「親分、子さらいが
「聞いたよ、憎いじゃないか」
銭形平次は苦い顔をしました。
「赤ん坊ならどこへ連れて行かれても、それっきり判らなくなるかも知れないが、さらわれるのは大概七つ八つから十二三の子だからどんな場所に売られたにしても、土地の役人なり御用聞なりに、名乗って出られそうなものじゃありませんか。江戸だけでも何人あるか知れないが、一人も
ガラッ八の八五郎も、時々はこういった上等の智恵を出すこともあったのです。
「だから俺は考えているのさ、相手の見当だけでも付かなきゃア、うっかり手は出せねえ、||だがな八、金や品物を
銭形平次も妙に感傷的でした。女房のお静が身重で、暮までには、平次も人の親になるはずだったからでしょう。
「女の子だけをさらうなら解っているが、時々男の子を
八五郎はまだ首を
ちょうどその時、
「御免下さい、銭形の親分さんはこちらで||」
「八、また
「どうしてそんな事が判るんで、親分」
「女が二人連れで、こんなに早く御用聞の家へ来るのはよくよくの用事さ」
「へッ、当るも
八五郎はガチャガチャをやる真似をしました。
「金座の勘定役石井平四郎様の御召使が二人でお出でになりました」
お静が取次ぐのを待っていたように、
「とうとう俺の縄張内へやって来たのか、よしよしこの辺が乗出しの潮時だろう、丁寧に通すんだよ」
「ハイ」
引返したお静、間もなく二人の女を案内して来ました。
「始めて御目にかかります。私は金座の役人石井平四郎の雇人、
挨拶をしたのは、四十二三のいかにも実直そうな女、その後ろに小さく控えたのは、十七八の大商人の召使らしい美しい娘です。
「平次は私で、||どんな御用でしょう」
「大変な事が起りました」
「坊っちゃんが
「えッ、ど、どうしてそれを」
「お前さんの顔に書いてある」
「えッ」
お霜の驚きは
「まア、そんな事はどうでもいい、||坊っちゃんの見えなくなった、
平次の調子には、いろいろの意味が
「こうなんですよ、親分さん、||
「手間は取らなかったろうな、お春さん」
平次は乳母の
「いえ、ほんの
お春は、多い毛を重そうに、こう顔をふり仰ぎました。申分なく美しい器量ですが、何となく弱々しいうちに、肉体とは没交渉に強い魂を持っていそうな娘です。
「そんなちょっとの間に、どこへもいらっしゃるはずはございません。それから大騒動をして、町中を捜しましたが、どこにも見当らず、奉公人や、御近所の衆や、お出入りの人達が八方に手をわけて、一と晩寝ずに捜しても
「············」
「もしや、神隠しにでも逢ったんじゃないかという方もありますが、神隠しなら三年五年経って出て来ることもありますが、||あの、この節江戸中の騒ぎになっている、子さらいの手に掛ったら、どうしましょう」
お霜は大きく眼を開いて、ゴクリと
「大事なことを訊かなかったが、坊っちゃんは幾つで、名は何と言いなさるんだ」
「七つでございますよ。勇太郎様とおっしゃって、それはそれはお可愛らしいお子さんでございますよ」
お霜は自分の子の事でも言うように誇らし気でした。少し動物的かも知れませんが、とにかく、自分の育てた子を、この上もなく可愛がっていることは確かです。
「お霜さんは江戸に家があるんだろうね」
「ヘエ、大根畑(本郷新花町)に世帯を持っていましたが、亭主の
「お春さんは?」
「
「とにかく、やってみるとしよう。子さらいも、長崎や堺や、大坂から
「ヘエ||」
平次とガラッ八は、お霜、お春の二人に案内されて、本町の石井平四郎の家まで行きました。金座の勘定役というと、今の日本銀行の重役で、その
「銭形の親分、||とんだ骨を折らせるが、捜し出せるものなら、何とかして無事な顔が見たい、子供は多勢あるが、あれは総領で、生れてすぐ母親に死に別れただけに
