『女はしとやかでなくてはいけない、をとなしくなくてはいけない』と云ふ
あの当時問題になつた吉原行きとか五色の酒とか云ふ事を、まるで私達のすべてゞあるかのやうに云ひなした世間の馬鹿共よりは、それをまた麗々と真似をする連中に至つてはお話にもなんにもなりません。何の考へもないたゞの模倣と云ふことが、それ程馬鹿らしく見えた事はありません。
処がまた私は、本場の女性のデリカシイと云ふ事が其の意味を取りちがへられて、
よく見もし、聞きもしますが、活動写真の中とか電車の中などで、をとなしくとりすまして、はづかしがつてゐる女の弱味につけ込んで、飛んでもない不都合を働く男があります。少し
私はよくこみ合ふ電車の中などで、こみ合ふのをいゝ幸にして、わざと身体をすりよせて来たりする不都合者に時々出遇ひます。そんな場合には、どうも表立つてとがめる訳にゆきませんから、何時もその男の顔を見ながらわざ/\足を踏んでやるとか、出来る
『さつきからあなたは私の顔ばかりジロジロ見てゐるが、私の顔に何かあるんですか』
大抵はそれで赤面して止めてしまひます。それに何にかさかねじを喰はす程の本当の図々しい人にはまだ出遇つた事はありません。
何事も、内輪に、控目にと云ふ事は一面に必要な事ですが、目のあたり馬鹿らしい侮辱を受けたり、迷惑を感じたりした場合にまでもぢつとそれを我慢してゐると云ふ必要は少しもないと思ひます。
或時、私は電車の中で、品のいゝ二十ばかりのおとなしさうな娘さんと一緒に乗り合した事があります。その時には電車の中の半分は空席でした。すると或停留場から一人の酔つぱらいが乗りました。それ程ひどくよつてゐたのか、それとも酔つたふりをしたのかは知りませんが、その酔つぱらひはよろけながらぴつたりとその娘さんの傍に腰を下ろして、電車がゆれる度びにその大きな体をかぼそい娘さんの方にもたれかけて行きます。娘さんは、迷惑さうに眉をよせて少し体をずらしましたが、酔つぱらひは直ぐにまたその間をつめて矢張りぴつたりよりそつてしまひます。二三度さう云ふ事をしてゐました。私はそれを見てゐて、よくその娘さんが思ひ切つて他の場所にうつゝてしまへばいゝのに、と思ひましたが別にそんな事もなしに、その酔つぱらひの傍に小さくなつて何時までも腰かけてゐます。私はそれを見てゐて、酔つぱらいの無作法よりも、その娘さんの理由ない我慢強さの方がよほど腹が立つた位でした。
或る人々は、お転婆な娘だけが誘惑に
それは或る地方での事ですが、その市では中流以上の暮らしをしてゐる家に二人の娘がありました。年は二つ程違つてゐましたが、姉は女学校の四年、妹は同じ学校の三年だつたのです。姉は快活な明るい性質をもつてゐました。妹はおとなしい両親にもろくに口もきけないやうな子でした。
或る日、姉は友達の家に遊びに行つて夜になつてから帰つて来ました。そして、母親に挨拶をすますと直ぐ、
『母さん、それやおかしい事があつたんですよ』
娘のかへりが遅くなつたので少々ふきげんになつてゐた母親は、いく分か眉をしかめながら
『何んですそんな頓狂な声を出して。さう無暗とげら/\笑ふもんぢやありませんよ。話をするんならもう少し尋常になさい』
と云つてたしなめました。
『だつておかしいんですもの、母さんつたら直ぐに、私が何にか云ふとお小言ね、だけど今日は本当に私いゝ事をしたんですよ面白くつて仕方がない、ねえ美佐ちやんそれやおかしいのよ』
姉は母親の渋い顔には頓着なしに此度は其処に居合はせた妹をとらへて話し出しました。
『何あに?』
妹はニツと笑つて静かに聞き返しました。
『ね、私今交番に男を一人引き渡して来たのよ、おまはりさんにほめられちやつたの』
『えつ』
母親も妹も
