荒物屋のお
「まア、可哀想に」
「あんな人好きのする
ドッと
「えッ、寄るな寄るな、見世物じゃねえ」
遠い街の
「どうしたえ、八、お今がやられたそうじゃないか」
幸い親分の銭形平次が飛んで来ました。江戸開府以来と言われた、捕物の名人が来さえすれば、八五郎の憂鬱は一ぺんに吹き飛ばされます。
「親分、あれだ」
「なんて
側に寄ってみると、路地をひたした血潮の上に、左
八五郎と死骸を挟んで、番太の
「
親一人子一人の評判娘が、この
「可哀想に||検屍が済んだら、早く引取らせるがよい。もうすぐ八丁堀の旦那方が見えるはずだから」
平次はそう言って、路地の外から覗く、物好きな眼の前へ、
「
と、ガラッ八の声は少し
「そいつは早手廻しだな、誰だい、その縛られたのは?」
「町内の油虫||釣鐘の勘六が、血だらけの
「なるほどね」
「あわてて逃出したところを、三輪の万七親分が通りかかって、いきなり縛ってしまいましたよ」
「それっきりかえ」
「あっしも見たわけじゃありませんが、縛られると、それまで
「はてな?」
平次は考え込みました。勘六は五十男で、評判のよくない人間には相違ありませんが、十七娘をどうしようという歳ではなく、それに、お今は母
「変でしょう、親分、||勘六ほどの悪党が、人を殺した現場に、ノッソリ血だらけな匕首を持って立っているはずはないじゃありませんか」
ガラッ八にもこれくらいの眼があったのでした。
「三輪の
「大根畑の植木屋の
「そっとつれて来る工夫はないか」
「そこに居ますよ、お今のお袋と一緒に」
ガラッ八は死骸を
「あっしが専次でございますが||親分さん」
八五郎につれられて来たのは、二十二三の小意気な男でした。長ものを着ているせいか、植木屋という八五郎の触れ込みがなかったら、平次も
「専次||というのかい、このお今とはどうして知合いになったんだ」
平次はお今の死骸を月明りの中に指しました。それを眺める専次の表情を、一つも見落すまいとするように。
「この暮には祝言をすることになっていましたよ、親分さん」
専次の顔には悲痛な色が動きました。一生懸命、
「お袋も承知か」
「それはもう||何だったら、本人に訊いて下さい、そこに居りますから」
「当人は?」
平次は重ねて訊ねました。
「当人もそのつもりでした、||この春から」
専次の返事のギコチなさ、||それは、
「ところで、今晩、
「明神様の境内から、金沢町あたりを歩いておりました。何しろこんなに賑やかですから」
「お今と一緒に歩いているのを、見たものがあるぜ」
「そんな、そんな事が||親分」
専次はすっかりヘドモドしております。いや、それより驚いたのは、ガラッ八の八五郎でした。銭形平次は、八五郎のやった迎いで、ツイ今しがた自分の家から来たばかりで、そんな噂などを耳に入れる
「この一刻ばかり、どこに何をしていたか、それがはっきりしなきゃ帰せねえが」
「親分、そりゃ無理ですよ、こんな人出ですもの、何百人に逢ったか判らないが、そのうちから、あっしの見知り人を捜すなんて、出来ない相談ですよ」
専次は泣き出しそうでした。全く神田明神をめぐって人間の
「気の毒だが、その胸の
「これは親分」
専次は自分の胸のあたりを眺めました。なるほど目立つほどではありませんが、点々として左脇腹へかけて、
「死骸を抱き起した時の血だって言うんだろう」
「その通りですよ、親分さん」
「死骸から付いた血なら、そんなに飛沫くはずはねえ」
「でも、お今はその時、まだ息があったんで」
「息のあるのを介抱もせずに、
平次の問は容赦もありません。月にさらされた
「人を呼んで来るつもりで、大急ぎで飛出しましたよ」
専次は出来るだけ軽やかに応答するつもりでしょう。頬のあたりに引釣ったような笑いさえ浮べますが、喉はすっかり
「その後に勘六が来て、匕首を拾い上げて捕まったというのだな」
平次は誰へともなくそう言います。
「ヘエ、そ、その通りで」
「それほど判っているなら、勘六が縛られる時、なんだって一言
「ヘエ||」
