「親分、近頃は胸のすくような捕物はありませんね」
ガラッ八の八五郎は
「捕物なんかない方がいいよ。近ごろ俺は十手捕縄を返上して、手内職でも始めようかと思っているんだ」
平次は妙に懐疑的でした。江戸一番の捕物の名人と言われているくせに、時々「人を縛らなければならぬ渡世」に愛想の尽きるほど、弱気で
「大層気が弱いんですね。あっしはまた、親分の手から投げ銭が五六十も飛ぶような、胸のすく捕物がないと、こう世の中がつまらなくなるんで||」
「お前は
「そんなことを言ったって、御用聞がなかった日にゃ、世の中は悪い奴がのさ張って始末が悪くなりゃしませんか。医者がなきゃ病気が
「医者と御用聞と一緒にする奴があるかい。医者は病気を
平次の懐疑は果てしもありません。
「江戸中に悪者がなくなったとき、十手捕縄を返上しようじゃありませんか。それまでは手一杯働くんですね、親分」
「石川五右衛門の歌じゃないが、盗人と悪者の種は尽きないよ、||もっとも世の中に病人が一人もなくなって、医者の暮しが立たなくなりゃ別だが」
平次は淋しく笑うのです。
「それまでせっせと縛ることにしましょうよ。そのうちに、銭形平次御宿と書いて
「
無駄な話は際限もありません。ちょうどその時でした。
「八五郎さん、叔母さんよ」
平次の女房お静が、
「ヘエー、叔母さんがここへ来るなんか、変な風の吹き廻しだね。意見でもしそうな顔ですか」
「そんなことわかりませんよ。||お連れがあるようで」
とお静。
「それで安心した。まさか小言をいうのに、助太刀までつれて来るはずはない」
「古い借金取りかも知れないぜ、八。思い出してごらん、叔母さんへ尻を持って行きそうなのはなかったかい」
平次は少し面白くなった様子です。
「脅かしちゃいけませんよ親分。古傷だらけで、そうでなくてさえビクビクものなんだから」
「ハッハッハッ、八にも叔母さんという苦手があるんだから面白い||こっちへ通すがいい。お連れも一緒なら、お勝手からじゃ気の毒だ、ズッと大玄関へ廻って貰うんだ。八は敷台へお出迎えさ、何? もうお勝手から入った? それじゃ勘弁して貰って、||」
平次はさすがに、いずまいを直して
ガラッ八の叔母の
「親分さん、大変なことになりました。お嬢さんのお秀さんが、
お谷婆さんは、何べんも何べんもお辞儀をしながら、後も前もなくこんなことを言うのです。
「さア解らない、||いったい誰が殺されて、どこのお嬢さんが縛られたんだ。少し落着いて、順序を立てて話してくれないか」
平次は苦笑いしながら、婆さんの話の中から筋を引出しました。
お谷婆さんの話はこうなのでした。
けさ起きてみると、四方屋次郎右衛門の亡くなった後添いの連れっ
お皆の部屋は中庭に面した四畳半で、店からもお勝手からも自由に出入りの出来る場所ですが、夜中にそれほどのことがあったことには誰も気が付かず、けさ雨戸が開いているので、始めて大騒ぎになった有様で、お皆の部屋の隣に寝ている先妻の娘のお秀が、日頃仲がよくなかったばかりに、第一番に
「親分さん、なんとかして上げて下さい。お谷さんは私の
八五郎の叔母までが一生懸命口を添えるのです。
「三輪の万七
珍しくも平次は気軽に腰を上げました。
「
と八五郎。
「たいそうな事を言うな」
二人は仕度もそこそこに、お谷婆さんに案内させて車坂に行くことになったのは、もう
「もう少し
道々八五郎は、お谷婆さんの後ろ姿を指さし、平次に
「無駄だよ、それよりは現場を見ることだ」
平次はお谷婆さんの説明で先入心を植付けられるよりは、自分の眼で最初から事件を直視する
車坂の四方屋は
「御免よ」
わざとお谷と別れて、お勝手口からズイと入った平次と八五郎、
「お、銭形の親分、八兄哥もか」
三輪の万七の子分、お
「ちょいと
八五郎は平次を掻き退けるように顔を出します。こう宣戦布告をしておかないと、親分の平次が
「下手人だらけだよ。銭形の親分だって、こいつは驚くぜ」
お神楽の清吉は道を除けました。少し持て余し気味の様子です。
「驚かして貰おうか、||親分、入ってみましょうか」
