民衆の上にある英雄と、民衆のなかに

秀吉は、後者のひとであった。
生れおちた時から壮年期はいうまでもなく、
かれは自分も一箇の凡俗であることをよく
おそらく秀吉への親しみは、この後といえどかわるまい。理由はかんたんである。かれは典型的な日本人だったから。そして、その
日本人の長所も短所も、身ひとつにそなえていた人。それが秀吉だともいえよう。かれの長所をあげれば型のごとき秀吉礼讃が成り立つが、その方は云わずもがなである。われわれが端的に長所をかぞえたてたりすれば、かえって彼という人間の規格は小さくなる。かれの大きさとは、そんな程度のものではない。
わたくしのこの「新書太閤記」は、まだ秀吉の大往生までは書けていない。彼も英雄というものの例外でなく、晩年の秀吉は悲劇の人だ。大坂城の斜陽は“落日の荘厳”そのものだった。私はむしろ、彼の苦難時代が好きである。この書においても、秀吉の壮年期に多くの筆を注いだのは、そのためだった。また、ひとり秀吉だけの行動を主とする太閤記でもありたくなかった。

むかしからある多くの類本、川角太閤記、真書太閤記、異本太閤記など、それから転化した以後の諸書も、すべてが主題の秀吉観を一にして、彼の性情を描くのに、特種なユーモラスと機智と功利主義とを以てするのが言い合わせたように同型である。
かつての太閤記作家もみな、秀吉の人間とは、なかなか、真正面に組みきれなかったことが分る。わたくしはそういう逃げ方はしまいと思った。わたくしの力不足はわかっているが、彼もまた、わたくしたちと同じ血と凡愚をもっていた一日本人であったという基本が、何よりも著者の力であった。
著者
[#改丁]日本の天文五年は、中国の
日本では、その年の正月に、
後の
生み落された
||死んで生れたか。
と、みな思った。
でも、父の
||生きてるがなあ!
||何とか育とうによ!
······················································
その年の頃。
隣邦の中国では、
いやむしろ、元の前時代、
それも今と少しも変らない||
× × ×
ふりさけみれば
みかさの山に
いでし月かも
月を見、草を見、渡り鳥を見るにつけ、五郎大夫は、阿倍仲麻呂が歌ったような日本恋しさの望郷に、どれほど駆られたことか。
だが、明日こそ帰るのだ!
十二年間も留まっていたこの
「夜が明けたら······」
五郎大夫は寝ても眠れなかった。
「||日本に残して来た家の者たちは、わしが生きているとは夢にも思っていないだろうな。母はまだ達者かしら。
すると、同じ想いで、やはり寝つけないでいたものとみえ、日本から連れて来て以来、ずっと側に仕えてきた忠実な下僕の
「旦那さま。お目ざめでございましょうか。お目ざめなら、ちょっと······」
と、寝室の扉を外から軽くたたいた。
五郎大夫は、
「おはいり。||おまえも眠れないのか」
「なあに、私は」
捨次郎は部屋の中へ進んで来て、主人の前に立った。
「宵にぐっすり寝ておりますが······ただあのことが一つ気になりまして」
「あのこととは」
「お子様のことです」
「······ウむ」
と、五郎大夫も、ずきんと、胸の
この
彼女は、
姓は
話は、少し
そもそもこの江西省の
五郎大夫は、ここの陶器の製法を
日本から来るには。||海上六百里、長江を

その幾山河を、明日はまた、日本へ向って帰るのだ。
五郎大夫も、捨次郎も、眠れないほど
だが、宵から
梨琴は、窯場で五郎大夫と親しくなって、その
五郎大夫の研究はその目的を達して、いよいよ
「この子をどうしよう」
と、思いみだれ、おとといの夜から泣きつづけて、顔も見せない程だった。
下僕の捨次郎が今||ふいに主人の寝室を訪れたのもその梨琴が迷っていた問題を、やっと彼女も思い決めたというので、取次に来たのであった。
「ただ今、
「あ。······考え直したか」
五郎大夫は、彼女の気持を思いやって、ほろりとした。
「ちょっと、呼んでくれい。||梨琴を」
「はい」
下僕の捨次郎は、部屋を出て行った。
大きい家ではない。
勿論、家も調度も、主従の服装も、すべてこの土地の風俗のままである。
「旦那さま。お連れしました」
捨次郎は、やがて梨琴の腕を抱いて、
梨琴はすぐ床へ泣きくずれ、
「
と、
祥瑞というのは、五郎大夫の中国名であった。陶器を焼く秘法を
「オオ······。今、捨次郎から聞いた。子どものことは、心配しないがいい」
こんな言葉では、慰めきれない気がしたが、五郎大夫は、そういうしかなかった。
梨琴は、やっと涙をおさめて、
「あなたにお別れする上に、子まで離すのは、死ぬより辛うございますが、よくよく考えてみると、わたしには身寄りもなく、体も弱いし、この子が大きくなるまでは、生きていられないと思います。そうすれば、この子はきっと、
もう彼女は、聡明な母の冷静に返っていた。
「||それにひきかえ、長年の間、あなた様のお
彼女は、泣いてばかりいた三日分の思いを一ぺんに晴らすように、云いつづけた。
「||日本には行ってみませんけれど、貴方のお心のうちには、何年か住まわせていただきました。貴方はいくら中国の着物を着、中国の女を持ち、中国の家に暮しても、血は驚くほど変らない日本人です。その日本の国は、情義に強く、武勇に
「············」
五郎大夫は
捨次郎も傍らに立ったまま、頭を垂れて、聞いていた。
その時、がやがやと、家の外で声がしだした。
ふと見れば、窓は
「やあ、皆の衆。お早くからありがとうぞんじます。今すぐ支度しますから、茶でも
扉をひらいて、挨拶した。
見送りの者たちは、
「いや、茶も朝飯も、途中の景色のいい所でやろうよ。支度がよかったら出かけようじゃないか」
と、いった。
土採り山や、
窯の数ヵ所から、暁の浅黄いろの空に向って、幾すじも、煙が立ちのぼっていた。
「
見送りの人々もいう。
祥瑞五郎大夫は、丘の上の道に立って、
「ええ、まったく」
振り
言葉は、それだけしか出なかったが、既往十二ヵ年のことが、一度に胸へ呼び起されていた。
わけて、後に残して来た
その梨琴は、今朝、
「わたしは、家の窓からお見送りさせて戴きます。
といって、家に残った。
飽くほど、頬ずりして、泣く泣く彼女が手から離した子は下僕の捨次郎に今、負ぶわれている。男の子だ。
名は、
見送り人は、十五、六名もいて、荷物は一頭の
「捨さん、重いだろ。長い
と、いってくれたので、捨次郎は背中の子を鶏公車へ移した。
車輪の大きな手押し車である。野や山坂のきらいなく押し通る小型の荷車だから、わざと歯の心棒には油を
その荷物の間に挟まって、
船で泊り、
見送り人もそれまで来る途中で、二人別れ、三人去り、ここの城内まで
船宿で、五郎大夫主従は、幾日か船の便を待っていた。
すると

船宿の手代が、薄い紙包を持って来て、
「旦那にお上げしてくれと、
と、告げた。
容貌や年頃を
怪しんで、包を開いてみると、それは五郎大夫が長年のあいだ、手に入れようとしても、どうしても手に入れることが出来なかった陶製の秘本だった。
この本を所持していた者は、
「日本人には売らない」
といったり、途方もない多額な値を吹っかけたり、五郎大夫も遂に、断念するほかなかった物であった。
「どうしてそれを、梨琴が手に入れたろう?」
彼女が、姿を見せたのは、たった今のことだという。五郎大夫は、子を宿の者に頼んで下僕の捨次郎と共に、城内の街を
見つからない。||梨琴のすがたは、とうとう見つからなかった。
日は暮れてしまう。
夜は深くなる。
かえって、宿の者が、五郎大夫主従を探しぬいて、やっと追い着き、
「もう、船が出ますぞ」
と、いう。
あわてて、荷物や子どもを、

便船は、江の中ほどに、
暗い水に
「泣くな、泣くな。何をお泣きやる。······よし、よし」
||すると何処からか、
「ア、
五郎大夫は、見まわした。
梨琴も琵琶が上手であったからである。||だが、櫓を
「旦那、ご存じありませんか。この
五郎大夫は、聞き流して、闇をながめていた。
琵琶はやんだ。
そして、通りすがった
「······?」
もとより梨琴ではない。
けれど彼女の心と、五郎大夫の心とは、この星の下と、波間のうえとで、明らかに交流していた。
「日本に帰っても」
と、彼は独り思った。形の上の別れが、絶対の別れではないと思った。
一つの花が、他の一つの花へ、花粉を触れた時、それから生れ出た物は、永遠に地上から消えない芽を土から持つ。
その芽は、自然が手伝って、繁茂する。花になりまた、結実する。
千里を隔てていても、土と土とが、また||心と心とが、かくまで似ている二つの国では、そうした文化の交流は、雨と海水とのように、何千年も前から自然に行われて来た作用であった。
深夜。長江の秋だ。
五郎大夫は、東へ東へと、揚子江を下ってゆく船の上でも、そんなことを想いつづけた。
自分が、この江を
また、
ずっと以前の
同じに、支那からも、
「おらの
「おらのだい」
「うそだいうそだい」
「見つけたのは
この辺りいちめん、真っ白な大根の花と、
その中を、棒でたたいて、七、八名の悪童連が、朝鮮蜂とよぶ尻に袋を持ったのを、一匹でも見出すと
だが、悪戯と乱暴は、この
「阿呆ッ」
蜂を争いながら、日吉はどなった。
大きな子に、
転んだ上を、またほかの子が踏んづけた。日吉は、その足を
「||
と、宣言して、
そして、宙へ飛ぶと、その手の中に蜂をつかんでいた。
「やあい、おらの
日吉は、蜂を握って、十歩ほど先へ行ってから

蜂の腹は、甘い
「······アア、甘え」
日吉は、眼をほそくして、蜜が
「············」
ほかの連中は、
「
と、大きな
仁王だけには、日吉も
「えて坊」
「猿やい」
「さる。さる。さる」
と、いちばんチビの
於福は、数え年九ツというが、七歳の日吉とそう違わなかった。しかし、色は白いし、目鼻立ちもよく、容貌では較べものにならない。
それに、村では、
「やい、いったな!」
日吉は、誰に猿とよばれても、怒った
「いつも俺が、
日吉にそう
白茄子と悪口をいわれたことよりも、恩知らずといわれたことが、子ども心にも、強く恥を感じたらしかった。
ほかの子供らは、もう眼を
「ア、兵隊だ」
「武者が通る」
「
わあっと、両手を挙げて、彼らは
領主の
そういう時、領主の兵は、火の手を見るや、
冬||
そんな年には当然、土民は、食物にも家にも困ったが、誰も、領主を怨まなかった。飢えれば飢えるで、寒ければ寒いで、
(今に、一
と、むしろ今川氏に対する
この辺の
だから領主の軍勢とみれば、自分自身みたいに思った。また、子供らの生れながらの血も、兵馬を見ると、何を見たよりも強く昂奮した。
「行ってみろ」
誰かがいうと、わっと皆、それへ向って今も、駈け出した。
於福と日吉だけは、後に残ってまだ睨みあっていた。気の弱い於福は、他の者と一緒に駈けて行きたかったが、日吉の眼に縛られて、去るに去れない姿だった。
「······ごめん」
於福は、
「ごめんね。······ね」
日吉は、ぷっと赤い顔をして、肩を揺りうごかしたが、於福の泣き出しそうな眼をみると、急に、
「
と、肩を
そしてまだ少し胸がすまないようにいった。
「
「ない······」
「唐人子だって、おら達のなかまになればおら達の国の
「うん」
「ほんとだぞ、於福」
「うん······」
於福は、眼をこすった。泥が涙に
「ばかやい。泣くから唐人子っていわれるだい。武者を見に行こう、ア、早く行かねえと行っちまうぞ」
於福を引ッぱって、日吉も後から駈け出した。彼方の黄色い
二十騎ほどの侍と、二百人ばかりの歩兵だった。それに小荷駄の一隊が、ごっちゃに
「||わあッ」
畑から飛んで来た子ども達は、軍馬を追い越して堤へ駈けあがった。
日吉も、於福も、仁王も、ほかの
「
「勝ちいくさ」
「
ふしをつけて叫びながら、手の花を、声と共に
村でも、街道でも、領土の子ども達は、兵馬を見るとこう
(寄るな······)
とも叱らない代りに、彼らの歓呼に、ニコと一笑を
殊に今通るこの一隊は、三河方面から引き揚げて来た軍の一部らしく、前線でさんざんに戦い抜いて来たものとみえ、馬も人も疲れぬいていた。
馬の中には、腹を突かれて、腸をぶら下げている馬もいた。兵の中には、満身血になって、戦友の肩にすがってやっと歩いて行くような兵もいた。
槍の柄にも、具足にも、
「水を
河原へ降りると、先頭の武将のひとりが云った。
側を囲んでいた騎馬の侍がすぐ、そのことばを大声で、隊に伝え、
「やすめ」
と、令を
騎馬の者は、ばらばらと馬を降り、
ああ!
といわないばかりに皆、草の中に腰を落した。
「············」
旗本たちも、口をつぐみ合っていた。脚の傷や、
けれどもとより子ども達に、そういう観察はない。血を見れば、自分が血を流したように勇み、槍や長柄の光を見れば、敵を
「八幡八幡」
「
馬に水を飼っていると、馬にも花を投げて
「
と、手招きして訊いた。
「あ? ······。おらけえ」
日吉は、彼の手の下へ歩いて行った。黒い鼻の穴を上へ向けて、その人を正視した。
「うん······」
日吉を手招きした手は、日吉の汗くさい頭を押えて、大きく
まだ二十歳そこそこの若い武者だった。この人も戦って来た兵隊のひとりかと思うと、日吉は、頭に
(どうだ、おれの家は、こういうお侍と知ってるんだぞ)
という誇らしさを、並んで
「弥右衛門の子。おまえはたしか日吉といったな」
「ああ」
「いい名だ。いい名だ」
若い武者は、彼の頭を一つ
日吉は、
「だけどなあ、おじさん。おらのことを、誰も日吉って呼ばないよ。日吉って呼ぶのは、おっ母さんとお父さんだけだ」
「似てるからな」
「猿にだろ」
「自分も心得ているのはなおいい」
「だって、みんないうもの」
「はははは」
戦場暮しの侍の声は、笑い声まで大きかった。側にいた侍たちも同時に笑った。その間、日吉は
「ベッ。······ベッ」
日吉は、噛むだけ噛んだ
「
「おらの年け」
「ウム」
「
「もうそうなるかなあ」
「おじさん、何処の人」
「おまえの母親と親しい者だ」
「へえ?」
「おまえの母の妹は、ようわしの屋敷へは遊びに見える。帰ったら、母へよろしくいってくれ。
一息やすんだ兵馬は、その時もう列を立て直して、庄内川の浅瀬を彼方へ渡り出していた。
振り向くと、弾正も急いで、馬の背に跳ねあがった。陣刀だの、具足だのが、その人の体で、羽ぶるいするようにガチャッと鳴った。
「
云い捨てると、列から後れた弾正は、駒を
彼の母は
漬物や穀類や
(この先、どうして······)
と、胸がつまるのである。
子どもは、
「||あんな物、いっそのこと
納屋の壁を仰ぐと、真っ黒な
以前、良人が
それも今は、
(良人が何といおうが、日吉は、侍にはさせぬ)
と、思うのであった。
自分が木下弥右衛門へ
(未来は千石取りに)
と、いう希望を賭けて、欲しい世帯道具よりも先に、無理工面して、新調したものではなかったか。
だが、そんな若い頃の夢は、今の現実のまえには、
でも、女手で。しかも二人の子を抱いて、桑を
(この先? ······)
と考え出すと、さすがに、この細腕と根気がつづくかどうか、彼女の女ごころは、納屋の闇のように、
晩の
「||おっ母」
日吉の声だ。
「おっ母ア······」
と、家の横を廻って、自分の姿を探しているらしいのである。
彼女は、ニコと笑った。
そうだ!
自分にも一つの光明はある。あの日吉を育てることだ。はやく大きくして、あの気の毒な不具の良人に、一日一合のお酒でも上げられるような良い跡取り息子に仕上げることだ。
彼女はそう思って、急に心も明るくなり、
「日吉やあ。ここだよ。||母はここにおるがのう」
と、大きく答えた。
母の声に、日吉は飛んで来た。そして、
「おっ母。今日なあ、おっ母の知ってる人に会ったよ、河原で||」
「誰にの」
「お侍だよ。
「じゃあ、
「
「だから、今いうたでないか。光明寺の
「弾正さんて」
「
「許婚って?」
「ま。
「だって、分んねえだもの」
「今に、夫婦になる、良人のことじゃがな」
「なアんだ。······じゃあ、おっ母の妹のお
日吉は、何と解したか、クツクツ笑った。彼の母は、その白い歯と、小ましゃくれた唇を見ると、わが子ながら、早熟な||と小憎らしく思うのだった。
「おっ母。納屋ん中に、これっくらいな、刀があったろ」
「あるが、どうするのじゃ」
「貸してくんないか。どうせ、あんなボロ刀、お
「また。
「······いいだろ」
「いけません」
「なぜ」
「百姓の子が、刀など、持ち馴れたとて、どうなろうぞ」
「おら、侍になるんだい」
日吉は、駄々ッ子足を踏んで、一文字に
「······
突然、そう叱ると、母はあわてて涙を拭き、片手に、彼の手を
「少しは、水なと汲んだり、姉の手助けなとしなされ」
ぐいぐいと曳いて、土間口の方へ歩き出した。
「
日吉は、母と争って、手と手を引っ張り合いながら叫んだ。しかし、地に
「||やだよウっ。嫌だってえに。おっ母の馬鹿。嫌でい!」
すると、竹窓の中から、老人のような
父の声を聞くと、日吉は首をすくめて黙ってしまった。父の弥右衛門はまだ四十がらみであったが、長年、廃人同様な
「······
母は、そっと手を
解かれた手を顔へやると、日吉は眼をこすって、しゅくしゅく泣き出した。母はこの駄々坊を持て余し顔に、
(この子はまア······)
と見つめているうち、自分も共に、泣いてしまいたくなった。
「||お
暗い屋根裏の見える窓の内でまた||病人特有な、
「あなた。||少しこの腕白を叱ってくだされ。今も今とて」
弥右衛門に
すると、家の中の弥右衛門は、げらげら笑って、
「何のこった、納屋の中に
「そうなんです」
「
「それがいけないんです」
「男の子だ。弥右衛門の子だ。いけないことがあるものか。出してやれ、出してやれ」
「············」
お奈加は、まあと、
(どうだ!)
日吉は、勝った気持を、高慢そうに眼にあらわした。||だが、ほんの瞬間だった。その眼は、母の青じろい頬をつたう涙を見るに及んで、すぐ
「おっ母、泣くのお止しよ。おらはもう、刀はいらないや。||姉えに水を汲んでやろうっと!」
十一歳ばかりの女の子が、猫背を立てて、火吹竹で
「姉え。水汲んでやろか」
日吉が、飛び込んで来ると、おつみは、びくっとした眼を上げた。||そして何をされるかと、
「いいがな。いいがな」
と、顔を振った。日吉は、
「オヤ。水なんか、いっぱい汲んであるじゃねえか。味噌を
「味噌など擂ってくれんでいいわ。邪魔な||」
「邪魔だって、おらは、用をしたいんだ。用をさせろ。漬物出してやろか」
「今、母さんが、出しに行ったがな」
「じゃ、何するんだ」
「ぬしゃあ、
「こんなに大人しいじゃないか。······なんだい。まだ
「いいってえに!」
「どけったら」
「あれ、そんなことするで、消えちもうた」
「嘘つけ。自分が消したくせに」
「嘘。嘘。ぬしが······」
「うるせい」
日吉は、燃えない
おつみが、大きな声で、泣きながら奥へ云いつけた。弥右衛門のいる炉部屋とは近いので、すぐ父の声が、日吉の耳を
「こらっ、姉を打ったな。男のくせに、女を打ったな。||日吉っ。ここへ来い。ちょっと、これへ来い」
壁の陰で、日吉は
父親は怖かった。世の中で怖いものの第一が父親だった。
日吉は、
「何ですか」
と、弥右衛門の顔を仰いだ。
木下弥右衛門は、炉を前に坐って、麻箱に
うしろの壁には、起居につかう杖が立てかけてある。
常に坐っている彼の傍らにある麻箱は、そういう不具な体でも、いくらかの家計を助けるために、気が向くと、麻を
「日吉」
「はい」
「あまり
「え」
「姉に向って、悪たいをつくのもよくない。男のくせに、女どもを相手に、何という
「何も······何もおらは」
「だまれ」
「············」
「わしには耳がある。おまえが何処で何をやっているかぐらいのことは、坐っていても知っている」
日吉は、心のうちで
だが弥右衛門は、この子が可愛くて堪らなかった。||戦場で片輪となった、この脚、この手は、二度と前の体に
(······だが?)
と弥右衛門はまた、日吉を見ていると、情けない心地がした。
子を見ること親に
とはいえ、これは一粒だねだ。弥右衛門は懸けられない期待を、無理にも日吉に懸けているのだった。
「納屋の刀を、欲しいのか。||日吉」
「ううん······」
日吉は、首を振った。
「欲しくないのか」
「······欲しいことは、欲しいけど」
「なぜ正直にいわぬ」
「だって、おっ
「女は、刀嫌いだからな。よしよし、待っていろよ」
弥右衛門は、坐ったまま、ぐるりと後ろを向いた。そして壁の杖につかまり、ちんばを曳いて奥へはいって行った。
この家は、貧乏百姓に似ず、
(何しに行ったんだろ?)
日吉は、
弥右衛門はやがて、一腰の脇差を取り出して戻って来た。それは納屋の隅に
「日吉。これはおまえの物だ。欲しければ、いつでも持て」
「え。おらの······?」
「だが、まだまだ、今のおまえでは、この刀は差せまい。差しても、人が笑う。||これを差して歩いても、人が笑わぬようにはやくなれ。いいか、早くそうなってくれ」
「············」
「この刀は、
弥右衛門は、眼をねむって、ぽつりぽつり語り出した。
「
「············」
「そういう人が、わしの子供の時分には、たくさんあった。
弥右衛門は、
いつのまにか、隣の部屋には燈心が
日吉は、赤い焔を見つめながら父親のことばに聞き入っていた。||弥右衛門もまた、日吉に分っても分らないでも、こういう真実を吐く相手には、妻でもいけないし、女の子のおつみでもいけなかった。
「||木下家の系図があればのう、おまえにも、分るように話せるが、······系図は焼けてしまってない。だが、生きた系図は、おまえにも伝えてある。······これじゃ」
弥右衛門は、
||血だぞ。
と教えたのである。
日吉は、
「
「······ええ」
日吉はまた、
「だが、わしは偉くない。あげくに、この通りな不具者だ。······だから日吉、貴様は偉くなってくれよ」
「······お
日吉は、円い目をあげた。
「偉くなるって、どんな人になったら偉いの」
「それやあ、
「············」
日吉は、当惑したように、黙ってしまった。自信のない顔つきである。父の眼から眼を
七歳の子どもだ。無理もない||と思いながらも、弥右衛門は、その頼りない挙動を見ると、
(やはり血ではない、境遇かなあ?)
と、心のうちで
彼女の考えは、弥右衛門の考えとは、あべこべであった。
(侍になれ。偉くなれ)
と、子を励ます良人を、彼女は恨めしくさえ思った。そして
(こんな子に、無理なことばかりを。······日吉や、お父っさんは、御無念なので、あんなことばかしいうけれど、おまえまでが、お父っさんの
胸いっぱいに、子の行く末を、祈るのだった。
「さ、夜食にしようぞ。日吉もおつみも、寄ったがよい」
彼女は、子たちの父を中心に、炉のまわりへ、箸や
「飯か」
いつものことながら、弥右衛門は貧しい
だが、日吉もおつみも、一椀の稗粥に会うと、頬も鼻も赤くして、
「新川の茶わん屋様から味噌もいただいてあるし、
子達の母は、そう云いながら、不具の良人が、家計を心配しないように、気を
そして彼女自身は、二人の子が腹いっぱい喰べ、良人も十分に済ました後でなければ箸を取らなかった。
夜食がすむと、間もなく寝てしまう。何処の家でもそうなのだろう。夜の中村は真の闇だった。
||ところが、闇夜になってから、野や道を、人の
野武士の群れだの、軍馬だの、
「ウ、ウウム。······ウウム」
日吉は、よく
眠りの中に、闇夜の跫音が聞えるのか、天下の動乱が、彼の夢を、
或る夜などは、側に寝ていたおつみを蹴とばし、おつみがびっくりして、泣きだすと、
「八幡っ、八幡っ、八幡っ」
と呶鳴って、いきなり寝床から跳ね上がり、眼ざめて、
「
と、弥右衛門はいう。
だが、日吉の母は、
「
と、いった。
× × ×
そのうちに、この一軒にも、大きな変りが見舞った。
翌年||天文十二年一月二日に、弥右衛門が病死したのである。
人間の死。
というものを、日吉は初めて、父の死顔に見たが、涙はこぼれなかった。葬式の中でも、飛んだり跳ねたり、遊んでいた。
その一周忌も過ぎて、翌年の九月頃。
日吉が
この一軒にまた、人がたくさん集まった。餅をついたり、酒をのんだり、めでたいめでたいと歌ったりして夜を
親類の一人が、
「日吉、今夜のあの
と、彼に云い聞かした。
日吉は、餅を喰べながら、奥を覗きに行った。いつになく、母がきれいに化粧して、知らない小父さんと並んで
「八幡、八幡、
と、日吉は、その晩も誰よりもはしゃいでいた。
また、夏が
とうもろこしの背が高くなった。日吉や村の悪童連は、毎日、
赤蛙の肉はうまい。朝鮮蜂の
だが、そうして彼が遊びに熱していると、間もなくきっと、
「||猿ウ。猿ウっ」
と、探しに来る者があった。
弥右衛門の
その代り、日吉も、家にいれば、朝から夜まで、手伝いをさせられた。
ちっとでも、怠けていたり、
毎日、筑阿弥はきっと
「猿ウっ。うちの猿めは、何処へ行ったかあ」
と、探しに来ると、日吉は、何ものも捨てて、とうもろこしの中へ滑り込んでしまった。
探しあぐねて、筑阿弥がのこのこ帰って行くと、日吉は躍り出して、
「わあい」
と凱歌をあげ、晩に帰れば、夕飯も与えられず、仕置にあうことも、その時は頭にもなく、また、遊び狂うのだったが||今日はそういうわけには行かなかった。
「野郎」
筑阿弥は、とうもろこしの中を、
「こいつはいけねえ」
と、考えたので、堤をこえて、河原地の方へかくれた。
すると、一人ぼっち、
筑阿弥は、彼を見かけて、
「アア茶わん屋の坊っちゃんですか。うちの猿めは、何処へ隠れたでしょうか」
と、
於福は、
「知らない」
と、何度も首を振っていたが、
「そんな嘘をいうと、てまえがお宅へ伺った時に、旦那に
と、
「あの舟ん中へかくれて、
と、指さした。
小さい河舟が河原に引きあげてあった。筑阿弥がそこへ駈け寄ると、
「ヤ。こいつ!」
筑阿弥は跳びかかって日吉を突きとばした。突ンのめった日吉は、河原の石に
「痛えっ」
「あたりまえだ」
「ごめんよ。ごめんよ」
「猿め。今日という今日はもう······」
二ツ三ツ頭を
猿々と、憎悪して呼んでいるように聞えたが、筑阿弥は何も、日吉がそう憎いわけでもなかった。貧乏を直そうと
「もう
引っ吊して、家に帰ると、また二つ三つ
彼の母が止めると、
「おまえが甘いからいけないのだ」
と、どなりつけ、姉のおつみが一緒になって泣くと、
「何を泣く。わしの
と、また撲った。
日吉も、初めは、撲られる度に頭をかかえて、
「なんだい、なんだい、
と、
彼の母は、
「これっ······そんなことを」
と、真っ蒼になって、彼の口を抑えたが、筑阿弥は、
「この
と、激怒して、今度はゆるさなかった。裏の納屋の中へ
納屋の中から、暗くなるまで、日吉の
「出しておくれよっ。······ようっ。······出しておくれったらっ。······ばか野郎っ。
そして、わあん、わあん、と吠えるように泣いていたが、
すると、耳もとで、
||日吉や。日吉や。
と、呼ぶ声がした。
彼は死んだ実父の夢を見ていたので、うつつに、
「お父さん!」
と、叫んだが、眼の前に立っている姿を見ると、それは母のお
母は筑阿弥の眼をしのんで持って来た食物を与えて、
「さ。これを喰べて、朝まで大人しくしておいで。朝になったら、お父さんにお詫びしてあげるから」
と、いった。
日吉は、かぶりを振って、母のふところへしがみついた。
「嘘だい、嘘だい。おらには、お父さんはねえやい。お父さんは、死んじまったじゃねえか」
「これ、またそんなことをいう。なぜおまえは、そう聞きわけがないのだろ。いつもいつも、私があんなにいって聞かせておくのに」
彼の母は、身を切られるように、辛かった。けれど、母がなぜ身を
夜が明けると、日吉のことで、筑阿弥は彼の母を朝から呶鳴りつけていた。
「おれの眼をぬすんで、
夫婦の中で、小半日も、何か
陽が西になりかけた頃、お奈加は帰って来た。
(何処へ行っていた?)
とも訊かず、筑阿弥はまずい顔して、おつみを相手に働いていた外の
光明寺の僧は、
「
と、訊ねた。
筑阿弥は、黙ってお奈加のほうを見た。彼女は背戸の外で、両手を顔に当てて泣いていた。
「ふうむ。······それもよかろうが、寺入りには、証人も
「幸い、
「あ。加藤へ行ったのか」
筑阿弥は、なおさらほろ苦い顔をしたが、日吉の寺入りには、反対しなかった。
「よろしいように」
と、ひと事のように、彼はおつみへ用をいいつけたり、農具を仕舞ったり、日暮を忙しげに働き出した。
その間に、日吉は納屋から出されて、母に
一晩中、納屋の蚊に食われどおしでいたので、彼の顔は大きく
「お寺の方がいいや」
と、いった。
明るいうちにと、光明寺の住僧は、日吉に支度させて、連れて出た。
「猿。お寺へ上がったら、心を入れ換えて、よう修行せねばいかぬぞ。すこしは、読み書きも習うて、はやく一人前の坊さんになって見せい」
と、いった。
日吉は、うんと一つ、
寺は、村外れから少し先の、
だが、少年日吉は、生活が変っただけでも、刺戟になったとみえ、生れ変ったようによく働いた。機転はきくし、はきはきしていた。住僧たちも可愛がって、
「こいつは仕込んでやろう」
と、毎夜、手習させたり、小学や孝経を教えたりした。記憶力も至っていい。
「おい。日吉。きのう途中でおまえのおっ母さんに会ったから、日吉もよくやっているといっておいたぞ」
住僧の一人がいうと、日吉も
けれど、そういう神妙な状態も一年とはつづかなかった。十一歳の秋頃になると、日吉には、この
二人の住僧が近郷へ
「やアい、敵の奴ども。どこからでも攻めて来い」
と、
時刻でもないのに、突然、鐘楼の鐘がごんごん鳴った。
寺の丘から、石が飛んでくる。瓦が落ちてくる。
「何じゃ、何じゃ」
寺の丘を仰ぎ合った。
畑に、働いていた百姓の娘に飛んで来た瓦が
「······光明寺のチビ僧めが、またおらどもの腕白をあつめて戦遊びをやりおるな」
麓の家の人たちは三、四人して登って行ったが、本堂の前に立つと、開いた口がふさがらなかった。
本堂は灰だらけだ。外陣も内陣も乱脈な
旗にでも使ったのか、
「庄坊やアい」
「与作やアい」
親たちは、子を探したが、チビ僧の日吉も見えなければ、腕白たちも、
「この寺の猿と遊ぶと、もう家へ入れないぞ」
親たちが、麓へ降りて行くと、すぐにまた、わアっと、本堂が震動し、
||日が暮れると。
わアん。わあん······
と、手を折ったり、
一日中、托鉢に歩いている二名の住僧は、毎度尻をもちこまれるので、もうさじを投げていたが、その日は、本堂へ立つと、
「······あっ」
顔見あわせて
内陣の前にある大香炉が真っ二つに割れているのだ。
この大香炉は、寺にとって、今のところ唯一の
(これは伊勢松坂のさるお方から、特に焼いてくだされた物。わしとは深い御縁があるので、生き
と、云い添えて、寄進してくれた物なのである。
平常は、箱に納めて、珍重していたが、つい七日ほど前、その茶わん屋の御寮人様が、仏参に見えるというので、その折、出して用いたまま、つい仕舞いもせずにあったのである。
それが割れているのだ。
「······?」
住僧は、顔いろを失った。老師の耳に入れたら、
「猿じゃな」
「そうだ。他にこんな
「どうしてくれよう」
二人の住僧は、すぐ日吉を引き
「ごめんなさい」
と、謝った。
謝られると、住僧はかえってかっと怒った。日吉の天性の顔つきが、平気でいっているように見えたからである。
「この
二人がかりで、日吉をうしろ手に、縛り上げてしまった。
本堂の丸柱へ、日吉はくくりつけられた。
「幾日でもこうしておいてやる。鼠にでも喰われてしまえ」
と、住僧は
だが、日吉には毎度のことだった。辛いのは、翌る日になって友達が来ても、遊べないことだった。
「やい、縄を解いてくれよ。解かないと、ぶん撲るぞ」
日吉は
たまたま、参詣にのぼって来る年よりや村の女たちも、
「あれ、猿が」
と、指さして、
「よい気味や」
と、笑い合ったり、からかって逃げた。
いつとなく彼の小さいたましいは、今にみろ、今にみろ、と
また、その小さい肉体は、
その二つのものを、唇にむすび、自分の
「なにくそ」
と、不敵な顔を作った。
柱によりかかって、彼は睡ってしまった。||そして自分の
恐ろしく日が永い。
日吉は、退屈してきた。
そのうちに彼はふと、まだ眼のまえに突きつけたまま置いてある||二つに割れた陶器の大香炉に眼をすえ出した。
香炉の底には、
「どこだろ?」
と、退屈な眼に、想像をほしいままにさせたのである。
「どこの国だろ?」
日吉には、分らない。その分らないのを、少年の
「······こんな国って、あるのかしら?」
思いつめているうちに、彼の頭にひらめいたものがある。それは
「そうだ。
日吉はただ一人で、愉快だった。
日暮れがた||
また、
「もういかん。
と、嘆息してしまった。
寺入り証人の加藤家は、この
明け暮れ、
「おえつ」
「はい」
と、返辞は遠く台所のほうでする。つい一両年前に、結婚したばかりの新妻であった。
「誰か······
「また、
「いや、
「······ほんに」
おえつは、手を拭きながら、門口へ出て行ったが、すぐ引き返して、
「光明寺のお坊さまが、日吉を連れてお見えなさいました」
と、
「ははあ、さては猿に、お
と、予期していたように笑った。
この加藤家と、中村の木下家とは、当然、親戚の間であった。妻の姉の息子というので、寺入りの時、証人に立っているので、
「僧侶に不向きとあれば、ぜひもないこと。当家から中村の親元へ帰すとしましょう。お世話がいもなく、御迷惑ばかりをかけて||」
と、夫婦して詫びを述べ、日吉の身は、その晩に引き取った。
「では、親御へは、そちら様からどうぞ悪しからず」
光明寺の僧は、肩の荷を降ろしたように帰って行った。
日吉は、ぽつねんと置き残されたが、物珍らしげに、室内を見まわし、
「誰の家だろ?」
と、考えていた。
寺入りの時は、
「小僧。晩の飯は喰べたか」
やがて、弾正が前へ来て坐りながら、にやにやいう。
「喰べた」
かぶりを振ると、
「菓子を喰え」
と、甘い物をたんとくれた。
日吉は、ボリボリそれを喰べながら、
(この息子、すこし足らないのかな?)
弾正は疑った。なぜならば、余りに自分を見るので、試みに、彼も目をこらして、
「はははは」
彼の方が、先に目を
「いつの間にか、大きくなったなあ。日吉、わしの顔を覚えているか」
そういわれて、日吉はかすかに思い出した顔つきだった。||これは七歳の頃、河原で頭を撫でてくれた小父さんなのだ。
武人の慣いとはいえ、
結婚してから、まだ日も浅いが、妻とふたりで、家庭を楽しむような一日すら滅多にない。
その良人は、たまたま、きのうから家に帰って、休養していた。そして明日はもう清洲の城へ詰め、また幾月かは、この家で共に暮す日もない||と思っていた折も折なのである。
「······ま。困った子が」
と、おえつは当惑の眉をひそめた。
棟は離れているが、この小屋敷には、良人の老母もいるし、家族もいる。
(こんな
と、思われるのも、嫁の身には、肩身の縮む気がするのだった。
だがその日吉は、良人の居間で、先刻から頓狂な声を出しつづけていた。
「あ! じゃ小父さんは、いつか河原で、大勢のお侍と一緒に、馬に乗ってたろ。あのお侍の中にいたんだろ」
「ウム、思い出したか」
「覚えてらい」
急に甘たれ声で||
「そんなら、おらの家と親類だもの。おらのおっ母さんの妹と、おじさんと、
と、
「もし······お食事の支度ができましたが」
と、
見ると、良人の弾正は、日吉を相手に、腕角力を取っているのだ。日吉は顔を真っ赤にして、蜂のように尻を立てているし、弾正も子どもみたいにそれに応じていた。
「······あなた」
「飯か」
「汁が冷えますから」
「待て。······いや、おまえ先に独りで喰べてしまえ。この小僧、すぐ本気になるからおもしろい。はははは、どうもおかしな奴だぞ」
と、夢中である。
日吉の
翌日、清洲城へ立つ時、弾正は
「親どもが承知なら、屋敷へ置いて養ってくれてはどうだ。物の役には立つまいが、ほんものの猿を飼うよりは増しだろう」
||だが、おえつは
「······いえ、やはり中村の姉へ帰しましょう。もしお
「それやあ、どっちでも、
一歩、家庭を出れば、もう生きて帰るか帰らぬか、心は主君と
「あんなにも、男は、功名ばかりが、大事なものかしら!」
おえつは、後ろ姿を見送って、また幾月かの淋しさを思った。用事がすむと、彼女は早速、姉の子の日吉を連れて、中村へ出かけて行った。
その途中。
「おう、これは」
と、向うから来て、おえつに丁寧なあいさつをした人がある。
商人だろう。しかし商人にしては、大家の主人にちがいない。きらびやかな
「加藤様の
懇意とみえておえつは、
「中村の姉の家まで参ります。この子を連れて||」
と、日吉を
「ホ······。その
「もう、お耳にはいりましたか」
「いや今も実は、そのことでの、ちょっと寺まで行って参ったので」
日吉は、何だか
「オヤ。この子のことで、お寺へお出かけ下さいましたのですか」
「そうですよ。光明寺から宅へ謝りに来ましてな。||何かと、
「ほんに、この
「何のさ。御寮人までがそういわせられな。
「でも、稀れな御名器というおはなし······」
「ただ、惜しいのは、わしがお
「
「ところがもう、御病気でお果てなされた。近頃、染付ものの陶器に、
「世間のうわさゆえ、どうか存じませぬが、お宅様に引き取ってお育てになっている、
「はい。どうして知れたか、
茶わん屋捨次郎はそういって、にやにや日吉の顔をながめた。友だちの
「ところが、この日吉どのだけは、いつも於福を
と、捨次郎は、胸をそらして笑い、そしてまた、こう附け加えて云った。
「親御のお考えもおざろうが、もしまた、奉公に出す場合、宅みたいな所でもよい
また、初めのような丁寧なあいさつを交わして、その人は別れ去ったが、日吉は、おえつの
「おばさん。今のは誰」
「茶わん屋捨次郎といって、諸国の
「ア。それで茶わん屋っていうのか」
いちど黙って、おえつと共に、てくてく歩み続けていたが、また、
「
と、今の聞きかじりを思い出して、出しぬけに訊ねた。
「
おえつは簡単にいったが、日吉がたてつづけに、
「どっちの方?」
だの、
「どれくらいな広さ?」
だの、
「明国にも、城があって、侍がいて、
だのと訊き出すので、
「ま、うるさい。少しは黙って歩くもんですよ」
と、おえつは
だが、この叔母さんの
彼は、ふしぎでふしぎで
だから香炉の絵でみても、鳥のかっこうは尾張の国の鳥とちっとも変っていない。人間の着物も、船の型も変っているけれど、鳥は同じだ。鳥には国がない。いや天地がみんな一つ国だ。
「見たいなあ、方々の国を」
彼には、これから連れて帰されるわが家の狭さや、貧乏などは頭の隅っこにもなかった。
やがて||眼で見て初めて、
「困った子よのう」
と、つくづく
日吉はまた、母の乳ぶさに吸いついている乳のみ児に、

