「親分、面白い話がありますぜ」
ガラッ八の八五郎、銭形平次親分の家へ
「相変らず騒々しいな、横町の万年娘が、駆落したって話なら知っているよ」
銭形の平次は、恋女房のお静に顔を当らせながら、満身に秋の陽を浴びて、うつらうつらとやっているところだったのです。
「へッ、そんなつまらない話じゃねえ。||ところでお静さん、||いや
「まア、何という口の悪い八五郎さんだろう」
お静は真っ
「八、からかっちゃいけねえ。そうでなくてせえ、危なっかしくて、冷や冷やしているんだ」
「まア」
とお静。
「
「自分の粗相にしても、姐御の
「その血染めの剃刀で俺の
平次はそんな気楽なことを言ってカラカラと笑っております。
「まア」
お静はまた
「だがね、親分、仲のいい夫婦だからいいようなものの、他人同士じゃ血と血が刃物の上で交るのは縁起が悪いって言いますぜ」
「そんな事を担ぐ人もあるだろうよ。第一血染めの剃刀で当られちゃ気味が良くないやネ、||ところで八、
平次は職業意職に返りました。当った後の顔を洗って、綺麗に拭き取ると、
「あッ、忘れていた」
ガラッ八は自分の
「忘れるようじゃ、どうせ大した話じゃあるまい」
と平次。
「ところが大変なんで。野垂れ死をした若い物貰いが、百両持っていたんだから驚くでしょう。自慢じゃないがこちとらは、人様の袖に
「自分に引きくらべる奴があるかい、||だが、筋は面白そうだね、もう少し詳しく話してみるがいい」
平次も少し乗出しました。
「たったそれっきりの話さ、種も仕掛もねえところがこの話の
「種も仕掛もねえことがあるものか、貰い溜めたにしても百両は大金だ。五年や十年で溜まるわけはねえ、||今お前、若い物貰いと言ったろう」
「なあ||る、恐れ入ったね、さすがに銭形の親分だ。若い乞食が百両溜めるわけはねえとは
「感心していちゃいけねえ、その百両は小粒か、小判か、それとも証文か」
「それが小判なんで、封も切らずに二十五両包が四つ、外に貰い溜めらしい銭が二三百ありましたぜ」
「何? 小判で百両? それが種も仕掛もない話かえ。大泥棒か
「なるほどそう言えばその通りだ、||親分も知っていなさるでしょう、観音様の裏に居る編笠乞食」
「ウム」
「病に取っ付かれて、人に顔をさらさないが、物貰いにしちゃ色の白い、何となく身体に品のある若いのが居ましたろう」
「それが死んだのかい」
「道端に坐って、朝から晩までお経を読んでいたのが、何か食い物でも悪かったか、今日の昼頃のた打ち廻って死んでしまったそうです。誰も構い手がねえから、まだ菰をかけてありますよ||
「そいつは
「行きますとも、親分と一緒なら」
ガラッ八は飛上がりました。最上等の猟犬のように、鼻さえもヒクヒクさせております。
神田から浅草へ、近い道ではありませんが、悠長な時代で、平次が行き着くまで、行倒れの死骸はまだ取捨てる段取りにもならず、町内の番太が、迷惑そうな顔をしながら、寄って来る野次馬を追っ払っておりました。
「これは銭形の親分、||たかが物貰いの行倒れで、御手に掛けるような
「どうせそうだろうが、商売
「ヘエ||、大層溜めやがったもので、番太で駄菓子を売るよりは、よっぽど
「いやそれには及ばない、小判は物貰いの
平次はそう言いながら、往来の人の
中には古綿をつくねたような、見る影もない乞食の死骸||と思うと大違い、
それに、病気のせいもあったでしょうが、乞食にしては色も白く、ところどころよごれはありますが、それも大したことではなく、見た感じは、それほど醜くもなっておりません。
ただ平次が驚いたのは、死骸は素人の眼にも異常で、毒死の跡がはっきり判ることだったのです。平次も日頃『検屍弁疑』ぐらいは読んでおりますが、その中の毒死の幾項かは、この死骸にはっきり現れているような気がするのです。
「医者に立ち会って貰ったかい、
「いえ、それどころじゃありません、旦那方は秋祭の支度で眼が廻る騒ぎで||」
番太の
「八、検屍のやり直しというわけにも行くまいが、町役人にそう言って、念のため町内の本道(内科医)を連れて来てくれ。道端の物貰いに毒を飲ませて、懐中の百両を
