△日本海岸風景の特色は潟に集まる 日本海岸では風景の特色が潟に集まつて居ります。妙な事には太平洋岸の潟と日本海岸の潟とは趣が全く違つて居るのです。例へば鳴海潟や清見潟などの如きは遠淺で開いて居りますが、日本海岸の潟はすつかり之と趣を異にして居るのであります。一體日本の潟には二種ありますが、地理學者は多く一方の太平洋岸でいふ潟の意味に使つて居るのであります。併し北海岸を旅行しますると、潟の趣味を深く感ぜずには居られないのであります。
△潟の生成する原因 學理上から此原因を説いたならば面白い談話も出來るのでありますが、兎に角北海岸の潟は、潮差の少い事と、一定の方向、殊に海岸線に沿うた風の烈しい事とが、潟を作つた主な原因であらうと思ひます。此日本海岸には、潟が非常に澤山あつて、二十萬分一の地圖に載らないやうな小さい潟は實に無數でありますが、其大きいものに就て申しましても、オコツク海に面した北見の猿間湖の如きも、砂嘴を以て新に作られた潟であります。潟湖の特色は、其一片を作つて居る砂嘴が海岸線に沿うて出來て、それが灣口を塞ぐので出來るのであります。
△羽前の象潟 本土に入つては、先づ青森の十三潟と秋田の八郎潟とでありますが、此二つの潟は大きな潟ですが、自分は實地を調べて居りませぬ。それから南に下つて象潟は、松島を壓するといふ位風情のある景色であつたやうですが、文政年中鳥海山の噴火で以て、陸地と平行になつてしまひました。記録を見ますると、僅かな水道で海水と連なつて居つて、今の松島の多島海のやうに、松、紅葉、櫻などの繁茂せる數十の島が點綴して居つて、其間の水に鳥海山の雪が映るといふ艶麗な景色であつたらしい。今日は其潟が悉く水田になつてしまつて、當時此風景の中心であつた蚶滿寺といふ寺なども、今は枯木寒草の中に埋められて荒廢を極めて居るのです。
△越後の干潟 それから下つて越後に來ますと、潟の數が非常に多いのです。新潟が即ち地變を受けた潟の變じて干陸になつた一例であります。其證據には、砂丘と信濃川との間に廣い水澤の地を抱へて居るのを見てもわかるのであります。またそれから南の月潟などいふ潟は、角兵衞獅子の産地として有名でありますが、今は干潟となつて居ります。此傍に現存の潟があります。即ち北蒲原郡の泊潟、西蒲原郡の鎧潟を始め、現存して居る潟があるのですが、其周圍が次第々々に水田に占有せられつゝありまして、其一半を割いて交通路、漁網の刺地に當てