江戸開府以来の捕物の名人と言われた銭形平次も、この時ほど腹を立てたことはないと言っております。
滅多に人間を縛らぬ平次が、歯噛みをして
「親分、また神隠しにやられましたぜ」
ガラッ八の八五郎が飛込んで来たのは、初夏の陽が
「今度は誰だ」
平次は瞑想から弾き上げられたように、火の消えた
「
「三人か」
「三人は三人でも、今度のは一粒
「野郎だか
平次は短い羽織を引掛けると、ガラッ八の八五郎を案内に、本所へ飛んで行きました。
神隠し騒動||と言われたこの事件は、平次捕物のうちでも極めて重要な事件で、詳しく書くと長大な一編の小説になりますが、要点だけをかい
去年の暮頃から、御府内の美しい娘が、一人二人ずつ行方不明になります。
最初のうちは
年を越すと、その傾向はますます激しくなって、とうとう毎月三人四人と大量の行方知れずがあるようになりました。
若い美しい女ばかり、声も立てず、形も残さず、描いたものを拭き消すように行方知れずになるのですから、江戸中の不安は募るばかり、そのうち誰ともなく||神隠しだと言い始めると、この宿命的な
そんな馬鹿な事があるものか||と江戸の御用聞手先は、一斉に奮起しましたが、足跡一つ残さず、コトリと音も立てずに、若くて美しい娘達をさらって行く手際は、全く人間業とは思われません。
こうして銭形の平次が登場するまで、江戸の娘達が三十人も姿を隠したでしょう。
「親分、こいつは
ガラッ八は遠慮のないところをズケズケやります。
「············」
「神隠しじゃ平次親分でも歯が立たねえ」
「馬鹿野郎、若い綺麗な娘ばかり隠すような神様があるものか」
「へッ」
「人間の仕事だよ、それもとんでもねえ悪党だ」
平次とガラッ八は、そんな事を言いながら、一応石原の利助を訪ね、利助の娘のお品と一緒に、改めてお仙とおまきとおらくの家へ行ってみました。
お仙の父親というのは、
「お仙の
打ちひしがれたようになりながらも、貧乏を売物にする日頃の癖をそのまま、こんな事を言っております。
「どうして姿を隠したんだ、詳しく話してくれまいか」
と平次。
「詳しいにもザツにも話しようがねえ、久し振りで湯に入りたいって言うから、湯銭だけ持たしてやると、フラリと出かけたっきり、今日で二日二た晩も
この
最後に石原新町の鋳掛屋へ行ってみると、
「銭形の親分さんで。お願いでございます、娘を探し出して下さい。悪者は二階から押し込んで来やがって、娘をさらって行ってしまいましたよ、||男があるだろうっておっしゃるんですか、ジョ、冗談じゃありません、
親父はおろおろしながらも、職人らしい威勢のいい事を言っております。
「親分、
とガラッ八、天水桶の
「庇を渡ったのはよく解るが、外から雨戸を開けて入ったのは、どんな手品を使ったんだ」
と平次。
「すると||?」
「娘のおらくさんが自分で雨戸を開けて二階から出たんだよ」
「そんな事があるものですか親分、家の娘に限って||」
鋳掛屋の親父はやっきとなりますが、平次は一向気にも留めない様子で、家の造り、雨戸の具合などを念入りに見た上、大渋りの親父を説き落して、娘の持物から、貧しい着物まで一と通り眼を通しました。
「八、お
利助の家へ引揚げると、平次はいきなりこんな事を言い出します。
「何が不思議なんで、親分?」
「今まで
「············」
「皆んな気を揃えて、素直にさらわれているのはどうしたわけだ。二三十人のうち、一人でもいいから悲鳴をあげたのがあるとか、血を流したのがあると張合があるが、そっと消えてなくなったんじゃ、探す方も励みがねえ」
「············」
「駆落でないことは確かだ、さらわれた娘と、何かと評判のあった男が皆んな指をくわえて取残されているんだから」
「親分」
不意にお品が口を出しました。一時は銭形平次と張合った御用聞、石原の利助の一人娘で、親の利助が身体を痛めてから、残された子分どもを号令して、まだ若くも美しくもある癖に、江戸中の御用聞と肩を並べて、一歩も