「よし来たッ、町役人が文句を言ったら八丁堀まで飛んで行って、笹野の旦那に江戸一番という医者を連れて来て貰おうか」
「馬鹿だなア、八丁堀まで行っちゃ日が暮れるじゃないか、丁寧に頼むんだぞ」
「心得てるよ、親分」
ガラッ八は横っ飛びにスッ飛んで行きましたが、どう話をつけたものか、間もなく町役人と坊主頭の医者を一人、手を引っ張るようにして連れて来たものです。
医者は屍体の眼を見、唇を見、爪を見、それから全身を調べて、薬箱から取出した銀の
「フーム」
と眺めております。
「毒は何でしょう」
「そこまでは判らないが、毒を飲まされて死んだ事に間違いはない、この通り」
医者の差出した銀簪を見ると、なるほどその先が青黒く色変りがしております。
「死んだ後で口の中へ毒を入れたのじゃありませんね」
「そんな事はない。爪の色、
「有難う、とんだ手数をかけました」
平次は丁寧に医者を送り返しました。
「親分、大変なことになったね」
ガラッ八は妙な行掛りに、すっかり面喰らっております。
「八、この男の身許を洗ってくれ、生れながらの物貰いじゃあるめえ」
「そんな事なら訳はありません」
ガラッ八は足を
「親分、
ガラッ八が帰って来たのは、それから
「解らないのか」
番太の小屋でガラッ八の帰りを待っていた平次、
「小屋頭を尋ねて、編笠乞食の身許を訊いたが、どうしても言わねえ。堅気の方が身を落したのは仲間の定法で元の名前は申上げられません。どうせ、こうなった身体だから、そんな事はどうでもいいじゃございませんか。それに、あの編笠野郎は、余程深い
「フム」
「その代り
「そんな事はどうでもいい、が、変死人と解っても、身許が解らなきゃア、何にもならない」
「ところが、親分、面白い話を聞込みましたぜ」
ガラッ八は、例のキナ臭いような鼻をしました。これは何か嗅ぎ出した時の表情です。
「何だ、八、
平次も少し不機嫌です。
「あの編笠乞食のところへ、毎日一度ずつ様子を見に来る娘があるんだってネ」
「何? 誰がそんな事を言った」
「筋向うの駄菓子屋の婆アがそう言っていましたよ。初めのうちは気が付かなかったが、近頃は毎日食べ物を持って来てやるから、ツイ顔を見る気になりましたって、||とんだ綺麗な娘だって言いますよ」
ガラッ八はとうとう大変な事を嗅ぎ出して来ました。
もっとも、こんな騒ぎが始まると、大抵の人は掛り合いを恐れて、知ってる事も黙ってしまうのが人情ですが、ガラッ八の調子が開けっ放しで、人間がいかにも邪念がなさそうなので、相手になっていると、うっかり舌を滑らしてしまうのでしょう。それがガラッ八の取柄で、銭形平次に重宝がられている原因でもあったのです。
気さくな平次は、すぐ駄菓子屋へ飛んで行きました。
「お婆さん、編笠乞食のところへ来る娘さんは、ありゃ何だろうねえ、大層な
「親分はよく御存じで、町内にもあの娘の事を知っているのは、そうたんとはありませんよ」
駄菓子屋の婆さんの舌は、思いの外滑らかにほぐれます。商売冥利、お客への世辞のつもりだったかもわかりません。
「幾つぐらいに見えるだろう」
「
「身分は何だろう。男には眼の届かないところがあるものだ、お前さんが見たら判るだろう」
「それがね、親分、
「なるほど、||ところで、編笠乞食との間柄は何だろう。
「それがネ、親分、こんなに離れていちゃ、聞こうと思っても聞えやしません。裏の井戸端に居る嫁の話し声はよく聞えるんですが||」
「今日も何か食い物を持って来た様子かい」
「ヘエ、竹の皮包にして、お
「確かにそれを食ったろうね」
「娘さんの後ろ姿を伏し拝むようにして
「で、その後で苦しみ始めたんだね」
「お
「有難う、それだけわかりゃ、大助かりだ」
平次はホッとした心持になったのでしょう、思わず岡っ引の地を出して、こんな事を言ってしまいました。
「八、今日は大事な仕事だ。
「親分脅かしっこなしに願いますよ、一体どんな野郎と噛み合やいいんで||?」
「
「ヘエ||」
ガラッ八は眼を見張りました。よくもこう目が届いたものです、
