某法學士洋行の
送別會が
芝山内の
紅葉館に
開かれ、
會の
散じたのは
夜の八
時頃でもあらうか。
其崩が七八
名、
京橋區彌左衞門町の
同好倶樂部に
落合つたことがある。
小介川文學士が
伴ふて
來た
一人の
男を
除いては
皆な
此倶樂部の
會員で、
其の
一人はオックスホード
大學の
出身、
其一人はハーバード
大學の
出身など、
皆なそれ/″\の
肩書を
持て
居る
年少氣鋭、
前途有望といふ
連中ばかり。
卓を
圍んで
てんでに
吐き
出す
氣焔の
猛烈なるは
言ふまでもないことで、
政論あり、
人物評あり、
經濟策あり、
時に
神學の
議論まで
現はれて一
しきりはシガーの
煙を
々濛々たる
中に
六七の
人面が
隱見出沒して、
甲走つた
肉聲の
幾種が
一高一低、
縱横に
入り
亂れ、これに
伴ふ
音樂はドスンと
卓を
打つ
音、ゴト/\と
床を
蹶る
音、そして
折り/\
冬の
街を
吹き
荒す
北風の
窓ガラスを
掠める
響である。
時々使童が
出入して
淡泊の
食品、
勁烈の
飮料を
持運んで
居た。ストーブは
熾に
燃えて
居る
||『
貴殿は
何處の
御出身ですか』と
突然高等商業出身の
某、
今は
或會社に
出て
重役の
覺目出度き
一人の
男が
小介川文學士の
隣に
坐つて
居る
新來の
客に
問ひかけた。
勝手な
氣焔もやゝ
吐き
疲ぶれた
頃で、
蓋し
話頭を
轉じて
少し
舌の
爛れを
癒さうといふ
積りらしい。
人々も
同意と
見えて
一時に
口を
閉たけれど、
其中の
二三人は
別に
此問に
氣を
止めず、ソフアに
身を
埋めてダラリと
手を
兩脇に
垂れ、
天井を
眺めて
眼を
細くして
居る
者もあれば、シガーをパク/\ふかして
居る
者もある。
一人は
毒瓦斯を
拔くべく
起つて
窓を
少し
開けた。
餘の
人々は
新來の
客に
目を
注いだ。
『
僕ですか、
僕は』と
言ひ
澱んだ
男は
年の
頃二十七八、
面長な
顏は
淺黒く、
鼻下に
濃き八
字髭あり、
人々の
洋服なるに
引違へて
羽織袴といふ
衣裝、
今は
都下で
最も
有力なる
某新聞の
經濟部主任記者たり、
次の
總選擧には
某黨より
推れて
議員候補者たるべき
人物、
兒玉進五とて
小介川文學士は
既に
人々に
紹介したのである。
兒玉は
先程來、
多く
口を
開かず、
微笑して
人々の
氣焔を
聽て
居たが、
今突然出身の
學校を
問はれたので、
一寸口を
開き
得なかつたのである。
『
僕の
出た
學校をお
尋ねになるのですか。』と
兒玉は
語を
續うとして、
更に
斯う
問ふた。
『さうです。
君の
出られた
學校です。
三田ですか、
早稻田ですか。』と
高等商業の
紳士は
此二者を
出じといふ
面持で
問ふた。
『
違ひます』と
兒玉は
微笑した。
『オオさうですか。
何處です。』
『
大島學校です。』
『
大島學校?