八五郎はすっかり闘争心を
お勝手にもじもじしているのは、下女のお
「銭形の、とうとう
三輪の万七は苦々しいながらも、少しはホッとした様子でした。事件がむずかしくなって、自分の手ではどうにも裁きようがないと思ってきたのでしょう。
「ひどくこんがらかっているそうじゃないか」
平次は一歩
「下手人と名乗って出たのが三人さ」
万七は大きく
「どれまず仏様を拝んでからにしよう」
形ばかりの台の上に載せた
「フーム」
思わず
喉笛にはまだ匕首を突立てたまま、顔の
「これは?」
平次が取上げて万七に訊くと、
「主人の次郎右衛門の煙草入だよ」
「義理の娘を殺したとでも言うのか」
「本人が白状したんだから、文句はあるめえ。もっとも下手人を買って出たのが三人もあるが||」
「誰と誰だ」
「娘のお秀と、手代の喜三郎さ」
「フーム、それにしても、人を殺すのに煙草入を持って
「俺もそれを考えたんだが」
さすがに三輪の万七も、こんな証拠があるだけに、かえって主人の次郎右衛門が一番疑わしくないような気がするのでした。
「この
「誰のでもないから不思議さ。この家の者はその匕首を見たこともないというんだ」
「してみると、下手人は外から入って来たのかな」
「外から入ったものは、こんな間抜けな足跡なんか残さないよ」
万七の指した中庭を見ると、滅多に陽の当ることのないジメジメした土の上に、大きな下駄の跡が往復はっきり付いているのです。
「庭下駄の跡じゃないか」
「その庭下駄が
「なるほどね」
そう言われると、下手人は家の中の者で、外から
「足跡や雨戸の気のきかない細工を見ると、下手人は間違いもなく家の中のものだが、娘の喉に突っ立っている匕首は、誰も見たことのない品だ」
老巧な万七も、ここまで来て行詰ったところへ、いつでも最後の勝利を持って行かれる銭形の平次が来たのでした。
「とにかく、家中の者に逢ってみようか」
「驚かないようにしてくれ、銭形の。今度は下手人がもう一人くらい殖えているかも知れないぜ」
三輪の万七がこう言ったのが、満更
主人の次郎右衛門以下、少しでも疑われる地位にある者は、奥の主人の部屋に
「あ、銭形の親分さん」
平次の顔を見て、一番先に声を掛けたのは次郎右衛門でした。
「皆んな一緒にしておいちゃ下手人が幾人も出て来るわけだ。八、御主人から順々に一人ずつ連れて来てくれ」
平次は多勢の顔を一と眼見ると、その緊張と不安の底に流れる異常なものを見て取ったらしく、八五郎にこんなことを言い付けて、先刻の死骸をおいた部屋へ一人ずつ呼び出しました。
一番先に連れて来たのは、主人の次郎右衛門||六十前後の
「主人の次郎右衛門さんだね」
「ヘエ||」
「お前さんの煙草入が死骸の
平次は静かに始めました。
「お皆を殺したのは、||何を隠しましょうこの私でございますよ、銭形の親分さん。三輪の親分はお秀が怪しいと言いますが、とんでもないことでございます」
次郎右衛門は
「それならそれとして、お皆を殺さなければならなかったほど、思い詰めたことがあったというのだね」
「あの娘は、||亡くなった私の
「············」
平次も驚きました。死んだお皆に対する次郎右衛門の非難はあまりにも度外れです。
「あんな娘があるものじゃございません。少しばかり
「どうして追い出さなかったんだ」
「幾度も出て行けと申しましたが、病身の私を小馬鹿にして、この家を出て行く気などは毛頭ないばかりでなく、いつの間にやら図々しくなって、ここの身上まで
次郎右衛門は本当にこんなことを心配していた様子です。自分でさえどうすることも出来なかったお皆を憎む心持が言葉の外に
「それじゃ訊くが、あの匕首はどこから出したんだ」
「············」
次郎右衛門はハタと絶句しました。買ったことにしても、出鱈目な店の名を言ったら、平次はそれをすぐ調べるでしょう。
「どうしたんだ」
「昔から私が持っておりました。土蔵の中にしまい込んであったのです」
「それにしちゃ
「············」
