「八、厄介なことになったぜ」
銭形の平次は八丁堀の組屋敷から帰って来ると、鼻の下を長くして待っている八五郎に、いきなりこんなことを言うのです。
「何かお小言ですかえ、親分」
「それならいいが、笹野の旦那が折入っての頼みというのは、||近ごろ御府内を荒らし廻る
「へッ、ヘエ||」
ガラッ八の八五郎さすがに
「笹野の旦那はこうおっしゃるのだよ||この夏あたりから
「ヘエ||大したことになりましたね、親分」
それは全く大したことでした。
この夏あたりから始まった辻斬騒ぎ、最初は新刀の切れ味を試す
旗本の次男三男、諸藩のお留守居、腕に覚えの浪人者など、辻斬退治に出かける向きもありましたが、相手はそれに輪をかけた
秋に入ると、辻斬の狂暴さは一段と拍車をかけました。最初は武家ばかり狙いましたが、後には百姓町人の見境がなくなり、ついには斬った死骸の懐中を
「どうだ八、辻斬退治をする気はないか。こいつは十手捕縄の晴れだぜ。腕自慢のお武家が
平次も緊張しきっております。
「付合いが悪いようだが、あの辻斬野郎を相手にするくらいなら、あっしは大江山の鬼退治に繰り出しますよ。||素知らぬ顔をして、
「何をつまらねエ」
「そいつは強い武者修行か何かに頼もうじゃありませんか。岩見重太郎てな豪勢なのがおりますよ」
「
「ヘエ||」
「怖きゃ止すがいい」
「へッ」
「八五郎が腰を抜かしゃ、俺が一人でやるだけのことだ。笹野の旦那のお言葉がなくたって、町人百姓の差別なく、ザクザク斬って歩く野郎を、放っちゃおけめえ。今まで無事でいたのは、悪運が強かったんだ」
平次はいつになく
「親分」
ガラッ八は
「なんだ?」
「あっしがいつ腰を抜かしました。え? 親分。あっしはいつ怖いなんて言いました。辻斬や
「たいそう強くなったじゃないか、八。
「そりゃ物の
「あわてるなよ、八。お前の強いのはよく解っているが、まだ辻斬や
「何をやらかしゃいいんで、親分」
ガラッ八は
「待ちなよ。差当り
「············」
「品物は一つも
「············」
「それにしても凄い腕だ。腕自慢の
「三河町に町道場を開いている酒村草之進というヤットウの先生が、お弟子と二人で辻斬退治に出かけ、柳原で出会頭に肩先を少し斬られ、面目なくて
「それほどの人間を相手にするんだ。止した方が無事だぜ、八」
「冗談でしょう、親分」
「もういい。俺はお前の果し眼の方がよっぽど怖いよ」
「へッ」
「近頃は辻斬の噂に
「あっしも行きますよ、親分」
八五郎は無暗に乗り出します。
銭形平次とガラッ八は、その晩から辻斬釣りに出かけました。
二人とも夜講か参会の帰りの
「八、今晩も
「ヘエ||」
八五郎はぞっと肩を縮めます。
「怖いかい、八」
「ジョ、冗談でしょう。三度の飯も、
「急に強くなりゃがったな、八。||何だ、襟巻なんか出して、そんな時候じゃあるめえ」
「この襟巻に
「どれ、見せな。おやおや鉄の火箸を六本も縫い込んでるじゃないか」
「まさか
「なるほどね、筋金入りの襟巻を巻いていると、首を斬られる心配はないというわけだな。そうと知ったら俺も釜でも冠って来るんだったよ、フ、フ、フ」
「なんとでも言うがいい。相手は恐ろしくチョッカイの早い野郎だ。気をつけて下さいよ、親分」
「それじゃ頼むぜ、八」
二人は右と左に別れました。
八五郎は平次に別れて、柳原土手に差しかかりました。夜鷹と
「畜生
ガラッ八は大舌打を一つ。
足ばかりが無暗に早くなります。役目は役目ながら、少しでも早く灯のある両国へ出たい本能にさいなまれていたのでしょう。
「おや?」
ガラッ八はギョッとして立止まりました。夜気を圧する凄まじい気合と共に、人の悲鳴が聞えたように思ったのです。
臆病風は一ぺんに吹飛んでしまいました。猛烈な闘争心が、
「野郎ッ」
闇を
猛烈な格闘が始まりました。
「八、捕ったか」
後ろから声を掛けたのは、心配して引返して来た平次でした。
「親分、今縛り上げますよ。弱い辻斬野郎で」
八五郎はすっかり良い心持です。
「待ちな、俺は
平次は浅草橋の番所まで飛んで行くと、ありたけの
「親分、変な野郎ですよ。縛り上げるといきなり泣き出して、五十両やるから
「どうせそんなことだろう。どれ面を見せろ」