事件の
「||身に覚えがなきゃア来るに決っている。覚えがあっても、下手人は後の様子を見たがるから、きっと来る||」
そんな事を言って、半日路地に立った平次とガラッ八は、昼少し前
「綺麗だね、親分、あれを
「何をつまらない、||それ、
「合点、これも役得さ。同じ跟けるなら、綺麗な
八五郎は駆け出しました、が、思い直した様子で立止まると、
「銭形の」
不意に平次の肩を叩いた者があります。
「あ、
振り返ると、ニヤリニヤリと四十男が、平次の顔と、駆けて行くガラッ八の後ろ姿を半々に眺めております。
三輪の万七という顔のいい御用聞、
「大層な手柄だってネ、行倒れの乞食の懐から小判で百両出たという話には驚かないが、その行倒れを毒死と
万七はもう一つ若い平次の肩をポンと叩くと、言いたいだけの事を言ってクルリと、
「············」
平次は眉を
それから半刻(一時間)ばかりすると、ガラッ八は
「親分ッ」
「何というざまだ」
「
「口惜しくたって、泣く奴があるものか、大の男が||、娘を見失ったろう」
平次に図星を指されたのでしょう。
「見失ったんじゃねえ。娘の後を
「尻餅をついたろう」
「尻に泥が付いているから、そんな事を言い当てたところで自慢にならねえ、||ね、親分、その突き当った野郎は、あっしが起上がると
「それがどうした、八、落着いて物をいえ、大事なところだ」
「その野郎を誰だと思いなさるんだ。親分、三輪の万七の子分、お
「何だと八、敵を討つ?」
「清吉の野郎は確かにそう言いましたよ、親分、身に覚えがありますかえ」
「馬鹿、敵の覚えなんかあってたまるものか、||それから娘はどうした」
「そんなに
「つまらない事をいうな、とうとう
「だって親分」
「三輪の子分なんかに掛り合っているから悪いんだ。そんな時はな、八、後学のために言っておくが、殴られ損にして逃げ出すんだ」
「············」
「見ろ、
「············」
「よくその
口小言を言いながらも、平次の眼も泣いておりました。汚れ傷ついて来た飼い犬でもいたわるように八五郎の身体をクルリと廻して、せめてもの埃を叩いてやっております。
「親分、あっしは
「何をつまらねえ、||三輪の兄哥が、神田か日本橋で、何か嗅ぎ出したんだろう、||ところで、八、ここから浅草橋まで行くうち、娘は後ろを振り向いて見なかったか」
「後ろを振り向くどころか、横顔も見せねえ。お重詰らしい風呂敷を持って真っ直ぐに行きましたよ、あんまり後ろ姿が綺麗だから、何遍か前へ駆け抜けて顔を拝もうとしたが||」
「馬鹿、そんな心掛けだから、お神楽の清吉に殴られるんじゃないか」
「親分、何とか敵を討っておくんなさい。あのお神楽の野郎、あっしの鼻へ指を突っ込みやがって、勘弁ならねえ野郎だ」
「ウ、フ、お前の鼻を見ると、指ぐらい突っ込みたくなるだろうよ。
「ね、親分、せめてあの娘の家だけでも判りゃア」
「そのぐらいのことならわけはないよ。三輪の万七親分か、お神楽の清吉の後を
「
ガラッ八はまた飛び出しました。
娘の素姓はすぐ判りました。
横山町の米屋||といっても、金貸の方で名高い万両分限、
編笠乞食の素性も、それにつれて次第にはっきりしました。
越後屋の手代
佐兵衛夫婦はちょうど生れたばかりの総領を
二人は負けず劣らず美しく可愛らしく育ちました。弥三郎は素姓も判らぬ拾い子ですが、
そこへ主人の遠縁に当る、
茂助は四十年も勤め上げた商売一点張りの老人、支配人の民五郎は、佐兵衛の弟で、これは一と癖も二た癖もある人間、若い時はずいぶん
弥三郎は、妙に自分の不安定な地位を考えさせられる頃から、体にも、恐ろしい症状があらわれ始めていたのです。
出入りの医者に
親無し子を拾って、これまで育ててくれた大恩を思うと、このうえ越後屋に踏み止まって、家族に迷惑をかけることは、血をわけない間柄だけに、弥三郎には忍びないことでした。
その上、まだあまり悪くならぬうちに、お絹とも別れて、美しい記憶だけでも残そうというのが、せめてもの弥三郎の望みだったのでしょう。
