C君は語る。
これは五六年前に箱根へ遊びに行ったときに、湯の宿の一室で同行のS君から聞かされた話で、しょせんは受売りであるから、そのつもりで聞いて下さい。
つい眼のさきに湧きあがる薄い山霧をながめながら、わたしはS君と午後の茶をすすっていた。石にむせんで流れ落ちて行く水の音もきょうは幾らかゆるやかで、心しずかに河鹿の声を聞くことの出来るのも嬉しかった。
「閑静だね。」と、わたしはいった。
「うむ。こうなると、閑静を通り越して少し幽寂を感じるくらいだよ。箱根の中でもここらは交通が不便で、自動車の横着けなどという、洒落れた芸当が出来ないから、成金先生などは滅多に寄付く気づかいがない。われわれの読書静養には持って来いというところだよ。実際、あの石高路をここの谷底まで降りてくるのは少々難儀だけれど、僕は好んでここへくる。来てみると、いつでも静かなおちついた気分にひたることが出来るからね。」
S君は毎年一度は欠かさずにここへ来るだけあって、しきりにこの箱根の谷底の湯を讃美していた。霧はだんだんに深くなって、前の山の濃い青葉もいつか薄黒い幕のかげに隠れてしまった。なんだか薄ら寒くなって来たので、わたしは起って二階の縁側の硝子戸を閉めた。
「戸を閉めても河鹿の声は聞こえるだろう。」
「そりゃ聞こえるさ。」と、S君は笑いながら答えた。「柄にもない、君はしきりに河鹿を気にしているね。一夜作りの風流人はそれだからうるさい。だが、僕もあの河鹿の声を聞くと、なんだかいやに寂しい心持になることがある。いや、単に風流とか何とかいうのじゃない、ほかに少し理由があるんだが······。」
「河鹿がどうしたんだ。何かその河鹿に就いて一種の思い出があるとかいうわけなんだね。」
「まあ、そうだ。実はその河鹿が直接にどうしたという訳でもないんだがね。僕がやっぱりここの宿へ来て、河鹿の声を聞いた晩に起った出来事なんだ。僕は箱根の中でもここが一番好きだから、もうこれで八年ほどつづけて来ている。大抵は七八月の夏場か十月十一月の紅葉の頃だが、五年前にたった一度、六月の梅雨頃にここへ来たことがある。いつでもこの頃は閑な時季だが、とりわけてその年は、どこの宿屋も閑散だとかいうことで、僕の泊っていたこの宿も滞在客は僕ひとりという訳さ。お寂しうございましょうなどと宿の者はいっていたが僕はむしろ寂しいのを愛する方だから、ちっとも驚ろかない。奥二階の八畳の座敷に陣取って、雨に
「みんな若いのかい。」
「むむ、二人は若かった。ひとりは女中らしい
「交渉があっちゃあ大変だ。」
「いや、まぜっ返しちゃいけない。」と、S君は真面目にいった。「まあ、聞きたまえ。もちろん相当の身分のある人の家族達には相違ないが、それにしてもあんまり
僕の神経はますます鋭くなって、とても安らかに眠られそうもないので、いっそ書物でも読もうかと思って、その本を取ろうとして寝床からはい出そうとする途端に、どこかで「パパア」というような声が突然に聞こえた。あたりがひっそりしているから、その声は僕の耳にはっきりと響いた。それはなんだか人間の声ではないらしい、もちろん、河鹿の声ではないらしい、しかも一種の悲しい哀れな、はらわたにしみ透るような声であったので、僕は思わずぞっとして、急にあたりを見まわしたが、電灯の明かるい僕の座敷のうちには何物かの忍び込んだらしい形跡もみえなかった。と思う一刹那に、怪しい声はまたも聞こえて、今度は「ママア」と悲しげに呼んだ。身の毛がよだって、僕もしばらくは息をのみ込んでいると······。いや、臆病といわれても仕方がない。まったくそのときには総身の血が凍るように感じたので、僕は床の上に座ったままでその声の正体を確かに聞き定めようとしていると、それから二三分も経ったかと思う頃に、かの「パパア」という声がまた聞こえた。その声は隣りの座敷から響いてくるのだ。」