石井平四郎はそういった男でした。金座の御金改役後藤庄三郎の片腕と言われた利け者で、元は
「御存じの通り、日本の津々浦々で大騒ぎをしている子さらいの仕業でしたら、容易にお請け合いは出来ませんが、平次の縄張へ来た以上は、何とか眼鼻だけは付けるつもりです」
「宜しく頼みますよ、銭形の」
平四郎はさすがに打ち
「銭形の親分さん、お願いです。勇太郎は
一生懸命に、平次の袖にも
「なにぶんあの子さらいに逢って、無事に帰ったのは一人もありません。出来るだけの事はやってみますが||」
平次の自信のなさ。お君はおろおろしておりますが、銭形が見放すほどの事件をどこへも持って行きようはありません。
ともかく、奉公人に一応引合せられ、お霜とお春の案内で家の裏表を見廻りましたが、余程
「お前さんはその時どこに居なすったんだ」
平次は責任者のお霜に問いかけました。
「坊っちゃんのお
「その時、外の縁台には誰も居なかったんだね」
「誰か見ていたら間違いはなかったんでしょうが、折悪しく誰も居なかったそうです」
これでは手の付けようがありません。
勇太郎のよく知っている者が、遠くから誘いをかけて呼寄せたか、でなければ、煙のような姿のない
「まるで神隠しだ」
ガラッ八の八五郎も
「八、ここではこの上の手掛りはない。笹野の旦那にお願いして、縄張外だが、他の方を当ってみよう」
平次はそこからすぐ
平次は笹野新三郎に会って、その了解を得た上、その足ですぐ芝浦から品川へ廻りました。最初に子供をさらわれたのは、車町の酒屋で、お村という九つの娘、子柄の良いので評判だったのが、去年の秋のある日、浜へ行って遊んでいて行方不明になりました。その時は、大分争ったものと見えて、その辺中さんざん荒らした上、痛々しく血までこぼれていたと近所の者が多勢で言っております。
次は田町の
三番目は芝口の
平次もガラッ八もこの曲者のやり口の残酷さに、腹の底から義憤のようなものがコミ上げました。さらわれたのは、美しい女の子か、丈夫そうな男の子で、武家も町人も見境はありませんが、一致した点は、いずれも嫌がるのを力ずくで、無理に連れて行った形跡のあることです。金座の石井平四郎の倅のように、何の抵抗もなく、
もう一つ変っているのは、あとの六人は町内の評判になるほどの綺麗な娘か、賢くて身体の逞しい男の子に限られておりますが、金座の石井の倅勇太郎だけは、乳母のお霜は可愛い子のように言いますが、外の奉公人や近所の人は、
銭形平次一代のうちに、この時ほど大手柄を立てた事はありませんが、平次自身に言わせると、この時ほどの失策はなかったと言います。
とにかく、石井平四郎の倅と、他の六人の子供の行方不明の関係には、何かしら、重大な不一致点がありましたが、今さらそんな事を詮索してもいられません。ガラッ八を督励して、品川から深川一円をあさっていると、
「泣きわめく子供を連れて、町の中を逃げるわけには行くまい。やはり、船かな」
平次の最初の手掛りはこれでした。
それにしても、さらわれた子が、一人残らず、かき消すように見えなくなるのは容易なことではありません。江戸の子を長崎へ連れて行っても、大坂の子を江戸へ連れて来ても、言葉遣いだけでもすぐ身許が露顕しなければならぬはずです。
「
「馬鹿な」
ガラッ八の疑いを一笑に付しましたが、物を理詰めに考えることの出来ない人達は、生胆伝説と結び付けて考えるのも無理のないことでした。
「近頃の
平次は妙な事を訊きます。
「解っているじゃありませんか、堺町の中村座に、吉原の繁昌||」
「そんなものじゃない」
「
「それだよ、八」
「ヘエ||」
「うんすんカルタじゃいけない、オランダカルタがあったら、一と組欲しいな。御禁制品だから容易には手に入るまいが、これだけ持って行って、江戸中の船着き場をあさってみてくれ」