次郎右衛門は応えようもありません。
それからもう一つ、四方屋の跡は誰に取らせるのかという問いに対しては、手代の喜三郎は遠縁の者で心掛けも人柄も悪くないし、お秀との仲も好いから二人を
次に呼出して貰ったのは老番頭の平兵衛。
「ヘエー、私は通いで、夜分はここにおりませんから何にも存じませんが||」
といった調子。||商質は賢いが、外のことには一向思いやりも工夫もない典型的な事務家で、五十そこそこの、
それに訊くと、四方屋は万という身上で、主人が情け深い上に、跡取り娘のお秀は申分のないお嬢さんで、殺されたお皆さえいなければ、奉公人たちもどんなに楽をするか判らないといった話、ここでもお皆の評判はさんざんです。
手代の喜三郎は二十三四の、久松型の良い男で、平次の前へ連れ出されると、いきなり、
「銭形の親分さん、お皆を殺したのは、御主人やお嬢さんじゃございません。||この私でございます。どうか縛って下さい、お願いでございます」
そんなことを言って、後ろ手に詰め寄るといった調子です。
何を訊いても、すっかり興奮して、
「それほどのことを誰にも言わなかったのか」
平次は訊き返しました。
「いえ、御主人にも、番頭さんにも申しました。でも、お皆はこの家のことを一人で取仕切って、誰の手にもおえません」
この世の中には、そんな途方もない女があることを、平次は想像もしたことはなかったのです。
「お前が殺したというなら、それもよかろうが、||あの匕首はどこから手に入れたんだ」
「昔から持っておりました」
「
「
「
「蝋塗りで」
「寸法は」
「八寸||五分もありましょうか」
「みんな違っているよ。死骸の喉に突っ立った匕首などは、素人の眼で本当に見極めが付くものじゃない」
「でも私が殺したに間違いはございません」
「よしよし」
平次は少し持て余し気味です。
つづいて、娘のお秀に逢ってみました。十九の
「お前も
平次は
「本当に、私が殺しました。親分さん」
「よしよし、殺したら殺したとして、それほどお皆が憎かったのか」
「ええ、お父様を叱り飛ばしたり、やり込めたり、私や喜三郎をいじめたり」
そう言って平次を見上げる眼は涙を含んでおりました。継母の連れっ子に悩まされ抜いたお秀は、自分を下手人にする証拠を挙げる気でもなければ、こんなことを言えそうな人柄ではありません。
「もうよい、||お前さんは人を殺せる柄じゃない」
「でも、お父様や、喜三郎さんだって人などを殺すような、そんな恐ろしい人達じゃありません」
お秀はとうとう泣き出したのです。
それをなだめて引退らせると、つづいて自分から進んで、
「銭形の親分、御苦労で」
三十二三、色の浅黒い、少し態度に誇張はありますが、立派な男前でした。
「寺本さんで」
「ここの居候だよ、||この辺は
そんなことを、少し重い口調で話すのです。
「で、あっしに御用とおっしゃるのは?」
平次はこの浪人者の真意を測り兼ねました。
「俺はまさか、下手人だと名乗る気はない。||名乗っても構わないが、あいにく昨夜は山下の馴染の家で宵から飲んですっかり
寺本山平は妙なところへ笑うのです。
「で?」
「銭形の親分ともあろうものが、こんなところに気が付かないはずもあるまいが、中庭の下駄の跡をもう一度よく調べてみちゃどうだろう。あれは大の男にしては、土の柔かいところを見ると恐ろしく浅い。それから、足跡の重なり具合で、内から出て、外から入ったに違いないが、恐ろしく内輪に歩いている。あんな歩きようをするのは女だ」
この浪人者は、柄に似気なく行届いた観察眼を持っております。
「で?」
平次は次を
「それからもう一つ、殺されたお皆はタチの悪い女で、店中の者は皆んな
「有難うございました。お蔭で本当の下手人の当りも付くでしょう。まだ外にお心当りのことがあったら、遠慮なくおっしゃって下さい。岡っ引を稼業にしていても、なかなかそこまでは目が届くものじゃございません」
「いや、そう褒められると
寺本山平はカラカラと笑って逃げ出すようにそこを去りました。
その後ろ姿を見送って、
「八」
