「親分、退屈だね」
ガラッ八の八五郎は、鼻の穴で天文を観るような
「
平次はそう言いながら、せっせと植木鉢の世話をしております。
青葉と
だが、八五郎は違います。
「そいつはあんまり
若い親分平次の、尻を
「粋事で植木の世話をする奴があるものか。
「ヘエ、||親分でも店賃を溜めるんで? ヘエ||」
「何を感服
「ヘエ、||驚いたね。二三百両持って来てやりてえが、あっしも、今月はやり繰りが付かねえ」
「馬鹿野郎、人の店賃の世話より、
「ありゃ、一貫六百で、親分」
「六百でも一貫でも借りは借りだ。十手なんか突っ張らかして半端な借りを
「ヘエ||」
ガラッ八は、まさに一言もありません。
「まア、そんな事を、人様が聞くと笑いますよ」
女房のお静は
「あ、お品さんか、||お品さんなら有るも無いも承知だ。
「まア」
お静とお品は、顔を見合せて隔てもなく笑いました。
「ところで
お品の様子が何となく冴えないのを、平次は見のがすはずもありません。
「ツイこの間も天霊様のことで、さんざん親分にお骨折りをかけたんですから、今度は父さんが自分で手掛けて目鼻をつけたいって言うんですが||」
お品は本当に言い
「そいつはつまらねえ遠慮だぜ、お品さん、この二三日はろくな仕事もなく、俺は植木ばかりいじっているし、八の野郎は
平次は手を洗って端折った尻をおろすと、世話甲斐もない植木鉢の行列を、しみじみと眺めやるのです。
「それじゃ、聞いて下さい、親分」
お品は話し始めました。
大坂へ送る幕府の御用金五千両、
それは今から三年も前のこと、当時はまだ元気の良い石原の利助は、町奉行から特別のお声がかりで、勘定方の役人と一緒に、東海道宇津谷峠まで出張し、十日あまりも滞在して調べましたが、何の得るところもなく帰って来たことは、平次もよく記憶しております。
「その三人組の一人、三州の
「············」
平次はその先を促すように
「もう一人の仲間は
「それがどうしてお品さんに判ったんだ」
「駿府のお役所から人が来ましたよ。三年前父さんが調べに行ったことが判っているからでしょう」
「話は面白そうだが、たったそれだけじゃ、手のつけようがねえ」
「まだこんな事がありました。三州の藤太の命より大事にしていた立派な煙草入の中に、鍵が一つと丁寧に畳んだ
「大舟町? 市兵衛? 百四十四夜?」
「煙草入は持って来て、父さんが預かってありますが、何の事だが、ちっとも判りません」
「············」
「残った二人の悪者が、江戸のどこかで逢って、五千両の御用金を始末するのも近いうちでしょう。駿府からわざわざ知らせてくれた事でもあり、ここで
お品はうら悲しそうでした。三十年も鳴らして来た石原の利助の名も、老衰と病気で近頃はしゃっくりを止める
「お品さん、心配することはないよ。俺で出来るだけのことはやってみよう。手掛りさえありゃ、
と平次の無造作さ。
「親分」
お品は口もきけないほど打たれておりました。江戸開府以来と言われた、名御用聞銭形平次が引受けてくれさえすれば、土壇場に据えられた親の利助の名も、どうやら救うことが出来るでしょう。
「その文句を書いて貰おうか、お品さんのいい
「あら」
お品は少し照れながらも、
「八、こいつは判じ物だ。少し考えてくれ」
「ヘエ||」
八五郎はその文句を覗いて、鼻の穴をふくらましておりますが、結構な智恵などは浮びそうもありません。
「大舟町というのはどこだい」
と平次。
「戸塚の裏街道に、大船というところはあるがね」
「そいつは東海道の
「お膝元には大舟も
「待ちな、八、
「なるほど、
「行ってみるがいい、そんな事で判りゃ大手柄だ」
「じゃ、親分、お品さん」
ガラッ八の八五郎はサッと飛出しました。ノッソリしているようでも、御用となると、この男には羽が生えます。
平次はお品の書いた判じ物のような文字を、
お品は次の間へ行って、お静と女らしい細々とした話に
ガラッ八の八五郎は、その日の夕方ヘトヘトになって帰って来ました。