「隣りの人たちは寝ているというじゃないか。」と、わたしはききかえした。
「それだからなおおかしい、僕も念のためにそっと障子をあけて縁側をうかがうと、隣りの障子はやっぱり真暗で、内はひっそりとしている。いよいよおかしいと思っていると、その暗い障子の中で「ママア」という悲しい声がまたもや聞こえたので、僕はもうたまらなくなって自分の座敷へあわてて逃げ込んで、寝床のなかへもぐり込んでしまった。そうして、
「なあんだ。」と、わたしは思わず笑い出した。
「笑っちゃいけない。これからが話の眼目だ。それをもらった娘というのは、今度ここへ来ている令嬢の末の妹で、今年ようよう九つになるのだが、お父さんから送ってくれたその人形を非常に可愛がって、毎日それを懐いたり抱えたりしているうちに、どうかしたはずみに人形の腕を折ってしまって、パパアもママアもいわなくなった。そういう特別の人形だから日本ではとても療治がとどかないので、結局わざわざそれをヨーロッパのお父さんのところまで送ってやって、その療治を頼むことになった。僕はよく知らないが、あっちには人形の病院があるそうだ。それは去年の九月頃のことで、お父さんの方からこれを受取ったという返事が来たのはその年の暮だったが、年があけると早々に、その娘は流行性感冒にかかって、一週間ばかりで可哀そうに死んでしまった。その病中にも人形はまだとどかないかしらと、たびたび繰り返していっていた。そうして熱の高い時には
そういうわけだから、家の人達はすぐにその人形を仏前に供えて、死んだ娘が唯一の形見として大切に保存している。人形は元の通りに療治されて、手をあげるに従ってパパアやママアを呼ぶようになったが、その声を聞くとかの女が死際の声を思い出して、さらに新しい哀しみを呼び起されるのがいやだといって、誰もその手を動かすことをあえてしなかった。それでもお母さんの居間に飾られて、かの女が生きている時に好んでいた菓子や果物のたぐいが絶えず供えられているうちに、お母さんもあまりの悲哀の結果か、この後一種の憂鬱症に陥ったので、親類や家族も心配して、すこし転地療養でもさせたらよかろうということになって、箱根のうちでも最も閑静な場所を選んで、総領の娘と女中とが付添って来たのだそうだ。奥さんの顔色の悪いのも、どの人も陰気に黙っているのも、これですっかり判ったが、やっぱり判らないのは夜なかの悲しい声だ。そこで、僕はその人形をここへ持って来ているのかと女中にきくと、奥さんは生きているお嬢さんを一緒に連れてくるこころで、その人形を箱に入れて持って来て座敷の床の間にちゃんと飾ってあるという。これを聞いて、僕はまたぞっとした。
それから女中にむかって、ゆうべの夜なかに何か聞かなかったかと
どちらにしてもこの話はここだけのことにして、奥さんやお嬢さんには何にもいわない方がいいと、僕は女中に注意して別れた。しかし実際僕も一種の不安を抱いているので、その晩もおちおち眠らないで注意していたが、隣り座敷ではなんの声も聞こえなかった。今夜も宵からまた降り出して来て、河鹿の声がしきりに聞こえた。臆病者の僕はゆうべもやっぱり河鹿の声を聞き違えたのか、それとも奥さんが暗闇で人形を泣かせたのか、それとも人形が自然に父母を呼んだのか。それは今に判らない。それから三日ばかりの後に、隣りの一行はここがあんまり寂し過ぎるとかいうので、さらにほかの場所へ引移ってしまったので、その後のことは僕も知らない。しかしその年の秋の末に、なにがし外交官の夫人が病死したという新聞記事を発見したときに、僕は再びぞっとしたよ。そうして、あの人形はどうしたかとここへくるたびに思い出すが、おそらくお母さんの手に抱かれて暗い土の底へ一緒に葬られてしまったろう。」