「何だえ、お品さん」
「こんな事は、親分はとうに御存じでしょうが」
「いや、存外気が付かずにいるかも知れねえよ」
「さらわれた娘やお
「その通りだよお品さん、金持の娘や女房を狙わないのは、何か仔細のあることだろう。とにかく、諸人の難儀を黙って見ているわけには行かねえ。乗りかかった船だから、思い切り突っ込んでみようと思うが、お品さん、手を貸して下さるかい」
「それはもう、本所から深川にかけて荒されているんですもの、どんな事でもして悪者を挙げなきゃア、
お品は膝に手を置いて、物柔かに平次を振り仰ぎました。少し淋しい細面ですが、水火の中へでもといった気組みが、その切れの長い眼や、キリリと引締った唇にも溢れます。
「こうなれば、最初からやり直しだ。お品さんは
「それくらいの事でしたら、||でも
「それから八は、
「へッ、こいつは悪くねえ仕事だね」
「馬鹿、いちいち役得のつもりでデレデレしていると、
「親分は?」
「俺は昼寝をしながら考え事をするよ」
平次はこうして江戸中の岡っ引が思いも寄らなかった組織的な捜査網を張ったのでした。
それから半月経ったある日江戸の街々の
「今
「あ、お前さん||、お帰んなさい」
飛んで出た女房のお静は、
「留守中誰も来なかったかい」
「え、どなたもいらっしゃいません」
「お品さんと八が来るはずだが||」
平次はそう言いながら、井戸端で足を洗って、清々した
「親分、お帰んなさい||、半月昼寝をしていたにしちゃ、陽に
「つまらねえ事を覚えていやがる、ところで早速だが、頼んだ事はどうした」
平次はお品に
「それが驚いたよ、親分、江戸の盛り場というものは、思いの外大したものだね」
「当り
「
「とんだ役得だ、||ところで、さらわれた女に一人でも出っくわしたか」
平次は冗談を言いながら膝を進めます。
「一人も居ねえ、||身を沈めた
「馬鹿野郎」
「
ガラッ八は調子に乗って、少し
「御苦労御苦労、大方そんな事だろうとは思ったが、一度当ってみないうちは安心がならねえ、||ところでお品さん」
「親分、家の若い者に手伝わせて、こんなものを
お品は風呂敷を解くと、半紙
「これは大変だ、||口で言うと何でもないが、十何ヶ町を歩いて、これだけ書き上げるのは容易でない」
平次はバラバラとくりひろげて、ザッと眼を通しましたが、何に驚いたか、重ねて、
「お品さん、不思議なことがあるが、気が付きなすったか」
こう言いながら、膝の上の帳面を叩きます。
「
お品の賢い眼はまたたきます。
「それだよ、お品さん、人さらいのあった町は、みんな
平次は大変なことに気が付きました。
巴屋というのはその頃、
主人の三右衛門は、やがて五十にも近い年配ですが、商売熱心な上に、世にも有難い心掛けの男で年中善根を施すのを楽しみにしている人間だったのです。
もっとも、長者番付の三役所で、金に不自由のないせいもあったでしょう。諸方の寄付寄進はもとより、付合の費用にも糸目をつけず、その上昨年の夏頃から、浅草、本所、深川を中心に、毎月八の日を決めて、一ヶ月一ヶ町の施米をはじめ、町役人の
施米を貰う資格は、女か子供と限られました。いかに
「親分、その上、人さらいは、施米のあった町を順々に荒していますよ」
お品は註を入れました。
「なるほど、これは面白い。去年の九月が長崎町、十月が松倉町、十一月は
「親分、そりゃどういう
ガラッ八の鼻はキナ臭く
「巴屋は万両分限の筆頭だ、まさか貧乏人の娘をさらって売るはずはねえ」
銭形の平次にも、これ以上のことは解りません。
「親分、どこで昼寝をしてなすったんで」
ガラッ八は改めて訊きました。
「ハッハッハッ、よっぽど俺の昼寝が
「ヘエ||」
昼寝どころの沙汰ではありません。たった十五日間に平次がどれだけ骨を折ったか、ガラッ八は今さら
「三十人の女は、江戸の盛り場にも売られず、上方へ送られた様子もねえとなると、どうしても江戸に居なきゃアならないはずだ、||もっとも、生きているか、死んでいるか、そこまでは解らないが||」