平次はお静を呼んで財布を出させると、中から小粒を
「これだけありゃ、
「その人参や沈香の方も気をつけてくれ、近頃は
「心得たよ、親分」
「言うまでもないが、抜け荷や和蘭渡りの禁制品を扱う問屋を嗅ぎ出すのが第一だよ。金に糸目は付けねえ、それで足りなきゃア、
「ヘエ||、少しぐらいなら、あっしも持っていますよ」
「大層な心掛けだな」
「男が敷居を
「七人||の間違いだろう」
「一人ぐらいは多くたって驚きゃしません」
「いくら持っているんだ」
「小粒が一つ、四文銭が三枚」
「馬鹿だな」
「へッへッへッ」
ガラッ八は面白そうに笑って出て行きました。屈託を知らない男の気楽そうな後ろ姿が、ともすれば神経質になる平次を、どんなに力づけてくれるかわかりません。
それから三日、石井平四郎夫妻はせっせとお春やお霜を使いによこして、その後の様子を訊ねますが、平次の方からは何の報告もありません。
なまじ金座などをうろついて、世間の耳目を
石井の家では、主人の平四郎よりも継母のお君の方が気を
「坊っちゃまが無事で救い出されなければ、私は生きてはいられません」
と勝気らしいお春が泣くのを、平次はどれほど持て余したことでしょう。お霜の方はあまり愚痴を言いませんでしたが、だんだん
そのうち人さらいがまた活躍を始めました。春から二た月ばかり休んでいましたが、石井平四郎の倅を皮切りに、だんだん大川筋を
「親分、とうとう手に入れましたぜ」
ガラッ八が飛んで来たのは、それからまた二日も経ってからでした。
「
「それがいけねえ、うんすんカルタならどこにもあるが、和蘭カルタとなると滅多にありません」
うんすんカルタは和蘭カルタ(トランプ)の禁制後それを模造した和製品で、平次には意味がありません。
「············」
「
「それは御苦労だった」
「あっしはお上の御用を勤める人間とは見えないでしょう」
「そうともそうとも、そんな目出たい顔をした御用聞が居ようとは、どんな人だって気が付くめえ」
「からかっちゃいけません」
「ところでどうした」
「長崎町の大野屋に和蘭物がいろいろありましたよ。金銀細工物、
「呆れた野郎だ、手付を置いただけで
「和蘭カルタの事を切出すと、心当りがあるから、明日になったらもう一度来て貰いたい、今晩中には手に入れておく、もっとも禁制品だから、五両より安くはむつかしいという話で、それは構わないが、明日また大野屋へ行くとなると、五両の手付を置いた品をみんな引取らなきゃなりません、
「心配するな、どうせ半分は抜け荷だ、俺が行っていいようにしてやる。ところで今晩は命がけの仕事をするんだが、付き合ってくれるかい、八」
「へッ、付き合ってくれるかい||は水臭いね、親分の前だが、
「豪儀だね、もっとも、金には糸目をつけたくも、御同様百も持っちゃいめえ」
「
気が揃った二人、それから仕度をして、薄暗くなる頃から長崎町、川口町一帯を張りました。
「親分、何にも来ませんね、もう
蒸暑い晩でした。八五郎はすっかり
「静かにしろ、あッ、煙草入などを出しちゃならねえ」
「驚いたね、どうも」
「手前は
「あッ、船」
「シッ、その船が怪しい」
二人は物蔭に隠れました。銀町二丁目、三の橋の橋詰に着けた小舟が一
「捕まえましょうか、親分」。
「逃がしちゃ大変だ、||それ、大野屋の裏へ入ったろう。今に出て来るに決っているから、舟の中に隠れていよう」
「そんな事をしても構いませんか」
「構わねえとも、どうせ抜け荷を積んだ舟だ」
二人は
「隠れる工夫はないか、八」
「こんな小さい舟じゃどうすることも出来ませんや」
「弱ったなア、抜け荷を扱う人間は口が堅いから、ここで荒立てると、親船が判らなくなる。大川から芝浦、
「弱ったなア、||この
「お前入ってみるか」
「親分は?」
「