「それじゃ勘六にすむめえ」
「でも、親分さん、勘六はあっしが見付ける前に、お今を殺して、またやって来たかも知れません」
「自分の殺した娘の死骸を見に来た奴が匕首を拾い上げたというのか」
「············」
「そんな馬鹿なことがあるわけはねえ」
「············」
専次はガタガタ
「八、しょっ引いて行こうか」
平次は静かに八五郎を顧みました。
「親分」
ガラッ八はもう一度平次の顔色を見ましたが、決然たる様子を見ると、ツイ
「御免下さい、親分さん、||少しばかり申上げたいことがございますが」
「誰だい」
「
駄菓子屋の文吉||貧乏人には相違ありませんが、町内では便利の良い五十男でした。
「何だい」
「あの、専次さんは、つい
「へ、ヘエ||」
「町内の衆と顔
文吉の話は恐ろしく筋が通ります。
「それは本当かい、専次」
平次もツイ、そう訊かなければなりませんでした。
「ヘエ||、ブラブラお祭りの人出を見て歩いているうちに、足が
専次はゴクリと
「専次さんが立上がった時、あっしも用事を思い出して、後から一緒に立ちました。ここの路地まで来ると、専次さんは路地の中へ入った様子でしたが、間もなく真っ蒼になって飛んで出て、その後へすぐ勘六さんが入った様子です。お今さんを殺す
「············」
銭形平次もすっかり考え込んでしまいました。どんな証拠があるにしても、こんな確かな生証人が出て来ては、どうすることも出来ません。
「た、大変ッ、親分」
「何が大変なんだ、少し落着いて物を言え、お
平次は静かに煙草盆を引寄せました。
「落着いちゃいられませんよ、またやられたんだ」
「何だと?」
「三河屋のお
「行ってみよう」
平次は立上がると、寸刻の
踊屋台は、
その踊屋台の中、揚幕の蔭に、三河屋の一粒種で、町内の自慢の一つになっているお三輪が、揃いの祭り手拭で、痛々しくも
この娘も、前の晩殺された荒物屋のお今と同じ十七、
三河屋の両親の歎きは見ている方も気が狂わしくなるくらい。
「お三輪、お三輪」
「何だって、死んでくれた」
「誰がこんな目にあわせたんだ」
「言っておくれよ、お三輪」
半狂乱の
五十過ぎて、たった一と粒種||それも龍宮の
「お今も、お三輪も十七か、変なことだな、八」
平次はそんな事を言いながら、右往左往する野次馬を尻目に空地と三河屋と、踊屋台の位置と、光線の関係などを見きわめております。
「いやな
ガラッ八は何心なくそんな事を言って、気がさしたものか四方を眺めました。幸い誰も聴いている者はありません。
「表は人通りが多いから、踊屋台へ忍び込むには、後ろの木戸からだろう。道は二つしかないな、一方は三河屋の裏へ出るのか」
「
「離室には誰が居るんだ」
「七平と言って、||足の悪い男で、何でも、三河屋の遠縁の者だとか言いましたが」
地獄耳のガラッ八は、この辺の消息なら何でも知っております。
「もう一つの道は?」
と平次。
「若い者の休み場の裏へ出ますよ、駄菓子屋の文吉の家を若い衆の
「行ってみようか、||お前は三河屋へ行って、お三輪が何だってあんなところへ行ったか聴いてくれ」
平次は
休み場と言っても、ほんの形ばかり、店には
「親分さん、御苦労様で||」
文吉は早くも平次の姿を見て挨拶しました。
「誰もここから空地の踊屋台の方へ行ったものはないだろうね」
「あるわけはございません。この人数で見張っていたんですから」
町内の
「親分」
ガラッ八は後ろから追っかけて来ました。
「何だ、八」
「三河屋へ行って聴いて来ましたが、お三輪は宵のうちに、あの踊屋台に
「扇なら下女か何かに取らせりゃいいじゃないか」
「それが自分で行ったというから不思議じゃありませんか。しばらく待っても帰らないから、心配になって、下女をやってみたんだそうで」
平次は
「何もかも、亥刻過ぎに起ったことだ、ほんの四半刻(三十分)の間だね」
お今を殺したのも、お三輪を殺したのも、刃物と手拭の違いはありますが、ほんのしばらくの間に行われたことで、人間の注意と注意の間の、
