かねやすまでを江戸のうちと言った時代、
もっとも、板橋街道のすぐ傍で、淋しいと言っても、半町先には町並らしいものがあり、黒木長者に出入りする商人やら里人やら、この地蔵尊の側を通して貰わなければなりません。が、なにぶんにも、時代も素姓も知れぬ濡れ仏で、折々の
それが、いつから始まった事か、冷たいはずの石地蔵の肌が人間のように生温かくなっていることが発見されました。最初は多分、その辺で鬼ごっこでもしている、里の子供達が気が付いたのでしょう。いつの間にやらそれが、大人の口に伝わって、巣鴨、大塚、
「地蔵様の肌が暖かい! そんな馬鹿なことがあるものか、石で
そんな事を言って、一向取り合わない人達もありましたが、
「いやに利いた風な事を言うじゃないか、嘘だと思うなら行って触ってみるがいい。まだ陽の当らねえ朝の内ほど温かで陽が高くなると、段々冷たくなるんだ。これは地蔵様が、夜のうちだけこちとらと同じように、床の中へ入んなさるからだと言うぜ、罰が当ることを言うものじゃねえ」
こう言われると、この時代の迷信深い人達は、返す言葉もなかったのです。
畑の中の石の地蔵様が、人肌に暖まると言うのは、随分変った
地蔵様の台石の上で、一夜のうちに寛永通宝が、ピカピカする一分金になる||そんなことは、今の人では信じ兼ねるでしょうが、その頃の人は、極めて素朴に、
「あの地蔵様に上げた青銭や
「俺もやってみよう、少し
「何を言やがる、
といったような騒ぎ||、事実、人肌地蔵の台石の上に置いた青銭や鐚銭は、時々、丁銀や豆板銀に変ったり、稀には一分金に変っていることもあるのでした。
その変りようが突拍子もなく、台石の上の銭が毎晩決って変ると限らないところが、変に
我がガラッ八||捕物の名人、銭形平次の子分で、本名を八五郎、またの名をガラッ八という人気男||が、親分の用事で庚申塚の辺まで行った帰り、フト、畑の中の人だかりを見付けて、鼻の下を長くして嗅ぎ廻った挙句、半刻ばかりの間にこれだけのネタを挙げてしまいました。神田へ帰って、身ぶり沢山にその話をすると、日頃あんまりガラッ八の話に身を入れた事のない平次が、
「フーム、そいつは新しい
と乗気になります。
「あっしが? ヘエー、巣鴨まで毎日出かけるんですかい」
「不足らしい事を言うな、細工の細かいところを見ると、相手は容易じゃねえぞ。甘く見ると、とんでもねえ目に逢わされる」
「ヘエー、そんなもんですかねえ」
「親分、大変だッ」
「何だガラッ八、相変らず騒がしいじゃないか。そんなに泡食わずに、静かに物を言えッ」
「それが静かには言えねえ、何しろ巣鴨から一と息に駆けて来たんだ」
「どうしたッてんだ。地蔵様が踊り出したとでも言うのか」
「そんな事なら驚きゃアしねえ、どうせ毎朝人肌に暖まっていようというあらたかな仏様だ」
「おや、変に落着いてるじゃないか、何が一体大変なんだ」
銭形平次も、少しばかり乗気になります。
「黒木長者の当主孫右衛門と、土地の百姓とが
「言う事が大きいなア、睨み合いの元をただせば何だ」
「それが、例の
「なるほど」
「ところが土地の者が承知しねえ。いかにも畑は黒木長者のものに相違ないが、地蔵様は昔からここにあったもので、誰が
「それは面白いな」
「少しも面白かあねえ、まるで百姓一揆だ。黒木長者の雇人が二三十人、木刀や
ガラッ八は一生懸命ですが、平次は一向驚く様子もありません。
「放っておけ放っておけ。そんなカラ騒ぎを見通して、どこかで赤い舌を吐いてる野郎があるに相違ねえ。多分、そんな騒ぎも何かのト書きの一つだろう。もう少し眼鼻が付かなきゃア、手を出そうにも出しようのねえ仕事だ」
平次が見透した通り、ガラッ八が報告に駆け付けた後で、黒木長者と、土地の人との間に、
