江戸の

その
「た、大変ッ」
「何だ、八。帯が半分解けているじゃないか、煙草入をどこへ振り落したんだ」
「それどころじゃねえ、親分。万両長者が土左衛門になったんだ||あ、水が欲しい」
「瓶の中へ首でも突っ込んで、土左衛門になるほど呑むがいい。
平次は驚きもしません。ガラッ八
「死んだのは平右衛門町の伊勢屋新六ですぜ、親分」
「金持が土左衛門になったところで、十手捕縄を持出すには及ぶめえ」
「それが、竪川で釣をしているうちに、河童に引込まれたんで||」
「まさか、河童を縛れというわけじゃあるまいね。河童や狸の退治なら御用聞を頼むより、武者修業か何かに頼む方が筋になるぜ」
もう
「じれったいね、親分」
「俺もじれったいよ。そこで首を振っていられちゃ、せっかくの良いお月様が拝めなくなる」
「それどころじゃねえ、||お月様は明日の晩も出るが、伊勢屋新六を突き殺した野郎は、明日になれば、涼しい顔をしてお月様か何か見ていますぜ」
「何? 伊勢屋新六を突き殺した? 河童がかい?」
「河童なら
「||商法は変な言い草だが、突き殺したのが本当なら、
銭形平次も
「
「フーム」
「石原の
「お品さんが||首へ縄を付けて||とは言うまい」
「それは物の
「つまらねえ
と平次。
「それっきりだが、石原の利助兄哥は中気で、動きが取れねえ。お品さん一人で気を
ガラッ八の八五郎は、思いの外の親切者でした。利助の娘のお品が、女だてらに、親父の縄張を守っている苦心を思うと、本当に平次の首根っこへ、縄を付けても引張り出したい心持でしょう。
平次は黙って考え込みました。ガラッ八に
「八」
「ヘエ||」
「
「馬ほどじゃありませんが、人間並みには駆けますよ」
「竪川の材木置場まで、
「四つん
「馬鹿なことを言やがれ」
「四半刻ありゃ、
「それじゃ大急ぎで飛んで行って、掛り合いの者を一人残らず集めておいてくれ。どこかへ
「そんな事ならわけはありません」
「待て待て、
「まだ話があるんで?」
「釣場の材木に血が付いているなら、洗っちゃならねえ。血がなかったら、||こうと、伊勢屋新六の供の者や近所にいた者の髪を見るがいい。男でも女でも構わねえ、
平次の命令は
「大解りだ、親分は?」
「後からそろりそろりと行く」
「それじゃ」
ガラッ八の八五郎は、飛びました。身上も軽く気も軽い男です。強健な三歳駒のように本所へ||。
その頃の釣の豪勢さは、物の本に

伊勢屋新六は江戸の札差でも町人に違いはなく、まさか、金屏風をめぐらし、
それが、薄暮の水の中に、河童と覚しき怪物に引込まれ、二の橋から迎えに来た船頭
銭形の平次が竪川の材木置場に駆け付けたのは、
「親分、||掛り合いの人間を、
ガラッ八はそれを迎えて、猟犬のような鼻を
「それはいい
「一人も濡れたのなんかありません」
「じゃ、やっぱり河童の
「冗談で、||親分」
「まア、いい、||気の毒だが、掛り合いの人達に、
「今晩中にやる気ですかえ、親分」
「河童の元結や
「ヘエ||」
平次はガラッ八に後を任せ、お品と利助の子分二三人を
「伊勢屋新六の増長は目に余りましたよ。町人の
「フム」
利助の子分の若松というのが説明してくれるのを、材木置場に立って、平次は神妙に聞きました。
「一と頃は恐ろしい女道楽で、
「············」
「故郷の伊勢へ帰った時は、
「それが、厄介なことに
「十匹釣れたのか」
と平次。
「九匹まで釣ったそうですよ、||あと一匹という時、暗くなりかけた水の中に、何か光る物があったんだそうです。伊勢新が乗出して覗いたところを、水の中から、毛むくじゃらな手が出て引込んだというんです」
若松は平次の立っているあたりを指しました。
竪川の水は、斜めに上った月の光を受けて、ギラギラと光るだけ。底などは見えるはずもなく、ここからは平次も、何の手掛りを得られそうもなかったのです。
供の者は、番頭の平七と、漁師の伊太郎と、
それだけを、材木置場のすぐ裏の庵寺に入れて、ガラッ八と利助の子分が、番犬のように頑張っているのですが、平次はそれらの人達に逢う前に、まだ舟の中に置いたまま、検屍を待っている、伊勢屋新六の死体を見ることにしました。
舟はそこからほんの十
「あ、銭形の親分さん、御苦労様で||」
文次が驚いて挨拶するのへ、軽く
「ウーム」
万両
「親分、これは何で突いたのでしょう」
若松はその傷を指しました。
「
「不思議ですね」
「河童の
平次の顔は、少しも冗談を言っている様子はありません。
