「||宇宙は、単にタアオラの殻にすぎない」(ゴオガン)
一と夜。あらしの怒号が落ちてきた。
この湖中に、一隻の汽船が沈められた。
朝。わたしは見た。マストだけが湖面に二つの手をさしあげてゐる。それは、わたしの双の手に肖て、
空な足掻きを仕つくして、倦い厳粛のしづもりに返つたといつたありさま。
けふも湖のほとりにあつて、追はれるもののごとく、
右顧左眄しながらわたしは思ひ索める。二本のマストは微風を呼んで、湖面に二個の波紋を放つてゐる。あの下に、汽船はとらへ難い空を追ひながら、青い睡りを貪つてゐるであらう。それに似て索めるものは遠く

かに捉へがたい。竟にそれは何であらう。むなしくうち顫ふ、掌とゆびと。ひと日は思惟の彷徨につかれる。
湖の
眼はこの二本のマストのほかに何もない。それは神秘を麾くトランシットに似たものである。ここからわたしは、あなたの眼のなかに澄んだ死海をみる。あなたの掌のうちにあるカロカガテイァを! それらのものは

かに遠い。とらへがたい冷酷な距離よ。だが、おそらく思惟の犂のひとかへしは、この通俗な世界のかなの神秘を発掘するより首まるのだ。通俗は普遍のなかに、金鉱のやうにひそんでゐる。もし、あの神秘が地球儀のなかに眠つてゐるとすれば
······ 夕焼けのそらに、幾すぢの河が尾を曳いてゐる。
マストは暮れる。金星をいただく湖水の上で。
いまは
詞もなく、報らせもない。ただゆるぎない、無辜のひととき。微粒の砂に没するひかがみは、湖水のふかさを超えて土のふかさを知る。それは通俗の木に萌した神秘の芽であらう。これは誰に剪られ、誰に踏み蹂られるうれひすらもない。
そこに、夥しい通俗のひかりよ!
さうして、おお! 神秘の発芽よ!
日は亭午。
||翼のごとく汝の双手をひらけ。而して、
彳て。希臘十字にかげを
曳かむ。
★
聖地の門を
旋りながら、
夜となく
白日となく、
蜜蜂よ。いつか門は十字に閉され、花々は霜に
凍えた。蜜蜂よ。いかにおまへの
翅が
黄金の燦きにひらかれるときも、そこには展くによしなく、匂ふに
術もない、
空な影ふかいうれひのみ。このとき、
訪へよ、
蜜蜂よ、
||もし神あらば
燈火をかゝげよ、と。
★
門に青錆びた
閂のいたさ。十字にかけた罪障の烙印
······ ★
聖水盤が匂ふ。暁闇のなかで。
希臘十字にかたどつた星。
槓桿の星。素馨の花と音楽。悠遠なパントマイムのをはり。
その下から、郊外の一番電車が睡りの歌を撒きちらす。
★
傷痕。
||それに蝟集する歌ごゑ。華やぐ疼痛の歌。歌に
攀ぢのぼる射手座、雙女宮。そこから夜がおりる。
巨大な風車がアルコォルのやうに廻る。すると、翅のある時間が目にみえない素迅さでそのうへから飛びちる。
美の司祭者、夜よ。わたしはあなたの中にかくれた。すると、すぐさま傷痕は美化される!
★
海の目ざめ。
ひかりを鎧うた浄い暁のなか、
蠧まれた
祈祷の囁きがたちのぼる。一と夜、悪の扉に
靠れてゐたかれらが、聖らかな眼ざめにかへるのだ。
||一斉に咒詞を呟きながら。
元朝のフレスコ風の雪のなかから、
鵲のやうに雪をかついできた郵便配達夫は、わたしに「おめでたう」といつた。かれはわたしの掌に、書翰の一束を落としてすぎる。晩香波にゐるF・Fの賀状には

リネンの月

という詩が印刷してある。その詩は剽窃だ。そして星に肖た
海燕がひとつ。海燕はマン・レイ氏のシネポエムから、写しとつたのであるらしい。海燕は音楽のやうに唄ふ。
砂の上に、胴とその片眼が散らかつてゐる。その眼は過激な毒素