それは、石の地蔵様は、黒木長者の屋敷内に移させるが、その代り、土地の者が外から自由に出入りをして、拝むことも
石の地蔵といったところで、時代の付いた御影石で、精々十二三貫目ぐらい、まことに不景気なものですから、雑木林の中から、半町ばかり先の黒木長者の邸内に持って行くことなどは元より物の数でもありません。
邸内といったところで、北側の土蔵の裏木戸のあったところで、一間幅の道が、塀に囲まれて屋敷の中へ食い込んだところですから、邸の外とあまり変りはありません。
そこに移された地蔵様は、急に涎掛けをしたり、
悲しいことに黒木長者は、まだこの地蔵の肌||乙女の肌のように滑らかに暖かいという肌||に、触れてみたこともありません。日頃苦虫を噛みつぶしたような顔を、威厳そのもののように心得ている孫右衛門長者は、土地の小百姓や町人の前で、地蔵の肌に手を触れてみるような、不見識なことは出来なかったのです。
真に抜き足差し足という言葉を文字通り、五十男の黒木長者が地蔵様へ忍んで行く形は、まことに不思議な見物でしたが、幸いまだ誰もその辺には姿を見せません。
塀に付いて廻ると、朝の光をほのかに受けて、眼の前に立たせ給うは万有還金の尊い地蔵尊と||思ったのは、黒木長者の幻覚で、台石の上に立っているはずの人肌地蔵は、薄じめりの大地に
「あッ、これはどうじゃ」
地蔵の肩に掛けた黒木長者の手は、人肌どころか、なんと氷のように冷たい感触に
変った事は、それだけではありません。地蔵様の様子に驚き呆れる長者の耳へ、
「た、大変ッ、誰か、誰か」
と
今開けたばかりの裏門を押して横っ飛びに飛込むと、大地の上に尻餅をついた権助は、
「アッ」
黒木長者も危うく尻餅をつくところでした。土蔵の息抜きの上から、直径二尺ばかり物の見事に切り抜かれて、中の真ッ黒な穴が物凄まじく、朝の光を吸い込んでいたのです。
そのうちに、騒ぎを聞付けて、多勢の家の子郎党達が駆け付けました。
「泥棒ッ、泥棒ッ」
と言ったところで、そこにはもう
黒木長者を助けて、二三人の重立った番頭達が、土蔵の大戸前を開けて入ってみると、土蔵の奥に杉なりに積んだ千両箱のうち上の三つが、影も形もありません。
千両というと気安いようですが、その頃の性の良い一両小判は、今(昭和六年当時)の金の相場にして二十円弱、経済状態や通用価値を考えると、百円以上にも相当しますから、千両箱一つが今の人の気持からいえば十万円にも当るわけです。
その代り重さも相当で、一枚四匁の小判が千枚入ったとすると、千両の重さは正味四貫目、それに
黒木長者の土蔵、||樫と栗とで腰張りをして、その上を海鼠に塗り上げた、金庫のような土蔵を切り破って、千両箱を三つ盗み出したのですから、これは尋常一様の盗人でないことは明らかです。それを見ると、慾で固めたような黒木長者は、
「ワーッ、大変ッ」
一ぺんに目を廻してしまいました。
何か変ったことがあったら||と、この盗難を予期するともなく、ガラッ八を付けておいた平次、その日の朝のうちに
「それみろ、言わないこっちゃない」
「親分は見透しだ、全く恐れ入ったよ。何しろ黒木長者は眼を廻す騒ぎだから、屋敷の中は煮えこぼれそうだ。巣鴨の兄弟分、牛屋の喜平のところへ泊り込んで、これだけの事を聞くと、飛込んで一と当り調べようかと思ったが、下手をすると取り返しが付かねえから、とりあえず飛んで帰って親分のお耳へ入れたわけなんだ」
「そいつは上出来だ、そう言っちゃ悪いが、自分のあまり賢くねえことを、よく知り抜いているところが、
「チェッ、骨を折ってからかわれりゃ、世話アねえ」
「まア怒るな八、どりゃ出かけよう」
二挺の
