江戸開府以来といわれた、捕物の名人銭形平次の手柄のうちには、こんな不思議な事件もあったのです。||これは世に
「親分ッ」
飛込んで来たのは、ガラッ八の八五郎でした。
「何というあわてようだ。犬を蹴飛ばして、ドブ板を跳ね返して、格子をはずして、||相変らず大変が頓馬に乗って、関所破りでもしたというのかい」
平次は朝の
「落着いちゃいけねえ、いつもの大変とは大変が違うんだ、ね、親分、聞いておくんなさい」
「大層な意気込みだね、
平次はまだ庭から眼を移そうともしません。この
「親分、縄張内から
八五郎は息を弾ませながら、鼻の上の汗を平手で撫で上げました。
「何だと?||今の世の中にそんな馬鹿なことがあるものか。もっとも、
平次はまだこんな
「そんな昔話じゃねえ、謀叛人が生きていて、町内の銭湯で毎日銭形の親分と顔を合せるとしたら、どんなもんで」
「いやな事を言やがる、その謀叛人はいったいどこの誰なんだ」
「金沢町の
「何だと」
平次は起き直りました。
一年ばかり前に引っ越して来た、浪人者皆川半之丞、美男で、人柄で、まだ三十そこそこの若さを、何をするでもなく、世捨人のように暮しているのが、銭形平次の第六感に、何かの印象を留めずにはいなかったのです。
「ね、親分、そう聞くと思い当るでしょう。子供は嫌いだからといって、
「············」
「それは不思議でないにしても、弟子は一人残らず
「フーム」
「そのくせ、弟子どもと一緒に夜更けまでゴトゴトやっているそうですよ。謀叛人でなきゃ、
ガラッ八の鼻は少しばかり
「贋金造りにしちゃ、暮しが楽じゃない様子だ」
「だから、謀叛人、綺麗な顔はしているが、とんだ
「············」
「それに、あの妹のお京というのがあんまり綺麗すぎますよ。妹だか女房だか知らないが、日中は二人家の中に引っ込んだきり、滅多なことじゃ
「それが
「へッ、お察しの通りと言いてえが、謀叛人の妹に思いをかけちゃ、笠の台があぶねえ」
ガラッ八は
「じゃ、どうしろと言うんだ。いくら十手捕縄を預かるこちとらでも証拠も引っ掛りもない者を、いきなり縛るわけにも行くめえ」
「そこは親分の働きで||」
「馬鹿なことを言え」
「それに、あの家から、ときどき
「待て待て、もう少し考えてみよう、うっかり手を付けて恥を掻いちゃならねえ」
平次も皆川半之丞
その晩、平次はガラッ八をつれて、皆川半之丞の浪宅を訪ねました。
「どなた様で?」
三つ指を突いて迎えたのは妹のお京、町内の若いのが、顔を一と目見るだけのことに、三晩湯屋の前を張っていたというピカピカする娘です。
何となく貧しげな木綿物ですが、折目の入った
「御町内の平次ですが、お目にかかって、お願い申上げたいことがございます」
平次は精いっぱいの
「しばらくお待ちを||」
スーと引込む娘の後ろ姿、浅まな浪宅が御殿に見えて、
「大したものだね、親分」
「しッ」
平次は袖を払いました。
間もなく二人は次の間に通されて、ぬるい茶を
「平次殿ではないか||改まって、どんな用事だ」
浪人者といっても、まだ三十そこそこ、よく湯屋や往来で見かけて、目礼を
「
「はて?」
「この野郎でございますよ。御存じでしょうか、八五郎というんで。世間並のような顔をしていますが、からっきし訳の解らねえ人間で、||こんな野郎でも、“
平次は後ろの方ですっかりむくれているガラッ八の顔を尻目に、こんな調子で頼み込むのでした。
「それは困るな、私は新しい弟子を取らないことにしているんだが」
「でも、ございましょうが||」
「今来ているのは、皆んな三年越しの弟子ばかり、引っ越して行く先々へ
皆川半之丞はまったく
「そうおっしゃらずに同町内の
「ヘエ||」
八五郎は、モゾモゾと頸筋を掻きました。あまり、“子曰く”に気の乗る顔ではありません。
皆川半之丞は、再三再四断りましたが、平次はそれに押っ冠せて、根気よく、頼み込み、とうとう
「それでは、二三日来てみなさるがいい。最初から大学や
皆川半之丞の方から折れてしまいました。
「こうなりゃ、何だって構やしません。庭訓往来なんてケチな事をいわずに、
