秋の末である。
遠江国日坂の
宿に近い
小夜の
中山街道の
茶店へ、ひとりの女が
飴を買ひに来た。
茶店といつても
型ばかりのもので、大きい
榎の
下で
差掛け同様の店をこしらへて、
往来の旅人を休ませてゐた。店には秋らしい柿や栗がならべてあつた。そのほかにはこの土地の名物といふ飴を売つてゐた。秋も
深けて、この頃の
日脚はだん/\に詰まつて来たので、亭主はもうそろ/\と店を
仕舞はうかと思つたが、また躊躇した。
『あのおかみさんがまだ来ない。』
きのふまで五日のあひだ、毎日おなじ時刻に飴を買ひにくる女がある。それが今日はまだ来ないことを思ひ出して、亭主はすこし躊躇したのであつた。その女はいつも暮れかゝつた頃に来て、たつた
一文の飴を買つてゆくのである。勿論、
今日とは違つて、その昔は一文の飴を買ふのもめづらしくないが、
所詮一文は一文であるから、それを売ると売らないとが一日の収入の上、
左ほどの影響のないのは、亭主にもよく判つてゐたが、彼はその女の来ないうちに店を仕舞ふ気になれなかつた。
むかしの人は正直である、商売
冥利といふこともよく知つてゐた。したがつて、たとひそれが
僅かに一文のお客様であらうとも、毎日
欠さずに来てくれる以上、その人の顔をみないうちに店を仕舞ふのは義理がわるいやうに思はれたからである。もう一つには、その女の人柄や風俗がどうも土地の人ではないらしい。五日もつゞけて買ひに来て、もう
顔馴染にもなつてゐながら、決してその居所をあかさない。こちらから訊いてもいつも
曖昧に
詞を
濁して立去つてしまふ。それがどうも亭主の
腑に落ちなかつた。かれが店を仕舞ふのを躊躇したのは、
所謂商売冥利のほかに、その女に対する一種の好奇心といふやうなものも幾分かまじつてゐたのであつた。
街道にはもう
往来も絶えた。
表もうす暗くなつた。亭主もいよ/\思ひ切つて店を仕舞はうとするところへ、いつもの女の影が店のまへにあらはれた。
『毎度御面倒でござりますが、飴を一文おねがひ申します。』と女は
叮嚀に云つた。
毎日来るので、亭主もこの女の年頃や
顔容をよく知つてゐた。
彼女は
廿二三ぐらゐの
痩形の女で、眉を剃つてゐる細い顔は上品にみえた。どう考へても、こゝらの百姓や町人の女房ではない。相当の身分のある武家の妻かとも思はれる人柄である。しかも至つて無口で、用のほかには何にも云はないので、亭主にも彼女の身分がはつきりとは判らなかつた。
『いらつしやいませ。』と、亭主は女にむかつて叮嚀に
会釈した。
『もうおいでになる頃とお待ち申してをりました。今日は少し遅いやうでござりましたな。』
『はい。出先に子供がむづかりまして
······。』と、女は声をすこし曇らせた。
『
左様でござりましたか。では、この飴はお子供衆におあげなさるのでござりますか。』と、その
尾について亭主は
訊いた。
『はい。』
亭主の手から飴をうけ取つて、女はいつもの通りに一文の
銭を置いた。
『ありがたうございます。』と、亭主は銭をいたゞきながら云つた。『お
宿は御遠方でございますか。』
これは、
一昨日も
昨日も訊いたのであるが、今日も亭主はくり返して訊くと、無口の女は低い声で答へた。
『いえ、遠くではござりません。』
『それなら
宜しうござりますが、この頃はこゝらに悪者がうろついて居りまして、往来の旅人に難儀をかけるとか申します。昼は
兎もかくも、日が暮れては御用心なされませ。わたくしももう店をしまつて戻るのでござります。
御差支へなければ途中までお
供いたしませう。お
宿はどちらでござります。』
『いえ、近いのでござります。』