聞たことのない
學校ですな、お
國の
學校ですか。』
『さうです、
故郷の
小學校です、
私立小學です』と
言つた
時の
兒玉の
顏は
眞面目であつたけれど、
人々は
笑ひ
出した。
『
戲談を
言つては
困ります。だから
新聞記者は
人が
惡い。
人が
眞面目で
聞くのに。』と
高商紳士は
短くなつたシガーをストーブに
投げ
込んだ。
『
僕も
眞面目で
答へたのです。
全く
僕は
大島小學校の
出身です。
故意と
奇妙な
答をして
諸君を
驚かす
積は
決して
持ないので。これまでも
僕は
出身の
學校を
聞れましたが。
初から
答へない
時もあり、
答へる
時は
何時此の
答をするのです。』
『さうすると
貴殿は
小學校以外の
教育はお
受にならんかつたのですか。と
申すと
失敬ですが
其以外の
學校にはお
入にならなかつたのですか』とソフアに
掛けて
居たオックスフオード
出身の
紳士が
身を
起して
聞いた。
其口元には
何となく
嘲笑の
色を
浮べて
居る。
『さうです、
僕はオックスフオードにもハーバードにも
帝國大學にも
早稻田にも
三田にも
高等商業學校にも
居たことは
無いのです。たゞ
故郷の
大島小學校を
出たばかりです。
斯う
申すと、
諸君は
妙にお
取になるかも
知れませんが、
僕はこれでも
窃かに
大島小學校出身といふことを
誇つて
居るのです。
又た
心から
感謝して
居るので
御座います。
僕は
不幸にして
外國に
留學することも
出來ず、
大學に
入ることも
出來ず、ですから
僕の
教育、
所謂教育なるものは
不完全なものでしよう。
けれども
尚ほ
僕は
大島小學校の
出身なることを、
諸君の
如き
立派な
肩書を
持て
居らるる
中で
公言して
少も
恥ず、
寧ろ
誇つて
吹聽したくなるのです。
問はれなければ
默つて
居ます。
問はれても
言ふて
益なき
仲間に
向つては
默つて
居ます。けれども
諸君の
如き
教育高き
紳士に
問はれては
實に
眞面目に
僕は
大島小學校の
出身といふことを
公言するのです。
早稻田を
出たものは
早稻田を
愛し。
大學を
出たものは
大學を
愛するのは
當然で、
諸君も
必ず
其出身の
學校を
愛し
且つ
誇らるゝでしよう。
其如く
僕は
故郷の
大島小學校を
愛し
且つ
其出身たることを
誇るのです。』
『そうです、
僕も
故郷の
小學校を
愛します。』と
言つたのはハーバード
出身の
紳士。
『そして
誇りますか。そして
其出身たることを
感謝しますか』と
問ひ
返へした
兒玉の
口調はやゝ
激して
居た。
『さうです。』
『
何故ですか』と
問ふた
兒玉の
眼は
輝いた。
『イヤそう
眞面目に
問はれては
困る。
僕は
小兒の
時を
回想して
當時の
學校を
懷しく
思ふだけの
意味で
言つたのです』とハーバードは
罪のない
微笑を
浮べて
言譯した。
『
解りました。それだけの
意味なら
解りました。けれども
貴殿がそういふことを
申されるのも
要之、
僕が一の
小さな
小學校の
出身であることを
誇るとか、
感謝するとか
言ふのは、
矯激の
言を
弄して
自ら
欺むき
又自ら
快とする
者のやうに
取つて
居らるゝからだらうと
思ひます。しかし、
僕は
決してさういふ
輕薄な
心を
以て
言ふのではないのです。
若し
諸君の
中、
僕と
同じく
大島小學校に
居られた
方が
有たなら、
矢張僕と
同じやうな
情を
持れるだらうと
信じます。
大島小學校に
居たものが、
今東京に
三人居ます。これが
僕の
同窓です。
此三人が
集まる
會が
僕等の
同窓會です。
其一人は
三田を
卒業して
今は
郵船會社に
出て
居ます。
其一人は
法學士となつて
今は
東京地方裁判所の
判事をして
居ます。けれども
彼等二人は
僕と
同じく
大島小學校出身なることを
今でも
僕と
同じやうに
誇り
且つ
感謝して
居るのです。そして
僕等は
月に
一度同窓會を
開いて
一夕を
最も
清く、