ガラッ八は、殺さば殺せといった調子でした。
「馬鹿野郎、阿呆陀羅経って、奴があるか、||こんな解らない野郎でございます、なにぶん宜しく願います」
平次は、一生懸命に頼み込んで、マゴマゴするガラッ八を
「驚いたぜ、親分」
外へ出ると、ガラッ八は精いっぱいの
「驚くことがあるものか、いいついでだ、しっかり学問をしておくがいい」
「学問は気が乗らねえが、||あの娘は毎晩顔を見せるかしら?」
「馬鹿野郎」
「そんな役得でもなきゃ、十手捕縄御返上だ。“子曰く”なんか
「黙らないかよ、||
二人はしばらく黙って歩きました。いつの間にやら、皆川半之丞の浪宅を含む街の一角を、月に浮れたように一と廻りしていたのです。
「右隣は長崎屋
平次は皆川半之丞の浪宅を押し
「長崎屋のお
ガラッ八は
「そう言ったものじゃあるめえ、お喜多も町内で五本の指に折られる娘だ、||あの娘が少し綺麗すぎるんだよ」
「へッ、娘やお月様は綺麗すぎたって腹の立つものじゃねえ」
「何を下らない、||ところで、あの皆川兄妹に逢って、何か気の付いたことはなかったかい」
平次は自分の家の方へ足を向けながら、軽い調子で問いかけました。
「二人ともいやにお上品で綺麗だという外にはね、||同じ武家でも、あんなのは、舞台へ出て来る武家のようじゃありませんか」
「それにしちゃ、手が荒れているとは思わなかったかい、八」
平次は大変なところへ眼をつけていたのです。
「貧乏な浪人暮しで、下女も
ガラッ八は少しばかりセンチメンタルになりました。
「娘はそれで解るとして、||あの主人の手はどうだ、ありゃ武家や町人の手じゃねえ、百姓か職人の手だ」
「············」
「いろいろ面白いことがありそうだよ、少し当ってみよう、||ところで、稽古の始まるまでまだまる一日あるわけだから、その前にあの
「ヘエ||」
八五郎は両手を
「親分、驚いたの何のって||」
八五郎はまたドブ板を跳ね返して、飛込みました。
「俺の方が驚くよ、そう毎度格子をはずされちゃ」
平次は相変らず落着いております。
「それどころじゃねえ、||今晩はどんな事があったと思いますッ」
「変な声を出すなよ、馬鹿だなア」
「あの皆川半之丞という、浪人者が教えてくれるかと思うと、大将は四五人の
「この
「あっしの師匠は、へッ、へッ、妹のお京さんだ。教えて貰った書物はモーギューてんですぜ。へッ、へッ」
「大層むつかしいものをやりやがったな。
「いいえ」
八五郎はブルブルンと長い
「一つも覚えちゃいねえのか」
「へッ、お京さんの可愛らしい唇の動くのを見ていたんだ。ときどき書物から顔を挙げて、あっしの目と目が逢うと、ボーッとしたぜ」
「馬鹿野郎」
「
「牛や馬の声じゃねえ、呆れた野郎だ、それっきりか」
「これっきりだった日にゃ、十手捕縄返上だ。ね、親分、モーギューは何にも覚えちゃいねえが、はばかりながら稼業の方はちゃんとやりましたよ」
ガラッ八は狭い
「何か聞出したのか」
「お隣の長崎屋||あの万両分限の箱入り娘お喜多が、皆川半之丞と仲がよくなったのを、長崎屋の主人幸右衛門が、貧乏浪人などは
「いや知らねえ」
「銭形の親分も、
「ふざけるな||探ったのはそれっきりか」
「············」
「手前が妹に教わって、
「それが解らねえ、素読の声は愚か、人の話し声も聞えませんや」
「呆れた野郎だ、娘の顔ばかり見ていたんだろう」
「もっとも、人の歩く音や、重い物を引摺るような音は聞えたように思うが」
「それが謀叛の証拠になるかも知れなかったんだ、何だって覗いて見ねえ」
「武士はそんな卑怯なことをするものじゃねえ||と言いたいが、実は娘が
ガラッ八は
「手の付けようがねえ、||今晩は是が非でも奥の一と間を見るんだ、いいか、八」
「ヘエ||」
「娘が側を離れなきゃ、仮病を使うとか、調子が出なきゃ横っ腹を突き飛ばすとか||」
「誰ので? 親分」
「
「驚いたね」
「面喰らって娘の横っ腹などを突き飛ばすんじゃないぞ、馬鹿野郎ッ」
「ウ、ヘエ||、今日は馬鹿野郎の
ガラッ八は驚いて飛出しました。
「用心しろ、デレデレしているととんだ目に逢わされるぞ」