黒木長者の屋敷へ着くと、その頃顔も名も売れた御用聞の銭形の平次が、神田からわざわざ駆け付けて来たというので、家の子郎党達は下へも置かぬあしらい。
「旦那は?」
騒ぎの中に
「あまり気を使い過ぎて、奥で休んでおります。親分が見えたと申上げたら、
「そうか」
平次は別に追及もしません。
案内に立ったのは、番頭の藤三郎、万両分限の支配人にしては、年も若く人品も立派で、ちょっと武家の用人といった心持のある三十男です。
平次は藤三郎に引廻されて、屋敷の内外、特に人肌地蔵を
「この蔵の鍵はどなたが持っていなさるんだえ」
「主人の孫右衛門が、腰から離しません」
「すると、泥棒がソッと鍵を盗んで、戸前を開けて入り込むようなことはありますまいね」
「そんなことは、あるわけがございません」
藤三郎の顔には、皮肉な薄笑いが浮びました。土蔵の
「とにかく、この屋敷の中に住んでいる人を、皆んなここへ呼び出して下さい。一人一人に聞きたいこともあるし、少しは人相も見ておかなきゃア」
「············」
藤三郎の顔には、もう一度薄笑いが浮びましたが、黙って引っ込むと、やがて
第一番には今まで横になっていたという黒木長者の孫右衛門、これは五十左右の
続いて
子供というのは、妾のお仙よりも年上で、これは日本橋に店を持って、手広く
あとは番頭の藤三郎を始め、雇人ばかり、男女取交ぜてざっと十五六人、いずれも慾は深そうですが、土蔵へ穴を開けて、千両箱を三つも盗み出すような人相のは一人もなかったのです。
「これで皆んなでしょうな」
「ヘエ||」
平次の問に、藤三郎が答える下から、
「お梅坊が居ねえよ」
と少し賢くなさそうな権助の声が突抜けます。
「何! お梅||、それは何だ」
平次は早くも聞とがめました。藤三郎が余計な事をと言ったように、目くばせをするのを見て取ったのです。
「何、何でもありゃしません。土蔵の側に寝ているくせに、何にも知らないって言う口振りが変ですから、少し痛い目をみせているだけの事でございます。強情な娘で容易の事では口を利きませんが、念のため、ここへ
照れ隠しともなく、そう言って土蔵の方へ行く藤三郎の後から、
「いや、私が行ってみましょう」
平次はついて行きました。
「あッ、これは」
さすがに平次も驚きました。土蔵のツイ側、ガラクタを入れた物置の
この辺は、一応見たはずの平次ですが、さすがに薄暗い梁の上までは気が付かなかったのでしょう。
引き
「これは一体どうなすったんだ?」
「何でもありゃしません、不断から手癖の悪い娘で、家中で持て余されておりますが、この物置に寝泊りしているんですから、
言うことはシドロ、モドロです。
「これは奉公人かい」
「ヘエ、奉公人みたいなもので」
娘の縄目を解いて、外へ出すと、そこまで
「奉公人じゃねえよ親分、それはお前、お梅坊と言って、今の旦那には
と、遠慮もなく張り上げます。
「黙っておいで、権助、お前なんかの出る幕じゃない」
「まア、そう言ったものさ、ね番頭さん」
それでも権助は、強いて
「ね、番頭さん、あの庭男の言う通りなら、この娘さんは、何にも知っちゃいなさらないよ」
「とおっしゃると」
「私が見たところでは、この娘の顔には、そんな
「ヘエー、銭形の親分は人相を見なさるんですかい」
毒を含んだ言葉、平次は少しムッとしたらしい様子です。
「つかない事を聞くが、お前さんは今朝土蔵へ入る時、御主人と一緒に戸前を開けて入んなさったんだね」
「それがどうしました」
藤三郎は少し突っかかり気味です。
「それじゃ、
「エッ」
「鬢ばかりじゃねえ、襟にも帯にも、よく見るとほんの少しだが乾いた漆喰がこぼれている。土蔵の穴から
「何だと、私の身体に漆喰が付いている?