最も
樂しく
語り
且つ
遊ぶのです。』
兒玉の
言々句々、
肺腑より
出で、
其顏には
熱誠の
色動いて
居るのを
見て、
人々は
流石に
耳を
傾むけて
謹聽するやうになつた。
オックスホード
出身の
紳士は
年長者だけに
分ても
兒玉の
言ふ
處に
感じた
體で。
『それほどに
言はれますからには、
其大島小學校とやらいふ
學校には
何か
特種の
事があつて、
貴殿の
心をそれほどまでに
動かして
居るのだらうと
思はれます。それをお
話し
下さいませんか。ね、
諸君、それを
聞かして
戴だかうではないか。』
『さうとも、
兒玉さん
僕の
言つたことはお
氣に
觸らんやうに
願ひます。
何卒その
大島小學校のことを
話して
貰ひたいものです』とハーバードは
前言のお
謝罪にオックスホードに
贊成した。
『
諸君がお
聽下さるなら
申します、
強ては
申しません。
餘り
面白ろい
話ではないのですから。
眞面目な
事實は
流行の
小説とは
少し
趣を
異にしますから』と
兒玉は
微笑を
洩らして『
小説も
面白う
御座います。けれ
共事實は
更に
面白う
御座います。』
『
是非お
話を
願ひたいものです』とハーバードは
乘氣になつた。
『
宜しう
御座います、それではお
話しゝましよう。』
僕の十二の
時です。
僕は
父母に
從つて
暫く
他國に
出て
居ましたが、
父が
官を
辭すると
共に、
故郷に
歸りまして、
僕は
大島小學校といふに
入りました。
海岸から三四丁
離れた
山の
麓に
立て
居る
此小學校は
見た
所決して
立派なものではありません。
殊に
僕の
入つた
頃は
粗末な
平屋で、
教室の
數も
四五しか
無かつたのです。それで
他國の
立派な
堂々たる
小學校に
居て
急に
其樣見すぼらしい
學校に
來た
僕は
子供心にも
決して
愉快な
心地は
爲なかつたのです。
けれども
僕の
故郷は
二萬石の
大名の
城下で、
縣下では
殆んど
言ふに
足らぬ
小な
町、
殊に
海陸共に
交通の
便を
最も
缺て
居ますから、
純然たる
片田舍で、
日本全國津々浦々までも
行わたつて
居る
筈の
文明の
恩澤も
僕の
故郷には
其微光すら
認め
得なかつたのです。
學校といふのは
此大島小學校ばかり、
其以外にはいろはのいの
字も
學ぶ
場所はなかつたので
御座います。
僕も
初は
不精々々に
通つて
居ました。
校長の
名は
大島伸一、
其頃僅に二十七八でしたらう。
背は
左まで
高くはないが、
骨太の
肉附の
良い、
丸顏の
頭の
大きな
人で
眦が
長く
切れ、
鼻高く
口緘り、
柔和の
中に
威嚴のある
容貌で、
生徒は
皆な
能く
馴れ
親しんで
居ました。
僕が
此校長の
下に
大島小學校に
居たのは二
年半で、
月日にすれば
言ふに
足らず、十二
歳より十五
歳まで、
人の
年齡にすれば
腕白盛でありましたけれど、
僕が
眞の
教育を
受けたのは
此時、
僕の
一生の
羅針盤を
置れたのは
實に
此時です。
僕が
大島學校に
上つてから四五日目で
御座いました、四十を
越えた
位の
一人の
男が
學校の
運動場に
來て、
校長と
頻りに
何事か
話して
居ましたが、
其周圍に七八名の
生徒が
立つて
居て、
顏を
上て
二人の
物語を
聞て
居ました。
暫くして
其男は
丁寧にお
辭儀を
爲て、
校長も
至極丁寧に
禮をして、そして
二人は
別れました。
僕は
子供心にも
此樣子を
見て
不審に
思つたといふは、
其男の
衣服から
風采から
擧動までが、
一見百姓です、
純然たる
水呑百姓といふ
體裁です、けれども
校長の
之に
對する
樣子は
郡長樣に
對する
程の
丁寧なことなので、
既に
浮世の
虚榮心に
心の
幾分を
染められて
居た
僕の
目には
全く
怪しく
映つたのです。
けれども
家に
歸つて
別に
此事を
父にも
問はず、
學校朋輩にも
聞きませんでした。
一月
經たぬ
内に
自然と
此不審が
晴れて
來ました。
