金座、銀座、銭座、朱座と並んで、江戸幕府の大事な機構の一つに、
万治三年京の神善四郎、江戸の守随家と争って敗れ、その権利を
その守随彦太郎の
兵太郎はその時二十三、まずは世間並の良い男、才智男前も人様に
彦太郎の娘お
「その養子の兵太郎が、七日の間に命を
「誰がそんなに命取りの日限まで触れて歩いたんだ」
ガラッ八の八五郎の、
「手紙が来たんですよ、親分。それも一度や二度じゃねえ、つづけざまに三度」
「そんな
平次は事もなげでした。「殺す奴は黙って殺す」というのが、長い間の経験が教えてくれた平次の信条だったのです。
「ところが本当にやりかけたんで」
「何を?」
「最初の手紙が店先へ投げ込まれたのは三日前、それから一日に一度ずつ恐ろしいことが起るとしたらどんなもんで」
「恐ろしい事というと」
「三日前||あの晩はやけに暑かったでしょう。若旦那の兵太郎はまた恐ろしい暑がりやで、あんな晩は寝る前に裏の井戸端へ行って、汲み立ての水で身体を拭くんです。ちょうど
「あぶないな」
「幸い井戸は浅いから助かったが、深い井戸なら一とたまりもありませんよ」
「三日前の晩の
平次は指などを折りながら神妙に聴いております。
「それから
「その吹矢はどこから飛ばしたんだ」
「隣の空家の二階ですよ。店中の者が飛んで行ったが、曲者は待ってはいません。窓のところに、何の
「それから、三度目はどんな
「あんまり物騒だから、若旦那を外へ出さないようにし、用心棒の
「怪我はなかったのか」
「元結を切られて、サンバラ髪になりましたが、怪我はなかったようで、||もっとも小僧の亀吉は肩口を少し斬られました。人が来なかったらどんな事になったか解りません」
「守随ともあろうものが、内湯が無いのか」
「恐ろしく立派なものがありますよ。でも若旦那は町風呂の広々としたのが好きなんだそうで、||それに、こいつは
ガラッ八はそう
桜湯のお浪という
ガラッ八の話は近ごろ怪奇なものでしたが、平次は大して驚く様子もありません。
「若旦那を
「どうせそんなことでしょう。ほかに人の
「それで、どうしようというのだ」
「まさか銭形の親分を頼むわけにも行かないから、あっしにあと四日見張ってくれというんで、どうでしょう、親分」
八五郎は
「行くがいい。何か面白いことがあるかも知れない。お前の話を聴いただけでも、
「それじゃ、親分」
「待ちな||桜湯のお浪とかいうのを念入りに洗ってみるがいい」
「ヘエ」
八五郎は平次の激励に気をよくして通四丁目へ飛んで行きました。
それから五日||。
平次も忙しく日を送って、
「親分、
大変とも何とも言わず、狐につままれたような顔をして、ノソリとやって来たのは八五郎でした。
「八か、どうした。忘れ物をしたような顔じゃないか、いつもの『大変ッ』をどこへ振り落したんだ」
平次は少しからかい気味です。
「へッ、いい面の皮で、親分の言った通り、見事に
「
「四日間あっしと
「手紙は三本だけか」
「それが不思議なんで、いっこう
「誰が持って来たんだ」
「初めは使い屋で、あとは店へ投げ込んだり、近所の子供が持って来たり」
「その手紙を借りて来たのか」
「これで」
八五郎は懐ろから出した手紙を五本、日付の順に平次の前に
「男と女と二人で書いてるが、うまい字だな。男のは帳面馴れがしているし、女の方は大師流を習っている。||紙は小菊、筆も墨も悪くない。文句は一本一本次第に激しくなって五本目などは噛みつくようだぜ」
「それが
「わからないよ。||七日と日を限っていて五日で止したのが一番おかしい。五日目の晩は何か変ったことがなかったのか」
