を、首へ引っかけているのもあった。バプテスト神学校の制服もあった。西洋乞食のようなセラパンもあった。それは雑多な若者の混色ではあったが、ゴロ歯のさつま下駄と、桜の仕込み杖とによって統一された争闘的団体の色があった。
「愚連隊だな、貴様たちは」
そう言って、馬車の上から
「愚連隊だがどうした」
「トム公を拘引するなら、
「
「かまわん、馬車をやれ」
「やれ、やれ、どこまでも!」
ひとりは、占領した馭者台に、大股をひろげて、鞭を振った。七、八人は、中へはいって、巡査と格闘した。三、四人は、馬車の外へ
馬車の中でも、激しい格闘の物音がくりかえされている。馭者台のそばに立ったマドロスは、警鈴をつかんで、大きく振りながら、深夜の異人館町を驚かしつつ
その間に、反抗力のなくなった警官のからだが、一町ごとに、捨てられて行った。
「やれ、やれ、どこまでも!」
鞭と警鈴は、乱暴者の気をあおるに持ってこいの伴奏だ。急坂の加速度への調節なしに疾走をつづけた。だが、坂の半ばまで来ると、彼らもやや狼狽して、
「あぶない! あぶない! あぶない!」
と、さけび出した。
馬は、
「わッ」
「トム!」
「早く出ろ!」
彼等はいッぺんに、馬車の両方へ跳び下りた。最後に||トム公が跳んで降りたすがたを認めると、大胆なる馭者は、びしりッと
同時に||真っ暗な河の中へ、すさまじい音響と
ひとりが、ピンヘットを出した。ひとりがマッチを
マッチとピンヘットが、順々に、みんなの手へ渡った。||のどかな
夜あかしの好きな南京街の窓は、まだ所々に、紅燈を残している。
愚連隊の影が、その窓の下を、ぞろぞろと一列になって通った。順和商行と
女は、お光さんだった。北方のむらさき組のお光さんだった。彼女は、横浜ハンケチ女の中での

「あら、帰って来たよ」
お光さんは立った。
その晩の彼女は、とろけるようなヒスイの耳環を下げていた。そして、彼女は
多勢の、
お光は、もう、はしゃぎ立って、多勢の男たちの中から、トム公を拾い出して、しゃべっていた。
「なぜゆうべ、私が行くまで、薬師様に行っていなかったの」
「待っていたよ」
トム公は、口を尖らした。すこし、不平のように。
その顔を、お光の白い指が、痛いほど強く突いて、からかい気味に、
「うそ、一時にはもう、いなかったじゃないか」
「ああ、十二時には帰ったから」
「それごらんな、だからあたしゃ、心配しちゃッて、あれから、どれほどヤキモキしたか知れないよ。||だがね、おまえに頼まれたことは、探っているから、安心おし」
「亀田さんは」
「検事局からすぐに根岸の
「それで、みんなが来てくれたのか」
「山手警察にいる女小使いのおしげさんに、人をやって、聞いてみると、案の定だから、あわてて、みんなを
「おれたちは、まだ詳しいことを聞かないんだが、いったいトムの
愚連隊たちは、それぞれ、椅子や寝台や家具の端に、腰をすえて、
「トム、お話し」
「めんどくせえや」
「じゃ、私が、代りに話そうか。こういうわけさ||それも宵に薬師の縁日で、トムから聞いたばかりなんだけれど」
お光は
「イヤ、そんなことは、どッちでもいいんだよ」
トム公は、彼女のことばを
「自分の
みんなトムの顔をじっと見つめた。すごい眉間をしている者があった。もうありありと胸で怒っている顔があった。
「||その人には、五人の家族がある。イロハ長屋で、満足に食える家はないけれど、亀田さんの
「わかった」
神学校の制服が言った。
「要するに、トムの責任感を果してやりさえすればいいんだろう」
「ウム」
「同時に、横浜愚連隊は、
「異議なし」
「賛成」
「手段は」
「えらばんよ、硬軟両策で行こうじゃないか。まず美男子のおれは、あそこの娘の奈都子というのへ、魔手をかけて、堕落させてやる」
「そんな方ばかり
「亀田を救うことかい」
「むろんさ」
「だれか名案はないかしら」
お光が、
「||ある! それは
「なるほど」
その時ぼんやりと室内を漫歩していた李鴻章の足の前で、けたたましい非常ベルが鳴った。||今までの光景は、すべて、一場の煙草の魔術であったように、一瞬に、そこの人影が消えて煙ばかりが
||追い立てられるように非常
ごむまりの
「
と、
同じ清国人でも、それは、非常にするどい眼をもち、
「張じゃねえか、なんだッて、非常ベルなんぞを鳴らすんだ、ばか野郎め」
「今ネ、親方、あっしが、急用があって、ここへ来ると、水上警察のお巡りが、いやにうろついているんでさ」
「どこに?」
「この
「それや、何も、おれたちの
「そんな
「そりゃ、トム公をさがしているお巡りだろう。||だが今朝の一件というなあ、なんだ」
「まだ聞きませんか、明け方の騒ぎを。
「オヤ、もう夜が明けているのか」
「とッくですよ」
この地下室では、朝の微光も感じられなかった。
「谷戸橋で何を騒いでいるんだ」
「警察署の監獄馬車が河の中へ
「フーム、どの辺だい、それは?」
と動じない李鴻章の顔も、だいぶあやしくなりだした。不安そうに水煙管をおいて、卓の上に、
「築港の方から、舟で来るとすると、海口の税関の見張所と、谷戸橋のあいだ辺りの見当ですがね」
「············」
「親方にも、覚えがあるでしょう」
「ある」
「そこへ、ゆうべ、馬車が堕ちたんでさ。······で、人夫や船頭を連れて来て、そのやっかいな土左衛門を引き揚げにかかると、誰が最初に見つけたのか、河底の泥土ン中から、金時計を拾ったやつがあるというわけなんで」
「ふ······」
「すると、おれも拾った、おれも見つけたと、たちまち、馬車の方はそッち
「ふ······」
李鴻章の顔は、だんだん、泣き出しそうに、曇ってしまった。
「そのうちに、通りがかりの沖人夫だの、石炭かつぎだの、あの辺のコックや御用聞きまで、みんな、河の中へはいって、宝さがしを始めちまったもんでさ。||だから、今朝の人ッたらありませんや、新聞記者までやッて来るという騒ぎでね」
「それを、知らせに来たのか」
「へえ、何しろ、河の底を足でさぐると、いくらでも、金時計が出て来るが、大体、これは、誰が落したものかということが、今朝のうちにぱっと、横浜中の大評判でしょう。||それが分りゃ、すぐに
「なあに、そんな心配はねえ」
と、彼は意志強そうに、かぶりを振ったが、そのことばの下からすぐに||「心配はねえけれど、だが、たいへんな損害だ。あの河の金時計をみんな拾われてしまったひにゃ、おれたちが、日本で
と、肺臓の
むろん午前ではあるけれど十一時半ごろだった。||あれからトム公が眼をさましたのは。
幾つもある
トム公は、眼がさめると共に、今、
「おはよう。李鴻章」
歩廊へとび出すと、彼はすぐに、隣室のカーテンを
「おはよう」
返辞はしたけれど、それは、張という手下だった。
トム公は、すっかりゲッソリしている張の顔を、どうして人間がそんなに
「大将は、どうしたい?」
「谷戸橋」
「谷戸橋へ行ったのか」
「ウン」
「何しに?」
この清国人は、
「谷戸橋へ、何しに行ったんだろう?」
歩廊から地上の昼の光を見あげていると、お光が、眼をさまして来て、
「お
と、うしろから
トム公は、音の物にひびくように、
「まったくだ」
「万珍へ行こう」
「アメリカ屋がいいぜ。あそこのテキは、こんなに厚いぜ」
指であつさを示してみせると、その手を、彼女の
「なまいきを、お言いでない」
「うそさ、何でもいいや」
「アメリカ屋のお昼を
「朝飯だろう」
「トム、顔を洗うといいよ」
と、彼女は、七宝側の時計をのぞいて、
「もうすぐに、
ふたりは、口笛をあわせながら地下室を出た。
「さ。きょうから、戦いだぞ」
トム公は、ズボン
「しっかりおやり」
「やるとも」
「軍用金はあるのかい?」
「軍用金なんか、一銭もねえや」
「そのあいだ、おっ母さんを、どうするの」
「どうかするだろう」
「心ぼそいネ。······やろうか、一円ばかり」
欲しそうに、考えているまに、西洋料理のアメリカ屋の前まで来てしまった。
温いミルク、パン、彼の渇望してやまなかった大きなビフテキ。トム公は、口もきかずに食べてしまった。
そばの
「うそだろう、河の底から、そんなに無数の金時計が出るなんて、どう考えても、お
「うそだと思うなら、行って見たまえ」
その人々の話はむきだった。
ここばかりでなく、お光とトム公は、路上でも、そんな熱病のようなうわさを、幾たびも耳にした。
「たいへんだよ、いくらでも人が出て来るんだ。あの谷戸橋を中心に」
「ほんとかなあ」
「慾ッて、ひどいもんだなア」
「実際に、河の底から、そんな金時計が出るなら、僕らだって、勤めを休んで、一日ぐらい真っ黒になってもいいがな」
コック部屋から、ビヤ樽のような腹をつき出して、ここの主人が言った。
「だめですよ、もう······。巡査が来て、すっかり、縄を張って、しまいましたから」
「じゃ、まったく、出たのかあ?」
「なんでも、九時頃までに、われがちに河へはいって、あの
「うまくやりゃあがッたな」
「ところが、はやく、一つでも、見つけて、逃げたやつアいいでしょうが、慾の皮の突っ張り放題に、いつまで、
「ははは、そいつアよかった。さんざん、金時計を
「しかし、いったいそんな高価な金属品を、どうして、あんな河の中へ捨てたのだろう。まさか、金持の道楽じゃあるまいがね」
「それが、疑問なんですよ」
お光が、卓へ勘定をならべたので、トム公は、満腹のバンドをゆるめながら、外へ出た。
そして、お光を待っていると、彼女は、紙入れからべつにして来たらしい一円紙幣を、トム公の手ににぎらせて、
「あばよ」
と、元の道へ戻りかけた。
「お光さん、どこへ?」
「心配だから、もういちど、倶楽部へ帰ってみようと思うのさ」
「心配って、何が」
お光は、往来を見まわしながら、トム公のそばへ寄ってささやいた。
「ことによると、
「? ······」
トム公には、分らなかった。
「どうして?」
「今、話していたろう、河から金時計が湧くっていう話。······あれはネ李鴻章が、この夏、密輸入をして
「ヘエ」
「おまえだって、聞いてるだろう」
「話は聞いてるけれど、どうして河の中へなんぞ、捨てちまッたんだろう」
「誰も捨てる気じゃないけれど、宝石や時計を密輸入する時は、
||聞いているうちにも、しじゅう動いているトム公のすばやい眼が、居留地を巡回する警官のすがたを四ツ辻に見つけて、
「いけねえ、木刀が来たよ」
お光は、ちょっと
「李鴻章に、首でも
そう言って、さっさと、曲がって行った。
トム公は、すぐに、彼方の煉瓦の建物へ貼りついて、巡査の行動をながめていた。やがて、彼の影も、
西洋館の方の塔みたいな屋根の
秋の晴朗な畠道を、きょうも、幾台となく、馬車や
「お
「関内
と百姓たちは、幾度も、腰を立てた。
別荘の庭園の前にも、漁師の子だの、
そのうちに、黒の山高帽をかぶった跛行の紳士が、馬車から下りた。この跛行の紳士がその日の
「いいのう、横浜も、波止場や
彼の顧みた所に、
「御前様、それはお皮肉ですか。何しろてまえどもなどでは、眺めといえば、波止場のマストかかんかん虫の人通りだけでございますからね」
「わはっははは、おまえの
「お越しにあずかりました上に、お賞めをうけて、恐縮にござります」
と、理平が、わきの椅子から、しきりと頭を下げていたが、大隈伯には、眼にはいっていないようだった。
「女将」
「ハイ」
「おまえ今、かんかん虫ということを言ったが、そのかんかん虫で思い出したことがある。なあ渡辺」
と、うしろの執事らしい男へ言った。
「は、いつぞや、
「そうそう、あれは
「御前様、それは、波止場乞食ではございませんか。よく馬車へとびついて、お金をねだる||」
「いろいろなものがあるんじゃの、横浜には」
伊勢佐木警察署長の
「渡辺さん、その晩のかんかん虫らしい小僧というのは、どんな服装をしておりましたな」
「夜なので、よく分らんが、十四、五ぐらいな奴じゃ。木靴というか、ズックで木の底の靴を、ぱかぱかとならして、逃げおったが、おそろしく、素早い」
「ははあ、それや、トム公という小僧であったかも知れませんな」
「トム公?」
伯は、トム公という名と、あの晩の||右脚爆失以来である路上の襲撃者であった
そこへ、座敷くばりを
「御前様、では、お支度ができましたから、どうぞあちらのお広間の方へ」
と、
華やかなイギリス
「かんかん虫ってなアに?」
「清ちゃんのお父さん、かんかん虫じゃないの」
「あらひどいわ」
「トム公って、おもしろい名だわね」
「ごまかしても、だめだわ、覚えてらッしゃい」
「あら、痛いッ、女将さん、清ちゃんがいじめるわ」
女将は、学校の先生のように、雛妓たちの中にたって、めッと、睨んでみせた。
それを、雛妓たちは、よけいにおかしがって、いっぺんに、声を出して笑った。||けれどその中に、たったひとり、笑いもしないで、泣きそうにしている
伯を
「いかがでしょう、だいぶ席が濁りましたから、ひとつあちらの茶室で、姪の不手前なお
七時に、神奈川県下の政党人たちの懇話会にのぞむが||それまでにはまだ少し時間がある。
大隈伯は、チョッキの時計をのぞいて、
「よかろう」
と、言った。
「高瀬、すこし、女将に話があるんじゃが、みんなあッちへやってくれんか。む、君も······」
そして、千歳の女将だけを、そこに止めた。
「あら、みんなお人払いをして、何でございますの御前様」
「おむら、もそッと、前へよれ」
「こうでございますか」
と、おむらは笑いながら膝をすすめて、
