||時刻は宵の五ツ前。
||場所は吉原仲之町。
それも江戸の
だのに突如として色里に野暮な叫び声があがりました。
「待て、待て、待たぬかッ。うぬも二本差しなら、売られた喧嘩を買わずに、逃げて帰る卑怯者があるかッ。さ! 抜けッ、抜けッ。抜かぬかッ」
それもどうやら四十過ぎた分別盛りらしいのを筆頭に、何れも肩のいかつい二本差しが四人して、たったひとりを追いかけながら、無理無体に野暮な喧嘩を仕掛けているらしい様子でしたから、どう見てもあまりぞっとしない話でしたが、売られた方ももうそうなったならば、いっそ男らしく抜けばいいのにと思われるのに、よくよく見るとこれが無理もないことでした。||年はよくとって十八か九、どこか名のあるお大名の
だからというわけでもあるまいが、なにしろ一方は見るからに
「
可哀そうに若衆は、
「相済みませぬ。相済みませぬ。先を急がねばなりませぬゆえ、お許しなされて下さりませ。もうお許しなされて下さりませ」
「何だとッ? では、貴様どうあっても抜かぬつもりかッ」
「はっ、抜くすべも存じませぬゆえ、もうお目こぼし下されませ」
「馬鹿者ッ、抜くすべも知らぬとは何ごとじゃ、貴様われわれを愚弄いたしおるなッ」
「どう
「ならぬならぬ! そう聞いてはなおさら許す事
||これで見ると喧嘩のもとは、若衆の姿が柔弱なので、それが無闇と癪に障ってならぬと言うのがその原因らしいのですが、いずれにしても脅迫されているのは只ひとり、している他方は四人という取り合せでしたから、同情の集まるのはいつの時代も同じように弱そうなその若衆の方で、
「ま! お可哀いそうに。ああいうのがきっと甚助侍と言うんですよ」
「違げえねえ。あのでこぼこ侍達め、きっといろに振られたんだぜ」
「なんの、あんなのにいろなんぞあってたまりますかい。誰も女の子がかまってくれねえので、八ツ当りに喧嘩吹っかけたんですよ」
しかし言うは言っても只言うだけの事で、悲しい事に民衆の声は、正義の叫びには相違ないが、いつも実力のこれに相伴わないのが遺憾です。芝居や講談ならばこういう時に、打ちかけ姿の太夫が降って湧いて、わちきの身体に傷をつけたら
と||、誰が言い出したものかその時群集の中から、残念そうに呟いた伝法な声がきこえました。
「畜生ッ、くやしいな! こういう時にこそ、
「違げえねえ違げえねえ。いつももう、お出ましの刻限だのにな」
誰の事かよく分らないが、この呟きで察すると、長割下水のお殿様なる者は、よッ程この五町街では異常な人気があるらしいのです。しかし騒ぎの方は、それらのざわめきが聞えるのか聞えないのか、なおしつこく四人の者がひたすらにわび入っている若衆髷をいじめつづけるのでした。
「馬鹿者ッ。詑びたとて
「あっ! お越しのようでござりまするぞ! お越しのようでござりまするぞ! な、ほら長割下水のお殿様のようでござりまするぞ!」
「え? ど、どう、どこに? ||なる程ね、お殿様らしゅうござんすね」
「そうですよ。そうですよ。あの歩き方がお殿様そっくりですよ」
それと見て駈け寄ったのは、お通し物の出前持かなんかであるらしい伝法な兄哥でした。もう顔馴染ででもあるかして、駈けよるとざっくばらんに言いました。
「殿様殿様! いいところへおいでなせえました。早く来ておくんなさいよ」
と||、頭巾の中からいとも静かに落ちつき払った声がありました。
「うろたえて何ごとじゃ」
「だって、これをうろたえなきゃ、何をうろたえたらいいんですか! ま、あれを御覧なせえましよ」
「ほほう、あの者共も退屈とみえて、なかなか味なことをやりおるな」
「相変らず落ちついた事をおっしゃいますね。味なところなんざ通り越して、さっきからもうみんながじりじりしているんですよ。あんまりあの四人のでこぼこ共がしつこすぎますからね」
「喧嘩のもとは何じゃ」