平次の追っかける声に、ガラッ八はもう姿も見えません。昨夜の
皆川半之丞の家に集まる四五人は、本郷から
こんな時は鼻のいいガラッ八でも居てくれると、大いに助かるわけですが、残念ながらそれも、からかいすぎて寄り付かず、気を揉みながらとうとう三日目の夜になってしまいました。
「親分、皆川半之丞の家の横手に、こんなものが落ちていましたよ」
下っ引の一人が、小さい
「フーム」
それを読んだ平次は、
親分、大変なことになったぜ、明日はきっと、鬼の首を取って帰る、外まわりの土に気をつけて下さい||
間違いだらけの仮名文字、ガラッ八名代の悪筆に紛れもありません。それっきりガラッ八は帰らなかったのです。皆川半之丞の浪宅へ、幾度か使いをやりましたが、二晩稽古に来たっきり、あとは顔を見せない||という
一方皆川半之丞のところに集まる四五人の弟子の身許を、一人一人
黒門町から来るのは、小旗本某の用人、本郷三丁目から来るのは、以前旗本某に使われた小者、湯島から通う男は、旗本某の
「その旗本は何というんだ、愚図愚図しちゃいられない、大急ぎで訊いて来い」
平次は日頃にも似ぬあせりようです。下っ引を二三人、尻を蹴飛ばすように出してやった平次は、深々と腕を
事件の
しかし、疑問を織り出している
少なくとも四方へ飛ばした下っ引が帰って来れば、何とか目鼻がつくでしょう。困ったことに、この二三日、皆川半之丞の家に、弟子達の集まる様子はなく、それを
(||ところで、土に気をつけろ||とは何のことだ)平次の胸にはガラッ八の
いくら考えたところで、この謎の文句ばかりは解りそうもありません。(これはやはり、ガラッ八の手紙の通り、外廻りを見る方が早いかも知れない||)そう思い付いた平次は、人に顔を見られるのを
「おや?」
妙なものが、平次の注意を捉えました。踏み堅めた往来へ、ボロボロとこぼれている、真っ黒な土です。つまみ上げて
土は点々として、川岸に続きました。崩れた石垣の上から覗くと、そこには
「············」
平次は思わず声を出すところでした。
視野を
その時でした。急に街の空気が騒がしくなったと思う間もなく、
「親分、大変だッ||殺されましたよ」
下っ引の
「誰が殺されたんだ?」
「浪人者の妹ですよ、||お京さんといった、めっぽう綺麗なのが||」
「えッ」
平次は飛上がりました。岡っ引として異常な事件に臨む緊張というよりは、女の
二人は宙を飛びました。皆川の浪宅では、
「お、平次殿」
さすがに、真っ蒼になった主人の半之丞が迎えてくれます。
「お妹様が御災難だそうで||」
「見てくれ、平次殿」
皆川半之丞の案内で裏へ廻ると、狭い庭の植込みの蔭に、さしも美しかったお京は、
「これは?」
平次もさすがに胸が
「お心当りは、皆川様」
「何にもない||」
半之丞は固く口を
「血の
「そうかも知れない、が、私は早寝だから、何にも知らなかった。||今朝起きてみると、縁側の戸は開けたまま、朝陽がさし込んでいたが、多分、妹が朝の支度でもしている事と思い込んで、うっかり時刻を過してしまった」
そう言う皆川半之丞の顔には、夕立雲のように深刻な悲しみが去来します。
「人に
「ない」
半之丞の調子は少しけんもホロロです。
「そう申しては何ですが、||御妹様はこの御きりょうで、さぞ何かと言う人も多いことでございましょう、殿方とのお噂などは?」
「とんでもない、妹に限って、そんな馬鹿なことがあるわけはない」
半之丞の口調は
「もう一つ伺いますが、御妹様は、旦那と本当の御兄妹でしょうか」
「ウム」
気むつかしくうなずく半之丞を、平次はもう追及する気もない様子です。
「恐れ入りますが、お家の中の様子を見せて頂きます」
「それは||」
引留めそうにする皆川半之丞の様子に構わず、平次はもう縁側から上がっておりました。入口の三畳、それに隣る六畳は、いつかガラッ八と一緒に通された部屋。そこにお京の
その奥の部屋は、皆川半之丞が特別な弟子達を通す場所でしょう。主人の不満も知らぬ顔に、平次の手はサッと
