山嶺は眠り、谿谷、巉岩、洞窟は沈黙す
アルクマン1
「おれの言うことを聴け」と鬼神はその手を予の頭にかけて言った。「おれの話すのはザイーレ河2のほとり、リビア3の荒涼たる地域のことだ。そこには平穏もなければ、沈黙もない。
河の水はサフラン色の病んだ色をしている。そして海の方へ流れずに、永久に永久に太陽の赤い眼の下で騒々しく
しかし睡蓮の領域には境界がある、||暗い、恐ろしい、高い森の境界だ。そこでは、ヘブリディーズ4あたりの波のように、低い
夜のことで、雨が降っていた。降っている時には雨であったが、降ってしまうと血であった。おれは沼の中で、高い睡蓮の間に立っていた。雨はおれの頭上に落ちた。||そして睡蓮はその荒廃
それから、突然、薄い、ものすごい霧の中から月が昇った。その色は
それから仰いで見ると、岩の頂上に一人の男が立っていた。おれはその男のすることを見ようと思って睡蓮の間に身を隠した。丈高く堂々たる男で、肩から足まですっかり古代ローマの
その男は岩上に坐し、頬杖をついて、荒涼たる様を眺めていた。彼は低いざわめく灌木を見下し、太古からの高い樹々を見上げ、更に高く颯々たる空と、真紅の月とを仰いだ。おれは睡蓮の陰に身をひそめ、その男のすることを見守った。彼は寂寥に身震いした。||しかし、夜は更けてゆき、彼は岩上に坐していた。
それから彼は眼を空から転じて、暗憺たるザイーレ河と、その黄色のものすごい水と、あまたの蒼白い睡蓮とを眺めた。そして睡蓮の溜息と、その間から聞えて来る囁きとに耳を傾けた。おれは自分の隠れ場に身をひそめて、その男のすることを見守った。彼は寂寥に身震いした。||しかし、夜は更けても彼は岩上に坐していた。
そこでおれは沼の奥の方へおりてゆき、睡蓮の一面に茂っている間へ遠く入っていって、沼の奥の沢地に棲んでいる河馬を呼んだ。すると河馬はおれの呼び声を聞き、ビヒモス5と共に岩の根もとへ来て、高く、すごく、月下に吠えた。おれは自分の隠れ場に身をひそめて、その男のすることを見守った。彼は寂寥に身震いした。||しかし、夜は更けても彼は岩上に坐していた。
そこでおれは
そこでおれは憤って、沈黙の呪詛をかけて、河と、睡蓮と、風と、森と、空と、雷と、睡蓮の溜息とを呪った。するとそれらのものは呪われて、静かになった。月は空をよろめき上るをやめ||雷はやみ||電光は閃かず||雲は動かず||水はもとのとおり収まってとどまり||樹々は揺れなくなり||睡蓮はもう溜息をつかず||囁きもその間からもはや聞えず、またその広大無辺の曠野には少しの物音もなくなった。そしておれは岩の文字を眺めた。それは変っていた。||その文字は『沈黙』というのであった。
それからおれの眼はあの男の顔に落ちた。その顔は恐怖のために青ざめていた。そしてあわただしく彼は手から顔を上げ、岩上に立ち上って、耳をすました。しかし広大無辺の曠野には
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マージ教僧6の諸巻には||鉄表紙の、
[#改ページ]
1 Alcman ||紀元前七世紀頃のスパルタの大詩人。その詩の断片が後世に残っている。ここに引用されているのは、その六〇〔一〇〕六四六。
2 the river Z
ire ||コンゴー河のこと。

3 Libya ||アフリカの古名。
4 Hebrides ||スコットランドの西方にある群島。メンデルスゾーンにここの風物を||その寂寥、海の動揺、波のざわめき、海鳥の鳴声、風の号泣、大洋の怒涛などを、描いたきわめて美しい音楽、序曲「ヘブリディーズ」(一八三〇)がある。
5 behemoth ||旧約聖書(ヨブ記第四十章第十五節|二十四節)に記載されている河馬のような巨獣。
6 Magi ||古ペルシアのマージ教の僧族。マージ教は善悪二元説を認め、地水火風を崇拝する。その僧は超自然的の力を持つと称した。
7 Dodona ||古代ギリシアの Epirus の市。ゼウス神殿の所在地。ギリシア最古の神託所。