「小舟町には市兵衛も二兵衛もありゃしません。ああ
「大舟町を小舟町と判じたのが無理かも知れないよ、||とんだ骨折りだったね、お隣から貰った柏餅があるから、二つ三つ押し込んで、晩飯の出来るまで待つがいい」
平次はツイ腹の中の親切の地を出して、ガラッ八のためにお茶を
「有難いね、なるほど今日はお節句だ」
八五郎はあわてた恰好で柏餅へ手をやります。
「どんなに腹が減ったか知らないが、右と左へ柏餅を持って、チャンポンに食う人間はないぜ」
と平次。
「
「
平次はそう言い捨てて、お品の方へ向き直りました。
「何を考えていたんで? 親分」
「百四十四夜という文句を考えているんだ、どうも解らねえ」
銭形平次も少し持て余し気味の様子です。
「すぐ判りそうなもんじゃありませんか。||お七夜、お十夜、八十八夜、
「馬鹿野郎」
「へッ、うっかり智恵も出せねえ」
柏餅で腹一杯になると、ガラッ八はもうこんな調子でした。
「元日から百四十四日目というと、五月の二十六日になりますね」
お品は指を折りながら、月の大小を勘定しております。
「そんな事かも知れないが、元日から勘定するのは、暦の上では珍しいことだ。例えば、八十八夜も二百十日も、節分から勘定するのが定法だから||」
「節分は?」
ガラッ八は立上がって柱暦を覗きました。
「節分は暮だったよ。そいつは今年の暦だ」
「不自由な暦だね」
「節分から百四十四日目は、八十八夜から五十六日目じゃないか、八十八夜は
「だからあっしが八十八夜と言ったじゃありませんか」
ガラッ八の鼻は少しばかり
「深草の少将だけは余計だよ。||無駄を刈って、八十八夜を捜しな」
「三月の七日」
「お品さん、
「百三十九になりますよ」
お品の
「あッ、||節分から百四十四日目というと五月の五日だ」
「今日?」
ガラッ八も思わず息を呑みます。
「百四十四日と書かずに、百四十四夜と書いたのは、たぶん今夜のことだろう」
平次の声も緊張しました。
「どこでしょう」
とお品。
「それが判りゃ」
三人は顔を見合せるばかりです。
「少し考えよう。||たった一と晩で、五千両の金と、御用金泥棒が二人飛ぶかも知れない」
平次は深々と腕を
「親分、本当に小舟町でしょうか」
とガラッ八。
「まず間違いはあるまい。この曲者は、恐ろしく
「その小舟町に、赤井市兵衛がいるのも確かでしょうね」
お品もたまりかねて口を出しました。
「それも間違いはあるまい。五千両の金がありゃ、人の物でもただ取ろうという心掛けの人間は、山里に隠れて三年の間鹿や猿と一緒に暮す気にはなるまい。金を隠すにも、
「············」
「八」
「ヘエ||」
「下っ引を五六人駆り集めて、小舟町中を当ってみてくれ。暮しの良い浪人者はいないか、町人でも武家出の
「大丈夫でしょうか、親分、そんな判じ物みたいな事で」
ガラッ八には、何かしら不安がありました。
「洒落っ気は人間の癖だ。この狙いが外れたら、俺は十手捕縄を返上するよ」
平次の強大な自信に追っ立てられて、ガラッ八は晩飯を食うのも忘れて飛出してしまいました。
「親分」
お品はその理智的な顔を挙げました。
「大丈夫だ、お品さん、大舟町だの、百四十四夜だのと洒落のめす奴は、青山仁兵衛とか何とかいって、小舟町にぬくぬくと住んでいるに違いない」
平次は自分に言い聞かせて自信を固めるように、もう一度こう繰返します。
八五郎の鼻の良さは、一刻経たないうちに、要領を得てしまいました。
「親分、判った」
自身番へ飛込んで来たのは
「大きな声だぜ、||そっと言ってくれ、町内へ触れを廻すには早え」
平次はそう言いながらも、この報告をどんなに待ち兼ねたことでしょう。
「
「なるほど、それが赤井市兵衛の変名だったのかい」
「三年前にこの町内へ来て、米、油問屋の古い
「なるほど」
「武家出だそうで、商売は番頭任せ、五十五六のまだ達者な身体を持て扱って、好き放題に日を暮している。白石屋というから、奥州の白石に縁があるのかと思ったら、それは先代から買った暖簾名で、当人は心持西国訛があるというのも面白いじゃありませんか。ね、親分、こいつが曲者でなかった日にゃ、あっしも十手捕縄返上だ」