「ここからは誰も空地の方へ行かなかったのだな」
平次はまだその事を気にしております。
「誰も行ったものはありません。宵からここに居たのは顔ぶれが決っておりました。それに、あっしの寝ている枕元を通らなきゃ、裏口から出られやしません」
「寝ていた?」
「ヘエ、面目次第もございませんが、少し呑み過ぎて苦しいので、屏風の蔭へ横になって、半刻ばかり休まして貰いました」
「············」
「将棋を指したり、無駄話をしたり、女達が私に水を持って来てくれたり、どうせこんな浅まな家ですから、寝付かれはしませんが、それでも、横になっただけで、酔もさめましたよ」
文吉はそう言ってよく
「寝込んでしまって、枕元を誰か通ったのを知らないような事はあるまいな」
「それはもう大丈夫で、ヘエ」
文吉は
三河屋へ行ってみると、家の中は悲歎の渦でした。老主人夫婦の他には、雇人ばかりですが、その雇人達が、ただ一と粒種の三河屋の希望を
主人の嘉兵衛が、涙を納めて、平次を迎えるまでには、たっぷり四半刻もかかりました。祭りのどよみも静まり返ってさしもの賑わいも、今日の一段落を告げましたが、三河屋の家の中ばかりは、まだ
「何か、心当りはないでしょうか、旦那」
「いや何にも、||扇を取りに踊屋台へ行ったというのも後で下女から聴いたことで」
一代身上を築いた嘉兵衛は意志の権化のような
「手拭はお嬢さんの持物でしたね」
「その通りだよ、親分」
「申上げにくいことですが、近頃お嬢さんが親しくしている男はなかったでしょうか」
「············」
嘉兵衛の首は、胸にめり込みます。
「そんな事でもあったら、そっと言って下さい、||お嬢さんの
平次は注意深くこう切り出しました。
「言いましょう、親分、恥も外聞も、娘が生きているうちの事だ、||実は、あの大根畑の植木屋の倅で、専次というのが||」
「············」
「ときどき娘を誘い出しに来たようだが、男っ振りは
嘉兵衛はいかにも言いにくそうです。
「よく言って下さいました。それが判ればまた何とか考えようもあるでしょう。ところで、奉公人や近所の衆、御親類の人達等で、旦那かお嬢さんを
「それはない」
嘉兵衛の言うことはピタリとしております。
「でも||」
「奉公人は
「············」
「町内で私から無利息の金を借りている者は||こう||と、十人や十五人はあるだろう」
嘉兵衛の言うのはいちいち本当です。三河在から、
「とりわけ恩を着せているのは?」
と平次。
「私の口から言っては変だが||番頭にでも訊いて下さい」
平次もそれ以上は押して訊きません。
番頭手代、小僧下女の果まで一応は逢ってみましたが、何の取立てたこともありません。踊屋台へ行って、お三輪の死骸を見付けたという下女のお崎は、三十前後の達者な
「
「俺もそれを考えていたんだ」
三河屋の母屋から、踊屋台へ行くには、どうしてもここを通らなければならないのが、離室の住人にひどく重要な役割を持たせます。
「七平、||まだ起きているのかい」
ガラッ八は見知り越しらしく、親しい声をかけると、
「誰だい」
しばらくゴトゴトさして、雨戸をガラリと開けたのは、四十五六の不思議な男です。
「俺だよ」
代って顔を出した平次。
「お、銭形の親分さん」
よく
「遅くなって済まなかったな||ちょいと訊いておきたいことがあってね」
「どうぞ、親分さん、こんな時ですから、お役に立てば何でもやりますよ」
七平は縁側の端っこへ出て、月の射し入る中に小さく
「殺された娘の敵が討ってやりたいが、お前、なんか知っていることはなかったかい」
「可哀想に、||良い娘でしたが||時折は、淋しかろうって、菓子を持って来てくれたり、
七平はツイ眼をしばたたきます。小さい小さい離室で、恐ろしく簡素ですが、古物ながら一と通りの道具が揃って、何不自由なく暮している様子です。
「誰か、お三輪を怨んでいる者はなかったかい」