四十男の
水呑百姓と
思つたのは、
學校より十町ばかり
隔だつて
居る
松林の
奧に
一構の
宅地を
擁し、
米倉の
三棟を
並べて
居る
百姓、
池上權藏といふ
男で、
大島小學校の
創立者、
恩人、
保護者であつたのです。それならば
何故、
池上小學校と
名稱ずして
大島小學校といふ
校長と
同姓の
名稱を
付けたか、
諸君も
必ず
不審に
思はれるでしよう。これには
又意味の
深い
理由が
有るのです。
僕が
此小學校に
入る
僅か
四年前に
此學校は
創立されたので、
其より
更に
十年前のこと、
正月元日の
朝でした、
新年の
初光は
今將に
青海原の
果より
其第一線を
投げ、
東雲の
横雲は
黄金色に
染り、
沖なる
島山の
頂は
紫嵐に
包まれ、
天地見るとして
清新の
氣に
充たされて
居る
時、
濱は
寂寞として
一の
人影なく、
穩かに
寄せては
返へす
浪を
弄し、
又弄されて
千鳥の
群は
岩より
岩へと
飛びかうて
居ましたが、
斯かる
際にも
絶望の
底に
沈んだ
人の
心は
益々闇を
求めて
迷ふものと
見え、
一人の
若者ありて、
蒼ざめた
顏を
襟に
埋め、一の
岩角に
蹲居つて
頻りと
吐息を
洩して
居ました。
彼は
其覺悟を
決めながらなほ、
躊躇うて
居たのです。
人の
足音に
驚ろいて
後を
振返へると
一人の
老人が
近づいて
來る
處です。
老人が
傍に
來て、
『
日が
今昇るのを
見なさい、
何と
神々しい
景色ではないか』と
優しく
言葉をかけるまで、
若者は
何を
思ふ
暇もなく、ただ
茫然と
老人の
顏を
見て
居たのです。
『
見なさい
今だ、
今が
初日出だ』と
老人は
言ひつゝ
海原遠く
眺めて
居るので、
若者も
連られて
沖を
眺めました、
眞紅の
底に
黄金色を
含んだ
一團球は
今しも
半天際を
躍出でて、
暫したゆたふて
居る
樣です。
『
神々しいぢやアないか、
人間といふものは
何時でも
此初日出の
光を
忘れさへ
爲なければ
可いのぢや』と
老人は
感に
堪えぬやうに
言つて
手を
合して
靜かに
禮拜しました。
若者も
思はず
手を
合はしました。
見るが
中に
日は
波間を
離れ、
大空も
海原も
妙なる
光に
滿ち、
老人と
若者は
恍惚として
此景色に
打れて
居ました。
『
私は六十になるが
斯な
立派な
日の
出を
見たことはない。
來年はこれよりも
美くしい
初日の
出を
拜みたいものだ。あゝ
佳い
心持ぢや』と
老人は
言つて
更に
若者に
向ひ『お
前さんは
何處の
者ぢや』と
問ひました。
『
村の
者で
御座います。』と
若者は
僅に
答へました。
老人は
其柔和な
顏に
微笑を
浮べて
『
毎年初日の
出を
拜みに
出るのか。』
『さうでは
御座いません。』
『さうか、それでは
今年が
初めてだの
昔からも
一年の
謀は
元旦にありといふから、お
前さんも、
今日の
日の
出を
忘ないで
居なさい
如何じや
大變顏の
色が
惡いやうじやがそんな
元氣のない
顏色をして
居ては
世の
中を
渡れるものではない、
一同に
日の
出を
拜んだも
目出度い
縁じや、これから
私の
宅へ
來るが
可い、
雜煮でも
祝はう。』
老人は
先に
立て
行くので
若者も
其儘後に
從き、
遂に
老人の
宅に
行つたのです、
砂山を
越え、
竹藪の
間の
薄暗き
路を
通ると
士族屋敷に
出る、
老人は
其屋敷の
一に
入りました。
老人の
名は
大島仁藏、
若者の
名は
池上權藏であるといふことを
言へば、
諸君は、
既に
大概の
想像はつくだらうと
思ひます。
老人は
若者の
自殺の
覺悟を
最初から
見て
取つて
居たのですけれども
最後まで
直接にさうとは
一言も
言ひませんでした。
屠蘇を
飮ましながら、
言葉靜かに
言つて
聞かした
教訓は
決して
珍らしい
説ではなかつたのです。
少し
理窟を
並べる
男なら
誰でも
言ひ
得ることなんでした。
朝日が
波を