「元も子もあるんじゃねえんですよ。あっしは初めからこの目で見てたんだから、よく知ってますがね、あの若衆の御主人様が、お
「ほほう、なかなか洒落れた事を申しおるな。それで、わしに何をせよと申すのじゃ」
「知れたこっちゃござんせんか。あんまり可哀えそうだから、何とかしてあの若衆を救ってあげておくんなさいよ」
「迷惑な事になったものじゃな。どれどれ、では一見してつかわそう||」
一向に無感激な物腰で、ふところ手をやったままのっそり人垣の中へ這入ってゆくと、じろり中の様子を一
「折角じゃが、どうやらわしの助勢を待つ迄の事はなさそうじゃよ」
「なんでござんす! じゃ、殿様のお力でも、あの四人には
「ではない、あの若者ひとりでも沢山すぎると申すのじゃ」
「冗談おっしゃいますなよ! 対手はあの通り強そうなのが四人も揃っているんだもの、どう見たって若衆に分があるたあ思えねえじゃござんせんか」
「それが大きな見当違いさ。ああしてぺこぺこ詑びてはいるが、あの眼の配り、腰の構えは、先ず免許皆伝も
言うか言わないかの時でした。しきりと詑びつづけているのに、対手の四人はあくまでも許そうとしなかったので、若衆はその執拗さに呆れたもののごとく、一二歩うしろへ身を引くと、やんわり片手を飾り造りの
「けだ物共めがッ、人間の皮をかむっているなら、も少し聞き分けがあるじゃろうと存じていたが、それ程斬られて見たくば、所望通り対手になってつかわすわッ。抜けッ、抜けッ、抜いて参れッ」
「けだ物共とは何ごとじゃ! 抜きさえすればそれで本望、では各々、用意の通りぬかり給うな」
四十がらみの分別盛りが下知を与えると、唯の喧嘩と思いきや、意外にもすでに前から計画してでもあったかのごとくに諜し合せながら、ぎらりと
それと見てにんめり微笑しながら、静かに呟いたものは長割下水のお殿様と言われた不審の宗十郎頭巾です。
「ほほう、あの若衆髷、
「小僧! 味な真似をやったなッ」
それと見て残った四十がらみが、うで蛸のごとく真赤になった時、どかどかと人込みを押し割って、門弟らしい者を六七人随えた、一見剣客と思われる逞しい

「腑甲斐ねえ奴等だな! こんな稚児ッ小僧ひとりを持てあまして何とするかッ。どけどけ。仕方がねえから俺が
聞くと同時に、先刻からの伝法な兄哥がやにわに、長割下水の殿様と称されている不審な宗十郎頭巾に、かきすがるようにすると、けたたましく
「いけねえいけねえ! 殿様、ありゃたしかに今やかましい道場荒しの
「ほほう、あの浪人者が赤谷伝九郎か、では大人気ないが、ひと泡吹かしてやろうよ」
それを耳にすると、初めて宗十郎頭巾がちょッと色めき立って、静かに呟きすてながら、のっそり人垣の中へ割って這入ると、騒がず、若衆髷をうしろに庇ったかとみえたが、おちついた錆のある冷やかな言葉が、ゆるやかにその口から放たれました。
「くどうは言わぬ、この上人前で恥を掻かぬうちに、あっさり引揚げたらどうじゃ」
「なにッ。聞いた風な
「そうか、わしが分らぬか。手数をかけさせる下郎共じゃな。では、仕方があるまい。この顔を拝ましてつかわそうよ」
静かに呟き呟き、おもむろに頭巾へ手をかけてはねのけたと見るや刹那! さッとそこに、威嚇するかのごとく浮き上がった顔のすばらしさ! くっきりと白く広い額に、ありありと刻まれていたものは、三日月形の三寸あまりの刀傷なのです。それも
と見るや不審です。
道場荒しの赤谷伝九郎と言われた剣客らしい奴が、じろじろとその眉間の傷痕を見眺めていましたが、おどろいたもののごとくに突然ぎょっとすると、うろたえながら下知を与えました。
「悪い奴に打つかりやがった。
しかも自身先に立って刄を引くと、周章狼狽しながら、こそこそと群衆の中に逃げかくれてしまいました。