「ヘエ||」
平次は八五郎を小手招ぎしました。
「どうだ、驚いたろう。素人衆にも、あんなのがいるぜ」
「いよいよ十手捕縄返上したくなりますよ、親分」
八五郎は二つ三つ首を
「足跡はあの寺本さんの言う通り、内から出て木戸まで行って帰ったのだ。往ったのと来たのが判れば、ひどい内輪もよく判る」
平次は中庭の足跡を指さします。
「庭石の
「それを今俺も考えているんだ。木戸まで踏石が七つ、よくついた石苔が
「外の曲者を入れたんじゃありませんか」
「それも考えられるが、||内の者が庭に足跡を残して、外から来た者が庭石の上を拾って歩くのはおかしいじゃないか、||昨夜はお月様があったかい」
「四日ですよ」
「まさか
平次はすっかり考え込んでしまいました。
「お皆に怨みのある人間を捜しましょうか」
「いや、それより、ゆうべ誰と誰が一緒だったか、念入りに訊き出してくれ。ここへ忍んで来て、お皆を殺してそっと帰れるのは誰と誰だか」
「そんなことならわけはありません」
「あんまり
「ヘエ||」
ガラッ八は新しい仕事を持って庭の方へ飛びました。
「親分、大変ですよ」
「なんだ八」
中庭へ降りて木戸まで行った平次を、後ろから八五郎が呼び戻しました。
「三輪の親分がお秀を縛ってしまいましたよ」
「えッ」
「あの浪人者の話をみんな聴いて、下手人が家の中の者で女と決ったなら、お秀の外にはない。お秀は喜三郎を取られそうになって、ひどくお皆を怨んでいると判ったんで||」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「ね、親分。あの娘は人なんか殺せる柄じゃないって、親分も言ったでしょう」
「言った。が、三輪の親分はそんなことじゃお秀を勘弁しないだろう。こいつは弱ったな、八」
「なんとかなりませんかね」
「下手人が家の中の女ということになればお秀の外にない、||余計なことを聴かせてしまったな」
平次もさすがに困ってしまいました。主人次郎右衛門や奉公人たちの立ち騒ぐ中を、三輪の万七とお神楽の清吉が、得々としてお秀を縛って行くのを、どうしても
「親分さん、まだ、家の中には女がいますよ」
「あ、驚いた。婆やさん、何を言うんだ」
不意に
「親分さん、あの女を殺したのは、この私ですよ。||お皆の畜生を殺したのは、私に違いありません。早く、早く縛って、お嬢さんを助けて下さい。あんな神様のようなお嬢さんが、虫一匹だって殺すものですか」
「何を言うんだ、婆やさん」
平次は半信半疑の心持で、お谷婆さんの取乱した姿を眺めました。
「さア大変、とうとう四人目の下手人だ」
ガラッ八は少しばかり面白そうです。
が、お谷婆さんはそれどころではありません。
「親分さん、私を縛って下さい。庭下駄を履いて、足跡をつけたのも、雨戸を開けておいたのも、この私に間違いはございません。私だって、まだ死にたいわけじゃなかったんですもの。鬼のようなお皆を殺して、
平次が容易に取合わないと見るとお谷婆さんは、お秀を引立てて行く三輪の万七に
「匕首はどこから出したんだ」
平次は静かに訊ねました。
「お皆が持っていたんです。あの女は何をするか判りません。ゆうべ自分の
「············」
黙って先を促す平次。
「匕首を枕の下へ入れて寝るところまで見極めると、私は矢も楯もたまりませんでした。あの女はきっとお嬢さんを殺して、喜三郎を手に入れ、四方屋の身上を狙うに決っております。私は、私はとうとう、夜中に忍び込んで、大変なことをしてしまいました」
「············」
平次も八五郎も、万七も清吉も、次郎右衛門もお秀も、あまりのことに仰天して、しばらくは口をきく者もありません。
「私の孫のお玉は、あの女に殺されました。今年の春、旦那様にお願い申上げて、両親に別れた、たった一人の孫のお玉を、ここへ
十二になるお玉が、どんなにお皆に
弱い者が、どうかすると犬や猫を無闇に虐待するように、お皆の
お谷婆さんは、ほうり落ちる涙を払いもあえずに続けました。
「とうとう、自分の
