松の樹が嫌いだった。
「君、あれは
冗談によくそんな事を云われた。誰もが知っている通り、春夏秋冬と、松の木
が、しかし、先生が松を愛されなかったのはそう云う手数がかかるとか、物入が
お花見と云う行事は大すきだった。しかし、同じ様な理由で桜の木も木としては好きでなかった。私が麹町にいた時代、よく散歩のお供をして英国大使館前をぶらついたが、あの桜並木を見て、
「もう少し木肌が滑かだといいんだがなあ。」
と云われたのを思い出す。
同じ様な意味で梅もそう好きではなかったらしい。けれど、初春の縁起物として盆梅は(殊に紅梅)賞玩された。しかし、花時がすむと、きまって庭の片隅にほうり出されて、大部分はそのままに枯れて仕舞い、残った物も、翌年にはもう花をつける事が出来なかった。方々から贈物があって、時には相当高価らしい盆梅もあるので、慾ばり屋の私は、
「もう少し手入をなすったら。」
とよく云ったものだ。と、先生は、
「だって君、我々が枯らして仕舞うから植木屋が立ってゆくんだぜ。」
先生はそう云う人だった。由来、盆梅の仕立ての事は云わない事にした。
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ゴツゴツした松の木肌の感触を嫌われた先生は、自然の反対現象として、柳、
同じ意味で、猫柳もすきだった。随筆集の題名にもなっている。これは、後に説く俳諧趣味から出発していると思う。
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草花は早春のクロッカス、ヒヤシンス等から、秋の終りまで、どこの家にもある様な和洋の花が植えられて、交る交るに咲いていたが、その中で一番
それ等の庭の花や、又到来の花なぞ、すべて自分で
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生き物は概して好きでなかった。鳥も犬も飼われていなかった。
「飼うならキリギリスをお飼いなさい。あいつは江戸っ子でさあ。」
半七老人がそう云っている。鈴虫も蛍もいた。ある人の書いた評伝の中に、「蟻を殺されなかった」とあるが、その事は私はききもらした。が総じて、こうした小さい、
その中では、蛙が一番好きだった。雨蛙でもよし、蟇でもよし、おそらく先生のペットの中で、これが一番だったと思う。麹町の元園町時代は、市街の中央だったが、それでもお城のお
「何故蛙が好きだった?」
本統に好きなものには、その理由があるわけではない。しかし、
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先生と玩具類と結びつけた話は有名である。それも、手のこんだ高価なものより、一刀
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書画骨董の類については、概して無関心であられたと思う。勿論、諸方から持込みもあり、
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食道楽であった。
一番すきだったのは、
肉類もすきであった。日露戦争以来と云う事であるが、牛の缶詰もすきだった。それからサンドウィッチも好まれた。病中には殊にそうだった。
それに反して果実類は、そうすきでなかった。ただパインアップル
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煙草は朝日だった。相当に強い量だった。病気になられて、一時、一日十本と云う事になっていたが、とても気の毒なので間もなくその事は止めになった。最後近くには「もううまくなくなった」と云っていられたが、一日の朝、「煙草を」と云われるので差し上げたが、二口ほど吸われた。それが最後だった。勿論、棺にはいくつもの朝日が入れられた。
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先生の旅ぎらいは有名である。ことに晩年はそうであった様である。半七老人は日光と箱根へ一度ずつ行ったきりと云う事になっている。それも御用と誰かの病気見舞かなにかで、よんどころない事になっている。
先生は、記者時代には、相当に旅行されているし、日露戦役には従軍もされ、世界大戦後には欧洲旅行までされて、なかなかどうして旅嫌いどころではなく、普通人の何十倍もの旅をされたわけであり、銚子、磯部、成東、
銚子、磯部なぞの外では、大抵な処にはいつも後から出かけて行って、御馳走になったり一緒に近所を歩いたりするのが、殆ど例になっていた。
そうした時、先生の宿で、先生の室へ最もよく出入したのは、宿の主人でなく、内儀でなく、客引の番頭や、湯番や、庭掃きの爺さん等であった。かつて長瀞の時には、この爺さんが、畑の唐もろこし等よくもぎって来ていた。先生はそれらの人々と隔意なく、世間話をするのがお好きだった。人間綺堂の面目が躍如としている。こんな時に、前に書いた野良犬なぞが可愛がられた。先生はその犬の事を話すのに「この人が||この人が||」等云われた。それがちっとも
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こうした旅の最後は、去年の夏の
その時の事は、先生御自分でも文藝春秋にも書かれていたが、夜が
あくる朝、権現様へ参詣して、バスで強羅へ戻った。十二時に早昼をよばれて、豪雨の中を東京へ立った。入れ違って三橋(久夫)君が上ったが、その雨にはだいぶ困ったらしい。夏中の予定だったが、思えば憎い雨だった。
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ほんの一時だったが、写真機をいじられた事がある。震災後の元園町時代に、激しい神経衰弱にかかられた時、丁度素人写真流行時代だったので、大村(嘉代子)さんが、病気見舞に「これでも持ってゆっくりして下さい」と、ベストコダックを進呈された。
そこで、例の大使館前や清水谷公園や靖国神社なぞの、先生の朝夕の散歩区域の中で幾十枚かの写真が出来たはずであるが、どうなったか。その年の秋には、それをもって例の嫩会の連中と青梅から、多摩上流を氷川村まで行かれた。そこでも二本ばかり写された筈だが、それも今は見あたらない様である。私が写したのがアルバムにたった一枚残っている丈けである。そして、その遠足きりで写真機はどっかへしまって仕舞われた様子である。
椅堂と写真機、
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こうした遠足は、湯の旅の外に、必ず年に春秋二度位ずつあった。桜の国府台なぞには二度も行った。帝釈様へ参詣して、名物の大煎餅なぞ竹につけてかついで、ブラブラと歩いた。
「どう見てもみんな仕出しだな。」
と笑われたりした。そこの草餅屋へ入って、そのまずさに、
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こうした思い出を書くと限りがない。最後にお祭がすきだった事、火事が好きだった||と云うと語弊があるが||事を書いて筆を
湯治先から等の手紙で、
「何月何日はお祭だから、それまでに帰る。」
と云った意味の手紙をよく貰った。そして、キッとその通り戻って来られた。と云って、氏子総代の中に交って神輿の渡御の供に立たれると云うわけではない。ただ、赤飯を
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火事は好きだったが、地震は大嫌いだった。凡そ嫌なものの随一であったろう。勿論、好きな人間もなかろうが、我々では殆ど感じない様な微震でも、すぐに感じて庭へ駈け出された。その人が、あの大震災のたえ間ない余震の中で、避難の二日目から日記を記し、やがて復興する時のために手にふれる限りの本から叮寧にノートされていた事は、何と云っていいか、頭の下る限りである。
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地震についでは、風の日がいけなかった様だ。早稲田の遺品展覧会を見た人は、その遺愛品の中に、あまりに沢山の文鎮があったのを妙に思ったであろう。風ぎらいな先生は、あれで、本であれ、原稿であれ、片っぱしから、押えつけて置かれたのだった。一時華やかなりし左翼連中が、しきりに弾圧され出した時、
「君、あれと同じだね。」
と、笑われた。
反対に雨の日は静かでいいと云われた。
今夜も春の細い雨が降っている。
(三月三十一日夜)
(「舞台」一九三九年五月、岡本綺堂追悼号より再録)