平次とお品と子分らは、庵寺へ引返しました。この上は男三人と女三人を、片っ端から調べるより外に方法はなかったのです。
最初に庵寺から引出して、月下の材木置場へ
「あんまり

「すると、お前は、伊勢新が殺されてくれればいいと思ったのかい」
と平次。
「とんでもない、||私の大事なお
伊太郎はあわてて自分に振りかかりそうな疑いを払いのけました。
「伊勢新が水へ落ちた時お前はどこに居たんだ」
「釣の邪魔になるからと言って、二つ目に置いた舟の迎えに行って、船頭の文次と二人で
「待ってくれ||女の声を聞いたのは、その時が始めてか」
「ヘエ、||暗くなりかけて、よくは解りませんでしたが、材木置場には女が二人、何か大騒ぎをしている様子でした」
「それから」
「びっくりして漕いでいくと、||旦那が||旦那が||と川を指しているから、大急ぎで五六間のところへ行くと、人間が一人プカプカ浮いたり沈んだりしているじゃありませんか」
「············」
「二人がかりで引揚げてみると、それが伊勢屋の旦那で||水に落ちただけなら、伊勢生れの旦那は泳げるはずですが、あんなに
「それでも何か言ったか」
「介抱すると、たった一と言、||
「金の鯉?」
平次はくり返しました。
「それっきり息を引取って、誰が殺したか少しも解りません」
さすがに漁師の伊太郎は、河童説を信じてはいない様子です。
次に呼出されたのは
「これは銭形の親分さん」
ヒョイと下げた頭、あんまりよく
「師匠はどこに居たんだ」
と平次。
「どうした事か、一刻ばかり前からひどく腹が痛くなって、我慢にも、外の風に吹かれちゃいられません。仕方がないから、おさの
理八は額をツルリと撫で上げました。
「おさのも腹が痛かったのか」
「ヘエ||お店から持って来た、
「その安倍川餅の残りはどうした」
「竹の皮ごと川へ捨ててしまいましたよ」
「············」
平次は舌打ちをしたい心持でした。安倍川がなくては調べようがありません。
「でも、妙にほろ苦い安倍川でございましたよ。あんまり沢山食わなかったので、命拾いをしたのでしょう、ヘエ」
「それにしては達者じゃないか、毒などを食わされた人間のようじゃないが||」
「二度ばかり通じが付くと、ケロリと直ってしまいました。おさの姐さんも同じことだそうで」
「
平次は首を
「||でしょうかな、親分さん」
理八はまだ
「ところで、伊勢屋新六を
「江戸中の女の百人に一人くらいは怨んでいますよ、||何しろ金があって薄情で、男がよくて、口前がうまくて、浮気で、
「············」
あまりの
「死んだ人を悪く言うようですが、嘘だと思ったら、おさのに聞いて下さい」
「そのおさのの事で、師匠は伊勢新を怨んでいるのだろう」
平次はズバリと言ってのけました。理八のいけ
「と、とんでもない、親分さん。怨んでるのは、お国姐さんとお舟姐さんで、あの二人は若くて綺麗だから、伊勢屋の旦那の
「あの茶店の
「と、とんでもない親分、この庵寺の尼さんじゃあるまいし、私は
理八は泣き出しそうでした。自分の小さい
「おさのは幾つだ」
「もう三十八で、ヘエ、伊勢屋の旦那より一つ年上ですよ。来年は私と世帯を持つ約束で、こんな事で人殺しの疑いなんか受けちゃ
理八はとうとう泣き出してしまいました。
続いて
次に呼出されたお国は、せいぜい二十一二、芸妓にしては年増ですが、
「何だって、伊勢屋を川へ突き落した」
「············」
平次の言葉の
「河童のせいなどにしやがって、とんでもねえ
「申します、親分さん」
お国はヘタヘタと材木の上に
「お舟と二人で突き飛ばしたことは解っている。が、どんな怨みがあった」
平次は日頃の平次になく峻烈です。
「妹は何にも知りません、||今晩帰ると、自分が人身御供に上げられることさえ知らずにいる妹ですもの」
「············」
「水の中に何か光る物があったのも、本当です。夕陽の具合で、いつも見えないものが材木置場から見えたのでしょう。それを私が教えると、伊勢屋の旦那は釣竿を片手に、材木の端っこまで乗出して水の中を眺めました」
「············」
「泳ぎの自慢な旦那でした。伊勢とかで育ったそうで、||こんな川へ落したところで、まさか死ぬような事もあるまい、私も四五年前、あの人にはひどい目に逢いました。この上妹まで、
「············」