平次の差出した提灯に照らされたのは、ねんねこ
「お前は音松じゃないか」
この顔はガラッ八の方がよく知っております。飯田町に住んでいるゴミのような安やくざ音松。これが江戸中を騒がした、凄い辻斬の本人とはどうしても思われません。
「あっしじゃありませんよ、親分」
音松は本当に泣き出しそうでした。
その間に平次は
「凄い手際だな、八」
平次は八五郎を顧みました。
重ね着をした人間を、たった一と太刀で、これだけ斬り下げるのは、
「この野郎でしょうか、親分」
「気の毒だが違ったよ」
「ヘエ||」
「せっかくの手柄をフイにするようだが、匕首でこれだけ斬れるわけはない」
なるほどそういえば、音松の持っていたのは匕首が
「ヘエ||」
八五郎、少し拍子抜けがしました。
「その野郎の懐中を捜ってみるがいい」
「············」
縛られた音松の懐中へ手を入れると中に呑んだのはよくふくらんだ紙入が一つ。逆さまにすると、バラバラと二三十枚の小判が散ります。
音松を責めるまでもなく、事情は至って簡単に分りました。音松はやはりただの安やくざで、
「あっしも一度あの辻斬にやられましたよ。駿河台で摺れ違いざまピカリと来たとき、捨石に
「馬鹿野郎ッ」
ガラッ八の
「八、黙って聴け。||ところで、その辻斬の風体人相はどうだ」
平次はガラッ八をたしなめて、肝腎の問いを持出します。
「それが、少しも解らないから不思議じゃありませんか」
「背が高いとか、低いとか、年を取っているとか、若いとか」
「高いような低いような、若いような年を取っているような、||何しろ真っ暗なときでなきゃ出て来ません」
音松の話は頼りないものです。
「それでは後を跟ける見当もつくまい」
「勘でわかりますよ。||それから||」
「それから?」
「
「
さやさやと衣摺れの音が聞えるのは、
「親分」
ガラッ八も一脈の不安に襲われます。かつて三代将軍家光が夜な夜な辻斬に出て、大久保彦左衛門にたしなめられたという伝説的な話さえ伝わっております。江戸の街の夜の秘密は何を包んでいるか分りません。ことによれば、それは大名の世子、大旗本の次男三男といった、縛ることもどうすることも出来ない人間でないと誰が保証するでしょう。
「辻斬はたった一人だな」
「ヘエ||」
「何しろ容易ならぬことだ。今晩のことは誰にも聞かしちゃならねえ。八、俺は八丁堀へ行って来る。町役人に死骸を始末して貰って、縄付は番所へ預けておくんだ。||もう辻斬なんか来る気づかいはない。一つ残らず灯を消してそっと片付けるがいい。世間に知れちゃ悪い」
平次は言い残して八丁堀へ駆けました。
それからの手段は至って簡単でした。やくざの音松に案内さして、辻斬の出て来るという、駿河台の闇に網を張りさえすればよかったのです。
「大丈夫ここに違いはないな、音松」
「ヘエ||」
ガラッ八は中腰になって、縄付の耳に
「俺たちを
少し退屈したらしいガラッ八の声は、次第に
「シッ、黙っていろ」
平次は二人を
「············」
音松はゴクリと
「御用ッ」
パッと飛付いた平次、もう相手の凄さなど勘定に入れてはおられません。
「あッ」
右の腕を十手で打たれて、曲者はたじろぎました。
「神妙にせいッ」
後ろからむずと組みついたのはガラッ八です。一と
「八、手荒なことをするな。人違いのようだ」
「ヘエ?」
「灯のあるところへ行こう」
わざと御用の
「親分、女ですぜ」
「分っているよ」
香油と
「夜中、男姿でどこへ行くんだ。わけを聴こうか、お嬢さん」
「············」
女は俯向いたっきり、物を言おうともしません。
「あっしは町方の御用を勤めるものだ。怪しい風体のものは、身分と行先を訊かなきゃならない」
「············」
「お嬢さん、身分と、用向きを言ってもらいましょうか」
武家風のしかも余程の身分らしい相手に遠慮して、平次の態度は丁寧でした。
「申し上げられません」
女は顔をあげてはっきり言いきります。少しうるんだ大きな眼、ほの白い歯、豊かな頬。||平次が日頃付き合ってる種類の人間ではなかったのです。
「どうあっても」
「ハイ」
「言わなきゃ気の毒だが縄付のまま番所へ引いて行かなきゃならない」