八五郎はすっかり意気込みます。
「つまらねえものを
「女房はお
「大層な人数じゃないか」
「こっちにも五六人手が揃いましたぜ。踏み込んでみましょうか、親分」
「そいつは
「それじゃ?」
「手前と二人だけで乗込んでみよう。明日というわけには行かねえ。お品さんはしばらくここで待って貰おう」
平次は
が、白石屋に乗込んで行って驚きました。
中は煮え返るような騒ぎ、四間半間口の店から、不安と焦躁の気がこぼれていたのです。
「どうした」
いきなり小僧をつかまえて訊くと、
「旦那が死んだんです」
予想もしなかった答です。
「どうして死んだ||いつ、どこで?」
「
小僧はゴクリと
「案内しろ、俺は神田の平次だ」
こんな時は、十手に物を言わせる外はありません。
「ヘエ||」
ガタガタ
「あれは?」
あっちこっちの押入をあけたり、
「文三郎さん」
「············」
平次の顔を見ると、あわてて神妙な様子を見せる手代の文三郎は、この騒がしい空気の
「あ、銭形の親分さん」
奥の一と間、||店と土蔵に挟まれて、一方口の狭い部屋の中に、主人の死体は二三人の驚きと歎きの
声をかけたのは番頭の喜助、四十五六のよく
「気の毒なことだね、||急に亡くなったのかい」
「ヘエ、||あんまり急で、涙も出ません、ヘエ||」
「
「とんでもない、丈夫が自慢の主人で、時々肩が凝るほかには、風邪一つ引いたことのない方でございます」
平次はズイと寄りました。かりそめに敷いた
苦悶の跡も、
そのうちに町内の本道(内科医)が来ました。誰が呼んだのかわかりませんが、息の絶えてしまった者には、「
「これは卒中だ。何とも致し方がない」
そこそこに立上がる本道の袖を、平次はそっと押えました。
「これでも卒中でしょうか、もう一度
平次は死骸を
「あッ、なるほど」
本道はあわてて眼鏡を取出しました。白石屋半兵衛の首の後ろ、ちょうど毛の生え際の急所に、蚊にさされたほどの、小さい小さい傷があったのです。
「こいつは人間の命を取るほどの傷じゃないでしょうか」
「いかにも、これは大変だ。||
「八、この家の者を、一人も外へ出しちゃならねえ、||それから、宵に来た按摩をつれて来てくれ。手荒なことをするな」
「ヘエ||」
ガラッ八は弾みのついた
ガラッ八の後ろ姿を見送って、平次はもう一度部屋の中を見廻したのでした。
「あの、主人は、もしや?」
女房のお吉は、自堕落な顔を引締めて、一生懸命になります。
「お気の毒だが、人手に掛って死んだよ」
「えッ」
「按摩が帰ってから、誰と誰がここへ入ったか、判るだろうな」
平次はすぐ大事な問に取かかりました。
「お雪さんと||」
お吉は自分の
「いつものように、水を持って参りました」
十八か十九か、
「その時主人は生きていたんだね」
「え、寝息を聞いたような気がします」
「そんなに近く寄ったのかい」
お吉の眼は嫉妬に燃えました。
「でも||」
「このお雪さんというのは、主人の本当の姪じゃないんだね」
と平次。
「赤の他人ですよ。||元は奉公人だったんです。少し渋皮が
本人を前に置いて、お吉の舌は深刻に
「それから誰が入った」
「番頭も手代も入りました。||その手代の文三郎が、主人が死んでいるのを見付けたんです」
「番頭を呼んでくれ」
平次が言うと、お雪は呑込んで部屋の外へ出ましたが、間もなく、番頭の喜助をつれて来ました。
「ヘエー、親分さん、御用で?」
「
「それがよく判りません。||私は部屋の入口から声を掛けただけで、お
「どんな用事があったんだ」
「今日の
「そいつは毎晩やるのかい」
「毎晩やることにはなっておりますが、晩酌をお過しになると、ツイ面倒臭くおなりの様子で、ヘエ」
喜助はお吉の顔を顧みて、場所柄ながら少しばかりにんがりとします。
「お