藤三郎は
「正に一言もねえ||と言いたいが、番頭さん、お前さんの着物の脇に、重い物を持って破れた跡があったり、金具の
「えッ」
「お聞きの通りだ、旦那。奉公人達の部屋を探しても御異存はないでしょうな」
この時はもう庭先へ来ていた平次は藤三郎を差し措いて、主人孫右衛門に話しかけました。
「三千両の金が出さえすれば、どこを探したって構やしません。どうか、存分になすって下さい」
「さア、お許しが出たぞ、八、お前は、この番頭を見張っていろ、俺は中へ入ってこいつの部屋を洗って来る」
と言いながら平次、しばらく立ち淀みました。藤三郎の顔はあまりに平静で、こう言われながらも、何の取り乱したところもなかったのです。
平次はその辺の様子を一と渡り見定めると、孫右衛門を促して奥へ入りました。
しばらく緊張しきった、不安な空気が庭先をこめましたが、ガラッ八が手一杯に睨みを利かせているので、さすがに口をきく者もありません。
ものの
「あッ」
と逃げ腰になる藤三郎、ガラッ八は、
「野郎、逃がすものか」
後ろからむずと組み付きましたが、一つ身体を
「八、俺が代ってやる。お前はその女を押えるんだ」
「神妙にせい」
「親分、ありゃ一体どうしたわけですえ、いつものように、絵解きをしておくんなさい。私には
とガラッ八、道々平次にこうチョッカイを出しております。
その日の昼下がり、後から駆け付けた子分に、藤三郎とお仙を引渡して、二人は悠々と、巣鴨を引揚げる途中だったのです。
「何でもないよ。あの番頭の藤三郎と、妾のお仙が馴れ合って、金蔵へ風穴をあけたまでの話さ。一応は外から泥棒が入ったように仕組んだが、姪のお梅が、日頃から虐待されて物置に寝泊りしていることに気が付いて、もしや気取られたんじゃあるまいかと、梁に吊って俺の眼から隠そうとしたんだ。つまらない細工さ」
「千両箱はどこにありました」
「藤三郎の部屋を探すと言った時、本人は一向平気でいたろう。これは
「ヘエー、そんなものですかねえ。ところで、あとの二つはどうなったでしょう、千両箱は三つ
「どこからか出て来るよ。いずれ藤三郎が隠したに決っているんだ」
「と言ったって親分、ほんのちょいとの間に重い千両箱を三つ隠すのは容易のことじゃありませんぜ」
「||フム、お前は妙な事を言うな||待て待て、これは俺の手落だったかも知れないよ||と、こうすると」
平次は往来の真ん中に立って、すっかり考え込んでしまいました。
「親分、人が見て笑ってますぜ、帰りましょう」
「待て待て、俺の考えようが少し
「弱ったなア、往来に突っ立って眼を白黒にしていると、人様は正気の沙汰とは思いませんよ、親分」
「ガラッ八。もう一度やり直しだ、一緒に来い」
「えッ」
「藤三郎やお仙は
平次は言い捨てて、もう一度巣鴨へサッと引返しました。
黒木長者の屋敷へ帰り着いたのは、
「八、解ったよ」
「ヘエ||、あと二つの千両箱の行方ですか」
「いや、まだそこまではつき留めないが、俺はもう少しで、大変な手違いをするところだった」
「と言うと」
「後学のためだ、その竿を見るがいい。俺は石の地蔵様にばかり気を取られて、この竿に気が付かなかったのだよ」
平次は塀の外の畑の中から、穀物を乾した時使ったらしい一本の棒、||三間ほどある