まことに不思議と言うのほかはない。恐るべき傷痕の威嚇と言うのほかはない。||いや、不思議でもない。不審でもない。当然でした。赤谷伝九郎ならずとも、眉間のその三日月形がちらりとでも目に這入ったならば、逃げかくれてしまうのが当然なことでした。なにをかくそう、このいぶかしかった若
「ほほう、若者までが消え失せるとは少し奇態じゃな」
いぶかしそうに首をかしげていましたが、やがて静かにまた頭巾をすると、両手を懐中に素足の雪駄を音もなく運ばせて、群衆達の感嘆しながらどよめき合っている中を、悠然として江戸町の方へ曲って行きました。
だが、曲るは曲って行ったにしても、
退屈! 退屈! 不思議な退屈! 何が彼をそんなに退屈させたか?||言わずと知れたその原因は、古今に稀な元禄という泰平限りない時代そのものが、この秀抜な直参旗本を悉く退屈させたのでした。今更改まって説明する迄もなく、およそ直参旗本の本来なる職分は、天下騒乱有事の際をおもんぱかって備えられた筈のものであるのに、小癪なことにも江戸の天下は平穏すぎて、腹の立つ程な泰平ぶりを示し、折角無双な腕力を持っていても、これを生かすべき戦乱はなく、ために栄達の折もなく、むしろ過ぎたるは及ばざるに
しかし、主水之介は退屈しているにしても、世上には一向に退屈しないのがいるから、皮肉と言えば皮肉です。

瓜や
アリャ、メデタイナ、メデタイナ
「ウフフ······。他愛のない事を申しおるな。いっそわしもあの者共位、馬鹿に生みつけて貰うと仕合せじゃったな||」
ききつけて主水之介は悲しげに微笑をもらすと、やがてのっそりと道をかえながら、
と||、その出合がしら、待ち伏せてでもいたかのごとくにばたばたと走り出ながら、はしたなく言った女の声がありました。
「ま! さき程からもうお越しかもうお越しかとお待ちしておりいした。今日はもう、どのように言いなんしても、かえしはしませぬぞ」
||声の主は笑止なことに身分柄もわきまえず、
「毎夜々々、うるさい事を申す奴よな。わしが
あっさりその手を払いすてると、悠然として
こうしてどこというあてもなく、ぶらりぶらりと二廻りしてしまったのが丁度四ツ半下り、||
屋敷は、
さればこそ居間へ這入って見ると、すでにそこには夜の物の用意が整えられていましたので退屈男はかえったままの宗十郎頭巾姿で、長い蝋色鞘すらも抜きとろうとせずに、先ずごろり夜具の上へ大の字になりました。
と||、その物音をききつけたかして、さやさや妙なる
「おや! 菊、そちは泣いているな」
図星をさされてか、はッとして、
「今迄一度もそのような事はなかったが、今宵はまたどうしたことじゃ」
「·········」
「黙っていては分らぬ。兄が無役で世間にも出ずにいるゆえ、それが悲しゅうて泣いたのか」
「·········」
「水臭い奴よな。では、兄が毎晩こうして夜遊びに出歩きするゆえ、それが辛うて泣くのか」
「·········」
「わしに似て、そちもなかなか強情じゃな。では、もう聞いてやらぬぞ」
と||、もじもじ菊路が言いもよって、どうした事かうなじ迄もいじらしい紅葉に染めていましたが、不意に小声でなにかを恐るるもののごとくに念を押しました。
「では、あのおききしますが、お兄様はあの決して、お叱りなさりませぬか」
「突然異な事を申す奴よ
「きっとでござりまするな」
「ああ、きっと叱りはせぬよ。いかがいたした」
「では申しまするが、わたくし今、一生一度のような悲しい目に、合うているのでござります······」
「なに? 一生一度の悲しい目とな? 仔細は何じゃ」
「その仔細が、あの······」
「いかがいたした」
「お叱りなさりはせぬかと思うて恐いのでござりますけれど、実はあの、お目をかすめまして、この程から、さるお方様と、つい契り合うてしもうたのでござります」