「三年でございます。||でも、大坂に居る時分からの御引立てで、旦那様にお目にかかってから、かれこれ十年にもなりましょうか」
「大坂はどこに居たんだ」
「あの、
「何という家だ。商売は?」
「大坂屋、||油問屋でございました、ヘエ」
「主人は人手に掛って死んだに相違ないが、お前には心当りはないかえ」
「それを承って、ただもうびっくりしております。こんな結構な御主人を、
「怨みがないまでも、主人が生きていては困る者があるだろう」
「さア」
喜助はこの間を持て余した様子でした。
「文三郎に来るように、そう言ってもらいたいが||」
「ヘエ||」
喜助は解放された喜びに、よく肥った身体を転がるように部屋から出て行きました。
続いて入って来た手代の文三郎、この店中では一番立派な男ですが、何に興奮したのか、平次に呼び付けられても、挨拶をするでもなく、死骸の側に無造作に坐って、何やら気になるらしく、後ろの方ばかり振り向いているのです。
「先刻何か捜していたようだが、ありゃ何だい」
平次の間は少し
「何でもありません」
「主人が死んだという晩、家中の押入を覗くのは穏やかじゃないな」
「············」
文三郎は黙って唇を噛みます。
「いつから
「一年ほど前からです」
「ここの主人を、赤井市兵衛と知ってか」
「えッ」
文三郎は
「五千両の金は、まだ見付からないのか」
「とんでもない、親分」
平次の言葉の効果は、全く見事というの外はありません。理智的に見えた文三郎が、すっかり度胆を抜かれて、急にソワソワし始めましたが、平次の問に対しては、まだ何と答えたものか、思案も定まらない様子です。
間もなくガラッ八は若い
「佐の市か」
「銭形の親分さん」
佐の市は声のする方へヒョイとお辞儀をしました。
「お前が帰る時、白石屋の主人はたしかに生きていたかい」
「それはもう、親分さん、変ったことがあれば、黙って帰るような事はいたしません。||
「鍼は?」
「持ってはおりますが、白石屋さんは鍼をお嫌いで、一度も打ったことはありません」
「お前の鍼箱を見せてくれ。鍼が足りなくなっているようなことがあるかも知れない」
「ヘエ||」
平次の言葉の意味を
一番から十番まで、一寸五分ぐらいから、五六寸のまで、枕に並べた定法の鍼の数を、不自由な眼と
「一本も無くなってはいません、親分」
佐の市は
「ところが、白石屋の主人は、その鍼を打たれて死んだんだよ」
「えッ、||そんな事はありません。どこへ、どんな鍼を打ちました。手さぐりで、私に教えて下さい」
「ここだよ」
平次は佐の市の手を取って、死骸の
「これですか、親分、||これは、『十四
「············」
「こんな鍼を打たれちゃ、一とたまりもありません。||たぶん物も言わずに死んだことでしょう」
「佐の市、||お前は、この家の誰かに、その急所を
平次はいよいよ最後の問まで
「ツイ冗談ともなく、話したことがあります」
「誰へだ」
「亡くなった白石屋の旦那様に、||十日ばかり前のことでした」
「外にはないか」
「聞いていた方があったかも知れません。が、この眼では」
「見当ぐらいつくだろう」
「
佐の市の言葉は暗示的です。絹物を着ている、柔かい息づかいの人間というと、女房のお吉と姪のお雪の外にはありません。
「話は違うが、お前の眼はいつ頃から悪くなったんだ」
「五つの時からですよ、親分」
佐の市の言葉には、諦め切れない悲しみがあります。
「生れは?」
「御当所でございます」
「師匠は?」
「
少しの疑いもありません。
「有難う、お蔭でいろいろの事が判った。もう帰ってもいい||八、誰かに送らせてやるがいいぜ」
平次は佐の市を送り出してホッと息づきました。
白石屋の四方は下っ引を動員して、
「もしや?」
平次の胸には、大きな疑問が浮びました。稲妻小僧の六という曲者は誰かの姿を借りて、この包囲陣の中||白石屋の家の者として、澄ましているのかも判らないと思い付いたのです。
平次は八五郎を呼んで、二つ三つの用事を言い付けました。
