ガラッ八の八五郎はぼんやり日本橋の上に立っておりました。
御用は大暇、懐中は空っぽ、十手を突っ張らかしてパイ一にあり付くほどの悪気はなく、このあいだ痛めたばかりの銭形の親分のところへ行って、少し借りるほどの
夕映えの空にくっきりと浮いた富士を眺めながら、歌にも
「おや?」
ガラッ八はガン首をあげました。自分の足許に
ガラッ八はそいつを拾って、無意識に駕籠を追いました。間違いもなく南鐐は、駕籠の中から落ちたものだったのです。
「ちょいと、若い衆||」
ガラッ八はそう言いかけた声を呑みました。
駕籠を追うともなく橋を渡って南へ、高札場の前へ来ると、またも駕籠から、チャリンと一枚。
「おッ」
拾って見ると、こんどは小判が一枚。
この山吹色の小判が、駕籠を担いだ後棒の注意も
いや、偶然ではなくて、それは後ろから
しかし小判一枚となると、八五郎ならずともそれは大金です。夕陽にキラリとするのを指につまんで高々と宙に振りながら、ガラッ八は思わず駕籠の後を追いました。当然それは深々と垂れをおろした駕籠の中の客に返さるべきものだったのです。
「待ってくれ||その駕籠待ってくれ」
あわてて駆け出したガラッ八の足許へ、その軽率をとがめるように、カラリと落ちたのは、その頃の下町娘が好んで
「············」
ガラッ八は完全に封じられてしまいました。駕籠の中からは、明らかに、ガラッ八の注意を促すために手当り次第に物を捨てているのでしょう。そうでもなければ、南鐐と小判と飾り櫛は、いかにも取合せが変てこです。
中橋から南伝馬町へ来ると、四文銭が一枚、コロコロと転がり落ちました。駕籠の中の客も、少し懐ろが怪しくなったのかと思うと、京橋を渡ったところで落したのは、二分金が一枚。
駕籠はそんなことに構わず、夕暮近い江戸の町をヒタヒタと急いで、芝口から宇田川町へ、浜松町へとさしかかります。
人足は次第に
金杉を渡って、芝、田町へ差し掛ると、懐中鏡が一つ
「あッ、野郎ッ、挨拶をしろ。いきなり人に突き当って」
それは全く不意でした。
「勘弁しねエ、過ちはお互だ」
八五郎は軽くあしらって一歩踏み出しました。
「何をッ、過ちはお互だッ? そっちから突き当って、よくもそんなことを言やがる。これでも喰らえッ」
パンパンパンと、ガラッ八の頬は鳴りました。小気味の良いほど手の早い男です。
「野郎、
モタモタと
「撲ったがどうした、
つづいてまた四つ五つ、パンパンパンと打ってくる腕を
「畜生ッ、こうしてくれよう」
相手はしかし恐ろしい早業でした。八五郎の胸倉を掴んで往来に引っくり返ると、仰向きになりながら手と足とを働かせて
「えッ、うるさい野郎だッ。||これが見えないか。御用だぞッ」
持て余し抜いた八五郎は、とうとう懐ろから十手を取出して、この厄介な挑戦者に見せる他はなかったのです。
「あッ、そいつはいけねエ」
相手はいっぺんに
「何という野郎だ。
八五郎は大舌打ちを二つ三つ、
あきらめ兼ねた八五郎は、それでも追っ手をゆるめず、品川へ入って、
「親分、これ何と判じたものでしょう?」
ガラッ八の八五郎は銭形平次の前へ、前夜日本橋から芝、田町までの間に拾った
「何だえ、それは?」
平次もツイ起き上がりました。縁側に
「あっしには分りませんよ、親分」
「どこで拾って来たんだ。||まさか淡島様のお堂を掻き廻したんじゃあるまいな」
「そんなタチの悪いことはしませんよ。こいつは日本橋から高輪の方へ行った駕籠の客が落したんで」
「フーム、面白そうだな。
平次も乗気になりました。四文銭と小判に挟まれてつまみ細工の櫛や、平打の銀簪や、その頃の世界では、この上もない
「こういうわけですよ、親分」
ガラッ八は昨夜の経験をこまごまと語りました。喰い付くような熱心さでそれを聴き入る平次。