平次とガラッ八がどうやらこうやら身を隠した時、曲者二人は帰って来ました。
「悪くねえ商売だな
「いいとも、その代り一両は口止めによこせ」
「まア仕方がねえ。ところで、この辺で江戸も切上げだろうな」
「こんな仕事の深入りはよくねえよ」
曲者二人、静かに小舟を
それから半刻(一時間)あまり。
小舟は
「親船は見えるかえ」
「
「月が出たら判るだろう、ゆっくり漕げ」
「お、そこに居るぜ、声を掛けてみようか」
「どっこい、うっかり声を出して、見張りの船にとがめられるとうるさいぜ」
曲者の話を聞いて、平次は菰の中から顔を挙げました。一二町先に、陸地近く泊っているのは、灯も何にもない、二三百石積みの船です。
ここまで見定めておけば、もう大丈夫です。
「············」
御用とも何とも言わず、ツイ鼻の先で
「ウーム」
一ぺんに目を廻した様子。
「あッ、
「静かにしろ」
飛付いた平次。
「あッ、た、大変ッ」
なにぶん狭い舟の中、口を封じる
「親分、
ガラッ八は
騒ぎは一瞬でおわりました。
二人の曲者を縛って、一応八丁堀へ引返し、改めて笹野新三郎が出役、十数艘の小舟で怪しの船を囲み、命がけの働きで、乗組の船頭八人を生捕ったのは、もう真夜中過ぎ。鉄砲を撃たれて、だいぶん怪我人も
調べてみると、これが、今(昭和十年当時)の南支那、台湾から日本の沿海を荒らし廻った、抜け荷(密輸入)扱いの一味で、
内地で人身売買をしないために、容易に露顕しなかったのですが、抜け荷と関係があると睨んだ、平次の
誘拐された少年少女のうち、今年の春からの分だけ、約半分は船の中で見付け、それは銘々の親許に
十人の曲者は、さんざん責め問われましたが、本町や吹屋町は、船からの足場が悪いから、人さらいに行った覚えはないと言い張るのです。
命はどうせないものと覚悟した悪者どもの言うことですから、この言葉に嘘があろうとも思われません。
抜け荷さばきと人さらいの、江戸開府以来という悪者の団体は挙げましたが、たった一人の勇太郎を救うことが出来なかったのは、銭形平次何としても我慢がなりません。
「八、弱ったなア、石井の倅は一体どうした事だろう」
「親分、諦めた方が無事ですぜ、あれだけ捜して見付からないんだから、いよいよ神隠しとでも思わなきゃア」
大手柄に陶酔して、八五郎はこんな事を言いますが、仕事に神経質な平次はどうしても諦め切れません。
「親分、大変なことになりましたぜ」
「何だ八、||近頃大変なこと続きで、滅多な事じゃ驚かないが||」
平次は苦笑いしました。何となく気の滅入る四五日だったのです。
銭形平次の手柄は、いやが上にも評判になって、うっかり外へ出ても、人に顔を見られるようなこの頃ですが、平次にとっては、それがまた、たまらない屈辱のような気がしてならなかったのです。
頼まれもしない十何人の少年少女は救いましたが、あんなに頼まれた、たった一人の少年を救うことが出来ないのは、何という意地の悪い
「冗談じゃねえ、親分、お春が死にましたぜ」
「お春?」
「金座役人の石井のお
「それは気の毒だ、勝気な娘のようだったから無理もないが、そう言われると、何だか俺が殺したような気がしてならねえ」
「親分、冗談じゃありませんよ」
「とにかく、石井へ行ってみようか」
二人はそのまま
死んだお春は人気者だったので、家中が何となく湿っておりました。死装束の晴着に換えて、
「あ、早まってくれた」
平次はその前に坐ってしばらく
「親分さん、ちょいと」
「とんだ事で、
「お春は可哀想ですが、このままにしておくと、乳母のお霜も生きていないかもわかりません。お霜に万一の事があると、勇太郎の
お君は日頃から慎み深い、冷たい女でしたが、さすがに夫や世間の思惑にさいなまれて、万一の場合には死んでもしまい兼ねまじき顔色です。