「誰でも構わない、一人は勘定方の御係りへ行って、三年前宇津谷峠で斬られた、中根鉄太郎という人の身寄りの者の居るところを聞いてくれ。皆んな揃っているならいいが、弟なり
「ヘエ||」
「もう一人は、町奉行へ行って、大坂の事をよく知っている人に、心斎橋通りの問屋で、大坂屋というのがあるかないか聞いてくれ」
「ヘエ||」
「それからもう一人は、灸や鍼の道具を売る店を捜して、近頃素人に一番の鍼を売らなかったか訊いてくれ。なアに、日本橋から江戸橋の近所だけで沢山だ。それで判らなかったら江戸中を捜さなきゃなるまいが、大方一軒か二軒で
「ヘエ||」
「もう一人、石原の利助
平次の指図は恐ろしく行届きますが、それが、家中の者に筒抜けに聞えるような大きな声です。
下っ引は八方に散って、家の中はしばらく空っぽになりました。
「親分」
「何だ、八」
「あの文三郎という
「
「あの野郎が稲妻小僧じゃありませんか。夜の明けないうちに、五千両の金を捜し出して、持って逃げ出そうという魂胆でしょう」
「抛っておくがいい。あのヒョロヒョロした男に、五千両の小判が持てるものか」
平次は一向驚く様子もありません。ガラッ八は諦めた様子で店の方へ引返します。
「親分」
今度はお品でした。
「変ったことでもあるのかい、お品さん」
「何にもなくて困るんです」
「二人の女は?」
「
「この家に五千両の金が隠してある||と
「そんな事を言ってもいいでしょうか」
「悪者は最初から知ってる。||慾のない人間には教えても一向差支えはない」
「じゃ、そうやってみますワ」
平次の自信に動かされて、お品は元の部屋に引返しました。が、そこには、お吉も、お雪も居ず、半兵衛の死骸だけが、
「た、大変ッ」
庭の方から、
お品と平次と、廊下でハタと顔を合せて、無言のまま庭に飛降りると、ガラッ八の八五郎が、庭の
「何だ、八?」
と平次。
「これを見て下さい」
指さしたのは、中ぐらいな
引起してみると、番頭の喜助、もう息も絶えて、呼び生けようもなかったのです。
「親分」
「何だ、八」
「あの野郎を縛って構わないでしょうな」
「誰だい」
「稲妻小僧の六」
「見当が付いたのか」
「手代の文三郎ですよ。あれが稲妻小僧でなかった日にゃ、あっしは||」
「十手捕縄の返上は少し気が早いぜ、もう少し待ちな。||証拠が揃わない」
平次は落着き払います。もう
「家の中を嗅ぎ廻っているじゃありませんか。証拠なんか
「馬鹿っ、そんな世間並な気になるから、いつまで経っても見当が外れるんだ。岡っ引は
「あの、あの男に科はないと言うんで||」
「物の
平次は軽く
「五千両の隠し場所は? 親分」
ガラッ八は追っかけました。
「それも見当が付いたよ」
「本当ですか、親分」
八五郎の声は、親分平次に対する讃歎に弾みます。
「俺が嘘を
「親分、それじゃ大手柄じゃありませんか」
「このうえ赤井市兵衛と番頭の喜助を殺した奴が見付かりさえすればね」
「それなら、あの文三郎じゃありませんか」
「いや、違う」
「親分」
「自分で殺したなら、あんなに無遠慮に家中を捜し廻るようなことはあるまい」
「それじゃ?」
「もうすぐ判るよ」
「あのお雪という娘じゃありませんか。主人の部屋へも入っているし、着物にはほんの少し血が付いていましたよ」
「············」
「綺麗な顔をしているが、何をやるか判ったものじゃない。叩けば
「············」
平次は考え込んでしまいました。
「親分」
「よし、やってみようか。稲妻小僧の六はこの騒ぎに驚いてしばらくは寄り付くまい。せめて二人殺しの下手人を挙げて、五千両の御用金を勘定方にお返ししよう。来い、八」
「可哀想だが、やりますよ、親分」
手ぐすね引いて、お雪の部屋というのへ向った二人。
「待って下さい」
暗い廊下で、ハタと行手を
「誰だい」
「私でございます」
「手代の文三郎さんか、何の用事だ」
平次の言葉は冷たくて厳しい調子でした。
「御主人と番頭さんを殺したのは、この私です。お雪さんなんかじゃございません。私を縛って、どこへでも突出して下さい」