友達の家を出て、もう暗くなつた道を歩いて県立病院の塀にそふて歩いて来ると、後から突然男が歩みよつた。
『御散歩ですか?』
顔を見ると知らない男なので、だまつて歩いてゐると、なほ追ひすがつて来ていろ/\な事を云ふ。
『そしてね、私の事を何んでも知つてゐるのよ、お兄さんの事も美佐ちやんの事も知つてゐるの、私気味が悪いから大急ぎで歩いてるとね、
『えゝつ、袂をつかんだね?』
母親は眼をまるくして娘を見ました。
『えゝさうなの、そしてね、もう
『まあ飛んでもない!』
母親は聞く毎に
『でね、今日は本当に思ひ切つてお願ひするんだがどうか私と交際をしてくれつて云ふんですの、私何んだか恐くつて体がブル/\ふるへちやつたわ、逃げ出さうにも袂をしつかりつかまれてゐるし、うつかりすると何をされるか知れないし、本当にどうしやうかと思つたわ、』
『でどうしたの?』
『誰か通つたら助けて貰はうと思ふのに誰も通らないんでせう。やうやく通つたかと思ふと頼みにならないやうな子供だのお婆さんなんですもの、仕方がないからもつと人通りのどつさりある賑やかな処で逃げやうと思つて、「私遅くなつて急いでるんですからまた今度にして下さい考へときますから」つてやつとの事で云つたの、そしたら「そんな事云つて逃げるつもりなんでせう、けれど、逃げられるものだかどうだか、まあ今日の処はかんべんして上げませう」つて云つてニヤ/\笑つてるの。私だん/\恐くなつて来たから急いで歩き出さうとすると「お待ちなさい、あなたのお家まで送つて上げます」つて云つて此度は私の手を握つちやつたんです。そして道々もいろんな事云つて私をおどかしてるの、私どうして逃げやうかと思つてゐるうちに橋の処まで来て、ひよつとあすこの交番に気がついたもんだから、あのおまはりさんにたのんで逃げやうときめちやつたの。そして今度は私の方がしつかりその男の手を握つて交番の直ぐ前におまはりさんが立つてゐたのでいきなり「何卒此の人を捉へてゐて下さい」つて云つてやつたもんだからおまはりさんがびつくりしたんだか何んだか「何だつ」つてそりや大きな声で云つたの』
『その男はどうしたんだい?』
『ね、知らん顔して大急ぎで行つちやひさうにしたのをおまはりさんが呼びとめたもんだから仕方なしに引き返して来て、私の顔をそりや恐い眼してにらんだわ。おまはりさんが、どうしたんだつて云ふからすつかり云はうと思つたんだけれど直ぐと人が五六人たつたから、きまりが悪いでせう、それでお父さんのお名前を云つてね、今うちから電話でお話しますからつて断つて逃げて来たの、』
『さうかい、ぢやあまだ其の人は交番にとめられてゐるんだね』
『え、さうでせう?』
『どんな様子の人間です?』
『廿五六の書生よ自分ぢや医学校の生徒だつて云つてたわ』
『まあ、飛んだ心得ちがいをしたものだねだけど、お前も悪いんですよ、暗くなつて外を出歩いたりするからそんな目に遇ふんです。もうこれからは決して
『どうして困るんです? いゝぢやありませんか、おまはりさん待つてるでせうきつと、私電話でよく話しますわ』
『お待ち、今にお父様がおかへりになつたらよく御相談してからにしないぢや、そんな性根の男を交番になんか渡して、後で、どんなあだをされるか知れやしない。さう云ふ時には何とかうまく云つてをとなしく別れてくればいゝんです。なまじつかな事をする程悪い』
『だつて、ぢやどうすればいゝんだらう? 構やしない、あんな奴うんと警察でゝも叱られるといゝわ憎らしい奴。それよりか本当によく電話をかけないぢやおまわりさんに怒られるわ、私本当に直ぐ電話をかけるつて約束で帰して貰つたんだから』