全国の霊場を巡って、せめては
それは三月ばかり前のこと、
病を不治と思い込んだ当時の道徳では、弥三郎の態度はまことに見上げたものだったに相違ありません。
ところが、
お絹は人伝てに弥三郎が観音様のあたりに居ると聞くと、矢も楯もたまらず、横山町から毎日のように逢いに来ました。
そのお絹の持って来た
平次は、とにかく横山町の越後屋に乗込んで行きました。今はおちぶれた弥三郎には相違ありませんが、自分の縄張内に、人一人殺した下手人が、息を
「あッ、銭形の親分、よくお出で下さいました。ちょうど今弟と相談して、お願いに上がろうというところでした」
主人の佐兵衛はよく
「何か変ったことがありましたか」
平次も少し面喰らいます。
「三輪の万七親分がいきなりやって来て、弥三郎を毒害した覚えがあるだろう||って、娘のお絹と
佐兵衛はカンカンになって平次にまで食ってかかりそうです。
「親分、家出をして物貰いにまで身を落しているものを、何を物好きに殺す奴があるものでしょう。兄が腹を立てるのも無理じゃございません」
民五郎も口を添えました。若い時分は上方から九州までも放浪して、身に余る野心を抱いたこともありますが、今ではすっかり落着いて、兄の
「ヘエ||、驚きましたな。新助さんという人には逢ったことがありませんが、お嬢さんを縛るのはどうかしていますよ、私が行ってよく話してやりましょう」
「なにぶん
佐兵衛にくれぐれも頼まれて、平次はぼんやり外に出ました。
「親分」
「何だ、ガラッ八か」
「三輪の親分が、あの綺麗な娘を縛って行ったんだってネ、罰の当った野郎じゃありませんか」
「何をつまらない」
「だってそうじゃありませんか、自分が殺した覚えがあるものなら、翌る日も同じ時刻に、重詰の小風呂敷包なんか持って、馬道まで行きゃアしません」
「············」
「それに、馬道から“浅草橋まで行くうち、あの娘が後ろを振り向いて見なかったか”って親分が訊きなすったが、あれはなるほど図星だ、後ですっかり恐れ入ったぜ、後ろ暗いところのある人間なら、後も振向かずに帰るってことはない。||ひょいと、これだけの事を考えるんだから、親分の胸は大したものだ」
ガラッ八は首を
「それだけ判りゃ、手前も一本だ。八丁堀へ飛んで行って、笹野の旦那にそう申上げてみるがよい。お嬢さんはその場で縄を解かれるから||」
「親分は?」
「俺は他に用事もあるから、もう一度この
「有難え、あっしの口一つで許される段取りになると、手もなくお嬢さんの恩人だね」
「まアそうだ」
「八五郎さん||ときたらどうしよう」
「馬鹿だね」
平次はそう言いながらも、この
話は飛びますが、平次が予言した通り、八丁堀へ引いて行って、奉行所のお
「畜生、ガラッ八の野郎、つまらねえところへ出しゃ張る」
三輪の万七とお神楽の清吉はプリプリしておりますが、
新助の方は留め置いて、二三日責めました。弥三郎さえ居なければ、お絹とめあわせられて、越後屋の跡取りになることは、あまりにも明白な新助だったのです。
お絹が弥三郎に未練があって、毎日浅草へ出かけるのを、新助は知らないはずもなく、知って
「お絹さんが浅草とやらへ通うのは、店中の評判ですから、私もよく存じております。弥三郎が家出した後、私とお絹さんをめあわせるという下相談もあったくらいですから、私もお絹さんの出歩きを苦々しいとは思いましたが、それくらいのことで、人一人殺そうとは思いません。第一私には、そんな恐ろしい毒薬を手に入れようがありません」
口不調法なほど実直な新助は、これだけの事を何べんも何べんも繰り返して言うだけで、それ以上に隠し事も駆引もあろうとは思えなかったのです。
「旦那、見込み違いでございました。新助という男は、人を殺せるような
四日目に、三輪の万七もとうとう
事件はそのままうやむやに葬られそうでした。三輪の万七も間の悪さを我慢して、ちょいちょい顔は出しますが、しばらくは手の下しようもなく、平次はガラッ八に言い付けて、横山町一円に泳がせましたが、名代の早耳も、大した面白い話を聞き込んだ様子もありません。