「怨んでいる者||とんでもない、死ぬほど惚れている者は多勢ありますが」
「例えば?」
「町内の独り者は皆んなですよ、ヘエ」
「その中で、親しくしているのはあったはずだが」
「大根畑の専次とか言いましたね、あの
七平の激しい調子には、ひがみがあるのを、平次は聞きのがしません。
「今晩は?」
「あっしは早寝で、
「············」
「目が覚めたから、ついでに
「若い男||?」
「ヘエ、若い男でなきゃ、あんなに早く、
「それは、確かに合図の後だね」
「ヘエ||」
「合図をして娘を呼出すのは、大根畑の専次一人だけだろうな」
「いくら大家の
七平の舌には、何となく毒を含みますが、病人なるが故に、人にも世にも捨てられているせいでしょう。
「お前その口笛をよく聞いて知っているだろうな」
「············」
「他の人の口笛と専次の口笛と間違えるようなことはあるまいな」
「間違いっこはありません。こんな
七平は大きな唇を
「そんな事でよかろう。ところで、もう一つ訊きたいが、三河屋の主人を怨んでいる者はないだろうか」
と平次。
「とんでもない、あんな仏様のような旦那を怨む者があったら、第一、十何年越し世話になっている、この七平が承知しません」
「お前はどんな引掛りでここに居るんだ」
「遠縁の奉公人でしたよ。十二三年前、箱根へ旦那のお供をして行って、
「不自由はないだろうな」
「不自由なんてものは、どこの国の言葉だか知らないくらいで、へッ、へッ」
七平は泣き出しそうな顔をして笑うのです。活動的な男が、活動を奪われて、何不自由なく暮していて、倦怠感を持て余しているといった様子でした。
「三河屋さんの世話になっているのは町内に何軒くらいあるだろう」
「十五六軒はありますよ、
「その中でも一番厄介になるのは?」
「駄菓子屋の文吉なんて、三度も身代限りを助けられていますよ、もっとも同じ三河の出だそうですが」
これ以上はもう訊くこともありません。平次とガラッ八は外へ出て
「八、あれでもお三輪殺しの下手人は専次じゃないと言うのか」
「だって親分、
八五郎は厳重に抗議を申込みました。
「変だなア、七平の話を聴くと、下手人は間違いもなく専次だが」
「そんなはずはありませんが、あの時刻には専次は、お今の家で神妙に
「············」
平次には事件の真相は次第に判らなくなるばかりです。昨夜は文吉の動かぬ証言はあったにしても、お今殺しはどうみても専次の外にないので、平次はガラッ八に命じて、一日一と晩専次を見張らせ、怪しい素振りがあったら、縛ってしまうようにと言い付けてあったのでした。
「これからどうしたものでしょう、親分」
「まず、寝ることだな、それからゆっくり考えるさ、新規
「それじゃ、親分」
「明日の夕方までに、専次と勘六と、文吉と七平の身許をよく洗ってくれ、無駄だろうと思うが||それから、こいつは一番大事だ、三河屋の主人は三河万歳だったというが、それも本当か嘘か||」
「そんな事ならわけはありません」
「もう一つ、
「親分は?」
「俺は寝ていて考えるよ」
「ヘエ||」
勝手なことを言う平次と、ガラッ八はつままれたような心持で別れました。
それからまる一日。
翌る日の
「親分、大変、三人目がやられましたよ」
下っ引の皆吉というのが、戸口から
「何? 三人目? 誰だそれは?」
平次もガラッ八も立上がります。
「下駄屋のお
「そいつは大変、あれも十七だ」
三人は真っ黒になって飛んで行きました。金沢町の下駄屋のお袖、町は違いますが、お今、お三輪と並んで、界隈の評判娘です。
下駄屋は両親と兄妹六人暮し、お袖はその一番上で、お今、お三輪とは違った意味の評判娘でした。綺麗さは二人に劣らなかったでしょうが、これは働き者で親孝行で、お今、お三輪のように、浮いた噂などは
家内の驚きと悲歎の中に駆け付けた三人は、お袖の死骸を見て、お今にも、お三輪にもない、不思議な衝動を感じました。あまり豊かでないせいもあったでしょうが、お祭り騒ぎの中にも木綿物で、赤いものはよれよれの紐一と筋だけ、その紐で