躍出るやうな
元氣を
人は
何時も
持て
居なければならぬ。
だから
人は
何時も
暗い
中から
起て
日の
出を
拜むやうに
心掛けなければならぬ。
そして
日の
入まで、
手あたり
次第、
何でも
御座れ、
其日に
爲るだけの
事を
一心不亂に
爲なければならぬ。
日は
毎日、
出る、
人は
毎日働け。さうすれば
毎晩安らかに
眠られる、さうすれば、
其翌日は
又新しい
日の
出を
拜むことが
出來る。
一日
働いて一日
送れば、それが
人の
一生涯である、
日の
出る
時に
人は
生れて、
眠る
時に
人は
死ぬるのである。
老人の
言ひ
聞かした
言葉は
先づ
斯んなものでありました。そして
權藏は
奮ひ
起つて
老人の
下を
去つたのです。
池上權藏は
此日から
生れ
更りました、
元より
強健な
體躯を
持て
居て
元氣も
盛な
男ではありましたが、
放蕩に
放蕩を
重ねて
親讓の
田地は
殆ど
消えて
無くなり、
家、
屋敷まで
人手に
渡りかけたので、
遂に
失望落膽し、
今更ら
世間へも
面目なく、
果は
思ひ
迫つて
大いに
決心して
居たのです。けれども
彼は
此日から
生れ
更りました。
一
日又一
日、
彼は
稼ぎに
稼ぎ、
百姓は
勿論、
炭も
燒ば、
材木も
切り
出す、
養蠶もやり、
地木綿も
織らし、
凡そ
農家の
力で
出來ることなら、
何でも
手當次第、そして
一生懸命にやりました。
五年目には
田地も
取返し、
畑は
以前より
殖え、
山懷の
荒地は
美事な
桑園と
變じ、
村内でも
屈指の
有富な
百姓と
成り
終せたのです。しかも
彼の
勞働辛苦は
初と
少も
變らないのです。
大島老人の
病床に
侍して、
最後の
教訓を
彼が
求た
時、
老人は
靜かに
『お
前さんは
日の
出を
覺えて
居なさるか。』
『
毎朝拜んで
居ります。』
『お
前さんは
日の
出の
盛な
處を
見て、
元氣よく
働らいたのは
宜しい、これからは、
其美くしい
處を
見て、
美くしい
働をも
爲るが
可からう。
美しい
事を。』
權藏は
暫く
考がへて
居たが、
『それでは
先づ
如何な
事を
爲せば
可ろしう
御座いましよう。』と
問ひました。
老人は
目を
閉ぢたまゝ
『それはお
前さんが
考がへなければならん、お
前さんの
心で、これは
美くしいことだと
思ふこと、
日の
出を
見てあゝ
美しいと
思ふと
同じやうな
事ならば、
何でも
宜しい。お
前さんは
日の
出を
拜むだらう。』
『ヘイ
拜みます。』
『それなら
拜まれるほどのことをなさい。』
『
及びもつかん
事で
御座ります、
勿體ないことで
御座ます。』と
權藏は
平伏しました、
『イヤそうでない、お
前さんは
日の
出の
元氣を
忘れましたか。』
と
言はれて
權藏は、『
解りました、
難有う
存じます』と
言つたぎり、
感泣して
暫らくは
頭を
得上げませんでした。
大島仁藏翁の
死後、
權藏は
一時、
守本尊を
失つた
體で、
頗る
鬱々で
居ましたが、それも
少時で、
忽ち
元の
元氣を
恢復し、のみならず、
以前に
増て
働き
出しました。
鬱々で
居たのは
考がへて
居たのです。
彼は
老人の
最後の
教訓を
暫時も
忘れることが
出來ないので、
拜まれる
程の
美くしい
事を
爲るには
何を
爲たら
可からうと
一心に
考がへたのです。
神々しき
朝日に
向つて
祈念を
凝したこともあつたのです。ふと
思ひ
當つた
時には
彼は
思はず
躍り
上つて
喜んださうです。『
自分は
大島先生を
拜んでも
尚ほ
足りない
程に
思ふ、それならば
大島先生のやうなことを
爲ればよい。』
其處で
學校を
建る
決心が
彼の
心に
湧たのです、
諸君は
彼の
決心の
餘り
露骨で、
單純なことを
笑はれるかも
知れませんが、しかし
元來教育のない
一個の
百姓です、
寧ろ
其心ばせの
眞率で
無邪氣な
處を
思へば
實に
美しさを
感ずるのです、
僕は。
兔も
角も