「この竿の端に千両箱を二つ縛って、一方の端を塀の向うへ越し、向うへ廻って、外から竿の先へ付けた縄を引き、地蔵様を釣り上げたのだ。石の地蔵様の方がいくらか重いから、千両箱は竿ごと引寄せられて、塀の上へ来る理窟だろう」
「ヘエ||考えたね」
「そこを塀の上へ登って、こっちへ千両箱を越さしたんだ、大きな音を立てずに、二つの千両箱は、スルスルと畑の中へ滑り落ちたんだね」
「なる||」
「畑の中には、参詣人の踏み荒した足跡に交って、重い物を置いた、四角な跡や、縄の跡などがあるだろう」
「ヘエ||」
「土塀の上もあの通り少し壊れている」
「すると、泥棒は外から入ったんですね」
「そうだよ」
「藤三郎とお仙は?」
「それが俺をすっかり迷わせたんだ。泥棒は千両箱二つ盗って逃げた後へ、
「見ていたようだね、親分」
「まア、そうでも考えなきゃア、テニハが合わねえ。藤三郎とお仙は、泥棒のおあまりを頂戴して、いずれはここから飛出す時の用意にしたんだろうよ」
「すると、外から入って、二千両盗った泥棒は誰でしょう」
「待ちなよ八、それも追って解る」
平次は顔を挙げて、その辺の地勢から、巣鴨の通りのささやかな家並に眼を移しました。
「この辺に湯屋があるだろうな」
「ありますよ、その畑の中の道を抜けて、広い道に出ようという角が、村の湯屋になってますよ」
「一緒に来てみるか」
「ヘエ||」
妙な緊張が、ガラッ八の背筋を走ります。
「御免よ」
湯屋の裏口からヌッと入った平次、その時はもう薄暗くなって、腰高障子に
「誰だえ」
中からは図太い声。
「番頭さんは居るかい」
「何の用事だ」
と言う声を確かめると、ガラッ八に眼くばせして障子を引開けさせた平次。
「御用ッ」
真っ向から飛込みました。
「あッ何をしやがる」
三助はちょうど湯加減を見ていた
「あッ」
と熱湯の小桶を取落すところへ、踏込んだ平次、有無を言わせず
これが本当に
「どうしたんだ、騒々しいじゃないか」
奥から物音を聞いて顔を出した亭主は、十手の光にへた張ってしまいました。
「御亭主、すまないがこの男の身体を借りて行くよ。しばらくの間お前さんが番頭の代りを勤めて、この事を誰にも気取られないようにして貰いたいが、どうだろう」
「ヘエヘエ」
「それ、番台から流しの合図だ、頼んだよ」
「ヘエ||」
亭主は泣き出しそうな顔をして着物を脱ぐと、それでも昔取った
「野郎ッ、言ってしまえ、何もかもバレてしまったぞ」
「恐れ入りました親分、決して悪気じゃございません、昔恩になった方への義理||」
三助は
「お前に頼んだ相手はどこに居る」
「それは申上げられません、骨が
「よしよし、いい心掛だ。人間はそうなくちゃならねえ」
「ヘエ||」
褒められてるんだか、責められてるんだか、三助にも見当は付きません。
「ところで、そのお前の恩人とか言う方は、もう遠方へズラかったろうな」
「ヘエ||」
「お前だけを残して、飛んでしまったろうと言うことだよ、二千両も持っているんだから、お前なんぞに付き
「とん、とんでもない。そんな薄情な方じゃございません。それに、あの邸にはまだ用事があるはず」
「本当かい、それは?」
「なアに、たぶん用事もあるだろうという話さ、何と言ったって||」
三助は急に口を
その晩
続いてもう一人。
最初のは大人で、後のは少し小柄なところを見ると、たぶん女か子供でしょう。
二人は塀の上で、しばらく息を入れましたが、やがて、先に登った大きい方が、後から登った小さい方の腰へ、綱かなんかを付けている様子で、塀の上へ踏み