「そんな事をなすっちゃいけません、坊っちゃんが生きてさえいるものなら、どんな事をしても捜して上げますよ」
平次もこう言うのが精一杯でした。
「生きていることは確かでございます」
「というと?」
「
お君が取出したのは、鼻紙一枚へ、灰を溶いたような粗悪な墨で書いた、仮名書の手紙でした。恐ろしい悪筆で、容易には読めませんが、大骨折で弁慶読みにすると、
〈坊っちゃんは無事だ、この上とも殺させたくなかったら、十両よこせ。金は裏口の右土台下の穴へ入れておくがよい、その上で折を見て子供は返す。誰にも言うな、言うと子供の命はないぞ〉
とこんな意味の事が書いてあるのです。「金はどうしました」
「昨夜土台下へ入れておきましたが、今朝見ると、無くなっています」
「誰かに見張らせたんでしょうね」
「いえ、そんな事をすると、坊やの命が危ないと思って、||それにたった十両ですから」
「なるほど、心配は
「そうでしょうか」
「その時は御新造」
平次は何やらお君の耳に
「八、ちょいと字を書いてみる気はないか」
「からかっちゃいけません。親分、字を書かされるような悪事をした覚えはありませんよ」
八五郎はすっかりお
「まア、そう言うな、手紙一本書くだけだ。ちょいとやってくれ」
「親分が書きゃアいいでしょう」
「俺の字じゃ納まらない事があるんだ」
鼻紙を一枚、念入りに
「親分、勘弁してください。字を書くくらいなら、どんな使いでもしますよ」
「馬鹿、使い走りの利かないところだ、それも上手が書いちゃ役に立たねえ、思い切り下手な字でねえと||」
「下手な字が入用なんで、あっしに書けと言うんですかい」
「早く言えばその通りだ、腹を立てるな八、江戸っ子は手習いの事や金の事で腹を立てちゃみっともないよ」
「呆れたもんだ、書きますよ、何と書きゃ、いいんで」
「こうだ、〈十両はたしかに受取った、もう百両
「驚いたね、親分、こんな手紙をどうするんで」
「
銭形平次は手軽に言いますが、ガラッ八の方は驚きました。
「そんな事をしていいんですか、親分」
「いいてえことよ、誰も八五郎を
「············」
ガラッ八は黙って立上がりました。
「まだ早いよ、
「ヘエ」
平次の言い付けは善悪ともに黙って聴くガラッ八ですが、この脅迫状の投込みには、さすがに驚いた様子です。
が、どうやらこうやら、それも無事に済みました。
翌る日の朝。
「銭形の親分さんはこちらで||」
石井平四郎の女房お君は、召使も連れず、たった一人で神田の平次を訪ねて来たのです。
「おや、御新造、こんなに早く、何か変ったことがありましたか」
平次はお静とガラッ八を眼で遠慮させて、お君を奥へ通しました。
「来ましたよ、親分」
「ヘエ」
「やはり親分のおっしゃった通り、百両出せと言って手紙が来ましたよ、少し
「そうでしょう、ずいぶん念入りに拙い字でしょう」
平次は場所柄にも似ず、
「それから主人と相談して、裏口の土台石の下へ百両入れました、〈一日も早く子供を返して下さるように、この上
「構やしません、で、見張りは?」
「やはり付けませんでした」
「手引か仲間が家の中に居るから、見張りを付けても何にもなりませんよ、金を遠方へ持出させずに、裏口の土台下へ置かせたのは、曲者の喰えないところで||」
平次はそんな事を言っております。始めは見張りを付けなかったのを惜しがりましたが、家の中の者が仲間で、一と晩中でも隙を狙われるとしたら、見張りをつけるだけ無駄と判ったのです。
「その代り、小判には、目印があります」
「············」
「改め役へ差上げて
「それはうまい、||そんな都合のいい事があるとは知らないから、私は一枚一枚へ目印を付けるようにとお願いしました」
それも平次の指金だったのです。
