今から、六七年ばかり以前に、私の郷里で非常に善良なをとなしい一人の女教師が、自宅の前の溜池で自殺を遂げた事があります。
その死は、いろ/\な意味で、その周囲には深い注意をもつて観られたやうであります。しかし、私の聞いた処に依れば、彼女の自殺の原因らしいものはいくつも有りまするけれど、その何れもが極めて薄弱なもので、その為めに死ぬには、あまりに
しかし、人々の好奇心は、その解らないとされた点に向つては、内々余計に執拗に働いたやうであります。それ故、彼女を知つてゐる、極く少数の人々の集まる処では、当時何よりも、矢張りそれが問題になつたやうであります。そして其処では、お互ひの臆測が、可なり遠慮がちながらも話されるのでありました。
その人達によると、彼女の死因は、家庭内の複雑な関係から起る不和によるとも云ひ、彼女の不幸なラヴ、アツフエアからとも云ひ、また生来の多病を悲観してとも云ひます。しかしそれは何れも、死因としては非常に薄弱なものであることは、それを話してゐる人達でさへも認めてゐるのであります。
その女教師は、その時たしか二十三だつたとおもひます。非常に素直で内気な、どんな事があつても、余程意地くね悪い人でゝもなければ彼女を
非常に内気で、気が弱かつたやうに、体も彼女は殆んど取り柄がない程悪かつたのであります。心臓も、腎臓も肝臓も、それから視力も非常に弱つてゐました。よく頭痛がすると云ふ事も云つてゐました。その他、
彼女の家庭内の事情は、何かあるらしいとは云ひますが、それは判然しません。たゞ、当主が彼女の姉の養子で、その姉と彼女とは腹違ひだと云ふこと。従つて、彼女や、彼女の姉妹達や母親などと、その姉夫婦の間に気まづい多少の事は有つたに相違ありません。しかし、かうした他の家庭内の臆測は往々まるで見当違ひなものゝ方が多い位ですから、これも、分らない方が本当だとおもひます。
彼女のラヴ、アツフエア、これも或点までの事実をもとにした臆測で、やはり信じていゝか悪いか分らない程度のものであります。彼女がある病身な、独身の男に対して、同情を表してゐた事実はあります。しかし、果してそれがラヴであつたかどうかは分りません。
要するに彼女が何故自殺したか。それはどうしてもはつきり解らないのです。ぼんやりすらも、分らない人には分らないのです。
けれども、彼女は決して何んでもなく死んだ訳ではないのです。彼女はどうしても死ななければならなかつたのです。人々の間に深い疑問となつてゐるその死因は、不思議にも、私ひとりには書き残されたのであります。彼女の死因は『死なねばならぬ事情』位のなまやさしいものではなかつたのです。彼女の全生活が、苦しい、重い、とても背負ひ切れぬ負担だつたのであります。彼女はその負担からどうかしてのがれようとしました。しかし、それには先づ生きる事から先きに止めなければならなかつたのです。そんな苦しい負担とは一体何んだつたのでせう? 彼女が最後まで呪つた、彼女をその死地に導いたものは実に、彼女の善良さでありました。内気な事でした。気弱な事でありました。
私は、彼女にたつた一学期教へられた生徒なのであります。そうして、そのたつた一学期で、私達はお互ひに、又とない仲よしであり得るやうになつたのです。私は彼女とはまるで反対に、
私の強情で不遜な事の攻撃は、みんな、受持教師である彼女の処に集まつたやうであります。彼女は、何時でもその職員室で、不良生徒として私の名が出る毎に、本当に辛らさうに頭を下げてゐたと、後でよく私に話して聞かした彼女の同僚があります。それでゐて、彼女は
其の時分から、彼女の心には絶えず、何かの苦悶があつたらしく思はれます。彼女は、そのとき
彼女が身を投げたその溜池は、周囲が山になつてゐて、ずつと高い処にありました。私は学校の帰りに、よく彼女に連れられて、其処にゆきました。堤に座つては、私達はよく歌ひました。彼女は私にいろいろ自分の好きな讃美歌などを歌はせては、黙つて何か考へながら、遠くの方を見てゐました。