お谷婆さんはとうとう涙で絶句してしまいました。たった一人の孫娘を
「雪の下の大きい葉を取る
お谷婆さんは続けました。
「お皆の畜生は誰も知らずにいるのに、自分だけ心得ていて、しばらく経って言うんですもの、助かりっこはありません。引揚げた時はもう、何もかもおしまい。||あんなにお玉を邪魔にしていたんですもの、間違って落ちたというのは表向きで、本当は自分が突き落したのかも解りません。誰も見ていたわけじゃなし、それくらいのことはやり兼ねない女でした」
「············」
あまり急激な事件の発展に、平次も万七もしばらくは顔を見合せるばかりです。
「さア、私を縛って下さい。||最初から私が殺したと言ってしまえば旦那様やお嬢さんに御迷惑をかけなかったのに、年寄りのくせに、まさか死ぬ気にはなれなかったばかりに、とんだ人騒がせをしました。今となってはもう何にも思い残すことはありません。お嬢さん、旦那様、それでは||」
お谷は縁側の板敷に、ガバと身を投げて大泣きに泣くのです。
「婆や、お前はまア、||本当かい」
万七の手から放たれて、お秀は婆やのところへ飛んで来ました。
「お嬢さん、||とんでもないことをしてしまいました。今となってはみんな嘘にしたい、これが夢だったら、どんなに有難いでしょう。でも、そんなわけには参りません。私は人殺し、||恐ろしい人殺し婆アになってしまいました。触ったりしちゃいけません。それじゃお嬢さん、もうお目にかかる折もないでしょう。お身体に気をつけて、お丈夫で暮して下さい」
「婆や、お前に人なんか殺せるはずはない。それはなにかの間違いだろう。婆や、婆や、行っちゃいや、いや」
お秀は婆やに
三輪の万七は際限もないと思ったか、お神楽の清吉に眼配せをしました。
「えッ、立てッ」
清吉の十手はキラリとお谷婆さんの肩のあたりを打ちます。
「親分」
「八」
「やはりあのお谷婆さんが下手人ですかね」
二人はしばらく経ってようやく我に返りました。万七と清吉はお谷婆さんに縄打って引立てた後、次郎右衛門はじめ奉公人たち一同、ただ気抜けたように
「俺には判らないことばかりだ。八、気の毒だが
平次はそっと囁くと、八五郎と意味の深い眼配せを交して別れ、自分だけ一人、もういちどお皆の死骸をおいてある部屋に帰りました。
死骸に
これほどの傷にあまり血が流れていないのも不思議ですが、平次はそれよりも重大なことを発見したらしく、何やらうなずいて、静かに四方屋を引取ったのは、もう日が暮れてからでした。
その晩、八五郎が帰って来たのは
「親分、大したこともありませんよ」
あまり
「夜中にあの部屋へ人知れずはいれたのは、誰と誰だ」
と平次。
「主人の次郎右衛門と、娘のお秀と、婆やのお谷と、手代の喜三郎と、それっきりですよ」
「フーム」
「番頭の平兵衛は通いだし、浪人の寺本山平は離屋に寝ているし、
「よしよし、そんなことでよかろう。ところで寺本山平は宵のうちから離屋へ行くのか」
「店が閉ってから、大抵
「そうかも知れない、ところでお皆と関係のあった男は?」
「幾人あったかわからないが、近いところじゃ寺本山平||」
「なんだと」
「あ、びっくりした。あっしのせいじゃありませんよ、親分」
「こいつがお前のせいだったら大変だ。来いッ、八」
「どこへ行くんで」
「どこだか判るものか。とにかく、鳥が飛んだ後じゃお谷婆さんの命を助けようはねエ」
「お谷婆さんを助けるんですって、親分」
今度はガラッ八の方が驚きました。
「お谷婆さんが何と言おうと、お皆を殺した人間は他にあるんだ。||お谷婆さんを下手人にしちゃ第一お前の叔母さんに済むめエ」
「違いねエ。どこへ行って何をやらかしゃいいんで? 親分」
「寺本山平が昨夜行った家を捜すんだ」
「そんなら判ってますよ」
「どこだ」
「上野山下の闇がり横丁のお
「何だいそれは?」
「あんまり筋の良い家じゃありませんよ」
「行ってみよう」
平次とガラッ八がお余乃の家というのに行ったのは、もう
「寝てしまいましたね」
「構わねえから、存分に叩け」