云ひかけて、女はすこし考へてゐるらしかつた。いつもはすぐに出て行つてしまふのであるが、今日はまだ何か云ひたさうに躊躇してゐるので、亭主の好奇心はいよ/\募つて来た。
『まつたく不用心でござります。
殊に今日はいつもより少し遅うござりますから、少々ぐらゐは廻り路でもお宿の御近所までお送り申しませう。』
『わたしは山の方へまゐるのでござります。』と、女は云つた。
『山の方へ
······』と、亭主は眉をよせた。まさかに山越しをして、こゝまで一文の飴をかひに来るわけではあるまい。さりとて山の中に
人家はない筈である。亭主は
不図思ひあたつた。この女は
久圓寺に住んでゐるに相違ない。山の
峠には
観音を
祀つた寺がある。女はなにかの仔細があつて其寺に隠れてゐるか。あるひは寺の僧に関係があつて、
内所で
隠まはれてゐるか。おそらく二つに一つであらうと亭主は想像した。しかし
寺僧は老人で、
女犯の関係などありさうにも思はれない。女はなにかの事情で赤子をかゝへて、そこに忍んでゐるのであらうと思つた。
『では、久圓寺にゐらつしやりますか。』と、亭主は訊いた。
女はそれに対して確かな返事をしなかつたが、さりとてすぐに立去らうともしなかつた。そのうちに亭主は店を片附けはじめたが、女は矢はり店先を離れなかつた。送つてくれとは云はないが、なんだか送つて
貰ひたさうな素振りにもみえたので、亭主は又訊いた。
『峠までお戻りなされますか。』
『いゝえ。』と、女は答へた。『すぐ
其処の、山の入口でござります。』
亭主は再び眉を
皺めた。山の入口に
人家のある筈はない。この女は狐か狸の
変化ではないかと
危まれたが、女はいつまでも立去りさうにもしないので、亭主はなんだか薄気味悪くもなつて来て、今更とんだことを云つたと後悔した。
『送つて進ぜませうか。』と、亭主は思ひ切つて念を押してみた。
『はい。』と、女は低い声で云つた。
もう
斯うなつては
何うすることも出来ない。亭主は度胸を据ゑて、女と一緒にあるき出した。その途中で、女はなんにも口を
利かなかつた。亭主も黙つてあるいた。日はすつかり暮れ切つて、山風が身にしみて来た。雨を催しさうな暗い空に、弱々しい星の光が二つ三つ洩れてゐた。
山までは
左のみ遠くもないので、真黒な森がすぐ眼のまへを
遮つた。亭主は物に引かれてゆくような心持でだん/\に
山路をのぼつて行つた。と思ふと、自分とならんでゐた女の影がいつか闇に隠れてしまつた。亭主は急に
襟もとが寒くなつた。彼はあわてゝ元来た方角へ引返そうとすると、どこかで
赤児の
啼く声がきこえたので亭主は又ぎよつとした。
赤児の声はつゞけてきこえた。その声をしるべに
其処らを見まはすと、その声は土の下から聞えてくるらしかつた。亭主は
一目散に暗い路を駈け出して、山の下まで逃げ降りた。彼はほつと一息つくと共に、色々の今夜の不思議が彼の魂を脅かした。かれは里の人々の
門をたゝいて、
怪しい女と怪しい赤児の啼声について報告した。
いつの
代にも
奇を好むのは人情である。里の人々はすぐに
松明を照して出た。亭主が案内に立つてゆくと、女の影が消えたらしいところに大きい松の木があつた。赤児の啼く声はまだきこえた。それは確かに土の下から響いてくるのであつた。
人々は声をたづねて探りあるくと、松の大樹から少し
距れたところに大きい石が
横はつてゐて、赤児の声はその石の下から洩れてくるのであつた。石はすぐに
取除けられた。土の下から発見されたのは若い女房の死骸であつた。女はむごたらしく
斬殺されてゐたが、その死骸のそばには生れたばかりの男の