「これはひどい」
平次もさすがに顔を
「親分さん、敵を討って下さい。こんな孝行娘を殺すなんて、あんまり、あんまりでございます」
下駄屋の亭主は、悲歎に顔を挙げ兼ねるのでした。
世間が物騒と言っても、まだ宵のうち、外へ出て何かと用事をしていたお袖が、何やら変な声を出したように思って、父親が飛んで出ると、下駄の材料を入れた物置の前、まだ宵明りの中に倒れていたのだそうです。
家へ担ぎ込んで一生懸命手当をしましたが、素人の悲しさは、ヘマの上にヘマばかりを重ねて、まだ脈も息もあった娘を、とうとう助け兼ねた
「本当に何ということでしょう、親分さん、こんな娘を殺すなんて、鬼とも、畜生とも、||」
女房は半狂乱にかき
その空気の中に、冷静な調べを進めるのは、平次にしても容易の
「結び目がどうしても解けないので、思いの外手おくれになり、助けられる娘を殺してしまいました。あの通り力任せに引き千切った時は、もう||」
下駄屋の親爺は、赤い紐を見て泣くのです。なるほど引き千切ったのは
「こんなに物を
「············」
平次はそれを八五郎に見せましたが、ガラッ八には想像もつきません。
十七の娘と、十七の娘を持った親達は
「この次は油屋のお咲かな、紙屋のお早かな||それとも」
そんな噂が、口から耳へ、耳から口へと、伝わります。
「八、大変なことになったな、||今晩は町内の十七娘に、寝ずの番をつけるんだ。それから、油屋のお咲と、紙屋のお早に気をつけろ」
「ヘエ||」
ガラッ八の八五郎は、平次の息のかかった下っ引全部を動員して、湯島一丁目から金沢町、
「親分、一人捕まりましたよ、でも、こいつは見当違いで、逃してやろうと思いましたが||」
八五郎がそんな事を言って来たのは、まだ
「逃しちゃならねえ、誰をどこで捕まえたんだ」
「紙屋の裏をウロウロしている奴があるから、二人で挟み撃ちにすると、こいつはとんだ強い奴で、思いの外骨を折らせました。縄を掛けて明るいところへつれて来ると、馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、あの音次郎でしたよ」
「何? 音次郎?||その野郎だッ、お袖の首に紐を巻いて、きつく結びやがったのは」
平次は飛上がるほどの大喜びで、番所へ駆け付けました。そこには音次郎が、ポカンとした顔をして、自分の縄目を眺めております。
二十五六の立派な
「野郎ッ、何だってお袖を絞めたッ」
平次はいきなり浴びせかけました。
「だって親分、十七の娘を十七人殺すと、福があるって言うぜ」
恐ろしい言葉が、男の口から、スラスラと出るのです。
「それじゃ、お今やお三輪を殺したのも
「違うよ、親分、あれは、おらじゃねえ、先を
音次郎の言うことには
「そんな事を誰から聞いたんだ」
「それは言わねえよ」
「何?」
「言うと叱られるから」
「言わなきゃ
「············」
「牢へブチ込んでいつまでも物を食わせないが、それでもいいか、野郎ッ」
「言うよ、言うよ、打たれるのは平気だが、物を食わせないのはひどいや」
「さア、言え、誰がそんな事を教えた」
「七平だよ、三河屋の
「············」
平次とガラッ八は顔を見合せました。いよいよ探索は筋に乗って来たのです。
すぐさま三河屋の離室の、七平を叩き起し、音次郎に悪智恵を吹き込んだことを責めました。が、七平の言葉には、何の悪意があったとも思われません。
「勘違いほど恐ろしいものはございません。||音の野郎がその辺をブラブラしているから、縁側から声をかけて、食い残りの
七平はそう言って、本当に飛出そうとするのを、平次とガラッ八は、どんなに骨折って止めたことでしょう。
「八、いよいよ十手捕縄の御返上だな」
「そんな気の弱いことを、親分」
「お袖殺し一人は押えたが、音次郎じゃ手柄にならねえ」
「でも、三輪の万七親分は大喜びで縛って行きましたよ」
「勘六を縛った見当違いを取返したかったろう、放っておくがいい、||俺はあんな男などを縛りたくはない」