「ありましたよ」
「何があったんだ」
「お嬢さんのお輝さんが夜中に見えなくなって一と騒ぎしましたがね。間もなく寝巻のまま裏の土蔵の前に立っているのを見付けて、安心しましたよ」
「?」
「十六にしては子供子供した可愛らしい娘で、夜遊びに出る柄ではなし、大方夢でも見たんでしょう。当人も夢心地で家を出たが、何にも覚えがないと言うそうで||」
「無くなった物はないのか」
「なんにも」
「面白いな、八」
「ヘエ、||面白いんですか、||これがね」
平次の真似をしてガラッ八も高々と腕を
「ただの悪戯や脅かしじゃあるまい、俺も行ってみよう」
「ヘエ、親分が行くんですか、脅かしの日限は一昨日で切れて、ゆうべは
「その酒宴の残り物くらいにはありつけるだろう」
「ヘエ」
何に驚いたのか、そそくさと出かける平次の後ろにガラッ八はキナ臭い鼻を
通四丁目の
「お、八五郎親分、ちょうどよいところだ」
店先へ飛んで出たのは、支配人の藤助でした。
「どうしたんです、この騒ぎは?」
「若旦那が||」
「若旦那がどうかしましたか」
支配人は物をも言わずに八五郎を奥へ案内しました。つづく銭形の平次。
「これだ、八五郎親分」
「あッ」
一と間の敷居際に八五郎は思わず立ち
死骸の枕元に主人の守随彦太郎が打ち
「あっしは神田の平次でございますが、この度はとんだことで」
銭形の平次が挨拶すると、主人の彦太郎は夢から覚めたように顔を挙げました。
「銭形の親分か、ちょうどよいところだ。いったい何がどうしてこんな事になったのか調べてくれ、私には少しも解らない」
秤座役人は
「ところで、何か紛失物はございませんか」
平次は思いも寄らぬ事を
「なんにもない。よしんば少しばかりの紛失物があったにしても、それより倅を殺した
主人の彦太郎の顔には、不満らしい色が浮びます。
「下手人も挙げなきゃなりませんが、それより、身にも家にも代えられないという大事の品が紛失しませんか」
「大事の品?」
「金や
「そう言われるとこの守随家には、たった一つ身にも家にも代えられぬ大事の品がある。||それは先祖の守随兵三郎が、家康公の御招きで甲府から江戸に移り、秤座役所を預かったとき、家康公から直々に頂戴した御朱印だ」
「それだ、旦那、それがなくなるとどうなります」
「万一それが紛失すれば、秤座役人の株を召上げになった上、この守随彦太郎腹でも切らなければなるまい。||が、それは大丈夫だ。三重の締りをした奥蔵の二階、
「奥蔵と唐櫃の鍵は?」
落着き払った彦太郎に比べて、銭形平次の方がすっかりあわてております。
「これだ、肌身を離したことはない」
守随彦太郎は腰を
「夜分はこの袋をどこへ置くのです」
「寝間の枕元の
「ともかく、その御朱印を拝見いたしましょう。||無事ならいいが」
平次の顔に現れた
「それは大丈夫だが、念のため見せておこう、一緒に来なさるがいい」
平次と八五郎は主人の彦太郎に従いました。
奥蔵は自慢の通り三重の戸前で、その一つ一つに厳重な締りがあり、二階に据えた
守随彦太郎の手筐を取出した手はさすがに
「あッ、これはどうだ」
全くの空っぽです。
彦太郎は弾かれたように飛上がりました。
「こんな事だろうと思いましたよ」
さして驚く色もない平次。
「大変ッ、平次親分、||御朱印が無くなっては、この私は腹を切っても追っつかない。何としても捜し出して下され、頼む」
日頃の尊大さをかなぐり捨て、土蔵の板敷の上に、守随彦太郎両手をつくのでした。
その頃の物の考えようから言えば、御朱印の紛失は、若旦那殺しよりは遥かに重大な事件です。平次は何か考えたことがあるらしく、「御朱印紛失」は誰にも