「それからどうした」
「仕方がないから、品川からトボトボと歩いて帰りましたよ。親分の
「何をつまらねエ」
「だって、家へたどり着いたのは、
ガラッ八は頬を
「相変らず一文無しか」
「お察しの通りで、||帰ったら親分に借りて返すとして、拾った南鐐で、夜鳴き
「
「相済みません」
ガラッ八はピョコリとお辞儀をしました。
「しかし、そいつはとんだ面白い話になりそうだ。||駕籠が停ったのは芝、田町に間違いあるまいな」
「田町四丁目、辻番の手前で、||あすこの大福は大きくてうまい」
「馬鹿だなア。||それから変な野郎が
「高輪中町で、||あの辺には
「そこで長いあいだ
「なアに、ほんの煙草一服の間でさ。||ポンポンポンといきなり四つ五つ引っ
ガラッ八は仕方話になりました。
「起き上がって見ると駕籠がいなかったんだね。それとも暗くて見えなかったのか」
「あの辺は海沿いの一本道でさ。日が暮れたって、一丁や半丁の
「横道へ入ったのかな」
「そんなことかも知れません。||とにかく、向うから来る駕籠はあったが、こっちから行くのは一つもなかったんで||」
「ちょいと待ってくれ。その向うから来る駕籠というのは、東禅寺前で逢ったのか」
「さんざん揉み合った野郎が逃げたんで、立ち上がって改めて駕籠を追っかけると、ちょうど品川の方から逆に町駕籠が一梃飛んで来ましたよ」
「馬鹿野郎ッ」
「ヘエ||」
不意の馬鹿野郎を喰らって、ガラッ八はキョトンとしました。叱られる意味が分らなかったのです。
「その駕籠だよ」
「ヘエ||?」
「お前に
「ヘエ||」
「駕籠はたぶん芝、田町辺まで行くはずだった。||その証拠には高輪まで行った時分は、足許が怪しいほど暗くなっているのに、
「その通りですよ」
「お前を
「ヘエ、そんなものですかね」
ガラッ八は
「最初に駕籠を停めた芝、田町の辻番のあたりが臭い。その辺へ着ける
「そう言えばそうですね」
銭形平次の推理の的確らしさに圧倒されて、ガラッ八はただもう
「何か容易ならぬ臭いがする。||仕事になるかならないか分らないが、駕籠から懐中鏡まで捨てるのはいじらしいじゃないか」
「どうしたら相手を突き止められるでしょう。親分」
「外に
「そう言えば一つありましたよ。||駕籠は四つ手に違いないが、筋の通った立派な品で、垂れをおろして中はわからないが、後棒を担いだ若い者は、右の
「それだけ分りゃあと一と押しだ。日本橋か芝か、ともかく、飛脚屋と町役人に聴いて、耳朶のない駕籠屋を捜し出し、どこからどこへ、どんな人間を送ったか訊いて来るがいい」
「そんなことならわけはありません」
八五郎には初めて事件を
「耳朶のない駕籠屋を捜すのはわけはあるまいが、心付けがうんと出ているだろうから、口を割るのは容易じゃあるまいよ。甘く見て
「大丈夫ですよ、親分」
八五郎は懐中の十手をトンと叩いて、一散に事件の真ん中に飛び込みます。
それから三日目。
「あ、驚いたの驚かねエの」
ガラッ八の八五郎は、
「何を驚くんだ。三日に一度くらいずつその調子で飛び込まれると、俺の方が参るぜ。お前と付き合っていると、つくづく寿命の毒だと思うよ」
うつらうつらと三尺の庭にも
「全く寿命の毒ですぜ。だから武家は付き合いきれねエ。||大丈夫あっしの首は
八五郎はピタピタと自分の首を叩きながら続けるのでした。
「||無礼者ッ、手討にする、そこへ直れッと来た。||面白い、見事に斬っておくんなさい。斬られて赤い血が出なかったら、代は要らねエ。||かなんかで、
「馬鹿野郎ッ、何というあわてようだ。
「それがね、親分。相手が悪いんで。何しろ、千二百石の御旗本、佐野
「それがどうしたんだ。筋を通してみるがいい」