「いやに改まって、変じゃございませんか」
「女というものは、どうして、そうすぐ気を廻すんじゃろう」
「あら、そんな意味じゃございませんわ。御前様こそ、私の申しあげたヘンをヘンにお取りになっていらっしゃるくせに」
「冗談は
「どうしても、こん夜の終列車でお帰りでございますか」
「ム。そこで、お前に頼み残して行きたいことがあるんだが、無論、きいてくれるだろうと思う。||ほかじゃないが、極めて内輪の話だ。秘密を守ってもらわなければ困る」
「なんなりと、私で、できますことならば」
「わしが民部省に勤めていた頃、もう二十年も前だから、
おむらは、まじめに聞いていた。
「||千坂
「先様と合わなかったのでございますか」
「なに、その娘の性格が、先天的に
「まあ」
「すぐ破談になった。それで、わしとの手は一時切れていたが、それからも
「上流のおひい様にも、そんなお方があるんでしょうか」
「あるな、その程度ならいくらもある。||だが千坂の娘は、そんなことでは
「困ったお
「堕落すると、女でも、底なく落ちてゆくものとみえる。そのあげく、こんどは、わしの名を
おむらも、そこまで聞くと、古い新聞記事で読んだ、女天一坊だの、華族の女
だが、それもずいぶん古い
「その······何と
「ム、桐代」
「その後、どうなさいましたか」
「とうとう、しまいには、横浜の時計屋を詐欺して逃げたり、旅役者といっしょに、悪いことをして歩いたりしたあげく、水戸警察署に捕まって、検事局に廻され、重禁固二年かの処刑をうけたが、その時、
ここからが、本題であった。おむらは、伯のたのみをうける心じたくをしてきた。
「近ごろ、また、その話が再燃してきた。というのは、千坂の当主が、老病で今東京のある病院に入院中だ。親には
「ずいぶん古い話なので、分りません、今おいくつ位になるんですか」
「左様······」と、伯は、指をくりながら、
「四十ぢかい」
「じゃ、子供も、相当な年にはなっていますね」
「いくら
「私においいつけのご用は、その桐代さんの家族を、たずね当ててくれと仰っしゃるんでございますね」
「どうじゃろう、分るまいか」
「たしかに横浜においでになるなら、きっと探してみますけれど」
「あまり名誉なことじゃないし、新聞にでもでると、折角、昔の生涯をすてている当人が、また新しく社会から鞭を打たれる······。で、これや、おまえが適任じゃと考えて依頼するんじゃ」
「よろしゅうございます」
「
「御前様は、おだてるのが、お
「分ったら、すぐ知らせてくれい」
「どういたしましょう、それだけのご用で、御前様がおいでになるわけには参りませんし」
「おまえが、東京へ
「その方が、かえって、世間にわからないだろうと存じます」
「すべて、女将の才覚にまかそう。||ちょうど時間がきたな、懇話会へ行かなければならん。馬車を
高瀬理平は、折角の貴賓を、意味なく、うやうやしく、送り出さねばならなかった。
「みんな! 何を買って上げようネ」
本牧から横浜の市街へ向って走る馬車の中で、女将は、はしゃいでいた。
七人の
「たくさんご祝儀をいただいて来たんだからネ、何でもおねだり、何でも」
小猫のような眼は、急に
「欲しくないの」
「ほしいわ」
ひとりが手をあげた。
「なあに? 軍艦? おもちゃの」
「いやあよ、そんなもの」
「犬屋にいるお猿さん」
「いや! いや!」
「洋服」
「え。え」
「青い、職工服」
「ひどいわ」
「痛い、この子は」
「だって、あんまりだわ、私たち、かんかん虫じゃなくッてよ」
「そう、じゃ何?」
「||わたし、
「||わたし、
「わたし、柳屋で見た、
「お金もないくせに」
「いいのよう」
「ホホホ。みんなお
七人組のなかで、一番小さい、一番おとなしい、一番かしこそうな豆菊は、さっきから馬車の隅に押しつけられて、淋しげに、笑っていた。
「豆さんは」
「わたし······」
と、やっぱり笑っている。
女将は、この子の、ふだんからそうであるが||何かしら淋しげなのを、浮かせるように、
「もっと、すばらしい物をお考えよ。なあに?」
と、顔をのぞいた。
豆菊は、
「······ないわ、わたし」
と、蚊のなくように。
「ないの」
「え」
「あら。あるッて言ったわ、昨日。うそよ、女将さん」
と、
「||きのう、豆菊さんが、わたしに言っていたわ、欲しい、欲しいって」
「そう、何」
「お金」
「え、お金」
「うそ!」
と、豆菊は、泣き出しそうになって、顔をかくした。
馬車が止まった。
雛妓たちはわれがちに降りた。
「迷子になっても知らないよ。ひとりで歩くと、異人が手をにぎるよ」
と、叱りながらすすんだ。

その入口のわずかな空地に、新舶来英国聴音機御一名二銭と札を立てている男が、空箱に、赤毛布をかぶせ、その上に一箇の機械をのせて十数本の
「蓄音機だよ」
と、女将が教えた。
女将が、銀貨を払ったので、雛妓たちは、空いているゴム管を見つけて、象牙の乳首を耳にはさんだ。
「あら、
とふしぎな世界をのぞくように、彼女たちは、眼をまるくした。そこでも、豆菊は、気おくれがしたように、その小さなからだを、うしろの方に隠していた。
と、誰か、彼女の背なかを、指で突いたものがあった。
「? ······」
豆菊は、ちらと、後ろをみたけれど、知らない顔をしていた。
また、人の間から、指が出て、同じところをついた。
豆菊は、かぶりを振った。
また、指が出た。
また、かぶりを振った。
「||ちぇっ、いやなやつ!」
投げるように言って、アセチリン瓦斯の人群れから、
「ちぇっ、いやなやつ!」
トム公は、暗い空地から振りかえって、もういちど呟いた。
空地の向うには、射的場、釣堀屋、ミルクホール、
コールタアで塗った
「オホホホ、オホホ」
「アハハ、アハハハ」
紙くずだらけな空地の闇を、トム公が不きげんな顔をして歩いていると、忍び足に、後から
「誰だい」
トム公はふり
「何を笑やあがるんだ」
「プリンス」
隠れていた人影は、いちどに集まって、彼をかこんだ、
「プリンス、おまえは色気があるんだね、
「どうして、隅におけるもんかね」
「いいよ、いいよ。色気があるなら、私たちにも、覚悟があるからね」
「あ、勘弁できないわ」
「清純なユダ、公園へおいで」
「童貞の洗礼をしてあげる」
と、大勢して、手を引ッぱった。
トム公は、驚きはしないけれど、何のことだか、彼女たちが
「何さ、うるさいな」
「わたし達は、うるさいの」
ひとりが、トム公のからだを
「||そして、
「なにッてやがんでい」
トム公は、赤くなった。
「悪いことはできないねえ、みんなして、見ていたんだから」
「あれは、おれの妹だもの」
「うそ、おつき」
ひとりが、帽子を
「ほんとだい! 聞いてみろ」
「だって、おまえとは、似ていないよ」
トム公、悲しい顔をした。
「なんといっても、現行犯だから、もう言い
「そうよ、こん夜はもう、いくらプリンスが逃げようとしても、私たちで、暗いところへ連れて行って、童貞の洗礼をしてあげるよ。ね、みんな」
トム公は、女たちの
「童貞って、なんだい」
「だから、教えてあげるのよ」
「教えてくれよ、ここで」
「ここじゃ、教えられないわ」
「口でさ」
「口じゃ教えられないもの」
女たちの淫らな眼は、それを想像するだけでも
彼にも、何かしら分った。と共に、トム公は初めて阿片パイプを口に押しこまれた時のような
「あっちへ行け!」
「おおこわい、どうしたの」
「おいらは、今夜ここで、みんなと会う約束がしてあるんだから」
「あ······愚連隊。そう、何時に」
「十一時」
「じゃ、それまで、兵隊山へ来ない。でなければ、高島町の倉庫の裏」
トム公は、ポケットへ手を突っこんで、五、六十銭ほどの、銅貨と銀貨をつかんだ。その中から白いのだけを拾って、つき出した。
「あら、授業料は、いらないわ」
「こっちから上げるわよ」
と、女たちは、接吻の雨を彼に投げた。
「この間の借りだよ」
トム公は、ひとりの女にそれを渡すと、逃げるように駈けだして、元の
蓄音機屋のまえの綺麗な一団も、もうそこにはいなかった。
時計屋の時計塔が、夜の空に、十一時の指針をきっかり示している頃、その大きな時計問屋の地下室では、
お光さんは、実は、ここの少し変態なといわれている老主人の
やがて、彼女の待つ足音が断続して訪れた。男のくせに、いつも薄化粧をしているバプテスト神学生の三浦、紺がすりの羽織紐を首のうしろへ引っ掛けている今村、西洋乞食の
南京豆の三角な袋が、事務卓の上に、十ばかり腹を裂いている。その殻をわる音が
「食べてばかりいないで、そろそろ議事を進行しようかね」
お光さんが言った。こん夜の議長格然と。
「三浦君||」
彼女は、男に対しては、君をつけ、君をもって呼ぶことにしている。
「調べてくれたの?
「学校に、そこへ金曜ごとに行く
彼女は、トム公の方をふり
「トム公、聞いたかえ、よく聞いといて、亀田の家族に話して安心させておやりね」
感謝をあらわしながら、トム公は、黙ってうなずいた。お光さんは、パッと、指先と唇のあいだから煙草の煙をはいて、
「それから、あの、樫井君、石炭屋の高瀬とあの
樫井は、ふけだらけな頭をかいて、
「どうも、うまく探れねえんだ」
「じゃ、落第よ、君は」
「
「なんにも報告がないの」
「きょう
「そんなら、私だって知ってるわよ。これからも、一週間位は、別荘の方にいるようだから、じゃその方も私がひきうけちまおう······」
それから彼女は、びろうどの小型なサックを帯の間から取り出して、その中からすばらしい
「諸君||こんなものが手にはいりましたのよ。こん晩は、そのご報告をいたしますわ」
「あっ、これかも知れねえぞ」
トム公は、直感的に、口をすべらして、黙っておいでと言うように、お光さんの眼に止められた。
「指環は、ごらんの通り、婦人の小型、
と、お光さんは、ひとわたりそれを一同に見せびらかして、一枚のマントを五人ぐらいで着廻している愚連隊の
「それが、どうしたというのか、早く、説明に移ってもらいたいな」
と、神学生の今村が言った。
「この店で、二千円で買うと言うんなら、買ってもらって、少しお光さんの手からうるおして貰いてえもんだ」
と、西洋乞食は寒がった。
「ところが、そうは行かないんですよ諸君。なぜと言えば、これは当店の品でも私の所有品でもありませんから、||実を言うと今日、ちょうど私が店の金庫の前に坐っている
「なるほど」
「二千円······はあると言うのよ、狒々がね」
「ふウむ」
「男は、すぐにも売りたい顔なの」
「いったい、その男ッていうなあ、どんなご人態なんだい」
「至って、おとなしやかな商人風の三十二、三という人物さ。黒眼鏡をかけて、糸織の
「あぶねえもんだぜ、そんな口は」
「あぶないどころじゃないのよ、諸君」
「へ」
「ちらと、私がそばから覗くと、まあ、どうだろう、その前に検事局や伊勢佐木警察署へ行って、未決の予審調書から写して来た盗品と、そっくりじゃないか」
「じゃ、亀田が
「そう······。これが、そうなの」
「じゃ、いよいよ亀田の窃盗罪は、むじつときまった」
「そんなことは、トム公が、最初から断言しているじゃないの」
「そこで、どうしたんだ、店では」
「狒々旦那は、考えておくから、あしたもういちど電話をしてみて下さいと、軽く断ろうとしたのよ。||だけど私、そばからすすめて、無理に品物を預からしたのよ、その男も、急場に金がいるんだから、置いていってもいいと言うのさ。······面白いだろう、明日の午後二時頃には、もういちどその男が、店へ来ることに
「よし、そいつは、おれが捕まえる」
と、今村や二、三人が
「で、捕まえたら」
「わたしとトム公とで、十二天の上で待っているから、連れて来てもらいたいわ」
お光さんは、指環のサックを、広東服のポケットに納めて、
「高瀬の方の手段は、それから考えたっていいしね······」と南京豆を割った。
その晩の話は、それですんだ。
「居留地のクラブへ行こうぜ」
「だめだよ、君たち」
「どうして」
「李鴻章は、
熱い
「おや、
「昨ばんはどうも」
と、主人の春太郎という、自分も、抱えといっしょに、座しきに出ている三十ぐらいな働き
「今朝もはやくから、
「朝から、
「おかげさまでね」
「それに、あの
「何しろ小さくってね」
「内気だけど、品がいいもの、ほかの
「感心なことには、五十銭でも一円でもお小遣いがあると、
「へ。家は」
「それを言うと、いやがるんですけど、相沢のイロハ長屋······」
と言いかけて、口をむすぶと、格子が軽く鳴った。
「あら、もう帰って来たの」
豆菊は、すぐ千歳の女将の方へ、
「きのうは、有難うございました」
「まるで、家の娘みたいだね」
「置いてみれば、可愛いもんですから」
と、言って春太郎は、豆菊の方へ向いて、
「どうしたの、お座しきは」
「あの、蔦家のお客さんが、伊勢佐木町へ連れてゆくと言うのよ、わたし、昼間だから、いやだって、言ったんだけれど」
「
「今、家へ行って、
「
「え」
と、千歳の女将の方へふり向いて、長い袂を持った。
「あのね、おまえさん、ゆうべみたいに引っこみ思案じゃいけなくってよ。きょうは、そのお客さんに、何でもねだらなくっちゃあ······」
「だってエ······」
「どんなお客さん」
「それはやさしい人」
「
「東京ですって、まだ若いのよ、そして、黒い眼鏡をかけて、どこかの、若旦那みたいな人」
「おや、この
「そんななら頼もしいけれど。······さ、お客さんが待っているんだろう、はやく行ってらっしゃい」
