三河町一丁目の
集まった子分は三十八人、店から奥へ
親分の鐘五郎は、しばらくこの有様を眺めておりましたが、あまり強くない酒を過したのと、このうえ頑張っていると、子分どもの感興を妨げることに気がついて、上座の子分二三人に目顔で合図をしてそっと
子分の勘次と六助は、早くも気がついて、親分の後に従いました。
「いいよ、休むのは独りの方が気楽だ。||お前たちの姿が見えなくなったら、後が淋しかろう。帰ってゆっくり飲み直すがいい」
薄暗い廊下の端っこ||自分の部屋の入口に立って、鐘五郎は手を振りました。鬼の鐘五郎と言われた酷薄無残な男ですが満ち足りた今宵ばかりは、さすがに
「それじゃあんまり」
「いいってことよ、みんなの気の付かないうちに帰ってくれ」
「それじゃ、親分」
「あとを頼むよ」
「お休みなさいまし」
勘次と六助は、親分の鐘五郎が唐紙を開けて自分の部屋に入るのを見定めて、もとの酒宴の席に帰ったのです。それがちょうど
「
勘次は大きく舌打ちをしました。もとは飯田町の
「宵から息もつかずに吹いているよ。どうせ臆病馬吉の芸当だから、糸に乗るような
「||おや、今晩はいつもよりうめえようだが||」
「うまくたって、女を
「
「ハッハッハッ」
二人は顔見合せて笑いながら、もとの乱酒の席に還りました。ドッ、ドッと波打つ馬鹿騒ぎの間を縫って、ひょぐるような尺八の調べが、狭い庭を隔てた隣の長屋から、小止みもなく響いて来るのです。
それから
「親分、お床を敷きましょう」
ひょいと覗くと仰天しました。
「あッ、た、大変ッ。誰かッ、誰か来て下さいッ」
ヘタヘタと敷居際に腰を抜かしたのも無理はありません。親分の溝口屋鐘五郎は、八畳の部屋一パイに浸す血潮の中に
騒ぎは一瞬にして宴楽の席に水をブッ掛けました。
「何だ何だ」
「何を騒ぐんだ」
ドカドカ
その間に頭立った子分は、血潮の中の鐘五郎を抱き起しました。傷はたった一ヶ所、後ろから左
心きいた者は、町内の外科と、土地の御用聞||三河町の佐吉と、町役人に急を知らせました。が、時を移さず飛んで来た医者も御用聞も、手の下しようはありません。鐘五郎は間違いもなく人手に掛って相果てたのですが、見渡したところ、窓も雨戸も、稼業柄らしく恐ろしく厳重に締めきられ、入口はたった一つ、酔ったとはいっても、三十八人の子分どもが、七十六の眼で見張っている酒席の後ろの廊下||開けっ放しの三尺の板敷を通る外に、ここへの通路はなかったのです。
稼業柄らしく||という言葉は、溝口屋鐘五郎の生活を形容するためには、極めて重要な意義を持つものでした。江戸で一番と言われた人入れ稼業の溝口屋が、ここまで
「親分がここへ入ってから、誰も来たものはないか」
中年者の、ことに馴れた佐吉は、繰り返し繰り返し訊きましたが、乱酒狂態の中にも、お互が見張った形になっているので、
「お元の外には誰も親分の部屋へ入った者はありませんよ」
廊下の側に陣取って、あまり酒を飲まなかったらしい子分の喜太郎は言うのです。
「その私が、親分が殺されているのを見付けたじゃありませんか」
「お元がここへ入るのを見ていたのは誰だ」
佐吉は
「あっしで」
喜太郎は顔をあげました。
「お元が親分の部屋へ入ってから、悲鳴をあげるまでに、少しは間があったのか」
「いえ、唐紙をあけるとすぐ張りあげたようですよ」
「それじゃ親分を殺す
「まアそんなことで」
これでは仕様がありません。
もっとも溝口屋三十八人の子分には、いろいろの分子が交っておりました。その中には、日頃親分の酷薄な態度を
よしや子分の中に、異心を抱く者があったとしても、七十六の眼玉の光る中、明りの
「銭形の
三河町の佐吉が、すっかり角を折って、そっと銭形の平次のところへ相談に来たのは、それから三日も経ってからのことでした。
「俺が行ったところで、大した役にも立つまいが、兄哥の気が済むなら||」
平次は思いのほか気軽に
「そいつは
いそいそと後を追うガラッ八の八五郎。
「お前の出る幕じゃないよ、おとなしく留守をするがいい」
平次は佐吉の気を兼ねて、一応は止めました。
「ヘエ||」
「不足らしい顔をするじゃないか。それじゃ外から溝口屋の評判を訊くがいい。溝口屋の評判はよくないようだから、うんと怨んでる者が一人や二人はあるだろう」