「こうなんで、親分」
||ガラッ八の話は長いものでした。が、かいつまんで言うと、芝、田町四丁目の旗本佐野
五尺八寸のノッポで、顔は
お袖は驚いて自分の家へ逃げ帰りました。これは日本橋通三丁目の
佐野家からは、あらゆる条件を提示し、人橋を
さいしょは約束の年季が明けないのに、夜逃げ同様屋敷を脱け出したのが
あまり無法な掛合いに、上総屋吉兵衛自身で佐野家へ出向きましたが、これはそれっきり帰らず、五日経っても七日経っても消息のないところを見ると、用人木原伝之助に殺されたのかも知れません。
その上今から三日前の夕刻、父親のことを心配して
「あっしが
ガラッ八は一気に弁じました。
「それで驚いて飛んで来たのか」
と平次。
「そんなことに驚きゃしません。弁天様の申し子のような娘を、二十八の二本棒にやっちゃ、あんまりもったいないから、あっしが上総屋の内儀に会って、いろいろ相談をした上||娘のお袖には
「フーム」
「その掛合いに行ったのは、あっしと上総屋の番頭の庄七という
「それでどうした」
「芝、田町の佐野の屋敷へ行って、上総屋の娘を返して貰いたいと言ったが、用人の木原伝之助というのが大変な野郎で、||お袖は実家に逃げ帰ったきりここへは一度も来ない。夢でも見たか、出直せという挨拶だ」
「フーム」
「あんまり
「フーム」
平次もだいぶおもしろくなった様子です。
「すると、それならそれでいいとして、お袖の
「面白いな」
「少しも面白くはありません。番頭の庄七は
「嘘は
「茶にしちゃいけませんよ。ね、親分||何と言ったと思います。あっしはいきなり襟を直して、こう正面をきったね。||
「馬鹿野郎ッ」
「それね、親分だって驚くくらいだもの、向うはもっと驚いた。しばらくあっしの顔をまじまじと見ていたが、通三丁目の小町娘の聟らしくないと気が付いたか、無礼者ッ、嘘を申すと手討にするぞと来た。こうなると意地だ、あっしはいきなり尻を捲って||」
「分ったよ。
「だって、相手は千二百石の旗本じゃ、十手を出したって驚きゃしません。こうなりゃ逃げるが勝ちで」
八五郎の話は際限もなく飛躍します。
銭形平次は、それから三日ばかり、あらゆる方面に手を廻して調べ抜きました。
上総屋の内儀お
その遺書はかなり突っ込んだもので、自分が帰らなかったら、佐野の屋敷で殺されたものと思えとも書いてあり、一人娘のために命を捨てる気になった、父親の突き詰めた愛情が
町方からの添え状で龍の口へ行った平次は、そこで佐野家の家督相続に、いろいろ手続きの上に不備があり、洗い立てるとずいぶん問題になりそうなのを確かめると、いよいよ佐野家を相手に、一と芝居を打ってみる気になりました。
「八」
「ヘエー」
平次の改まった顔を見ると、ガラッ八も
「お袖を助けるのは、少しばかり骨が折れるが、やってみるか」
「やりますよ、親分。どんなに骨が折れたって、あんなピカピカする娘を捨てられるものですか。嘘でも一度はあっしの許嫁になった娘だ」
「相手が悪いから、一つ間違えると、命がけの仕事になるかも知れないよ」
「命がけ||へッ、親分の前だが、あっしはいつ命に糸目をつけました。
「まあいい、今度はピカリと来ても、逃げ出さないようにしてくれ」
「あれは、不意だから驚いたんで、覚悟さえ決めてかかれば、
「その気でやってくれ。うっかりするとお袖の命も危ない。唄にまで歌われた通三丁目の糸屋の娘だ。二十八の馬鹿殿様と一緒にされるくらいなら、死ぬ気になるかも知れない」
「なるほどね」
「今までも、あの佐野という屋敷で、腰元が二三人死んでいる。馬鹿殿様の
「行きましょう、親分」
八五郎の血は
話はこれで
その晩、銭形平次は駕籠を吊らせて、芝、田町四丁目の佐野家の裏門に乗込んだのです。
「頼む」