「おっ母、いつ生れたの、この子」
「おまえは、兄さんになったんだよ。
「なんてえ名?」
「
「変な名だな」
頓狂な声でいったが、しかし彼は痛切に、何か感じたらしかった。弟というものに押し出された兄の意識だった。
「あしたから、おらが
余り彼がいじくったので、小竹は泣き出した。
おえつが帰って行くと、入れちがいに
そして、日吉を見出すと、すぐ呶鳴った。
「野郎っ、また追ン出されて来たか!」
家に帰ってから、一年の余はいつか
「猿っ、
筑阿弥は、彼のすがたがちょっとでも見えないと、探し廻って、呶鳴りつけた。
「今、やりかけてるところだよ」
口ごたえでもしようものなら、
「えい。またつべこべ」
と、土荒れした頑固な
子を負って、棉を
「もう十二にもなれば、どこの
そんな調子に、
(他人の御飯をたべると、こうも急に変るものか)
と、母は
そのくせ以前とちがって、筑阿弥は畑には滅多に出ず、家にもいない日が多かった。町へ行くらしいのである。そして酔って帰っては、子をどなり、妻に当って、
「いくら働いたって、この家の貧乏は直りッこねえわ。喰いつぶしは多いし、
と、口ぎたなく云いちらした末、なけなしの金を妻に算段させて、
その
「おっ母、おらあまた、奉公に行きたい」
と、日吉が母に洩すと、お
「······いておくれ、今おまえが家にいなかったら」
と、後の言葉は、云い得ない涙になって、ホロリと一
母の眼の一しずく||
それを見ると、日吉はもう、何もいえなくなってしまい、家を飛び出そうかという考えも、不平も、辛さも、胸から捨ててしまった。
だが、そんな
「くそをくらえ」
と、不敵なたましいが、彼の小さい体を燃やし、それが度重なって、
「お
と、恐い筑阿弥へ、
「何。奉公に出たい。ようし、何処へでも行って、他人の飯をまた喰って来い。その代り、こんど追い出されても、家には入れぬぞ」
と、筑阿弥もむきになって云った。子どもと思いながら、性格のくい合わないせいか、彼は十二の日吉と五分になって、いつも怒りを激発させるのだった。
村の
「口ばかり達者で、小生意気で、
と、排斥されて、間もなく、世話した者から、
「どうも役に立たないので」
と、日吉は家に帰されて来た。
筑阿弥は、
「どうだ猿。
と、いった。
日吉は顔を
「おらが悪いんじゃねえや」
と、云いたそうな顔して、義父の睨む眼を見返した。
そして、かえって、
「お
と、意見した。
「何をいう! 親に向って」
「だんだん
と、日吉を見直した。
他人の中へ出て、家へもどって来るたびに、子の姿は目立って大きくなっている。そして以前と違って、親を観る眼も、家庭を見る眼も、急に育って来たように思われる。筑阿弥は、その大人みたいな眼で自分を観察されるのが、うるさいし、恐いし、嫌でならなかった。
「はやく奉公口を探して出て行け」
翌日、もう日吉は、次の
やはり村の桶屋だった。
桶屋のおかみさんから、
「こんな末恐ろしい子は、わしが
というて、ひと月ばかりで帰された。
日吉の母は、何が末恐ろしいのか、世間の人のいう意味がわからなかった。
左官屋の手伝いにも行った。馬市の弁当売りにも行った。
「ああ筑阿弥どんの家のせがれか、あの
と、定評がついて、もう世話してくれる人もない。
その世間へ、母のお奈加は、
「あの子はもう、何にしたらよいやら、百姓は嫌うし、家には落ちつかないし······」
と、
十五の春である。
「今度こそは、辛抱しやい。また出るようなことになると、お世話してくれた加藤殿へも、妹が顔向けならぬし、世間でも、またかと笑いますぞ。······いや今度、落度でもして、先様から出されたら、誰よりもこの母がききませぬぞ」
云い聞かせて、次の日、新川の大家へ、
茶わん屋捨次郎の家だった。
そこには、幼友達の
商家でも、主従のけじめは、厳しかった。
若主人の
「おや。弥右衛門とこの小猿だね、おまえ。ああお父さんは死んで、村の筑阿弥が、次のお
於福のことばや物ごしはもう見違えるほど大人びていた。
「へい」
日吉はすぐ、下僕たちのいる部屋へ
友達の於福が、ちっとも友達らしい顔もしてくれないのが||日吉にはさびしかった。
日が経つと、於福は、
「おい、小猿」
使い馴れて、よけいに言葉なども、ずけずけいった。
「あしたは、早く起きて、
日吉は、それに対して、
「はい」
とか、
「へい」
とかしかいえないのだった。古くから来ている奉公人ほど、
「かしこまりましてござります」
と、
「どんな人があの中に住んでるのだろ。||どうしたらあん中に住めるんだろ?」
と、
虫ケラのように小さな
そして
「あれ。猿がゆく」
「猿が車を押して行く||」
などと
きれいな女と
その頃、清洲の城にはまだ、室町大名の
城のお
さけは酒屋に
よい茶は茶屋に
女郎は
清洲のすがぐちに
そのよい茶は茶屋に
女郎は
清洲のすがぐちに
少年日吉は、荷を積んだ手車を押して、鞠唄の中を、うつつに通った。
ぼんやりと||
「どうしたら
まだ、その解決もつかめていないのに、ただ一念に、
「今にみろ、今に」
と、
中村の家にいる姉のおつみの青い痩せた顔を思い泛べると、
(姉やにも買ってやりたいなあ)
と思い、
(おっ母に、あんな薬をいつもやれたら、もっと丈夫になるだろうに||)
と、そこの
(おらが偉くなれば)
と思う底には、世間の誰と見較べても、余りにみじめな、母とおつみとを、幸福にしてやりたいという気持も、多分にあった。
||で、彼は城下へ来ると、ふだんの望みや空想が一ばい大きく強く燃えて、
「今に! 今に!」
と心でつぶやき、
「どうしたら。どうしたら」
と、それのみ思って、いつも歩きつづけるのだった。
「ばか者っ」
と、日吉はふいに、人ごみの中でどなられた。繁華な辻を曲りかけた途端である。
わら
「盲かッ」
「うつけ者めが」
馬も、従者も、砕けた瀬戸物の上を、そう
割れた
「どうしたら
と、幼稚な空想のなかで||しかし真剣に思いつめた。
だが、少し
とっぷり日が暮れていた。彼は手車を小屋の中へ押しこみ、井戸端で足を洗っていた。
この近郷で、
母屋は広く、棟は幾つにもわかれ、倉も並んでいた。
「小猿う。小猿ッ」
「おい」
と、返辞した。
於福は、何が気に
「主人に向って、おいという返辞があるか。いくら云っても、言葉の直らない奴だ。わしの家は百姓じゃないぞ」
雇人の長屋を見廻る時だの、倉で働いている者へさしずに来る時は、この若主人はいつも、細竹を持って歩いている。日吉がそれで打たれたことは、きょうばかりではない。
「なぜ黙ってるのか」
「············」
「これ、はいといえ」
「············」
「いわないな。こいつ」
日吉は、また一つ打たれるよりもと、
「はい」
と、云い直した。
「清洲からいつ帰ったんだい」
「今帰りました」
「うそをいえ。台所の者にきいたら、もう御飯をたべたというじゃないか」
「眼がまわって、仆れそうになったんで」
「どうして」
「腹が
「なんだ、腹が減ったぐらい。帰って来たら、すぐ主人に帰りましたとなぜ
「足を洗ってから」
「言い訳するな。そのうえ今勝手元の者に聞いたら、清洲のお屋敷先へ届ける陶器を、途中でたくさん欠いたというじゃないか」
「ええ」
「正直に詫びようともせず、わしへ何と嘘をいったらいいだろうと、勝手の衆へ、げらげら笑いながら訊いていたろう。今夜は、堪忍しないぞ、やい」
於福は、日吉の耳たぶを引張って、歩き出しながら、
「さ。来い」
「御免なさい」
「くせになる。うんと
「かにん、かにん」
於福は手を離さない。井戸端にいた二、三人の雇人も、日吉の謝る声が猿の啼き声そっくりだといって見送っている。
父の捨次郎へ告げ口する気であろう。広い家の横を廻って行った。倉の前から庭口へと行く道は
そこまで来ると、日吉はふいに踏み止まって、
「やいッ」
と、於福の手を払い、また、
「やいッ」
と何度も云って、
「話があるから聞け!」
と、於福の驚いた顔を、大きな眼をして睨みつけた。
「こら、何するんだ」
「なにが何だ」
「主人に向って、お前は||」
と於福は、青ざめて、
「わ、わしは、主人だぞ」
「だからいつも、
「············」
「やい於福。てめえは、以前のことを忘れたか。おらとお前とは、友達だったろ」
「そんなことは、前のことだ」
「前のことは、何でも、忘れていいものか。唐人子、唐人子って、皆からてめえが
「覚えてるさ」
「覚えてたら、その時の恩も少しは考えろッ」
小さい日吉は、ずっと自分より大きな於福を、こう
「ほかの雇人でも、みんな云ってるぞ。大旦那はいいけれど、若旦那の於福は、生意気で、人情なしで思い
「············」
「てめえみたいな、御苦労なしの坊ンちこそ、貧乏して、困ってみて、他人の家の飯をちっと喰べてみるといいんだ」
「············」
「この先も、奉公人いじめをしたり、あんまりおらに辛くあたると、どうしてくれるか知れないぞ。おらの知っている小父さんは、
と、日吉は口から出放題にいって、
||母屋のほうで、
「於福様あ」
「若だんな。若だんな」
と、
「呼んでら」
日吉は、教えるように
「もう行ってもよし。だけど、今いったこと忘れるな」
云いすてて、彼は先に、元の裏口の方へもどってしまった。
だが日吉は、後では胸がどきどきしていた。
||今に奥から、呼びに来はしまいかと
しかし、何事もなかった。
いつかそんなことも忘れているうち、年が暮れた。彼は十六の年を迎えた。
百姓は百姓なみに、町人は町人なみに、十六となれば、元服のまね事をし、若い者の仲間入りをするのであったが、彼には、そんな祝い事はおろか、
ただ、正月なので、広い台所の板敷の隅っこで、ほかの下男たちと共に、
それでも彼は心の
「おっ母や、おつみは、このお正月、餅を喰べているかしら?」
と、ふと思いやった。
粟を作る百姓でいながら、餅もなく送った正月を、何度も覚えているからである。
彼が、そんなことを思い出しているうち、他の下男たちは、
「今夜はまた、旦那さまの客呼びで、おらたちまで、お末に
「嫌だのう。せっかくのお正月を」
「腹いたでも起して、寝ているとするか」
などと、何かこぼし合っていた。
年に二度か、三度。
初春とか、えびす講とか、何ぞの折というと、茶わん屋捨次郎はよく客を呼んだ。
「ようこそ。······ようお越し」
捨次郎はその日、とりわけ機嫌よく、そして腰ひくく、自身で接待したり、日頃の
彼の美しい妻女はまた、茶席をもうけて、珍らしい器や、心入れの花など
「御所望ならば」
と好む者へは、茶をたてて清雅なもてなしもした。
東山殿が
わけて瀬戸村一帯で焼かれる特色のある
「これは、お内儀どのか」
四十がらみの骨太な武士であった。次々と集まる客の中に入り
「てまえは御親類の米野の七郎兵衛どのの知合でござる。七郎兵衛どのの御案内で参る約束でござったが、生憎と、その七郎兵衛どのがお
と述べ、
「
と、辞儀ていねいに、後から名を云い添えた。
もの腰もやわらかい。郷士くさい武骨さもあるが、茶を一ぷくと望むので、妻女は、黄瀬戸の茶わんに、茶を立てて出した。
「作法はわきまえませぬ」
と、いうことは
「さすがは、評判なお物持ち、結構なお道具ぞろいだ。失礼なれど、そのお
「お目にとまりましたか。そのような物だそうでございまする」
「ふーむ」
と、感じ入った眼をそれにすえて、
「赤絵とあれば、
などとなかなか腰を上げないでいたが、そのうちに、奥の支度ができましたから||という迎えに、
「どうぞ、あちらへ」
と、妻女は案内して、共に広間のほうへ出て来た。
ぐるりと何十人前の膳が、広間の
「では、てまえもお
と、自分の席につく。
そしてそれから、彼が壮年時代に見聞して来た「
家内中をあげて、接待したり、馳走をしたり、暇をつぶしてまで、茶わん屋の主人捨次郎が、こうした客呼びを年に幾度かする気もちの中には、自分のもっている明国の知識とか、渡洋した体験とかを、世間へ誇ろうとすることよりも、実はもっと痛切に、べつな意味があったのである。
それは、わが子として||いや生みの子以上にも、可愛がって育ててきた
なぜかというに||
於福がもともと彼の実子でないことは、誰でも知っているが、同時にまた、純粋な日本の生れでもない素姓を、いつか世間では、めずらしげな噂にしている。
で、幼少から、遊びに出ても遊び仲間の子どもらから、
(唐人子。唐人子!)
と、からかわれたり、泣かされて帰って来たり、内気な於福は、よけい内気になる傾きがみえた。
捨次郎は、そのたび胸をいためて、亡き五郎大夫の
於福の生みの母は、明国の産で||
楊景福
それが、於福の幼名なのだ。
五郎大夫が、いよいよ日本へ帰るとなった時、下僕の捨次郎は、その楊景福を
ところが
(於福はそちに頼む)
と、その主人から、捨次郎はいまわの
日本へ来てからは、もちろん「楊景福」ではおかしいので、福太郎と名を改めてはいたが、松坂あたりの人々のあいだでは、
(あれは、唐人子や)
と、隠れもないこととされていた。
(世間の衆が、明国の事情をよく知らないからだ。また
捨次郎は、こう考えた末、
(世間へ、明国とは、こういう国だということを、教えてやろう。······そしたらかえって、於福も自覚をもって、自分のうけた血に、
||彼の客呼びと、彼の得意にする明国ばなしは、そういう心理からも起っていたわけであった。
さて。
それはとにかく、当夜の来客たちも、如才なく、酒がすすむにつれて、
「御主人。ひとつまた、明国のおはなしでも」
と、客のほうから
捨次郎は、一座の客に向って、
「ぽるとがるとか、すぺいんとか、おらんだとか、そういう紅毛人の国々と明国とを、同じように考えてはいけませんよ。なぜならば明国と日本とは、東洋というて、国こそちがうが、皮膚の色から、髪の毛、文字や宗教や道徳や||また、血までがまったく似ている国がらなのでしてな」
と、まず話した。
それから。
また、日本からも、そのむかしは
たとえば日本で、日常よく喰べる豆腐みたいな物にしても、かの地の
ただ、まったく違っている点といえば、日本は、上に、一系の皇室をいただいて、連綿とかわることがないのにひきかえて、かの国では、余りな大国のせいもあろうが、何千年来、
ひと口にいえば、
乱れても、戦い合っても、日本において、朝廷という御中心は確固として、幾千代までも御中心である。民の心のなかにも常に中心となっている。そういう安らかさは明国にはない。
「||思えばありがたい国にわたしたちは生れたもので」
捨次郎は、そんなふうに、日本と明国とを、比較して話したりした。
そしてそれとなく、於福に向っては、
だから於福も、近頃は、内気どころではなくなった。奉公人も世間の者も、決して彼をからかわなくなった。
「いや、ご馳走になりました。こん夜もいろいろと、耳新しいお話をうかがったりして」
「もう十分に、頂戴いたしました。夜も
「ぼつぼつ、お
「そうじゃ、おひらきといたそうかの」
無事||その晩の招き事も終って、客は次々に帰って行った。
奉公人たちは、その後がまた、一しきり忙しい。
「やれ、やっと仕舞ったか」
「お客には、珍しいかもしれぬが、明国のはなしも、わしらには年中なのでな」
などと
ひろい
武士の屋敷はいうまでもない、町人の住居でも、少し財産家と見られるほどな家なら、必ず土塀をめぐらすとか、濠で
そういう夜の不安は、
日が暮れたら寝る。
それが習性になっていた。
寝るのが、ただ楽しみのような雇人たちは、各

「······オヤ?」
日吉は、眠られぬままに、ふと首をもたげた。
彼も、今夜の客呼びのお
「何だろ」
身を起すと、日吉はふとんの上に坐ってしまった。
たしかに今、裏のほうで、木でも折れるような響きがした。||その前もぴたぴたと人間の
台所から日吉はこっそり戸外をのぞいてみた。
日吉は体じゅうを眼にして、樹の上の人間の奇怪な行動を見つめていた。
その男は、
「あッ、降りて来る||」
日吉はとび出して、
「や。宵に見えたお客さまの一人だぞ」
彼は、ありえないことのようにつぶやいたが、やはり覚えのある人間だった。
それは、この近郷の
客はひとり残らず帰ったはずなのに、今頃まで、どうして、どこに残っていたものだろう。しかも今見れば、
「待て、待て。||今、かんぬきを外すから、静かにしろ」
云いながら、その奇怪な人間は、門の内側へ寄って、そこを開けにかかったが、その間も、外にひしめいている大勢の
そうだ。野武士の
日吉は、物蔭で、
(泥棒!)
と感じると、とたんに自分の血しおの
だが、その忘失も、その恐怖も、自分の仕えている主家の大事||という観念の以外に||である。いや、それだけが、彼の頭を占めてしまったので、他の考えも危険もまったくなくなっていたという方が正しい。さもなくては、その時、日吉が取った行動は、余りに
「おじさん||」
のこのこと、物蔭から歩き出して行くと、どう思ってか、彼が、こう呼んだものである。
今、||そこの門を開いて、大勢の手下を迎え入れようとしていた野武士の渡辺天蔵の背なかへ向って。
「······?」
ぎょッとしたような
「············」
見れば、猿のような顔をした不思議な少年が、妙に
「何だ、
と、どう考えても、解釈しようのない顔つきで、やがて訊ねた。
日吉は平然と||いや平然と見えるほど、危険を忘れていたのだろう。ニコともしない代りに、格別、どうという顔色もせず、
「おじさんは、何だい?」
と、訊きかえした。
「なに?」
天蔵は、いよいよ自分の智恵と取り組んで解釈に苦しんだ。そして、
(馬鹿かな?)
と、疑ってみたが、気のゆるせない
で、天蔵は、日吉のその視線を払い
「知れたこと、おれたちは、
抜く手まねでもしたら横ッ飛びに消えてゆくであろうと、天蔵が、大太刀の