「なに! なに! ほほう、それはどうも容易ならぬ事に相成ったぞ。いや、まて、まて、少々退屈払いが出来そうじゃわい。今坐り直すゆえ、ちょッとまて! それで、なんとか申したな。この程からさるお方様と、どうとか申したな。もう一度申して見い」
「ま! いやなお兄様! そのような事恥ずかしゅうて、二度は申されませぬ」
「ウフフ、赤くなりおったな。いや、ついその、よそごとを考えていたのでな、肝腎なところをきき洩らしたのじゃ。そう言い惜しみせずに、もそっと詳しいことを申してみい」
「実はあの、さるお方様と、お兄様のお目をかすめまして、ついこの程から契り合うたのでござります」
「ウフフ。そうかそうか。偉いぞ! 偉いぞ! まだほんの小娘じゃろうと存じていたが、いつのまにか偉う出世を致したな。いや天晴れじゃ天晴じゃ。兄はこのようにして
「いえ、そのような事はあとでもよろしゅうござりますゆえ、それより早う大事な事をお聞き下さりませ。実は、毎晩お兄様がお出ましのあとを見計らって、必ずお越し下さりましたのに、どうしたことか今宵はお見えにならないのでござります······」
「なんじゃ、きつい用事を申しつくるつもりじゃな。では、この兄にその方をつれて参るよう、恋の使いをせよと言うのじゃな」
「ま! そのような冗談めかしい事ではござりませぬ。いつもきっと五ツ頃から四ツ頃迄にお越し遊ばしますのに、どうしたことか今宵ばかりはお見えがございませなんだゆえ、打ち案じておりましたところへ、お使いの者が飛んで参られまして、ふいっとそのお方様がお
「なに?
「お兄様がお帰り遊ばしましたほんの四半
「ほほうのう||」
少しこれは世の中が退屈でなくなったかなと言わぬばかりに、しみじみとした
「よし、相分った。では、この兄の力を貸せと申すのじゃな」
「あい······。このような
「そうか。いや、なかなか面白そうじゃわい。わしはろくろく恋の味も知らずにすごして参ったが、人の恋路の手助けをするのも、存外にわるい気持のしないもののようじゃ。それに、ほかの探し物ならわしなんぞ小面倒臭うて、手も出すがいやじゃが、人間一匹を拾い出すとは、なかなか味な探し物じゃわい。心得た。いかにもこの兄が力になってつかわすぞ」
「ま! では、あの、菊の願い叶えて下さりまするか」
「自慢せい。自慢せい。そちも一緒になって自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は人並以上に退屈するが、いざ起つとならばこの通り、
「ま! うれしゅうござります、嬉しゅうござります! では、あの、今よりすぐとお出かけ下さりまするか」
「
「
「えろう優しい名前じゃな。では、その、京弥どのとやらを手土産にして拾って参らばよいのじゃな」
「あい······、どちらになりと御気ままに······」
「真赤な顔をいたして可愛い奴めが! どちらになりとはなにを申すぞ、首尾ようつれて参ったら、のろけを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ」
愛撫のこもった
表は無論もう九ッすぎで[#「九ッすぎで」はママ]、このあたり唯聞えるものは、深夜の空にびょうびょうと不気味に吠える野犬の唸り声のみでした。その深い闇の道を退屈男は影のみの男のように、足音も立てずすいすいと宮戸川べりに沿いながら行くこと七丁||。波も死んだようでしたが、そこの岸辺の一郭に、目ざした榊原大内記侯のお下屋敷を発見すると、俄然、爪先迄も
と||、御門前迄近よった時、ちかりと目に這入ったものはその
「ゴモンバン||こりゃ、ゴモンバン||」
屋敷が隅田川へのぞんだ位置であったとこへその呼び方が並大抵な呼び方ではなく、さながら河童ガ淵の河童が人を淵の中へ呼び入れる時に呼んだ声は、こんな呼び声ではなかったろうかと思われるような、気味わるく陰にこもった声で御門番とやったので、番士は少々ぞっとしたらしく、