「どれ、私も」
「まあいいじゃありませんか」
「おや、もう一時。ちょっと、朝のうちに、お薬師様へお詣りして、帰りに、西の橋の
「ご病人でも、あるんですか」
「いいえ、人様の頼まれごとだけれど、まるで見当がつかないのでね、探偵じゃあないし、またそう他人に話しては困ると言うし、困ったことを
「ホ、ホ、ホ。女将さんのような気性だと、見込まれるんですよ」
「女のとりもちぐらいならいいけれど、大隈さんも、ひどい目にあわせるわよ。いずれ、お前さんにも智恵を借りたいと思うけれど」
と、急にいろいろの用事を思い出したように、そわそわと下駄をはいて、
「豆菊ちゃん、そッち? また、遊びにおいでよ」
真昼の、活動的な、太陽の
茶色の中折帽に、黒眼鏡をかけ、色の小白い中背の男だった。すこし、やにっこく、若旦那を気どってはいるけれど、女たちには、気うけがいいに違いない。
「買ってやるよ、買ってやるから、往来でそんなことを言うのはよせやい。それに、用事を先にすまさなくっちゃだめだから、おまえたちはそこいらで待っておいで」
「いやだわ、置いてけぼりなんか······」
「誰が、そんなことをするもんか、すぐそこだよ」
「どこ? どこ?」
「どこだって、いいじゃないか」
「いけない、いけない」
黒眼鏡はあわてて手を振って、
「
と、睨む真似をして、早足に五、六歩離れると、またふり
豆菊とひとりの若い
時間を約束してあるので、小売部の金庫のまえには、豚のごとく肥えた老主人が、お光さんの
「どうでしょうか、昨日の
と、黒眼鏡は、店の椅子に腰をかけて、
「買ってくれませんか」
と、切り出した。
老主人は鈍角な赤ら鼻を上げて、
「拝見いたしました」
と、不明瞭に、ていねいに答えた。
「値だんですか、そちらで、考えているのは」
「ま······それもございますが」
「少しゃ、引いても、いいですよ」
「はい」
「一・半カラットは十分にあるんですからな。それに、尤も、そっちの方が眼が黒いでしょうが、
「分っております」
「どうでしょう、私も、きょうの夕刻の七時までには、どうしても、
「ま、お茶をひとつ······」
「人が待っているから、なるべく」
「こちらへ、お入れなさいましては」
「いや、かまいませんが、どうですか、その方は」
「実は、きのうここにおりました娘が······」
「ふム、あの、
「はい、あれが、非常に気に入ったふうでしてな」
「ふム。ふム」
「持って行ってしまったんでございます」
「どこへ」
「それがまだ今日
「じょ、じょうだん言ッちゃ困るよご主人。僕は、ここの店へ売ろうというのだから」
「分っております。······ですから買う買わないのご相談も、ひとつ、それが来てからにして戴きたいのでございますが。いえ、責任は当店で持っております。お預かり物を、どうの、こうのと言うのではございません」
「じゃ、いつ頃見えるのかね、その広東服の娘さんは」
「晩には、きっと、見えましょう」
黒眼鏡は、店じゅうの時計の時間を見くらべて、
「それでは、もういちど、晩に来よう」
「ご足労でございました」
「値だんは折り合うから、なるべく、買い取ってくれたまえ」
「はい」
店先を出て行くと、男は、中折帽のやまへ手をやりながら、往来を見わたして、向うの角に見えた豆菊と
郵便箱の蔭にかくれていたトム公は、男の足がはやくなったのをみると、ついと飛び出して、一本指を上げた。
「おい、君、君」
愚連隊の西村と樫井だった。
「手間はとらせんが、ちょっと来てくれないか」
黒眼鏡の顔が、さっと、青く
「どこへ」
「警察たあ言わねえよ、僕らは、刑事じゃないからね、安心して来たまえ」
「誰だ、君たちは」
「
「············」
「まあいいから来たまえ」
「いや、僕は、連れがいるのだから」
「連れは連れで、また、いつでも別な日に会ったらいいじゃないか」
しっかり、両方から腕を
が||下にはボートが待っていた。黒眼鏡のからだが、
そして黒眼鏡の四肢を、ぎりぎりと隅へしばりつけるとボートは、オールの
びっくりして、色を失った豆菊や若い妓はその橋の上を、今にもわっと泣き出しそうな顔をして、関内の街へ、走っていた。
火を
赤い帆の
||
「||失敬ですが」
「火を一つ」
と、一度吸って消してある両切りの先ッぽを、ぶしつけに、出して来たのである。
「火ですか」
「恐縮ですが」
お光さんは、わざと火のついている煙草はそのまま指に置いて、ポケットから、
男は、人間の小骨みたいな蝋の棒から、
それを、戻しながら、
「いい日曜ですな」
「え······」
お光さんは、道理で港内が静かなわけだったとうなずいたけれど、男の顔へは、
「お散歩ですか」
と、男はうるさい。
「え」
「どこかでお見うけしたように思いますが······あなたを」
「そうですか」
「ご近所ですか」
「え」
「
お光さんは、とうとう、持ち前のかんしゃくが起きてしまった。
「うるさいわよ。君」
君! と来たので男はぎょっとしたように彼女の顔を見直した。
お光さんは、犬を見るように、
「||ご苦労様、吹きさらしで、張り番も楽じゃないわね。君は税関のスパイでしょう。顔に描いてあるわ。だけれど、私が、密輸入の信号をしているわけじゃないから、お
「どうしたえ、連中は」
「今、黒眼鏡を引っぱッて、ここへ来るよ」
「税関のスパイがいるから、ここへ来てはまずいね。どこかないかしら、ほかにいい場所が」
「坂のナンキン墓は」
「あ、あそこなら静かでいい、こっちへ上がって来ないうちに、ナンキン墓の方へ行くように連中へそう言っておくれ、私は、上から廻って行くから」
長い急な石段を、トム公が転がるように、駈け降りてゆくのを見て、お光さんは反対に、十二天の境内を裏坂の方へ歩き出した。その背なかへ、まだ
川すじで、貸ボートを捨てた
「十二天はいけねえとよ! ナンキン墓だ、廻れ右」
先へ行ったトム公が戻って来て、そう告げる。
谷戸坂を登って、左側の高い崖をのぼると、中腹に
ここのナンキン墓の墓番をしながら、花や香を売っている広東人の若夫婦は、たいした金が
墓番の若い細君は、同邦人の葬式があるたびに、必ず、
職業婦人の「泣き女」は、その葬式の先頭に立って、人力車の上でオイオイと声をあげて泣くのが商売だった。ナンキン墓の細君は、その泣くことの天才であって、ご亭主さんよりは
その「泣き女」の細君と
「あ、来たのね、諸君」
捕まって来た黒眼鏡の男は、彼女のすがたを見ると、すぐに何か話しかけそうにしたが、樫井と西村に腕を抑えられて、
「オイ、逃げると、手荒くなるぞ」
「何も逃げやしない」
黒眼鏡もすこし度胸をすえたように、その手を突ッ放して、お光さんの方へ迫った。
「ご婦人!」
「なあに」
「君はきのう柳田商会にいた娘さんじゃないのか」
「そうよ、覚えているわね」
「なんだって、
「············」
お光さんは、相手にならないで、笑いながら墓地の鎖を
「諸君、こっちへ連れておいでよ、その黒眼鏡を||」
ここへ来ると、愚連隊たちは、急に黒眼鏡を罪人のように小突き廻した。彼は、墓地の上へ追いあげられて、菩提樹の下に起立を命じられた。言うがままにしなければ、その度ごとに、
「誰も来やしまいな」
と、今村がきょろきょろした。
「だいじょうぶだよ」お光さんが言った。
「今ね、墓番の若夫婦にたのんでおいたから······」
「誰か寝てるぜ、あんな所に」
「どれ?」
今村の指さす所へ、みんな鋭い目を向けた。墓と墓とのあいだに、ひとりの清国人が、新聞紙を敷いて昼寝をしている。いや、そこばかりでなく、よく注意してみると、あっちこっちの樹や石の蔭に、木の葉虫みたいにごろごろと人の寝ているのを発見した。その中には、日本人も
「なんだろう? あいつら」
「知らないのかえ、諸君は」
お光さんは笑って||
「あれはね、チイハという南京
||話しながらポケットを探っていたお光さんの手には、いつのまにか、小さな
黒眼鏡は、それを見て、顔もからだも、硬直したように、
ピストルが物を言うように、冷たいことばだった。
「君」
「············」
黒眼鏡は、その黒い
「君」
「······なんだ」
「名まえを
「僕の姓名を貴様などに告げる必要はない。そんな物を人に向けて、何をするんだ」
「素直にしなければ、撃つのよ。
彼女は、事もなげに、菩提樹のこずえに向って、一発、実弾を放した。
「まだ、五発あるわ」
今の
お光さんは、重ねて、
「名まえは? 君の」
「高橋」
と、遂に、黒眼鏡もふるえながら言いだした。
「高橋? それから」
「高橋
「
「東京」
「うそ。······ほんとのことを仰っしゃいな」
「東京だから東京だって言うのに、信じなければしかたがない」
「うそ、うそ。柳田商会の伝票へ書いてあったのは、長者町八丁目、盛心館としてあったじゃないの」
「それは下宿先だ」
「ご職業は」
「木綿問屋ということも、きのう柳田の店で話していたはずだ。知っているならば、くどく聞き給うな」
「お生憎様。君は、まずその黒眼鏡を
トム公は、さっきから、彼女の侍者のようにまた、今にもつかみかかりそうに、鋭い眼をしていたが、黙って、うなずいた。
「君は、木綿問屋ではありません、ほかに本職があるでしょう。言いにくければ、私が、代弁してあげてもいい」
「············」
「言わないのね、じゃ、私が高橋八寿雄に代って告白しましょう。||諸君、わたくし、高橋はですね、実は
彼女の皮肉な
「野郎」
「ふざけるな」
追いかぶさった腕が、何本も、彼の帽子、彼の襟くび、彼の袖、彼の帯をつかまえて、
「野郎、逃げられるものなら逃げてみろ」
「············」
男は、半殺しの目にあって、腰も上げ得ないほど参ってしまった。そして、眼鏡のとれたすごい顔を、お光さんに向けて、
「さ、殺せ。殺すなら殺してみろ。そのかわりにてめえたちも、ただはおかねえぞ、おれは東京の仕立屋銀次の身内で常ッていうんだ」
「じゃ話はすぐに分るわ、とんだ失礼をしたけれど、君が、ここまで来ても口を
「覚えていやがれ、畜生」
「まだ怨んでいるのね、君は。||君は勘ちがいをしているのよ、私たちは何も、好んで君を痛めつけたわけじゃないわよ、そこに、相当な理由があるから
「なんだ、いッてえおれに聞きてえというのは」
「これよ」
お光さんは、
「ご存じ?」
「知っている!」と、
「
「それがどうしたって言うんだ」
「有難う······。それさえ分れば、ここに
トム公は巾着ッ切の常に向って、亀田がその
トム公の話の半ばごろから、巾着ッ切の常は首を垂れてしまッて、社会の最大悪を犯したように、ただただ恐れ入っていた。そして、こんな言葉をつけ加えた。
「実あ、あっしも、まさか
と、大きな口を開いて、自分の喉仏を指さしながら、
「
「じゃ
「まさか」
と、巾着ッ切の常は、すこし明るく笑った。
「何しろ、わけを聞いてみりゃ、重々、すみません。
「きっとだね」
「へい」
「じゃ、ほんとの住所を書いといてくれないか」
「ここへ知らせて下さりゃ、いつでも、入監の支度をして、出て参ります」
東京市本郷区湯島仕立屋銀次方||と鉛筆で書いたのを、お光さんに渡した。
山の下には、もう谷戸町や北方の町に、美しい灯がともっていた。
「どうですか、諸君」
常と別れてから、お光さんは、ナンキン墓を下りながら
「こん夜は、トム公のために、
「二千円?」
みんな、
「アア二千円よ、そしてさ、百円は亀田の家族にやっとくよ、そして、百円はトム公のおっ母さんに上げっちまうよ! そしてあとの千八百円をどうすると思う?」
「むろん、こっちへも渡るだろうな」
「仲間割れをしッこなしさ。合資会社ということがいいじゃないの。諸君! 八百円をわれらの
「異議なし」
「さんせい!」
「だけれど諸君、競馬ばかりに熱中しちゃ困るわよ。まず、指環の真犯人はいつでも出せることになったから、これからは、高瀬理平への策戦よ。でなければ、なんらの意義がなくってよ、ねえトム!」
トム公は、愉快で愉快でたまらないように、足を
「競馬? そうだ! 根岸の競馬へ行きゃ、きっと、石炭屋の高瀬とあのおんなたちが来ているぜ!」
あれから幾日か
店の、うす暗い金庫と事務卓の隅に、赤い笠の電気を捻って、何かカード
「おや、来たのかい」
と、あわてて卓上のカードを取りまとめて、手の下にかくした。
お光さんは、腰をおろすとすぐに、それを彼の手の下から

「いやなお
と、唾を吐くように言いながら、お光さんもまた、それを離そうとはせずに、つい同じ物を何度も繰り返しては眺め入ってしまうのだった。
「いいじゃないか、何もこれは、わしの
と、老人は、どうせ見られたからには、という風に、隠していたあとのカードまで、みんな彼女の手へ公開してしまった。
「まあ?」
と、お光さんは、その一枚一枚に、わざとらしい眉をひそめながら、息をのんで見て行った。それは、阿片やモルヒネと同じように
「つまんないわ、こんな物」
と、
老人は、それを、あわてて掻き集めて、金庫の中へ仕舞いこんだ。そして、意味のあるようなないような、妙な笑いかたを頬杖にのせて、
「あとで時計塔へおいで」
と、老人のする別種な気味のわるいはにかみをして言った。
「ええ、行くわ。私も話があるから」
老人は毛皮のスリッパを
その扁平な狭い所へもって来て、
お光さんは一週間に一度ずつは、この時計塔の裏に登って、柳田老人の自由意志の
「あ。······忘れた」