平次は宵のうちに引揚げて来て、お静に一本つけさせ、面白くもなさそうに盃を
「ところで、親分に頼まれたことがありましたネ」
「何だい」
「文吉、七平、専次、それから三河屋の身許と、
「すっかり忘れていたよ、そいつを聴かしてくれ」
平次は急に元気づきました。お袖殺しの一件で、まだガラッ八の報告を聴かずにいたことに気が付いたのです。
「三河屋の旦那はやはり三河者ですよ、
「そいつは面白いな、二人が兄弟分とは初耳だよ」
「三河屋の旦那はそれでもよく文吉の世話をしたそうですよ、いくら注ぎ込んでも、貧乏性は仕方のないもので、あの通りその日暮しの
「七平は?」
「あれは三河屋の遠縁の
「そんな事だろうな、あの
「それから匕首ですがね、あれは柳原の露店で、職人に売った品だそうですよ」
「いつだ」
「十日ばかり前」
「どんな職人だ」
「
「しめたッ、八、来いッ」
平次はまた大きなヒントを
大根畑の植木屋から、専次を縛ってくるのは、平次にとっては一挙手一投足の労でした。わざと神田を避けて、大廻りに、八丁堀へ引いて行き、とうとう恐れ入らせてしまったのは翌る日の朝。
「親分さん、恐れ入りました。お今を殺したのは、このあっしに違いありません。あっしが三河屋のお三輪さんと心安くなったのを
こうべらべらと白状してしまいました。が、
「お三輪を殺したのは誰だ」
と突っ込むと、
「それはいっこう知りません。あっしでない事は確かで||」
三河屋の
「よしよし、それで大抵判った。ところでもう一つ訊くが、あの晩、御神酒所なんかには行かなかったはずだな」
「ヘエ||」
「縁台へ腰を掛けた覚えもあるまい」
「············」
「文吉がお前を
「いえ、ろくに顔も知りません」
「よしよし」
平次は一人で呑み込むと、専次を奉行所
その足ですぐ、平次は一丁目の駄菓子屋に踏込んで文吉を縛り、さらに三河屋の
「親分、これはどうしたことでございます」
おどろき
「野郎、黙って歩けッ、お前のような太い奴はないぞ、そんなひどい事をして知れずに済むものか、神様も仏様も見放したんだ、覚悟するがいい」
平次の言葉は、いつもに似気なく
「親分」
「言訳があるなら、お
「············」
「翌る晩、酔った振りをして屏風の蔭に入り、そっと抜出して、同じような
「············」
「どうだ、恐れ入ったろう」
平次の声は
「翌る日になって、お三輪殺しの罪を被せるつもりでいた専次が、一日一と晩八五郎に見張られていたと知って、手前達は
平次がこんなに怒ったのを、ガラッ八も滅多に見たことはありません。
「親分、でも、二人の身になると
と、ワナワナ
「何が口惜しい、何度も何度も三河屋さんの世話になっているじゃないか、たった一人の娘を殺すほどの怨みがどこにある」
「三十年前三河から一緒に出た兄弟分の私に、三度で十二三両は恵みましたが、||それが江戸の長者番付にのる万両分限のすることでしょうか、||私はたったそれだけで二十年間三河屋の仏心の生証拠にされていたのですぜ」
「貰う者は、いくら貰っても足りないのだ」
と平次。
「くれる方は、一文二文でも恩にきせますよ、親分、あっしは遠縁で、三河屋のために病気になったのを、三河屋がお為ごかしに女房にまで別れさせ、さんざん恩にきせられて、離室へ犬のように飼われている男だ。三日に一度、七日に一度ずつ、自分の慈悲善根を見にくる三河屋を神様のように拝んでいなきゃならなかったんだ、畜生
七平は
「それで十七になる娘を殺したというのか、手前達は?」
「三河屋夫婦を殺したんじゃ虫が
「何という奴らだ」
平次は暗然として涙を呑みました。
*
二人を送った帰り||。
「八、
「三人を四人で殺したわけだね、親分」
とガラッ八はあさっての事を考えている様子です。
「人間の心は恐ろしい。俺は坊主にでもなりたくなったよ」
「でも、良い人間もあるぜ、親分」
「ガラッ八のように、な」
平次は淋しく笑いました。