「············」
平次は黙って突っ立ったまま、
「そして、五千両の御用金は、お願いですから、お雪さんの手から、勘定奉行へ還させて下さい」
文三郎は板敷の上へヘタヘタと坐って、両
「よしよし、よく言ってくれた。||ところで、主人は何で殺したんだ」
と平次。
「按摩の鍼で殺しました」
「その鍼はどこから手に入れて、どこへ隠した」
「············」
「番頭の喜助はどんな意趣で殺した」
「············」
「どうして殺した」
「
「その匕首はどこへやった」
「············」
「おいおい嘘を吐くなら、もう少し器用に吐くものだよ。||本当の事を教えてやろう。主人を殺したのは、あの番頭の喜助さ。五千両の隠し場所を嗅ぎ付けて、急にそれが欲しくなったんだ。ところが、五千両を隠し場所から取出す段になって、赤井市兵衛の仲間||たぶん稲妻小僧の六に見付けられその場で
「············」
平次の明智に、文三郎もガラッ八も圧倒されてしまいました。
「主人を殺した鍼は、あの部屋の壁の中に叩き込んであったよ。番頭を殺した剃刀は、多分あの
「············」
「それから、お雪さんというのは、主人の姪でも何でもない。あれは勘定方役人、三年前宇津谷峠で三人の
「親分、その通りです。フトした事から白石屋半兵衛が、赤井市兵衛と知って、敵を討つ心算で入り込みました。でも、五千両の御用金を奪い還さない限り、敵を討っても
「お前は何だ」
「中根様の用人、青山文三郎」
「そうか」
平次も何やら予想外なものがあった様子です。若い文三郎の献身的な働きは、決して愛や情けから出発したものばかりではなかったのでした。
「あッ、危ないッ」
文三郎は絶叫しました。振返ると、三四間先の廊下を、女がお雪に追いすがって、髪を
「己れッ」
平次の手からは銭が飛びました。
「あッ」
たじろぐ匕首の女、飛込んだガラッ八は、その後ろからギューと羽交締めにします。
「あッ、
女が身を沈めると、ガラッ八の巨体は縁側にもんどり打ちました。
「御用ッ、神妙にせい」
飛込む平次。
「亭主の敵を討った私に、何が御用だい」
振り冠った乱髪の中から、激怒に引きつるお吉の顔が、朝の光を半面に浴びます。
「稲妻小僧が女と知らなかったばかりに、余計な人間を一人殺させたよ。サア、もう逃しはしないぞ」
と平次。
「馬鹿におしでない」
匕首と銭とは、しばらく宙に相打ちました。女ながら、稲妻小僧と言われた、恐ろしい
「あ、親分」
木戸を開けて、庭先へ入って来たのは、物音に驚いて飛込んで来たお品とその子分でした。
「お品さん、これが稲妻小僧の六だ。三人組の一人が女とは気が付かなかったよ。赤井市兵衛の白石屋半兵衛は死んでしまったが、この女を突出しただけでも、御奉行所ではお喜びだろう」
「············」
お品は黙ってお吉の稲妻小僧を受取りました。感激に上気した顔に、初夏の朝風が快く吹きます。
「それから、駿府から持って来た藤太の煙草入を貸して貰おうか。お吉の帯の間には紙入があるはずだ。それと、殺された主人の煙草入があれば、五千両の
「親分、唐櫃はどこにあるんで」
ガラッ八は狐につままれたようです。
「男の子のない家に
鯉幟の竿を持たせた二本の石柱の根を掘ると、一枚石の下から、
「あッ」
中から出たのは、全く手付かずの五千両の小判、折から、町並の上に昇った朝日に照らされて、眼もくらむばかり。
「こいつは中根様のお嬢さんの手柄になさるがいい。大急ぎで勘定奉行に運ばせましょう。文三郎さんは、お雪さんと一緒に行って、何にも言わずに納めて来なさることだ」
「親分」
お雪と文三郎は、顔を挙げることも出来ないほど泣いておりました。
「八、来い。退屈が吹っ飛んで腹が減ったろう」
平次はクルリとその激動の
「親分」
「何だい」
「好い心持だね」
「滅多に朝起きしないからだよ」
平次の足は次第に早くなります。