「じゃあ、おじさんは泥棒なんだね。||泥棒なら、欲しい物さえ持って行けばいいんだろ」
「うるさい。
「行くけれど||そこの門を開けたら、おじさん達は、一人のこらず生きて帰れないぜ」
「なんだと」
「知らないだろ。誰だって知らないけれど、おらだけは知ってるんだ」
「小僧、
「自分のことをいってら。おじさんこそ頭が悪いぜ。こんな家へ泥棒にはいって来るなんて||」
門の外では、かかることとも知らないので、そこの開くのを待ちしびれて、天蔵の仲間が、
「まだか、まだか」
と、扉を鳴らしていた。
野武士の渡辺天蔵は、
「待てよ。ちょっと待て」
と、門の外の者を、制しておいてから、また、日吉へ向って、
「この屋敷へはいると、生きて帰れないと今てめえがいったが、ほんとか?」
「ほんとさ」
「それは、どういうわけだ。いい加減なことをぬかしたら、
「ただは教えてやらないよ。おらに何かくれなければ嫌だ」
「ふう······ム」
天蔵は
「||何が欲しい」
試みに彼がいうと、
「物なんか、欲しくない。おらを手下にしてくれれば」
と、日吉はいった。天蔵は、眼をみはって、
「じゃあ
「うん」
「盗賊になりたいのか」
「うん」
「
「十六」
「なぜ盗賊になりたい?」
「ここの主人は、おらをこき使ってばかりいるし、ここの奉公人は、おらを猿々と
「よし。手下にしてやってもいい。||だが、それは
「ここの家へはいると、みな殺しになるといったわけかい」
「そうだ」
「おじさんの
「うむ」
「誰だか、おじさんの顔を、知っていた者がいたよ」
「そんな筈はない」
「ないッていったって、御主人がちゃんと知ってたもの。||だからおら、宵の口、まだお客さんがいるうちに、御主人の
「藪山の加藤? ······アア、織田の家中の加藤
「弾正さんとうちの御主人とは、親類づきあいだから、すぐ近所に住んでる
「ううむ、そうか······。してそいつらは、どうしている」
「車座になって、今し方まで、お酒をのんで待っていたけれど、もう襲って来ないらしいぞといって、思い思いに寝ているよ。||おら一人、こんな寒い中に、張り番に立たせておいて」
「では
日吉が
「
と、大きな
「おじさん、おじさん。約束がちがうよ。騒ぎはしないからこの手を放しておくれよ」
賊の天蔵の手に、爪を立てながら、
天蔵は、首を振って、
「いや、おれも
「だから······だからさ」
「どうするというのだ」
「おらが、おじさんの盗みたい物を、持ち出して来てやるから||」
「
「ああ。······そんならいいだろ。斬ったり斬られたり、危ないことをしなくてもすむし」
「きっとか!」
日吉の
門のあくのが遅いので、門の外では、天蔵の手下たちが、不審を抱いて、恐れたり疑ったりしながら、
「
「どうかしたんですか」
「門は、どうしたんで?」
などと頻りに、そこの扉をまた、ごとごと揺り出していた。
天蔵は、かんぬきを半分ほど抜いて、その隙間から外へ、
「すこし模様が悪いから静かにしていろ。そして、てめえたちはかたまっていねえで、そこらへ影をかくしていたがいいぞ」
さては||と疑いの
日吉は、渡辺天蔵から
見ると、いつも夜半はついていない筈の主人の居間に、
「旦那さま」
日吉は、板縁に
「もし、
もいちどいうと、
「······誰?」
と、御寮人の声である。||明らかに
そこへ、日吉が障子をあけてはいって来たので、主人の捨次郎も御寮人も、眼をみはってしまった。||恐怖のさめきらない不安の顔いろのうちに、
「野武士がやって参りましたよ||多勢して」
日吉は、告げた。
主人夫婦は、ごくりと
「||踏みこまれたら、それこそ大変です。旦那さまも、御寮人さまも、縛り上げられてしまいましょう。五人や六人の
賊の渡辺天蔵にいった通りのことを、日吉は、主人夫婦へそのまま告げて、
「||ですから、旦那さま、野武士の頭が、欲しいっていう物を、出して
と、いった。
||ややあって。
「日吉。いったい、野武士の頭は、何をよこせというのだね」
捨次郎が口をひらいた。
日吉は答えて、
「はい。賊の渡辺天蔵が目をつけて来たのは、御当家で御秘蔵の||
「えっ。赤絵の水挿を」
「それを渡せば、帰ってやるといっています。こんな安いことはございませんから、渡してやろうじゃございませんか。······といっても、それは此方の計略ですから、私がこっそり、持ち出して渡してやる振りをして」
日吉は、得意げに、主人夫婦へすすめたが、捨次郎は
「赤絵の水挿っていうのは、きょうのお招きに、蔵から出して、茶席でお使いになっていたあの
日吉は、くすくす笑いたいほどな顔して、そういったが、御寮人は化石してしまったように無言だし、捨次郎は、大きな吐息をついて、
「弱ったのう」
と考え込む。
「旦那さま、どうしてそんなに考えるんですか、
「あれは、わしが商売に扱っているような、ざらにある陶器ではない。
捨次郎がつぶやくと、御寮人も一緒になって、
「
恨みがましく、云いはしたものの、殺伐な野武士はなお恐かった。抵抗して皆ごろしに遭い、家屋敷まで焼かれてしまった実例など||何処の国々でもめずらしくない今の世の中だった。
やはり、男はこんな場合、ふつりと思いきりがいい、捨次郎もしばらくは、
「ぜひがない!」
同時に、少し生気を取りもどして、
「持って行ってやれ」
ことばと共に、それを日吉の前へ、
年に似げない才覚、よく計ったと||日吉の仕方を、心では思いながら、むざむざ失う赤絵の
日吉は、一人で蔵をあけた。そして一箇の箱を抱えて来て、鍵は主人の手へ返し、
「もう
とまで、注意をして、再び外へ出て行った。
どうか? ||と半ば、疑いながら待っていた渡辺天蔵は、日吉の手から、赤絵の箱を受け取ると、品物の容態を
「ウム。これだ」
と、顔の筋を
「じゃ、おじさん達、はやく引き揚げたほうがいいぜ。今、蔵から探し出す時、
追い立てると、天蔵は、急にあたふた、門の外へ飛び出して、
「小僧、いつでも
云い捨てて、闇へと、影を消してしまった。
怖ろしい一夜は明けた。
||あくる日の真昼間ごろ。
まだ松の内なので、
その
「
「そうかえ。そして、何と仰っしゃったえ?」
「初めは、私のいうことを、半信半疑でいらっしゃいましたが、私が日吉の日頃の素振りから、いつぞや私をつかまえて、家の裏で||
「すぐに、暇を出すといっておいでたかえ」
「それもなかなか仰っしゃらないで||見どころのある小猿だが||と思案していますから、泥棒の手先を家の中に飼っておく気ですかって||私が云って上げたんです」
「第一、わたしは、最初からあの日吉の眼つきが嫌いなんだよ」
「それも云いました。そしたらやっと、そんなに皆が
「ああそれでよかった。わたしはもう半日でも、あんなお猿の
「蔵で荷造りを手伝っていますが||何ならすぐここへ呼んで来て、云い渡しましょうか」
「よしておくれ。顔を見るのも嫌だから。お
「はい」
於福は、内心ちょっと、
「
「元より給金など遣る約束で抱えたのではなし、ろくな働きもできないのに、喰べさせたり、着物を着せたり、それだけでも、あの子の分には過ぎています。けれど······そうだね、今着ている着物をくれてやって、塩の二升も
於福は、自分一人で云い渡すのは、何だか日吉に対して不気味な気がしたので、ほかの雇人を連れて、一緒に外の
蔵の中を覗いて、
「小猿。いるかい」
呼ぶと、頭から
「はい。何ですか」
いつもより元気な返辞をして飛び出して来た。
人にいってはよくないと考えたから、誰にも話していないが、ゆうべのことは、彼自身で、心のうちに、得意に思っていたのである。きっと今に主人から、改めて、
於福のそばには、雇人のうちでも、腕ぶしの強い||日吉がふだん一番怖れている手代が、突っ立っていた。
「小猿」
「へ?」
「おまえな。もう今日から、帰ってもいいよ」
於福のことばだった。
日吉は、
「どこへです?」
「どこって、自分の家へさ。||家はあるんだろ。今でも」
「家はあるけれど······?」
何故? ||と日吉が云い出さないうちに、於福は、云いかぶせた。
「きょう限り、お暇が出たんだ。今、着ている着物はくれてやるから、すぐ出ておいで」
すると、側にいた手代が、日吉の
「これも、御寮人さまのお情けで、おまえに下さるとのことだ。お礼はいわないでもいいから、ここからすぐに出て行きなさい」
「······?」
日吉は、茫然としていた。
かっと熱いものが顔にのぼって来る。その眼は、於福へとびつきそうな怒りをあらわした。
「······分ったかい」
於福は、後ずさりながら、手代の手から
日吉はなお、その姿へ、飛びかかって行きそうな眼をやっていたが||その眼には涙がいっぱいにあふれて来て、何もかも見えなくなってしまう。
野火のように暴れ狂ってやりたい憤りと||同時に彼の頭には、すぐ母の悲しげな顔が
(こんどまた、奉公先から出されたら、藪山の加藤殿のお顔にもさわるし、この母も、世間へ恥かしゅうて、誰へも顔向けがならぬぞよ||)
茶わん屋へ来る前に||そういって涙ぐんだ母の顔が||あの貧乏と、子を生むたびに、目立って
「猿」
「どうしたい」
「何かまた、しくじったな。お払い箱だっていうじゃないか」
「もう十六だ。どこへ行ったって、御飯ぐらいは喰わせてくれるさ。男だ。ベソ掻くな、ベソ掻くな」
笑いながら、他の雇人だの、居合わせた人々が、彼を真中に、あっちこっちで、働いていながら云った。
日吉の耳には、ただ笑って
「誰が、ベソなんか掻くもんかい。||おらはもう、茶わん屋奉公など
「侍奉公するとよ」
「あははは。あんな捨てぜりふをいって行きゃあがる」
憎めないが、誰ひとり同情の眼で、彼の出てゆく背を見ていた者はなかった。日吉もまた、一歩そこの土塀を出ると、青空の
||去年の八月、
それ以来は
||その
「誰であろう? ······
と、腹の立つように、身を伸ばして、声のする方を見まわした。
寒々と、正月の陽は、平野の果てにうすずいて、きょうも暮れかけていた。
糸を繰 るのも
よるといい
日の暮るるをも
よるという
くるくるしくも何かせむ
くるより待つこそ
久しけれ
ヤヨ
久しやな
大きな声であった。今の社会のけわしさも人間苦も知らない者の声だった。よるといい
日の暮るるをも
よるという
くるくるしくも何かせむ
くるより待つこそ
久しけれ
ヤヨ
久しやな
「······おや。日吉じゃないかしら?」
おえつは、麓から今、そう謡いながら登って来る者を遠くから見てびっくりした。
弾正から頼んで、おととし頃、茶わん屋へ奉公にやってある姉の子の日吉にちがいない。何か、汚いふろしき包を背なかに背負い、竹の棒にも何やら差して肩に
「まあ、すこし見ないうちに、大きゅうなって······」
それにも眼をみはっていたが、その大きな身なりになっても、相かわらずらしい暢気さに、
よしや辛 かれ
なかなかに
人のなさけは
身の仇 よ
ヤヨ······
「やあ、叔母さん、そんなとこに立っていたんですか。······今日は」なかなかに
人のなさけは
身の
ヤヨ······
日吉はそこへ来るとぺこんとお辞儀をした。歌をうたいながら歩いて来た心身の
だが、若い叔母は、笑いを忘れた人のように、晴れない顔をしたまま、
「めずらしいこと。||上の光明寺さまへでもお使いに来たのかえ」
と、いった。
「いえ」
日吉は、とたんに、頭を掻いて、少し云い
「茶わん屋から、お暇が出てしまったんで······。叔父さんに知らせなければ悪いと思って、寄ったんで」
「え。······また?」
おえつは眉をひそめて、
「またおまえ、追い出されて来たんですか」
「だって······」
日吉は、
「叔母さん。······叔父さんはいるの。いたら、会わしてくんない。おねがいがあるんだから」
と、甘えた調子でいった。
とんでもない||良人はそれどころか、
若い叔母は、つけつけと、
「ほんとに、おまえみたいな辛抱なしの子を持って、中村の姉さんも、かわいそうだね」
と、
「じゃあ、叔父さんに、お願いしてみようと思ったけど、だめだろうなあ」
「何をだえ」
「叔父さんは侍だから、こんどは何処か、侍屋敷へ奉公に、入れてもらおうと思って」
「いったい、おまえは今年、幾つになったんですか」
「十六さ」
「十六にもなったら、少しは世間が分りそうなもの」
「だからもう、つまらない家には奉公しないんだ。叔母さん、どこか口がないだろうか」
「いい加減におし」
と、野放図もないと、たしなめるように、おえつは、女の眼で
「侍屋敷では、侍の家風に合う者でなければ、使いはしません。おまえみたいな野育ちの
そこへ
「ごしんぞ様。ちょっと急いでお越し下さいませ。旦那様がまた、お苦しみの御様子ですから」
おえつは、聞くとすぐ、日吉の姿など眼のうちにないように、何もいわず家の中へ駈け入ってしまった。
置き捨てられた日吉は、ちょっとぽつ
すぐ中村の家へ帰って、母の顔を見たかったが、
(次の奉公口を、先にきめてから||)
というその辺の思慮と、藪山のこの家へは一度、耳に入れておくのが順序だとも考えたりして、来てみたのであるが、その弾正は、重態だというし······。
「どうしようかなあ?」
「
夕方の薄ら陽が、彼と小猫のまわりに寒げに
「よせやい。よせやい」
日吉は顔を逃げながら猫へいった。彼は、猫はあまり好きでなかった。けれど今、彼にこんな親しみを示してくれるものは猫しかなかった。
「あら······?」
ふと、日吉は耳をそばだてた。小猫の眼も、びっくりしていた。そこからすぐ向うに縁先の見える部屋から、病人の
||と、やがて台所へ、おえつが眼を泣き
「叔母さん······」
気を
「この猫、腹が減って、
実は自分の空腹をも、訴えているのであった。けれど彼女は、猫の御飯どころか||と、
「おまえ、まだそんな所にいたのかえ。陽が暮れても、家には泊めておかれないのですよ」
といって、また、袖に涙の目をかくした。
薬を
猫を抱いて、猫と共に、飢えと寝床に行きはぐれていた日吉は、
(泣いてるんだから、叔母さんも、何か心配があるんだろうな)
と、相手の身にもなって、まじまじと彼女のすがたを見ていたが、ふと、その若い叔母の体つきに、或る異様なものを感じて、何気なしに、
「叔母さん······叔母さんはお
と、訊ねた。
泣いていたおえつは、自分がいちばん悲しんでいることを、いきなり突拍子もないことばで、訊かれたので、頬でも打たれたように、はっと顔を上げたが、
「男の子のくせに、そんなませたこと、いうものじゃありません。いやらしい子!」
と、よけいに悲嘆をいらだたせられたように、
「はやく、陽のあるうちに、中村へでも何処へでもお帰りよ。······わたしは今、そ、それどころではないのだから」
と、
「······帰ろ」
自分で自分へつぶやいて、日吉は立ちかけたが、小猫はなお、彼の温かなふところから離れたがらなかった。するとさっき彼が云ったので、下婢が気がついたものとみえ、小皿に冷飯を盛り、汁をかけて、それを見せながら外で呼んだ。
飯を見ると、小猫は、日吉のふところを捨てて、そのほうへ飛びついて行った。日吉は、口にいっぱい
「············」
彼には、飯が与えられそうもない。中村の家へ行こうと心に決めた。そして空腹の身を起して、庭先を歩きかけると、閉じこめてある病人の居間から、耳ざとくその足音を
「だれだッ」
と、呶鳴る声がした。
はっ||と
「おえつ。そこを開けろ」
と、弾正の声が内でする。
けれど彼の妻は、夕方の風がはいって冷えるとまた、傷口が痛むからと、しきりに
すると、弾正が、
「ばかッ、十日や二十日、生きのびたとて、何になる。開けろッ」
と、ふたたび
「日吉、御病気にさわるから、ごあいさつしたら直ぐ帰るんですよ」
「はい」
日吉は立ったまま、病室へ向ってお辞儀をした。弾正清忠は、
「茶わん屋を出されたか。||日吉」
「はい」
「むむ。よかろう」
「············」
「暇を出されたことは、少しも恥辱ではないぞ、不忠、不義さえしなければ」
「ええ」
「そちの家も、以前は武士だ。武士はな、日吉」
「はい」
「飯のため、飯に使われてあくせくせんのが武士だ。天職のために、御奉公の本分のために、生涯する。飯はつき物、人間の
もう
「母さん。||起きたら寒うて
姉娘のおつみは、母を
「何の、父さんも、まだ帰らぬのに」
と、起き出して、おつみと共に、
「父さん、どうしたのやろ。今夜もまた、戻らぬのかしら」
「お正月じゃほどに」
「でも、家の者は、母さんはじめ||餅一つ祝うでなし、こうして寒々、
「男は、
「いくら
おつみも、もう年頃だった。ふつうなら嫁にも行く年だったが、この母を残しては
「いうてくれるな」
と、母は涙もろい。
「父さんは、ああいう人じゃでな、あてにはならぬが、日吉もやがてよい若者になる程に、そしたら
「母さん、あたし、お嫁にゆくことなど、まだ考えていませぬ。いつまでも、母さんの側にいて」
「
母のことばを
「あッ。母さん。······誰か土間へはいって来たようですよ」
「父さんか」
おつみは、そこから、身をのばして、土間の方を覗きながら、
「······いいえ」
「では、誰じゃ」
「誰だろ? ······黙って」
気味わるげに、おつみが、声を
「おっ
日吉の声だった。
暗い土間に立ったままで。||そしてじっと、いつまでも、上がって来ようともしないのであった。
「おやッ。日吉じゃないか!」
「······うん。おらだよ」
「ど、どうして、今頃」
「茶わん屋から暇が出たから帰って来たんだよ」
「えッ、お暇が出た······」
「かにんして。なあ、おっ母さん。かにんして······」
土間の闇に、すすり泣きがする。||お奈加も、おつみも、そこへ
「お暇の出たものを、今さらどうしようぞ。さ、お上がり。······なぜいつまで、立っているのじゃ」
手を取ると、日吉は首を振って云った。
「いや、上がらずに、おらはまた、すぐ行くよ。一晩寝たらまた、おっ母のそばを離れるのが嫌になるから······」
この貧苦と、事情の複雑なところへ、日吉がふいに、暇を出されて帰って来たことは、彼の母には、胸にこたえる当惑だったが、上がりもせずすぐにまた、この
「どこへ行くのじゃ。||今から?」
「分んないけど、こんどは、侍奉公して、きっとおっ母にも、姉さんにも、安心させるよ」
「侍奉公に」
「おっ母は、侍にはなるものじゃないといったけれど、おらはやっぱり侍になりたい。
「それにしても、まあ上がって、あしたの朝、よう
「会いとうない」
日吉は、かぶりを振って、
「||おっ母、おらってえ子を、十年ばかし、ないもんだと思ってな。体を丈夫にしといてよ。いいかな。······姉ちゃん、おまえもお嫁にも行かないで、悪いけど、辛抱してなあ。······その代りおらが偉くなったら、おっ母には絹を着せ、姉ちゃんには、
「············」
「············」
母も、おつみも、
「ここになあ、おッ母、茶わん屋から貰うて来た塩が二升あるで、置いて行くぜ。おらが二年働いて
「······あ、ありがと」
母は、日吉がそこへ置いた塩の袋を拝んだ。そして
「おまえが、世間へ出て、初めて働いて取ったお塩||」
と、見入って云った。
日吉は、満足した。
母の
||そうだ、塩になろう!
我が家の塩だ。いや我が家ばかりでなく村々の塩に。いやいっそのこと、天下の塩だ。
日吉は、
「||じゃあ、おっ母、姉ちゃん。当分、帰らないよ」
日吉は、土間の口まで、
おつみは、いきなり伸び上がって叫んだ。||日吉の片足が、土間の外へ、
「あっ、お待ち······日吉や、待って」
そして、母へ
「母さん、さっきいった青ざしの一貫文。あたしは、お嫁入りにも、何もいらない。いいえ、お嫁になんか、行かいでもよいから······日吉に、その金を
「いらない。いらない」
日吉は、首を振ったが、おつみは姉らしい思いやりを声にこめて、これから世間へ出るのに、おかねがなくてどうするかと叱った。
日吉は、かねよりも、も一つ欲しい物があった。
「おっ母、これよりも、おらにお父さんの持っていた刀をくんないか。お
七歳の頃、実父の弥右衛門が見せたあの伝来の刀を、日吉は、忘れてなかったとみえる。
||が、彼の母は、どきっと胸を衝かれたように、
「刀よりは、おかねの方が、身の護りになる。刀は、思い止まっておくれ」
と
日吉は、すぐ察して、
「ないの」
と訊ねた。
「······ああ。ないよ」
云い辛そうに、母はいった。
「じゃあ、あれでいい。||おっ母、物置小屋の中の
「あ······。あれなら」
「いいかい。持って行っても」
日吉は、母の顔いろに、気がねをしながら、念を押した。
やはり七歳の時だった。そのボロ脇差を見つけて、どうしても欲しいと駄々をこね、さんざん母を泣かせたことをも······彼は覚えていたからであろう。
「············」
お奈加も、その時のことを、今ふと思い出していた。侍になるな、
「持っておいで。······だけど日吉や、おまえはあれを、決して人様へ向って、抜いたりなどしまいね」
「えッ、いいの?」
「おつみ、持って来ておやり」
「いいよ。おらが取って来る」
日吉は、裏の物置小屋へ駈けこんだ。そして、そこらの物を
すぐ腰に差した。
七歳の時に泣き
「日吉や、母さんが、もいちどおいでって」
おつみが、
「そこへお掛け」
上がり
日吉は、それへ眼をまろくして、
「おっ母、何するんだい」
「元服して上げるのじゃ。形ばかりではあるけれど、おまえの門出を祝うて」
と日吉の髪へ剃刀を当てた。そして新らしい藁を水に
生涯、忘れることの出来ない感銘が、そうしている間に、日吉の血へ沁み入っていた。頬に耳に、時折触れる母の荒れた手を、
(おらも、もう人なみだぞ)
と、自覚を持った。
野良犬の声が、どこかで頻りとしている。戦国の深い闇に、
「おっ母。······じゃあ」
達者に||というべき後も、
「······あばよ、あばよ」
日吉の影は、黒く小さく、後も見ずに駈けて行った。霜のせいか明るい夜だった。
そこの
「おうウいッ」
何者かが、闇でこう呼んでいる。
「おういッ······」
と、同じ調子に答えている。
よほど近づいてみないと、ちょっと気づかないが、丘の崖や大樹を
その水草はまた、古い石垣と、土塀とを抱いて、何百年かの間、ここの
丘一帯の宅地は、何千坪か、何万坪あるものか、外からはちょっと想像もつかない。勿論、邸の主は、この
ここへ土着した中興の祖は、小六
今の当主小六
「おうウいッ。開門ッ······」
濠の外で、再び四、五人の人影が呶鳴っている。
何処からか今、立ち帰って来た主の||小六正勝と、その家来。
といっても、小六は今も、またその先代からも、正しい主筋も持っていないし、領土の権も、領政も
家長と家の子、といったような親しみぶかいところもある代りに、
「何をしておるか」
小六が、
「まだかッ。門の者」
と家来がまた呶鳴った。
すると、
「おうウい」
と、三度も同じ返辞がしてから初めて、そこの木戸がどーんと開いた。
同時に、左右から、
「
と、燈火を向ける。
「小六だ」
がん燈の光を浴びながら、木戸を固めている者へ、小六は尋常にそう答える。
分り切っている筈だが、たとえ主でも、これほど厳密でなければならない四隣の現状だった。
「お帰りなさいまし」
初めて、一斉に礼儀をする。その小六に
「
「
「
「
といちいち名乗って、がん燈の
小六と、その一族四人はずしずしと
「お帰り」
「お戻り遊ばせ」
廊下の角々で、従僕の顔、女の顔、妻子達の顔||どれほどいるのか分らない大家族の中に住む一部の顔が||外から戻って来た家長を出迎える。
「うむ。······うむ」
小六は、いずれへも一様に、
||機嫌が悪い?
「
とやがていう。
四名の端にいた稲田大炊助を振り向いてである。
「はあ」
「いい恥をかいたな。今夜の招きでは」
「······さればで!」
と、四人とも、
小六の不機嫌は、やり場がなかった。
「
「どうと仰せられるのは」
「こよいの恥をだ! ||蜂須賀の一族として
四人はまた、沈黙にふさぐ。
蒸暑い夜だ。そよ風もない。蚊やりの煙が、
事情はこうだ。
今日。
織田一家のさる大身から、茶事の招きをうけた。小六は元より、そういう趣味は全くない。だが、同席の客は、この尾張ではみな歴々な人物なので、顔つなぎにもよい折だし、また欠席したがため、
(土豪といえば、ていはよいが、いわば野武士の頭目。茶の招きには恐れたのだろう)
などと
||ところが、その席で。
(はて? この品は、茶わん屋
と、つい
主は驚いて、
(滅相もない。これは近頃、
と、書付まで示すと、客もことばの手前、
(では、盗んだ野武士が堺の商人へ売りとばしたのが、転々して、御当家へ廻って来たのでおざろう。茶わん屋へ押し入った野武士は、
と明らさまにいったので、席はいとど白けてしまった。
なぜなら、そういった客は、もちろんそこに居合わせた蜂須賀小六の、どんな存在か、また、どんな
(いずれ後日、小六から改めて、ごあいさつ致すであろう)
と、彼は、自分の汚名のように主へ誓って、その恥と
どうだ?
おぬしらの考えるところは。
と、小六から今、沈痛に問われはしたが、さて、稲田大炊助にも、青山新七にも、半之丞や内匠にしても、
(こうなされては)
と、すぐ答えられるような名案もなかった。
これが、自分たちのような、家来筋ならば、何とでもいえる。また、どうにでも、処分はつく。
だが、その処分すべき人間が、主人の小六とは、血のつながっている
だが、小六はかえって、血のつながっている人間だけに、
「
と天蔵の悪事を、心から憎んで止まないのだった。
「
すこしの
「······さもなくてさえ、土豪という家門のかなしさには、蜂須賀一族もまた、野盗の野武士ずれや、
「ご推察いたしまする」
半之丞も大炊助も、
「聞けよ。おぬしらも」
小六は、顔を向け、
「||この邸の屋根瓦には、
「······はい」
「血までは、野に
「············」
「土豪よ、野武士の
「いつも、伺っているお言葉にございまする」
「······さればこそ、おぬしらにも平常、野には住むとも、
「
「はい」
「二人して、すぐ行って来い。
「はっ」
「わしの命をもって、天蔵めを、ひき連れて来い。だが、
「心得ました」
主人の肚に、その決意がすわれば、何の造作もないことと、稲田大炊助と青山新七のふたりは、すぐ御厨村へ立って行った。
森の丘は、鳥のさえずりに
「松。······松ッ」
小六が、眼をさましたらしい。
妻の
「お目ざめでございますか」
寝所をのぞくと、
「ゆうべ
「まだ立ち帰りませぬが」
「······ふむ?」
と、案じ顔に
悪い事をする奴だけに、頭のするどい
妻は、その間に、紙蚊帳のつり手を
「亀よ。来い」
小六は抱きよせて、高々と差しあげた。絵に描いた
「どうした。
と、小六は、亀一の眼を
「蚊に喰べられたのでございましょう」
「蚊ならよいが」
「寝ても暴れて、蚊帳の外へ、ころげますので」
「寝冷えさすな」
「はい」
「
「仰せまでもございませぬ」
「
「ホ、ホ、ホ」
開けひろげた寝所へ、夏の朝風が吹き流れてくる。カーン、カーン、と何処かで
その鎚音を聞くと、
「どれ」
小六はもう、わが児を膝から捨てて
風雲の
動流の中へ。
今や、麻のごとく乱れていると知る天下の一角へ。
小六の若い血、逞しい体は、大きな野望を期しているもののよう、
書院に坐って、朝の茶を静かに
小道をはいって行くと、森の中に、祖先以来、
小六が
「どうだな? 仕事は」
彼が立つと、国吉や弟子は、仕事場の土間に、平伏した。
「まだ、巧くゆかぬな。||見本の鉄砲と同じような物が、何とか出来ぬものか」
「ああしたら、こうしたらと||寝食もわすれて、苦心は致しておりますが」
||無理もない。
小六がそういうように
「お
と、告げた。
「なに。帰って来たと」
「はい」
「して、大炊と新七は、天蔵めを連れて来たか」
「
「よし!」
うまく誘い出したな||と小六はまず、首尾を心で
「待たせておけ」
と、いった。
「いつもの御書院へ」
「そうだ。直ぐ行くから」
「はい」
小侍は、駈けて戻って行く。
奇策縦横の人物||と一族からは信頼されているが、小六の半面にはまた、ひどく気の弱いところもあった。
義には強いが、涙には勝たれないという弱さなのだ。わけて骨肉の情には
その彼が、
(||今朝は
と今、胸をすえている。
だが決して、気のすすむ顔色ではなかった。告げに来た小者が去っても、彼は鍛冶小屋の前に立って、いつまでも、国吉と弟子の仕事ぶりをながめていた。
「||無理もない。何せい、鉄砲が渡来したのも、
そこへまた、さっきの取次が、
「お頭様」
と、小道の露に身を
「もう御一同、書院にお揃いなされて、お待ち申しておりますが」
小六は、振り向いて、
「今、行く」
「は」
「すぐ参るから、待たせておけばよい」
「はい」
取次の小者は、多くをいうことも出来ず、引き返して行った。
小六の胸には、
で、彼は去りがてに、
「国吉」
とまた、小屋の中へ話しかけた。
「······だが、年内には、使える鉄砲が、十
「左様で||」
と、鍛冶の国吉は、責めを問われたように、職人
「ただ一挺でも、これでよいと思う物が出来さえいたせば、後は四十挺でも百挺でも、一つ物をつくるのは、やすいことでございますが······」
「その一挺だな。||難しいのは」
「お手当ばかり戴いていて、心苦しゅう存じますが」
「よけいな
「ありがとうぞんじまする」
「来年、さらい年、また、来る年も、来る年も。合戦はやむ間もなかろう。大地の冬草がみな
「この上とも懸命に、やってみまする」
「しかし、
「心得ております」
「
「それも、気をつけまする」
「むむ」
小六は、去りかけたが、またふと、
「それは」
と、指して訊ねた。
「見本の物か、出来た品か」
「新品にございますが」
「どれ、見せい」
「いえ、お目にかけるまでには、まだなかなか」
「いやいや。ちょうど、
「
「試すのも、工夫の一つだ。よこせ、その鉄砲を」
小六が国吉の手からそれを取って、銃の腹を
三度目の迎えが来た。
が、今度は、小者の取次ではなかった。ゆうべ
「まだ、御用はおすみになりませぬか」
大炊の声に、小六は、鉄砲の台尻を
「おお。稲田」
「お早くお越しねがいとう存じます。
「よしッ、参ろう」
何の急用か?
||疑うように、渡辺天蔵は、書院の端に坐って、落着かない目をしていた。
青山新七。
長井半之丞。
松原
それに今、叔父を迎えに立った稲田
||はてな?
変だわえ、と天蔵はここへ通るとすぐ感じていたのである。口実をもうけて、帰ろうかとさえ考えたが、その間に、庭のほうに小六の姿が見えてしまったので、
「おう。叔父御で」
と、彼の方から、
小六は、鍛冶小屋から今、持って来た鉄砲を、地に立てて持ったまま、
「天蔵。庭へ出ぬか」
と、外から呼んだ。
その様子は、常の小六と変ったところもないので、天蔵はいつもの
「何か、急にてまえに、御用だというお迎えで参じましたが」
「うむ」
「何の御用で」
「まあ、降りて来い」
「はあ」
「そこに立て」
小六は、甥の天蔵へ、そう命じてから、自分は庭石の一つへ腰をかけた。手の鉄砲を立てて持ったなりに||である。
天蔵はとたんに、叔父の眸から自分を射て来た或るものを直覚して、はっとしたが、もう遅かった。
叔父の腹心たちは、
「············」
「············」
小六の体から、目に見えない憤りの炎が立っている。日頃、
「天蔵ッ」
「は。······」
「おぬし、小六が日頃、いってある言葉を、よも忘れはしまいな」
「覚えております」
「人と生れてだ||今の世の乱国に生れてだ||最も恥ずべきことは
「············」
「諸国の土豪という
「はい」
「おれの身内だけは、志を大きいところへ持とう。百姓いじめや、野盗のまねはやるまい。そして一国一城を持ったら、お互いに栄えよう。······そう誓ってあるな」
「あ、あります」
「それを破ったのは、誰だ」
「············」
「天蔵! おのれは、そのためにおれが養わせておく武力を悪用して、夜盗を働いたな。茶わん屋へ押し入って、
「······げッ」
逃げかかる天蔵へ、小六は、
「
「坐れッ。それへ!」
と、もう一度、小六は呶鳴りつけて、天蔵の気を呑んでしまってからまた、
「逃げる気か。おのれは」
と、責めた。
「に······にげなどは、いたしませぬ」
芝の上へ、腰をついたように、べたと坐って、天蔵は
「縛れ||」
小六は、四方に立っている四人へ向って命じた。
松原
「おことばでござる」
と、うしろ手に
はっきりと身の危険と、事の
「あッ。お······叔父御。なんだってこの天蔵を! ······。いくら叔父御でも、
「やかましい」
「覚えはないッ。この天蔵には今叔父御がいったような、盗みをした覚えなどは」
「やかましいッ」
「誰に······。誰がそんなことを、告げ口したのかッ」
「まだ黙らぬか」
「叔父御も、叔父御じゃござらぬか。なぜ一応、うわさがあるならあると、天蔵に仰っしゃった上で」
「
「でも。||多くの身内を抱えている一族の頭目が、ひとの告げ口などに惑わされて、よく
「こやつ。国吉の
新七と
「叔父御ッ。いうことがあるッ。もう一言、いわしてくれーッ」
と、そこから死にもの狂いでどなる天蔵の声は、よく聞えて来た。
「············」
が、小六は耳もかさない。
「わ、悪かった。叔父御ーッ。白状するッ。もういちど天蔵のいうことを聞いてくれい。いうことがあるッ」
刻。一刻······
彼方に狂っている天蔵の声はかすれてしまう。
そして、
(だめだ!)
と死を観念したか、がくりと天蔵が首を垂れたと思うと、
「大炊」
と、小六は鉄砲から眼を
「||
鍛冶の国吉は、小屋からすぐ飛んで来た。
小六は鉄砲を示して、
「今、撃ち試してみたが、どこかまだ、不出来な箇所があろう。弾が飛ばぬのだ。すぐ直せ」
と、いった。
国吉は、
「すぐには直りかねまする」
「いつまで」
「夕刻ごろまでは」
「もっと早くいたせ、試しにかける生き物が、待っておるのだ」
「えッ?」
国吉は、そういわれて初めて、木へ
「······あッ、甥御様を」
「
と、小六は耳を
「そちは鉄砲鍛冶。一日も早く、ただ鉄砲の製作に成功するよう、
「はい······」
「悪人とはいえ、天蔵も身内の一人、犬死さすより、せめて鉄砲の試しにでも、役立たせてやれば、幾分でも世の
「へ。······へい」
「何を渋っておる!」
「はいッ、急ぎまする」
と鉄砲を抱えて、鍛冶小屋の方へあたふた戻って行った。
「
云い残して、小六は、母屋へ上がってしまう。それから、彼の朝飯であった。
長井半之丞は、その日、自分の郷土へ帰ることになっていたので、間もなく
陽が高くなる。
きょうも暑い。
丘は
鍛冶小屋のほうから時折、烈しい
二、三度。
「まだか。鉄砲」
と、小六の部屋から、催促の声がした。そのたびに、控部屋から青山新七が炎天を駈けて行って、やがて、
「もうしばらく······」
と、縁先へ戻って来ては、鍛冶小屋の仕事ぶりを伝えていた。
その間に、小六は、自分の部屋に大の字なりになって昼寝していた。新七も、夜来のつかれが出て、ついうとうとと居眠っていると、突然、
「にッ、にげたッ。新七どの! 逃げたッ。き、来てくれッ」
と、庭先から、誰か
「お、甥御様が、後の二人を斬り仆して、に、逃げ出しましたッ」
と、まるで
「えッ。逃げたと」
のめるように、新七は、その番人と共に、駈け出して行きかけたが、振り向いて、
「お
ふた声ほど、呶鳴った。
「なに!」
がばと、起き上がるなり、眠る間も抱いていた刀をそのまま小脇に、横縁から飛び下りて、もう新七のすぐ後に続いて駈けていた。
||来てみると。
さっき天蔵を
足数にして、約十歩ばかり先に、一箇の死骸が、
そこらは、ぶち
「番の者ッ」
「へ。······へい」
生き残って、今知らせに駈けて来た男は、小六の声を浴びただけで、それへひれ伏してしまった。
「両の手くびを、
「はいッ······。と、解いて上げたのでございます」
「だれがッ?」
「あれに、殺されている、番の者の一人がで」