「親分」
お品はさすがに
「三十人の若い女だ。生きていれば泣きも笑いもするだろう、殺されたにしても、死体のやり場があるめえ」
平次の言うのは
「どうすりゃアいいんだろう、親分」
とガラッ八。
「たった一つ工夫がある、||が、これはむつかしい、命がけの仕事だ」
平次は何やら思い惑う様子です。
「親分、命がけの仕事なんざ、お茶漬ほどにも考えちゃいないこちとらじゃありませんか。八、これをこうしろ||と威勢よくやっておくんなさい」
ガラッ八の八五郎は、はみ出した膝小僧を
「
口ではこんな荒っぽい事を言いながらも、平次の
「役に立つかどうか解りませんが、私ならどうでしょう」
お品は
「お品さん、それはいけねえ、そんな事をして貰っちゃ石原の
平次は
「でも親分、本所深川の人さらいを、この上放っておいては、父親の名折れになります」
お品の決心にも
「なるほど、そう言えばその通りだが、こればかりはいけねえ」
「どんな事をやらかしゃいいんで? 親分」
ガラッ八はまた横合から口を入れます。
「明日は八日で巴屋の施米日だ。今度は
「それじゃ、私では勤まりそうもありません」
お品は、||若くて綺麗でなくちゃ||と聞いて、淋しく笑って紛らせてしまいました。出戻りには相違ありませんが、
「冗談でしょう、お品さんほどの
とガラッ八。
「馬鹿野郎、何て口を利きやがる」
「ヘエ」
平次にたしなめられて、一ぺんで
南辻橋の空地、粗末な
世話人は巴屋の番頭手代に、町内の
一人三升、少々ぐらいの暮しの家は、無理をしても家族交代で出て来る仕組になっておりました。町役人は人別帳を控えて、かねて家主から渡しておいた短冊形の切手と引換えですから、手数な代り
「あれが巴屋の旦那だよ」
「ヘエ||、道理で福相だ、大したものだね」
三升だけのお世辞を言いながら、小腰を屈めて遠くから挨拶をする者などがあります。
「旦那、銭形の平次親分が来ていますよ」
「何? 銭形?」
「あれ、向うから施米の行列を見ているのは、平次親分と子分の八五郎でございますよ」
番頭に注意されると、巴屋三右衛門は黙って
「これは銭形の親分、御苦労様で」
「巴屋の旦那でしたか、結構な善根ですね、皆んなどんなに喜んでいることでしょう」
「いやそう言われると極りが悪い、ほんの少しばかり、私の気紛れですよ」
「毎月の事ですから、気紛れや道楽では続きゃしません、恐れ入りました」
「いやもう」
三右衛門は本当に恥かしそうに顔を赤らめましたが、心の中では、銭形平次に褒められたのを、どんなに喜んだかわかりません。
「ところが巴屋の旦那、世の中には良いことばかりはないもので、こんな結構なことのある本所深川に、近頃若い女の
平次は妙なことを言い出しました。
「そんな
三右衛門の柔和な顔が少し
「それに、不思議なことに、人さらいのあった町は、施米のあった町ばかりで」
「えッ」
「施米の順で人さらいをやるのは妙じゃありませんか」
何を考えたか、平次は思い切ってズバズバ物を言います。
「それは初耳でしたよ、なるほど、そんな事もありましたかね」
巴屋の主人もさすがに驚いた様子です。
「何か心当りはありませんか」
「心当りは少しもありませんが、どうかしたら、私の施米にケチを付けようという企みじゃありませんか」
「············」
「商売気離れた施米で、もとよりお客様の御心持、人気などを考えたわけじゃありませんが、これをやり始めてから不思議に商売の方が良くなって行きます」
「そんな事もあるでしょうね」
「手前どもの商売がよくなると一方には悪くなる方もあるわけでしょう、ツイ人間の浅ましさで、私を
巴屋はこうスラスラと言いましたが、平次の探るような眼を見ると、ピタリと口を
「旦那、お店を怨む者にお心当りはありませんか」
平次は一歩進めました。
「さア、それは。別に心当りと申すほどの事はありませんが||」
三右衛門は
その時、平次の眼は、施米の行列の先頭、ちょうど小脇に抱えた