「八、お前は桜湯のお浪を見張ってくれ。少しでも怪しい素振りがあったら、構うことはねえ、縛って引立てるんだ」
「ヘエ」
飛んで行く八五郎を見送って、平次と彦太郎は元の部屋へ帰ります。
「曲者はやはり外から入ったのかな」
独り言のように
「雨戸は
支配人の藤助は細々と説明してくれます。なるほど敷居には外から打ち込んだ鑿の跡があり、庭には
「若旦那が突き落された井戸というのはこれですね」
「そう」
平次は
裏木戸は外から容易に開き、裏門も思いの外ぞんざいで、閉めたつもりでも、ガタガタやれば外から苦もなく開くのでした。
外へ出て少し歩くと、鼻の先はすぐ新場橋、
「脅かしの手紙は五日目まで来たと言いましたね。その晩お嬢さんが庭へ出ていたのは
平次は後ろから
「夜中過ぎ||
「ちょいと待って下さい。それを順序を立てて話して頂きたいんですが、||脅かし状が来てから五日目、一番後の手紙が来た晩ですね。お嬢様が宵に気分が悪いとおっしゃって、御自分の部屋へ御両親を呼びなすった。そして、通じがつくとケロリと癒ったのですね」
「その通りだ」
「変な事を伺いますが、お嬢様が手洗の間、お二人はお嬢様のお部屋でお待ちになったのでしょうね」
「その通りだ」
「それで前後の事がよく解りました。それから後二日の間は」
「八五郎親分が来てくれて
「七日が過ぎてホッと御安心なすった。八日目の晩という昨夜||心祝いのお酒などが出て、八五郎をお帰し下すった」
と平次。
「その通りだ。今朝は皆んなとんだ朝寝をしたが、とりわけ倅はいつまで待っても起きて来ない。昼近くなって家内が見に行くと、雨戸が開いて障子は閉っていたそうだが、開けて見ると中はあの通りだ」
「驚きましたよ、親分」
五十前後の内儀お
平次はもういちど部屋の様子と兵太郎の死骸とを見直し、改めて家中の者をどこかへ集めておくように頼みました。
若旦那の部屋は店からはだいぶ離れて、表二階二た間に寝ている奉公人たちのところから来るためには、主人の部屋や娘お輝の部屋の前を通らなければならず、そこから人知れず脱け出すのは容易のわざではありません。支配人の藤助は通いで夜はこの屋根の下にはおらず、手代の辰次は主人の
藤助は五十前後の
手代の辰次は二十七八の良い男で、
お輝は十六、美しく可愛らしく、
店の次の間に集めた三十人あまりの家族と奉公人から、めぼしいのを拾い出して、平次はこう観察して行くのでした。その後には人柄の良い内儀のお縫と、福々しい主人の彦太郎が神妙に控えます。
「親分」
いきなり八五郎が飛んで来ました。
「桜湯のお浪はどうした」
三十幾人の前で平次はこう訊くのです。
「一と足違いでした。風をくらって逃げましたよ」
ガラッ八は唇を噛んで
「よしよし、穴は解っている、心配するな、ところで御主人」
平次が後ろを振り向いて合図をすると、それに応えるように、主人の彦太郎は多勢の前に
「さて、皆んな、聴いてくれ。曲者は昨夜奥蔵に忍び込んで、あろうことか、東照宮様
恐ろしいザワめきが、一座を
「本来ならば守随の家の大難だが、有難いことに、ここにいる銭形の親分の注意で、三日前奥蔵の二階の
守随彦太郎は、懐ろから紙入を取出し
「曲者はいずれ、守随の家に
主人彦太郎の話というのはそれだけでしたが、三十幾人の聴き手はそれぞれの心持で、深い感銘に打たれた様子です。
それが済むと平次は、そっと物蔭に娘のお輝を呼出しました。
「お嬢さん、誰も聴いてはいません、そっと私にだけあの鍵のことを打ちあけて下さい」
平次の言葉は