と、老人はぴくりと体を起しかけた。
「なにを」
「今の写真を持って来て、ここで、二人してゆっくり見るんだったに」
「いいわ、あんなもの、持って来なくっても。······それとも私の魅力は、あんな物以下なのかしら」
「そ、そんなことは、ないがね」
「じゃ、こうしていらっしゃいよ。あの写真のようになれというならば、私、どんなポーズにでもなって見せるわ。その代り、きょうは店へ買い取って貰いたいものがあるのよ、この間、二千円と評価したけれど、千五百円に負けとくわ、儲けさして上げたり、言うことを
と、お
そこの「時計の心臓」は、いつのまにか真っ暗になった。ちょうどそれが懐中時計の機械の中の
ギギギと、天井の遊体歯車の一個が活動しはじめると、何処かにかくれている
「······八時?」
と、数えていると、どこか遠い外の方で、するどい指笛が二度ばかり聞こえた。彼女は、
ただ||たった今、郵便箱の蔭で、指笛を吹いたトム公だけがすぐにそれを見つけて、にこッ、と笑った。
お光さんは首をひッこめた。
そして再び、飽食した豚のように、
三階は、日本間になっていて、老人の居間であった。彼女がそこの勝手に通じていることは、自分の
この間、ナンキン墓での時に、今夜ここへ来いと言われていたトム公は、正直に、約束の時間を待っていた。
「君、たくさん待っていたの」
「なあに、三十分ばかり」
「うっかり寝込んでしまうところさ。そのかわり、予定は着々とはこんでいるわよ。······さ、この百円を亀田の家族に、この百円をおまえのおっ母さんの当分の暮しにあてがっておいで。||それからだよ。高瀬との
トム公は、生れてからまだ見たこともない二百円の紙幣をからだに持って、なんだか、足がふわふわした。
「そしてと||明日じゃない||
こう言って、彼女は、たくさんな人が歩いているのに、トム公の顔を抑えて、痛いほど接吻をして、伊勢佐木町の裏で放した。トム公は、眼が
彼は久しぶりで、あれ以来足を抜いているイロハ長屋の、暗い
「牛肉を買って行こうか。おっ母あは甘い物が好きだ、風月の
トム公はいくたびも、そんな食料品屋の前に立って、やさしい出来心を起してみたけれど、二枚の百円紙幣をくずすことが怖くもあり惜しい気もして、とうとう何も買い得なかった。
で、まっすぐに、ほとんど一散に、手を振って貧民街のイロハ長屋の露地口まで帰って来ると、誰かうしろから、大きな手が彼の肩をつかんで、
「トム公じゃねえか」と言った。
振り向いてみると、同じ長屋にいる屠牛場の
「どこへ行くつもりだ? トム公」
「家へ帰るのさ」
「とんでもねえことだぞ」と仙吉は誇張した声で、「長屋にゃあれから後、毎日、一人ずつ刑事が交代で来て、見張っているのを知らねえのか」
「捕まッたっていい。おらあ行くよ、おらあおっ母あに会いに来たんだ」
と、張りつめて来た愛慕が、
「ばかを言いねえ。おめえが捕まったらどうするんだ。亀田さんの
「おっ母あが病院へはいったって」
「知らねえのか」
「知らねえ」
「おめえが帰られなくなってから、
「じゃ、銭がなくって、困ったろうな」
「なあに、病院の方は、オタスケ病院だから、
「小父さん」
トムは感激に燃えながら、二枚の百円
「おら、こんなに金を持って来たんだぜ」
仙吉は飛び上がるほど驚いて、
「や、おい、トム公、これやおめえ、百円
「貰ったのよ······元町のお光さんに」
「お光さん······。あのむらさき組というハンケチ女のお光さんか」
「百円は亀田の家族へ、百円はおれのおふくろに」
「だって、あのお光さんは、南京
「なあに、あの
「ばか。ばか。||そんな大金を持って捕まったひにゃ、なおさら罪が重くならあ。それなら今、おれが亀田のおかみさんを呼び出して来てやるから、どこかそこいらに隠れていろ」
仙吉は、そう言って、イロハ長屋の暗い露地にかくれた。
しばらくすると、
「トムさん、こんなお金をいただいてどうしましょう。
と、亀田の細君は、どうしても金を受けなかった。まだ貧民街のどん底気質に馴れない中産階級型のこの細君は、刑事に追われているトム公の手から出された百円紙幣を、何の恐怖もなくは見られなかった。
しかし、母乳が出ない上に、赤ン坊のミルクを買う金もないので、母も子も、
「もう犯人も分っているし、いつでも、自首させることになっているんだから、近いうちに、きっと亀田さんを長屋に帰してあげるぜ。······だから気を落しちゃいけねえぜ」
トムはそれから、母の収容されている
「どうしても、おっ母あに会って来る!」
と、仙吉が危険だと言って止めるのを振り切って、そこへ廻った。
植木商会のひろい庭園を抜けると、道が半分も近いので、彼は、通行の止められている柵を越えて、背のたかい
輸出向の百合の根がたくさん蓄えられてある倉庫の間から、彼は山の手通りへ飛び出した。五、六丁、桜並木の蔭を走ると、右がわにひろい空地をかこんだからたちの垣がある。
そのまん中にある三階
あの三階に見える弱々しい灯の一つが、盲目の母の枕辺を照らしているのだと思うと、トムはひとりでに眼がしらが熱くなった。
生首正太郎と自転車お玉とが、築地河岸の闇で七五三
「おや、どこからはいって来たんだ、おまえは。||残飯なら
ぼんやりとそこへはいって来たトム公は、この小使部屋で珍しいものを見た。それは天井から下がっている五燭の電気だった。居留地の異人館ですらまだ多くがランプなのにここには電気がついている。
彼はポケットに突っこんでいる指先に意識をとめてみた。ポケットにはさっき亀田の家族へと言って仙吉にあずけた百円のほかに、もう一枚の百円
トム公は、その吸いかけの方を紙パイプから抜いて差し直しながら、そこにあった大きな鉄の炭挟みの先へ挟んで火をつけた。そして口へ持って来て横に
「おじさん、おら、残飯貰いじゃねえぜ。この
「じゃ正門の方へ行きな。そして、受附へ面会人の名前と、自分の住所姓名を言って、その上で、医務室のゆるしを得なければいけない」
「だって、表門は締まっているじゃねえか」
「面会は午前九時から七時半までの規則だから」
「ところが、おら、昼間は来られねえんだよ。後生だから内証でおっ母あの病室へ連れて行ってくんねえか。え、おじさん」
老小使の眼は十分な疑いをもってトム公の挙動を調べ始めた。彼の
「ちょっと訊くがお前||一体どこからここへはいって来たのか」
「裏門から」
「裏門も閉まっているはずだが」
「からたちの垣を越えて」
「ふーむ」と
「三階の十九号室。||そこに、相沢町
「はいっている。十九号は伝染病隔離室だから腸チフス患者だな。それがおまえのおふくろか」
「あ」
「名前は」
「おれのかい?」
「そうさ」
「かんかん虫のトムっていうんだ」
「トム? ······
「馬鹿にすんねえ!」
トムは純粋な日本語を飛ばして、口元まで吸い切った煙草を火の中へ抛った。紙パイプの
「混血児か混血児でねえか、よく眼の色を見てくんな」
「だって、トムなんていう名は、日本人にはないだろう」
「詳しくいえば千坂富麿っていうんだけれど、舌が廻らねえや、トムで分るじゃねえか」
「とにかく
「そんな馬鹿なことがあるかい」トム公は食ってかかった。
「自分のおっ母あに会うのに、他人が許可をするもくそもあるもんか。おら、ここからはいって行くぜ」
「そうかい、無断ではいって行くならはいって行くがいいだろう。その間に、おれは前々から刑事さんに頼まれていることをしておくからな」
と、老小使も彼といっしょに廊下へあがって、電話室の扉に手をかけながら振り向いた。黄色い歯がげらげらと笑った。
トム公は、あっと足を
「おっ母あ。······おっ母あ」
心のうちで叫びながら、病院のまわりを歩いていた。夜もすがらこうして歩いていたら母が自分の姿を夢に見るであろうと
と、永いからたちの
「兄さん。······兄さん」
トム公は
「あ、お菊ちゃんだね」
トム公は言った。
お菊ちゃんとは、
「馬鹿だなあ」
トム公は、兄さん顔をして、
「何だッて、女のくせに、こんな所へ来たんだい。馬鹿だなアお菊ちゃんは、早く帰れよ」
「だって······昨日
「誰と来たの?」
「
「どうして、おっ母あが
「警察の人が金春へも調べに来たのよ。わたしみんな聞いたわ、兄さんは、警察でも手こずッている不良少年なんですって。こんど捕まえたら、八丈島の感化院へ送ることに
「ふふンだ! 誰がくそ、感化院なんかへ行くかい!」と、トム公はむきになって怒りつけた。
「おれが悪いことをしたッて、
彼のみはそう言って、独りで気概を
「······兄さん」
「泣くない、馬鹿だな」
「おっ母さんは、死ぬんじゃないの」
「············」
「わたし、お座敷にいても、寝てからも、それが心配になって。······ねえ兄さん、おっ母さんが死んだら、私たちは、どうするの······」
「死にやしないよ、病院にいりゃ大丈夫さ。それよりも、菊ちゃんは、どうして今時分来られたんだい。金春の
「いいえ、お客さんに、お座敷を付けて戴いたの。······そんないいお客さんを、兄さん達はこの間、
「あの黒眼鏡か」
「え」
「だってあいつは、
「違うわ、あんないい人はなくってよ。わたしが、せめて病院の外から、おっ母さんのいる窓の明りでもいいから見たいと言ったら、
「おれも、おっ母あに会いたくって来たんだけれど、どうしても、会わしてくれやがらねえ。||よし、菊ちゃん、もう少しそこに待っていな、もういちど行って、何とかしておっ母あにおめえが見舞に来たことを話してやるから」
トムはたちまち駈けて行って、前の小使室をのぞきこんだ。電気が消えて、錠がかかっていた。彼は安心したように、病院の横へ廻って、物干場に渡してある、すべての綱と
外から眺めている豆菊の眼には怖くて見ていられないような、彼の敏活な行動が始まった。苦もなく二階の
ぶら下がッたトム公の体は、時計の振子のように二階と三階の間に大きく揺れていた。彼の両足は高い壁上を逆さになって歩き出した。
仙さんが教えてくれた通り、彼の見ておいた三階の五ツめの窓が、たしかに十九号室であった。
「おっ母あ!」
その
「おっ母あ!」
トムは遂に、
「こっちへおはいり」
と、彼は手を取って中へ引き込まれた。
しかしそれは、母ではなかった。黒い背広の上へ雪白の臨床服をまとった医員であった。トム公は
「こらっ、静かにしちょらんと、縛るぞ、縛るぞ。||おまえわしの顔を忘れとるな」
彼は白い
暗いからたちの外に、豆菊は、いつまでも正直に立っていた。わッと泣きたそうになるのを
「おい、君あここで、何をしとるんだ」
刑事風の男がそばへ寄って来た。そして彼女の
「おまえは、かんかん虫のトム公の妹じゃないのか」
「え? ······」
「トム公は捕まった。もうここへ戻って来やせんぞ」
豆菊は
「可愛い
豆菊はその手を振り払って、桜並木の蔭を夢中で駈け出した。
「どうしたんだい豆菊さん」
けれども豆菊が、あの愚連隊の仲間にいたトムの妹だということは、その晩、彼女が帰って来てからの話で初めて知ったのであった。常はトム公が捕まったと聞くと、
で||翌日、その柳田商会へ、電話でたずねてみることにした。電話口に出たところはたしかにあの
「······はあ、はあ、お光ですか。お光ならば、こちらへ来るのをお待ちになるよりも、明日、根岸の方へ行ってお探しになる方が早うございますよ。根岸? ······え、あの、競馬場です。何でも、明日が初日だそうで、あいつめ、
||その頃まだ
ミソ!
てッか味噌ッ。
と。||だが異人さんはそんな時、人のいい笑い顔を何事かと振り向けているだけだった。かえって日本人である花屋の
「こいつらッ、清正公様のお堂の蝋燭で
と、
だからまだカトリックの宣教師たちがいくらクリスマスに贈り物をくれたり、日曜学校を建ててオルガンを
今朝も丘の日曜学校ではオルガンの音が洩れている。しかし日曜の
||ところがその神聖な建物をかこむ根岸の松ばやしのある丘には競馬へ押し出す勢ぞろいをする約束だったので、約束の午前十時頃になると、広東服のお光さんだの、愚連隊の三浦だの、樫井、西村、今村だのという、みんなユダみたいな人間ばかりが集まって来て、早速、マッチの棒や、ナンキン豆の
しかしきょうの愚連隊たちは、みんな
「諸君、紳士になったら、南京豆だけはよしたらどう」
お光さんは、両手を腰につがえながら、服装と品行のつりあいがとれない彼等のグループを上から眺めて、
「それはそうと、トムはどうしたんだろうね」
と、気がかりらしく呟いた。
「そうだ、トム公だけが来ない」
と樫井は芝の上から立ち上がった。そして、丘の端へ歩いてゆくお光さんの後について、そこから目の下に眺められる広い
相沢から根岸の競馬場へとつづいているその道筋には、ほとんど、
「どうしたんだろう?」
お光さんはもういちど呟いた。けれどあのチビなトム公であるから、数万の人間が潮流のように押してゆく所に発見されるわけもなかった。
「あいつだけ知らないのじゃないか、きょう競馬に行くことを」と、樫井は言った。
「そんなことはないわけよ。ナンキン墓の帰りにも相談を聞いていたし、あれから後、私の口からもよく話してあるんだから」
「妙だな、来ると言えばきッと来るトム公なのに」
「だから私も心配なの」
お光さんは、折角もくろんで来た馬券合資会社の出ばなを折られた気がして、こんな日に競馬場へ行っても勝てないに決まっていると思った。トムのいないグループなら彼女になんの魅力もない、用もない存在だった。
帰ろうかしら?