『まあお待ち、後でお父様に叱られるやうな事があつちやいけないから。お前が一体出過ぎ者だからいけないんです余計な事をして。今日はをとなしく帰すつてのだから、帰つて来れば、また後の事はどうにでもなります。余計な交番になんか連れ込むから倍心配しなくちやならないぢやないか。そんな奴に眼をつけられるんだつて、矢張りお前がおきやんだからです。もう子供ぢやないんだからもう少し気をつけて、万事落ちついて女らしくなくつちや||』
『またお小言なの||厭やだわ、母さんは何んでもあたしの事つて云ふと直ぐお小言なんだもの』
やがて、父親からの電話での話で、男は説諭を受けて帰され、姉娘は其後学校と家庭の特別な注意のせいか、何事もなく卒業をしました。
此の事件以来卒業するまでの、姉娘に対する母親の心配と云つたら大変なものでしたが、無口でおとなしい妹娘に対しては母親は全く楽観してゐました。
『あの子に限つては間違はない。』
母親は固くさう信じてゐましたので、すべての点で姉娘よりずつと寛大に取扱はれてゐました。しかし、此の母親の楽観が恐ろしい結果を
姉娘が卒業して、毎朝妹一人で通学するやうになつて二ヶ月ばかりたつと、毎日学校の往復共、後をつけて来る若い男のある事に妹娘は直ぐ気がつきました。恐い、とは思ひましたが、口重な彼女は、それを誰にも話ませんでした。実際は話をしてまた母親がやつと姉が卒業して安心した処に、また気をもませるでもないと云ふ遠慮と、たゞ自分の後をつけるだけで何んでもないのを何にかのやうに云ひ立てるのが後めたくもあるし、男につかれる等と云ふ事が恥かしい事のやうに思はれるので誰にも黙つてゐました。しかし、もう夏休みも間近くになつた頃には妹娘はすつかりその男の術中に堕つてゐたのです。男はその市での不良少年仲間では有数な一人だつたのです。
彼は妹娘のおとなしい、内気な性質をよく知りぬいてゐました。で、出来るだけその気の弱い点につけ込んで脅迫したのです。彼女の不断のおちつきは何の用もなし得ませんでした。姉娘程の気持もなく腹もなく、たゞ気の弱い彼女は、相手の男の思ふ存分翻弄されたのです。彼女はさうならぬ先きに母親に話さなかつた事を悔ひました。けれども一たん男のまゝになつた以上は、それを思ひ切つて、何んにも知らぬ家人に打ち明ける勇気は更にありませんでした。彼女はたゞひそかに自らを
母親はすつかり娘を信じてゐました。姉娘にはきびしい監督の眼を見はつてゐましたけれど、妹娘にはまるで何の注意もしませんでした。
秋になつて、誰れからともなく校内でやかましく、其の事に就いて噂されるやうになりました。彼女の受持教師が聞きかねて、彼女にその真偽をたしかめやうとしました。しかし、其の時にも彼女は素直に事実を述べる勇気を持ちませんでした。受持教師はたゞ或る訓戒の言葉を与へた丈けで其の時はすみました。
しかし、教師に知れたと云ふ事は、彼女にとつては両親に知れたよりはもつと恐ろしい事でした。彼女はどうかして今後
『えつ? お前にも? まあ、どうしたらいゝだらうねえ、ぢやよくお父様と相談して上げるよ、心配おしでない。』
母親は
『何日何処に何時までに来い。来なければ今までの事を学校に告げるのは勿論、お前もお前の父親の面目をも維持の出来ないやうな方法をとるから。』
と云ふやうな手紙に脅かされては、彼女は泣く/\外出しました。彼女の決心は何んの役にも立たなかつたのです。
一方、男の方では、彼女が
寄宿舎にはいつて以来は、安心しきつてゐた母親には
理屈の上では、現在女学校などでも、たゞ一づにおとなしい、
世間の人達は、よくお転婆だおきやんだと攻撃しますが、私はそれよりも、おとなしい淑やかだとほめられる女の方が、どの位多く攻撃される価値があるか知れないと思ひます。そして、私はさう云ふ人を
[『改造』第七巻第八号、一九二五年八月号]