「私はあの晩のことを、みんな知っておりますよ。お嬢さんに智恵をつけて、鍵を持出させた者のあったことを。||もっとも
「············」
「あの晩、気分が悪いからと御両親を呼寄せ、
平次の問いには
「でも、そうしないと、兵太郎さんを殺すというんです」
「それは誰でした」
「知らない人。||手紙で細々と指図をして来ました。そっと兵太郎さんに相談すると、仕方があるまいと言うし」
「で?」
「鍵束を持って出ると、顔を隠した人が庭に待っていました」
「男? 女?」
「若い男の人でした。黙って鍵の束を受取って、奥蔵を開けて中へ入って行きました」
「鍵の束には幾つくらいの鍵がありました」
「十くらい」
「それでは蔵を開けるのは手間を取ったんでしょうね」
「いえ、わけもなく開けたようです。そしてしばらくすると出て来て、蔵の戸を閉めて、鍵を返したんです」
「その時、お父様に見付けられたのでしょう」
「え」
「もう一つ、||その顔を隠した曲者の姿をお嬢さんは見覚えがありますか」
「え、見たことのあるような
十六の小娘からこれ以上は何にも引出せそうもありません。
「親分、判った」
息せき切って飛んで来たガラッ八。
「どこだ」
「眼と鼻のあいだ||海賊橋の側に綺麗にとぐろを巻いているところへ、野郎がシケ込みましたよ。下っ引が三人で見張っているから逃しっこはねエ」
「油断は出来ない、行こう」
「合点」
ガラッ八を案内に、銭形平次も飛びました。海賊橋の
「御用」
「神妙にせいッ」
飛び込んで捕ったのは、湯女のお浪と、その父親らしい老人と、それに、
昨日からまる一日、
事件は一挙にして片付きました。縛られた老人は、かつて守随彦太郎とその管轄区を争ったばかりに、かえって自分の地位を
首尾よく御朱印は盗みましたが、事情を知っている若旦那兵太郎の口を
若旦那を殺した晩、家の中にいた辰次が、わざと外に出て、雨戸を外して入った手際は鮮やかでしたが、鮮やかすぎてかえって平次に疑われたとは気が付かなかったでしょう。
*
「さアわからねえ、何が何だか少しもわからねえ、若旦那の兵太郎は一体どんな役目を勤めたんです」
一件落着してからガラッ八は平次に絵解きをせがみました。
「若旦那の兵太郎は、噂の通りお浪に夢中だったのさ。守随の家をどうしようというのではない。せめて守随家に思い知らせ、
「ヘエ||」
「井戸へ落ちたというのも嘘だ。あんな月の良い晩に、若盛りの男がおめおめ人に突き落されるはずもなく、それにあの井戸はあまり浅すぎた。
「なるほど」
「吹矢も同じことだ。吹矢を射た空家の窓に赤い布が下がっていたのはおかしいじゃないか、あれは多分、吹矢を射るぞと合図に使ったのだろう。赤い布で合図をして、兵太郎が頭を下げたところへ射た」
「ヘエ||」
「覆面の曲者が三人、日本橋の宵に出たというのも妙じゃないか。それほどの相手に取詰められながら、かすり傷一つ負わないのも不思議だ」
平次にこう説明されると、兵太郎も同腹だったことは疑いもありません。
「手数のかかった細工ですね、親分」
「それでも御朱印を盗み出せなかった、どうしても鍵が手に入らないのだ。そこで兵太郎のことというと夢中になる娘のお輝を
「············」
「兵太郎を殺したのは、兵太郎を存分に操ったお浪か、お浪の仲間だ。が、下手人は家の中の者と判っても、それから先はどうしても判らない。仕方がないから余計な手数をして、下手人が気を
「なるほど」
話を聴いてみると何の変哲もありません。
「お輝は可哀想だが、仕方があるまい||」
平次はただそれだけが気になる様子です。