彼女はめずらしく女らしい憂鬱に曇った。しかしほかの連中は、競馬場の上の埃を見るだけでも気が
「もう十一時だ」
ひとりが、つまらなそうに言った。
「お光さん行こうぜ!」
花火が空に
「君、入場券をお買いよ。ええ、七枚」
今村に
「あ。お光君じゃありませんか」
と寄って来た。
「オヤ、君はこの間の······」
「え、高橋
と、巾着切は中折帽をとって、左の手の甲で汗ばんだ額を抑えた。
「ずいぶん尋ねましたよ、一度
「よく知っていましたね、私たちがここへ来るのを」
「柳田商会で訊いたら、多分、きょうから競馬の方だろうと言うので」
「お
「いや、あっしゃあ、競馬なんざあ嫌えです。競馬へ来ることはあるけれど、馬を見たことはありません」
「なるほど、それよりは、むしろ馬に気をとられている人間のポケットの方に目をつけますか」
「もちろんです······」黒眼鏡は笑って、
「職業意識はどんな所へ行ったって働かずにゃいねえんで」
「私たちのだけは許して欲しいわネ」
「まさか。||あはははは大丈夫ですよ。あ、話が
「異状って?」
「とうとう、食らいこんだんです」
「えっ、捕まったの」
「それを皆さんに
と黒眼鏡は豆菊から聞いたとおりのことを、そこで早口に、雑沓の中で話し出した。||競馬場の中では初日ゲームの第一戦を報ずる爆音が揚がった。観覧席からは騎手の名をさけぶファンの絶叫が嵐のように起っている。それを、思いがけない
「なあに、トム公のことだもの、捕まったって、
と、なるべく簡単に、はやく、片づけたがった。
「でも、検事局へやられたら、もう手遅れですからな」
「未成年者だから、あそこまでへはやられまい。警察からすぐに少年審判所送りになって、八丈島の感化院へやられるのさ。||鳥も通わぬ八丈島のね」
とお光さんが言った。お光さんはいつもに似あわない憂鬱で、言うことまでが感傷的であった。
それを打消すように、今村や樫井たちは、
「大丈夫、大丈夫、トム公はきっと独りで逃げて来るよ」と、言った。
「いいえ」
お光さんは争った。
「こんどはそうは行くまいよ、警察でも要心をしているからね。それに、私たちが義憤して
「どうって?」
「この競馬場へはいるつもり? それとも、これから引っ返してトムを奪取するつもりなの?」
「だからその点ならば、
「だって、もし逃げられなかったら?」
「それや、やむを得ないことになる」
「とすれば、プリンスを見殺しにするッてもんじゃないこと。私は行くわよ、諸君||」
お光さんとしては
「あぶない」
と
その叱り飛ばしかたが、刑吏の罪人へのぞむような声だったので、愚連隊の連中は、きっとお光さんがまた例の手をやると思っていると、案の如く、お光さんは、きらりっと馭者の顔を見上げて、奔馬のまえに屈みこんでしまった。||そして
「痛い、痛い······」
と顔をしかめた。馬は止まった。奔馬のまえに屈みこむ美人を
お光さんにはこういう叛逆的な性格が多分にあって、ことにそれが、二頭立ての馬車や一等列車に納まり返っている上流の人間に向って強いのである。貴顕豪商というと彼女は生れぬまえからの

けれど、
「だ、だから、言わないこッちゃない!」
と蒼くなって馭者台から飛び降りると、屈みこんでいる彼女のそばへ寄って、
「どこです?
と、あわて声でたずねた。
「足を折ったのよ」
彼女は言った。
「折った?」
「え、右の脚を折ったから起てないわ、どうしてくださるの」
「大げさなことを言うな、脚を折ったものがそんな真似をしていられるか。ふてえ女だ、
「君! わたしをゆすりだと言ったわネ」
この、君! にたいがいな馭者は毒ッ気を抜かれるし、またそのうちには人だかりがするので、車上の者が紳商貴顕のたぐいである場合には、必ず馭者を呼んで、金貨か紙幣をそっと握らせて
いつもの例である||とお光さんの折れもしない脚に、相手が薬でもない金貨をそッと塗りつけようとすると、
馭者は、彼女の
彼女は
愚連隊たちは面白がって成行きを見ていた。
そのうちに、後から後から競馬場へ来る二人曳きの腕車や馬車がれきろくとしてつづき、そしてたちまち、停滞車に道を
「おい、どうしたんだッ、前の馬車は」
競馬の日は、人々の気が立っていた。
「やい、わきへ寄せろ」
「ぼろ馬車」
「
かかりあいになった馭者は、甚だしく狼狽していたが、お光さんはあたりが殺気立つほど冷然として、
「君はわたしを
「もし、わたしの玉のような体に、少しでも怪我があったらきかないよ。わたしもハンケチ女の紫組のお光さんだからね」
こう言われて尻尾を巻かない馭者があればもぐりである。果たして、彼女をさんざ罵倒した馭者は蒼くなって謝罪した。けれどお光さんはきかなかった。
「いやよ! さ、裸にして調べて頂戴、君も男じゃないこと」
すると、群衆の中に交じって、それとなく弥次っていた愚連隊の中から、神学生の今村がつかつかとそこへ出て来て、
「じゃ、君にまかせるわ。||そのかわり晩までにごあいさつがないと、わたし、どんなことをするか分らなくってよ」
と、
馬車は揺るぎ出した。それとほとんど一斉に切符売場は殺到する客で混乱しだした。||神学生の今村は、そのまま救ってやった馭車台に跳びついて、
「少しの間待っていたまえ||何、じきにすくよ、また今みたいな女愚連隊に引ッかかるとつまらんからね」
と、馭者に話しかけながら、眼は、
「······奥さん、何でしたら、僕が、切符を買ってさし上げましょうか。どうせ僕も買わなければならんのですから」
今村は言った。
槙子は、幌の奥から、
「ありがとうございます。切符は、私たち主人が馬を持っているのでレース倶楽部の会員券がありますから······」
「あ、馬をお持ちですか」
「はい、クンプウというサラブレッド種の
「クンプウ? へえ、あれはおたくの持ち馬ですか、すばらしい
「さほどでもございませんけれど。······あの只今のお礼と言っては失礼ですが、今日は主人が参りませんから、まだ入場券をお買いにならないのならば私たちといっしょに、会員券でおはいりなさいましな」
「そりゃ大助かりです、どうぞ」
と、今村は馭者台の端から下りて、従者のように、彼女たちを馬車の
||遠い人混みの中で、結果をみていたお光さんや黒眼鏡や樫井たちは、くすりと、笑いをしのばせながら、
「今村のやつ、まるで、川上音二郎の
と競馬場の中へ消えたうしろ姿まで見送っていた。
そしてお光さんは、何かささやくと、みんなと別れて、ひとり、二人曳きの帰り俥を飛ばして、どこかへ急いで行った。
「あ、ここよ。ここでいいのよ」
お光さんは俥の上で腰を浮かした。
競馬の前から乗ったお客様ではあり、スマートな
「へ? こちらですか」
「そうよ」
膝の
「おばさん。||オヤ相かわらず働いているのね」
彼女は土間を通って、
「なんだ、お光さんか」
いわゆる後家の気丈者らしいここの
「おまえさんも相変らずよく遊んで歩いているね」と、言った。
「だっておばさん、何をするのも、若いうちだもの」
「そうかね」
「おばさんみたいに、お
「そうかね······」と、処世の哲学をしっかり持ってしまって、なりにも振りにもかまわない内儀さんは、てんからお光さんのたわ言などは、うわの空で聞いているらしい。
「松どん、松どん」と帳場の下からコークスにかかっている鍋を気にして、
「
「おばさん、その留置場へ、ゆうべ、かんかん虫のトムがはいって来ない?」
「トム? 知らないね。だれか知ってるかえ、伊勢佐木署へそんな男が抛りこまれていたかいないか」
「お光さん、トム公ってな、子供でしょう。まだこんな
「そいつなら、ゆうべも今朝も、さんざん刑事部屋でなぐられていたッて、庄吉が話してましたぜ」
「じゃ、たしかに、捕まって来たのだね」
「なあに、今朝はもう、西戸部の少年
「おや旦那。······いらっしゃいまし」
ふいに、内儀さんが座蒲団を向けたので、お光さんはうしろを振り向いてみた。そしてすぐに、自分の肩に寄って、ぬうっと立っている男に刑事らしいにおいを感じた。刑事の
こういう人たちにありがちな
「おかみ、この
と鼻で、お光さんを指したものである。
「わたし?」と、お光さんは先に答えた。
「ゆうべ、おたくでごやっかいになった、トム公の
顔ばかり見つめてしまって、うもすも言うのを忘れている刑事をうしろに置いて、お光さんは、家の中を素通りすると、とんぼのように裏通りの秋晴れへ出て行った。
トム公は、ゆうべも今朝も、伊勢佐木警察署の刑事部屋で、刑事たちに、さんざん撲られたり蹴られたりした。けれどやがて九時ごろ、西戸部の少年
ここは監獄ではない。そうかといって、学校や家庭のようでもなかった。高い黒塀は一丈もあるし、陽当りのわるい部屋には一つ一つ錠がかかるようになっている。昔は||明治四、五年ごろには、戸部の西洋牢と言って、ふつうの罪人を収容した遺蹟だそうであるが、今では畳を敷いて、遊戯場には一個のピアノを置き、
不良児たちの間では、ここへ三度来ると、八丈島の感化院へ送られて一生涯帰れないということが信じられ、恐れられていた。||トム公はこんどで三度目だった。そして高い塀の下に咲いているコスモスまでが故郷の花のごとくなつかしい。
「トムが来た」
「プリンスが来た」
懲治監の不良児たちはおそろしく敏感でまた早耳だった。その無電的な囁きはたちまち伝わって一丈もある黒塀の囲いの中を明るくした。各個の監禁室にいる不良児たちは、バンザイのかわりに、指笛をふいて、監視に叱りつけられた。
「何を騒ぐ、おまえたちは」
監視人には、まさか入監者のトム公を歓迎するそれが彼等の礼式だったとは知らなかった。ただいつものように、
「また晩飯を
と、ただ
トムは、十四番の監室へはいった。ここには十三歳以上十六歳未満の少年
「やあ、おめえたちは、まだいたのか」
トムの知っているのがその中に四人いた。一番のッぽの徴兵検査ぐらいに見える少年は
「トム、また捕まったのか。こんどはおめえ八丈島へ行くんだぜ」
「アア行くよ、八丈島へ行ってみてえや」
「あそこへ行くと、一生帰れねえんだぜ」
「嘘だい」
トムは彼らよりは高い知識で、少年感化院の性質を説明しかけた。
「こらッ、しゃべっちゃいかん」
監視人のスリッパの音はたえず廊下を往復していた。彼らの心境とは最も遠い音であった。
「チイッ、くそ。······おびんずるめ」
と、七枚の赤い舌は、
薄暮になると戸部の西洋牢時代を
「チャブだ! チャブだ!」
と、監内の不良児たちはざわめくのだった。
「食事」
と、冷たい声を投げながら、監視は、各室の錠をひらいて、五名、或いは七名、或いは十名ずつの食慾そのものに柔順な不良児たちを引率して、ひろい板場の食卓にあつまった。
老外人の夫妻は、彼らと同じように、割麦の大部分な日本米を食べ、
彼らはこの食事室の会合によって胃ぶくろを満たしながら、その箸の先と、眼と眼とのうごきかたで、意中にあるすべてのことを仲間の者と語りつくした。||たとえば、きょうは吾らのトム公が
トム公もその声なきことばで一同へ入監のあいさつをした。トムを知る者も知らないものも先輩の
「消燈||」
監視のこの声こそは彼らの
突いたり、
彼はそっと起き出した。ゆうべから予定していた行動にかかるのであって、極めて落着いたものであった。どこへかくしていたのか、小さな
が、トムは六人の寝顔を見て考えた。自分が無断で逃げれば、共犯の疑いをかけられて、あしたから減飯の懲戒をくうことは勿論であるし、彼ら自身も、また、取り残された
彼は考え直した。||そしてみんなを揺り起した。
「火事かい?」
と、寝呆けているのがある。
「どうしたんだい、トム君」
と一同は眼をこすった。
「おれはね」||とトム公は言った。「ここに長くはいられねえのさ。だから逃げようと思ったけれど、みんなに黙って行ッちゃ悪いからお別れを告げて行くよ」
六人の不良児たちは困った顔をした。それは実に困り入ったような顔つきだった。
「だけれど、心配しないでくんな。おら、用がすめば帰ってくるよ。ここへ帰ってくるよ。みんなの好きな土産をうんと
「
「二週間」
「二週間経ったら帰って来るのか」
「うん、きっと帰って来る」
彼らはトム公のことばに嘘のないことを信じた。
「じゃ、後はまた、これで
と、トムは窓の外へ出て、
「あしたになったら、どこから逃げたんだろうと思って、驚くだろうな監視が」
「じゃ、あばよ」
「土産をたのむよ」
トムは走って、闇の突き当りへ立った。しかし一丈あまりも高い塀だったので、足がかりがなければ越えられないのが分った。
彼の
「諸君、健康でいろよ」
「土産をたのむぜ」
「オーライ、何?」
「あんぱん」
「煙草」
「ナイフ」
「ピストル」
梯子の下から順々に註文した。
トムは外へぽんと降りた。かくべつ新しい世界でもなかった。ことに十二時近いので戸部の町は寝しずまっていた。彼は杉山神社のお堂へ行って寝ることにきめた。貧しい町にかこまれた松の丘には、貧弱なベンチとブランコがあった。
その晩、拝殿の裏に寝ころんでから間もなく、彼はすぐ下のベンチに不思議な動物を見てしまった。うとうととしかけると、どこから来たのか二個の動物が、夜更けのベンチに