「ヘエ||」
ガラッ八の八五郎は平次の申付けに
ともかくも溝口屋へ行った平次は、三河町の佐吉の
その中で一番筋の立ったのは、もと飯田町の人入れ稼業で、伏見屋伝七の子分||と言っても、庭掃きや飯炊きをしていた馬吉という男だけ。伏見屋が没落してからは、人足にまで身を落しましたが、臆病馬吉という
「あの晩、何か気の付いたことはないのか」
平次の問いに対して、馬吉は虫喰い
「溝口屋の親分の心祝いだったそうで、宵から大変な騒ぎでしたよ。||もっともこちとらには、何の関係のあることじゃございません。あっしは一と晩尺八ばかり吹いていました」
ガラッ八に似た馬面を振り仰いで、馬吉は淋しく笑うのでした。あれほどの祝事にも、近所には何の挨拶もなかったのでしょう。
「溝口屋はそんなに近所で評判が悪かったのか」
「ヘエ||。こちとらのひがみかも知れませんが、あっしのもとの親分の、飯田町の伏見屋のようなわけには参りませんよ。伏見屋じゃあんな騒ぎのある時は、近所へ一人前ずつでも膳部を配って、おやかましゅうございますと、丁寧に挨拶したものですが、ヘエ」
馬吉の不平は、そういったひがみにすぎません。
平次はなおも近所の
中に入って調べると、溝口屋の間取りは、佐吉から聴いた通りで、三十八人の眼を
もっとも外から声を掛けて、鐘五郎自身に開けさせて入るという
よしんばまた、雨戸を鐘五郎に開けさせて庭から直接入ったとして、
「これじゃ手が付けられない、兄哥が持て余したのも無理はないよ」
平次もつくづくそう言う外はなかったのです。
「ね、銭形の、この通りだ」
三河町の佐吉も平次の困惑するのを見て、ホッとした様子でした。
「だが、曲者が入って、溝口屋を刺したことだけは確かだ。念のために子分の重立った者に、一人一人会ってみようじゃないか」
平次は
「親分、御苦労様で」
一の子分の喜太郎は、少し
「親分の死骸を見つけた時のことを
平次は静かに問い進みます。
「ヘエ||。何遍もくり返して、
「雨戸を開けなかったのか」
「勘次が開けようとするのを、あっしが止めました。そいつは後で証拠になりそうだと思ったからで」
喜太郎はさすがに行き届きます。
「曲者は宵のうちから入って、騒ぎの後までこの部屋に隠れていたかも知れない。||捜してみなかったのか」
「捜しましたよ。大掃除ほどの騒ぎをしましたが、床下にも、天井裏にも、押入にも畳の目にも、
喜太郎はあたりを見廻してパアと手をひろげました。衝立一つ、煙草盆一つ、
「雨戸を開けたのは?」
「三河町の親分がお出でになってからでした」
「そのとき廊下を通った人はないのだな」
「廊下には三十何人の子分が、目白押しになっていましたよ。頭の上でも渡らなきゃ通れるわけはありません」
喜太郎は平次のくどいのを馬鹿にしたようにひょいと廊下の方へ
「親分の評判はどうだった。||親分を
「そいつはどうも、へッ」
喜太郎はさすがに答え兼ねました。勢いと力の付いている喜太郎にしては、親分の評判などは、どうでもいい問題だったにしても、改めてこう訊かれると、さすがにズケズケしたことも言えません。
つづいて六助に会ってみました。これはまだ三十そこそこの分別者らしい男ですが、もとは溝口屋と張り合って没落した飯田町の伏見屋の身内だったことは、平次もよく知っております。
「いつからここへ来ているんだ」
平次の問いは予想外でした。
「もう四年になります」
「早いもんだなア、伏見屋が死んでもう四年になるのか」
「いえ、伏見屋の大親分が亡くなったのは三年前で」
「そうか、||この家の居心地はどうだい」
「············」
「あの晩はどうしていたんだ」
「勘次と
「酒はどっちが強いんだ」
「まア似たようなもので」
これ以上は何の手掛りもありません。
勘次は三十五六の
三河町の溝口屋と飯田町の伏見屋は、同じ人入れ稼業の競争相手でしたが、伏見屋伝七が年寄りの上に病身だったので、若くて
もし溝口屋三十八人の子分の中に、親分の鐘五郎を殺す者があったとしたならば、それは伏見屋の怨みを
「銭形の、||そいつは一応
「フーム」
そう言われると、六助と勘次も、鐘五郎を刺す
「喜太郎はその間に立たなかったのかな?」
「その間というと」
平次の不審を、佐吉は訊き返しました。