「何で解いた? 誰のゆるしをうけて解いたか」
「もとより、初めは、耳にもかさずにおりましたが、甥御様が······
「ば、ばかな!」
と小六は、地だんだをふまないばかり、
「なぜ、そんな知れきった手に乗って||ええ! たわけがッ」
「お
「そして······」
「ギャッ||という声がした時はもう二人とも、殺されていましたので、手前は、後も見ずに、お知らせに」
「くどいッ。||天蔵はどう逃げたか、それを先にいえ!」
「土塀へ手をかけていましたから||多分そこを越えて、外へ飛び下りたに違いございませぬ。どぼーんと、
小六は、聴く間も、もどかしそうに顧みて、
「新七。追討ちしてしまえ。村の道へも、すぐ手配をしろ」
いいつけると、彼自身も、その手配のために、表門の方へ恐ろしい勢いで駈け去った。
今が今||というように、小六から
ただ鉄砲。それしかない。
汗にまみれ、
「さあ。出来たが?」
と、ほっと一汗、
ばしッ||
と、関金の調子を試し、
「うむ! 良さそうだ」
初めて、
だが、小六の前へ出てから、また不備があったりしては面目ない。
国吉は、念のためと、それに
「しめたッ」
待ちかねている小六の顔を思いながら、国吉はすぐ、小屋から飛び出した。
そして、庭の方へ。||樹木のふかい小道づたいに、急いで行くと、
「おい。おい」
誰か呼んだ。||木蔭に人影がちらと見えた。
国吉は足を止め、
「······誰だ?」
「おれだよ」
「おれとは」
「渡辺天蔵だ」
「えッ······。甥御様で」
「何をびっくりした眼をするのだ。······ははあ分った、今朝おれが、木に
「ど、どうなされましたので」
「どうもこうもないさ。叔父甥の仲だ。
「······ヘエ?」
「ところでだ。たった今、村の
「出来ましたが」
「よこせ」
「お
「もとよりのこと。はやく出せ。相手が逃げたら試されぬ」
天蔵は、引っ
「······はてな?」
手ばなしてしまってから、国吉は変に感じて、彼の後を
そして、濠の腐った水の中に、胸の辺まで、体が
「やッ? 逃亡だッ、出合いなされ! 出合いなされ!」
国吉は、土塀の上から、大声で呶鳴った。その時もう泥鼠のようになって、向うの岸へ這い上がっていた天蔵は、一発、彼の顔を狙って撃った。
ぐわアツン!
水のそばのせいか、凄まじい音がした。国吉の姿は土塀から転げ落ちた。すぐわらわらと駈けつけて来る
家長の
||集まれ!
というのだ。
晩方までに、土豪蜂須賀の丘の住居は、門の内外、野武士で埋まった。
「合戦か」
「何事だろ」
「何が起ったのか」
集まって来た者はみなこれ、
ただ彼らは、根からの農民や商人ではなかった。血のなかに、多分にまだ、祖先の勇武と、現代への不満を抱いて、時しあらばふたたび、
そのうちに、
「お庭へまわれ!」
「静粛に||」
「中門をくぐって」
と、小六の腹心、稲田
その腹心たちは、すでに武装していた。もとより土豪の一族なので、
「さては、
と、一同は早くも察していた。
どこからどこまで、という
だが、||それにしても時々、合戦には出る。
同じ土豪から、自分の一族の勢力圏内を犯されたとか、或いは、国主から味方に頼まれるとか||折入って遠国の大名からでも、
しかしそれは多く、金や報酬に依ってうごくのだが、小六はまだかつて利のために動いたことはない。
それはこの近国の
その家長からの触れなので、すわとばかり、一族は駈けつけて来たが、広庭へむらがって、ふと
そして、水を打ったように、数百人の一族が、ひそまり返ると、
「が、これは、家長たるおれの不行届でもある」
と、不徳を謝し、
「天蔵は、逃げうせたが、草の根を分けても
云い渡しているところへ、物見にやった者が駈け戻って来て、告げることには、
「······
と、あった。
敵が、渡辺天蔵と聞いて、彼らはすこし張合いぬけした様子だったが、事の
||一族の名のためだ!
と小六から聞かされると、奮い立って、真っ黒に、
武器蔵には、驚くばかり多量な武器が、貯蔵してあった。
わけて、近頃では、国々の合戦はやむまもなく、人の住む所には、不安と暗黒が
蜂須賀党の武器蔵には、先祖以来の物もずいぶんあったが、急激に
が、せっかく成功しかけたその鉄砲は、天蔵が盗んで行った。小六の憤怒は、絶頂に達していたといっていい。
「この上にも、一戦をも辞せぬなどとは、八ツ裂きにしても飽きたらぬ人非人。
小六は、門出に云った。
そしてすぐ、人数を
「あッ、火の手だ」
と、一同は、足を止めて、夜空を見まもり合った。
水田の彼方に、土橋が見える。赤い夜空に、点々と人影がうごいている。さては敵か||と
「天蔵の徒が、火を放って、
と、いう報告。
人数を進めて行くと、なるほど、
「蜂須賀村の人数」
と聞いたので、ふるえ上がっていたが、小六の腹心青山新七が行って、
「おれ達は、掠奪に来たのではない。一族の渡辺天蔵とその手下どもを
と、
彼らの
もし、領主へ密告すれば、その一家をみなごろしにすると
天蔵の一味は、よいことにして、
「して、その天蔵の人数は今夜、どんな配備をしているか」
新七が
「神社から槍や
戦って死ぬ||と云い触れさせたのは、逃げのびるための、天蔵の策であった。
「また、
と小六は地だんだを踏んだ。
が、彼は、
「村民どもを先へ、家へ帰せ」
と、下知した。
協力して、消火に努めた。そして天蔵が、
「一族の端くれたりといえども、天蔵の
と、祈念した。
そのあいだ彼の一族と手兵は、粛として両側に整列していた。この秩序と、彼の敬神の行をながめて、
(野武士の
と、村民たちは、むしろ
渡辺天蔵は、蜂須賀の名をもって、何事も振舞っていたし、小六の甥ということも知れ渡っていたので、その
だが、小六は、神と民とを味方に持たなければ、世に立てないことを知っていた。
やがて物見が帰って来た。
それによると、
「天蔵の一味は、手下を加えて約七十人ばかりの同勢。
と、ある。
小六は、そこで、
「人数の半数は、蜂須賀村へ帰って、留守をまもれ。残る半数の半分は、この村に止まって、焼け出されの村民を救護したり、治安に当れ。||後の人数は、おれに
と、命じた。
||で彼の手兵は、わずか四、五十人しかなかった。
その小勢で、小六は、天蔵を追いかけた。
小牧、
(来たな!)
と
夏だし、道は
||ところへ。
わっと、小六の人数が、両側からなだれ落しに、挟撃した。
人間のかかる前に、無数の岩石が降って行った。谷川はもう血の
「うぬッ」
「おのれッ」
「
「何の!」
突く。
斬りなぐる。
取っ組む。||川へ墜ちる。
同じ一族と一族との撃突であった。敵の手下と、小六の手兵のうちには、血のつながる叔父と甥、
が||ぜひもない!
同じ五体の者なればこそ、その病根は断たなければならないのだ。小六は、わが血にひとしい敵の鮮血をかぶりながら、
「天蔵ッ。天蔵ッ出合え」
と
小六の手兵も、十人ほど死んだが、敵はほとんどみなごろしにした。
しかし、小六はなお、
「あの峰。あの道を」
と、
肝腎の天蔵の姿は、死骸のなかになかった。彼は
「
歯がみをして、小六が、峰に立っていると、突然、四方の山の
鉄砲だ。
彼を
「············」
小六の頬に、涙がながれた。無念はいうまでもないことだ。しかし、彼は悪鬼のような甥を、その時になっても、自分の五体以外のものとは思えなかった。自分の不徳に、悔いの涙がわいたのである。
そこの、峰に立って考えてみた時、小六は、まだまだ自分が、いかに野望を抱いても、土豪の位置を脱して、一箇の
(||身内のひとりすら治めることを知らないでは)
(武力ばかりではだめだ。治策がなければ。······また、日頃の
とも、考えた。
「畜生めが、おれを
小六は、峰から呶鳴った。
「おウいッ。引き揚げろ||」
その日。
三十余人に
街道すじへかかると、国々の出城本城などのほかに、
で、
ところが。
矢矧川まで出てみると、
橋もない。
水瀬は早く、川幅は二百八間とかいわれている。
太平記印本には、
=矢矧川の橋を引き、楯 を掻 てふせぎ戦ひける
と、あるから、遠い昔や、江戸の治世になっては、諸人往来のため、二百八間の大橋が小六と、一党の者は、当惑顔に、附近の木蔭に
「下る舟がなければ、渡しに乗って、対岸へあがろう」
と、一人がいうし、
「いや、もう夜が
と、いう者もある。
だが、ここで屯するには、もう一度また、岡崎の城へ届けに行かなければなるまい||と、小六が分別を与えて、
「
と、指図すると、
「いや、お
と、誰かがいう。
「ばかな!」
小六は、叱りとばして、
「一艘の小舟さえないと。そんな筈があるものか。||これほどな大河、昼中は、何で往来するか。
と
呶鳴られた勢いで、彼の手兵は、河の上下へわかれて、五、六人ほどばらばらと駈けて行った。
その中の一人が、
「あッ。あった!」
と、さけんで足を止めた。
洪水の時にでも、土を
その樹蔭に、一
こんもりと茂った夏柳の葉蔭は、川の水も、
「······手頃だ」
小六の部下は、すぐそれへ跳び乗って、一同のいる下流の岸まで、流して行くつもりでもあったか、そう
||すると。
「······?」
その兵は、ぎょっとしたように、眼の下の舟を見すえてしまった。
舟は、
それでも、渡しに使えないこともないが、見ると、腐った
「何者······?」
と、その兵は、眼をみはってしまったのである。
なぜならば、ふしぎな服装と、ふしぎな容貌と||そして余りに不敵なほど||
袖も短い、
「······おいッ」
兵は、呼び起してみたが、覚めようともしないので、槍の石突で、その男の胸のあたりを、
「おいッ!」
と、もう一度、呼び起しながら、軽く小突いた。
眼をあいた男は、槍の柄をにぎって、くわッと、兵の顔を
「なんだッ?」
と、寝たままで云った。
流れる水のすがたにも似ている今の境遇を、
去年の一月、霜の夜||
母に、一袋の塩をのこし、自分は父が遺産の銭一貫文をもらって、
(偉くなって帰る)
と、姉にも、母へも、そう誓って家を出た彼だった。
もう今までのように、商家や
(侍奉公を!)
と、一途に求めた。
けれど、
(紺屋の手伝いなら)
とか、
(
などと、いわれるだけで、たまたま、勇をふるい起して、侍屋敷の門前に立ち、
(わたしを使って下さい)
と、自分の身を、押売りしてみても、笑われたり、呶鳴られたり、乞食あつかいされて、
わずかな銭は、すぐなくなりかけた。世間の実際は、藪山の叔母がいったとおりであって、日吉の考えは、夢にすぎないものだった。
しかし日吉は、その夢を離さなかった。なぜならば、自分の望んでいるものは、誰に聞かれても、恥かしくない立派なことだと、かたく信じているからである。
草に寝、水に枕しているまも、その望みは忘れない。||世のなかでいちばん
また、嫁にも行けないでいる可哀そうな姉を、どうやって喜ばしてやろうか。
勿論、日吉にも、たくさんな慾望がある。殊に、もう十七歳の若者だ、胃ぶくろは、喰っても喰っても食い足らない気持だし、大きな屋敷を見れば、あんな屋敷に住んでみたいと思い、豪華な武家の
とはいえ、どんな慾望を思うよりも先に、母を幸福に||という念願が、常に前提として彼にはあった。だから彼は、その第一の希望が達しられないうちに、自分の慾望を先に満たそうとは思わなかった。
それにはまた、彼には彼のみの、べつな楽しみがあったから、物の慾には我慢も出来たということもいえよう。その楽しみというのは、流浪の行く先々で、飢えを思う
=識 らないことを識る。
と、いう楽しみだった。世間の機微、人情、風俗。||それから時勢の
武者修行する者は、応仁頃から室町の末になるほど、
けれど彼は、武術を目がけて、長剣を差して歩いて来たのではない、わずかな金で、問屋から針を仕入れ、木綿針や絹針を小さなたとうに包み、それを行商しながら、甲州、北越のほうまで歩いて来たのだった。
(||針はいらんか、京の
日吉は、諸国の町を呼び歩きながら、わずかな利で、生きて来た。
しかし。
零細な針売りの利益で口は喰べても、針の穴から世の中を見るような、小さい人間にはならなかった。
小田原の
甲州の
駿府の
(今に、世のなかは、大きく揺れだして、大変な変り方をするぞ)
と、いうことだった。
今までの、小さな、
(||すると、俺だって)
と、
(俺は若い、これからだ。||世のなかは、
漠然と、そんな考えを抱いて、針イ||、針イ||と呼びあるいて来た。
北陸から、京都、
といっても、決して、日頃は親類や知るべを頼って、衣食の方法を受けようなどと、さもしい考えを出す彼ではなかったが、この夏の初めから、
ところが。
尋ねる先は見つからないし、きのうも今日も、照りつける炎天をさまよい歩いて、
······腹がごろごろ鳴る。
微熱のせいか、口が乾く。
そういううちにも。
母||
彼の
が、||いつのまにか、
ところへ不意に、
おいッ! と呼びさまされたと思うと、誰か、自分の胸を、槍の
||だれだッ。
日吉は、無意識に、
胸は、男のたましいの有り所である。五体のなかの神棚にひとしい所だ。槍の石突で、そこを小突かれたことは、相手の誰であるに
「小僧ッ。起きろッ」
小六の部下は、つかまれた槍の柄を、引きながら云った。
日吉は、槍をつかんだまま、舟のなかに身を起して、
「起きろッて? この通り、起きているのが分らないかッ。どうしろというのだ」
と、云い返した。
「おや。この
槍の柄を通して、日吉の力と、その反抗を感じると、小六の部下は、恐い顔を見せて、頭から
「出ろというのだ。||立てッ、その舟から!」
「この舟から、立てだって」
「そうだ。その舟が
すると日吉は、なおさら、つむじを曲げたらしく、舟の上に落着き直して、
「嫌だッ」
と、いった。
「な、なに」
「嫌だ!」
「嫌だと?」
「おお。嫌なこッた」
「こいつ······」
「何がこいつだ。||人がよく眠っているのを、いきなり槍の先ッぽで小突き起して、||その上、舟が
「ちいッ······。小理窟をこねる奴だ。やいッ、風来」
「なんだ」
「われわれを、誰だと思う」
「人間である」
「知れたことを!」
「訊く奴があるか」
「口の達者な小僧め。後で、その口を曲げて、縮みあがるなよ。われわれは、蜂須賀村の土豪。お
「舟を見ながら、人間は見えなかったのか。ここは俺の
「見えたればこそ起したのだ。
「やかましいッ」
「何を。もう一度いってみろ」
「何度いっても同じことだ。嫌だッ、嫌だッ。この舟は、くれてやれぬ」
「いったな」
小六の部下はぐッと槍の
頃を計って、日吉が手を離したので、槍の柄で、柳の葉を、払いながら、小六の部下は、後ろへよろめいた。
かッ、としたらしく、
「おのれッ」
と、槍を持ち直すと、その兵は白い穂先をひらめかして、日吉の影へ、突いて行った。
腐った舟板だの、アカ汲みだの、
「ばかッ」
と、二度ほど日吉の
すると、そこへ仲間の誰彼が、わらわら駈けつけて来た。そして、
「待てッ」
「何だ」
「何者だッ」
口々に云い合いながら、そこへ立ちむらがった時、さらに、小六とその部下のあらましも、後から後から駈け続いて来た。
「舟があったのか」
「あるにはあったが······」
「どうしたのだ?」
がやがや
小六の影を仰ぐと、日吉も、これはこの者どもの
「············」
「············」
小六の眼は、いつまでも、彼へそそいだきり、ものもいわなかった。
小六は、日吉の容貌やその身なりを不思議がったのではない。||自分の眼を射てくる、彼の眼に、
で、小六は、心中、
(こいつ、身なりに似あわぬ不敵もの)
と思って、殊さらに、
遂に||小六は眼を
「子ども」||と。
「············」
日吉は答えない。
まだ口を結んでいる。
そして、射るようなその眼も、小六の顔から離さなかった。
「······これ。子ども」
すると、日吉は、
「おらか」
小六がいう。||そうだ、おまえよりほかには、舟の中には誰もいないではないかと。||すると、日吉は、肩を少し
「おらは、子どもじゃない。元服しているッ」
と、いった。
突然、小六は、肩をゆすぶって笑い出した。
「||そうか。
「大勢で取りまいて、おら一人をどうする気だ。野武士だな、おまえらは」
「貴さま、いうことがなかなかおもしろい」
「おもしろくない。おらは、いい気もちで眠っていたところだ。おまけに、腹がいたい。誰が来て、何といおうが、ここを動くのは嫌だ」
「ふム。······腹が痛いか」
「痛い」
「どうしたのだ」
「
「
「尾張の中村だ」
「中村か。||して中村の何という者だな」
「親の名はいえない。おらの名は日吉という。······だが待て待て。ひとの眠っているところを起して、ひとの素姓を洗いだてばかりしていいものか。おぬしは何処の何という者だ」
「
||それには答えないで。
「あッ。おじさん達は、海東郷の衆か。そんなら、おらの村からも遠くない」
日吉は急に、人なつかしい顔を示して、早速、中村のうわさでも聞きたそうであったが、
「じゃあ、同じ
と、枕にしていた
その様子||一挙一動を、小六は黙ってながめていた。
物売りの
「待て。日吉とやら、
「舟を
「ならば、おれと一緒に来い」
「どこへ」
「蜂須賀村へ。||屋敷において飯も食わそう。
「ありがと」
日吉は、神妙にお辞儀したが、自分の足もとを見ながら考えているふうだった。
「······すると、おらを、屋敷へおいて、抱えてくれるというのかね」
「
「ない」
顔を上げた。そして彼は、はっきりいった。
「おらも、
「はははは。いよいよ面白い。この小六正勝では
「使われてみなければ、それも分らないことだけど、蜂須賀村の蜂須賀といえば、おらの村では、良くいわない。また、おらが仕えていた前の主人の家へ、泥棒にはいった男も蜂須賀の一族といった。おらが泥棒の手下になったら、おッ母さんが悲しむから、そんな者の屋敷へ、奉公はできない」
「では、
「どうして分ったかね」
「茶わん屋へ押し入って、悪事をした渡辺天蔵は、いかにもわしの一族の者だが、わし自身は、そういう
「······うむ。おじさんは、そういう人間じゃないらしいな」
日吉は、十七にしても、ませた
「じゃあおじさん、何の約束なしに、おらを蜂須賀村まで連れてってくれるかね。||そしたら、
「二寺といえば、すぐ蜂須賀村の隣村だが、そこに知るべがおるのか」
「ああ。
「桶大工の新左は、侍の果てだ。では
「お父さんだって侍だった。おらはこんな事をしてるけれど」
いつの間にか、舟の中には、乗れるだけの者が乗り込み、
「日吉、ともかく乗れ。二寺へ行きたくば二寺へ行け。蜂須賀村にいたければ、蜂須賀村におるもよし」
肩を抱えて、舟の中へ
日吉の小さい体は、林のように立ち並んだ槍と大きな男どもの間に隠れた。舟は大河の流れを横切っていったが、流れが
日吉は退屈顔に
蜂須賀村へ引き揚げてから後でも、小六正勝は取り逃した
或いは、部下を変装させて、刺客として放ち、或いは、遠国の土豪と、
しかし、
うわさによれば、渡辺天蔵は、
「甲州へ
と、小六もさすがに、
すると、その噂の聞えた日頃。
「主人が参るべきでござるが」
と
この事件が起るまえに、小六が
その折、問題になった「
「この一品より、同族の間に、御騒動があったとやら承る。ついては、この名品も、買い求めたものとはいえ、家蔵といたしおくのも心苦しいゆえ、御当家より茶わん屋へおもどし
とのことであった。小六は、好意を謝し、
「後日、ごあいさつ申すでござろう」
と、受けておいた。
そして、答礼の使いをやる折に、水挿の価に倍する黄金と、見事な鞍などを持たせてやった。
その日である。
使いを出した後で、また、
「猿ッ。猿ッ」
と、庭へ向って呼んだ。
日吉は、
「おいッ」
と答えながら、木蔭から
「お呼びですか」
と、膝をついた。
ここへ来てから、
機転がきく。何でもする。人は彼を小馬鹿にするが、彼は人を馬鹿にしない。口が達者なほど心は決して軽薄でない。||で、小六は、庭使いにして愛していた。
庭使いは、
「新川の茶わん屋の宅へ行って来い。
「茶わん屋へですか」
「なんで、迷惑そうな顔するのじゃ」
「でも······」
「
日吉は、そう聞くと、土の上に坐り直して、両手をついた。
「ありがとうございます。御恩は忘れません。
茶わん屋へ着いた。
彼は、供として来たので、家の外で待っていた。
以前の
「猿が来た」
と、
日吉がこの家を追い出された時、笑ったり、打ったりした奉公人の顔も見えたが、日吉は忘れてしまったもののように、
「こんちは。||今日は」
と、その顔のどれへも、
やがて、内匠は、使いをすまして奥からもどって来た。思いがけない盗難の「赤絵の水挿」が返って来たので、茶わん屋の夫婦は、夢かとよろこび、使者の草履をそろえたり、夫婦して、
チラと、日吉の顔を見、ぎょっとした顔つきだったが、それへ向っても、日吉はにやっと白い歯を見せただけだった。
「蜂須賀様へは、いずれ日を改めまして、お礼に参上いたしまする。何とぞよろしゅうお伝え上げねがいまする。また、わざわざ今日のお使い、ご苦労さまでございました」
茶わん屋夫婦、その子、奉公人たちが、一同頭を下げる中を、日吉は松原内匠の後について、手を振って出て行った。
(······
中村は、もうそこだ。
当然彼は、母やおつみの顔を、さっきから胸に思い出して、ちょっと駈け出して行ってみようかとさえ思うほどだった。
けれど、霜の夜、誓って出たことばがある||。今行っても、母を
その中村の方へ背を向けて、うしろ髪をひかれながら、彼は内匠について歩いていた。すると途中で、
「おや、
足軽ていの男が声をかけた。
「どなた様でしたっけ」
「日吉だろ。お前は」
「はい」
「大きくなったなあ、わしは弥右衛門どのの友達の
「思い出しました。そんなに私は大きくなりましたか」
「見せたいなア。······死んだ弥右衛門どのに」
そういわれて、日吉は、ほろりと涙をこぼしかけた。
「私のおふくろに、近頃、お会いになったことがございましょうか」
「つい無沙汰しているが、中村へは時折行くので、よそながら噂は聞いている。相変らず、よく働いていて結構だの」
「じゃあ、病気もせず、丈夫で暮しておりますか」
「お前こそ、どうして家へ行かないのだ」
「偉くなったら帰ります」
「顔だけでも、見せてやれよ。女親にはな」
「ええ······」
熱い
残暑も、薄らいで来た。朝夕は秋を覚える。
「この
今。
村の
「なんのために、濠があるんだ。小六様にひとつ云って上げよう」
竹竿を突っ込んで、水深をさぐって見た。水草でいちめんなので誰も気づかないが、日吉が察した通り、底は何年となく、落葉や泥の
二、三ヵ所でそうして、竹竿を
「
呼ぶ者がある。
日吉の身なりが小さいから
「誰だい?」
橋の上から、日吉は振り向いた。
見ると、
「ちょっと······」
と、男は手招きした。
この村へも、時々、はいってくる
ずっと後の、江戸時代のそれのように、その頃の薦僧には一定した
今、日吉へ、手招きした
「お
日吉は、小馬鹿にしながら、戻って来たが、苦しい旅の味はよく知っているので、腹が減っているなら飯を、体でも病んでいるなら薬を、貰ってやろうと直ぐ頭の中では思いやっていた。
「······ちがう」
薦僧は、顔を横に振った。
じっと、日吉を見上げて笑う。そして、敷いている
「ま、お坐り」
「いいよ。立っていても。用事は何さ」
「おぬしは、御当家の召使か」
「ちがう」
今度は、日吉が
「おらは、ここの
「ふむ。······でも何か働いてはいるのだろう。台所か、お表か」
「庭掃除さ」
「庭番か。そうか。それでは小六殿にも、目をかけておられるな」
「どうだか」
「今は、お
「お留守だよ」
「御不在か。それは
と薦僧は、落胆したように
「今日中には、お帰りじゃろうか」
と、訊ねた。
日吉は、それだけの会話のうちに、この薦僧の様子に不審を見出し、急に、口数を控えてしまった。
「お帰りはいつだな」
重ねて、訊くと、日吉はそれには答えず、
「薦僧さん。おまえは、お侍だろ。薦僧なら、なりたての、新米だろ」
非常な驚きを顔にあらわして、薦僧は日吉の顔を見つめていたが、やがて、
「どうして、わしが侍か、また新米の薦僧と、おぬしに分ったか」
日吉は、事もなげに、
「分らなくッてさ! ひどく
「ウウム······その通りだ」
薦僧は、菰のうえから起き上がったが、立ち上がりながらも、日吉の顔から眼を離さなかった。
「おそろしい
「
「実はな」
と、声を
「わしは
「美濃」
「
云い残して、薦僧が歩きかけると、日吉は呼び止めて、
「嘘だよ、薦僧さん」
「え?」
「留守といったのは、そッちの素姓が分らないからだ。実は、馬場にいらっしゃる」
「あ。いるのか」
「うん。もう見届けたから、案内して上げよう。おらに
「飽くまで、おぬしは、抜け目がないのう」
「弓矢の家にいるからには、これくらいな気くばりは当り前だよ。
「そんなことはない」
薦僧は、舌打ちした。
小六以下、蜂須賀衆の人々が、駒を曳き出して、猛烈な騎馬の練習をやっていた。騎乗ばかりでなく、鞍と鞍とを寄せ合って、棒で
「ここで待っておいでなさい」
日吉は、薦僧をおいて、一人で駈けて行った。
しばらく、様子を見ていると、小六が汗の顔を拭きながら、休息所の小屋へ、湯を飲みに来た。
「お湯ですか、お
日吉は、すぐ湯を汲んで、熱くない程に、水を割って加減し、盆に乗せて、小六の
「
「はい」
答えながら寄って、
「美濃家の密使を案内して参りました。連れて来ますか。お
と、早口に告げた。
「なに。美濃から······?」
斎藤家の密使と聞くと、小六はもう、多言を待たず、床几から立って、
「猿」
「はい」
「案内せい」
「ここへですか」
「いや、おれの方から出向く。どこへ待たせておいた」
「森の向うがわに」
指さしながら、日吉は先に立って歩いた。
美濃の斎藤家と蜂須賀とは、
美濃に事ある時は、蜂須賀から手を貸して
また、経済的には、年ごとに二百貫の領を、美濃から
そういう条約だった。
地の理を隔てながら、どうして蜂須賀党と、道三秀龍とが、そんな条約の下に結ばれていたか||ということについては、ひとつの話が聞えている。
それは、小六の先代、
或る夜。
蜂須賀家の門前に、
(······御恩は忘れおかぬ)
(いつか、自分が志を得た後には、消息いたして、今日の御芳志にきっと
と、誓った。
その時、云い残した名は、
(あの人が)
と、後では驚いたことだった。
そういう旧縁から、小六の代になっても、秀龍との盟は、依然結ばれていたのである。
その秀龍からの密使!
何事かと、小六がすぐ立って行ったのは当然だった。
薦僧姿の密使、
「おう」
と、礼儀をした。
小六も礼を返し、そして双方が眼と眼とを、正しく交わしながら、片方の
「てまえが、小六正勝」
「それがしは、稲葉山の家人、難波内記にござる」
名乗り合ってから、もいちど低く頭を下げ合うのだった。秀龍は幼少の頃、
作法を交わして、お互いが、
(この者は、間違いない)
と見極めると、初めてうち
「猿。||誰が参っても、森へ入れるな。おれが許すまでは」
小六は、いいつけて、内記と共に、森の中へはいって行った。
森の中の二人の会見に、どんな密談が交わされたか、密書が開かれたか、日吉には知るよしもなかったし、知ろうとする気ももとよりなかった。
彼はただ、忠実に、森の外に立って、張番していた。
使いに行けば使いに。庭掃除になれば庭掃除に。張番に立てば張番に。||彼は持った仕事の人間になりきった。
彼に限っては、どんな仕事でも仕事を愛することが出来た。それは、貧しく生れたからばかりではない。現在の仕事は、常に、次への希望の卵だったからである。それを忠実に抱き、愛熱で
(今の世のなかで、身を立てるには、何がいちばん大事か)
日吉は、考えてみたことがある。
それは、系図だ。家がらだ。
しかし、彼には、それがない。
家がらの次には、いうまでもなく、金と武力だが、その二つも、彼は持たない。
(では、何をもって、おれは世に出たらいいか)
と、自分に訊ねてみると、悲しいかな、肉体は、先天的に
忠実。
それしか、考え出せなかった。それも、何を忠実に、などと考え分けてするのでなく、何でも忠実にやろうと決めた。忠実なら、裸になっても、持てると思った。
だが、その忠実を、どういうふうに
||なりきる!
というところへ、彼の肚が
将来の抱負をもっていても、その希望のために、現在の足腰を浮かすまい。
現在から遊離して、将来のあるわけはない。希望は、なりきっている下っ腹において、
ピピ、チチ、チチ······
森の
「||やあ。御苦労」
やがて、小六が、森の奥から出て来て云った。
機嫌がいい。野望的な眼がかがやいている。そしてどんな重大なものを
「すみましたか」
「すんだ」
「
「もう帰った。べつな道から森を出て||」
小六はそういってから、ふと日吉を顧みて、
「他言するな」
と
「はい」
「難波内記が||あの薦僧が、ひどく
「そうですか」
「いずれ一かどの者に取り立ててやる。いつまでも、蜂須賀におれよ」
その日、美濃の密使が
その晩も、日吉は、星の下に立ちきりで、忠実な張番役だった。
稲葉山の斎藤
もとより厳秘だ。
一族の者でも重立った者にしかその内容は洩らされていない。
だが||
密かな評議があった夜の翌日頃から、
誰となく
小六の舎弟に、蜂須賀七内という者があった。その七内も、何か一役持って、岐阜へ忍んで行くこととなり、日吉は、その七内の供をして行けと
「何か、
日吉が、訊ねると、
「よけいなことをいうな。黙っておれにくっついて来ればいいんだ」
と、七内は、何も話してくれなかった。
この人のことを、邸の小者でも、台所の者でも、「あばたの七内様」と蔭口して、誰も煙たい||というよりも憎悪していた。兄の小六のような情味が、このあばたの七内様にはちっともないからだった。大酒呑みで生意気で、すぐ腕自慢するといったふうな人間だった。
「······嫌だなあ」
日吉も、正直そう思った。
だが小六から、
「ほかの小者では、
と、いわれたので、嫌も文句もいえなかったのである。
一飯の恩、一宿の義理である。蜂須賀党の端くれに加わって、働くまでの決心はまだつききらないが、
「
||云ったからには、七内様でも、あばた様でも、飽くまで誠意をもって、供をして行こうと、日吉は思いきめた。
さて。
出立の日となると、蜂須賀七内はすっかり
日吉は、この夏、着て歩いていた、針売りの行商着をそのまま着て、少しばかりの荷を背中に負い、油屋の七内とは、道中の道づれという
「猿、往来調べの木戸へかかったら、おれの側を離れて通れよ」
「はい」
「てめえは一体、口達者で、口数が多いから、何を訊かれても、なるたけ黙っているんだぞ」
「へい」
「ボロを出すと、おれは知らん顔して、捨てて行ってしまうぞ」
街道の木戸は、次々にあった。
いや、尾張美濃の間には、国境もあるから、そうした警戒をどっちがしていても、そう不自然ではないが、美濃へはいってみると、美濃一国の内にも、お互いを疑い合うような眼が、どこにも光っていた。
「なぜでしょ?」
日吉が、七内に訊くと、
「知れたことを訊く奴だ。斎藤
一国の中で、二つの勢力が反目し、一族のなかで、父と子とが闘っていることを、七内は何のふしぎとも思わずにいうのだった。
日吉は、七内の頭を疑った。
武門の上では、
「どうして、斎藤道三様と、子の義龍様とは、仲が悪いんですか」
「うるせえな」
七内は、舌打ちして、
「そんな事あ、人に訊け」
と、相手にもしてくれない。
日吉が、美濃の国の土を踏む前に第一に抱いていたものは、彼の気持に
だが、
べつの名を「
「高い
日吉は眼をみはった。
城下からそこへ登るのには、
「城ばかりで国は持たない」
と、胸の中で
七内は、繁華な町の辻の商人宿に、宿を取ったが、日吉には、
「おまえは、この裏の木賃宿へ泊れ。そのうちに、用を
といって、わずかばかりの銭をくれた。
「はい」
日吉は、神妙に、銭にお辞儀して、すぐ裏町の汚い木賃へ行って泊り、結句、独りでこの方が気楽だったが、
(そのうちに、用が出来るといったが、一体、何の用事だろう?)
今もって、分らなかった。
木賃には、旅芸人だの、
日吉はそこから、毎日、針売りに出て、帰りには塩物と米を買って帰って来た。木賃暮しは皆、自炊だった。
七日ほど過ぎた。
だが、七内からは、何にも云って来ない。七内も毎日、ぶらぶらしているのだろうか。彼は自分だけ捨てられたような気がしていた。
||と。或る日。
彼が屋敷町の小路を、針はいらんか、京針はいらんか||と
「弓の直しイ。弓の直し||」
と、呼びながら歩いて来た。
そして近づいて来ると、オヤと眼をみはりながら、弓直しは立ち止って、
「あ。猿じゃねえか。
と、訊ねた。
日吉も驚いた。
その「弓の直し屋」は、
「彦十様。あなたこそ、どうしてそんな商売をして、この
「おればかりじゃない。仲間の蜂須賀党が、少なくも三、四十人はもう入り込んでいる。||だが、猿まで来ているとは思わなかった」
「わたしは、七内様について、七日ほど前にやって来ましたが、用が出来るまで、針売りをして歩いていろというので、こうやって針売りをしていますが、一体全体、これは何のためにやっているんですか」
「まだ聞いていないのか」
「七内様は、何も話してくれないので。||人間、
「そうだろう」
「彦十様には、その
「分らなくて、弓の直しなんかして歩けるか」
「お願いですから、一つ聞かせて下さいませんか」
「こんな所で、立話はできぬ。······だが、七内殿も意地悪な。何のためかも知らず、うろついていたりしたら、
「ヘエ。生命にかかわりますか」
「
「ありがとうございます」
「だが、ここでは人目につく」
「あの
「うむ。······ちょうど腹も
彦十は先に歩いた。日吉も
二人は、
「
彦十は飯粒のついている
「はあ······?」
日吉は、口を開いて、わざと、ぽかんとした顔をしながら、箸の先に眼をやる。
彦十が見る稲葉山の城と、日吉の眼に映じたそれとは、一つ対象ではあるが、心は大きな相違をもって、しばらく眺め合っていた。
「||じゃあ、あの城でも、蜂須賀党で乗ッ取ってしまおうという算段ですか」
日吉がいうと、
「ばかアいえ」
と、彦十は、彼の馬鹿馬鹿しい質問に、箸を折って、竹の皮と共に地へ
「あの城には、斎藤道三殿の子、
叱られて、日吉は、
「へい。もうよけいなことは云いません」
素直に口をつぐんだ。
弓直しの仁田彦十は、
「······誰も来やしまいな」
拝殿の横から、境内を眺めまわして、さて、唇を
「おれたち蜂須賀党の者と、斎藤道三秀龍様との深い関係は、
「············」
日吉は、前に
「ところが、その道三秀龍様と、養子の新九郎義龍とは、ここ数年、互いに不和になっている。なぜといえばだな||」
彦十は、日吉に分る程度に、斎藤一門の
道三秀龍は、前名を
だが、肚は黒い。
何しろ油売りから身を起して、
ところが、
彼が奪って自分のものとした||主人土岐氏の妾が生んだ子は、今の新九郎義龍で、道三秀龍は、多年、それが自分の実の子か、主人土岐氏の子か、悩んでいた。
子は長じて行き、彼は老いてゆく。悩みは、深くなる。
すでにその義龍は、
鷺山と稲葉山と、川を隔てて、
だが、その企ては、義龍のほうで
義龍は、
(その儀ならば)
と、鷺山へ向って、
道三のほうでも、勿論、
(あの癩殿を除かねば)
と、浅ましくも、おのが五体に等しい義龍に向って、いつでも、流す血を覚悟している。
「||そんなわけだ」
と、彦十はひと息ついて、
「そこで、先頃、蜂須賀村へ密使が来たわけだ。で、道三様からの頼みというのは、鷺山の家来
「え。||火を」
「といったって、いきなり
「ははあ······」
と日吉は、大人びた
「では何ですか、わたし達は、この城下へ、流言を放ったり、火つけ役をするために、頼まれて来たというわけで?」
「そうだ」
「つまり、
「ま。そんなものだ」
「乱波といえば、下賤の者がやる仕事でしょ」
「仕方がない。道三秀龍様からは、多年、
彦十は、単純であった。何といっても、やはり野武士は野武士だなと、日吉は、その顔を見てしまう。
が、彼には、そう単純になれないのだ。その野武士の家の台所で、冷飯を喰べても、自分の身は、
「||で、七内様は、何しに来てるんですか」
「指図役だ。何しろ三、四十人もちりぢりばらばら入り込んでいるから、誰か
「なるほど」
「もう、あらまし分ったろう」
「分りました。||だが、もう一つ分らないのは、てまえ自身ですが」
「ム。お前か」
「わたしは一体、何をする役目なんでしょ。七内様からは、
「多分、
「ははあ。
「何しろ、そういう密命をもって、この城下へ来ているわけだから、寸分も油断はならぬ。弓の直し屋をして歩くにも、針売りをして歩くにも、よくよく気をつけて、言葉の端にも、気どられぬことだぞ」
「知れたらすぐ
「あたりまえだ。道三様の方では知っていることだが、もし義龍の方の侍にでも、
何も知らぬのは
日吉は、彼の顔色を察して、
「だいじょうぶです。旅には馴れていますから」
「抜かりはあるまいが」
彦十はなお、だめを押して、
「敵地だからな。ここは」
「よくわかりました」
「どれ······。そういっている間にも、人目に怪しまれるといかねえ」
腰が冷えてきたと見え、彦十は立ち上がって、二、三度腰ぼねを叩きながら、
「猿、······
「七内様がいる
「そうか。じゃあそのうち、おれも一晩泊りに行くが、
日吉は、残っていた。
「············」
そしてなお、拝殿の横に腰かけたまま、ぽかんと、
今。||彦十の口から、この国土の主たる斎藤家の内争と、その悪行ぶりを聞いてから、ふたたび、城を仰ぎ見た時、その鉄壁も、
むしろ、彼は、
(||誰が次には、この城の主となって坐るだろうか)
などと考えて、また、
(
と、信じた。
君臣の道もないところに、国土の堅固がどうしてあろう。父と子とが
文化的には、ここは
(
と、
信じて疑わなかった。
だから彼の頭は、その
(次の城主は誰か?)
に、思い至っていた。
同時に。
彼は一つの
野武士、野武士と、世間はとかくよくいわないが、小六その人を直接に知ってみると、彼は正義の男だし、遠い家系の血をひいて
斎藤道三とは、多年、
だのに、その道三と結び、父子の内争に、
(
と、
それは、十月末の、から風の強い日であった。
日吉が、いつもの木賃から、行商に出て行こうとすると、裏町の辻に、鼻を赤めて
「猿、これを」
と、側へ寄って来て、彼の手に一通の
「||読んだら直ぐ、噛みつぶして、河の中へでも吐き捨ててしまえよ」
と、注意するなり、もう素知らぬ振りして、右と左に別れて行ってしまった。
「何だろ?」
およそ仲間の廻文という見当はついていたが、日吉は、気にかかって、いやな
この仲間から去ろう。この土地から逃げ出そう。それは何度も、考えてみたが、ここに踏みとどまっているよりは、逃げる場合のほうが、遥かに、生命の危険があった。
なぜなら、自分は自分ひとりで、この木賃に泊っているつもりでいたが、自分の
その見張にもまた、見張が付いているのだ。つまり
「いよいよ、やるのかな?」
かねて、彦十から聞いてはいたが、いざとなると、日吉は、気持が暗くなった。
気が小さいのか、兇悪な
第一、それを聞いてから、小六への尊敬を失ってしまったし、斎藤道三に利益する気にもなれないし、なおのこと、
もし、味方すれば、城下の民に味方したい。どこに同情をもつかといえば、やはりそんな場合には、真っ先に
「なんの、まだ開けてもみないうちに、取越苦労をしておった。······とにかく、読んでみてからだが」
針イいらんか||京針イ||といつもの声で流しながら、日吉はわざと、屋敷町の人目のない横丁へ曲って行った。
と、小川がある。行き止りだ。
「おや、こいつはいけねえ」
わざと聞えよがしにいって、見廻すと、折よく、人影もなかった。
でも、念のため。
彼は、小川へ向って、
こよい、戌 の下刻
風。西か南なれば
常在寺 うらの森に集合のこと
風。北に変ずるか
風やむ折は、集合もやむ事
「············」風。西か南なれば
風。北に変ずるか
風やむ折は、集合もやむ事
予想はやはりあたっていた。日吉は読み終ると、細かに裂いて、口のなかに丸めこみ、
「||針売りッ」
ふいに、何処かで呼ばれたので、日吉はうろたえ、口の中の物を、川へ吐き捨てるいとまもなく、
「へい。どちらですか」
「ここだ。針を買ってつかわすから、はいって来い」
声は聞えるが、誰か、何処か、一向その人の姿は見当らなかった。
||いくら見廻しても、姿の見えない筈。
声の主は、彼方の侍屋敷らしい構えの中だった。低い
「針売り針売り。こっちへ廻って来い」
築土の横手の、小さい潜り門が開き、そこから若党らしい者が、首をさしのべていた。
「······へい」
日吉は答えたが、ちょっと、様子を計っていた。
この
「針売り、針を求めてつかわすと仰っしゃる。こっちへはいって来い」
求めてくれる人は、その若党ではないらしいのだ。いよいよ、気が進まなかったが、ぜひなく近づいて、
「ありがとうございます」
そこは裏庭らしく、築山の後を
誰だろう? 針を買ってくれるという当人は。
若党のことばでは、主人筋らしいが、これ程な屋敷に住む大身が、奥方であろうと、御息女であろうと、自身、針など求めるはずはない。また、外を呼び歩く物売りなどを近づけるわけもない。
「針売り」
「はい」
「
若党は、彼を庭の一隅へ残して行ってしまった。||見ると、母屋からは、かけ離れた一棟がある。
その一棟は、下が書斎、上が書庫にでもなっているらしく、荒壁で塗り廻した中二階造りになっていた。若党は、そこの中二階を仰向いて、
「
と告げた。
「む、今参る。||
十兵衛は、下の若党へ、そう返辞して窓口から姿をかくした。
遠くから、日吉は見ていた。なるほど、あんな所に人がいたのか、とその時気づいた。
日吉が、そう
「今すぐ、御当家の
と、いった。
いわるるまま、日吉は、その家の縁先から少し離れた所に坐っていた。勿論、土へじかにである。
そしてしばらく手をつかえていたが、なかなか出て来ないので、そっと首を
日吉は、目をみはった。
室内は、書物で埋まっていた。机のまわり、壁の書棚、二の
(ここの主人か、その甥か。よほどな学者だとみえる)
日吉には、書物など、見るのも珍しかった。||しかし、
やがて、その人は出て来た。
静かに、机の前へ座を占め、頬杖をついた。そして、庭前に
「はい。今日は」
||それとは、まるで正反対な、開けッ放しな顔を上げて、日吉は、
「ありがとうございます。てまえが針売りで||。針をお求め下さいますか」
十兵衛は頬杖をついたまま、机の上から
「うむ。求めて
「もとより、針さえ売れればよいので」
「ならば、こんな屋敷小路などへ、なぜはいって来たか」
「抜け道かと存じまして」
「嘘を申せ」
十兵衛は、少し身をねじ向け、
「見るところ、
「そうとばかり限りませぬ、
「稀に||ではあろうが」
「でも、売れることは、売れますので」
「では、それはまず
「へ?」
「辺りに人がおらぬと思うて、そちは
「手紙を見ていました」
「何の密書を」
「おっ母さんから来た手紙を読んでいました」
意外な答えだった。
そしてけろりとしていた。
勿論、十兵衛は、その理性的な眼ざしで、
(こやつ、言葉巧みに)
と、なお、疑いを濃くしたが、わざと優しく、
「そうか。母の手紙か」
「はい」
「しからば、その手紙を、見せい。御城下の
「喰べてしまいました」
「何」
「
「喰べた?」
理をもって、優しく、しかしするどく、徐々に責めていた十兵衛も、常識負けした形で、
「はい」
日吉は、なお、真面目に、
「わしにとれば、おっ母さんは、神様より仏様より、生きているだけになお、尊いおっ母さんでござります。ですから······」
「だまれッ」
一
「秘密の手紙ゆえ、噛み捨てたのであろう。それだけでも、不審な奴、さてこそ!」
「いえ、いえ。お考え違いをしては困ります」
日吉は、あわてて、手を振って云い足した。
「神仏よりもありがたい、おっ母さんの手紙を、持っていて、つい
嘘だ。虚言だ。
十兵衛は見ぬいていた。
しかし、嘘にせよ、人並すぐれた嘘をいう男もあるもの||と思った。
それと||
十兵衛にも、故郷に
(嘘も、根からの嘘はいえないものである。母の手紙を喰べてしまったなどということは、出たら目でも、この猿に似た小男にも、親はあるにちがいない)
十兵衛はまた、そうも考えて、相手の無教養らしい野性をも、かえって、
しかしまた、
わざわざ、問注所へ突き出すほどの者でもないし、斬り捨てるには
「············」
黙って、日吉の挙動を、細かな眼で見ている間、十兵衛はそんな観察をしたり、処理に迷っていたらしかったが、やがて、
「
と、以前の若党を呼んで、
「奥に
「いらっしゃると思いますが」
「恐れ入るが、ちょっとお顔を拝借したいと申して来い」
「
又市は、駈けて行った。
程なく、その弥平治は又市を
十兵衛よりは、もっと若い青年だった。十九か、二十歳ほどであろう。この大きな屋敷の主人、
十兵衛とは
十兵衛も、姓は同じ明智で、名のりは、
いや、そういうよりも、十兵衛光秀の内に燃えている青年の慾望に、
叔父の光安も、よく、わが子の光春に向って、
(ちと、十兵衛を見習え)
というほど、彼は謹厳で、勉強家だった。
ここへ身を寄せる前にも、すでに十兵衛光秀は、
わけて、泉州
「十兵衛どの、何か、拙者に御用だそうですが」
「お、弥平治どのか。お呼び立てするほどのことでもないが」
「何ですか」
「あなたに、ご処置をお願いするのが、よかろうと思うて」
と、光秀も外へ出て来た。そして、日吉のぽかんとしている側で日吉の処分を相談していた。
弥平治光春は、十兵衛から仔細を聞いて、
「ほ。この
と、日吉に一
「怪しいとお認めになるものなら、又市に申しつけて、一責め、弓の折れで
といった。
「いや」
と、十兵衛は、弥平治の眼と共に、もいちど日吉の姿を見直して、
「なかなか、そんなことで、
「不愍をかけておっては、口を開かせることは出来ますまい。ならば拙者が、四、五日預かっておいて、物置小屋にでも押し
「お手数だが」
十兵衛が同意すると、
「
と、若党の又市は、すぐ日吉の側へ立ち寄って、その手を
と、日吉は、
「あ、待って下さい」
あわてて、身をかわしながら、十兵衛と弥平治の顔を仰いで、
「今聞けば、撲っても、
「申すか」
「申します」
「然らば問うぞ」
「はい。どうぞ」
「······いかん」
と、弥平治は、日吉のけろりとした顔に、力負けしたように、
「こいつ、どうも、おかしな奴ですな。少し
と
十兵衛は、笑いもしなかった。むしろ
で||十兵衛と弥平治とが、駄々な子をあやすように、こもごも何かと質問すると、日吉は、
「それなら、今夜大変が起ることを、教えますが、私はその仲間でも何でもありませんから、私の生命は、保証してくれますか」
「よろしい。そちの一命などは取るにも足らん。大変とは、何事か」
「火事があります。今夜の風次第で||」
「火事。······何処から」
「それは分りませんが、わたしと同じ木賃に泊っていた野武士たちが、密談していました。||今晩風が西か南だったら、
「えっ」
弥平治も
が、日吉は、二人の顔いろなど気にかけているふうもなかった。自分はただ
「よし。そちの身は、きっと放してつかわすが、夜までは出すことならぬ。||又市、この小男を、どこぞへおいて、飯でも与えておけ」
と、十兵衛は命じた。
風は、相かわらず、吹き
急に、その風が、耳について、二人は胸騒がしくなった。
日吉の身を、若党の又市にあずけて、そこから追い立てると、弥平治はすぐ、すり寄って、
「十兵衛どの。この風に乗じて、野武士どもが、何を
と、不安を
十兵衛は
「光春どの」
「何か」
「叔父上から、何ぞ、この四、五日中に、変ったことでも、聞いておいでなさらぬか」
「さ。······べつに何も、父から耳にしたこともないが」
「はてな?」
「ただ······。そういわれれば、今朝、父が
「叔父上がか」
「父が」
「今朝だな」
「いかにも」
「||それだ!」
十兵衛は、膝を打って、
「叔父上は、それとなく、今夜にも合戦があるぞと、
「え、今夜にも······合戦が?」
「こよい、常在寺の森に集まる野武士というのは、道三様が、外部から引き入れた、
「では、いよいよ、義龍様を、稲葉山からお
「そうだ」
と、十兵衛は、自分の判断に、自信をもって、強く
「······だが、道三様のお考えどおりに、巧くは運ぶまい。義龍様にも、かねて期しておらるることだ。······それに、御父子のおん仲で、
彼は、そういって、長嘆をもらした。
「············」
弥平治光春も、沈黙して、ただ、暗い乱雲と風の
主君と主君との争いである。臣下の身にはどうしようもなかった。そして弥平治には父、十兵衛には叔父にあたる
「······そうだ。どうあっても、さような、人道に
「はいッ。心得ました」
「わしは、日暮を待って、常在寺の森へ行き、野武士たちの
何俵という米も一度に
その釜の
これだけの飯を、一度に喰べてしまうのかと思うと、静かなようでも、この明智家の
||そして
「こんなに豊富にある米が、中村にいる母や姉には、どうして、腹のはる程も、手に入らないのだろう」
と、不審になった。
母を思うと、飯を思い、飯を思うと、母の飢えを思うのが||今彼の習性のようになっていた。
「ひどい風だのう」
台所
「日が暮れても、風はやまぬようじゃから、火の元をよく気をつけてくれよ。||それと、一釜あがったら、すぐ後釜をかけての、手の
「心得ております」
「抜かりはあるまいが、夜明けまでは、一切、
「はい。その儀も」
「
云い残して、老人は、ほかへ行きかけたが、ふと、足を引き返して
「これこれ」
と水屋仲間を顧みて、訊ねていた。
「そこにおる、猿のような顔した町人は、どこの何者じゃ。見馴れぬ男だが」
「十兵衛様からのお預り人だそうでございます。||あれに若党の又市どのが逃がさぬように、番に付いておいでなさいます」
「ほ、
と、老人は、
「やあ、御苦労で」
と、何の
「あれにいる男は、何か、不審でもあって、捕えたものでござるか。それとも何か······?」
と、訊ねはじめた。
又市は、
「いや、仔細のほどは、何か知らぬが、ただ、十兵衛様のおいいつけで」
と、のみ答えて、多くをいわなかった。
台所
「||実に、お年に似合わず、思慮分別のそなわったお方だな。ああいうお方を、俗に出来ている人間||というのじゃろうな。とかく学問はないがしろになり、ただ、何貫目の棒を使うとか、
と、口を極めていった。
又市は、十兵衛付の若党であった。直接の主人である十兵衛のことを
で、台所頭の老人の口に、彼も
「いや、仰せの通り。手前などは、ご幼少から、十兵衛様には、身近に仕えておるが、あんなお優しい方はない。しかも、母君にはご孝行だし、こうして当地にご遊学中も、諸国をご遍歴中も、母君へのお便りは欠かしたことがない程で」
「総じて二十四、五といえば、剛直なれば大言壮語。おとなしければ柔弱で怠け者。木の股から生れたように、親の恩など忘れて生意気ぶるものだが」
「||では、お優しいばかりかと思うと、あれで、恐ろしく強いご気質もあるので、それは滅多に色にはお出し遊ばさぬだけに、怒ったら、きかないご気性ですよ」
「そうじゃろう。おとなしいといわれる者ほど、一たん
「今日なども、感じました」
「ム。今日な······」
「事に当って、是か非か、じっと考え込まれる時には、考えておられるが、決すると、
「将器じゃの。いわゆる大将の
「光春様も、十兵衛様には、心服しておられるので、お指図どおりに、すぐ肚をきめて、早馬で
「一体、どうなるのじゃろ」
「さ。その儀はな?」
「飯をうんと
「万一の準備にな」
「万一ですめばよいが、鷺山と稲葉山城との御合戦では、わしら奉公人は、いずれへ弓を引いてよいやら||いずれへ引いても、友や骨肉がおるしのう」
「ま、そんなことは、万が一にも起りますまい。十兵衛様にも、何やらご決心もあり、喰い止める策をお立てになっておるらしいから」
「神かけて、わしらも
||外はもう暗い。
そして、空は真っ暗だった。
吹き入る風に、大きな
その前に、しゃがみ込んでいた日吉は、大釜の飯の
「あ、飯が焦げる。お小人衆、釜の飯が焦げつきますぜ」
と、
教えてくれた礼も忘れて、
「
と、仲間たちは、大竈の火を落し、やがて、
日吉も、その中に
ただ夢中で、飯を握りながら人々のいっていることは、
「
「戦にならずにすむか」
であった。
そして、自分たちの握っている兵糧が、むだになることを、そのうちの大部分の者が、願っていた。
やがてもう
十兵衛光秀が、又市の名を呼んでいた。又市は外へ出て行ったが、すぐ戻って来て、
「針売り。針売り」
と、大勢の中に
日吉は、指の飯つぶを
一歩、炊事小屋の外へ出ると、相かわらず風は烈しく、暗い夜を
「はい。お呼びですか」
「あちらだ」
「え」
「十兵衛様がお待ちだ。つづいて来い」
又市は、先に立って行く。||見ると、その又市は、いつの間にか、身軽い武装をして、
何処へだろう? 日吉には行き先も分らなかった。何しろ暗い。
やっと、中門へ出て、見当がついた。広い邸内の裏庭をずっと廻って、表へ来たのだ。表門を出ると、誰か、騎馬の人影が一つ、烈風のなかに立って待っていた。
「又市か」
十兵衛の声である。
昼間のままの服装で、鞍の上に
「はッ。又市です」
「針売りの男は」
「召し連れました」
「そちと一緒に、先へ駈けろ」
「心得ました。||針売りッ」
と、振り向いて、そこからまた、タッタと闇の中を駈けた。
その歩速に合わせて、後からは十兵衛の駒と、槍の穂先が背を追って来る。そして辻へかかると、
||右へ。
||左へ。
と、後ろの十兵衛が、馬上から声をかけた。
常在寺の門前まで来て、日吉はやっと気がついた。蜂須賀七内をはじめ、
ひらりと、駒を降り、
「又市、そちはここで、待っておれ。何、大事はない」
と、手綱を渡して、
「戌の下刻までに、弥平治どのが、
語尾は、憂いに消えて、十兵衛の眉には悲壮なものが
「針売り」
「はい」
「案内に立て。||先に歩いて」
「へ。どこへで?」
日吉は、烈風に立ち
「森へ。||蜂須賀村の乱波どもが、こよい集まるという裏の森へだ」
「さ? ······私も、どの辺だか、場所は存じませぬが」
「場所は初めてでも、そちの顔は、先の者がよく見知っておるであろう」
「えッ」
「かくすな」
「············」
日吉は、うまく彼を
(これはいけない。
日吉はすぐ
一点の灯も見えない。ただ
その||常在寺裏の林は、まるで荒れ狂う
「針売り」
「はい」
「森の中に、もう仲間が集まっているか」
「分りません。何しろ、このひどい風では||」
「いや、来ている」
「そうでしょうか」
「ちょうど、時刻もはや、
寺裏の大きな
小脇に持っている槍の穂先が、日吉のすぐ足の先で、風に
「仲間へ、顔を出して来い」
十兵衛は、先手先手と打つように、日吉の考えを、始終、先を越して云った。
「||
「
日吉は、頭を下げた。
しかし、すぐ行こうとはせず、
「集まっている一同の者へ、そう伝えればよろしいので?」
「そうだ」
「そのために、私を、これまで先に立たせて来たわけですね」
「はやく行け」
「参ります。||けれど、これきりお目にかからないかも知れませんから、私にも、ここで云い分をいわせて貰いましょう」
「何、云い分を」
「いわずに去るのは、口惜しゅうございます。何となれば、あなたは飽くまで手前を、蜂須賀一類の手先と見ている様子です」
「それに相違あるまいが」
「あなたはお賢いが、あなたの眼は、鋭すぎて、
「············」
「なるほど、あなたが
「············」
「もし、御縁があって、次にまた何処かで、お目にかかる時があったら、あなたの眼が行き過ぎで、手前の云い分が、嘘でないことが証拠だてられましょう。||では手前は、約束どおり、これから蜂須賀七内様へ、お
生来、口の達者な日吉が、思い切ってそう述べ立てている間、十兵衛は遂に、一言も吐かなかった。
||気がついて、
「針売り、待てッ」
と呼んだ時は、日吉の姿はもう、木の葉の暴風を
駈け抜けて行くと木立に囲まれた少しの平地がある。風も、ここは池のように、強くは当らなかった。
||見ると。
「誰だッ?」
立って、四方を
「おらだ」
「日吉か」
「うむ······」
「どじめ。
まず、頭から叱られて、
「すみません。どうも、遅くなりまして」
と、日吉は、一同の側へ、おずおずと見える足つきで、近づいて行った。
「七内様は」
「あれにいる。
「へい」
その日吉の声に、
「猿か」
と顔を向けた。
日吉が、そこへ行って、遅くなった詫びを云いかけると、
「何していた?」
「昼間から、斎藤家の御家中の邸に、捕まっていましたので」
「えッ。捕まっていた?」
七内の眼ばかりではない。辺りの眼は皆、
(すわ、大事が洩れたか)
と、
七内は、いきなり、
「この間抜け」
と、日吉の
「どこで、誰の手に、捕まったのだ。||捕まったとあるからには、俺たちの
「話しました」
「なにッ」
「話さなければ、
「こいつ」
と、小突き廻して、
「
七内は、
だが、左右の仲間は、彼の両手を
「
と一息にいった。
一同は、ややほっとした
「いったい、その屋敷とは、どこの何者の住居」
「明智入道光安様とか聞きました。けれど、おらが手にかかった人は、そこの
「ア、明智の
と、
「そうです」
日吉は、そこへ顔を向けたが、また、一同の上へ眼を移して、
「その十兵衛様が、誰かこの中の、
「明智光安の
「へい」
「ほんとか」
「ほんとです」
「十兵衛へは、こよいの
「いわないでも、
「何しに来たのだ」
「それは分りません。おらはただ、ここへ案内しろといわれただけなんで······」
「で、案内して来たわけか」
「仕方がございませんから」
「ちぇッ」
「ああ。||まだ風がひとい」
日吉と。
一方は七内と。
そう二人が問答を交わしている間、
「どこにいる。その十兵衛とかは||」
と、急に脚を動かし、七内一人で会うのは危険だから、われわれも共に行こう。いや、七内殿と十兵衛と会っている周囲を、蔭にかくれて、遠巻きに警戒していよう。||などと口々にざわめき立った。
||すると、後ろで、
「あいや、蜂須賀衆。人目にふれてはなるまい。十兵衛からこれへ参った。七内殿にお目にかかろう」
と、いった者がある。
驚いて、振り向くと、それは問わでも知れている人影だった。いつの間にか、十兵衛は近くに来て、その静かな眼で、ここの物々しい動揺を見ていたのである。
「あ、······おぬしが」
七内は、やや
「蜂須賀七内どのか」
「左様」
七内は、急に、
それに反して。
一筋の槍こそ小脇にしているけれど、十兵衛光秀は、
「初めて、お目にかかるが、かねて小六殿の尊名と共に、お名は承知いたしています。||それがしは、道三秀龍様の幕下、明智光安が宅におる
相手の丁寧のあいさつに、七内は少し
「で、||御用とは」
「こよいのことで」
「こよいのこととは、はて、何だろう?」
「そこにおる針売りから委細承って、驚きのあまり、馳せつけて来たのです。こよいの暴挙は||暴挙といっては失礼だが、兵法から
「ならぬ」
七内は
「わしの指図でするのじゃない。道三様のお頼みをうけた小六の指図でいたすことだ」
「ごもっとも」
と、
「当然、ご一存では、見合わせもなりますまい。||で、
丁寧も、
||が、この構えは、その人間の個性にあることで、臨機応変にゆける者は
十兵衛光秀は、性格的に、誰へも丁寧で慇懃だった。剣道でいうならば、いつも下段に構えて人に対する方だった。
しかし、肚は、別問題である。
(ふふむ。程の知れた小冠者。少し学問をかじって、理窟だけは達者な青二才の手輩だろう)
七内は、そう
「待てぬ! 要らざることだ」
と、呶鳴った。そして、
「十兵衛殿とやら、よけいなところへ、出しゃばるものじゃない。おぬしは、まだ
「分を顧みる
「大事と思ったら、具足兵糧の用意でもして、おれらが揚げる火の手を待ち、道三様の敵義龍の稲葉山へ、まっ先に、攻めかかるがいい」
「いや、それが出来ぬゆえ、臣下として、われわれは苦しむのだ」
「なぜ」
「義龍様は道三様の立てた
「でも、敵となれば」
「浅ましい。御父子のおん仲に、左様な弓矢が交わされてよいものか。
「面倒だ。帰れ、帰れッ」
「帰らぬ」
「なに」
「弥平治が、これへ来るまでは帰らぬ」
また、小脇に引っ提げている一
ところへ。
「十兵衛どの、そこにか!」
と、息を
「おうッ、これにおるッ。弥平治どのだの。御城内の
「残念だが······」
弥平治は、肩で
「御主君には、何としても、お聞き入れはないのだ。道三様のみかお父上もまた、
「叔父御までが」
「かえって、ひどい御立腹。||でも、死を賭して、今まで頑張っていたが、やがて
「ウウム。では、どうあっても道三様には、稲葉山を焼き立てるお心か」
「ぜひないこと。······この上は、われわれも、ただ一死をもって、臣下の道を尽すほかはありますまい」
「嫌だッ······。いかに御主君であろうと、左様な、非道の
「では、何とするか」
「火の手さえ揚らねば、鷺山の兵は動くまい。||その火元を、火にならぬうち、消し伏せる!」
別人のような、十兵衛の語気なのである。||そういったかと思うと、彼はふいに、蜂須賀七内や、その他へ向って、小脇の槍をぴたと付けた。
柔弱な青侍とのみ思っていた十兵衛が、突然、自分たちへ、槍を向けたので、七内も蜂須賀党の
「何とする!」
七内は、ひとりその槍の正面に立って、吠える風にも負けない声でいった。
「おれ達に、槍を向ける気か。そのへろへろ槍を」
「いかにも」
十兵衛は、
「ひとり残らず、この場は去らせぬ。||だが、汝ら、よく理をわきまえて、それがしの言葉を素直に
「なんだと。では俺たちに、この場からすぐ引き揚げろというのか」
「斎藤家御一門の崩壊の危機。
「ばかなッ」
七内ではない。
「そんなことができるかッ。青二才の分際で、
「一死、元より覚悟の前」
と、十兵衛の血相は、戦わないうちからすでに、白面の
「弥平治どの。弥平治どのッ」
と、後ろの
「斬死だぞ。よいか」
「おお。ご懸念なく」
弥平治光春も、もう大刀を抜いて、十兵衛と背なか合わせに、大勢へ備えていた。
でも、十兵衛は、なお、
「
彼の
殊に、味方は二十余名。相手はわずか二人のことである。
「うるせえッ」
「耳を
二、三の者が、群れの中から叫んだのをきっかけに、わっと、
途端に、十兵衛と弥平治のすがたは、狼軍の
「ヤ、闘った!」
日吉は、見ていた。
刀の折れが飛んで来る。逃げる血まみれを、槍が追いかける。||そこらにいてはあぶないので、彼はあわてて、樹の上へ登った。樹の上から眺めていた。
一人や二人の斬合は、これまでにも、出会ったことはあるが、こういう小戦争は初めて目撃したのだった。しかも、この結果によっては、今夜のうちに、
「||弥平治ッ」
「十兵衛どの」
呼び交わす声が、二度ほど、
だが、そこの小戦争は、二、三名の死者ができると、忽ち、その死骸だけを残して林の中へ移ってしまった。
「ヤ、逃げたのか」
また、引き返して来ては、危険と考え、日吉は用心ぶかく、なかなか木の上から下りずに様子を
十兵衛、弥平治のわずか二人に突き崩されて、逃げたものとすれば、蜂須賀衆も口ほどもない
彼のよじ登っていた木は、栗の木でもあろうか、手や
そのうちに、
「あッ、何だろ」
日吉は
火山灰のような火の雨なのだ。勿論、日吉の
驚いて、
「たいへん!」
日吉は栗の実の一粒みたいに、梢から跳び下りて駈け出した。この暴風に、この火の手、一刻を争わねば、森の中で
夢中で、町まで駈けた。
町も火だ。
空も、火の粉、火の鳥、火の蝶々。
||稲葉山城の白壁が、赤く
「戦争だッ」
日吉は、どなって町を駈けに駈けていた。
「戦争だ。お
人にぶつかる。人が転ぶ。
辻に、避難民がかたまって
そんな中を、日吉は||恐らくは無我夢中なのだろう||つつまれた昂奮のまま、予言者のような、また、童謡でも唄うような声を放ちながら、一目散に駈けて行った。
||何処へ。
などという
ただ、もう二度と、蜂須賀村へ帰る意思のなかったことは、明白である。
また。
彼の性格が、最も
そして、それからの一冬を、木綿
「針を買わんか。||京針。||京の縫針イ」
浜松の町端れを、至って
天龍川の流れは、その頃、大天龍、小天龍の二大脈に
その日。
嘉兵衛
飯尾
「||
嘉兵衛は、供を振り向いた。
馬上からである。
供の郎党は、三人いた。
「はッ」
と、駈け寄って、主人の顔を見上げた。
ちょうど
「······はて。百姓でもなし、
嘉兵衛は、
主人が眼をやっている方角へ、郎党の
「殿、······何事でございまするか。何ぞ、御不審な者でも?」
「うム。あれに||あの田の
「え、鷺?」
能八は、主人のことばを、おうむ返しに受け取って
なるほど、人がいた。
田の
「
と、嘉兵衛がいう。
能八は、はっと、駈け出して行った。
およそ、今は、どこの国々でも、少し不審と見られれば、すぐ調べられる。それ程、一国一国が、国境に対して、また、見馴れない人間に対して、神経が
「行って参りました」
能八は、すぐ戻って来て、嘉兵衛の馬前にこう復命した。
「あれは、針売りの旅商人で、尾張の者とか申しました」
「針売りか」
「
「はははは。鷺でも烏でもなくて猿だったか」
「口達者な猿で、物を
「そして、
「それも、
馬上のまま、能八の復命を聞いている間に、松下嘉兵衛が、ふと眼を移すと、その針売りの後ろ姿は、田の畦から街道へ上がって、もう先の方へ歩いて行く。
嘉兵衛は、それに眼を止めながら、また、能八へいった。
「では何も、不審なかどはない者だの」
「べつに、怪しい
「そうか」
と、手綱を持ち直し、
「下賤の者らに、
と、他の郎党へも、鞍の上から
駒の脚は、やや早目||
またたく間に先へ歩いている日吉に近づき、彼の側を、
(猿に似た小男)
と、さっき能八郎から聞いていたので、松下嘉兵衛は、何げなく振り向いた。
日吉は、勿論、道をよけて、並木の下にぼんやり土下座していた。||と、嘉兵衛が馬上から振りかえったので、日吉も顔を上げて、じっと見送っていた。
「ア、||待て」
嘉兵衛は、急に駒を
「今の針売り、これへ召し連れて来い。······
と、半ば、独り語のような嘆声でいった。
郎党の能八は、主人の物好きな||とは思ったが、すぐ駈け戻って行き、
「こら。針売り」
「へい」
「御主人がお召しだ。ちょっと、御馬前まで来い」
と、引ッ張って来て、嘉兵衛の前にひきすえた。
嘉兵衛は、じっと鞍の上から日吉を見ていたが、それは顔が猿に似ているなどという興味ではなかった。
そんなことは念頭になく、
(······異相だ!)
と、再びしげしげ見入ったのであった。
しかし、嘉兵衛が、日吉を
眼は、心の窓という。
この
しかも、その眼は、
(愛嬌がある!)
嘉兵衛は、好きになった。
彼が、もっと専門的な観相に詳しかったら、真っ黒な
||でも彼は、一見、日吉に対してふしぎな愛着と期待をもった。で、このまま、放し難い気持に
「ついでのことに、
と、云いすてて、馬首をあげて、先へ駈けた。
大河に
「ア、お帰りなされた」
「
嘉兵衛は、そこへ来て、鞍から降りると、すぐ尋ねた。
「
「そうか」
聞きすてて、嘉兵衛は、つッつと邸内へはいってしまう。
駿府といえば、主筋の今川家。使客はめずらしくはないが、その日、
「こら、待て」
郎党たちに
「なんだ、その方は」
と、
日吉は、泥だらけな手に、泥だらけな
顔にも、泥のハネが、乾きかけているのでムズ
「何だッ、こらッ」
日吉は、少し
「針売りだよ、おらは」
「針売りなど、みだりに入るところではない。
「御主人に聞いてからにおしなさい」
「なにを」
「来いというから
「殿が、そんなことを、仰っしゃるはずはない。うろんな奴だ」
すると、郎党の能八が、思い出して、日吉を拾いに戻って来た。
「おいおい、門番。そいつはいいのだ。分っておるのだ」
「へ、よろしいので」
「猿、こっちへ来い」
能八が、猿と呼ぶと、門番たちはそのことばに笑って、
「なんだあいつあ。白い
能八に連れられて行きながら、日吉は背中に、門番たちのどッという声を聞いた。しかし、彼はもう、生れてから十八年、あらゆる人中の
感じないのか。
そうでもないらしい。
なぜなら、そういう嘲罵を背に聞く時は、やはり誰もと同じように、彼の赤ら顔が、なおいくぶんか充血する。殊に、耳は一層赤くなる。||
だが、感情のうごきによって、彼の動作は変らない。馬の耳の如く平然たるところがある。むしろ少し愛嬌をふくむ。||みずからこういう逆境に
「猿」
「はい」
「あそこに、
能八にも、用があるとみえ、云いすてて行ってしまった。
使者との公式な対談もすみ、やがて、遠路をねぎらう
邸の奥からは、
自体、駿河の今川家は、名門の誇りが高く、歌道といわず、舞楽といわず、総じて京風な
ここの松下
「まずい猿楽だなあ」
舞楽はすきだった。いや音楽がわかるのではなく、彼は、楽から
何ものも忘れるからである。
が、忘れ得ないものを、今、彼は思い出した。
「そうだ。
泥の
「すみませんが、鍋と
台所方の小者たちは、異様な男がいきなり覗き込んだので、びっくりして、一応みな日吉の顔を見まもった。
「何だ。どこから一体、降って来たのだ」
「こちらの殿様が、来いと仰っしゃるので、途中からお供して来た者でございます。
「田螺かい、その
「腹のくすりだそうで。毎日、田螺は喰べることにしています。生れつきか、ややともすると、すぐ
「
「持っております」
「
「玄米もございます」
「では、小者部屋の
「ありがとうございます」
毎夜、木賃でやる通りに、少量の
腹がはると、眠ってしまった。
「この野郎。誰に断って、こんな所へ寝ていくさるか」
と、蹴とばして、忽ち、
で、元の厩へ行ってと思ったら、そこには、使者のお馬が、
(その方などの家ではない)
と、いっているように、威張って眠っていた。
もう
宵に
「この辺でも、
「誰だ、今頃。······箒を持っている者は」
誰か、どこかで、そういった者があった。
箒を休めて、日吉は辺りを見まわした。
すると、再び、
「ここじゃ。そちは昼間の針売りだの」
日吉は、ようやく見つけて、
「あ、殿さま」
口の
酒のつよいお使者を相手で、量を過したらしく、嘉兵衛は、
「もう、夜明け近いか」
嘉兵衛は、窓から消えると、縁の雨戸をあけて、残月を見ていた。
「まだ、
「針売り、いや、猿と呼ぼう。
「することがございませんので」
「眠ればよかろう」
「もう、寝てしまいました。手前は、きまった時刻だけ眠ると、どうしても体を横にしていられません」
「
「ございまする」
日吉は、一走り、どこかへ走って行き、すぐ土のつかない草履を取って揃えた。
「これ、これ」
「はい」
「そちは、夕刻、邸内へ来たばかりで、その上、もう人並に眠りも
「恐れ入ります」
「何を恐れ入るか」
「決して、怪しい者ではございません。けれど、これくらいなお
「ふむ······なるほど」
「お草履も、どこにあるか、先ほど見届けておきました。なぜなら、
「そうか。悪かったの。何も申しつけずにおいたので、そちは
「············」
日吉は、笑って、何も答えなかった。無邪気らしい眸だが、嘉兵衛の人物を軽く見たようでもある。
が、嘉兵衛は、それから真面目に、日吉の身の上や
日吉は、
「あります」
と、答えた。
その望みを持って、十六の年から諸国を歩いたと云った。
「侍奉公したいために、三年も諸国を歩いたというか」
「はい」
「今なお、針売りして歩いているのは、どういう仔細じゃ。三年もさがして、奉公口につけぬからには、何かそちに、欠点があるのではないかな」
嘉兵衛が、わざと問うと、
「人間ですから、てまえにも悪い
「そうでないとは」
「
おもしろい。利口者かとみれば、馬鹿みたいな
話しぶりにも、真実さがあるかと思えば、なかなか
だが、とにかく、どこか異っている。
嘉兵衛は、そう
で、その朝から、日吉を、邸の小者として、召使うことにきめた。
「
念を押すと、
「働いてみます」
平凡な返辞だった。
案外、欣ばない顔いろが、嘉兵衛にはすこし不満だった。
しかし、この
松下家もまた、当時のどこの武家とも同様に、軍馬の訓練が厳しかった。
夜が明けると、邸内のお長屋から、槍や