此決心が
定まるや、
彼は
更に
五年の
間眞黒になつて
働きそして、
遂に一の
小學校を
創立して、これを
大島仁藏の
一子大島伸一に
獻じ、
大島小學校と
命名して
老先生の
紀念となし
一切のことを
若先生伸一に
任して
了つたのです。
以上は
大島小學校の
由來で
御座います。けれども
果して
池上權藏の
志は
學校を
建てたばかりで、
成就しましたらうか。
若し
大島伸一先生を
得なかつたなら、
此小學校も
亦た、
世間に
有りふれた
者と
大差なく
終つたかも
知れません。
然し
伸一先生は
老先生の
麗はしき
性情を
享けて
更にこれを
新しく
磨き
上げた
人物として
此小學校を
監督し
我々は
第二の
權藏となつて
教導されたのです。
權藏の
志は
最も
完全に
成就されました。
忘れもしません、
僕が
病氣で
學校を
休んで
居ると、
先生が
訪て
來て
『
貴樣は
豪い
人になるのだから、
決して
病氣位に
負てはならん
病氣を
負かしてやらなければ』と
言つて
僕を
勵げましたことがあります。
伸一先生は
決して
此意味を
舊式に
言つたのではありません。
『
爲す
有る
人となれ』とは
先生の
訓言でした。
人は
碌々として
死ぬべきでない、
力の
限を
盡して、
英雄豪傑の
士となるを
本懷とせよとは
其倫理でした。
人は
人以上の
者になることは
出來ない、
然し
人は
人の
能力の
全部を
盡すべき
義務を
持て
居る。
此義務を
盡せば
則ち
英雄である、これが
先生の
英雄經です。
そして
老先生が
權藏に
告げた
言葉、あれが
其註解です、そして
權藏其人を
以て
先生は
實物教育の
標本としたのです。
日の
出を
見ろとは、
大島小學校の
神聖なる
警語で、
其堂々たる
冲天の
勢と、
其飽くまで
氣高かい
精神と、これが
此警語の
意味です。
一日又一
日と、
全力を
盡して
[#「盡して」は底本では「盡くして」]働く、これが
其實行なのです。
伸一先生の
柔和にして
毅然たる
人物は、これ
等の
教訓を
兒童の
心に
吹き
込むに
適して
居たのです。
そして、
先生も
亦た、
一心不亂に
此精神を
以て
兒童を
導き、
何時も
樂げに
見え、
何時も
其顏は
希望に
輝やいて
居ました。
小學校生活の
詳しい
事は
別に
申しますまい。
去年の
夏でした、
僕は
久ぶりで
故郷に
歸つて
見ましたが、
伸一先生は
年を
取つたばかり、
其精神と
其生活は
少しも
變りません。
年を
取つたと
言つた
處で四十二三ですもの、
人間の
働盛です。
精神意氣に
變のある
筈もないのです。
たゞ
老て
益々其教育事業を
樂み、
其單純な
質素な
生活を
樂しんで
居らるゝのを
見ては
僕も
今更、
崇高の
念に
打れたのです。
昔のまゝ
練壁は
處々崩れ
落ちて、
瓦も
完全なのは
見當ぬ
位それに
葛蔓が
這い
上つて
居ますから、
一見廢寺の
壁を
見るやうです。
其壁を
越して、
桑樹の
老木が
繁り、
壁の
折り
曲つた
角には
幾百年經つか、
鬱として
日影を
遮つて
居る
樫樹が
盤居つて
居ます。
昔風の
門を
入ると
桑園の
間を
野路のやうにして
玄關に
達する。
家は
僅に
四間。
以前の
家を
壞して
其古材で
建たものらしく
家の
形を
作て
居るだけで、
風趣も
何も
無いのです。
先生は
其一間を
書齋として
居られましたが、
書籍は
學校用の
外、
新刊物が二三
種床の
上に
置いてあるばかりでした。
縁邊には
豆が
古ぼけた
細籠に
入て
干てある、
其横に
怪しげな
盆栽が二
鉢並べてありました。
『
東京の
仕事は
如何です。
新聞は
毎々難有う、
續々面白い
議論が
出ますなア』と
先生は
僕の
顏を
見るや
口を
開きました。
『イヤ
如何も
愚論ばかりで
恥かしう
御座います、
然しあれでも
私の
力一杯なのです。』
『それで
十分です、
力の
限り
書いて
其で
愚論なら
別に