『ね、本当に立派な人つて、どんな人だとあなたは思ひます?』
不意に彼女は、こんな事を問ひかけて、私を困らすことが、時々ありました。
『他人から賞められる人が本当に立派な人だとは限りませんよ。賞められなくつてもいゝから本当に立派な人になつて頂戴。決して世間の人から賞められやうなんて思つちやいけませんよ。』
本当に、
『あなたは、随分
思ひがけない熱心さで、よくそんなことも云つてゐました。
彼女と別れて、二年後、私が女学校の五年になつたばかりの四月の末頃かと思ひます。私は彼女から長い/\手紙を受け取りました。
それには、何時もの通りに、自分の方の細かしい消息を書き、私のこの頃の生活を聞きたいと云ふ事、私に会ひたくてたまらないと云ふ事、自分の仕事が、もう本当につまらなくなつた事、この先きの事を考へると、何をする気にもなれない等と、彼女が近頃自分自身の生活に対して持つてゐる感想をうちあけたものでありました。私は、それ等の一字一句もよみ落すまいとして、貪るやうに読み進んでゆきました。
すると、だん/\に、私には何だか分らないやうな||悲しいやうな、恐いやうな気のする||ことが書いてありました。それは、その七月の末、暑中休暇になつたら帰省する筈の私に会ふ楽しみが、ひよつとしたら、駄目になるかもしれないと云ふ事でした。
『私は本当はもう、とうから生きる力をうばはれて居ります。あなたには、会ひたくて会ひたくて、今かうして手紙を書いてゐるのも、もどかしい程会ひたいのです。会つて、いろんな事を話したいとおもひます。けれども、あなたに会ふのには、まだあと二月も三月も待たねばなりません。待てればどんなにしても待つてゐたいのですけれど、とても、待てますまい。それで私は、もう前から、あなたに会つたら話さなければならないと思つてゐたことを、此処に書いておきませう。もし万一、会へたら、そのときにはもつと/\よくお話します。けれど、とにかく私があなたに
そう云ふ前置きで、書いてあつたことは、彼女の、三四年間の『苦しみ』でありました。
その『苦しみ』は、当時の私には、どうしても解しがたいものでありました。それはあまりに思ひがけない、彼女が受けた愛と尊敬による損害に就いてゞありました。
内気で素直に生れついた彼女は、小さい時から、決して他人の機嫌に逆らふやうな事はありませんでした。彼女は本当に素直ないゝ子供として、大人からの賞められ者でありました。けれど、彼女は、それを嬉しいと思つたことは一度もなかつたと書いて居ります。そのどんなに賞められても嬉しがつて得意になるでもなく、賞められゝば賞められる程、ひかへ目になつてゆく彼女を、大人達は、なほと感心しました。さうして彼女はだん/\大きくなつたのでした。どんなに、賞められやうと感心されやうと、嬉しくも、苦しくもなかつたことが、やがて、少しづゝ苦しくなり出して来ました。自分のその苦しみを感じ出したのは、彼女が本当に一本立ちになつて、大ぜいの子供達の教師になつた時からでした。彼女は、もう、此度はどうでもいゝ処に自分を置いておく訳にはゆかないやうになつたのです。自分の意志を少しづゝ出さなければならないやうになつて来たのです。さうして、他人の意志と、自分のそれとの間に、衝突が起つて来、それに対する判断が必要になつて来ました。今迄は、一も二もなく片づいた事が、さうなると非常に
今迄は平気で、自分を譲ることが出来たのに、なまじ自分の考へと云ふものが浮ぶやうになつてから、彼女は一つ他人の考へを受け容れるにも
けれど、やがて彼女は、基督教の説教を聴くやうになりました。そして彼女は、容易に、その教への中に這入つてゆくことが出来ました。伝道師達が、さも六ヶしさうに説く、他人に対する寛大さや、愛他的な気持や犠牲的行為は、彼女には、何んでもない事でありました。人々は、大変立派な信者だと云つて讃めました。けれど彼女には、
やがて、彼女が、本当に自己に目醒めなければならない時が来ました。此度は、他人の意志よりも、本当に彼女自身の決断を待たねばならないやうな事件が後から/\起つて来ました。しかし、そんな事件が起つて来ても、永い間癖づけられてゐるやうに、彼女は先づ自分の意志は引つこめておいて、他人の意志を
その長い『苦しみ』の果てに、彼女は、本当に、彼女の真実の道を発見しました。彼女が真直ぐに其の道に突き進むことが出来れば、彼女の『苦しみ』はもう終りになるのです。けれど、彼女は、ハツキリ見えてゐるその道を進むことが出来ないのです。何故なら彼女は、勇気を持たないのです。彼女が本当に、その自分の目に見えてゐる道に進んで行くのは、一方の人達に対する謀反になるのです。けれど、その謀反は、正しい謀反でなくてはならないのです。しかし彼女には、その謀反が出来ないのです。彼女は他人から受ける憤りや
彼女は、その発見した自分の不徹底を、卑怯を、嘲けりもし、憤りもし、悲しみもしてゐるのです。それでも、彼女は、其処を切りぬける事が、どうしても出来ないのです。そして、何処までも追つかけて自分を放さない、その不徹底から来る内面的な苦痛と実際問題に対する懊悩から逃れるには、死ぬより他に途はないと思ふ程の自分は卑怯者だと彼女は書いてゐるのです。本当に自分の卑劣さを笑つてくれ、私ほど悪者はない、少しばかり悪くまれるのがいやさにお仕舞まで他人をだまして賞めて貰ひたがつてゐる自分は何と云ふ浅間しい人間だらう?、とも書いてゐます。さうして、私をいゝ例にして、あなたは決して、私のやうな卑怯なまねをしないでも済むやうに、強いしつかりした人になつてくれとも彼女は繰り返し/\書いてゐました。
私は、何んだか、その手紙を見てゐるうちに、急に今にも彼女は死にさうな気がし初めました。まさか、と思ひながら、もうひよつとしたら死んだかもしれないと云ふ気さへするのでした。しかし、
その手紙には、一週間たつても、十日たつても返事がありませんでした。不安で不安でたまらない気持も、その内にはだん/\うすれて来ました。しかし、とう/\五月の上旬の或る朝、私は彼女の友達から、その自殺の知らせを受けとりました。私は何だか、当然のやうな気もすれば夢のやうな、嘘のやうな気もしながらホロ/\涙を落した。その長い最後の手紙は、私への書き置だつたのであります。暑中休暇が来て、私は帰省しました。私と彼女の交りを知つてゐた人々は、種々なことを私に話して聞かせました。そして、彼女の死がどんな風に世間の人達に受け容られたかと云ふ事等には、殊に皆んなが力を入れて話してくれました。彼女が生前、どんなに多くの人望を担つてゐたかと云ふ事を説明する為めに||。
私は聞く度毎に悲しい事ばかりでありました。そして誰が、その人望や尊敬が彼女を殺したのだ等と考へてゐる人があらう?と思ふと、本当に彼女程気の毒な人があらうかと、つく/″\思はれるのでありました。
私は今此処で、彼女を最後に追ひつめて行つた実際の事柄を明かにしたいのであります。それは必要な事でもあるとおもひます。その事実を明らかにする事によつて今迄私が書いたやうな抽象的な説明より以上に、本当に、彼女の苦悶が解り、彼女の死因もはつきりする訳であります。けれど、それはまだ、明ら様には云へないのであります。事件に関係のある、現在生きてゐる人達に対する彼女の深い心遣ひが、私には、あまりによく解りすぎてゐて、その彼女の心遣ひを無駄にして仕舞ふ事が出来ないからであります。けれど、このやうに大事さうに私が云ひたてるからと云つて決して、珍らしい事でも何んでもありません。ありふれた事柄なのです。そして、またその事柄よりは、内容の方がはるかに重大な事なのであります。
彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
彼女の死は、本当に、種々な事を考へさせます。彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、
[『婦人公論』第三年第四号、一九一八年四月号]