「旦那が水に落ちると、何も知らぬ妹は大きな声を出しました。私も思わず助けを呼ぶと、一度水に沈んだ旦那は、浮び上がって来て怖い顔で私達を睨みましたが、水の中の光る物を捜すつもりか、また底へもぐりました。||私と妹はもう怖くてそれを見てはいられません。思わず向うから来た舟を呼ぶと、旦那はもう一度水の上へ浮び上がって来ました。が、その時はもう怪我でもした様子で、滅茶滅茶に苦しんで、
お国は言いおわってガックリ首を垂れました。
「それっきりか」
「それっきりでございます。銭形の親分さん、妹を助けてやって下さい。あの子は、何にも知りません」
「お前の言うのが本当なら助けてやる」
「お願い」
お国は手を合せます。
「が、伊勢屋の首を突いたのは、誰だ?」
「存じません」
「水へ突き落す時、後ろからやったのじゃあるまいな」
「そんな事が、親分さん」
その不合理さは平次自身にもよく解ります。が、人間が水の中で突かれるということもちょっと想像の出来ないことでした。
いずれにしても怪しいのは水の中にあったという金色の一物です。夜の作業の無理を承知の上で、平次は船頭の文次と漁師の伊太郎を水に
外見は間違いもなく寺院風ですが、荒れに荒れて、戸も壁もあると言うは名ばかり。中は仏間と居間と台所だけの簡素な造りで、そこに大きな
庵主は三十前後の若い尼で、
青々とした
平次はこの尼に逢って、いろいろ訊ねましたが、半分は念仏を称えているので、一向話が進みません。ただ、尼は関西の生れで、五年前に旅に出たこと、この竪川に住み付いて一年、町の人に
それから、お国の妹というお舟にも逢ってみました。これは十六の小娘で、お国とは本当の姉妹、顔も美しさもよく似ておりますが、お国はこの稼業の女らしく、
平次の問に対して、思いの外ハキハキと応えてくれますが、結局はお国の言った通り、何にも知らないことが判っただけです。
もう一人、庵寺に、
その番頭の平七が、そっと平次に耳打をしたのです。
「旦那を突いたのは
「それは判っている、||たぶん川の底から出て来るだろう」
「でも、庵寺の隣と||材木置場との間に、大工道具の置場がありますが||」
「何?」
平次は
開けて見ると、中は空っぽ。
棚の上の道具箱を覗くと、一番上に置いた鑿が一挺、半ば乾きながらも、下になった方半分は、したたかに濡れているのが見付かったのです。
「これだ」
取上げてみると、刃が
鑿の持主はすぐ捜し出されました。駒吉という若い男、まだ半人前ですが、人間が甘いのを可愛がられて、町内では知らない者もない人気者です。騒ぎの面白さに、自分の巣へも入らず、あちこちと野次馬について歩いているのを、これはガラッ八に首根っこを
「俺は何にも知らねえ、鑿は俺の物に違いないが、人なんか突いた覚えはねえ」
平次が静かに訊いても、すっかり逆上して、知らぬ存ぜぬの一点張りです。
「それじゃ、小屋へ入って、道具を持出した人間を知らないか」
「知らねえ、知らねえと言ったら、何にも知らねえ」
これでは手の付けようがありません。
試みに小屋へ行ってみると、壁といってもほんの
「この辺の様子を知っている者だろう」
平次もそう見当を付けるのに精一杯です。第一、駒吉の頭は水気どころか、ろくに油気もない始末で、火を付けたら、
最後の一人、伊勢屋新六と百両の
お蔵前まで往復一刻足らず、何もかも解ったところは、平次を落胆させるばかりでした。坂倉屋の言い分は、「百両の賭はたしかにした。が、そんな事はありがちの事で、百両ばかりの金を取られるのが惜しかったら、月に一人ずつ人殺しをしなければなるまい。||それはまアいいとしても、今日は
金持の増長した言い草ですが、それが本当なら、どうすることも出来ません。
そのうちに川の方から、多勢の声高に話すのが聞えて来ます。
「親分、川の中から大変なものがあがりましたぜ」
ガラッ八が飛んで来ました。
「何だ、大変な物てえのは?」
「金の鯉」
「えッ」
平次も新しい糸口を掴んだような気がして、飛んで行きました。
伊勢屋新六が、むき出しの頸筋へあれほどの傷を受けて、材木置場に血の
「親分さん、これが水の中にありました」
水から這い上がったばかりの、船頭文次の手の上には、
「············」
平次は黙って受取りました。音や
作は
「············」
平次は次第に物事が判って来るような気がしますか、謎の性質が深いせいか、まだ核心には触れそうもありません。
「
いきなり妙な事を聞く平次です。
「
「泊めたら心配するだろう。皆んな帰してくれ」
「ヘエ||」
「庵寺に留め置いた六人と、船頭を入れて七人、皆んな帰してくれ。女どもは道が淋しかろう。乗物の世話をしてやるがいい」
「そんな事をして構いませんか、親分」