仕方も
無いからな。けれども
樂は
有ります。
私はこの
頃になつて
益々感ずることは、
人は
如何な
場合に
居ても
常に
樂しい
心を
持て
其仕事をすることが
出來れば、
則ち
其人は
眞の
幸福な
人といひ
得ることだ。
不精々々にやつた
仕事に
立派な
仕事はない、そして
一生懸命に
仕事する
時ほど
樂いものはないやうだ。』
先生の
此等の
言葉は
其實平凡な
説ですけれど、
僕は
先生の
生活を
見て
此等の
説を
聞くと
平凡な
言葉に
清新な
力の
含んで
居ることを
感じました。
伸一先生は
給料を
月十八
圓しか
受取りません、それで
老母と
妻子、一
家六
人の
家族を
養ふて
居るのです。
家産といふは
家屋敷ばかり、これを
池上權藏の
資産と
比べて
見ると
百分一にも
當らないのです。
けれども
先生は
其家を
圍む
幾畝かの
空地を
自から
耕して
菜園とし
種々の
野菜を
植ゑて
居ます。
又五六羽の
鷄を
飼ふて、一
家で
用ゆるだけの
卵を
採つて
居ます。
書齋の
前の
小庭は
奇麗に
掃除がして
有つて、
其處へは
鷄も
入れないやうにしてあります。
先生の
生活は
決して
英雄豪傑の
風では
有ません、けれども
先生は
眞の
生活をして
居のです、
先生は
決して
村學究らしい
窮屈な
生活、ケチ/\した
生活はして
居ません、けれど
先生は
自分の
虚榮心の
犧牲になるやうな
生活は
爲て
居ません。
僕は
先生と
對座して
四方山の
物語をして
居ながら、
熟々思ひました、
世に
美はしき
生活があるならば、
先生の
生活の
如きは
實にそれであると、
先生の
言論には
英雄の
意氣の
充て
居ながら
先生の
生活は
一見平凡極るものでした。
先生を
訪ふた、
翌日でした、
使者が
手紙を
持て
來て
今から
生徒十
數名を
連れて
遠足にゆくが
君も
仲間に
加はらんかといふ
誘引です。
僕は
直ぐ
支度して
先生の
宅に
駈けつけました、それが
朝の
六時、
山野を
歩き
散らして
歸つて
來たのが
夕の
六時でした、
先生は
夏期休業と
雖も
常に
生徒に
近き、
生徒の
爲めに
時間を
送つて
居らるゝのです。
諸君の
中、
若し
僕の
故郷に
旅行せられるやうなことが
有つたならば、
是非一度大島小學校を
訪はれたいものです。
海岸に
近き
山、
山には
松柏茂り、
其頂には
古城の
石垣を
殘したる、
其麓の
小高き
處に
立つて
居るのが
大島小學校であります。それが
僕の
出身の
學校なのです、四十
幾歳の
屈強な
體躯をした
校長大島氏は、四五
人の
教員を
相手に二百
餘人の
生徒の
教鞭を
採つて
居られます。
『
日の
出を
見よ』といふ
警語は
今も
昔に
變りなく、
恰も
日の
出の
力と
美とが
今も
昔も
變りのないやうに、
全校の
題目となり、
目標となり、
唱歌となり
居るのを
御覽になりましよう。
語り
終つて
兒玉は
一呼吸吐くやオックスホードの
紳士は
『なるほど
能く
解りました、
日の
出は
力です、
美です、そして
實に
又希望です、
僕は
貴殿が
大島小學校の
出身であることを
感謝し、
誇らるゝことを、
當然と
思ひます。
僕も
一度是非お
國に
參つて
大島伸一先生にもお
目にかゝりたう
御座ます。』
『そして、
僕は
池上權藏に
會つて
見たい』など
高等商業の
紳士は
大眞面目で
言つた。
『
權藏は
今如何して
居ますか』と
問たのはハーバードである。
『さうでした、
權藏のことを
言ふのは
忘れて
居ました、
益々達者に
暮して
居ます。
大島小學校も
今は
村の
經濟で
維持して
居ますが、しかし
村の
經濟の
首腦は
池上權藏ですから、
學校の
保護者は
依然として
其の
昔覺悟まできめた
百姓權藏であります。
權藏の
富は
今や
一郡第一となり、
彼の
手に
依つて
色々の
公共事業が
行はれて
居るのです。けれど
諸君が
若し
彼に
會たら