そこは六畳のよく片付いた部屋、平次が期待したようなものは何にもなく、主人半之丞の床が部屋の隅に片寄せて、ザッと積んであるだけです。
平次もさすがにそれ以上は遠慮しなければなりませんでした。縁側に立ってみると、裏木戸へ通ずる庭がよく踏み堅められて、
この家の中をもっとよく捜したら? 平次は、そんな事を考えておりましたが、庭の死体もそのままにして、さすがに家探しもなり兼ねます。
「お知合の方へ人をやりましょうか、皆川様」
平次は見兼ねて注意しましたが、
「いや、江戸には格別の知合もない」
半之丞は、冷たく言い放って、妹の死体の側に、
大きな悲しみの去来する、この上もなく冷たい顔を、平次は世にも不思議なものに眺めておりました。ひ弱い肉体と、
間もなく検屍が済んで、死体を部屋の中に運び入れ、町内の人達が、家主や月番を先に立てて、何くれと世話をしてくれました。が、不思議なことに、毎晩集まって来た、半之丞の弟子達も、身寄りの者もたった一人も顔を見せません。
「皆川様、||番所までお越しを願います」
思案に暮れた平次は、最後の
「それは誰の指図だ」
半之丞の顔は冷たく
「その方が早く型がつきます、||御奉行所の召出しを待って、なにかと手間取っては、御妹様の仇討も遅れる道理ではございませんか」
平次は一生懸命です。町奉行や、与力の指図を待っていては、平次の方も今日の日に間に合いません。そうかといって、相手は身分あり
「無用だ。||私は知っているだけの事はみんな言ってしまった」
「でも」
「私は
「でも、
「下手人を挙げさえすれば、この私に格別な用事はないのだな」
「それはもう、おっしゃるまでもありません」
平次も、ツイこう言い切ってしまいました。
「それなら一向わけはないではないか」
「?」
「下手人は解っている。名札を置いて行ったも同様だ」
「?」
「銭形の平次と言われる者が、これほどの事が解らないはずはない」
「············」
平次は眼を見張りました。恐ろしい挑戦です。
「あれを見るがいい」
皆川半之丞の指さしたのは、お京の死骸の横たわっていた植込みの真上に
飛んで行ってみると、その土塀の上の
「············」
平次も今は一句もありません。皆肌半之丞をここから追出して、ガラッ八の安否を確かめることに気を取られ、たったこれほどのことに気が付かなかったのです。
「昨夜妹を
恐ろしい半之丞の明察、||平次はお株を奪われてしばらく黙ってしまいました。が、やがて、心を落着けると、平次の日頃の
「下手人は左利きの男、力はあるが武家ではありません」
と平次。
「その通りだ。さすがは平次殿、それに一点の間違いもあるまい。長崎屋へ行って、左利きの力の強い男を捜すがいい、下手人はそれだ。多分まだ刃物を持っているかも知れない」
「············」
皆川半之丞の言葉を後ろに聞いて、平次は長崎屋の裏口から真っ直ぐに乗り込んで行きました。
「何? 岡っ引が入って来た? 左利きの力の強い男がいないかと言うのか」
「それなら
長崎屋にゴロゴロしている浪人者が二人、事あれかしと裏口から飛んで出ました。
「お武家方じゃございません、奉公人のうちに、そんな人はいないでしょうか」
平次はおくれる色もありません。
「あったらどうする?」
と伊坂権内。
「番所まで来て貰います」
「何?」
「昨夜庭の隅で人を殺し、土塀越しに隣の庭へ
「············」
二人の浪人者も、事態の容易ならぬのに黙りこくってしまいました。
「左利きで、力の強い奉公人に違いありません、||あッ、あの野郎だッ」
寄って来た人垣を抜けてコソコソと逃げる若い男、平次はそれを見とがめて後ろから追いすがりました。
「親分、私は何にも知りませんよ、とんでもない」
そう言いながらも必死と反抗するのを、引っ倒してパッと叩き伏せ、繰り出す
「
「えッ」
「ハッハッハッ、そう言われて、自分の裾を見るところが正直だ、||番頭さん、この男の荷物を見せて下さい」
「ヘエ||」
老番頭の
縄付の手代利吉を、飛んで来た下っ引に預けた平次は、手早く行李を開けて、ザッと目を通しました。少し乱雑に入れたお仕着せに晴着、それに少しばかり