自家中毒

で爛れきつてゐるのだ。どうみても
白日のランプのやうにぼやけてゐる。石の表情よりも、はるかに惨忍である。その上に誕生したのであらう。一匹の桜いろの蝶が、奇蹟のやうにひらひらと、平気で、わたしの視野を
翔つていつた。ひかりの
粉を撒きながら。
······ 山から猟銃を担いで、ハンティ※
[#小書き片仮名ン、15-上-10]グに雪の
粉をつけて、さも殊勝らしく、鶫、
鷸、それに山鳩に似た雉なんか腰にぶら下げたH・Hが、四分の二と四分の三拍子をかたみに組みあはせた
Redowa の足どりで、やつてくる。
かれは、わたしに耳打ちして言ふのである。この猟銃は鳥を撃たなかつたのだと。さういへば、鶫も小雉もすつかり、眼の角膜が変色して
凍みてゐる。これは小鳥売買組合出張所の、商人の手を経たものらしい。かれは、そつとわたしに耳打ちして、
妻が鳥を食ふのが殆ど病気であること、先日はニイスあたりの白魚といふ
渉水禽をとりよせたことなど、自慢らしく言つてかへつていつた。するとなぜだらう。かれの後姿からは、みるみるいぶかしい白い河が流れてきた。はてな。これは、わるくするとかれが夭折するのかも知れない。そこで、これは忘却の河

Lethe

であると、姑く信ずるよりほかはない。
かれは、きやらめるをしやぶりながら
錬金術を説く。かれはこれで、前後三回、自殺をこころみて果さなかつた男である。かれの遺書も三通以上は、わたしの手もとにある。そのなかでかれは、自殺は罪悪ではない、むしろカタルシスを目的とする、古風な錬金術のながれを掬むものだといふのである。
かれの
錬金術と遺書によるカタルシスは、どれほどわたしに、恐怖的な迷惑をかけたであらうか! かれはアリストテレスをかざして、古典的悲劇を、そのカタストロフィを、身ぶりあやしげに、説いてきかせる。しかし、かれのアクションは、それ自身、
喜歌劇のかてごりを脱してゐない。
過般、かれは地中海の最深処で投身する旨を声明したが、その実施期日たる十二月二十五日は、すでに過ぎ去つて了つたことなど、かれは