「いたし方もないことです。||でも、女が夜中に街を歩いてはいけないでしょうか」
「え?」
「用心のために男姿になっても御法に
平次は黙り込んでしまいました。このか弱い娘に手もなくやり込められてしまったのです。
「いかにも
「では」
平次が下手に出ると、理窟を言ったのが
「しばらく、||そのお腰の物を拝見いたしたい」
娘は黙って両刀を差出しました。
平次は受取って、流儀も作法もなく、灯先に
「親分、あの娘を逃がしてやっていいんですか」
ガラッ八は
「いいってことよ。あんな弱い辻斬があるものか」
「でも変ですぜ」
「若い娘を縛るのを大嫌いなお前が、あの娘に限って縛りたいと言うのかえ」
「そんなつもりじゃありませんがね」
平次とガラッ八は、縄付の音松を引立てて、昌平橋の方へ下りました。
とある街角を曲って、暗いところへ出ると、
「えッ」
不意に闇の中から平次に斬付けたものがあります。
「何をッ」
かわして、平次の十手は鳴りました。曲者の刃と、二つ三つ、闇の中に噛み合ったのです。
「親分」
ガラッ八が猛然として飛びつくのを、
「八、手を引けっ」
平次は助太刀を止めて、ツ、ツ、ツと寄ると、曲者の得物を叩き落して、ヒラリと飛び退きました。
曲者はあわてて刀を拾いましたが、平次の鮮やかな十手に驚いたものか、二度目の襲撃は断念して悠然と背を見せます。
「親分」
ガラッ八の腕は鳴るのでした。
「八、止さないか」
「だって」
「そっと後を
「············」
大きくうなずくと、ガラッ八はヒタヒタと曲者の後を追いました。
その報告を平次が受取ったのは、翌る日の朝でした。
「親分、お早う」
「昨夜は御苦労だったな、八」
平次は朝の膳を押しやって、上機嫌で八五郎を迎えるのでした。
「あの辻斬野郎の身許は分りましたよ」
「そうだろうとも、逃げも隠れもする相手じゃなかったようだ」
「甲賀町の御家人、岩井銀之助様、二十五の辰年だ。腕は大したものじゃねエが、男がよくて、人柄も立派だ」
「それが昨夜斬りかけた相手か」
「そうですよ。禄高百五十石、何不足のねえ身分で、辻斬とは道楽すぎるじゃありませんか」
「あれは辻斬の本人じゃないよ、八」
「ヘエ||」
平次はけろりとしてそんなことを言うのです。
「いきなり親分へ斬りかけても?」
「辻斬なら御用聞と知って斬りかけるはずはない。お前は現に縄付を引いていたじゃないか」
「ヘエ||」
「それに、あんな腕じゃ三河町の酒村草之進を夜逃げさしたり、腕自慢の御家人を五人まで手玉に取るわけに行くまい」
「ヘエ?」
「第一、昨夜の曲者は
平次はそんなことまで見抜いているのでした。
「それじゃ、真物の辻斬野郎は誰でしょう」
「分らないよ」
「ヘエ||」
「もっとも見当だけはついている。岩井銀之助の近い親類か、無二の友達で、三つ
「そんなことならわけはありませんよ」
「見付かったら、念入りに調べて来るんだぜ。いいか」
ガラッ八はもう飛び出しておりました。
それから半日。
「親分、分った」
ガラッ八が帰ったのはもう夕方でした。
「駿河台鈴木町の
「あ、親分、人が悪いぜ。知ってるくせに」
「いや、お旗本武鑑で見たんだ。||でどんなことが分った」
「北条出雲様は去年亡くなったことは親分も御存じあるめえ」
「そいつは知らなかった。で、跡取りは?」
「北条
「それから」
「お妹は
「で||?」
「その萩野という娘と、甲賀町の御家人岩井銀之助が、
「お嬢さんを見たのか」
「見られるわけはありませんよ。半日や一日頑張ったって」
「見るとびっくりするよ。||まあいい。それで大方分ったが、三千二百石と百五十石の縁組は少し不釣合じゃないか」
平次の注意は細かいところまで行届きます。
「北条家と岩井家は縁続きなんだそうですよ。それに、岩井銀之助というのがあの通りの男だから、三千二百石のお姫様が一生懸命なんだそうで||」
「まアいい。||それで大方見当はついたが||」
「辻斬野郎はやはりあの岩井銀之助でしょうか? それとも?」
「相手が悪いな、八。三千二百石の殿様じゃ
「ヘエ||」
平次は北条左母次郎に眼をつけた様子です。が、町方の御用聞では、この三千二百石取りの曲者をどうすることもできません。