「||変だな、たしかに今気味のわるい声で呼びやがったがな。気のせいだったかな」
のぞいて、姿のないのに、いぶかりながらまた将棋盤に向ったらしいのを見すますと、退屈男の同じ不気味な声色が深夜の空気をふるわして陰々と聞えました。
「ゴモンバン||こりゃ、ゴモンバン||」
「畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ」
「||ゴモンバン、こりゃ、ゴモンバン」
とうとう癇にさわったに違いない。
「ふざけた真似をしやがって、どこの河童だ。化かそうと思ったって化かされないぞ!」
「痛え! うぬか! 河童の真似をしやがったのはうぬかッ」
叫ぼうとしてもがいた口へ、手もなく平手の蓋を当てがっておきながら、軽々と小脇へ抱え込んで、悠々と門番詰所へ上がってゆくと、ぱらりと覆面をはねのけて、これを見よと言わぬばかりに番士の目の前へさしつけたものは、吉原仲之町で道場荒しの赤谷伝九郎とその一党をひと睨みに疾走させた、あの、三日月の傷痕鮮やかな、蒼白秀爽の顔ばせでした。
「よッ、御貴殿は!」
「みな迄言わないでもいい。この傷痕で誰と分らば、素直に致さぬと諸羽流正眼崩しが物を言うぞ。当下屋敷に勤番中と聞いた霧島京弥殿が行方知れずになった由承わったゆえ、取調べに参ったのじゃ、知れる限りの事をありていに申せ」
「はっ、申します······、申します。その代りこのねじあげている手をおほどき下さりませ」
「これしきの事がそんなにも痛いか」
「骨迄が折れそうにござります······」
「はてさて大名と言う者は酔狂なお道楽があるものじゃな。御門番と言えば番士の中でも手だれ者を配置いたすべきが
「かれこれ四ツ頃でござりました、宵のうち急ぎの用がござりまして、出先からお帰りなされましたところへ、どこからか京弥どのに慌ただしいお使いのお文が参ったらしゅうござりました。それゆえ、取り急いですぐさまお出かけなさりますると、その折も手前が御門を預かっていたのでござりまするが、出かけるとすぐのように、じきあそこの門を出た往来先で、不意になにやら格闘をでも始めたような物騒がしい叫び声が上りましたゆえ、不審に存じまして見調べに参りましたら、七八人の黒い影が早駕籠らしいものを一挺取り囲みまして、逃げるように立去ったそのあとに、ほら||ごらん下さりませ。この脇差とこんな手紙が落ちていたのでござります。他人の親書を犯してはならぬと存じましたゆえ、中味は改めずにござりまするが、手紙の方の上書には京弥どのの宛名があり、これなる脇差がまた平生京弥どののお腰にしていらっしゃる品でござりますゆえ、それこれを思い合せまして、もしや何か身辺に変事でもが湧いたのではあるまいかと存じ、日頃京弥どののお立廻りになられる個所を手前の記憶している限り、いちいち人を遣わして念のために問い合せましたのでござりますが、どこにもお出廻りなさった形跡がござりませぬゆえ、どうした事かと同役共々に心痛している次第にござります」
「ほほう、それゆえわしの留守宅にも、問い合せのお使いが参ったのじゃな。では、念のためにそれなる往来へおちていたとか言う二品を一見致そうぞ。みせい」
手に取りあげて見調べていましたが、脇差はとにかくとして、不審を打たれたものは手紙の裏に小さく書かれてあった、菊||と言う女文字です。
「はてな||?」
愛妹の菊路ではないかと思われましたので、ばらりと中味を押しひらいて見ると、取急いだらしい短い文言が次のごとくに書かれてありました。
「||大事
いぶかりながら、しげしげと見眺めていましたが、ふと不審の湧いたのはその筆蹟でした。妹菊路は彼自身も言葉を添えてたしかにお家流を習わした筈なのに、手紙の文字は似てもつかぬ金釘流の稚筆だったからです。のみならず