やがてそれが人間であること、男女のふたりであったことが分ってからよけいに胸がときめいた。二人はベンチを離れると、すぐに他人のようになってべつべつに別れて行った。
彼は、ぼんやりとお光さんの唇を思いうかべた。||そして朝、眼がさめてまでゆうべの悪夢が後頭部にこびりついて彼の軽快を
陽がたかくなると、全市の空に、根岸競馬の花火が晴々しい爆音をひろげた。町の人々はすべて競馬場へ向っているようにトムには見えた。
ポケットの百円
「トム、トム公じゃないか」
彼は刑事の声と聞きちがえた。ビクリとした眼は秋の空の下にはちきれそうな健康さをもって笑っている男の眼と出会った。彼は、数百円もしそうな
内外人の女たちにもてて、体がいくつあっても足りないほど騒がれているというこの根岸の花形騎手も、つい数年前まではメリケン波止場で砂糖馬車組合の幌荷馬車に鞭を打っていた労働者だったのである。||しかし島崎は自己の才分を生かしていつか
「トム、おまえ逃げて来たな」
トムは笑って答えなかった。
「探していたぞ、お光さんが」
「お光さんはどこにいるでしょうか」
「ゆうべ僕の厩舎へちょっと見えたが、さあ、きょうは競馬にいるかどうだか。何しろ、おまえのことで狂奔していたからな」
「何しに行ったんだろう? お宅へ」
「それは話せない」
と島崎は意味ありげに笑った。
「おまえもお光さんを探しているんだろう」
「お光さんに会わなければ、困ることがあるんだもの」
「競馬場へ行って見るさ」
「だけど、入場券がないもの」
「厩舎へ行って貰って来い。······あ、だが、おまえは未丁年者だからだめだ」
「馬券を買わなければいいでしょう」
「駄目駄目、観客としてもはいる資格がない。
「名刺をください」
「辰公に言えばわかる」
トムは駈け出して島崎の家へ行った。
根岸の場内へ行ってみると、きょうの最興味である特別のハンデキャップ競走が内外人の人気を
ここの競馬場の歴史は古い。まだ大小の刀をさした
人気馬には巨万の値がついた。種のいいサラブ、或いは英国ダービー馬の仔など、何万円というのが珍らしくなかった。二千三千の賞金などは
視野のかぎり平面なきれいに刈りこんだ芝生を眸にするだけでも、トムはすばらしい爽快さにすぐ
トムは、いつのまにか、貴族的な匂いと色との人中に埋っている、一等観覧席のあいだにもぐりこんでいたが、お光さんの姿を見つけるよりも、まずその方に気を
やがて、騎手たちはスタートを切った。
観衆はみんな常に
そして口々に、自分の買馬を呼んだ。或いは惚れている騎手の名を
「島崎! 島崎!」
そういう女の声がトムの耳をついた。トムはそれによって初めて今スタートを切ったハンデキャップ競走に島崎も交じっているのを発見した。島崎のユニホームは白地に紫の筋だった。
「紫! 紫!」
トムもつり込まれて叫び出した。
二周目の半ばごろで島崎の馬は危うかった。わずかな距離の差であるが、紅白それから紫が見えた。
「紫!」
「島崎ッ」と前の女も、
「勝て」
「島崎」
「紫||ッ」
とたんに、トムは観覧席の段を踏み外して、前の人々の脚の林立へと転げこんで行った。しかし誰一人、それを顧みている者はなかった。
「いやよ、いやよ、この人は」
ただ彼と共に、島崎の名を叫んでいた女だけが絹靴下につつまれた細い脚をふりうごかして眉をひそめた。トムは気がついて、恥かしそうに、女の脚から手を離した。
そして彼が腰をさすって起き上がった時には、競馬場は発狂したような群衆の乱舞と絶叫とにくるまれて、
「やっぱり、われらの島崎よ!」
「さ、あんた!」
「伯父さん」
と、あわただしく眼の前から駈け去ってゆく男女の横顔をながめて、
「あっ」
と、人蔭へからだを避けた。
それは石炭屋の高瀬理平と
「おや?」
トム公は眼を皿にして、仲間の一人である今村の姿を見送った。
どうして、札つきの愚連隊の闘士が、あんな、けばけばしい、しかも俺たちの敵としている高瀬の家族なんかと、
その側に添ってゆく
「いやな奴! あの、いつかのチビが、後から
と、
そして、既成品屋の店頭人形のように
ちいッ、とトムは舌うちをして、彼等の
そこに、お光さんと共にいた黒眼鏡も、樫井も西村も三浦も、みなトム公よりは早く高瀬の家族たちを見つけていたらしく、彼がそこへ駈け寄っても、多くのことばをかけなかった。そして厩舎の方へと、なだれ押しに集まってゆく紳士淑女群の中にある高瀬理平と、そして奈都子と今村と、夫人のお槙とに、等しく探奇的な注視をそこから送り合っていた。
で、トム公も、低い背丈をのばして、お光さんの側から
人々は、
最終のハンデキャップ競走が終ると共に、ファンたちは、いっせいに、人気騎手の島崎を取り巻いた。銀の優勝カップを取り落すまいとして、高く空に
その中に、高瀬の家族たちも、押し揉まれていた。
島崎は、チラと、その人たちを群衆の中に見かけると、巧みに、ファンの群を逃げて、短い時間に、理平や奈都子たちとことばを
「ね、いらっしゃいよ」
理平が知人に肩をたたかれて、後ろを向いている瞬間に、お槙は、ついと、島崎のそばへ寄ってささやいた。
「いらっしゃいな! ね!」
「どちらへですか」
「
「どうも、今夜は」
「それや、ひく手は多いでしょうけれどさ、ひどいわ!
「おいおい」
理平は振り向いて言った。
「今な、そこで十番館のダグラスさんと会ったから、一緒に馬車へ乗って、先へ行くから」
「あなたは、どちらへですか」
「どちらへって、今夜は、本牧の方へ、船のお客を呼ぶ晩じゃないか」
「じゃ、そこへ、島崎さんをお連れして行ってもいいでしょうね」
「うん······。だが、来るかね」
「嫌だと言っても、連れてゆきますわ」
「よかろう」
そして、彼の耳へ背のびをして、
「いいこと。事務所の門の方へ、馬車を廻して置いてよ」
と、言いながら、手袋をぬいで、島崎の指先をつよく握りしめた。そして、もういちど、
「いいこと。分って、||
と、念を押した。黄金色の埃の虹を立たして、根岸の競馬場に陽が沈みかけた。はるばると、東京から来て東京へ帰る俳優の羽左衛門だの、洗い髪のなにがしだの、仇っぽい名や、いかめしい著名の名士たちが、つかれて帰る群衆の眼に拾われながら、そこが暗くなるまで、人の崩れがやまないのである。
ひとりの従者を連れて、島崎は、合着のオーヴァの襟を立てて、事務所の門からこっそりと外へ出て来た。
「お、これだね」
「はい」
と、馭者は心得ていた。
「はやくやってくれ」
島崎は、従者と一緒に、逃げこむように、
「ま。遅いのね」
と、手を取って引き入れた。
それは
「あ。違った」
と、島崎は狼狽して出ようとした。しかし、馬車はもう勢いよく走り出しているのみならず、女将は、調子のたかい笑い声を疾走する窓から
「人違い? ほほほほ。島崎さん、いつかの
「なるほど!」
島崎はすぐ落着いた。
馬車の中からうしろを覗くと、色グラスのライトを
その中には、夫人の姿も見え、奈都子と今村の顔も見えた。||そして前にゆく島崎を祝福しているかにみんな明るい。
だが、それよりも後に、また一台、
幾つもの窓の灯は
高瀬理平はその間に、石炭といわず、雑貨といわず、そのころ
千歳の
で||その晩もである。
しかし競馬場からそこへ薔薇色の馬車がはいった時には、もう、狂躁な饗宴の
下品な海員ごのみの
シャンデリアに曇っていたいっぱいな煙草の煙が、そこからはいる夜の風に、美しくかき乱れた。理平は、
「||遅かったじゃないか」
と、踊りをやめた。
「だって、島崎さんをこっちへ奪って来るにはたいへんな努力ですわ。ねえ、女将」
「そうですとも」
千歳の女将は、調子をあわせて、
「ひとつ、お客様たちへ、ご紹介してあげてくださいな、島崎さんを」
だが、その労をまたずに、島崎のすがたを見出すと、幾組かの踊りは、みんなステップをしずめて、島崎のまわりになだれて来た。そしてきょうの見事な騎手ぶりを外人特有な誇張さをもって
「島崎君。この次の機会には、ぜひ、わしの持ち馬に乗ってくれんかな」
「あのサラのクンプウですか」
「そうじゃ、君が
「機会があったら、ぜひ、試みましょう」
「こんどのには、だめかの」
「一、二年は、私の手もとに、お預かりしてみなければ」
「はははは。気のながい商法じゃな。それじゃ、やっと、利廻りにしかつかんぞ」
「やはり、ご商売にするなら、こっちにも、相当に
「ふム、そういうものかな。とにかく、ご来客を煩わしてすまんが、わが島崎君のために、ひとつ、ご乾杯を願おう」
と、理平はグラスをあげて、乱酔している賓客たちを煙に巻いた。芸妓たちは、それこそは本気になって、島崎を祝福するのだった。
その騒々しい
「||まったく、僕も、こういう場合には実に困ることがありますよ」
今村はセンチメントに彼女の会話を誘い出しながら||
「何しろ僕も、酒ときたひにはちっとも
「私も······」
と、奈都子は言った。
「ああいう部屋の
「こういう生活というものも、そう申しては何ですが、実に、お察しできますね」
「わたし、何でもいいから、はやくこんな混濁した、心にもない、生活を抜け出して、ほんとに、力のある個性のもてる、家庭に生きたいと思いますわ」
「そうでしょう、そうでしょうとも。······誰だって」
と、今村はちょっと暗い庭の前後を見廻して、
「あたまがお痛いんじゃないんですか······」
「ええ······すこし」
「あれへ休みましょうか」
ベンチがあった。
ちょうどそこは温室の蔭で、人目を避けて星を見るにはいい。高い南洋植物があたりをつつみ、温室の花の香が、そこはかとなく、闇にただよってもいるし······。今村は、奈都子の手をつよく握った。
奈都子は
「ほんとに、ご同情ができます」
「今村さん」
彼女の眸は、何か、夢をみている。
「伯父はあんなお金だけに生きているんですしね。それに伯母といったって、親身じゃありませんし、それに······私の口からは言えないような行いをしているんですし。そんな家庭へ、お人形のように貰われて、そして、伯父の
「あなたの性格は、ああいう、濁った中に、物質的にだけ生きるには、あまりに清純なんですよ」
「清純? ······そんなことばを聞くと、私、怖ろしくなりますわ、いつ、今に、あの伯父が私を黄金の
「奈都子さん」
彼女のうつつな感傷は、いつのまにか、今村の両手の中に、つよくゆすぶられていた。
「逃げませんか」
「え」
「ほんとの道へ」
「ほんとの道って」
「僕が手をひいてあげます」
「でも······」
と、彼女は、両手で顔を
「だって······わたし」
「つよくなければだめですよ、つよく」
今村は、ささやいた。彼女の顔を掩っている指を、

「あッ」
奈都子は彼を突き放した。彼のくちびるを恐怖したのではない||すぐうしろの
「奈都子さん」
「ひどい人!」
奈都子は、袂を上げて、今村を打った。
棕梠の葉のかげや、温室のうしろに、鳴りをひそめていた妙な人影の気配は、たえきれなくなったように、どっと笑った。そして、そこらの南洋植物の暗い蔭の中から、お光さんの顔が咲いた。黒眼鏡がのぞいた。
「||誰だい、かんじんな所で、吹き出したやつは」
奈都子を取り逃がして、引っ返して来た神学生の今村は、腹立たしそうに、仲間のものに当りちらした。
「蔭でクスクス笑い出しちゃ、こっちで
「いよう、いろ男さん」
「なに言ってやがんでい」
と、今村はでんぽうに言い返して、
「人にここまで踏みこませて、慰みものにしちゃひでえや。そんな約束じゃねえはずだろう。もっと
「まあ、いいわよ、あれくらいで」と、お光さんが、彼の
「可哀そうじゃないか、あの娘に、罪はないんだもの」
「なあにネ」と、樫井が横から、口を出してからかった。「今村のやつは、実は、自分からあの娘に、興味をもってしまったんですよ。それを、浅いところで済まされたものだから、むやみに、腹が立つわけさ。君の
「畜生ッ」
「あはははは」
「おい、高すぎるぞ、声が」
「そうそう、まだ島崎が、来るはずだ」
「今のは、罪ッぽいけれど、あの方の口ならば、どんな
「来る時分だぜ、やがて」
「ひっこめ、ひっこめ」
いたずらな魔もの達は、さんざん言いたいことを
誰やらそッと、
そうしている間は、別荘の裏にあたる海の音が眠気を誘うような諧調をもって聞えてくる。小蒸気のエンジンの音が、その暗い海の連想をよぶ。
「来ないわね、なかなか」
お光さんはとうとうしびれを切らして、第一に温室の蔭から腰をのばしてしまった。冷たい
「ねえ諸君、まさか、
「何とも知れねえぜ、こう遅いところを見ると」
彼女が、立つと、みんな、待っていたように、一斉に首を伸ばした。棕梠の葉の中から、南洋
「トム。見ておいでよ」
「
「あ。そしてね、もし島崎がいい気もちになって、こっちの約束を忘れているようだったら、人のいない所で、お尻を
「そりゃ可哀そうだ」と、誰か笑った||
「そんな事をしなくっても、チラと、おめえの姿を見せてやれば気がつくだろうぜ。プリンス、頼まあ」
「それだけか」と、トム公の影は
別荘の日本間には、どこの座敷にも
そこは、濁りきった空気と噪音を入れたガラス箱みたいに不透明である。泥酔した外人、すれッからしな通弁、芸者ガール、賓客も主人公側のものも、けじめなく踊り疲れ、飲み疲れて、長椅子の隅やあっちこっちに、とぐろを巻いているのだけがわかる。