これは、思いの外むつかしい作業でしたが、どうやらこうやら無事に済むと、今度は、大きい方が、一丈もあろうと思う塀の上から、猫の子のように軽々と飛降ります。
二人は手を取って、畑道を真っ直ぐに、通りの方へ出ようとすると、
「待て待て」
立ち
「············」
二人は物をも言わず、その右と左を大廻りに、サッと飛び抜けようとしたがいけません。平次は小さい方を追うと見せて、実は大きい方の影へむずと組み付きました。
「神妙にせえ」
「あッ」
必死に争うのを、巧みにあしらって、組み伏せると、どんな合図があったものか、御用の
「親分首尾は」
「ガラッ八、ちょうど好い
「ここにも一人居ますぜ」
「そんな子供は放っておけ」
ガラッ八の差出す提灯に照して見ると、平次の膝に組敷かれたのは、
「おッ、
「あッ、銭形の親分、面目次第もない」
「これは一体どうしたわけだ」
平次は
「手前は
「親分、そう思うのも無理はねえが、これには少し訳があるんだ」
「言ってみな」
四人はいつの間にやら木立の中に入って、枯草の上に、赤い提灯を囲んでしゃがんでおりました。
「銭形の親分に捕まったのは、せめてもの仕合せだ。何を隠しましょう。あっしは、黒木長者の
「何だと? 手前は身分の者の子だとは聞いたが、まさか黒木長者の甥とは知らなかった、それがどうした」
平次の好奇心はさすがに燃え立ちます。
||五位鷺の秀の話というのは、世にありふれた筋で、大した変った事ではありません。父親が
秀吉は、何べんか財産と妹の取戻しを掛合いましたが、両親は勘当を許さずに死んだというのを口実に、何としても引渡してはくれません。
そのうちに、妹のお梅が命にも関わるような目に遭っていると聴いて、矢も楯もたまらず、近所の湯屋に奉公している、昔の召使の男を仲間にして、とんでもない一と芝居を書き、前の晩には、土蔵を破って千両箱を二つ盗み出し、その時は
「こんなわけですよ親分、叔父の孫右衛門が取込んだ
「············」
「二千両は叔父の金じゃなく、それも賭博の元手なんぞにする気は毛頭ありゃしません。親分、妹のこの様子を見てやって下さい。この乞食の子よりも劣った様子をしているのが、黒木長者の姪で、取って十五の、恥ずかし盛りの娘じゃございませんか」
五位鷺の秀は、ガックリ首を垂れて、ほうり落つる涙を払いました。妹のお梅は、提灯の灯から遠く、ぼろをつくねたように
「秀、よく解ったよ。手前がこれをキッカケに真人間に返れば、俺は何にも知らないことにしてやろう。千両箱は多分、湯釜の中で
と平次。
「それも御存じで」
「何もかも解ったよ」
「親分、有難うございます、この御恩は」
「まア、いいやな」
平次はガラッ八を促して、それっきり後ろも見ずに、江戸へ引揚げました。
*
「親分、どうも
「何だ、ガラッ八」
「いきなり湯屋へ飛込んで三助を縛ったのは、どういうわけです」
「相変らずお前は気楽だなア、||地蔵様が毎朝暖められていたんだ。
「ヘエ||」
「あの地蔵様を嗅いでみると全く湯屋の
「なるほどね、何だってまた手数のかかる事をしたんでしょう」
「畑の中の土塀へ寄り付きようがないから、地蔵様を暖めて村の人に一と騒ぎさせ、ドサクサ紛れにあの屋敷の様子を
「ヘエ||」
「青銭や
平次はこう言って、