にも出したくないと言ふのだ。かれはエピクロスの偶然論を識つてゐるだらうか。思ふに、かれの如きは、メタフィジックの煙幕にかくれた。最も少数の

死

の

錬金術師

であるだらう。
理髪舗のあるじは嫣然とわらつて、鏡のなかで色学上の錯覚は、
弁証法のかたちで昇華することを告げてくれる。わたしの心の一部に、露西亜の小説家の

ヴォルガはカスピ海にそそぐ

といふ小説が浮んで、消えた。すると、たちまち、カスピ海の潮ざゐがわたしをさらつた。そこら一面に、サフランの匂ひ。頭の芯をめぐつて、銀の鋏から、金属製の花花が咲き出す。
······ わたしはいちはやく、おだやかな印度洋の春の
風波を、鏡面いつぱいに喚びおこすことに成功した。喜望峰のあちらからくる
巻雲が
榛の枝に
梳かれ、丸いかげを落としながら飛行船の銀の腹が、その上を通りすぎる。海は青鮫の砂ずりのいろに拡がり、空にちかい波と波のすき間から、聖らかな船唄が流れてくる。その下を沈んでゆく、ココアいろの
快走艇。
水脈をひいて消えてゆく、金字塔に似た戒克。わたしの心耳に、それらの
像が交錯した瞬間、わたしは理髪舗のたかい椅子から、はずんだ鞠のやうに転げおちてしまつた。
嫣然とあるじはわらつて、説明をくりかへしてゐるばかり。さうして、わたしの歯と歯のあひだに、噛みたばこが
拉がれたと思ふ途端に、なぜであるか、昏々とはてしのない、ヴィテイゴの闇のさなかに、わたしは転落していつたのである。
わたしが扉のノヴを後手に閉めて、室内にゐるかれを顧たとき、ちらりと青い菊がかれをかくした。かれは有数の考古学者で、ポリネシアの上代星座学を翻訳してゐる男だが、いつも卓子を海のいろをした天鵞絨で覆つて、その上に菊のやうな顔をのせてゐるのである。
かれはすぐさま話してくれる。かれの妻君は、大晦日の夜ふけ、場末で春をひさいで
検挙られた女であることを。さうしたかの女が、これはまた婆羅門教の
Veda の、パセティックな讃仰者であることも附け加へながら。かれはその朦朧性についてほめたあげく、白痴のやうにわらふのである。
かれはポリネシアの古典学における、よきエピゴォネンだ。また思ふに、かれの
心はあたらしい!
あゝ 天心に
馭者座かがやく
あゝ この夜わが神霊 銀の天海を翔りて
魚族のごとし
あゝ
孤りの天の座に青き菊の花匂へり
あゝ まぼろしの
針 衣裳よりぬきとり
あゝ 燦然として妖気に吹かれ
あゝ
天を射む
あゝ 橄欖樹の
亭き
梢に 星くづ白くちりぼひて
泪す
あゝ 漂泊の思念 星夜の
頭にかがやき
あゝ 天馬かける青き息づきに夜は眠れず
あゝ わが神霊
氷よりさむし
あゝ 煌と
あゝ
天狼座はわが銃眼にこそきらめく
||いまぞ殺戮をはる時 宗治
もう、見るにたへない。
Koaos の触角のむかふから、夜がおりる。
なんと狡猾稀れな夜であらう。けふも蝕まれた夕餐がちかづく。ゲオルグ・グロッスの悪の華。
漫画の上の、つめたい空気の
翅。
わたしはいくたび夜を数へあげたか。わたしはいくたび、忍苦の血をすすつただらうか。
雨あがりの闇に、捕虜の首の座が輝いてゐる。空間を埋める退屈の花。すると花が流れてわたしを埋めるのである。いつかわたしの透明な思想だけが、そのなかで足掻き苦しむ。まて、足掻き苦しむのはわたしだけではない。透明なわたしの思想だけである。
しばらくは払暁戦。だが、暁は遠くにあるのであらう。無限の夜が、その向ふに
錘のやうにつらなる。
一ときの間は死んだやうに。
············ ······ 告げてよ。時間はわたしから、もうなにも
引奪つてゆくものとてはない! 坐禅菊の上の、気随なボヘミヤ歌。噴上げの霧に弄ばれながら、詩人はうたふのである。

光が空に消え、よろこびが心に消える

と。
殖民地の地図の上なんかで游いでゐるメルズ。
一ぽんの赤い樹木がかぜに靡いてゐる。
三角洲は嗤ふ。
希臘十字のデフォルマションを。
地中海は貝殻だけ。
爾よ、その双手を組むにさきだつて、その鶴のやうなるおん脚をば組みたまへ!
説教台のうへのささやかな典籍。これは
弥撒書といふよりも、
翻波式の
平脱鏡。僧侶といふよりも、げてものの
化仏。とんちんかんに並んだゐねむり
甎とでも。
|| 主の
曰く。みまし指もて、その
陰に置け。
傾いた両手の
裏に、平らかな夜が載る。新鮮なヤスミンの匂ひ。呂律なきエチュウド。よろしい! 奇蹟でないところの奇蹟が崩れおちてくる。それが、古代壁画の剥落とでもいつた趣き。
さいつ頃、手帖にかきとめておいた。こんな言葉をご存じか。
孟。
夾苧漆。
魚子地。
撥鏤。さうして
祭
。
神々が麾く。おお、
左右対斉のとれた平和よ、と。
人間万歳。
人体のパラボラよ。
醍醐味は至るところに溢れん。神々よ。
ある露西亜の処女読本からの抜萃。