「おや?」
書き損じらしい手紙が七八本。いちいちくりひろげて見ると、たどたどしい言葉で、思いの
「こいつは、この男の
「ヘエ||」
突き付けられた手紙を、老番頭の太兵衛は
「
平次はこの
「違いますよ、親分」
「今さら
「違います、||そんなわけで殺したんじゃありません、私は、私は||」
利吉はシクシクと泣き出しました。
「何を言やがる。人一人
「親分」
「何が気に入らねえ、馬鹿野郎ッ」
「違いますよ、||お嬢さん、たった一と言、何とかおっしゃって下さい、私は、私は」
あらぬ方を見る利吉の視線を追って行くと、物蔭にチラリと白いもの、||長崎屋の娘のお喜多が、そこから
「あッ、なるほどそうか」
平次にも事件の成行きが次第に呑込めます。利吉の手紙の宛名は、殺されたお京ではなくて、主人の娘お喜多だったのです。
「お嬢様、||私は
「············」
未練男の焼き付くような視線に追われて、お喜多はツイと身体を隠しました。バタバタと、縁側を遠ざかる
「お嬢様」
それを見る利吉の眼からは、ドッと涙が湧きました。ピシリと鳴る縄尻。
「野郎ッ、歩けッ」
下っ引のダミ声が
夕光りが明神様の森にすっかり落ちてしまった頃、下っ引の
「親分、解りましたぜ」
「何が解ったんだ、勝」
「あの浪宅に集まるのは、八千五百石の旗本で、駒込に屋敷のある、
「しめたッ」
「永井和泉守様は二年前に亡くなり、跡取りの鉄三郎様が三年前から
「そいつは有難い、||ところで、皆川半之丞というのは、永井和泉守様の何だ」
「それが解りゃ何もかも片付くが、それだけは解りませんよ」
「じゃもう一と息探ってくれ、皆川半之丞兄妹の身許だ、||兄妹じゃない、俺は夫婦だろうと思うが」
「ヘエ||」
「大急ぎで頼むよ」
「それじゃ、親分」
「ちょいと待ってくれ、手前は町内に顔を見知られていないから、この手紙を
そう言いながら平次は、サラサラと一通。
「こりゃ、皆川半之丞宛ですね」
「永井家から出したようにしてある。この手紙をみると、いかな皆川半之丞でも、
「ヘエ||」
鋳掛勝は
それから煙草を二三服、
皆川半之丞の浪宅の近所に網を張っていると、間もなく当の半之丞は、日頃の落着いた様子もなくせかせかと出て行きました。
それをやり過して、そっと滑り込んだ平次。二つの部屋には眼もくれず、いきなり裏木戸の方に向いた厳重そうな格子窓に手を掛けると、楽々とはずして中へ踏込みました。そこは三畳ばかりの板敷の納戸で、床板には何の変りもありませんが、隅に片寄せた
平次は懐中提灯に明りを入れると、一方の板戸をサッと開けました。中は一間の押入、床板二三枚は手に従って
平次は何の
ムッとする土の匂いも、不気味な暗さも、もう平次を
平次はハッと立止って、懐中提灯を突き付けました。
「八じゃねえか」
変り果てた姿ですが、ガラッ八の八五郎に
「············」
ガラッ八の顔は激情に
「
平次はその縄を切りほどいて、赤ん坊を抱くように起してやりました。
「親分」
「何だ、八」
「ひどい目に逢わしやがったぜ、畜生ッ」
ガラッ八はこう言うのが精いっぱいです。
「どうしたんだ、||大急ぎで話してくれ、この穴はどこへ行くんだ」
「長崎屋の金蔵だよ、親分」
「謀叛人じゃなかったのか」
「皆川半之丞兄妹は、あんな優しい顔をしているくせに、大泥棒だ」
「そいつは知らなかった、大泥棒なら話は早い」
平次はガラッ八を助け起して、狭い穴の中ながら、どうやらこうやら引っ担ぎました。
「無礼者ッ」
不意に、穴一パイの
「············」
ハッとして提灯を差向けると、出口を
蒼白い顔は激怒に
「泥棒とは何事だ、||皆川半之丞、人の物をかすめた覚えはないぞ」
「············」
「偽手紙でおびき出して、他人の家に忍び込む、その方こそ盗賊だろう。銭形平次とは言わさんぞ」
「待って下さい、皆川さん、||こうでもしなきゃ、八五郎を助ける工夫がなかったんだ、||差当り泥棒でないという言い訳、そいつを伺おうじゃありませんか」
平次も屈服してはおりません。
「言い訳などは大嫌いだ||」