||えやあッ。
||うおう!
||ヤ、ヤ、ヤッ。
槍は槍と


台所番の小侍から門を守る小者の末にいたるまで、朝は一度、ここへ来て、交代に皮膚を赤くして行った。
嘉兵衛から云い渡しがあったとみえて、日吉が、小者の端に召し抱えられたことは、もう皆知っていた。
「おい猿。これから毎朝、おれたちがお厩の馬を、草を喰わせに曳き出したら、その後、すぐ厩を掃除して、馬糞を向うの竹やぶの
と
「はい」
馬糞掃除を担任すると、
「猿、ちょっと来い」
と、老侍が、
「
と、いうし、
「
と、いうので、薪を割っていると、何をしろ、かをしろと、召使ばかりが重宝に召使う。
「あいつ、
若侍たちは、一面、彼を玩具的に愛して、時々、物など投げ与えた。
だが、そのうちに、邸内でもその若手から先に、日吉に対して、
「あいつ、生意気だ」
「小理窟をこねる」
「殿へ
「ひとを小馬鹿にする」
などという反感が、次第に
そういう若輩が、小さい落度を大声でいうので、松下嘉兵衛の耳にも、時々、猿の
が、嘉兵衛は、
「今に、あれは使える。まあ見ておれ」
近臣へいって、取り上げたこともなかった。
嘉兵衛の妻、嘉兵衛の子達は、猿よ猿よ、と気に入りだった。それがまた、邸内の軽輩には、よけいに快くなかった。
「なぜだろ?」
日吉は、爪を噛んで、考えた。
忠実に働きたがらない人間の中に
奉公人と奉公人との間の、小さい感情に取り巻かれて、そこに人間を学ぶと共に、日吉は、この松下屋敷を中心として、
(やはり奉公してよかった)
と、思う。
針売りして歩いていたのでは、容易に分らないような内情も、ここでは、時折、知ることが出来た。
もっとも、彼が、ただ喰うため、生きる世渡りのための、
(ははあ、そうか。······さてはこうだな、ああだな)
と
それは。
いや、その実現は、遠い将来であろうが、とにかく、理想をそこに置き、他日、京都に入って、
だが、地形から判じると、駿河の今川の背後には、強国北条が小田原にある。
また、側面には
こういう国々のあいだにあって今川義元の工作は、まず前面の、松平家を属国化してしまうことに成功していた。
三河では、
しかも、その城地の岡崎には、義元の
三河の収入も軍糧も、経営費を余すのみで、全部が駿河の義元の居城へ運ばれて行った。
(あれで、どうなるのだろう?)
日吉は、三河の将来を
けれど、三河にはまだ、三河人の
より以上、彼が常に、心をとめて見ていたのは、尾張の織田であった。母のいる土、生れた
今そこの土を離れて。
この駿河の一
(中村も貧しいわけだ。おらの家も貧乏なわけだ······だが?)
と、日吉はそれが、絶対な国運とは考えられなかった。貧しい尾張の土に、何か未来の芽ばえを感じ、
また、近頃、頻りと使者の往来がはげしいのは、今川家を中心に、
主唱者は、勿論、今川義元で、将来、覇業の大軍を
で、義元は、甲斐の信玄の
その婚姻は、ようやく成功を見、同時に軍事、経済の協定も成ろうとして、今川家の勢力は、東海の重鎮として、動かし
それは、随身の侍の、一人の姿にも、いわゆる羽振りとなって、光っていた。松下
「猿||」
と、若党の能八郎が、中庭に立って、探していた。
「はい」
「おや?」
能八郎は、屋根を見上げ、
「何をしているか。そんな所へ上がって」
「屋根を
「屋根を?」
と、呆れ顔に、
「こんな暑い日盛りに、ご苦労なやつだ。何で屋根屋のまねなどしておるのか」
「土用照りがつづきました。こんどは大雨です。雨が来てから屋根屋を呼んでも間にあいませんから、板のハゼている所だけ見つけて
「だから貴様は、
「眼につく所で働いていると、皆様の昼寝を邪魔しますから、屋根ならよいと思って」
「嘘をいえ。実は、貴様あ、そこで、お邸の地形を見ているのだろう」
「さすがは能八様、よくお気がつきました。それをのみ込んでいないことには、いざという時、護るに即座の手配りがつきません」
「物騒なことを、大きな声で申すな。殿のお耳にでもはいると、御機嫌を損じるぞ||降りて来い」
「はい。何か御用で」
「夕刻、お客が着く」
「またですか」
「またとは何じゃ」
「どなた様が御到着で」
「
「ははあ。大勢で||」
日吉は、屋根を下りて来た。能八郎は
「されば、武芸者は、
「それは、えらい数でございますな」
「武道鍛錬の元気者ばかりだし、それに、一行の馬や荷物も多いから、
「ヘエ。そんなに大勢で、よほど長く
「まあ。半年じゃろうな」
と、能八郎は、
やがて、夕方になると、
「
程なく、
松下家の若侍や老臣は、
「この度は、当家の乞いをいれて、諸国武者修行の
「ご丁寧に」
と、受けているのが、疋田小伯であろう。まだ三十歳前後の人物である。
「||必ずご
と、双方の挨拶。
門前の礼が一応すむと、
「お通りを」
と、出迎えが、列を開く。
「御免」
と、曳馬や荷をあずけ、十三名はぞろぞろと、邸内へはいった。
日吉はぼんやり眺めていた。そして、今の双方の挨拶を聞いて、
(兵法が
と、感心していた。
近頃、武者修行武者修行という声をしきりに聞く。それから、今まではそういわなかった剣術だの、槍術だのという言葉もよく聞く。
武田家の与族で、上州
武者修行の中にも、
だから日吉は、きょうのお客の人数には驚かなかったが、これから半年もいることだったら、随分また猿々と追い使われて、眼をまわすことだろうと思いやられた。
案のじょう。
四、五日もたつとすぐ、
「やあ、猿。
「松下殿のお猿。すまんが、
などと、自分らの下男のように日吉を追い使った。
お蔭で、夏の
夏の真昼の
「············」
だらんと首を横に、腕ぐみしたまま、眠っているのである。連日の寝不足で、やがて正体もない。
日頃、日吉を、何かと
「猿だな」
足を止めて、
「よく眠っておるわ」
と、
「どうだ、この寝顔の、横着そうな
「起してやれ。すこし油をしぼってやろう」
「どうするのだ」
「猿ばかりは、まだ一度も、武芸の稽古をしておらんじゃないか」
「日頃、憎まれているのを、自分でも知っているせいだろう。
「それがいかん。およそ武家の奉公人たる者は、門番、お台所の末の者まで、必ず武芸を励むべし||とあるのは、御当家の御家憲だ」
「おれにいっても仕方がない。猿にいえ、猿に」
「だから起して稽古場へ、引っ張って行こうと思うが」
「うむ。おもしろい」
「よかろう」
一人が、稽古槍の先で、日吉の肩の辺りを、とんと突いた。
「こらッ」
それでも、眼を
「起きろッ」
一人はまた、足を
日吉は、
「あ、なんですか」
「何ですかじゃない。白昼、お庭で
「眠っておりましたか」
「わからんのか、自分で」
「では、眠るつもりもなく、眠ってしまったものとみえます。もう起きています」
「当りまえだ」
「はい」
「自体、そちは、横着だぞ。聞けば一度も、武芸の日課すら、勤めたことがないと申すではないか」
「武芸は下手ですから」
「ろくすッぽ、稽古もせぬに、下手も上手もあるわけはない。小者といえど、武芸鍛錬、怠るべからず、とは御当家の御家憲だ。||さあ、来い。きょうからわれわれが、稽古をつけてつかわす」
「いえ。それには及びません」
「ならぬ」
「でも」
「
「ではございませんが」
「ならば参れ」
合法的に、撲りつけるつもりであるから、嫌も応もいわせない。
若侍たちは、日吉を
そこには今日も、逗留中の武芸者の一団と、家中の者とが、炎天の下に、各

無理に、彼を
「それッ、木剣でも、槍でも持って、かかって来い」
と、日吉の背を、突き放した。日吉は、前へ泳いで、辛くも踏み止まったが、そこらにある稽古槍にも

「なぜ持たんッ」
ひとりが、槍の先で、彼の胸をわざと小突いた。
「稽古をつけて
日吉はまた、
しかし、強情に突っ立ったまま、唇を噛んでいた。
||ちょうど、その一方では。疋田小伯の門下の、
汗止めの鉢巻した神後五六郎が、真槍を
「なるほど、その御手練では、戦場で人間を、槍にかけて飛ばすくらいは、
驚嘆している人々へ、神後五六郎は、
「これを、
と、槍を休めながら、
「なるほど」
皆、感銘して、それに聞き入っていた||すぐ後ろでのことだった。
「強情な猿めッ」
若侍は、槍の柄を、横に振って、日吉の腰ぼねを撲りつけていた。
「痛いッ」
日吉は、半ば、泣き声でさけんだ。実際痛かったとみえ、顔をしかめながら、腰を曲げ、その辺を撫でまわしていた。
「どうしたのだ?」
後ろの一団は散らかって、日吉の
「いや、どうにも、
と、日吉を
すると、また、
「いや、それは、わしも
と、云い足す者もあったりして、武家の奉公人として、不心得な奴、末の見込みのない奴、横着も直るまい||という判決を、日吉は、衆の中で口々から云い渡された。
先刻から、黙って、神後五六郎の後ろに
「まあ、まあ」
進んで、人々を
「見うければ、まだ、どこやら乳くさい
そういうと、小伯は自身で、日吉の気持をたずねてみた。
「小冠者」
疋田小伯は、日吉へ、呼びかけた。
日吉は、小伯の顔を見て、
「はい」
と、いった。
今までしていた返辞とは、返辞の声が変っていた。
この人なら、どういうことでも、思うまま答えてもいいと、心で許している眼だった。
「おぬし、武家奉公いたしながら、武芸を嫌うそうだな。嫌いなのか」
「いいえ」
日吉は、かぶりを振った。
「||ではなぜ、折角、御家中の方たちが、親切に稽古をつけて下さるというのに、稽古をせぬのか」
「はい、それはこういう
「うム、その気でなければならぬ」
「てまえも、人なみの一生涯しか生きられないものとすると||刀術や槍術も嫌いではございませんが、まあまあ、その
「学びたいこととは」
「学問です」
「知りたいこととは」
「世間です」
「やりたいこととは」
問答のように、小伯がたたみかけて問うと、日吉はそこで、初めてにこと笑って、
「それはいえません」
「なぜ」
「やりたいと思っても、やれなかったら、広言になりますから、また、云ってみたところで、皆さんが大笑いに笑うに過ぎません」
「ふウ······ム」
変っているな||と、疋田小伯は日吉の顔をながめていたが、
「なるほど、そちのいうところは、少し分る気がするが、そちは武道というものを、小さい
「どんなものですか」
「一能に達した者は万芸に達しるという言葉もあろう。武は
「けれど、ここの人達は、相手を突くことや
云いかける横合いから、
「何だと。無礼者ッ」
家中のひとりが、
「アふ!」
と、顎を
「いわしておけば、聞き捨てならぬ雑言を申す。小伯先生、お
「われわれを、侮辱したものだ」
「御家憲を
「
「いっそ、斬り捨ててしまえ。||殿も、よもや吾々の仕方を、無理とはなさるまい」
ほんとに、裏の
小伯も、止めるのに困った。が、極力一同を
その日。
能八郎が、そっと小者部屋をのぞいて、壁の隅に、
「おい。おい」
小声で、外から手招きした。
「へ、何ですか」
日吉の顔は、おかしい程、
「ひどく痛むか」
「そんなでもございません」
「殿様が、お召しだ。そっと、奥のお庭の中木戸を開けて通れ」
「え、殿様が。······では誰か、昼間のことを、云いつけましたね」
「あんな雑言を吐きちらして、お耳に入らぬわけはない。
「そうでしょうか」
「奉公人たる者は、朝夕武道怠るべからず||というのは、松下家の鉄則じゃ。家憲の威厳を明らかにすると仰っしゃれば、もう首はないものと思えよ」
「では私は、ここから逃げ出します。こんなことで、死ぬのはいやです」
「ばかをいえ」
能八郎は、日吉の腕くびを捕えて云った。
「貴様を逃がしたら、おれが腹を切らなければならぬ。召しつれて来いという仰せをうけて来たからには」
「逃げることもできませんか」
「貴様は一体、口が過ぎる。少しはものを考えていうものだ。昼間の広言を聞けば、この能八郎ですら、
日吉を先に歩かせて、能八郎は後から、刀の
「||猿めを、召し連れて参りました」
能八郎が、ひざまずいていうと、松下嘉兵衛は、端近く姿を見せて、
「来たか」
と、いった。
その声を、日吉は、頭のうえに聞いたまま、
「猿」
「はッ」
「そちの生国の尾張には、
「はい? ······」
「すぐ立て、今夜にも」
「何処へで」
「胴丸を買い求めに」と、嘉兵衛は、手文庫を寄せて、金をつつみ、日吉の前へ投げてやった。
「······?」
日吉は、その金と、嘉兵衛のすがたとを見くらべていた。
その眼に、涙が
「出立は急ぐがよいが、品は急いで持ち帰るには及ばぬぞ。何年でも、程よいのを探せ。よいか」
「······はい」
「能八、裏の木戸を開けて、そっと出してやれ。······そっと、宵のうちに」
尾張へ行って、
日吉は、ぞっとした。
松下家の家憲を
(今夜にも立て)
と、
日吉が、襟すじから、ぞっとしたような
「ありがとう存じまする」
主人の
こういう
「猿、何がありがたい?」
「は、わたくしを追放して下さるお気もちと察しまして」
「その通りじゃ、だが猿」
「はあ」
「何処へ行こうと、その才智を、もちッと、内に包まぬと、そちは生涯出世がならぬぞ」
「自分も左様に存じておりまする」
「知りながらなぜ、昼のような暴言を申し、家中の者を怒らせたか」
「つくづく、至らぬ奴と、後で自分で自分の頭を叩きましてございまする」
「気がついておるならもう何もいわん。惜しい才ゆえ、助けてつかわす||なれど、今じゃから申すが、日頃より、そちを
「······はい」
「きょうのことも、家憲をたてに、家来どもが怒りおるとかいうことじゃから、そちを
「ようく分りましてございまする。
日吉は、鼻をつまらせて、何度も何度も嘉兵衛の姿を伏し拝んだ。
松下家の裏門から、その晩、日吉は出ていった。
振り顧って、
「忘れません。忘れません」
二度もつぶやいた。
人の恩の大きな愛と感激につつまれて、日吉は、いかに報いたらいいのかを||ぼんやり胸に抱きながら歩いた。
「今に······。今に」
何か、感動するか、事にぶつかると彼は
だが、彼の境遇は、ふたたび
大天龍の河水は、まんまんと流れていて、人里を離れると、天地のさびしさに、日吉は何となく泣きたくなった。
そこから歩み出す運命の先は、彼も知らず、天地も星も水も、何の暗示もしていなかった。
「||おじさん」
織田家の足軽組の
「誰だ?」
と、見まわした。
その日の彼は非番だった。
いつもなら城勤めだが、きょうは
「わたしですが······」
声は生垣の外だった。からたちの葉や
乙若は、縁側へ出て、
「わたしですがって、いったい何処の誰だよ。用があるなら、表からはいれ」
「表の木戸が
「おや······?」
と、背伸びして、
「猿じゃねえか。中村の
「はい。そうです」
「なんだ。日吉なら日吉と云やあいいに、幽霊みてえに、元気のない声を出しやがって、どうしたんだ」
「表は、開きませんし、裏へ廻って、覗いてみると、おじさんは寝ている様子。||今、寝返りを打ったご様子なので、呼んでみたので」
「つまらねえ遠慮をしていやがる。女房が買物に出たらしいから、木戸を閉めて行ったんだろう。待てよ、直ぐ開けてやるから」
乙若は、草履をはいた。
そして、日吉に足を洗わせ、家の中へ入れると、ややしばらく、その姿を眺めていた。
「どうしたんだ一体。いつか途中で会ったが、あれからでも足かけ三年、生きてるのか死んだのか、音沙汰もないので、中村のおふくろも、ひどく案じているようだぞ。||無事な顔を見せてやったか」
「いいえ。まだ······」
「家へは帰らねえのか」
「家へは、ちょっと、行って来ましたが」
「||だのに、おふくろに、まだ顔を見せないとは、どういうわけだ」
「実はゆうべ、そっと、
「妙な奴だな。自分の生れた家じゃねえか。なぜ、今帰って来ましたと、無事な姿を見せて、みんなにも
「そうして、会いたいのは、山々ですが、家を出る時、
今の姿||と、いう日吉のことばに、乙若はもう一
「何をして喰っているのだ。この頃は」
「針売りをしていました」
「針売り」
「はい」
「奉公したのじゃないのか」
「二、三軒、武家の端くれみたいな家へ、勤めてみましたが」
「相変らず、すぐに飽きてしまうのだろう。もう
「十八でございます」
「
もともと、日吉の実父の
||で、せめて、猿でも一人前になってくれたらと、
「まあ、誰かと思ったら、中村のお
やがて。
外から戻って来た乙若の妻は、
「まだまだ、十八ぐらいじゃ、何も分りゃしませんよ。お前さんだって、自分の十八頃を、考えてごらんなさいな。四十を越えても、まだ足軽長屋から抜けられないのが、世間並じゃないか」
「だまっていろ」
「おれはな。おれのように一生を凡々と終っちゃならねえと思うから、これからの若い者には、よけいいうんだ。||十五、十六といえば、元服して一人前、十八といえば、男は
と、云いかけて、急に、また女房との争論を恐れたのか、思い出したように話を
「そうだ、あしたはまた、その御主人のお供で、朝から狩場
「おじさん」
と、顔を上げて、訊ねた。
「なんだ、改まって」
「べつに、改まってではございませんが、信長公は、そんなに度々狩や川遊びにお出ましになりますか」
「何しろ······申しては恐れ多いが、飛んでもない腕白坊でいらっしゃるからなあ」
「暴れン坊なんですね」
「||かと思うと、ひどく、行儀の
「どこの国へ行っても、信長公のことは、余りよく申しませんね」
「そうか。いやそうだろうな。敵国の者から見たら」
日吉は、急に腰を上げて、
「せっかく、お休みの日を、お邪魔して、申しわけございません」
「おや。帰るのか」
「また、参ります」
「なにも、そう急に、帰らなくともいいじゃねえか。一晩ぐらいは、泊って行きな。||おれのいったことが、気に
「そんなことはございません」
「帰るなら、止めもしないが、早く、おふくろだけにでも、無事を見せてやんなよ」
「はい。見せてやります。······今夜は、中村へ帰ります」
「そうか。それならいいが」
と、乙若は、門口まで出て、日吉の姿を送ったが、心のうちでは、何か、いい気持がしなかった。
中村へ帰るといって乙若の家は出たが、その晩、日吉の姿は、中村の生家には戻っていなかった。
どこへ寝たか。
恐らく、路傍の辻堂か、寺の
松下
||その日の、朝まだきである。
日吉のすがたは、
彼は、何か物を喰いながら歩いていた。腰にも、飯の握ったのを、
今朝の食物と、昼の食物とを、一文の銭のない彼がどうして得たか。彼には常に、
(食物は、どこにでも得られる物だ。人間には
という信条と、
(
と考えていた。
だから彼は、
その場合、仕事がないということも、日吉の経験にはないことだった。働こうとする時は、町で
頼まれないでも、彼は仕事を見つけ、仕事を作り、仕事を誠実にするので、一
恥とは思わなかった。
なぜなら彼は、喰うために、牛馬のごとく身を
||今朝も。
「······きょうも暑くなりそうだ」
日吉は、朝空を仰いで、独りつぶやいた。そうして得た飯に、きょうの露命はつないでいたが、頭のなかでは、ひとの思いもよらぬことを考えていた。
「||この天気なら、きょうもきっと、信長公は、河遊びにお出ましになるにちがいない。足軽の乙若も、きょうはお供のうちに加わる番だと、きのう話していた」
やがて。
草の彼方に、庄内川のきれいな流れが見え出した。彼は朝露にぬれた姿を、草から出て、河原に立たせ、しばらく、水の美しさに
「信長公は、毎年四月から九月の末頃まで、水馬、水泳のお稽古を欠かすことなく、この辺の河へ出てなさるとのことだが······はてな、どの辺だろう。乙若に聞いておけばよかった」
河原の石は乾いてくる。
「ここらにいてみようか」
漫然と、独り云って、日吉は河原の
信長公、信長公。
織田の腕白どの。三郎信長公とは、いったいどんなお方か。
||この日頃。
日吉の頭には、寝ても起きても、その人の名が、
「いちど見たい」
彼の念願だった。
それを今日、果そうとして、早くからこの河原へ来て見たのだった。
亡き
とは、一般な世評であった。
粗野で||
たわけ者びた若殿。
行く末の案じられる
と、信長の名が出れば、必ずそこでは、そんな
日吉も、幾年のあいだ、
(いや、底の底は、分らないぞ。||合戦のある日ばかりが、戦争ではないから)
と考えられて来たのだった。
一国一国には、それぞれ国の性格があり、そこにはまた、
表面、
たとえば、日吉が歩いた範囲でいえば、美濃の斎藤、駿河の今川家のように。
そういう大国と強国のあいだに挟まって、尾張の織田、三河の松平などは、見るからに貧しい小国だった。||けれど、その小国のうちに、何か大国にない力が
世間でいうように、信長が愚かであったら、どうして、
ことし、その信長は、ちょうど
父の備後守信秀を
もっとも、人にいわせると、それは信長の力ではなく、家臣に偉いのがいるからだという。
それを、誰よりも待っている者は、信長の妻の父にあたる、美濃の
「······おや?」
日吉は、草の中から、首を上げて見まわした。
河すじの上流に、黄いろい
「何だろ?」
立ち上がって、耳を澄した。そして顔いろを変えた。
「何も見えないが、
彼は、急に、草を蹴って、走り出した。
だが、五、六町も駈けて行くと、そうでないことが分った。彼が朝から待っていた織田家の家中が、上流の河原へ来て、もう合戦の稽古をしていたのだった。
川狩といい、
「······ウウム、始まっている」
草間隠れに、日吉は遠くからそれを眺めながら、大きく
河原の向う岸に、
眼を転じると||
幕とお小屋は、
わあッ||うわあッ||
という武者押しの声は、その両岸から起って、川波を呼び立てているのだった。日吉が、立ち止った時、一頭の
「これが、水泳のお稽古か」
日吉は、
世評というものは、たいがい
毎年四月頃から九月にかけて、川狩や水泳の稽古に城を出ることは誰でも見ているが、それだけを知っているに過ぎなかった。
今、彼が現地へ来て、目撃したところでは、決して、腕白な殿の水遊びや避暑ではなかった。
烈しい軍馬の教練である。
規模は大きくない。元より野駈けの軽装だし、軍馬の数も少ないが、やがて貝の音に兵が揃い、
いちめんに河は
槍はすべて竹槍であった。大勢が
「
と、その中で、
白の涼やかな
「
と、
端麗な人だった。その若い武者は、顔を紅潮させ、大介の突いて来た槍を片手につかみ、片手を朱太刀にかけて、きかない眉を示した。が、一瞬、大介の力に引かれて、真逆さまに落馬し、姿はざんぶと河水につつまれた。
||日吉は思わず、
「あ······あのお方だ。信長公だ」
と、独り呶鳴った。
ひどい、思いきったことをする家来もあるもの。
信長は乱暴な殿と世間ではよくいうが、乱暴なのは、信長よりは、その近臣のことではないのか。
日吉は、そう思った。
||が、遠方で見たことである。果たして落馬したのが、その信長だったかどうか。
日吉はなお、われを忘れて、伸び上がっていた。渡河戦の猛演習は、まだその河の真ん中で、双方とも押し合っていた。主君の信長が落馬したのなら、他の臣下が騒いで救い上げそうなものだが、戦っている者は
そのうちに。
戦場となっている辺より少し下流の向う岸へ、ざぶざぶ、這い上がった者がある。
見ると、落馬した若武者であった。||やはり信長らしい人だった。
「
遥かに、さっきの市川
「東軍の御大将、あれに流れついて
と指さした。
「御免ッ」
「御免」
云いつつ、しぶきを蹴立てて、信長の前面へ、駈けて来た。
信長は、
「寄せはせじ」
と、味方の一隊が、駈けつけて来て、彼の身辺を、敵から隔てた。
信長は、
「弓、弓ッ」
鋭い声で呼んだ。
お小屋の
取るが早いか、
「この河、渡すな」
と、河原の兵を、
射てる間に、
が、||そのうち。
必死でそこを
「敗けたッ」
信長は弓を投げ捨てた。
その時はもう、
兵学の師、
「殿、どこも、何ともございませんでしたか」
「水の中だ。何ともあるものか」
信長は、大介を見るとやはり無念そうに、
「明日は勝とう。大介、あすは憂い目を見せてくるるぞ」
と、少し眉を
平田三位が、傍らから、
「御帰城後、きょうの御戦法について、御講評申し上ぐるでございましょう」
と、いったが、信長はよくも聞かないで、その間に具足をかなぐり捨てて、水着
信長は、端麗だった。
彼が血をうけた遠い祖先に、よほど美しい女性がいたか、容貌の
彼のみならず、十二男七女子という、多くの
わけて信長は、色白く、
だが、自身が気がつくと、
はははは。
その光をすぐ笑いつつんで、人がそれと気のつく
「またかと、うるそう
こう彼は常に聞かされる。
どうも信長は、その
「ああ分ったよ。分っておるよ爺||」
と、横を向く。
顔を振る。
少しも
「亡きお父上備後守様の御生涯をよう思い遊ばせや、この尾張八郡をお伝え遊ばすには、
「爺や。もうよい。分っておるよ、何度聞いたか知れぬことを」
信長は気に入らないと、すぐ美しい
けれど、
中務もまた、彼の気性は、よくのみ込んでいた。理窟で説くよりは、感動に訴えるほうがききめのあることを知っていた。
で、信長が耳を熱くすると、
「お口輪を取りましょうかな」
と、すぐ穂先をかえた。
「馬か」
「さればで」
「爺、そちも乗れ。
騎馬で駈けまわることは、信長の大好きなひとつだった。それも城内の馬場では心にみたず、城下から三里も四里もある所を、よく一気に駈け、一気にもどって来たりした。
(||
とは、信長の幼少から
十三歳で元服し、吉法師の
父の葬儀の日、その式場においてさえ、こんなことがあった。
||御焼香。
となった折、
席から立った信長の姿を人々が見ると、
「あれよ、また、
と、あきれていると、信長はずかずか、仏前へすすんで、立居のまま、
「ても、
「こうまでとは思わなんだが」
情の薄い者はわらい、情の厚い者は織田家のために、眼に涙をたたえて、言葉もなく白け果てたということであった。
「同じ兄弟でも、御舎弟の勘十郎殿は折り目正しゅう、
と、なぜ跡取が、こうもあべこべに生れたものかと悔む
「いやいや、
また、十六歳の信長には、もう
それは、美濃の斎藤
が、先も名に負う道三秀龍という肚ぐろいのが
程なく、信秀は四十二を
信長のうつけ振り、粗暴、狂態は
||そして、
今年天文二十二年の四月。
「いちど、
道三秀龍が云い出した。
「承知」
と、信長の即答。
弓、鉄砲の者、約五百。三間柄の長い
その中に、一団の騎馬隊は、騎馬の信長を囲んで前後に備え立て、いざといえば、そのまま戦隊になるような配備だった。
麦の穂は青い。もう夏めいた四月である。今、越えて来た飛騨川から、
富田ノ庄は、家々豊かだった。荒土ながら、
「来た」
「見えた」
村端れまで出ていた斎藤方の小侍が二人、遥かに行列の先頭を見るや否、どこかへ宙を飛んで行った。
村を貫いている
その路傍の、
「織田どののお列
民家の土間には、そこの薄ぐらい
「よし。||そち達も、はやく
道三秀龍の側衆たちである。||奥には||いや
初めて会う
しかも、いろいろな風評の高い
「いったい、どんな
という道三らしい考えから、路傍の民家にかくれて、
土間、炉部屋の近臣たちが、
「大殿、尾張衆が、はや見えた由にござります」
早口に告げると、
「うむ」
道三は、
表の土間戸は、
皆······しいんと黙る。
並木の小鳥の声。
その小鳥の群れも、ぱっと羽音をのこして、飛び去ると、もう
||と、程なく。
よく揃った兵隊の足なみが徐々に近づいて来た。
道三は、息もせずに、その武器や、兵隊の足つきや、隊伍の組み方を、見入っていた。
だが、やがて続いて、その
「さては」
と乗り出すように、道三は眼も放たずにいた。
見ると、騎馬隊の中に、一
「······ヤ? あの
道三秀龍は、
ひどく驚いた眼いろだった。
行列の中に見えた信長の
かねて、異様な姿で押し歩くとは聞いていたが||
今、見れば、聞きしに
逞しい
その刀腰にはまた、火打袋だの、
「
鞍のまま、身をねじって振り向いていう。
「ここか。
それは、民家の窓の中に、身を
騎馬隊の中に、護衛している市川大介が乗りよせて、
「されば、ここが富田ノ庄にござりまする。
「ははあ、そうか。ここがもう富田か。||本願寺の坊官どもが領分とやら、穏やかだのう。ここには戦争がないな」
そんな言葉が聞えた。
黙ると、信長は、
表戸を
「ぷッ······」
「うふ、ふ、ふ」
口を抑えて、おかしさを
「皆よ」
道三は、呼び立てて、
「もはや行列は皆、過ぎたか」
「終りました」
「見たか。聟どのを」
「よそながら」
「どう見ても、世評を裏切らぬうつけ者、
と、道三は、自分の頭を、指でついて、満足そうに苦笑した。
と、裏口で、
「大殿、お早く」
と、ほかの家来たちが、
道三はすぐ起って、
「おおさ、
どやどやと、側衆に囲まれて、そこの裏口から出ると、抜け道を急いで走り、行列の先頭が、正徳寺の門前で停った頃、彼は寺の裏門から奥へ駈けこんで、取り澄していた。
「||お出迎え」
「お出迎えを」
側衆たちも、あわただしく、衣裳を着かえ、廻廊や間ごと間ごとを、云い触れる声に応えて、大玄関へ出て行った。
尾張衆の多人数が着いた。
寺門は、人に
お出迎えに||と
「大殿には」
斎藤家の老臣、
道三は、首を振って、
「起つに及ばぬ」
と、いった。
客は
聟の信長も、一国の
そう丹後は考えたので、一応きいてみたのであるが、
||それには及ばん。
と、道三がいうので、
「はッ。······では、てまえだけでも」
「いや、その儀には及ばぬ。
「左様にござりましょうか」
「丹後、そちは、対面の席に居並んでおれ。||また、そこへ行くまでの廊下に、武者ども、七百余名、残らず威儀を作って並べておけ」
「すでに、着坐いたしておりまする」
「武者かくしには、
「仰せまでもなく、美濃衆の御威勢を示し、聟どのを始め、尾張衆の
「ウム。······」
道三は、大玄関の方の気配をふり顧って、
「思うていた以上、たわけな聟どの。何につけ張合いもない、馳走の
道三は、
すでに。
大玄関のほうでは、その頃、信長が式台を踏んでいた。
ここにも、斎藤家の家中、老臣から
「どこじゃ。休息の席は!」
水を打ったように、ひそまり返っている出迎えの中で、ふいに、足を止めた信長が、無遠慮な声で云ったので、
「はッ||」
と、上目越しの顔が、一
つつつと寄り添った斎藤家の家老堀田
「こちらで、何はともあれ、暫時の御休息を||」
指さして、
「
「はッ、御案内申しあげます。||御免を」
信長の先に立ち、大玄関から右へ進み、橋廊下を渡る。
信長は、右を見、左を見、
「よい寺じゃなあ。見よ、藤の花が
休息の時間は約半
「御案内たのむ。
見ると、
「······あッ」
「お······」
と、斎藤方の家臣も目をみはり、日頃の
「案内の者!」
と、前後を見、
「近侍たちを連れ
そこでまた、声を高うして云った。最前、出迎えに出た、家老の堀田道空は、信長が自分を眼にも入れていない様子に、むっとして、
「こなたへ、お早うお
と、少し子供扱いにして、それへ来合わせた
「これは||」
と、本堂の両側に、ぴたと座を構え、わざと
「斎藤山城守が家老職、
「てまえは、老職
左右から、こう
「ふム。······よう彫ってある」
そして、客殿の前まで来ると、
「ここか」
「御意にござります」
「うむ」
すこし、顔を上げ気味に。
室町の
||と、その客殿の隅に、立てまわしてある
「············」
信長は、そ知らぬ風情をしていた。||というよりは、うつつに、
「············」
じろと、道三は、横に見た。
舅からものいう法はない。そう自己を持して黙っていたらしい。
一瞬、妙な空気になった。道三の眉に、
「それに
いうと信長は、
「むう。左様にてあるか」
と、初めて、柱から背を離して、坐り直した。
一礼して、
「これは、初めて御対面つかまつる。織田
彼から、改めて、こう挨拶すると、道三も気色を柔らげて、
「わしが山城じゃ。かねがね、一度はお会いせいではなるまいと存じおったところ、今日、宿望を果して
「信長も、近頃うれしいことの一つです。まずまず、舅殿には、老いて益