それから十日あまり、ともかくも江戸の夜は無事に過ぎました。が、月の出が遅くなって、宵闇が濃くなると、冷酷無残な辻斬がまたも活動を始めたのです。
旗本北条左母次郎、祖先の手柄で、三千二百石の大禄を
最初は
妹の萩野は、兄の気違いじみた病癖を知って、命を投げ出す覚悟で
近頃は町方御用聞が活動を始め、捕物の名人と言われる銭形平次が乗り出したことが、萩野にとっては我慢のならない恐怖でした。が、兄の左母次郎は自分の腕に信頼しきって、平次ごときは眼中にありません。
その晩もとうとう、一刀を
駿河台を降りて、九段の方へ||狭い路地を抜けると、向うからスタスタとやって来る、一人の武家がありました。
覆面、黒装束、両刀を少し
「え||ッ」
摺れ違いざま、例の一刀両断と思う小手へ、どこから
「あッ」
北条左母次郎思わず気合を
摺れ違って、二三歩後ろの方へ、スタスタと行く相手へ、追い討ちに一と太刀、
「え||ッ」
存分に浴びせるはずの手は、思わず宙に釘付けになりました。何やら闇を縫って飛んで来た物が、したたかに、左母次郎の振りかぶった
「御用ッ」
銭形平次です。曲者||北条左母次郎と、斬りかけられた武士との間に立って、高々と右手が挙がりました。得意の投げ銭が、二度まで、曲者の襲撃を
早くも形勢を察した左母次郎は、物をも言わず、猛然と平次に斬ってかかりました。
「御用ッ、神妙にせい」
十手は火花を吐きます。二合、三合、猛烈な襲撃にたまり兼ねて、平次は辛くも飛び退きました。
距離さえ出来れば、得意の投げ銭が物をいいます。
「御用だぞッ」
三つ、五つ、八つ、平次の手から投り出される青銭は、左母次郎の眉間へ、唇へ、
それは実に恐ろしい相手でした。
そのうえ、一度は逃げた黒装束の武家が、いつの間に戻って来たか、左母次郎が危なくなると、平次の後ろから
「八」
平次はとうとう怒鳴りました。
「応ッ」
どこからともなく八五郎の声が応ずると、それを合図に物の蔭、町家の
平次は先の先まで見抜いて、この辻斬病を袋の中に追い込んだのでしょう。
「ウ||ム」
北条左母次郎も、事態を察しました。これだけの人数を斬り抜けることは、人間業ではできそうもありません。
「御用」
「御用だぞッ」
「神妙にせい」
四方に迫る御用の声の中に、平次の声は
「恥を知らぬか、北条左母次郎。||妹御、萩野様は、
平次が指さす方、
「||岩井銀之助様は、非道のその方に代って、縛られようとしたことさえあるぞ。人の心の、こんなにも温かく美しい中に、その方の曲りひねくれた根性は何としたことだ。恥しいとは思わぬか」
「············」
「それとも縄打って、龍の口へ突き出そうか」
「············」
「十幾人の
振りかぶった左母次郎の刃の下に、銭形平次の声は
「萩野」
曲者は一と声、純情の妹に声を掛けると、次の瞬間、振りかぶった刀を降ろして自分の腹に突っ立てておりました。
「兄上」
飛びつく男姿の萩野。
「妹、許せよ」
キリキリと引廻す刃に、次第に死の色が曲者の頬に濃くなります。四方を照らす幾十とも知れぬ提灯。その灯の洪水の中から覗く
*
「驚いたぜ、親分。こんな捕物は初めてだ」
事件がその晩のうちに落着して、八丁堀の笹野新三郎に報告して帰ると、ガラッ八は平次を迎えて好奇心にハチきれそうな質問を浴びせるのでした。
「俺だって初めてだよ」
「あの北条左母次郎というのが、何が面白くてあんなに人を斬ったんでしょう」
「腕が出来て、心が練れないからだよ」
平次は悟ったことを言います。
「あっしなんざ、腕はできないが、その代り心が練れているから無暗に人なんか斬る気にならない」
「まア、その気でいるがいい。||辻斬なんてとんでもない道楽さ。人を虫ケラのように思わなきゃできないことだ」
「ところで、どうして北条左母次郎と分ったんです」
「理窟じゃない、勘だよ。
「岩井銀之助は?」
「それと感付いて、萩野の後を
「武家のすることはいちいち変っているんだね。で、後はどうなるでしょう」
「そいつは分らない。が、あんなに多勢の人を
平次は何もかも
事実は全くその通りで、北条家は
「武家の騒動は真っ平だ。大江山の鬼退治の方がまだしも面白かろうよ、なア八」
平次はそう言ってカラカラと笑うのでした。