「鐘五郎が自分の部屋に引込んでから、お元が死骸を見付けるまでの四半刻(三十分)ほどの間だ」
「一度手洗に立ったが、それは、ほんのちょっとだ」
と佐吉。
「そのほんのちょっとが恐ろしい」
「喜太郎が立つと、廊下の側にいる人間はなくなるが、廊下に向いた障子はあちこち開いてあるし、部屋の中には燭台が十六、百目
佐吉の調べも思いの外よく届いております。
その晩八五郎は、
「どうした八、目星は付いたか」
「あれから丸半日、足を
八五郎は邪魔者扱いにされた腹癒せに、一世一代の働きをしてアッと言わせるつもりだったのでしょう。
「それがどうした」
「親分の前だが、大外れ、まるで見当も付きませんよ」
八五郎は額を叩くのです。
「内から
「でも、鐘五郎の身の廻りの世話をしているお元という女が、内々鐘五郎を怨んでいることは突き止めましたよ」
「そんなこともあるだろうが、||あれは女の手際じゃないよ。たった一と突きで、声も立てずに死んでいるんだ。それに、お元がやるなら何もあんな晩に限ったことじゃあるまい。いつ、どこでもできることじゃないか。そっと首を掻いて、雨戸を開けておいても、判らないことは同じだ」
「なるほどね。||あっしはお元ばかり狙ったんだが」
「それっきりか」
「まだありますよ。あの晩は、飯田町の伏見屋の三回忌だったそうですね」
「何?」
「伏見屋伝七は病死ということになっているが、本当のところは、首を
ガラッ八の八五郎。||銭形平次のためには、
「そいつは耳寄りだ。伏見屋の身内で、あの晩変な素振りをした者でもあるのか」
「六助と勘次||あの二人の裏切り野郎は、
「そいつは聴いた」
「伏見屋の倅の伝之助は、駒込の親類に引取られて、枕もあがらぬ大病だ」
「フーム」
「臆病馬吉は尺八ばかり吹いてやがる。もっとも隣の騒ぎが
「馬吉は死んだ親分||伏見屋伝七の三回忌と知って尺八を吹いていたのか。それとも忘れていたのか」
「仏壇の前に
「フーム」
「あの下手な尺八が
「それから」
「馬吉の尺八友達で、足の悪い春松という男は、宵から留守だったそうですよ」
「そいつは何だ」
「伏見屋の帳面をつけていた男で、三河町の三丁目に住んでいますよ。尺八は馬吉の先生で、不景気な野郎だが、字が滅法うまい」
「足はひどく悪いのか」
「一人で歩けないこともありませんが||」
「その春松の様子を
「ヘエ||」
ガラッ八は弾みが付いたように飛び出しました。いよいよ事件の山が見えたような気がしたのです。
ガラッ八の八五郎が三河町へ飛んで行った後、事件の重大な発展に気のついた平次は、自分もその後を追いました。
三河町三丁目で、足の悪い春松と訊くとすぐわかります。いいや近所で訊くまでもなく、とある路地の奥からひびき渡る八五郎の張り上げた声は、平次には何よりの
「やいやい、知らぬ存ぜぬで通ると思うか。あの晩お前が宵から消えて、夜中に帰って来たことは、長屋の衆が皆んな承知だぜ。どこへ行って来たんだ、真っ直ぐに白状しねエ」
「どこへも行きゃしません。||この足ですよ、親分」
ガラッ八の噛み付くような声と、春松の
「八、どうした」
「親分、この通りだ。しょっ引いて行って、二三百引っ
平次の姿を見ると、ガラッ八は懐中の捕縄などをまさぐるのです。
「ウム、口を開かなきゃ仕方があるまい。可哀想だが引っ立てて来てくれ。縄には及ぶまいよ、どうせ逃げ出す相手じゃない。||その代りお前の背中を貸してくれ」
「ヘエ||」
「その男を背負って行くんだ。ツイ、そこまでだよ。||遠慮をするな」
「ヘエ||」
八五郎は
そこから一丁目まで、溝口屋の裏へ廻ると、臆病馬吉の長屋の格子をガラリと開けたのです。
「また来たよ」
「あ、銭形の親分」
馬吉はもう、サッと顔色を変えて、ガタガタ
「馬吉、あの晩のことをもう一度繰り返してくれ」
「ヘエ||」
「溝口屋が殺された晩、
平次は
「尺八を吹いていましたよ、親分」
「それっきりか」
「ヘエ||」
「伏見屋の三回忌だったそうじゃないか」
「ヘエ||」
「お前の尺八は
「············」
「見ろ、春松は縛られているんだぜ。あの晩ここへ来て、二人で何をやったんだ」
平次は後に従うガラッ八と、その背中にいる春松を指さしました。