「下手人はやはり河童だよ」
「ヘエ||?」
ガラッ八は何が何やら解らずに、庵室へ引返しました。が、しばらくしてまた戻って来ました。
「皆んな帰りませんよ、||河童が下手人だというわけを聞かなきゃ、安心して帰って寝られないと言うんで」
「なるほどな、||好ましい事じゃないが、それでは河童の正体を教えてやろう。皆んな庵寺へ集めておくがいい」
「ヘエ||」
ガラッ八は有頂天の様子で戻ります。
「まず、第一に」
平次は
「第一に、伊勢屋新六を良く思っている人間は、この中に一人もいないのが不思議だ」
そういえば、船頭も漁師も、
「それから、疑ってみると、不思議なことに潔白な人間は一人もいない||」
平次は皆んなのけげんな顔を見ながら続けました。
「理八とおさのは、腹が痛くて茶店の
「親分さん」
理八は乗出しましたが、平次はそれに構わず続けました。
「いくら
「親分さん、私は
理八はまた口を出します。
「文次と伊太郎も、二人
「とんでもない親分||」
漁師の伊太郎はムキになりました。
「お国とお舟が二人力を
「鑿の傷は下から突き上げておりますよ、親分」
今度はガラッ八が
「
「············」
「番頭さんも途中から小戻りするという手があるし、駒吉も怨みがあれば材木の蔭に隠れて、這い上がろうとするのを突けないことはない」
平次の論告は、とにもかくにも本当らしく聞えます。あまりの不気味さに、十三四人、黙りこくって顔を見合せました。
「ところで庵主さん」
平次は庵主の良海尼に声をかけました。
「ハイ」
「この鯉の置物をどうして、川の中へ沈めて置きました」
平次の問は予想外です。
「あ、それの事ですか、||あの人達が、あまり無益な殺生をするから、戒めのために釣場の下へ沈めて置きましたよ。そのせいで一匹でも魚が助かれば、何かの供養になろうと思いましてな」
「なるほど、||ところで、庵主さんは、鳥羽の海で働いておられたのでしょうな」
「············」
「
「············」
「それから海女は水の中へ商売道具の鑿を捨てて来るはずはない。これが
「············」
恐ろしい静寂です。一座の人の顔は
「伊勢屋を突いたのは、水中の働きに違いないが、この人数の中で頭の毛の濡れた人間は一人もない、||ところが||」
皆んなの眼は良海尼のよく
「もう一つ、これは黙っているつもりでしたが、裏口の
「隠す気もなく隠したのでしょう、||私はまだ悟り切れない||でも、どなたか罪に落ちそうになれば、名乗って出るつもりでした」
良海尼は静かに言うのです。
「庵主さんは、松風ですか、村雨ですか」
と平次。
「妹は、恋い焦がれ、怨み疲れて死にましたよ。五年前の、||九月、ちょうど今日」
「で、あと一つだけ、聞きたいことは、あの鯉のことですが||」
平次は何となく、この尼だけは下手人扱いにする気がなかった様子です。
「悪性男は、||江戸一番の
「············」
「妹が死ぬと、父親も怨み死にに死にました。銅の鯉を
「············」
良海尼は始めて涙を呑みました。
「この庵寺に住んでいるうち、ツイ眼の前の材木置場を釣場にして、三日に一度、五日に一度、豪勢な行列で殺生に来るあの男を見ると、私の心には、昔の怨みが
「············」
「金の鯉を釣場の下に投込んで思い知らせ、せめて真人間の心に返させるつもりでしたが、そのお国さんとやらが、悪性男を水の中に突き落したのを見ると、あの男の重ねた
「············」
「
尼は仏壇の方に向き直って、ヒタと
一番先に畳にひれ伏したのは、お国、お舟の二人の姉妹でした。
「これで、何もかも済んだ。皆んなの衆、遅くなったが引取って貰いたい。乗物も用意してあるはず||」
平次は顔を起しました。
もう
翌る日の朝、八丁堀から笹野新三郎出役、とにもかくにも形式通り大町人の変死を取調べましたが、河童に引込まれたとも、竪川の
やがて平次が
庵室は空っぽ、良海尼は前夜のうちに消えてなくなって、それっきり帰って来なかったのです。
「驚いたね、親分、||どうしてあの尼さんと解ったんで?」
ガラッ八は
「頭の濡れないのは尼さんばかりだからさ。それに、松風村雨の話を聴いていたから、あの尼さんの
「なるほどね、まるで判じ物みたいだ」
「手前もその判じ物を当てるコツを早く覚えるがいい。物事を理詰めに考えて、当てはまる絵解きが一つしかなくなるまで行くんだ。それが判じ物を解くコツさ」
平次はそう言ってカラカラと笑いました。いかにも