「なに、老いてとな。山城もはや、ことし六十を迎えたが、まだまだ、老いた気はせぬ。お
「頼もしい舅殿を持ち、信長は仕合わせ者でござる」
「そうか。何せい
「心得てござる」
「気のさくい聟どのよ。||丹後」
「はッ」
「
眼で||道三は何か、丹後に意をのみこませた。
「心得てござります。······ただ今」
と、春日丹後は、座をすべって行った。
はてな?
彼は、道三の眼じらせが、何を意味したのか、ちょっと肚を
ふたりの間に
「そうそう」
信長は、思い出したように、突然云いだした。
「山城どの。いや舅どの。時にきょうは、これへ参る途中、
「ほ。どのような?」
「されば、舅殿と
ははははと、その
道三は、
湯漬を喰べ終ると、
「いや、長坐長坐、陽の入りまでには、
「帰らるるか」
道三は、一緒に立って、
「聟どのの帰館とある、名残惜しい、そこまで、見送り申そうず」
彼もまた、その日のうち、美濃の城地へ、帰るのだった。
「ああ、長生きもしとうない。||今に見よ。この道三が子らも、あのたわけ殿の門前に、駒を繋いで、生を乞う日がやがて来よう。ぜひもない······ぜひもない儀だ」
その途中、道三秀龍は、
どうん。どうん||
武者太鼓が鳴る。
しぶきを上げて、庄内川に泳いでいた者、または野を駈けていた騎馬の者や、竹槍調練をしていた歩卒など、
「御帰城だ」
「引揚げ||」
と、一斉に、河原の仮屋を中心に馳せ集まって、またたく間に、三列四列、横隊になった軍馬が
「帰ろう」
云い出すと、仮屋のなかへ駈け込んで、白の水着腹巻を捨て、肌のしずくを拭くがはやいか、すぐ下着、
「駒を、駒を」
と、その気短な
何につけ、信長の手早いことと、性急なのには、日常心得ぬいている近習たちではあったが、それでも面喰らうことがしばしばだったし、また、青年らしい壮気と茶気の満々なこの若い主君は、それを知ってわざと不意を衝くようにも思われた。
けれど市川大介は、さすがに兵法者であった。信長がどう虚を衝いても、大介が命令一下に、貝が吹かれ太鼓が鳴ると、どんなに乱れていた兵も馬も、青田の
短気はいうが、信長の機嫌は、顔にあらわれ、満足そうであった。
||きょうも。
すでに朝から
ちょうど、土用の太陽は、
水に
「あれッ。何だろ。||待て待て、
突然。
信長がそういって、列を振り向いた時、それより早く、何事かに気づいた後方の武者たちが、列を
そこに、隠れていた者がある。
それは今朝からこの附近へ立ち廻って、信長へ近づく機会を半日も待ち構えていた
さっき、
(今だッ!)
と、彼は心に
ただ馬上の青年信長のすがたが、彼のらんらんたる
||その時。
日吉は大声で、何か叫んだ。
が、何をさけんだか、自分でもわからなかった。
信長の耳へ、その声も届かず、近づきも得ないうちに、警固の者の
それを怖れては、出来ないことなのだ。彼にとってはこの一瞬が、生涯の
草むらから身を起すと、信長の姿を目がけ、眼をつぶって、駈け出しながら、
「望みある者でございます。お
自分では、
駈けつつ、それだけの言葉を、大声で訴えたつもりではあるが、非常な昂奮をしていたし、とたんに、予測していた警固の士が行列を出て、自分と信長のあいだへ、槍を
それになお||
彼の風体は、ただの土民より
「こらッ、何処へ」
「無礼者ッ、突き殺すぞ」
日吉の眼には、
が||槍の
しかもまた、
「||望みあんなる! 望みあんなる! わが君ッ。わが君ッ!」
「
信長が、
それへ向って、
「こいつ!」
と、槍が走ろうとした時、
「突くな」
信長がいった。
見も知らぬ||そして
いや、もっと大きな理由は、日吉の満身に燃えていた、希望の
||待て!
と、止めさせた最大な力であったかも知れない。
「問うてやれ、何か、いわしてみい」
信長の声が、耳にはいると、日吉は体の痛みも、近侍たちの眼も、ほとんど覚えなく、その人の姿だけを仰いで、懸命にいった。
「||父は元、御先代のお
早口だった。半ばは夢中だった。けれど日吉が、
(この君ならでは)
と、見込んで、生命を賭して訴えただけの情熱は信長の心へ、十分に届いた。信長はむしろ、日吉の言葉以上に、日吉の真実を買った。
しかし、苦笑して、
「
と近侍を顧みながら云い、そして、馬上から、
「我に、仕えたいというか」
「はい」
「して、汝は、何の
「何の能もございませぬ」
「何の能もなく、主取りして、何をいたそうと思うか」
「事ある時、死なんと思うのほか、べつによき能も持ちませぬ」
信長は、すこし気に入ったらしく、口ばたに、笑くぼを作った。||それからなお、じっと、見直して、
「よしッ。||したが
「御領土の下に生れ、日頃からまた、仕えるなら
信長は大きく
「大介」
「はあ」
「おもしろいぞ、この男」
「いかさま」
大介も苦笑した。
「望みにまかせ、拾うてくれよう。日吉とやら、きょうより出仕せい」
「············」
日吉は、声がつまって、
行列の武者たちは、
「また、わが殿の、物好きな」
と、驚いた顔したが、その中へ日吉がのこのこはいって来たので、
「おい、もっと、列の後の方に
と、眉をひそめた。
「はい、はい」
信長の行列がかかると、那古屋の町々は、
日吉は、初めて、そういう往来の真ん中を歩いた。そして行列の前方に、遠く主人の背なかを見ながら、
(この道だ。この道だった)
と、思った。長いあいだ
だが、その主人は、武者を
那古屋城が、前に迫った。
唐橋を渡って、行列は城門へ
秋の頃だった。
刈入れに忙しい人々を田の
「おっ母さんッ」
若侍は、
「まあ! 日吉ッ······」
彼の母はその後、また、子を生んでいた。干し拡げている
「おお?」
振り
「わしじゃ! おっ母さんッ。······みんな達者でか」
飛びつくように、母の
「どうしやった。どうしやったぞ? ······」
「どうもしません。きょうは、一日お
「あ······そうか。······それで安心しました。突然来やったので、何ぞまた、不首尾でもでかして、お城を追われて来たのではないかと、わしは、胸がどきッとして······これこのように冷汗をかいてしもうたがの」
ほっと、安心したのであろう。彼女は初めて、笑顔を見せた。
そして
「欣んで下さい、母上。やっと私も、信長公の御家臣の
「ようなあ。······ようまあしやったなあ」
その背を、今度は日吉が抱えてやりながら、
「きょうは、母上に欣んで戴こうと思って、朝から髪も
「この夏の頃、そなたが、庄内川の河原で、御領主様へ向って思いきったことしやったと聞いた時······わしはもう、そなたの
「その後、委細は、
「おお、乙若どのが来て、そなたが御領主様のお心にかない、御小人衆に抱えられたと聞かされて||もうそれを聞いてやれうれしや、死んでもよいと思いました」
「はははは。これしきのことで、そんなにお欣びなされては、これから先、どうしますか。||まず第一に、お聞かせしたいのは、御主君信長様から
「ほ。なんと? ······」
「姓は以前の
「木下藤吉郎といやるか」
「そうです。よい名でしょう。もうしばらくは、この
「うれしい。こんなうれしいことはない」
母は、そればかり繰り返して、藤吉郎のいう一
(こんなにも、欣んでくれる人がある!)
藤吉郎は、それを大きな幸福に思った。世の中に誰あって、こんなに真実に、
三年、五年の
「時に、姉上は、どうしましたか。姉上の姿が見えませんが」
「おつみか。おつみは、よそへ刈入れの手伝いに行っている」
「丈夫ですか。元気ですか」
「変りはないが、あれものう······」
と、ふと母は
「帰って来たら、そういって下さい。姉上にも、長いご苦労はかけません。今に、この藤吉郎が
「もう帰るのかや」
「お城仕えは、いちだんと厳しゅうございます。······それにな、母上」
と、藤吉郎は、声をひそめて、
「おうわさ申しては、勿体ないですが、一国一城の御主君という身も、お側近くに仕えてみると、なかなか
「そうであろうな」
「お可哀そうなくらいです。ほんとのお味方という者は幾人もありません。
「勿体ないのう。······まだわし達は」
「そう思えば、御辛抱もできましょう。が、人間と生れたからには、それでいいものではありません。
「その気持はうれしいが、余り、
「では、御機嫌よう」
「もちっと、話して行かれぬのか」
「御奉公が大事ですから」
彼は黙って、母の
その年は、それきり来なかったが、年の暮には、足軽組の乙若が来て、
「藤吉郎から頼まれたが」
と、一反の織物と、
その折、乙若の話には、
「今は、
と、藤吉郎の近状を、そんな程度に伝えて帰った。
おつみは、その
「弟が送ってくれました。······お城にいる藤吉郎が」
と、どこへ行っても、弟が弟がと、口に出さずにいられなかった。
どうかすると信長は、無口になって、終日
そんな時である。
「
いきなり呼ばわって、城外の馬場へ駈け出して行ったりした。
先殿様の信秀時代には、一年のうち半年以上も、たえず西に攻め東に護り、一生戦争に暮していて、居城のうちに落着いていられる暇もほとんどなかったくらいだが、そんな中でも、およそ朝は祖先の礼拝、近侍の受礼、講書や武道の稽古、それから夕刻まで領内の政務を見、また晩には、軍書に親しむとか、評議とか、寸暇を
というよりも、信長自身の性格が、そういう定規にあてはまらないのである。
(やろう!)
と思い立つことも、
(止めよう)
とする意思も、彼の心のなかでは、常に、夕立雲の如く、唐突に去って、唐突に起ってゆくので、彼自身さえ、自身を規律で制していることができないらしかった。
あわてるのは近侍であった。
きょうは珍しく、書物に親しんでおられる||きょうはまた
「
と、声がする。
声がした時にはもう、そこにはいないにきまっていた。時を
(何を愚図愚図している)
と、いわぬばかりな顔をしている主人の前へ、ようやく駒を曳いて行くのだった。
卯月というのは、彼が乗り馴れた白い愛馬だった。しかしこの馬もやや老境に入って、
「······ち。ち。ちッ」
信長は、口輪を持って曳きまわしていたが、
「重いのう。水を飼え」
と命じた。
「はッ」
信長は、馬の口へ手を突っこんで、馬の舌をつかんだ。
「
「
「卯月も、老いて来たか」
「大殿のおかたみでございますから、はや馬齢もだいぶ」
「馬齢か。なるほど、那古屋の城には、卯月ばかりか、馬齢のみ取ってゆく
誰にいうのでもない。天へ怒るように独り語に云い、そしてぱっと、鞍へあがって、
「風邪ひき馬を、ひと
と、馬場を駈け始めた。
騎馬の上手は、
若い元気いっぱいな信長にたたかれると、卯月はやがて、汗にぬれて来た。||と、彼の駒を、恐ろしい脚速で、鮮やかに追い抜いて行った一頭の
不意に、自分の駒へ、後塵を浴びせて追い抜いて行った黒鹿毛を見ると、信長は、
「あッ、五郎左め!」
と、躍起になり、
「
と、競って行った。
五郎左という若侍は老臣の
先代信秀が、信長のために、
信長の気性が、その時、無意識に駆りたてられていた。
追い抜かれる||
ひとに遅れをとる||
後塵を浴びる||
おくびにも、そういったことは、そのままではゆるされない彼の気性だった。
びゅッ、びゅッ。ふた
もう老いかけてはいても、卯月も名馬である。
大地は、
卯月の銀毛のような尾が、真ッ直ぐに風を曳いて、五郎左衛門の
「殿、殿、お馬の
と、注意した。
すると信長は、
「五郎左、もう続けぬのか」
と、すこし
五郎左もまだ二十四、五の若気であり、主人に上手のいえない
「何の!」
と、ばかり追い込むと、信長も負けない気になって、駒の
卯月は、織田の卯月と、敵国にまで聞えた名馬であり、
けれど鹿毛は若く、鹿毛の
五郎左は、前を駈ける信長の卯月をめがけて、
二十間ほども越された距離の差が、十馬身ぐらいにつまり、五馬身となり、一馬身となり、鼻ぐらいな差になって来た。
先人を越すは易 く
後人に越されざるは難し
という古語のとおりに、それを越されまいとする信長は、息がきれて来た。後人に越されざるは難し
そして、その息を||一息抜くまに、五郎左衛門の駒は、鮮やかに彼を追い越し、ぱっと、砂塵を
「ちいッ」
と、舌打ちしながら、信長は鞍をすてて、地上へとび降りていた。自分の本質をむき出して、しかも闘い破れた苦しい気持から、その
「ウウム。良い脚だ。あの鹿毛は······」
信長は、自分の敗因が、ただ鹿毛の脚にあるものと思って、独り
鹿毛と卯月とが、烈しい脚を
「やっ、五郎左に抜かれて、
と、後の不機嫌を案じながら、あわてて
「お水を。······お水を一口」
と、ひざまずいて、
それは先頃、御小人組の中から選ばれて、信長の
草履取といっても、数多い御小人組のうちから、主君の足もとまで、身近く出られる身になったことは、破格な立身で、わずかな月日に、そこまで来た藤吉郎は、身を粉にして、現在の小者の職務に忠勤と誠意を打ちこんでいた。
||が、主人の眼というものは、常に見ているようで、そのくせ、一つや二つの気働きぐらいでは、眼もくれる風も見せない。
今も、信長は、藤吉郎が誰よりも先に駈けつけ、
(お水を)
と、すすめても、信長は、彼の顔などは見もしなかったし、ウムともいわなかった。黙って、
「五郎左を呼べ。五郎左を」
と、命じた。
その答えは、近侍がした。あわててそこへ集まって来た家臣のうちから、一人がまた、彼方へ駈けて行った。
五郎左は、馬場の柳に、駒を繋いでいたが、信長の召しを聞くと、
「ただ今、御前へ参ろうと存じているところ||」
と、答えた。
そして悠々と汗をぬぐい、
五郎左は、主君の前へ出るまでに、もう或る覚悟をきめていた。
信長の気色から推して、信長の近侍たちもまた、彼の身が、ただではすむまいと
「五郎左にございまする。ただ今は、失礼を仕りました」
覚悟の程は、肚の底にすえていても||こういってひざまずいた五郎左の物腰は、涼やかなものだった。
案外、信長もまた、彼の神妙な態度に、
「五郎左、よく追ったのう。そちはいったい、いつの間に、あのような名馬を手に入れたか。あの鹿毛は、何と申すか」
と、訊ねた。
家臣たちはほっと気を安めた。
五郎左は、微笑の顔を、すこし上げて、
「お目にとまりましたか。実はてまえも、いささか誇りといたす愛馬で、

「ふむ······。そうか。いや道理で、近ごろ
「は······」
「よかろう。値はいくらでも取らすであろう。信長が貰うておくぞ」
「······いや。恐れながら」
「なんじゃ」
「お断りいたしまする」
「いけないのか」
「はい」
「なぜじゃ。そちはまた、よい駒をさがせばよかろう」
「よい友は求め難いように、よい駒も、そうあるものではございませぬ」
「だから信長に譲れというのじゃ。信長とても、乗りつぶれぬ程な
「
奉公のため、武士のたしなみのため||という彼の
「五郎左」
と、重ねて、
「嫌か。どうしても嫌か」
「この儀ばかりは······」
「そちの身分には、あの鹿毛は、ちと
「恐れながら、御意はそのまま、殿へお返し申しましょう。||お鞍の上で、
と、いって
五郎左は、つい、いってしまった。馬を惜しむ心よりも、日頃の
五郎左衛門の老父、
彼として、めずらしい例といわねばならない。
十年一日の如くというが、彼の奉公は、織田家二代にわたって、四十年一日の如くであった。
先代織田信秀から、その臨終に
(頼むぞ)
と、託されてから後は、信長の
その日。||もう夕方。
彼は、独り鏡を眺めていた。
「············」
自分の髪の真っ白になっていることに、今さらのように、彼は
白くもなる筈。もう
が、その年すら、数えて
「
ふすま越しに呼ぶ。
小侍に、
「勘解由、使いは出たか」
「はい、もう先刻に、
「では、見えような」
「程なく、お揃いで、お
「酒のしたくも」
「お珍しゅう、お揃いで」
「うむ。
「至極、結構に存じまする。何ぞなお、温かい馳走なと、作らせておきましょう」
勘解由は、去った。
二月の初めだったが、まだ梅のつぼみすら固かった。ことしはひどく寒く、池の面の厚氷は一日溶けなかった。
さっき使いを出して、呼びにやったのは、各

本来、こういう大きな邸では、総領は元よりのこと、次男三男でも、皆、大家族的に妻から孫まで一つに住んでいるのが、世間の慣わしだったが、
(朝夕、子や孫どもの愛にひかされては、少しでも、御奉公の
といって、皆、べつに邸を持たせて早くから妻にも別れた身を、孤独で暮していた。
そして、先君の遺孤、主君の信長を、主と護るのみでなく、わが子とも思いこめて、守役の大任を負いとおして来たのだった。
ところが先頃からその信長は、少しも
不審に思って、近侍の者に
「御子息の五郎左衛門殿と、お馬のことから実は||」
と、数日前、馬場であった気まずい事件を、話してくれた。
「······さては、それで」
と、中務は、初めて解けたが、さてさて、困ったものと、当惑の顔いろだった。
不興を
(この機に)
とばかり、信長に媚びて、甘言をすすめるため、主君と中務
二十日あまりの幽居のあいだに中務はしみじみ、自分の老いを知った。
君側には、柴田権六や、林美作などの、新しい勢力が興っている。
その力は若かった。
中務は、四十年の忠勤のつかれで、もうその人々と、闘う精はなかった。
だが、自分の老いを知れば知るほど||孤君信長の前途と、主家の将来は、強く案じられて来た。
なお、その老後の骨を、孤君のために、用いようとして、この二十日余りを、
「お二方、お揃いで、ただ今お見えになりました」
用人の
「そうか。今参る」
と、答えておいて、中務は何か書きものをしていた。
それは、きのうから、苦吟して書いていた、長い書面であった。きのう書いたそれへ、また筆を入れて、謹厳に、清書しているのであった。
書院では、総領の五郎左衛門と次男の
「ご病気かと驚いた。不意に使いが見えたので」
監物がいうと、五郎左衛門は、顔を振って、
「いや、わしはそうも思わなかった、いつぞやのことが、お耳にはいり、さてはお
「だが、あのことなら、もう二十日も前に、父上のお耳へははいっている筈。||急にお呼びつけになるからには、何ぞほかに、御用があってのことだろう」
三男の甚左衛門は、他国の縁家へ行っているので、この宵には、来合わせなかった。
「来たか。寒いのう」
父の中務は、やがて
「どこか、お体でも」
「いや、この通り、変りはないがな、お前たちの顔を見たくなったのだ。年のせいじゃろ、時折、世のさびしみを、思うようになった」
「では、べつに何ぞ、急な御用というわけでも」
「そんなわけではない。久しぶりに、夕飯なと共にして、
平常と、変りはなかった。
外は、
しかし、
そのうちに、膳も