「馬鹿者達めがッ。にせの手紙を使ったな」
途端||。
「御門番どの、只今帰りましてござります。おあけ下されませい」
言う声と共に、番士があたふたと駈け出していった容子でしたが、御門を開けられると同時に、不審な一挺の空駕籠が邸内に運び入れられたので、当然退屈男の鋭い眼が探るごとくに注がれました。
と||、これがいかにも奇態なのです。
「道理で
呟いていたかと見えましたが、間をおかないで鋭い質問の矢が飛びました。
「その駕籠は、誰をどこへ連れ参った帰り駕籠じゃ」
「これは、その、何でござります······」
「お上屋敷へ急に御用が出来ましたゆえ、御愛妾のお杉の方様が今しがた御召しに成られての帰りでござります」
「なに? では、当下屋敷には御愛妾がいられたと申すか」
「はっ、少しく御所労の気味でござりましたゆえ、もう久しゅう前から御滞在でござります」
「ほほうのう、お大名というものは、なかなか意気なお妾をお飼いおきなさるものじゃな」
皮肉交りに呟いていましたが、御愛妾が病気保養に長い事滞在していて、同じ屋敷に名前を聞いただけでも優男らしい霧島京弥というような若者が勤番していて、その上、御愛妾は上屋敷へ行ったと言うにも拘らず、駕籠のもってかえった提灯の紋様は曲輪仕立ての意気形でしたから、早くも何事か見透しがついたもののごとく、退屈男のずばりと言う声がありました。
「その駕籠、暫時借用するぞ」
「な。な、なりませぬ。これは
「控えい、下々の者とは何事じゃ、
威嚇するかのごとくに言いながら、ずいと垂れをあげて打ち乗ると、落ち着き払って命じました。
「さ、行けッ。行けッ。今そち達が行って帰ったばかりの
かくして乗りつけたところは、
「早乙女主水之介、また罷り越すぞ」
会所の曲輪役人共を尻目にかけながら、ずいとくぐりぬけて、さっさと
喜び上がったのは無論水浪です。小格子女郎のところへなぞはどう間違ったにしても、舞い降りて下さる筈もないお直参の旗本が、それを向うから登楼したので、悉く思い上がりながら仇めかしく両頬を
「ま! よう来てくんなました。では、あの、わちきの願いを叶えて下さる気でありいすか」
「まてまて。叶える叶えないは二の次として、ちとその前に頼みたい事があるが、聞いてくれるか」
「ええもう、
「左様か、かたじけない、かたじけない。丸に丁の字を染めぬいた看板の持主はどこの太夫さんじゃったかな」
「ま! 曲輪がお家のような主さんでありいすのに。その紋どころならば、王岸楼の丁字花魁ではありいせぬか」
「おう左様か左様か。その丁字花魁の様子をこっそり探って来てほしいのじゃがな。いってくれるか」
「そしたら、わちきの願いも叶えてくんなますかえ」
「風と
喜び勇みながら出ていったと思うやまもなく色めき立って帰って来ると、おどろくべき報告をいたしました。
「いぶかしいお客様方ではありいせぬか、丁字さんのところには、由緒ありげな
「なにッ、若衆に女子の客とな?||ご苦労じゃった。今宵は許せ。また会うぞ」
颯爽として立ち上がると、例の宗十郎頭巾のままで、ただちに行き向ったところは揚屋町の王岸楼でした。
「主水之介じゃ。丁字太夫にちと急用があるによって、このまま通って行くぞ」
言いすてながらずかずかと上がって行くと、言葉もかけずにさっと丁字太夫の部星の障子を押しあけました。と同時に目を射たものは、何たる沙汰の限りの光景でしたろう! そこの部屋の隅に、殆んど慄えるばかりに身体を小さく縮こまらせている美しいお小姓に向って、左右から二人の女が威嚇し、叱り、すかしつつ、呑めぬ茶屋酒を無理強いに強いつつあったからでした。ひとりの
「そなたが霧島京弥どのか」
「あっ! あなた様はあの······」