日本人も幾人かいたが、騎手の島崎だけは見えなかった。帰ってしまったとすると、お光さんやみんなはずいぶん馬鹿な目を見るわけだ。
「どうしたんだろう?」
トムは窓を離れた。そこは、十歩を出ると本牧の海である。波打ぎわから
「日本間の方へ、茶を
裏庭の海べづたいに、彼は歩き出した。すると、その洋館と日本座敷とをつないでいる橋廊下の上にぼんやりと、海をながめている
雛妓の影もそこから消えた。
いつのまにか、二人の影はひとつになって、海の方へ斜めになっている芝生の蔭にかがみ込んでいた。それは豆菊だった。
「兄さん、おっ母さんは、どうしたでしょうね」
「あれっきりだよ。おら、ゆうべの晩、西戸部から逃げ出して来たばかりだから、まだ行って見る暇がねえのさ」
「もう行っちゃいやよ、兄さん······」
「どこへ」
「おっ母さんの病院へ」
「自分のおっ母あのところへ行くのに、どうして悪い?」
「あそこには刑事さんが来ていて、兄さんが行ったらすぐ捕まえられてよ。もしおっ母さんの耳にはいったら、その心配だけでも、きっとおっ母さんは······」
と、
「冷たい手をしているなあ」
「行っちゃいやよ、兄さん」
「じゃ、
「どうしてだか、分らないわ」
「陽あたりへ出ると、消えちまいそうだな。おいらはこんなに丈夫なのに、どうして、おまえは弱いのだろう」
「女だからよ」
「女だって、そんなに細い女って、あるもんか。こんどおっ母あが病院を出たら訊いてみよう。菊ちゃんとおれとは、きっと
「そんなことないわ、そんなことないわ」
賢い豆菊は、トム公よりは、そのほんとなることを知っていた。母がどんなにして自分たちを
「菊ちゃんは、時々、この別荘へよばれて来るのかい」
「ええ時々、千歳の女将さんや、
「もうじき帰るの?」
「まだでしょう、お客様たちが寝てしまわなければ」
「じゃ、後でまた、ここへ来ねえか。ふたりで唄おうよ」
「唄なんか唄いたくないわ。私、いろんな話がしたい」
「あ、話をしてもいいさ」
「兄さんは一体、大きくなってから何をするの? おっ母さんは、これから先、どうして暮すの? そして私は······。こんなことも、話したいわ」
「あ、島崎さんは、帰ったかい。||騎手の島崎さん」
「いたわ、今そこに」
トム公は、花櫛をひろって、妹に渡してやりながら立った。
「どこにいる」
「
「じゃ、後でネ」
豆菊の涙ッぽい眼をそこにおいて、トム公はあわてて前の温室の蔭へ帰って来た。
「じゃ来る! きっと来るんだ」
彼の報告に、そこらの闇はまた、人影をかくして、何げない夜の景色を
「
そういう
「あんた
「それや無理ですよ、奥さん、騎手ってものは、朝から夜まで、派手なものにつつまれ通しでいながら、それで、夜更かしも酒も、食べるものすらも、始終神経質でいなければならんのです」
「分ってるわよ」と夫人は地を出して||「分っているけれど、こん夜はいいじゃないの」
「まだ、もう一競馬ありますからな」
「酒は飲めない、夜更かしはいけない、女も何もなんて、そんなにびくびくしていなければならないものなら、騎手なんてやめっちまえばいいのにさ。坊さんになっても同じことだわ」
「まったく、騎手生活なんて、はやくやめたいです。人気者になるほどいやなものはありますまい」
「だから、この次の競馬には、負けた方がいいじゃないの」
「そうも行きませんな。ははは」
「やっぱり、人気者でいたいんでしょう」
「だから苦しむのです。それがなければ何も」
「むじゅんしているわね、この人。||いいわよ、どっちにしても、こん夜ひとばんは、きっと私につきあってくれるのだから。ね、そういう約束だったわね」
「それやいいですとも」
「なんだかうわの空だわね、この人は。よその奥さんを
「ははは、騙せるあなたでもないでしょう。ま、そこのベンチへ腰掛けましょう、すこし
と、島崎はくすぐったい顔をしながら、ベンチのまわりを見廻した。お槙は男の腕に
「呆れたでしょう」と、仰向いて、ちょっと理性めいたことを言った。
「何がですか」
「だって、高瀬の
「今の上流の奥さんたちは、そんなことは、一つの娯楽ぐらいにしか考えていないでしょう」
「じゃ、私ばかりじゃないのね。||だけれど島崎さん、あんたいったい、幾人ぐらい女のパトロンがあるの」
「幾人? 冗談じゃありません。男のなら、ないこともないが」
「知っていますよ、私に、隠したって駄目駄目。だからね、そんな者はみんなやめてよ、私が、三人分でも、四人分でも、力になってあげるから」
女の
「ね。ね」
お槙は、もう自分のものであるように、島崎に唇を命じた。眼をつむって待った。男の近づけて来る顔を心臓で想像した。
彼の口臭が温く頬にさわった。鼻骨が鼻骨にふれた。そして、全身の神経が
彼女は、
「? ······」
お槙は、ふるえていた。そこに硬直したまま、誰とはなく睨みつけているのだった。そのあたまのうえを、ふわっと、白くながれてゆくマグネの煙が、島崎の
「見ておいで!」
彼女は、こめかみをぴりぴりさせて、うしろを振り向くと、突然、ヒステリックな声で呶鳴った。
「どなたも! みんな来てください! 悪いやつが大勢、
そして、危険を避けるように、温室の周囲をバタバタと駈けめぐった。
「諸君、お芝居はハネましたよ」
お光さんは、夫人の狼狽を冷笑しながら、小型なカメラをかかえて、すばやく、庭園を横ぎった。誰の足もはやかった。||だがひとりトム公だけは、みんなが逃げる方角とは反対に、さっき豆菊と会った裏手の海岸の方へ駈けだした。
彼は、もういちどそこに待っていると言った妹との約束にひかれたのだった。しかし、彼はすくなからずそれを悔いた。座敷から、風呂場から
一方が、海であるだけに、トム公は逃げ場を失ってしまった。風呂番の男のたくましい腕が、まず彼の襟がみをつかんで、外人だの、ガイドだの、召使だの、ほとんど彼のすがたをつつんでしまうほどの人群が、そこに度胸をすえて坐ってしまったトム公をかこんで、がやがやと騒いだ。
「この少年、ドロボウ?」
一外人の質問に、通弁は言った。
「いいえ、かんかん虫」
「かんかん虫? あ、かんかん虫? ······」
外人は、分ったような分らないような顔をして
「電話をかけておいたろうな、警察の方へ」
「はい、すぐ知らせておきましたから、もう程なく来るでしょう」
「さ、お客様たちは、どうぞあちらへ。······いや何でもありません、コソ泥です。かんかん虫のトムという小僧で、まいど、
トム公は、黙って理平の顔を睨んだ。その高瀬の肩に、甘えかかって、何か、
「警察のお方がお見えになりました。署長さんまで」
「署長も。||いやそれ程のことじゃないのに」
「電話をかけたものが、ひどく、あわてたものですから」
「まあよいよい。伊勢佐木署の
警官の
「あははは、そうですか、何か非常なことらしい電話なので、自転車をとばしてお見舞に来たわけです。||がまあ、そんな小事件であっておめでたいわけでした」
署長の
「こらっ、貴様あ、かんかん虫のトム公だな」
「さきおととい、調べてもらったばかりだ」
「でも一応は、住所年齢を聞くんじゃ。年は」
「十四さ」
「住所は」
「忘れちまった」
「貴様、署では言ッたじゃないか。||相沢町
「おっ母あの名なんか、そんな、汚ねえ手帳に書いてくれんなよ。おっ母あは何も、警察の手帳に書かれるようなことをしたことはねえ」
「署長、こういう小僧です。実に手におえんです」
「こんなのが大きくなったら、さしずめ、吾々の飯の種じゃろう。あははは」
「しかし、法律というものも不便ですな」と、理平が、署長の吸いかけている巻煙草へ
「こんなチビでも、いっぱし、大人以上の悪事を働いて社会を害するのに、十四歳では、それを懲役にすることができないのですか」
「まあ、こんなひどい不良は、八丈島の感化院へやるわけですがな。その感化院へやっても、どうも大した効果はないようです」
「そうでしょう、こんなのは、つまりもう先天的に、血のなかに悪を持っているのでしょうからな」
「おい、連れてゆけ」と署長は無造作に顎をすくって、
「僕はまだちと用事が残っとるから、後から行く。何、トム公のことは
「じゃ、署長、ご迷惑でしょうが」
と、理平が彼を
「あの、失礼でございますが、ちょっとお待ちくださいませんか」
署長と、高瀬とは、振り顧って、
「女将、なんじゃ?」
「はい、この子のことで、すこし······」
「おまえが、かんかん虫のトム公などに、何の用があるのか?」
「相沢町
巡査も、妙な顔をしながら、
「はあ、それがトムの母親にあたる者で、今、どこかの施療病院にはいっとるということです」
「もういちどお確かめ下さいませんでしょうか。母親が千坂桐代||そしてトム公というその子は、本名を、富麿といいませんかしら」
「さ、それはどうですか。おい、トム。貴様の本名はトムではなくて、トミか、トミ麿か」
その巡査の顔を見ないで、トムはじっと千歳の女将のすがたをながめていた。女将も、彼の鼻すじのとおった顔だちに、自分の直覚をまちがいのないものと信じた。
「署長様。おそれいりますが、ちょっと、お顔を拝借させてくださいませんか」
千歳の女将と、署長の保科とは、そこを少し離れて、闇の中へ顔を突っこむように屈み合った。
トム公||千坂富麿が大隈伯のたずねている千坂
それを、背なかあわせに、耳をすまして聞いていた高瀬理平が、度を失うほど驚いたのは、なおのこと当然であった。
伝統の濃いこの国の女、彼らの故国の酒||
悪い雰囲気であるはずがない。
風車の別荘に
その間に、
貿易華やかなりしころ、巨富をつかんだ横浜成功者の多くは、そうした智謀に富んだ
だが、オキチでもブタでも、とにかく、彼等の満喫するに足る
ぼうっ! ぼうっ······
出帆の朝。||あの色けのない本船の
その時こそ、船乗り異人の薄情さかげんがわかるし、開港町の女たちの、いと、あっさりしたものであることが歴然とする。
「この次は、サイベリア丸だとさ」
「や、ご苦労、ご苦労」
高瀬理平は、やっと一船かたづけて、ほっとしたように、腰をたたいた。||その朝は、千歳の女将が姿を見せなかったので、船の外人を送ってきた芸妓たちも、何となく、つぎ
「旦那さま、旦那さま」
桟橋を出ると、すぐに、迎えの馬車が理平の方へ寄って来た。
「お疲れでございましょう」
と、お槙は、
「||朝は、だいぶ寒くなったな。もう季節だとみえて、
「夜ふかしがつづいたせいでございましょう」
「それもある。······あ。奈都子はどうしたね、医者に見せたかい」
「あれから、ずっと、寝ております。石川博士が毎日診察に来てくださいます」
「病名は」
「やはり神経性のものだろうと
「分らんのか。······熱は」
「三十八度前後······。ゆうべは、九度ぢかくまでありましたが」
「ふーむ」
「やっぱり、年ごろですから」
「肺じゃあるまいの」
理平は、沈鬱になった。眼の下の皮が、疲労にたるんでいた。
北仲通りの本宅へ、馬車はやがて着いた。支配人はまだ事務所の電燈を鼻の先まで下げて執務していた。瀬戸の大火鉢にゆうべからの忙しさを語る吸殻がむせッぽい煙を
「松下君、やすみたまえ」
「あ、お帰りで」
「だめ、だめ。
あわてて、手を振って、理平は奥の洋室へ逃げこむようにはいった。どっかりと、椅子のなかに体を投げこんで、
「
両手を、後頭部でむすびながら胸をそらして、
「熱く」
と言い足した。
それを待っている間に、彼は眉をしかめ出した。上の
おそろしく熱い
「誰だ、あれは」
と、女中へ咎めた。
「ハーモニカですか。あれは、おとといの晩
「トム公か。困ったやつじゃの」
「ほんとに、とんでもない者を預かってしまいましたわね。警察へおいてくれればいいのに」
と、お槙もいっしょに、眉をひそめた。
「だが、女将の証言がほんとだとすると、あれが千坂男爵の身よりのものだというのだから、そう分ってみると、署長も処置に困っとるんだろう。······おいあの小僧に、トム公に、そう言え、病人があるんじゃから、そんなものは吹いては困るって」
女中は旨をうけて、さっそく
理平は一睡したいのであったが、それが気になって寝る気にもなれなかった。千歳へ電話をかけさせてみると、女将はきのう東京へ行ってまだ帰って来ないとのことで、結局、そこへも当りようがなく、隣室へ寝床を命じて、横になった。
読みかけていた新聞にも、すぐに眼がつかれて、二、三時間ほど彼はウトウトとしていた。||すると隣室で、聞き馴れない来訪者の声がひびいた。
「ごじょうだんでしょう、君! 嘘を言ッたって、だめよ」
それは、男とも聞えるし、女ともうけとれるアクセントだった。
「||居留守なんて、古手だわよ、第一、君、自身ですら、女中にいないと言わせておきながらここにいるじゃないの。しかし、君だけじゃ相手にならないですから、ご主人に会わせてください」
「だってほんとに今、主人は船のお客をつれて、箱根の方へ参って、不在なのです」
応接しているのは、明らかにお槙だった。けれど、来訪者の圧倒的な語調のまえに、何となくおろおろしている風がわかる。
「誰だろう?」
と、理平は寝床の上に起き上がって、耳を澄ましていた。