「あ」
平次は危うく声を立てるところでした。
若い人妻らしいその女の美しさが、四方の汚いのに反映して、あたりにも輝かしいばかりでなく、その
肩も膝も抜けた
その女が米を貰って、イソイソと逃げるように立ち走ると、少し離れて南辻橋の
「巴屋の旦那、||私がこうして、施米を見張っているわけはお判りでしょうね。この上、人さらいなどがあると、これほどの善根も
平次は妙な事を言い出します。
「有難うございます。親分が見張って下さるんで、どんなに心強いかわかりません、||でも、世間では、人さらいは人間業ではない、あれは神隠しだ||と言っているそうですが」
「そんな馬鹿なことがあるものですか、人間も人間、容易ならぬ人間ですよ、||だが旦那、私も銭形とか何とか言われて、少しは悪者に
平次は日頃にもない大言壮語を吐き散らします。驚いたのは側に居たガラッ八、||いやそれより驚いたのは巴屋の三右衛門でした。
「親分、それは本当で」
「
「ヘエ||」
これでは挨拶のしようがありません。
「親分、またやられたッ」
ガラッ八が飛込んで来ました。南辻橋の施米があってから三日目です。
「菊川町の盲目の太助の出戻り娘だろう」
「親分は、どうしてそれをッ」
「大変な事になった、来いッ、八」
平次は脇差をブチ込むと、サッと飛出しました。続くガラッ八、女房のお静は
「親分、何をそんなにあわてなさるんで」
菊川町の裏、盲目の太助の汚い家の前に着いた時ガラッ八はたまり兼ねて平次の袂を引きました。
「黙っていろ、今に判る」
平次は好奇心でハチ切れそうになっているガラッ八を払い退けて、太助の家へヌッと入ります。
「お品さんが見えなくなったそうじゃないか、どうしたんだ」
「銭形の親分さんで||今神田のお宅へお知らせしようと思っていたところですよ」
太助は見えぬ眼を見開いて、さして驚く風もなく、この
「親分、お品さんはどうしたんです」
ガラッ八はたまり兼ねて後ろから首を突込みました。
「俺があんなに止めたのに、この家の娘の身代りになってさらわれたんだ。||綺麗自慢と思われたくないから、一度は思い止まったような事を言っていたが、お品さんは気性者だから、あんな事で引込む人じゃねえ」
「ヘエ||」
「施米の時、姿を変えて来たのを、お前は気が付かなかったろう。
「ヘエ||」
「俺は巴屋の旦那に言うような顔をして、その辺に様子を見ていた悪者へお品さんをさらったら承知しねえ||ということを呑込ませるつもりで、つまらない自慢を言ったが、あれがかえって悪かったんだ。悪者は俺の鼻を明かすつもりでお品さんをさらったんだ」
平次は今さら
いろいろ盲目の太助から聞くと、お品は施米の前の晩そっと太助を訪ね、わけを話して太助の娘||出戻りながら美しいという評判の娘||になりすまし、
お品は賢い女には相違ありませんが、女の本能が教えてくれる「自分の美しさ」だけははっきり知っていたのです。
それから三日、お品は実によく化けおおせました。平次はお品の留守にそっとやって来て、太助に様子を訊き、いろいろ打合せもしましたが、せっかく決心をして、貧しい生活に我慢しているお品の計画を破るわけにも行かず、危ぶみながらも成行きを見ていたのでした。
「お品さんは、昨夜までは確かにここに居ました。私は
太助の話はこんな事で、一向取止めもありませんが、お品の行方知れずになったのは、夜中過ぎ、どうかしたら
平次とガラッ八は、一応太助の家の内外を見せて貰いましたが、何の手掛りもありません。路地には足跡一つあるわけでなく、雨戸は間違いもなく中から開けたもので、強いて言えば、今までさらわれた女達のように、あの賢いお品も、フラフラと戸を開けて、怪しの物に操られるように、フラフラと出て行ったという外には、見当も付けようがありません。
「帰ろうか」
二人は徳右衛門町の
「おや、何でしょう、親分」
ガラッ八は立止って橋の
「ウーム」
平次も
「お静さんが花嫁に化けた時やった
ガラッ八は心得顔に一つ目の橋を渡って両国の方へ早走りになります。