児が泣いてゐた。その赤児の口には飴を
喞ませてあつた。
女は武家の女房らしい風俗であつたが、どこの何者であるかを知るような手がかりは無かつた。かれは盗賊に殺されたのか
道連に殺されたのか、それらの事情も判然しなかつたが、
彼女のふところには
路銀らしいものを
貯へていゐなかつたので、
恐くはこゝらを徘徊する山賊の
仕業であらうといふことになつてしまつた。ひとり旅の女が盗賊に殺されるといふやうな出来事はこの時代に
左のみ珍しくもなかつたが、それを発見した人々の注意をひいたのは、その女が妊娠中に殺害されて、その腹から赤児をうみ
落したといふことであつた。勿論、
臨月であつたのでもあらうが、
已に土の下にうづめられた死骸が赤児を生んで、その赤児が幾日も無事に生きてゐたのは、一種の不思議として人々をおどろかしたのである。
赤児はどうして生きてゐたか。かれは毎日一文づつの飴をしやぶつてゐたらしい。その飴をかひに行つた女は母の亡霊である。
路銀をこと/″\く奪はれたらしい不幸な母は、どうして飴をかふ
銭をこしらへたか。人々の鑑定によれば、女を殺した者がその死骸をうづめる時に
銭六文を添へて置いたのであらう。死人に
六文銭を添へて
葬るのが
古来の
習である。その六文銭のある間、母はわが子を養育するために毎日一文づつの飴を買つてゐたのであるが、けふは六日目でその銭も尽きた。赤児はもう飢ゑて死なゝければならない。母の魂は飴屋の亭主を誘ひ出して、わが子がこゝに
埋められてゐることを教へたのであらう。人々はうたがふまでもなく、さう信じた。
母の死骸はあつく葬られた。赤児は
情ぶかい
里人に養はれて生長の
後に久圓寺の僧となつた。久圓寺はこの峠にある古い寺である。
この物語の
末に、わたしの知つてゐることをもう少し書いてみたい。
むかしの東海道の
日坂の
宿は、今日では鉄道の
停車場になつてゐない。今日の
下り列車は
金谷、
堀の
内、
掛川の各停車場を過ぎて、浜松へ向つてゆく。日坂は金谷と掛川との
間の
宿で、
承久の
宗行卿や、
元弘の
俊基卿で名高い
菊川の
里や、色々の人たちの紀行や和歌で名高い
小夜の
中山などは、みなこの日坂附近にある。鉄道の案内記によると、今日では金谷からゆくのを便利とするらしい。案内記には、小夜の中山
夜啼石、
西三十二
町、菊川、
西廿二町とある。どちらも私が実地に
踏査したのではないが、案内記を信用して
斯う書いておく。
菊川の宗行卿や俊基卿はあまり有名であるから、あらためて云ふには及ぶまい。わたしがこれから
説かうとする小夜の中山は、前にもいふ通り、古来の紀行や和歌で有名で
就中かの
西行法師の『
年を
経て又越ゆべしと思ひきや、
命なりけり小夜の中山』の歌が最もよく知られてゐる。しかし江戸時代になつてから
更にそれが有名になつたのは、夜啼石の伝説によるのである。
東海道
名所図絵を
繰つてみると、夜啼石は小夜の中山街道のまん中にあつて、それから
東一町ばかりの左側に
夜啼松がある。そのほとりに
妊婦塚といふのがある。山路にさしかゝると、頂上には
小夜峠があつて、そこには
子育観音が安置されてゐる。その寺は久圓寺といつて、
真言宗である。本尊の
観世音は
行基僧正の作で、
身長一尺八寸であるといふ。
境内に
石碑があつて、
慶長五年
関ヶ
原役の時に、
山内一豊がこゝに
茶亭を築いて、東海道を
攻め
上つて来た徳川家康を
饗した
古跡であるといふことが彫刻されてゐる。これが東海道名所図絵の記事の
大要である。
これによつて考へると、小夜の中山に久圓寺といふ寺が
建てられて、そこに
観世音を