苦り切る半之丞。
「でも、この穴は長崎屋の家の下まで行ってますぜ、土地の下だって他人の地所に違いないでしょう。||それでも言い訳が無用だと言うんですかい」
平次は少し反抗的になりました。
「なるほど、そういえば一応もっともだ、それでは
穴の上と下、地獄の入口に相対したような三人は、懐中提灯の心細い灯の中に、
「平次はいろいろ探索をした様子だから、大方の見当は付くだろう。駒込の旗本八千五百石、永井和泉守様の御跡取り、たった一粒種の鉄三郎様は三年前十八歳で行方知れずになられた。いろいろ手を尽したが、その所在の解らぬまま、和泉守様は嘆きのうちに御他界、その後へ伯父の平馬殿が入って後見しておられる」
「············」
||こう言う皆川半之丞というのは、用人
長崎屋は元長崎の商人で、厳禁の抜け荷を扱って巨万の富を積みましたが、それが
平馬の子平太郎は当年十七歳、永井家家督相続の届を一年前から出してあるので、評定所の調べが済んで、鉄三郎が生死不明と決れば、改めて将軍家に
事態は急迫しました。
皆川半之丞の川波一弥は、長崎屋の隣の家を借り受け、最初は鉄三郎を盗み出すことを計画しましたが、腕っ節の強い浪人を二人まで雇ってある上、警戒厳重を極めて、非力の一弥ではどうすることも出来ません。
続いて、長崎屋の娘お喜多の浮気心を
「この一条は拙者
皆川半之丞の頬には苦笑いが
「
平次はあっさり
「穴はもう主君鉄三郎様の囲いの下まで行っている。床板を下から打ち抜きさえすれば、何の苦もなく救い出せるのだ、||そこへこんな邪魔が入った」
「よく解りました。皆川様、御心持、いちいち御尤も、決して無理とは申しませんが、それほど相手の悪事が判っているなら、どうして大目付へ訴えて出られないのです」
平次は最後の疑問を投げ出したのです。
「永井家||東照宮様格別の思召しで八千五百石を下し置かれた永井家が、断絶になってもよいと言うのか」
「············」
「これが表沙汰になれば、善悪ともに永井家の立行く道はない。いま無事に鉄三郎様さえ救い出せば、何とでも弁解の道は立つ、同志四五人命を惜しむ者はないが、斬込んで御府内を騒がさなかったのはそのためだ」
「············」
「||が、こうしているうちにも、平馬の子平太郎の御目見が済んでしまっては、六日の
その御目見の日が、二三日の後に迫っているのです。皆川半之丞が、平次と八五郎を斬ってしまっても、ここで鉄三郎を救おうとするのは無理のないことでした。
「よく解りました。||あっしはお上の御用を勤める身体で、大地の上ではそんなことに御助勢は出来ませんが、
平次は大変なことを言い出しました。
「本当か、それは?」
「八、手前は穴の外へ
「親分、そいつは」
驚いたのは八五郎です。下へおろされて、あわてて平次の
「心配するなってことよ、||手前は眼をつぶってりゃいいんだ、俺は皆川様の御人柄に
「ヘエ||」
「平次殿、それは本当か」
半之丞も少しつままれた心持です。
「本当も嘘もありゃしません。それで悪きゃ十手も捕縄も返上しますよ、||馬鹿の利吉に殺されなすった、||奥さんが可哀想だった、||その代りあっしが手伝ってあげます」
「有難い、いずれこの礼には縛られてお前の手柄にしよう」
「とんでもない、穴を掘って縛られた日には、日本中の
「同志も世間を
皆川半之丞は涙を拭いておりました。
「さア」
「行きましょう」
穴の中を用心深く進む二人。その後ろ姿を見送って、ガラッ八はしばらく口も
「チェッ、物好きだね」
*
その晩。
長崎屋の雇浪人、伊坂某は斬られ、囲いの中の鉄三郎は奪い去られました。しかし、事件は何もかも闇から闇に葬られて、それから三日目、永井平馬の
「親分、驚いたぜ、||御用聞がなぐり込みの片棒をかつぐなんて」
この頃は、ガラッ八もすっかり健康を取戻しておりました。
「シッ、黙っていろ、||これは御用聞の仁義さ。もっとも、穴の中で縛られていた手前も、あまりいい器量じゃないそ、||恥はお互いだ||それより今日は永井鉄三郎様家督相続のお祝いに
平次はもう何もかも忘れてしまった