「御免下さい、親分さんはおいででしょうか」
入口にはもう一人の女客、その声を聞くと平次は、大急ぎでお君を隣の二畳へ押しやりました。
「親分さん、面目次第もございません」
入って来たのは
「どうした、お霜さん、お前さんは悪人じゃない、が、何だって、あんな大それた事をやったんだ」
「親分さん、御存じで」
「知らなくってどうするものか、||子供を隠しておいた場所が判らないんで、今まで苦労していたんだよ||大根畑には、もうお前の元の亭主の文七は居ないぜ」
平次は本当に何もかも知っている様子でした。お霜は、ただもう恐れ入って頭も上がりません。
「親分さん、とにかく、あれをお返し申します。別れた亭主の文七ですがこんな悪事を重ねさせたくもありません。二度目の百両は確かに私が取りましたが、私から主人へお返しする顔もなく、ここまで持って参りました。どうぞ、私を
お霜は極印のない小判百両を平次の前に押並べます。
「そんな事が出来るなら心配はしないよ。俺はただ、坊っちゃんが危ないから手が出せなかったんだ、どこに隠している」
「練馬の文七の兄のところに居ります」
「そうか、そいつは知らなかった。練馬の兄は何という名前だ」
「文左衛門という百姓で、私の元の亭主に似ず堅気な男でございます」
「八、飛んで行って、文七と石井の坊っちゃんを連れて来い。下手な事をして
「ヘエ||」
ガラッ八は真っ直ぐに飛んで行った様子です。
「ところで
平次の調子はしんみりしておりました。
「お春さんは可哀想なことをしました。あの時みんな申上げようと思いましたが、文七が慾に目がくれて、十両ほしいなんて言ってきたもんで、とうとう言いそびれていると、今度はまた大それた、百両と吹っ掛けてくるじゃありませんか。私はもう居ても立ってもいられなくなって、ここへ飛んで参りました。慾得ずくでしたんじゃございません、みんな坊っちゃんのためを思って||」
「
「詳しく申上げなければわかりません。勇太郎様は亡くなった
「フーム」
「旦那様はお役所のお仕事が忙しくて、朝も晩もろくに子供衆の顔も見ないような有様。ことに総領の勇太郎坊っちゃんは、育ちが遅れて可愛盛りを病身で暮したために、旦那様も、つい面倒臭がって、存分に可愛がっては下さいません。生れ落ちるからお育て申上げた私にしてみれば、それが口惜しくって」
お霜は涙を拭いおります。愚直な中年女の、手の付けようもなく
「で、どうしたのだ」
「去年から子さらいが
「············」
何という無茶苦茶な愛情でしょう。平次はこの愚鈍に近い乳母が恐ろしくさえなりました。
「三年前、意気地がなくて別れた亭主の文七が、また一緒になりたがっているのを頼んで、ほんの二三日坊っちゃまを隠して貰うつもりだったのでございます。文七はよく坊っちゃまを存じておりますし、坊っちゃまも文七ならなついていらっしゃいます。二三日狙って、涼み台からさらわせたまでは無事でしたが、あんまり
「············」
隣室の二畳でシクシクと泣く声、お君は身につまされたのでしょう。
「私一人悪者にして、八方を
「············」
こうなると、百両の細工を平次の仕業と知らないお霜が
「どうぞ、私を縛って、文七は許してやって下さいまし。私は
身も浮くばかりに泣き沈むお霜を、平次も持て余して眺めるばかりでした。
「霜や、霜や、お前は、お前は」
二畳から転げるようにお君。
「あ、御新造様、面目次第もございません」
*
ガラッ八が勇太郎をつれて帰ったのは、それから
間もなく、石井平四郎は金座役人を
お霜は暇を取って、どこから捜し出したか、文七と一緒に西国巡礼に出かけ、とうとうこれほどの大事件にも、平次は人を縛らずにしまったのです。この事件ばかりは、ガラッ八も絵解きをして貰う世話がありませんが、平次は