女性は透明体。ことに処女は硝子建築である
······
処女読本の表紙のペンギン鳥。
氷の下の暁。
鵜秋沙。
硝子建築のメンス!
硝子建築のエマイユ!
アルルにて。|おや、蠅が一匹。 (ルナアル)
*
すると鳩が芝草におりる。
九月の処女。
白葡萄酒から虹がたつ。
書信のなかの花束には蜂が還つてくる。
槲
が咳をするたんびに、あのくれなゐの麝香の匂ひはどこからくるのだらう。
*
鵞鳥は皿に棲んでゐる。
鼠の骨。
薄暮の雪。
*
アカントスの一夜。辜鴻然といふ図書館長と、アルクヰン聖書に就てかたる。その日の日記。
「十三世紀英国のミニアチュウルの模写をみた。説明書のひとくだりが面白かつた。
九月。
||犂、種蒔、耙、玉転がし、竹馬。
なにかの参考にと写しとる。」
*
鶏は鏡のインタアヴァルから餌をあさる。その上を世紀が
蝶
のやうに、せはしくめぐつてゐる。その音に私はふりかへるのである。ねえ、くれぐれも断つておきたい。不幸なのは僕は芸術家ぢやないといふことだ。
山羊髭をたてに思ひあがつてはいけない。可愛いゝ山羊。
眼鏡蛇のやうなお前よ。
*
夜がふかくなる。おゝ主よ!
我化一管笛月下逢青蛾。あれ、
風吹烏があそこに一羽。
*
この学用患者は私をみて嗤ひだした。かれは杵屋もどきの
声色で、なにやら一席うなつたのち、かう言ふのである。
「
||零落[#ルビの「おちぶ」は底本では「おちぶれ」]れては一介の鴉。この
迂愚なる旅人が
旅宿を

れて五日といふ
旦暮は、これなる
(かれは首から下げたズダ袋をはたく科をしてみせる)山蟻、あれなる黄蜂の巣、さては
天牛虫、油虫、これに
酢模、山独活をそへ、いかに常食とはいたし
候」
かれの営養価について私は手古摺つた。すると出会がしらに、山から帰つてきた芝師が答へてくれたのである。
「君の中風症はよほど進んでゐる。まさかあいつが!」
さう言ふや、ぺっとヒマラヤ杉へ唾をとばした。水盤のなかに、埃の吹いた拡大鏡を
涵しながら。
*
こんなことが実際あるとはしらなかつた。この
湖べり一帯は、いたるところ土龍の作業場といつたありさま。説教師は
小尖塔を仰いで、呪ひのさけびをあげる。
「なんぢ、無躾なる
地下鉄の穴掘人夫。ふん、
麑下の足もとに穴をあけた
猪首の半逆者め。太陽を睨んでみろ。
喝!」
*
大袈裟な常春藤のおつかぶさつた橋。これは! 橋の下に一家族がゐる!
*
すでに土筆は記念碑。
斑鳩のこゑは塔に。
*
失敬。
螽が嗤ふほどのペシミスティックな子供たち! 汚れた足が落ちる。
*
「金魚の尾鰭に、
錫の
鐶。走れよ、走れと申されし」
(類諺集) この国に多すぎるものは、いびつな風癲者と
佝僂。それにどこか横紙やぶりの類諺集なぞ。
*
ある月の夜。
||片足をふみ外した
陥穽から、わたしはそつくり月の裏側をみた。さる人はニツケル製の湖水が光つてみえるといふ。足穂の天文学。いづれにしろ、無稽のいひぐさ。
聖詩祈祷歌を唄ひながら坂をくだる電車。夕べはそのなかで、
亜孟。
*
アフロディテを絞殺せよ。火山湖のつめたい
油がかれの脊髄の川に沿うて流れる。罪障消滅のために。最も文学的なる
萵苣のメンス。どれ舌を出してお見せ!
博学人形。こいつ手おどりだけが能弁にできてゐる代物だ。主として唄ふうたは
キリエ・
エレイゾン···
*
国立動物園にて。
メガネをかけた房珠鶏の気どつた歩きつぷり。駱駝に跨つてゐる、
悪戯ざかりの
女狐の子。みよ。カメレオンは強烈なチアノーゼに罹つた。ラレグル猿は跳ねてゐる。

補欠の跳躍選手!