祀つたのは
彼の
夜啼石以前のことで、夜啼石の伝説から
子育観音の名が
流布するやうになつたのではあるまいかと思はれる。どうしても
然うなくてはならない。しかしその伝説は明かでない。勿論その年代も判然してゐない。したがつて、色々の説が流布されて、昔から芝居や浄瑠璃にも仕組まれてゐるが、どこまで事実であるか判らない。
又しても名所図絵を引合ひに出すやうであるが、それによると、夜啼石の由来といふものを一枚
刷にして小夜
新田の茶店で売つてゐる。しかし名所図絵の作者もこと/″\くそれを信用するわけにも行かなかつたと見えて、かう書いてゐる。『むかし日坂に妊娠の女ありて、金谷の宿の夫に通ふ。ある夜、この小夜の中山にて山賊
出でて恋慕し、したがはざるによりて
斬殺し、衣裳をはぎ取り
行方無し。この
婦の日頃ねんじ
奉つる観音出でて僧と
現じ、
亡婦の腹より赤子を
出し、あたりの
賤の
女にあづけ、飴をもつて養育させたまひけり。その子成人の
後、命なりけり小夜の中山と
常に口ずさみ、諸国をめぐつて
終に池田の宿にてかの盗賊のかたきに
出であひ、親の
仇をやす/\と討ちしとぞ。その
証、
詳らかならず』
云々。
東海道名所記にも
夜啼の松のことを書いてゐるが、これも名所図絵に
記された
由来記と大同小異である。
盗人に殺された女は臨月であつたので、その山に住む法師があはれに思つて、母の
腹を
割いて男の
児をとり
出して養育した。その児は十五になつた時、初めて母の死を聞いて、
俄に
出家をやめて里へ出で、池田の宿にある
家に雇はれながら、ひそかに
仇をさがしてゐた。かれは常に『命なりけり小夜の中山』を口ずさんでゐた。その
後、母の
死際に着てゐた小袖が証拠になつて、不思議にも隣の
家の
主人がその
盗人であることが判つたので、かれは自分の
主人の
助太刀をかりて、母のかたきを討つた。それから彼は再び山へ戻つて
出家になつた。その寺には彼の
無間の鐘がある。
これが名所記の
大要であるが、名所記には夜啼の松のみを説いて夜啼石を語つてゐない。そうして、『小夜の中山より十町ばかりをすぎて、夜啼の松あり。この松を
点して見たれば、子どもの夜啼を
止むるとて、往来の人けづり取り、きり取りけるほどに、その松
遂に枯れて、今は根ばかりになりにけり。この道夜ふけに
出づべからず、
折々怪しきことありといふ。』と書いてゐる。
子育観音の縁起としては、東海道名所図絵に載せられた記事のやうでなければならない。観音が僧に
化してその赤子を救ひ出したといふのは、いかにも昔の伝説らしい。僧は普通の人間で、おそらく久圓寺に住んでゐたのであらうが、それを観音の
化身であるかのやうに云ひ伝へられたものと見える。その点では、名所記の方が真実に近いやうである。
これらの伝説を綜合して考へると、臨月の旅の女がぬす
人に殺されて、松の下に倒れてゐた。そこには大きい石があつた。女は死ぬと同時に出産した。その赤子の啼声を
恰も通りかゝつた久圓寺の僧が聞きつけて拾ひあげた。しかし女の乳のない
寺中で赤子を育てるのは難儀なので、乳の代りに飴をあたへてゐた。夜啼石や、夜啼の松や、夜啼飴の伝説はおそらくそれから生み出されたのであらう。その子が成人して母のかたきを討つたのは
何うであらうか。
或は他の出来事と一緒にむすび付けられたのではあるまいか。
わたしはこゝで夜啼石の考証を試みようとしたのではない。したがつて、以上の諸説もどれがほんたうであるか勿論判らない。
唯、数ある伝説のうちで、最もわたしの興味をひいたのを先づ第一に比較的くはしく物語つたに過ぎない。