恐らく
意外に
思はるゝだらうと
思ひます。
權藏は
最早彼是六十です。けれども
日の
出づる
前に
起きて
日の
沒するまで
働くことは
今も
昔も
變りません。そして
大島老人が
彼を
救ふた
時、
岩の
上に
立つて、
『
來年はこれよりも
美くしい
初日の
出を
拜みたいものだ。』と
言つた
言葉、
其言葉を
堅く
覺えて
居て、
其精神を
能く
味はうて、
年と
共に
希望を
新たにし、
一日又一日と
働らいて
老の
至るのを
少しも
感じない
樣子です。
『
老を
知らなければ
老いず、
僕は
池上權藏は
死ぬるまで
老ないだらうと
思ひます、
死ぬる
今はの
際にも、
彼は
更に
一段の
光明なる
生命を
望んで
居るだらうと
思ひます。
不死不朽とはこのことでは
御座いますまいか。
權藏は
其居間の
床に
大島老先生の
肖像をかゝげ、
其横に
日の
出の
圖が
下つて
居ます。これは
伸一先生に
求めて
畫いて
貰つたのださうです。そして
大島小學校の
一室には
池上權藏の
肖像がかけてあります。』
それより
一週間ばかり
經つて、
兒玉進五の
宅で
彼の
所謂る
同窓會が
開かれた。
兒玉は
此席で
同好倶樂部の
一條を
話した、
他の
二人は
唯だ
微笑したばかり、
別に
何とも
評しなかつた。
會毎に
三人は
相談して
必ず
月に
一度の
贈品を
大島小學校に
送る、それが
必ずしも
立派な
物ばかりではない、
筆墨の
類、
書籍圖畫の
類などで、オルガン
一臺を
寄送したのが
一番金目の
物であつた。
『
今度は
何を
送らう』と
兒玉は
二人に
問ふた。
『
矢張書籍が
可からうぢやないか』と
判事が
答へた。
『
本なら
僕に
考へがある。
今度會社で
世界航海圖の
新しいのが
出來たから、あれを
貰つて
送らう
如何だね、』と
郵船會社員が
一案を
出した。
『それも
至極妙だ。けれども
其他何にしよう。』
『
畫は
如何だらう』と
判事が
一案を
出した。
『
畫も
可いが
最早有りふれたものばかりだからなあ。』
『
實は
先日、
倫敦の
友人から『
世界の
名畫』と
題して、
隨分巧妙に
刷てあるのを二十
枚ばかり
贈つて
呉れたがね、それは
如何だらうかと
思ふのだ。』
『
可かろう!』と
他の
二人は
贊成した。
『
其所で
例の
唱歌の
一件だがね、
僕は
色々考がへたが
今更唱歌にも
及ぶまいと
思ふのだ
如何だらう。『
日の
出を
見ろ』で
澤山じやアないか。それを
なまじつか今の
歌人に
頼んで
作らした
所でありふれた、
初日の
出の
歌などは
感心しないぜ。
若し
作くるなら
學校から
出た
者が
作つたのでなければ、とても『
日の
出を
見ろ』の
一語で
我等が
感ずるやうな
物は
出來ないぞ、
如何だろう?』と
兒玉の
説いたのに
二人は
異議なく
贊成し、
兒玉は
二人の
前で
大島校長宛にすら/\と
次の
手紙を
書いた。
『
御依頼の
唱歌の
件は
我等三人とも
同意致し
兼ね
候。
東京にも
歌人の
大家先生は
澤山あれど
我等のやうに
先生の
薫陶を
受け
大島小學校の
門に
學び
候ものならで、
能く
我等の
精神感情を
日の
出の
唱歌に
歌ひ
出し
得るもの
有るべきや、
甚だ
覺束なく
存候。
我等の
學校も
何時かは
眞の
詩人出づることあらん。その
時までは
矢張り『
日の
出を
見ろ』で
十分かと
存候。
日の
出の
唱歌を
歌ふて
朝寐坊する
人物が
學校から
出るやうになりては
何の
益にも
立つまじく、
其邊御賢慮願上候。』
三人は
連名で
此手紙を
出した、
大島先生から
直ぐ
返事が
來て
『
御主意御尤に
候。
日の
出の
唱歌は
思ひ
止まり
候。
淺ましい
哉。
教室に
慣れ
候に
從がつて
心よりも
形を
教へたく
相成る
傾き
有之、
以後も
御注意願上候。』
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。