両国橋の本所寄りの方にも、これは
巴屋の店の方へ行く順路は、柳橋を右に見て、横山町を真っ直ぐに大伝馬町から
念のため、引返して
「あったあった」
ガラッ八は鬼の首でも取ったように飛び上がります。
そこから
そこには、表に積んだ天水桶に、消炭ながら黒々と銭形が一つ描いてあったのです。
浪花屋へ入って、主人に逢いたいが||と丁寧に言うと小僧はおよそ
「
そんな事を言っております。
「あッ」
驚いたのはガラッ八でした。せっかく手繰って来ると、三輪の万七に挙げられたんでは、まるっきり形無しです。
「たいそう早く手が廻ったな、||もっとも俺はここの主人を縛るつもりで来たのじゃない、||三輪の
平次はそう言いながら外へ出ました。別に負け惜しみを言っている様子もないのが、ガラッ八には不思議でたまりませんでした。
「親分、浪花屋でなきゃア、誰がお品さんをさらったんでしょう」
「そんな事が判るものか」
「
「偽物だよ、よく見るがいい、書いてある場所が
「ヘエ」
「念入りに
「なア||る」
「その上、浪花屋の前を通り越して、
「親分、恐れ入った」
ガラッ八はこの素晴らしい親分の前に、心からなるお辞儀を一つ、ピョコリとやったものです。
「馬鹿野郎、往来で人の尻へお辞儀なんかしやがって、人様が見て笑ってるじゃないか」
「ところで親分、これからどうしたものでしょう」
「俺にも見当が付かない」
二人は間もなく鎧の渡に立っておりました。
「向うへ渡るんですか」
と船頭。
「向うへ渡ってもいいが、今朝イの一番にここを渡ったのはどんな人間だい」
平次はさり気ない調子で訊ねます。
「朝河岸へ行く
「それから」
「青物市場へ行く人と、
「巴屋の番頭か手代は渡らなかったかい」
「知りませんね」
平次の身分を
「頬に傷のある遊び人風の男は?」
「そんな人は渡りませんよ」
平次はフト、南辻橋の施米の時、橋の袂で何やら合図をしていた男の事を思い出したのです。あの時はお品の変装に気を取られて、惜しい生き証拠を逃がしましたが、お品をさらった時一と役勤めたくらいですから、昨夜の一件にも、関係していないはずはないと思い当ったのです。
「遊び人風の男は存じませんが、頬に傷のある堅気の男なら通りましたよ」
「えッ、それは誰で、どこへ行った」
ガラッ八がたまり兼ねて口を出します。
「あれは親分方の探しなさるような男じゃありません。
「誰だい、その男は」
「桶屋の
「あれが
平次も驚きました。あの南辻橋の袂に居た遊び人風の男と、若いくせに、頑固一徹で通っている桶甚と、同じ人間とはどうしても思えませんが、船頭に言われてみると、なるほど思い当る事がないではありません。
「桶甚と巴屋はそんなに仲が悪いのか」
平次は重ねて訊ねました。
「悪いの悪くないのって、何しろ一方はあの通り片意地で、桶屋といっても、早桶ばかり
平次は老船頭の
本銀町の一角、一町四方もあろうと思う巴屋の店の後ろに、もう一町四方ほどの高い塀をめぐらして、巴屋の豪勢な
平次とガラッ八が、桶屋の店先に立つと、
「そこに立っちゃ暗いよ」
大肌脱いで桶の仕上げをしながら、上眼使いにジロリと見たのが、例の名物男の甚三郎です。
年の頃は四十前後、左の頬にかなり古い傷痕はありますが、これが南辻橋の袂に立っていた、小意気な遊び人とはどうしても思えません。
「親方、精が出るね」
「早桶の註文かい」
どうも少し食い付きよくありません。
「お前さん
「何?」
「お品さんをどこへ隠したんだ、それを教えて貰おうか、次第によっちゃお前を入れる早桶を註文するよ」
「何だと、手前は一体誰だ」
「神田の平次だよ」
「あッ、銭形の親分」
甚三郎は急に肌を入れると、一つピョイとお辞儀をしました。
「施米の時からお品さんをつけ廻していたようだが、昨夜どこへ
平次は手厳しく、||が、事務的に言葉を進めました。
「何をおっしゃるんで、親分」
「白ばっくれちゃいけねえ、菊川町から、念入りに橋々へ銭形を書いたのは御苦労だったネ」