「誰じゃ」
「町方の御用を承る、神田の平次と申すものでございます。御用人木原様が御入用の品を持って参りました。御取次を願います」
「しばらく待つように」
門番が顔を引っ込めました。それからざっと
「庭先へ通らっしゃい」
門番は恐ろしく
「町方の者に用事はないはずだが、いったい何を持って来たと申すのだ」
縁側に出たのは用人木原伝之助、四十五六の存分に
「御用人様は、この男を手討にするとおっしゃったそうで、改めて私がつれて参りました。どうぞ御存分になすって下さい」
「何と言う」
「八、覚悟はいいな」
「ヘエ、この通りで||」
バラリと肌を脱ぐと、いつの間に用意したか、一尺五寸ばかりの
「こんなあわてた野郎でございます。八五郎といってあっしの子分で。ヘエ、これでもお上の十手捕縄を預かっておりますから、御成敗になれば届け出なきゃなりません。ちょいと一筆、こうこういうわけで斬ったと、お
平次は
「平次とやら、お前は、当屋敷をゆすりに来たのか」
木原伝之助はしずかに押えました。
「とんでもない。||あっしはこの野郎を差し上げて、改めて
「ならぬと申したら」
と木原伝之助。
「そんなことをおっしゃるはずはございません。||上総屋の娘は上総屋の娘で、御武家方へ行儀見習奉公に上がったもので年季も前借もあるわけはございません。
「だ、黙れッ、無礼者ッ」
木原伝之助は
「おどかしちゃいけません。上総屋の聟になって首を斬られたり、公儀御書上げも何にもない、||本当にあったやらなかったやら分らない品物がなくなったなどと
「えッ、黙らないか。ここを何と心得る」
「地獄の一丁目でしょうな」
「
抜いた一刀、ピカリと来ても平次は驚く様子もありません。
「もう一つ、上総屋吉兵衛の死骸を頂いて参りましょうか」
「な、何と言う」
「娘を無事に戻したさに参った吉兵衛、それを縛り首にした不仁だけでもお前さん腹を二三十切っても追っ付くまいぜ。吉兵衛は家を出るとき立派な書置きを書いている。そればかりではない。この屋敷のお長屋で殺されかけた吉兵衛が、
「············」
「嫁が欲しきゃ、尋常に手順を
「············」
「その上、御当主は病気と言って、将軍家御目見も延ばしてあるそうだが、将軍様が一と目、佐野の殿様を御覧になったら、どんなことになると思う。||
平次はヒタヒタと
「恐れ入った、平次殿」
木原伝之助は虚勢を失って、畳の上に
「あ、待った」
驚く、平次、ガラッ八。
「いや、いちいち
木原伝之助は
「三百年も伝わる家柄、御祖先の武名を
「············」
「若殿御身の上ばかり案じて亡くなられた先殿様や、この上はただよい嫁女ほしさに、老いの身を忘れて苦労遊ばす後室様の御安心のために、この木原伝之助は三人まで美しい腰元を
手負いは苦しい息の下から衷情を訴えて、ひたむきに平次を拝むのです。そればかりではありません。縁側の障子の
*
お袖を駕籠に乗せて帰る平次。この時ほど
「親分」
慰め顔に差しのぞく八五郎に、
「俺はとんでもないことをしてしまったよ。あんな忠義な用人を、殺さずに済ます工夫もあったろうに||」
平次は駕籠の方を憚りながら言うのでした。
「でも仕方がないじゃありませんか」
「向うでも仕方がなかったのさ。
「でも、そいつは間違いでしょう。そのために人まで殺しちゃ、||ところで親分。吉兵衛の
「嘘だよ。||吉兵衛はあの屋敷の中で殺されたに決っているが、||
「ヘエ||」
ガラッ八も
日頃の平次にない
「だが八。お前はまさか、本当にお袖の聟になる気じゃあるまいね。あれは少し綺麗すぎるから用心するがいいぜ」
そう言って五六間先へ行く駕籠を、顎で指した平次は初めて固い頬をほころばせるのでした。