「三輪の万七親分は、お神楽の清吉をうんと働かせて、新助の身持と、越後屋へ入るまでの奉公先を洗っていますよ」
ガラッ八はそんな事を言って来ました。
「フム」
平次の返事は一向張合いがありません。
「否が応でも、もう一度新助を縛るつもりなんだね、||ところが、新助は
「何だと?」
「薬種屋ならどんな毒薬でも手に入るでしょう」
「誰がそんな事を言った」
「番頭の茂助爺さんですよ。あの親爺は
「フーム」
「親分がまた腕を組んだ、この
ガラッ八はそう言って、晩の支度にいそいそと立ち働くお静の美しい後ろ姿を見るのでした。
全く、このガラッ八の予言も見事に当りました。
翌る日の朝、越後屋から急の迎え。
「旦那が殺されて、新助どんが
と言う使いの口上を半分も言わせず、平次は
越後屋へ行ってみると、全く文字通り上を下への騒動です。
「親分、た、大変なことになりました」
飛んで出たのは、少し
「とんだ事だね、番頭さん」
平次は言い残して奥へ入りました。
「親分、御苦労様で」
そんな事を言っております。
平次は黙って会釈して、念入りにその辺を見廻しました。
「恐ろしい腕前だ」
平次は思わずガラッ八を振り返りました。寝ている者の首が、半分千切れるほど切るのは、非凡の業か腕力がなければなりません。
曲者の遺留品というのは、
「この鞘に見覚えはありませんか」
誰へともなく平次が言うと、
「ヘエ、そ、それは私の品で||中味は隣の部屋にあります」
待ち構えたように民五郎が言います。
次の間は
一足入ると、ここは更に
「災難だったね、番頭さん」
平次は声を掛けます。
「ヘエ||、私はよろしゅうございますが、旦那がお気の毒で、何しろ昼の疲れですっかり寝込んでいるところをやられたんですから」
新助はおどおどした顔を挙げました。
「曲者の顔を見なかったのかい」
「いま申上げた通り、何かに驚いて、ハッと飛起きると、
「それから」
「恥かしいことですが、それっきり眼を廻してしまいました。呼び起されてみるとこの有様で、ヘエ||、何とも申し訳ございません」
「謝らなくたっていい、||ところで、その主人を呼んだとき隣の部屋に
「点いておりました、ヘエ」
「疲れちゃ悪い、横になった方がいいだろう。全く災難だったね」
平次は新助の後ろへ廻って、外科の手当をしている傷を見せて貰いました。
右の肩下から、五寸ばかり定規で引いたように斬り下げた
「これが曲者の捨てて行った脇差かい」
「ヘエ」
平次は血刀を取上げて縁側へ出ました。朝の光にすかして、切っ先から
「この脇差はちょいと借りて行くぜ」
そう言って、今度は念入りに部屋の中を捜し始めました。
押人の中、
「親分、見当は?」
ガラッ八は心配そうに後から
「まるっきり解らないよ」
「ヘエ||」
「この家から人間を一人も出さないように手配してくれ。俺はちょいと出て来る。それから新助はなるべく一人でそっとしておく方がいいぜ、手負いは気が立っちゃ悪い」
「どこへ行きなさるんで||」
ガラッ八は追っかけて訊きました。
「まだ飯も食わないじゃないか」
「あっしだって食いませんよ」
「我慢しな」
平次は風呂敷に包んだ脇差を小脇にフラリと外へ出ました。
その後へやって来たのは三輪の万七とお神楽の清吉でした。
平次がやったと同じような探索をして、一度門口へ出ましたが、思い直したように取って返すと、支配人の民五郎に縄を打って引立てます。
「八五郎
万七は冷たい言葉を浴びせると、ガラッ八を尻目に野次馬の群がる中を、腰縄を打った民五郎を追っ立てて八丁堀へ引揚げるのでした。
吟味与力の笹野新三郎は、その時ちょうど平次と話し込んでおりました。
「万七が越後屋の支配人を縛って参りました」
取次がそう言うと、
「何、万七が? ||とにかく庭へ廻せ」
その声を聞くと万七は、待ってたと言わぬばかりの顔を縁側へ出しました。
「旦那様、平次から御聞きでございましょう。越後屋の主人を殺し、手代に
「フーム」
笹野新三郎が顔を挙げると、庭へはもう、お神楽の清吉が、民五郎を引据えております。