「ホホホ」と、落着きすました笑い声だ。笑い声はやはり女だった。「||今朝、桟橋からお帰りになってから、ここのご主人はまだ一歩も外へ出ていないはずよ。君! そんな嘘ッぱち、いくら並べても、認めなくってよ。はやく会わせたまえ」
「あなた。会わせる会わせないはともかく、いったい誰に断って、ここへ、はいって来たんですか」
「女中君が、嘘をつくから、家宅侵入を敢えてしたのよ、君、訴えますか」
「······呆れましたね、なんていう、あばずれでしょう」
「けれど、君ほどに、あばずれでないつもりよ、その証明は後に立てます。とにかく、ご主人を呼んでもらいましょう」
「いませんよ」
「います」
「いません」
ふたりがいい
「お光さん」
「あ、トム公、おまえここにいたの?」
「主人はすぐそこの奥に寝ているぞ、いないなんて、大嘘さ、おれが連れて来てやろう」
と、大股にあるいて、隣室の扉をぽんと足で開けた。すかさずに、広東服のお光さんは、彼につづいてその部屋の口から、
「ご主人、起きて頂戴な」
と、覗いた。
「誰だおまえは。やたらに人の居宅へはいって、寝室へまで無断で来るやつがあるか。警察へ言うぞ」
「結構ですわ」
と、お光さんは、椅子に
「けれどご主人、君は、私の用向きを聞かなくってもいいんですか」
「おまえみたいな婦人に、わしは、何の用件も持っとらん。いずれおまえは、女愚連隊とか、ハンケチ女とかいう、そんな類の者じゃろう」
「そうよ、私は、ハンケチ女から成り上がった、女の愚連隊よ。しかしご主人、君もつい十何年かまえは、
「失敬なことを言うな。つまみ出すぞ」
「おもしろい、私が、つまみ出されるかどうか、トム公、そこで見物しておいで」
「あ。見ていよう」
トム公は、二つの椅子を並べてその上に足を投げ出しながら、ハーモニカを
「||が、ご主人、つまみ出されるといけないから、その前に、かんたんに私の訪問した好意だけを分ってください」
お光さんはポケットを探って、まだ感光液のねばりそうな生々しい一葉の写真を出して、理平のまえに突き出した。理平は、手もふれようとはしなかったが、ちらと見ると、顔いろをうごかして、思わず眼を
「どうですか、この写真は。······
お
「ご主人、君は、買いますか、買いませんか、この写真を」
お光さんの
まるで、滅心したかのように、どすぐろい憤怒と、苦悶に、ぶるぶるとそれを睨んでいた理平は、いきなり彼女の手の物を引ッ
「買おう! いくらだ」
と、言下にビリビリと引き裂いてしまった。
「お生憎さまです」
と、お光さんは皮肉な商人のように、わざと少し頭を下げて、
「それは、お売りいたしませんわ、なぜかと言えば、幾ら君の財力で
と、また隠しの中から、一葉の写真を出し示しながら、
「たとえば、こういう、トリック写真でも作ることができるんですから」
次のそれはまた、正視できないほど悪辣な
その硬ばった理平の顔と、
「もっと、ごらんにいれましょうか。まだ、奈都子さんのもありますが」
「ゆるしてくれ、もう、たくさんだ」
理平は、両手で、頭をかかえたまま、とうとう屈伏してしまった。
「金はいくらでもやるから、その原板を持って来てくれんか」
「売るならば、私は、輸出絵ハガキ屋のトリック師へ売りつけてやってよ。こういう絵は、外国船の下級船員たちが、非常によろこぶもんですって」
「だから、わしが買うよ」
「いいえ、売らないと言うんですよ。||ようござんすか君! 私は、これを売りつけに来たんではありません」
「じゃ、何だって」
「
「え! 今言おうと思っていたんです」お槙は、乾いた唇をわなわなさせて||
「それはみんなトリックです、私の、何かの写真を盗んで、
と、終りの一句を、理平に向けて、訴えるように叫んだ。
「む、む、そうじゃろう。誰かの、悪戯にちがいない。おまえにとっては、まったくの
「君たち!」お光さんは、平等に、ふたりを睨んで、その秩序のない泣き言に句点を打たした。
「そんな強がりや、見ッともない
と、お光さんは、平調に澄まし返って、「冤罪ということは、これほどに怖ろしいことでしょう。だのに、
彼女が、扉の外へちょっと顔を出すと、
「ごめん下さいまし」
と、羽織の裾をはねて、一つの椅子を占めた。
トム公は愉快でたまらなかった。ハーモニカを
それを
理平もお槙も、その後、亀田がほんとの窃盗者でないことは、うすうす感じていたのであったが、そういう階級の人間に、何らの同情も介意もしない富豪通有の冷淡さが、彼らにもあって、いいかげんに放念していたのである。しかし、今はお光さんに、きびしい鞭をピシピシと打たれて、その真実のまえに、
「いや、相すまん。さっそく、亀田という人を、貰い下げよう。何とも、すまん事じゃった」
「当然その人には、
「あります。その人の身の立つように考慮しましょう」
「よろしい、誓ったことよ。||ではすぐ伊勢佐木署の保科署長を呼んで貰いましょうか。黒眼鏡は自首するそうです。つまり、冤罪をうけてはいっている亀田さんと入れ代りになるんですから」
「さっそく、電話をかけましょう」と、理平は
署長、刑事主任、ほか二、三人、すぐに自転車をとばしてきた。黒眼鏡はるるとして、
「仕立屋の身内か。じゃいちど、手にかけたことがあるな」
「ごやっかいになったことがございます」
と、いう風に柔順であった。
「よろしい」
と、常の方を終ってから、
「検事局の方へ上申すれば、亀田は、即日放免されましょう。何、まだ未決監ですから、
と、チラと、彼をしり目にかけて、
「県庁の警務部へ行って協議した結果ですが、たとえ本人が、大隈伯のおたずねになっている千坂家の身よりの者であるにせよ否にせよ、情実でこのまま、放免することはいかんという意見なんです、で、一応は、本署から彼の脱走した戸部の懲治監へ送り返してやることに決めました。どうぞ、それのご諒承を」
と、宣言的に、経過を告げて、すぐトム公の手くびをつかんだ。
「刑事主任、ついでに、連れ帰ってくれたまえ」
「ちょっとお待ちください」
「何をしているんだ君」
「彼はどこへ行きましたか」
「彼って」
「黒眼鏡です、今の、巾着ッ切です」
「? ······」
「······便所じゃありませんか。中折帽がおいてある」
と、理平がつぶやくのを、トム公は、横を向いて笑った。そして、お光さんに、眼くばせした。
「いるんでしょう、見て来ますわ」
と、お光さんも、部屋の外を覗き廻った。そして、ちらっと、広東服の裾の端を見せたまま、彼女もそれっきり帰らなかった。||もちろん
*
大隈伯の代理という人と、千坂家の家令という老人とが、紋付袴で、
女将は興奮していた。一昨日の晩から何か非常な奇蹟にぶつかったような驚きもあったし、最高な善事のために自分を疲らしているという満足もあった。
帰るとすぐに、しきりと、あっちこっちへ、電話をかけていた。高瀬家の番号も、警察署の番号もよび出された。||やがて程経て、
豆菊は、いつもの座敷着とは、すこし袂のみじかい
「このお方が、おきく様という、お末のお嬢様でござりますか」
と、両手をついて言う千坂家の老家令に、彼女はやはりきょとんとして、抱え主の春太郎のそばへばかり寄っていた。
やがて、しめやかに、襖を
その心もちが分ったので、女将はまたせかせかと警察へ電話をかけた。話がついたと言って、急に馬車をいいつけて、豆菊も加えて、四人づれで伊勢佐木署へ出頭した。
県庁との打合せに、さんざ手間がかかったらしいが、トム公はそこにいること二時間ばかりで、一同へ下げ渡された。馬車はまた一人の客を
「分っている? 赤十字病院だよ」
「分っています」
「いそいでおくれネ」
女将は、こんなうれしい日はないと言って、涙をふいた。まったく、うれしそうだった。
豆菊が、お下げ髪に
ただし彼は、こうして公然と、母のいる病院へ訪れ得ることがとても愉快であった。一刻もはやく、冷たいだろうと思う母の手を、自分の頬ぺたに当ててやりたかった。
馬車はかなりの歩速で躍ッていたが、
馬車は、うねうねと、
やがて、からたちの垣根が見えた。||夕暮の空に白いペンキ塗りの赤十字病院が仰がれた。豆菊もトム公も、そこの窓の灯を見たとたんに、
「はい、ご通知を拝見して、非常に驚いたわけです。で早速、病室も特別室の方へお移ししておきましたから」
通された病室は、雪の夜のように白々としていた。主治医は、寝台に椅子をよせきって、無言を守っていた。助手や看護婦たちの沈黙にも、あきらかに、病人の
「実は······」と、主治医は三名だけを蔭へよんで「東京からの電報も拝見しておりましたので、極力、尽しましたが、
「どうも、万、やむを得んことでござります」と、老家令は沈痛な低声で言った。
そばに、
いたいたしい、厳粛な光景が、人々の眼を打った。注射によって、わずかな時間の生を意識した盲目の病人は、からだを蔽っている白いきものを、無性にうごかそうとしている。ベッドの両方からは、トム公と、豆菊とが、母の胸へ、頬へ、まるで泣いてもいないように顔をすりつけてふるえていた。
細い、
「ゆ······ゆるして! わたしが作った罪を、おまえたちの一生にまで、こんなに負わせてしまうなんて。······でも、女の一生って」と、きれぎれだった。「初めの一歩ね、貞操って、自分のために大事なものよ······そ、それを、お母さんは」
すこし息をついた。しかし、あわただしい死の
「ふたりとも、堪忍してね。······堪忍してね」
わッと、トム公があるッたけの声を出して泣いた。
「おっ母あ······」
「お母あさん」
「おっ母あ。······おっ母あ」
「おっ、おっ······おっ母さん······」
直立していた主治医と看護婦とは、眼を見あわせてその枕元へ、無言のまま冷たい歩みを運びかけた。
*
数日の後||
横浜駅のプラットホームは、今、新橋行の列車に駈けつける人々の騒音で
一等車の窓の外には、千歳の
「いや、お坊っちゃん、お嬢さまのことは、もう一切ご心配はございませぬ。何事も大隈の御前様が、よいようにして下さいましょうから」
と、家令、代理の者、ふたりが謹厳に帽子を脱いで労を謝した。
五分
「······じゃ菊ちゃん、富麿さん、さようなら」
汽車はゆるぎ出した。送りに来た二人のすがたは、プラットホームといっしょに、うしろへ飛んで行った。
トム公はすぐに窓から首を出した。横浜の市街、横浜の港内が、彼のひとみに展開された。
「||菊ちゃん、うれしいかい? 華族の家へ貰われてゆくんだとさ」
「わからないわ、私には」
「おっ母あ、何と言ったんだっけ。||死ぬ時に」
「あやまっていたわ」
「どうして謝るんだろう。自分の子供へ」
「よしてよ······」
「また泣くの。泣虫」
「自分だって、泣いたくせに」
汽車は、疾風を
トムは、ちらと窓外をのぞいた。
「あ、もう
「そんなことば、やめてよ」
「おまえ、もうお嬢様になッちまったのか。早えなあ」
と、少し浮かない顔で、
「菊ちゃんは、華族のお嬢様が似合うよ。だが、おいらは嫌いだ。金持もきらいだし、華族様もきらいだ。······ああ、おっ母アが生きていれやいいのになあ。おっ母アとなら、一生でも、かんかん虫をしていた方がいい」
「よしてよ、そんなことば。トムさんが、かんかん虫をしていたことなんか、これからは言わない方がいいのよ。千歳の女将さんも言っていたわ」
「おら、帰ろう!」
「どこへ、兄さん」
「菊ちゃん、あばよ」
トムはふいに、そばにあった帽子をつかんで扉の外へ駈けだした。あッと、豆菊と付添の二人が、窓を開けたとたんに、トム公の
「帽子が見える! 帽子がッ」
豆菊のかなきり声が、疾風にちぎれて、列車の黒煙といっしょに、後方へ飛んで行った。
水族館の魚みたいに、
「オイ、
そういう外の幻に、やっと、一人が眼をこすり出した。そして、ほかの者の耳を順々に引っ張り合った。
「トム公だぞ。トム公だぞ」
「えっ、帰って来たのか」
「ほんとか」
「ほんとだとも」
彼らは、畳の下の
「食え、食え、食え、みんな。まだあるぞ、いくらでもあるぞ」
「
「約束どおり帰って来たぜ」
「持って来たぜ」
「ばんざい!」
アンパンの
人生のなかで、およそこんな感激的なことがあろうか。トムは、それを眺めていると、からだじゅうを幸福でくすぐられるように
だが、その深夜の享楽は、大騒ぎは、当然監視人に発見されずにいない。トムはすぐに別室へ
月に二回、横浜を出帆する八丈丸に、トム公は監視付きで乗せられた。もう海の寒い冬だった。だがその朝は、港いッぱいに陽がさして、水蒸気が水面にあった。
「プリンス! プリンス!」
トムは
また、男たちは、男ばかりで一団になっていた。愚連隊の連中である。警官もちらほら辺りに見えるのに、二重廻しを着て、あの黒眼鏡がやはりトムを見送りに来ていた。||だが、彼の最も満足したのは、そこに、
ふとい汽笛の
見送りの人影は、てんでに、口へ手をかざして、彼に
「||あばようッ」
港はいっぱいな陽あたりだった。方々の船で仕事をしているかんかん
だが、少年期から次の成長へ向って、彼に与えられたこの重大な航路が、いや岐路が、よい環境と未来とに恵まれればよいが。
||もしそうでなく、悪い潮から潮へ迎えられても、その結果には誰も責任は持ってくれないのだから。