「五郎左、わしがそちへ譲った家宝の

と、訊ねた。五郎左は、ありのまま、
「はい。家宝の名器と伺っておりましたが、欲しい馬がございましたので、

と答えた。すると、中務は、
「そうか。よかろう。その心がけがあれば、わしが
「||だがの、五郎左」
「

「そのため、実は、御不興をうけまして、父上にも、私のため、とんだ御迷惑をかけ、何とも」
「これ、待て」
「はッ」
「父のことなど、さておいてじゃ。なぜ君公の御所望に対して、物惜しみいたしたか」
「············」
「いやしい奴め」
「······父上」
「なんじゃ」
「五郎左を、左様に
「ではなぜ、折角、欲しいとお望みならば、信長公に差し上げてしまわぬか」
「
「もとよりのことだ。それは分っているが」
「駒をさし上げれば、殿のお気には召しましょう。しかし臣下のそういう気持も無視して、ただ御自身の卯月より、
「············」
「今の織田家が、危ういこと、てまえなど申すまでもなく、父上にはなおさらようくお分りでございましょう。||時折は、図抜けた御大器と思われるような場合もままございますが、
「いかん」
「いけませんか。てまえの心は間違っていたでしょうか」
「心底に忠義があっても、それではかえって、信長公の悪い御気性の方を、駆りたてておるようなものだ。||わしは、あの君様を、お
「そうでしょうか。申しては畏れ多うござりますが、わたくしも
「そうでない。······ひとは何といえ、わし独りはそうは信じられぬ。おまえたちも、飽くまで、あの君のままに従え。わしが亡い後は、なおさらのことぞ」
「その儀は、お案じなされますな。たとえ御不興をうけても何でも、節義にゆるぎはないつもりです」
「それ聞いて、安心した。||如何せん、わしははや老木、わしの
||後で思えば、その夜の中務の言には、思い当るふしが幾らもあったが、五郎左も監物も、まさか父が死を決していたとは気づかず、やがて
平手中務の自害は、その翌朝、見出された。見事な自刃の姿であった。
駈けつけた五郎左と監物の兄弟は、父の死顔から、何の心残りも苦悶の姿も見出せなかった。
遺言は、昨夜の席で、生前の温い
ただ一通。
御主君へ||
と、信長へ宛てて遺書があった。遺書はすぐ、城へ届けられた。
「何。
彼の死を聞いた時、信長の顔には、大きな
遺書は長文で、言々句々が、中務の真心をこめた、
死をもって、中務は、信長を
「爺よ。ゆるせ」
信長は、声をもらして泣いた。
中務に対しては、わがままの云いたい放題をいい、また、内外の苦労をかけ通して来ただけに、君臣とはいえ、父以上な親しみを抱いていたのである。||たとえば今度のことなども、わがままを出しやすい彼へ、例によって、知りつつわがままを振舞っていたのだった。
「五郎左を呼べ」
すぐ命じた。
やがて、五郎左が見えて、平伏すると、信長は席を立って、対坐になり、
「爺の云い
主君が臣下へ、手をつきかけたので、五郎左はあわてて、その手を取って拝み、君臣抱き合って泣いていた。
その年、城下に一
「寺号を、何と名づけましょうか。開山の和尚に、
奉行が訊ねると、信長はかぶりを振って、
「寺僧の名づくるよりも、爺は、わしがつける寺号をよろこんでくれよう。わしが
筆を取って、
その後。
何か思い出すと、信長はよく唐突に、政秀寺へ行った。行っても、
「爺よ。爺よ」
つぶやきながら、寺のあたりを一歩きして、ぷいと帰城してしまうだけだった。
そうした感情が、時には、狂人じみて現われることすらあった。
鷹狩の折、突然、小鳥の肉を引っ裂いて、
「爺ッ、爺ッ。信長の捕った獲物ぞ。これを受けよ!」
と、虚空へ向って、投げつけたりした。
また、川狩の日に、いきなり足で川水を蹴上げて、
「爺ッ。
と、叫んだ声や
信長は二十二歳となった。
その年の四月、信長は、一族の
やったな!
藤吉郎は、ひそかに、そう思って、信長の
右も
孤君信長を
家柄からいえば、清洲の織田彦五郎は、織田一族中の
(油断のならぬうつけ)
と、警戒していた。そして事々に圧迫を加え、信長の自滅を計った。
清洲城には、その前から守護家の
それが、発覚したのである。彦五郎は、怒って、
「恩知らずの見せしめ」
と、守護家を斬ってしまった。子の義銀は、信長の所へ逃げて行った。
信長は、義銀を、那古屋の天主坊へ
「守護家を奉じて」
と、彼は将士を鼓舞した。
名のない
那古屋城へは、叔父の信光を、自分の跡に入れておいた。
が、何者にか、信光は暗殺されてしまった。
「佐渡、そちが行け。那古屋はそちならでは、信長に代って、留守する者はない」
林佐渡守へ、命が下った。
「身命をもって」
と、おうけして、佐渡は那古屋へ赴いて、城代の任に就いた。
心ある家臣は
「ああ、やはり
事実、佐渡の行動には、怪しいふしが多かった。
信長の父が生きていた頃は、彼も無二の忠臣といわれたもので、そのため、先代
「殿には、佐渡の
「ご存じあれば、よも那古屋の城を、お預けにはなるまい」
眉をひそめて、憂いあう家中の者のささやきを、藤吉郎も、一度や二度でなく耳にした。
が、藤吉郎は、
(はてな。こんどの寸法は、どう遊ばすお考えかな?)
とは思ったが、他の家中のような心配は、すこしも抱かなかった。
清洲の城で、いつも明るい顔は、孤君信長と、
信長を、天性のうつけと見た先入観は、家臣の一部でも、なかなか
林佐渡守、弟の
「何。美濃の
柴田権六などの観察はわけても徹底していた。
その点で共鳴している林佐渡が、那古屋の城代になると、権六勝家は足しげく、那古屋へ往来した。そしていつか
「よいのう、雨夜は」
「かえって、茶には、
茶によせて、佐渡と権六は、城内の庭木に
「あすは
梅若葉の下から、佐渡の弟の
「············」
灯を入れた後もしばらく、美作はそこに
やがて、離れへ戻って来ると、声を低めて、
「異状はございませぬ。家来どもも遠ざけてござりますゆえ、お心おきなく」
と、兄と権六へささやいた。
権六勝家はうなずいて、
「では、早速、本題にかかろうか。||実はきのう
「御母公には、何と仰せられてか」
「それはもう、異議のう御同意じゃ。何しても、信長公よりは、信行様のほうが、お可愛くてならぬお方じゃて」
「ふム······。然らば、御舎弟信行様にはもとより御決心か」
「佐渡や権六が起つならば、織田家のため、信長公へ弓をひいても、是非あるまいと」
「
「それや何しても、相手が御母公やら、気の弱い信行様のこと。そう油をかけて力説せねば、動くはずもござらぬ」
「いや、おふた方さえ、承知とあれば、名分は充分にある。信長公の暗愚を憂い、お家の末を案じている家臣はわれらのみではない」
「尾張一国のため、織田家百年のため。||と、まず旗じるしはそれでよいが、軍備は」
「折もよし、那古屋へ移されたので、それも手早う進んだ。
「そうか。······では」
権六が、
ばらッ、と大地に何か音を立てて落ちた。
二ツ三ツの青梅の
雨は小やみであったが、雨以上のしずくが、風のたび
||犬のような人影が、床下から這い出していた。今の梅の実は、
室内の眼が、それへ振り向いて、気を休めた隙に、忍びの者らしい男の影は、もう風と闇の中に
忍びの者は、城主の目であり耳であり足であった。
出るにも
信長の側にも、そういう
草履取は三名いた。お小人組に属しているが、役目がら小屋を別にして、お庭近くに三名だけで交代勤めをしている、一人は
「がんまく、どうした?」
藤吉郎は相役のがんまくに、
「······腹が痛い」
がんまくは、顔も出さずに云った。藤吉郎は、夜具の襟を引っ張って、
「嘘をいえ。御城下まで出たついでに、
「なんだ」
がんまくは、首を伸ばしたが、
「ばか、病人をからかうなよ。あっちへ行け。うるせえ」
「起きてくれ。兄貴。ちょうど又助がいないから、訊きたいことがあるんだ。折入って」
がんまくは、渋々起き出して、
「折角、ひとが寝ているのを」
藤吉郎も
「なんだ、俺に訊きたいことというのは」
「ゆうべのことだが」
「ゆうべ」
「とぼけても、藤吉郎は知っている。那古屋へ行ったろう」
「え」
「お城へ忍んで、御城代の林佐渡や柴田権六の密談を、探って帰って来たのだろう」
「おい、おい。猿。······滅多なことをいうなよ、滅多なことを」
「じゃあ、ほんとのことをいってくれ。友達の仲で水臭かろう。わしは
「藤吉、······お前の目に会っちゃあ
「一つ釜の飯を食っているおぬしのすることを、知らないでどうするものか。||信長公はわしにとっても大事な御主人だ。蔭ながらわしらでも、案じられることもある」
「訊ねたいとはそのことか」
「神かけて、他言はせぬ。がんまく、わしを信じてくれ」
がんまくは、そういう藤吉郎の顔をじっと見ていたが、
「よし打ち明けてやろう。だが昼は人目につく、折を待て」
その後、がんまくの口から、彼は、織田家の内情について種々な知識を得た。そして主人信長の境遇に、理解と同情をもって、よけい奉公の
けれど藤吉郎は、そうした陰謀家の家臣の中にある若い孤君の将来を、少しも危ぶみはしなかった。先代以来の老臣も重臣も、信長を見捨てかけていたが、まだ召し抱えられて年月も浅い藤吉郎のみは、深く信長に信じているものがあった。
(ここを、わが殿は、どう切り
と、身分の低い彼は、ただ遠くから祈る気持で眺めていた。
その月の末頃だった。
いつものことで、多くの家来も
信長は、突然、駒を曳き出させて、城外へ遠乗りに出た。
が||その日は、先頭の信長の馬首は、守山へは向わないで、城下の十字街道から東へ向って駈け出した。
「やッ。殿には?」
「どこへ行かれる気||」
続く家臣の五、六騎は、また、出しぬけを喰って、あわを喰いながら、後を追いかけていた。
だが、がんまくと藤吉郎の二人だけは、遅れながらも、必死に飛んで、信長の駒から捨てられまいとした。
「すわ! 事だぞ」
と、二人は互に、眼顔を見合って、ぬかるなと励まし合った。
なぜならば信長の馬首は、
何をしでかすか知れない信長が||何が起るか
これほど危険なことはない。
「一大事」
と、がんまくや藤吉郎が、心のうちで、大変を予期したのも無理ではなかった。
だが、より以上、驚いたのは、彼の唐突な来訪をうけた、那古屋城代の
あわただしく、本丸の一室へ駈けこんで来た家臣が、
「殿、殿、||はやく、お出迎えにお立ちなされませ。信長公のお越しにござりますぞ」
と、告げても、
「何、何じゃと?」
耳を疑って、起とうとはしなかった。||
まさか! という気持が邪魔していた。
「騎馬で、ただ、四、五騎のお供衆をつれたのみで、大玄関まで、いきなりお乗り着けなされました。||何か、高声で、お供衆と笑っておいでなされました。ともあれ、お早くお出迎えを」
「これこれ。
「はッ、はッ」
「信長公が、お越しあそばしたというのか」
「御意にござります」
「すりゃ大変じゃ」
佐渡守は、なぜということもなく
「弟、······何事じゃろう」
「ともあれ、お迎えした上で」
「そうだ。早く来い」
大廊下を、急いで行くと、もう玄関の方から、活溌な足踏みを踏み鳴らして、信長は通って来るのだった。
「······はッ。これは」
林兄弟は、彼の前を避けて、ひたと廊下に平伏した。
「やあ、佐渡。
云いすてると、勝手を知った本丸の第一の間の上段に坐り、後から息を
「暑いのう。暑い暑い」
と、駄々っ子のような扇使いして、
茶を。菓子を。
お
と、出す物も、
何しろ不意過ぎる。
林佐渡と美作の兄弟は、
「
佐渡が、そう
「兄上、||あちらで柴田殿が、ちょっとお顔を拝借したいと申されていますが」
と、
「うむ。今参る。······そちも先へ行っておれ」
と、いった。
その日も、柴田権六勝家は、那古屋城へ来ていたのである。何か密談をすました後、さて、帰ろうかと立ちかけたところへ、突然、主君信長の来臨という玄関の騒ぎに、出てはまずいし、帰ることもできず、度を失って、小書院の隠れ座敷へあわててはいり込んでいたものだった。
そこへ美作が来、林佐渡も後から来て、三名、ほっと
「だしぬけだ! ······いや驚いたな」
「何かにつけて、この調子だから、
「それじゃて」
と、権六勝家は、眼で奥を指しながら、
「あの喰えぬ
「そうかも知れぬ」
「兄上······」
と、美作は先刻から、眉に
「今も
「何。いっそのこと」
「お供も、僅か五、六名で、突然お越しあられたのは、いわば天の与えた絶好な機会ではござるまいか」
「殿をか?」
「そうです。||お中食を差し上げている間に、武者隠しへ、腕ききの者を忍ばせ、てまえ御給仕に出ますれば、合図と同時に、信長公を」
「もし、仕損じては」
「何の、
権六も云い足した。
「どうじゃ、佐渡殿」
さすがに林佐渡は||じっと
「ウム。······
「御決心か」
眼と眼を見合わせて、三名が、膝を立てかけた時だった。
ずしずしと、力のある足音が、廊下を踏んで来たかと思うと、塗ぼねの大障子をさっと開けて、
「やあ、ここにおったか。佐渡、美作。茶ものんだ、菓子も喰うた。はや立ち帰るぞ」
||あっと、立てかけた膝を縮めて、三名は、
信長は、その中にいる権六勝家の姿へ、じっと目をつけた。
「ほ。······権六じゃの」
信長は歩み寄って、
「
「はッ······。来合わせてはおりましたなれど、御覧のごとく、平常の
「はははは。存外、
「恐れ入ります」
「これ||」
冷たい扇子の
「君臣の仲じゃに、身なりがどうのと、儀式に
「以後。以後は······」
「どういたした、権六。
「かえって、御意に
「はははは。許す、許す。もう顔を上げい。||いや待て待て、
「······はッ」
「佐渡」
「は」
「邪魔をいたしたのう」
「
「したが、信長のみならず、四隣の敵国の客は、いつでも不意に来るものぞ。心して、留守をせよ」
「朝暮、心いたして、弓矢を
「そうか。頼もしい家来どもを持って、信長は安心。||いや信長のためばかりではない、まちがえばその方どもの首もないのじゃ。権六、よいか」
「お結びいたしました」
「大儀」
信長は、まだひれ伏している、三名の後ろを開けて、中廊下から玄関の方へ、大廻りして出て行った。
「············」
柴田権六と、林佐渡、美作の三人は、
||が、信長の姿はもうそこには見えない。
大手門の方へ降ってゆく幅の広い坂道の辺りに、ただ
いつも置き捨てをくう近侍たちは、また不覚を重ねぬように、帰りは信長に続いていたが、小者の中の、がんまくと藤吉郎のふたりだけが、かなり遅れて、後から駈けて行った。
「がんまく」
「おう」
「よかったな」
「よかった」
遅れはしたが||しかし二人は不覚とはしなかった。嬉々として、主君の姿を、先に見ながら急いでいた。
もし何らかの、兇事でも起った場合は、すぐ清洲城へ変を知らせて||と、二人は密かに
その年の八月だった。
まだ夜も明けぬ頃。||初秋の眠りごこちを、
敵は? ||意外にも日頃の味方だった。
「那古屋衆の、
物見やぐらで、誰かどなった。それすら、深い霧の中である。
ここは手薄。
一騎、二騎、霧を衝いて、すぐ清洲の本城へ、知らせに飛ぶ。
信長は、まだ眠っていた。
が||寝所へその注進が伝わると、彼はすぐ、具足を
彼の後には、誰もまだ続いて来なかった。
すると、ただ一人。
信長より先に、大手の
「||お馬を」
と、その雑兵は、信長の前へ、駒を寄せて云った。
信長は、意外な顔した。
自分より早い奴がいたことに驚いたらしいのである。
「誰だ? そちは」
と、訊いた。
雑兵は、陣笠を
「それには及ばん。そちは、誰の手の者であるか」
といった。
「お草履取の、藤吉郎にござりまする」
「猿か」
信長は、また呆れた。
庭使いの草履取など、出陣の場合に、先駆けして来る筋のものではない。見れば、粗末な物であるが、胴や
「合戦に参る気か」
「お供、仰せつけ下さいまし」
「よし、ついて来い」
信長と彼の姿が、朝霧の中へ、二、三町も遠く
「
彼の声は、怒っていた。その大きな声は、寄手の
「不忠の臣ども、信長が成敗してくるる。逃ぐるも不忠ぞ!」
林美作は、その声に恐れをなして逃げ出した。どう考えても、信長の声と思えなかった。
彼の
||直接、信長の姿、信長の声、しかもその
「待てッ。逆賊」
信長は、逃げる
そして、血ぶるいしながら、美作の兵へ向って、宣言した。
「主を討っても、そちらは主とはなれぬ身ぞ。叛逆の徒に
左翼の陣が崩れ、美作が討たれたと聞くと、柴田
末盛城には、信長の母公がいる。また、信長の弟、信行がいる。
「どうしようぞ」
敗軍を知って、母公は泣きおののき、信行は戦慄した。
逃げ帰った
「この上は、身に代えて」
と、頭を
そして、林佐渡と同道して||母公と信行をも連れて||翌日、清洲の城へ、謝罪に出た。
唯一の力は、母公の
信長は、案外、怒っていなかった。
「
母公へ、あっさり云って、それから、背に汗をして平伏している柴田権六へ、
「坊主」
と、呼んだ。
「······は」
「権六勝家ともある者が、なぜ頭など
苦笑して||また、佐渡へ、
「そちもだ」
と、やや
「年がいもない奴のう。
信長は、落涙して、しばらく黙っていたが、
「いやいや、中務を自害させ、そちをも、
佐渡は、眼が
信長の真のすがたを、今初めて仰いで、その天質をやっと知ったのだった。
ただ、恐ろしい心地に打たれた。身の程も恐ろしかった。かたく、忠勤を誓って、顔も上げ得ずに
||が、骨肉には、かえって、分らなかったとみえる。弟の勘十郎
「母がいるので、乱暴な兄も、わしをどうすることもできぬのだ」
と思った。
母公の愛と、盲目にかくれて、信行はその後も、陰謀をやめなかった。
信長は、嘆じた。
「信行の
機を見て、信長は遂に、信行を捕えてこれを刺してしまった。
もう信長を、暗愚と見る家臣はなかった。
いや、むしろ近頃では、彼の明敏と鋭利なひとみに
「ちと、くすりが
と、時には、苦笑を覚えるくらいなものだった。
しかし、信長の準備は、できていた。彼は毛頭、家臣や骨肉を偽るために、暗愚を装っていたわけではなかった。
父信秀の死後、自分が一国を負って、四隣の敵国へ。
||よし。いつでも。
という構えができるまでの安全
が、この間に、信長は人間の表裏と、社会の機微とを、より多く学んだ。彼が年少から名君らしい名君であったら、それは誰も用心して、露骨に示さなかったに違いない。
「猿、すぐ来い」
何事かと、
「は、御用で?」
藤吉郎は、すぐ出て来た。
「お召しじゃ」
「え」
「殿様が、ふいに、
「べつにございませんが」
「ま、早く来い」
又右衛門は、彼を
信長はその日、何思ったか、城内の
「召し連れて参りました」
又右衛門が、信長の歩行の横へ
「あ、連れて来たか」
と、彼のうしろに控えている藤吉郎の姿に眼を止め、
「猿、前へ出い」
と、いった。
「は······」
「今日からそちを、台所役人に取り立てて得させる。よいか、台所で働けよ」
「ありがとう存じます」
「台所方は、雄々しゅう、槍先の功名もならぬところじゃが、戦場の
即座に、彼の地位と
けれど、台所方へまわされることは、その頃、侍の恥か、落ち目のように思われていた。
||あいつも
という風に見られて、そこは戦場や表方では、使い途にならない人間の捨場のように、
御小人、
||台所の者。
といえば、軽く見られるし、若い者にとっては、出世の機会も、将来性もない所だけに||組頭の又右衛門は、
「猿、つまらないお役目にまわされて、不足だろうが、その代りに、お
慰めれば、慰められて、はいはいと
むしろ、彼は信長から、望外な見出しに預かったことを心から感激しているふうだった。
さて、彼が台所方の職に就いて見ると、第一に、そこの薄暗いことと、
昼間でも、太陽を忘れているような、
「これはいかん」
藤吉郎には、耐えられないものがあった。彼は、陰気が嫌いである。薄暗い||生気がない||そういう空気はすべて嫌いだった。
「そこらの壁へ、大きな窓を切って、風と太陽を、いっぱいに入れたいものだな」
そう考えたが、台所方には台所方の組織もあり、古顔の上役もいて、その仕事一つも、実行はむずかしく見えた。||藤吉郎は、毎日、
お城の台所方へ出入りする御用
「どうも、旦那のように仰っしゃられると、良い品を、お安く持って来ずにいられなくなりますよ」
「まったく、木下様にかかっては商人も
と、皆いった。
「ばかを申せ」
藤吉郎も、笑っていう。
「何も、わしは商人じゃなし、上手も
また。
折には、そうした商人たちに、茶など飲ませて、打ち
「お前らは、商人だから、御納品を運ぶたびに、すぐにこの一車で、幾らの利得と||利得を離れたことはあるまいが、もし敵国のために、お城が亡びたら何とする。長年の
それからまた、彼は、お
が、当然、仲間の一部には、
「目まぐるしい奴だ」
「何にでも口を出しおる」
「働きぶる猿」
などと陰口もあり、彼を、
自分が、一つの波として起る場合、どこにでも、波にぶつけて来る波はある。藤吉郎は、ほとんど、そういうものには、無関心な顔つきだった。
彼は、大工をさしずして、天井には風入れを明け、壁には大きな窓を切らせた。下水、その他、彼の理想どおりに改築した。
「物が早く
とか、
「
とかいう苦情にも、彼は、耳をかさなかった。
清潔になった。
無駄が目に見えて来て、無駄がなくなって来た。
総じて、一年も経つと、ここも、彼の性格そのまま、明るく風通しよく、活動的な機能を持つ所と変って来たのである。
すると、その年の冬。
今までの
なぜ、長門守が、役目を
そしてなぜ、自分が、炭薪奉行に登用されたのか。
藤吉郎は、信長から任命されると、同時に、それを考えてみた。
「ははあ、炭薪の
で||彼は、広い城内の炭火のある所、
御用部屋、
わけて、小者部屋だの、若侍たちの
「木下殿だ。木下殿が見えた」
「なんだ、木下殿とは」
「新たに、炭薪奉行になった木下藤吉郎殿。むずかしい顔して、見廻りに来たぞ」
「あ、あの猿か」
「灰をかけておけ。灰を」
若侍たちは、あわてて灰をかぶせたり、黒いのを、火消し壺へ入れたりして、
「やあ、お揃いだな」
藤吉郎は、そこへ来ると、連中のあいだに割りこんで、自分も
「こんど、
「や、それはどうも」
若侍たちは、むず
「ことしの冬は、ひどくお寒いではないか。このように火を
と、自分で赤い火を掘り出して、
「そちらの炭籠の炭を、もっと存分に、つごうではないか。それから、今までは、一部屋について、一昼夜炭何貫と、お定めがあったそうだが、火の気の倹約は、寒々しい。十分にお使い下さい。そしていちいち部屋
足軽や中間の小屋へ行っても、藤吉郎はその調子で、節約節約と、従来、やかましくのみいわれて、
「こんどの奉行は、いやに大まかじゃないか」
「察するところ、猿殿、一躍炭薪奉行に引き上げられたので、すっかり気を好くしてしまい、気前を見せているつもりだろうが、猿の上調子に乗ったりしていると、今にこっちまで、飛んでもない御叱責をくうかもしれぬぞ」
いくら寛大に放任しても、炭薪の使用などには、おのずから限度がある。家中の心理は、むしろ
清洲城の一年間の薪炭の使用料は、約千石の余を超えていた。領内の
藤吉郎はまず、その窮屈と萎縮から、家中の気もちを解放した。それから彼は、信長の前へ出て、こう建言した。
「とかく冬中は、御家中の
「むむ。そうか」
信長は、彼のことばを
彼の老臣は、
武具の手入れ、講習、禅の実修、領土内の交代巡視。||それから射撃槍術の奨励はもとより、城内の土木もやらせ、小者たちには、暇があると、馬の
要は。
一体、武将の気もちからすると、家中の侍たちは、わが子の如く可愛かった。かたく
いざ、
従って。
平時の日には、どうしても、つい寛大に流れやすかった。
また、
と、思いやるからであった。
しかし、信長は、それがかえって家臣らのためにも良くないことを考えていた折からなので、断じて、平時といえども、寸閑の暇もないように、修養や生活を正して、厳重に日課を励行させた。
同時に。
もちろん自分自身も。
そして或る時、藤吉郎が見えた折、やや得意そうな顔して云った。
「猿、どうじゃ近頃は」
「はッ。御威令の
「まだ足らんか」
「もう一層」
「どこがまだ不足か」
「御城内の
「む。なるほど」
信長は近頃、かなり藤吉郎のことばに、信を抱いて、聴くようになっていた。
なぜならば、彼のように、短い年月の間に、小者小屋から畳の上へ昇った例すら少ないのに、君前へ出て、
しかし、年額千石以上の炭薪の消費高は、その冬の半ばからもう目立って節約されて来た。いや、藤吉郎自身は、各部屋をまわる度に、
「冬は寒いもの、炭薪など、
と、大まかなことをいってはいたが、一面、家中一般に、暇がなくなったので、むだな炭火を費やして、炉を囲んでいる時間などなくなってしまったのである。
また、多少暇があっても、体を動かして、絶えず筋肉に緊張を持つと、自然、炭火などは不用な物になり、炊事その他の燃料もすべて簡略になって来て、一ヵ月の燃料が三ヵ月もある程、変って来た。
が||藤吉郎は、それでもまだ、自分の職分を達したものと、満足はしなかった。
来年の冬の炭薪は、夏山のうちに、山で買入れの契約をする。彼は、お城御用の
薪山の検地などは、従来から形式だけのものに過ぎない。
あの山の
この山のくぬぎ何本。
と、山商人に引っ張りまわされて克明に視て歩いたところで、一山から炭薪が何石とれるか、
百姓仕事や、町のことなら、何でも心得ているつもりだが、藤吉郎にも炭薪のことなどは、仔細に分っていなかった。
「む、む。左様か。||なるほど、なるほど」
彼も、従来の慣例どおり、ざっと歩いて、形式だけで降りて来た。
「今日は、お奉行様始め、御大儀さまにござりました」
「さだめし、お疲れのことで」
「何の設けもございませぬが、こよいは
「そして、この後とも宜しくひとつ」
こもごもに挨拶やら
勿論、酌人も揃っている。どこの
「よい酒じゃ」
藤吉郎は、悦に入っている。悪い気もちであろう筈はない。
「美人だな。どれもこれも」
と、いった。
商人のひとりが、
「お奉行様にもやはり、
畏る畏る戯れると、当り前なことを訊く||といわないばかりに、藤吉郎は真面目くさって、
「女子もすき、酒もすきじゃ。世の中にある物はみなよいな。ただ心せぬと、よいものも
「仇にならぬ程に、どうぞお気に召しましたら、酒なと、花なと」
「よしよし。気随気ままにさせて貰おう。||ところで、その方ども、商売のはなしは一向にせんが、察するところ、遠慮しておるとみえる。では、この方から切り出すが、きょう歩いた山の
「どうぞ御覧遊ばして」
「ふム、明細じゃの。木の数はこれで相違ないのか」
「相違ございませぬ」
「これで
「昨年よりは、お納めの
翌朝、商人たちが、お奉行の御機嫌伺いというので来てみると、藤吉郎は、朝まだ暗いうちに起きて、山へ行ったというので、驚いて彼らは山へ追って行った。
見ると。
藤吉郎は、足軽や附近の

縄数は最初に何千本と分っていた。それが終って、残部の計算をしてみると、立木の数がすぐに知れる。台帳に記載してある立木の数と、実際の数とを照し合わせてみると、ほとんど、三分の一以上も、数量には懸値があった。
「商人どもを皆ここへ呼び集めろ」
藤吉郎は、木の切株に腰をすえて、下役の者に
商人たちは、平伏した。
何を云い出されるかと、内心
いくら山を検分しても、立木の数など、
「商人ども」
「へい······」
「この台帳の数と、実際の木の数とは、だいぶ違うではないか」
「······はあ」
「はあではない。これは如何なるわけだ。その方どもは、多年の御恩顧を、ありがたいとは思わず、かえって利に
「······め。滅相もない」
「然らば、何でこのように数が違うのか。このままの数で炭薪をお納めするからには、御納庫になる品も、百
「いえ、なかなか、そのような
「だまれ。多年山より炭薪を
「恐れ入りました」
「一同の家財を没収し、断罪にしてもよいところだが、今までの役人方の手落ちもある。この度だけは、見のがして遣わすが、
「畏りましてござります」
「||が、それだけでは、
「へい」
「古語にもある。一本の木を伐らば、十本の木を植えよと。||昨日よりこの地方の山を見るところ、年ごとに
「はい······」
「その税として、また、今日まで暴利をむさぼった罰として、今後、千本の木を伐り出す時は、五千本の苗を必ず差し出すこと。固く申しつけるが、どうじゃ、不服か」
「ありがとう存じまする。それでお
「うム。然らば、人足料として、台帳に書き出しの数量に、五分の割増しは認めて遣わすであろう」
それからまた、その日、手伝わせた百姓たちには、伐木の跡の植林をいいつけて、苗百本について
「さ、帰ろう」
と、藤吉郎に
「驚いたなあ。こんどのお奉行には、うっかりできぬぞ」
「だが、分ったお方だ」
「今までのように、ぼろいわけにはゆかないが、といって、損はしない。まあ地道にやろう」
山を降りながら、
「お役が終った。今夜はわしに
と町の旅舎へ、一同を引っ張って来て、ゆうべの返礼に、馳走を振舞い、お奉行の彼もいい機嫌に酔って、すっかり
彼は、愉快だった。
ひどく独りで
||というわけはその日、
「猿」
と、例によって信長に呼ばれ、信長からこういう言葉をうけたからだった。
「台所方は、そもそも、経済を旨とする所なのに、その台所に、そちのような奴を置くのは、大の不経済と申すものだ。以後
そして、
彼は、
早速、以前の同役、がんまくの小屋をたずねた。
がんまくはまだ、草履取をしていた。
「どうだ、暇はないか」
「なんで?」
「城下へ参って、
「ま。遠慮しましょう」
「どうして」
「木下殿には、今では、台所奉行というお役。このがんまくは、以前に変らぬ草履取。あなたの
「ひがむな。||そんな気持なら、真っ先に訪ねては来ない。実は、身に過ぎたお取り立ての上にもまた、今度は、お
「ほ······」
「小者小屋にはいても、おぬしの忠義な心底を、おれは頼もしく思っている。||で、歓びを分ちたいのだ。どうだ、来ないか」
「それはめでたい。||だが藤吉郎殿、おぬしは俺より正直者だな」
「む。なぜ」
「おぬしは何事も、おれに打ち明けて包むことがないが、わしは実は、多分におぬしへ隠していた。本当のところをいうと、わしはお草履取はしていても、例の······時折特別な御用を勤めるので、殿のお
「ふム······
「
「ははあ、
「柘植村は
「ああ、そうか」
「だから、貴公に
「そうか。知らなかった」
「まだ、風雲はこれからだ」
「そうとも、これからだ」
「預けておこう。将来へ」
「いや、よかろう」
藤吉郎は、そこでまた、よけいに愉快になって来た。
実に、社会は明るい。
彼の見る
怖ろしい秘密性を持つ
きょう沙汰された
彼は、それが
(経済を旨とする台所方に、そちのような奴を置くのは、そもそも大の不経済||)
こう信長からいわれたのは、何にしても、忘れられない歓びだった。||信長公もまた、うまいことを仰っしゃる大将ではある||と感心しながらも、
いわゆる、おめでたい男に、
独りで、にやにやと、時々、笑くぼを
町を歩くにも、得意であった。
ここ五日は、転役を機会に、彼の体には、休日を与えられていた。||その間に、拝領した屋敷に||どうせ侍小路のうちでも最も小さい、門と垣と五間ぐらいな小屋敷だろうが||それにしても家財を備えつけ、婆やと
「生れて初めて、一戸の主人となるのだ。その家を見ておこうか」
こう考えて、道を変えた。
附近は、お
「まだ、お独りでいらっしゃいますか」
と、訊くので、
「独り者でござる」
ありのままに答えると、
「では、何かと、御不便でございましょう。宅には、召使もおり、家具の余分なものもありますから、何なと、お入り用なものはお持ち下さいませ」
親切な奥方であった。藤吉郎は、いずれ充分、わがままなお願いに出るでしょう、とあらかじめ頼んで、門を出た。
すると、奥方は、自身わざわざ門の外まで出て来て、二人の中間を呼び、
「新規に、お
と、いいつけてくれた。
で||藤吉郎は、中間に案内されて、これからのわが家になる官舎へ行ってみた。
想像以上、大きい家なので、
「ほう······これは立派な家だ」
と、門へ向って
聞けば、前には、
「裏は、桐畑でござるな。これも何やら
彼自身も、気がついていることであるが||とかく機嫌がよい時は調子づいて、そう必要もないことをも、また、
口から出てしまった後で、
(こいつ、いい程なことをいう)
と、自分で
しかし、専ら、
(猿めは、
という一部の評も、その辺に原因していた。
そして、彼自身でもまた、
(そうだ。おれは、法螺ふきでないこともないな)
と、認めていた。
だが、そのために、彼の全部を誤認してしまったり、また、毛嫌いしたりした小心な潔癖家は、遂に、彼の大きな生涯の同伴者にはなれない人々だった。
||それからしばらくすると、彼の姿は、清洲の町の、繁華な中心地に見出された。
家具なども買ったらしい。
また古着店の前で、ふと立ち止まったら、偶然、桐の紋のついた陣羽織があったので、値を訊いてみた。
「安い」
彼はすぐ買って、すぐそこで着てみた。||すこし長いがみッともない程ではあるまいと、着て歩いた。
陣羽織といっても、
「見せたいなあ、母上に」
自分の姿を||そう思う。
ここらの繁華な町を歩けば、また感慨にたえないものがあった。
新川の茶わん屋に奉公していた頃のことだ。
そこには、京織の上等な呉服ものが、棚に並んでいた。
何を買ったか、彼は、
「では、相違なく、届けてくれよ」
と、代金をおいて、外へ出て来た。彼の
||
と、青貝で文字を埋めた立派な看板が、
「饅頭をくれい」
藤吉郎は、今そこから着て来たばかりの、大きな桐の紋を背負って、混み合っている客の中へはいった。
「いらっしゃいまし。ここでおあがりなさいますか、お土産でございますか」
藤吉郎は、一つの
「両方だよ。先にここで喰べる分を一盆。それからべつに、使いの駄賃は出すから、中村へ行くついでの馬子にでも頼んで、中村のわしの家へ、饅頭一折||大きな折に入れてな、届けておいてもらいたいのだ」
後ろ向きに働いていた店の亭主らしい男が、
「おう、旦那様で。まいどありがとうございます」
「よう。相変らず繁昌だな。今も例のところへ、届ける折を、頼んだところだが」
「はいはい。中村へは、よくこの辺からついでの衆もございますし、中村の衆も、お寄り下さいますから」
「いつでもいい、頼んでおくぞ。||それから、この手紙を、饅頭の折の中へ、入れてやってくれ」
藤吉郎は、
母上へ とうきちろう
と、封の上に書いてあった。店の者は、手にとって、「何か、お急ぎの御用でも」
「なに、早いに越したことはないが、いつでもよい。何しろ、わしの母ときては、以前からここの
云いながら、彼も、一つ頬張った。
だが、彼にとると、その饅頭の味には、すぐ涙を催して来るような思い出があった。
母の好きな饅頭||
買ってやりたいが。自分も喰べたいが。と
「やあ。木下殿ではないか」
若い娘づれの武士。さっきからこちらを見ていたが、彼が、盆の饅頭を
「おお。これは」
藤吉郎は、
が||場所は、城内とちがい、町の米饅頭屋の土間なので、又右衛門も、きょうは気軽だった。
「おひとりかな」
「はい。一人で」
「こちらの
「ほ。お嬢様も」
藤吉郎は、横を見た。
すぐ床几一つ
麗人||といったが、藤吉郎も女にかけては、かなり鋭い審美眼を備えている。あながち、彼の眼だけにそう見える女性ではなく、誰が見ても、
(美人!)
と、迷わずに云い切れる程な||それは十人並み以上の娘だった。
寧子と書いて、ねねと
又右衛門は、藤吉郎を誘って、その明眸の持主の前へ連れて来た。
「
「はい」
「こちらは、木下藤吉郎どのというて、この度、御台所御用人から、お
「······はい。あの」
寧子は、顔を染めて、
「木下様には、初めてではございませぬ」
「何。知っておる······?」
「ええ」
「いつ、どこで」
「お手紙をいただきましたり、また、お贈物をいただいたりして」
又右衛門は、仰山に驚いた顔をして、
「これは
「わたくしからは、差し上げたことはございませんが」
「それにせよ、父のわしへ、黙っておるなど、
「いいえ、お母様には、いちいち申し上げてございます。お母様は、度々のお贈物などは、かたくお断りいたしていらっしゃいますが、お節句の、正月のという度に、木下様からは、よく頂戴物をいたします。······お父様からも、お礼を申しあげて下さいませ」
「ふーむ」
と、又右衛門は、娘の顔と、藤吉郎の顔を見くらべて、
「いや、男親という者は、
「いや、どうも」
藤吉郎は、大きく後ろへ手をまわして、頭を掻いた。
非常なてれ方だった。
しかし、苦労人の浅野又右衛門が、笑ってくれたので、いささか救われた顔だったが、それにしても、真っ赤になった顔はなかなかさめなかった。
事実。
||で、中村の母と共にいる姉の所へ、時折、帯や反物など求めて届けてやるついでに、寧子の許へも、身に過ぎた