「
同じく縁側へ滑った平次は、天を仰いで歎息するようにこう言いました。
「それが悪いのか、銭形の、||弥三郎殺しを新助の仕業と思ったのは俺の
万七は少しいきり立ちます。
「二人とも、静かにせぬか、||万七、何よりその証拠というのを聞こうか」
笹野新三郎は二人の争いをなだめてこう言います。
「申しますとも、第一に主人の佐兵衛と、養子分の新助を殺せば、あの身代は民五郎の自由になります。佐兵衛を斬ったのは、かなりの腕前ですが、民五郎は若い時ならず者の仲間に交って、腕も少しは出来るっていいます。それから上方で薬屋をやった事もあるそうですから、弥三郎を殺した恐ろしい毒薬を持っていたはずです」
「············」
「それに、曲者は外から入ったように見せてありますが、縁側の泥足は、すぐその下の
||ずいぶんヘマな証拠を
「新助は怪しいが、自分であれだけの傷を背中へつけられるわけはなく、番頭は年寄りで荒っぽい事の出来る柄ではありません。もう一つ、動きの取れない証拠は、主人と新助を斬った脇差はこの民五郎のもので、中味は銭形のが持っているはずでございます」
万七の言葉には
「それは非道だ。私は人を殺すような人間じゃありません。まして自分の兄を手にかけるなんて、聞いても恐ろしい||」
民五郎はあまりの事に転倒して、縛られたまま身を揉みますが、縄尻を押えたお神楽の清吉は、グイグイと引いて大地に押付けております。
「銭形の、民五郎が下手人でなきゃア、誰が殺したんだ。縄張は縄張、物の道理は物の道理だぜ||。わざわざ笹野の旦那をおつれして、見事俺に恥を掻かせるつもりだろうが、そんなわけにゆくものか」
万七はしきりといきり立っております。
「そんな訳じゃないよ、三輪の、口で言っても解らない事があっちゃ、人間一人の命にかかわるから、旦那を始め皆んなの目で見て貰おうというんだ」
平次はそれを
「この手水鉢の下の植込みと、白い砂利が血に洗われております。これは曲者が主人を斬った後で脇差の刃を洗ったのでございます。脇差の
平次は重大な謎を投げかけました。それを解けるのが、||いつぞや平次が女房のお静に
「||それからこの柱を御覧下さい、かなりひどく血が付いておりますが、これは手や着物から付いたのではなくて、傷口から
「············」
「主人の死体からも新助からも、遠い、この柱のこちらの側に血が飛沫くはずはありません。それに、新助は先刻、曲者に斬られたとき主人の部屋の
「それでは下手人は誰だ」
笹野新三郎、たまり兼ねて言いました。
「お待ち下さいまし、この柱にこう脇差の柄を縛って||」
平次はそう言いながら、自分の持っている風呂敷を解き、中から血だらけな脇差を出して、その柄を風呂敷で柱に縛り付けながら続けました。
「こう三尺五六寸のところへ脇差を縛り、刃を下へ向けて、切っ先に肩先を当て、スーッと上へ
そこまで聞くと、半身を
「八、その野郎を捕まえろ。
「何をッ」
猛烈な取っ組合いが始まりました。
平次が手を貸さなかったら、本当にガラッ八もどんな目に逢わされたか知れません。
「新助、まだ逃げるには早いぞ、もう少し聞かせることがある。この脇差の柄を縛った
「············」
新助はすっかり恐れ入ると急に背中の傷が痛み出したらしく、縛られたまま畳の上へ
三輪の万七とお神楽の清吉は、いつの間に帰ったか、もうその辺には居ません。
*
「恐れ入ったね、親分、三輪の万七とお神楽の清吉がコソコソ逃げ出した恰好はなかったぜ」
「馬鹿ッ、つまらないことを言うな。俺は人を縛ると後の気持がよくねえ、||だが、あの野郎は助けるわけにいかなかったよ。もっとも、あれほどの悪党でも、主人の血の付いた脇差で自分を切る気がなかったのは不思議さ、よっぽど、気味が悪かったんだね。それでとうとう露顕したのも因縁だろう」
平次はそう言いながらガラッ八を促して家路に向いました。
言うまでもなく新助は越後屋を乗っ取って、お絹を手に入れるつもりだったのです。弥三郎を殺した毒薬は、民五郎が物好きで持っていたのを、