「ヘエ」
ガラッ八が
「ハイハイ、ただ今、どなたですか」
寝入りばならしい女の声が、戸を開け兼ねて
「御用だ、早く開けろ」
「ハ、ハイ、今すぐ開けますよ」
ガラガラと開けて、寝乱れた姿を出したお余乃の前へ、八五郎の十手はピカリと光りました。
「御用だぞ、神妙にせい」
この時ほど銭形平次は御用風を吹かせたことはありません。寝巻姿のお余乃と下女のお六を二人並べて、
「ゆうべ寺本山平は何
こんな時には、八五郎の方が遥かに睨みがききます。
お余乃は一応も二応も渋りましたが、下女のお六は、二つ三つどやし付けられると、他愛もなくベラベラとしゃべってしまいました。
それによると、宵から来たはずの寺本山平は、実は夜中過ぎにやって来て、したたかに飲んで寝てしまったが、
「万一、人に訊かれたら、宵のうちに来たと言え」
と半分脅かすように頼んで、お六に大枚一両もくれたというのです。
「八、それで何もかも判った。女二人は生き証人だから逃げ隠れしないように、町役人に預けて、大急ぎで車坂へ行こう」
「親分」
「明日なんて言っちゃいられない」
二人はお余乃とお六の始末をすると、そこから一と丁場の車坂へ駆け付けます。
「ちょいと、寺本さん、お顔を拝借したいことがありますが」
八五郎が
「誰だ、今頃。用事があるなら明日にせい」
少し機嫌の悪い声が中から応じます。
「そうおっしゃらずに、ちょいとですが、お願い申します」
「うるさい奴だな」
さっと内から開けた戸。と同時に、
「わッ、冗談じゃねエ」
「御用ッ」
平次の手からサッと銭が飛びました。
「野郎、器用なことをッ」
銭は刃に鳴って、寺本山平は抜刀を持ったまま、八五郎の頭を越して外に飛出します。
*
何もかも済んだのは
少し
「どうして下手人がお谷婆さんじゃないと解ったんですか、親分」
「かんだよ、||それに、死骸の血の出ようの少ないのも気になったから、傷口を洗ってよく見ると、喉を指で押した跡があるんだ」
「ヘエ」
「死骸を俯向きにして見ると、首筋にも指の跡がある。||匕首が突っ立っているから、うっかり
「へ」
「そこへお谷婆さんが忍び込んで来て、枕の下から匕首を引出して死んだとは知らずに、お皆の喉へ突っ立てた。||いや、喉へ突っ立てる
「なるほどね」
「翌る日になると、お秀へ疑いが行きそうになったから、びっくりして俺のところへ飛んで来た」
「やはり命が惜しかったが、お秀も助けたかったんですね」
「が、お秀がどうしても縛られることになったので、夢中になって白状してしまったのさ」
「で、下手人が寺本山平と判ったのは?」
「あの下手人は男で、それも力の強い者と判ると寺本山平の外にはない。あの浪人者が中庭の下駄の跡で恐ろしく智恵の走ることを言ったが、あれは疑いをお谷婆さんへ向ける心算だったのさ。あんなことを言うから、かえってこの野郎は臭いと思わせる」
「フーム」
「寺本山平は外へ出るような顔をして実は宵のうちから家の中に隠れていたんだろう。夜中にお皆の部屋へ行って殺したところへ、不意にお谷婆さんが入って来たのさ」
「ヘエー」
「たぶん驚いたことだろうが、横着者だからどこかへ姿を隠してお谷婆さんのすることを見ていると、婆さんはお皆の枕の下から匕首を引出し、面喰らって枕に突っ立てて飛出してしまった。枕に刃物で突いた跡があるから、あとで見るがいい。そこで寺本山平はその匕首を死骸の喉に刺し直して庭石伝いに逃げ出したのさ。あれは、寺本山平が、手当り次第に
「
「太えには相違ないが、さんざん寺本山平と遊んで、近頃は喜三郎に取入ろうとしていたお皆の方も悪いよ。あのまま放っておいたら、お秀をどうかして、四方屋を乗取ったかも知れない。女の押しの強いのほど恐ろしいものはないな、八」
「あっしが意見されているようですね」
「その気で付き合うがいい」
二人はなんとはなしに笑いました。
「悪い者ばかり居るとは限らない||と親分が言ったのは本当ですね。危うくお谷婆さんが
「だから、御用聞は十手捕縄をたよりすぎちゃならないのさ。とんだ罪を作るから」
秋の朝の風は