「私には何が何やら少しも解りませんよ」
桶甚は持前の片意地を発揮して少しムッとした様子です。
「その手を見せろ」
あっと言う隙もありません。平次はいきなり飛付くと、桶甚の右の手をグイと握りました。掌には何の異常もありません。
「手がどうかしましたか」
「見ろ、手は洗ったが、爪の間を掃除するのを忘れたろう。消炭がこんなに付いてるじゃないか、太い野郎だ」
「あっ」
飛退くと甚三郎の手には、キラリと
「神妙にせえ」
必死と騒ぐ甚三郎は、二人の手で
雇人は逃げ散り、女子供は、顫え上がっているので、もう二人を妨げる者もありません。
「八、その野郎を逃がすな、俺は家の中を捜してみる」
平次は一と間一と間、恐ろしく念入りに調べ始めました。店にも、居間にも、お勝手にも何の変ったところもありません。が、風呂場へ入って、その中へ据えてあるくせに、一向使ったようにもない商売物の真新しい風呂桶を見ると、何の気もなく、それを動かしてみたくなったのです。
ガラッ八を呼んで、二人がかりで少し
「あッ」
平次は予期した事ですが、ガラッ八が仰天してしまいました。
「まだ面白いものがある。来い、八」
風呂場の裏の炭部屋に入ると、平次はいきなり羽目板に手をかけて、存分に押してみました。
「あッ」
もう一度驚くガラッ八の前へ、三つ目の板がスッ||と開いて、明るい庭の景色が映ったのです。
「ちょうど隣の巴屋の塀の下だから、抜け道はこの辺だろうと思ったよ、八、驚かずに
「ヘエ||」
こうなると、平次の
江戸
平次とガラッ八が入って行ったのは、世にも不思議な歓楽境で、巴屋三右衛門が一代の智恵を絞って建てた、地上の
その設備の怪奇さ、中に養われている美女の
オランダの敷物、ペルシャの壁飾り、インドの窓掛、ギヤマンの窓、
巴屋三右衛門はここに貧民の中から盗んだ美女を集め、
三右衛門の意に従わない者は、虫のように押し殺されて、早桶屋の甚三郎の手で、極めて自然に処分されてしまいました。
残るのは、栄華に眼がくれて、この阿呆宮を地上の楽園とも思い込んでいる者ばかり。
これほどの騒ぎの中に、開いてやった土蔵の
「さアさア皆んな親許へ引渡してやる、外へ出ろ」
平次は七つの土蔵をめぐって、
「親分、桶甚が逃げましたぜ」
「何?」
いつの間にやら二人は、土蔵の奥の一室に閉じ込められて恐ろしく
「どれどれ生け捕ったか、||それはよかった」
格子の前には、三右衛門と甚三郎、こっちを指してニヤリニヤリと笑っております。
「焼くわけにも行くまい、硫黄で
甚三郎は途方もないことを言います。
「銭形の親分、とんだ災難だったね、こんな所へ入るのが土台間違いの種さ。女どもはここを極楽のように思っているんだから、親分のすることは、全く余計なお節介と言うものだよ、ハッハッハッ」
存分に着飾った女どもの中に立って、巴屋三右衛門
「畜生、どうするかみやがれ」
歯を
「············」
平次は黙って二人を見詰めました。
「どうだい銭形の、巴屋さんと仲の悪い俺がその実無二の仲間と気が付いたところまでは上出来だったが、多勢の綺麗首に見とれて、俺を逃がしたのが、その丸タン棒野郎の落度とは言うものの、やはりお前の不運さ。
甚三郎はそんな事を言いながら、女どもの持って来た大火鉢に一と握りの硫黄を
*
「こんな憎い奴はなかった」||と平次ほどの者が言ったくらいで、施米などをやって、江戸の人気を一身に集め、商売の金儲けにそれを利用した上、歓楽と豪奢な生活を
浪花屋を陥れたのは商売上の怨みで、三右衛門の密告状に驚いて、あわてて
一番大事なことを言い落しましたが、平次とガラッ八を助けたのは、やはりお品だったのです。その時まで、死んだ者のようになっていたお品は、二人が硫黄燻しにされるのを見るとそっと甚三郎の家への通路を抜け出して、八丁堀へ飛んで行き、危ないところで平次とガラッ八を救うことが出来たのでした。
「お品さんの
ガラッ八がそう言ってお品をからかったのは、ズッと後の事です。