頭巾姿でそれと知ったものか、恥じ入るようにもじもじと赤くなりながら言おうとしたのを、主水之介は言うなとばかり手で押さえておいて、ばらりと頭巾を払いのけると、蒼白秀爽なあの顔に無言の威嚇を示しながら、黙ってお杉の方をにらみつけました。
「ま! その三日月形の傷痕は······」
「身をかくそうとしても、もうおそうござるわ!」
おどろいて逃げ出そうとしたお杉の方をずばりと重々しい一言で威嚇しておくと、京弥の方へ向き直ってきき尋ねました。
「先程、仲之町で消え失せたのは、菊路の兄がわしと知ってはいても、会ったことがなかったゆえに、見咎められては恥ずかしいと、それゆえ逃げなさったのじゃな」
「はっ······、御礼も申さずに失礼してでござりました」
「いや、そうと分らば却っていじらしさが増す位のものじゃ。もはやこの様子を見た以上聞かいでも
お杉の方に気がねでもあるかのごとく、もじもじと京弥が言いもよったので、退屈男は千
「大事ない! 早乙女主水之介が天下お直参の威権にかけても後楯となってつかわすゆえ、かくさず申して見られよ」
「では申しまするが、お杉の方が久しい前から手前に||」
「身分を
「はっ······。なれども、いかに仰せられましょうと、
「ほかに契り交わした者があるゆえ、その者へ操を立てる上にもならなかったと、申さるるか」
「はっ······。お察しなされて下されませ」
「いや、よくぞ申された。それ聞かばさぞかし菊路も||いや、その契り交わした者とやらも泣いて喜ぶことでござろうよ。その者の兄もまたそれを聞かば、きっと喜ぶでござりましょうよ。だが、少し不審じゃな。お杉の方と言えば仮りにも十二万石の息のかかったお愛妾。にも拘らず、かような場所へそこ
「別にそれとて不審はござりませぬ。こちらの丁字様は以前お屋敷に御奉公のお腰元でござりましたのが、故あってこの
言ったとき||、物音で知ったものか、
「さてはうぬが、この淫乱妾のお先棒になって、京弥どのを
「よよッ、又しても悪い奴がかぎつけてまいったな! 宵の口にも京弥めを今ひと息で首尾よう掠おうとしたら、要らぬ邪魔だてしやがって、もうこうなればやぶれかぶれじゃ。斬らるるか斬るか二つに一つじゃ。抜けッ、抜けッ」
愚かな奴で場所柄も弁えず、矢庭と強刀を鞘走らしましたものでしたから、退屈男はにんめり冷たい笑いをのせていましたが、ピリリと腹の底迄も威嚇するような言葉が静かに送られました。
「馬鹿者めがッ、この三日月形の傷痕はどうした時に出来たか存ぜぬかッ」
だが伝九郎は、急を知ったと見えてどやどやとそこに門弟達が各々追ッ取り刀で駈けつけて来たので、にわかに気が強くなったに違いない。恐いものをも知らぬげに、ぴたり強刀を主水之介の面前に
「ウッフフ。並んでいるな。いや、御苦労じゃ。御苦労じゃ。では、京弥どの、今頃泣き濡れて生きた心持もせずに待ち焦れている者があるゆえ、先を急ごうよ。馬鹿者共の腐り血を見たとて、何の足しにもならぬからな。||それからお杉の方にひとこと申しておきますが、折角ながらこの可愛い奴は、手前が家の土産に貰って参りまするぞ。あとにて
言いつつすっぽりと
しかしその表には、仇めいた強敵が今ひとり退屈男を待ち伏せしていたのでした。それはあの散茶女郎の水浪で、姿を見るや駈けるようにしてその袖を捕らえにかかりましたので、退屈男は女の言葉がないうちに言いました。
「許せ許せ。先程の約束を果せと言うのであろうが、わしは至って
言いすてると袖を払って、さっさと道を急ぎました。
それだのに屋敷へかえりつくや、うなじ迄も赤く染めている菊路の方へ、これも一面の紅葉を散らしている京弥をずいと押しやるようにすると、至って
「わしの身体はごく都合がようてな、目に見て毒なものがあったり、耳に聞いて毒なものがあったりすると、じき
||こんな兄はない。ウフフという退屈男の