だがこれらは、およそ時世粧であることが判る。
わたしの覚え書の結び。
||「園長のつつましい敬礼をうけて、私は鶴のやうにここを去つた。」
そのモノトンな音を廻転させることにより
私に、その金網を張つた箱の内から
忍従のもつひとつの静かさとさびを教へてくれる
おまへ、こつこつ車を廻す白鼠よ
いつまで車を廻すのだ、その根気のよさで
その愛くるしく朱の吹いた柔手と、その足で、
しかしなんとわが友よ
(あるは無為なる「忍従」を献げる、小さい「行為者」よ、)
おまへも寂しからうにと、私は心配をする
||ころりころころとその車をば
廻して暮らすには、あまり等閑な一日ゆゑ。
「門」から
ききき 聴けよ
ややや 山羊の唄ふパストラルを
にににに 二三匹して鳴く
かかかか 閑夜の蟋蟀を
かか 竈のかげで
ここ
薦枕のママママ マシウ・アアノルド先生
かかかか 片隅の幸福
セセセセ セラフィンの唄
よよよよよ よろしい
猫はこれらの田園のなかを よぎる。
障子の外にはしろじろと暁が降り
微粉を撒いて吹雪はひつそり収つてゐる
鶴が啼いてゐる
···「門」から
散歩道で。
||粉碾磑のうへに粉とみたのは霜。その霜にひらりと、
蜆蝶が落ちてくる
···。蜆蝶と見れば、これは
菩提樹のひとひら。
仰げば、リンデンの樹では
鷽の唄。
桑畑に遠い、冬の
湖。
湖水の多景島で。
|| あの羊腸たる
蟻門渡
をわたりながら、わたしはみごと O CARA MIA を鼻唄でやつてのけた。そのとき中空に、
膜翅類のむらがる幻影が、レリイフのやうに生じたのはなぜだらう。だが唄ひながら通りすぎたとき、仏罰の覿面は、たちまち躓いて、わたしの精霊は巌のうへから、あの湖中に散つたのである。
その証拠であらう。爾来、わたしの詩はアルカィックなものになつてしまつた。
湖をふるさとにして。
七十人町で。
|| あそこのマリオネットで、わたしは欠伸の滂沱たるなみだにかきくれた。なんといふ下劣な
演出ばかりだ! 名ばかりが
威つい万国抒情人形展。ところが、陳列人形を仔細にながめながら、わたしの
彳ちつくしたのは、ペルシャ猫の一対をあしらつた、モォラン張りの

花合戦

である。愕ろきはこれにとどまらない。

桜井駅楠公父子の別れ

とかかれた題の下を、人形からでてきた
錻力製のインコが青磁の皿をたたいてゐたが、わたしがゆきすぎるとき、そいつは精一ぱい叫んだものである。
「やよ待て、わが子!」
桜馬場のともしい桜かげ。
······ その桜よりも清楚な家族をもつたことを、わたしは私かに
伐りとした。
春といへば、いつせいに並んだ桜の敬礼をうけて、わたしは将軍のやうに反りかへつて門を出る。
夏はなにか眼に見えないものが湖をわたつて、和蘭陀夕顔のかげを、涼しく触れてすぎる。夜は食用蛙の唄。
蛙をたべて、蛙の唄をききながら
熟睡におちる宵が、蚊帳のなかに夜ごと健康をはこんでくるのを、わたしは夢まくらで識つてゐた。とりわけ打算的な睡り。
初秋。紫薇のうすくれなゐが、つぎつぎと暦のやうに落ちつぐ。
冬はわかい歯科医の雑木庭で、鶯日和。
なよやかに彼岸桜が帰り花を添へる。それへ根雪が、水銀色に
零れて氷りはじめると、すでに一年のをはり。
暦は裸かになる。
湖心亭で。
|| 一群の
鳰鷯の田舎ぶし。アルバトロスのこゑは、夜かぜに湖へと畳み込まれる。あの曖昧な「
楓橋夜泊」を張継に書かせたのは、こんなところだらう。
月のいい湖上を、鳶いろの大
鯰が二間のしぶきをあげて、遊弋する。
湖をかたむけた波が、霜ぐもりの朝、湖西のそらに虹をかける。下に、冬眠の
館を掻いこみながら。
堀割の青みどろに、かげをうつす柳。そこには古今集のやうに鶯はこない。だが、小学一年生のやうにならんだ雁が、その堀割をこえて帰つてゆく。たち替つて、泥を哺んだ燕尾服が、ひらりと宙返りをしながらやつてくる。
この街頭曲芸師に、さみだれる街区は帯よりもながい。
カッフェと寺塔を軒なみに。
北陸から雪をかづいできた貨車が息をつく街。
紀元一千九百二十九年の春といふに、
転生に肖た日のかがやきがわたしにきた。いはば暁のそれのやうに。湖畔の生活は暮れて、道しるべは東方をゆびざす。いつせいに
身装をして、わたしは転生したのである。人間から昆虫へ! 燕のやうに湖をあとに。