「尺八を吹いていましたよ、親分」
「二人でか」
「ヘエ||」
「一人は抜け出して、溝口屋へ忍び込んだはずだ」
平次の論告は
「とんでもない、親分」
「お前が春松をつれて来たのを、誰知るまいと思うだろうが、大の男が大の男をおんぶして歩くのを、月がなくたって、江戸中の人が知らずにいると思うか」
「春松に尺八を吹かせて、お前が脱けだしたに違いあるまい。||溝口屋の裏から忍び込んで、宵の内に奥に
「親分、違います。違いますよ」
「いや違わない、お前の外に鐘五郎を殺した者はない」
「あの明るい廊下を、三十何人の子分の眼をかすめて、逃げ出す工夫はありません」
「それ見ろ、廊下の明るいことも、子分が三十何人で飲んでいたことも、お前はみんな知っている」
「············」
「その廊下を通る工夫はあったはずだ。||喜太郎が小用に立った時かな。||」
「············」
「そうだ。||部屋が暗いと外が明るい。||部屋をうんと明るくすれば、廊下はかえって暗いはずだ。何だって俺はこんなことが判らなかったんだ。||お元は年増でも女だ。
「ヘエッ」
春松を放り出したガラッ八は、
平次は
三尺の押入を開けると、
「これだ」
ズルズルと引き抜いて、パッと拡げると、隅っこの方にほんのわずかばかりですが、
「馬吉、これでもまだ強情を張るか」
「へッ||」
ガラッ八の
「聴いて下さい。銭形の親分さん」
馬吉は涙の中から言うのです。
飯田町の伏見屋伝七が死んだのは、噂の通り
子分たちはチリヂリバラバラ、中には敵の溝口屋に入ってヌケヌケと押し歩く六助、勘次のようなのもあります。伏見屋の倅伝之助が、駒込の
が、足の悪い者と臆病者の悲しさ、二人の力では、出入りの厳重な溝口屋に、一と太刀恨むすべもなく、馬吉は溝口屋の裏に住んで、敵の様子を狙いながら、足掛け三年の長い月日を、仕返しの工夫と、その時節到来を待って、
鐘五郎が誕生日を祝った日、それはちょうど伏見屋伝七の三回忌で、是が非でも思い立たなければならなかったのでした。春松をつれて来て一と晩自分の代りに尺八を吹かせ、それを
そこを逃げ出すのは容易ならぬ仕事でしたが、幸い用意した柿色の風呂敷が役に立って、喜太郎が小用に立った間に廊下を抜け、自分の長屋に逃げ帰って、春松を送り返した手順は、平次が想像したものと寸分の違いもありません。
「こうなれば、逃げも隠れもしません。溝口屋殺しはあっし一人の罪、春松だけは許してやって下さい。お願いでございます。親分」
馬吉は後ろに手を廻して、観念の眼をつぶります。
「とんでもない、馬吉一人の罪じゃありませんよ。||あっしも相談に乗ったんだから、一緒に縛って下さい。||仲よく
春松は膝と手で
「何を言うんだ。足の不自由なお前に、こんな大それたことができるものか」
「足が不自由だって、俺は臆病じゃねえ」
「何をッ」
二人の争うのを、
「まア、いい。春松も追ってお調べがあるかも知れないが、お上の御沙汰を待つがいい」
平次は
「親分、お願いがあるんだが||」
「何だ、未練がましいことを言うなよ」
「そんなことじゃありません。縄付のまま、溝口屋の庭を通って行って下さい」
馬吉は妙なことを言うのです。
「何をするんだ」
「つまらないことなんですが、
「よしよし」
「親分、縛って下さい。縄付でないと
「なるほど、そんなこともあるだろうな」
形ばかりの縄を掛けた馬吉を引っ立てて、平次は溝口屋の庭へ入って行きました。
多勢の子分達に交って、六助、勘次が、それを見送っていることは言うまでもありません。
「親分、ちょいと待って下さい」
「何だ」
縄付の馬吉は立ち止まりました。
「やい、六助、勘次。||伏見屋の親分の
「············」
「大きな面アしやがって何でエ。畜生ッ、恩知らず。馬鹿野郎ッ」
「············」
言うだけのことを言うと、馬吉は絶句して、縛られたまま、ボロボロと涙を流すのです。
溝口屋の子分は色めき立ちましたが、平次と八五郎がついているので、今さら手出しもならず、六助と勘次は、こそこそと人の後ろに隠れてしまいました。
*
臆病の馬吉は、打首になるべきでしたが、溝口屋鐘五郎の悪事が平次と八五郎の骨折りでだんだん明るみへ出たのと、伏見屋の怨みを
臆病馬吉の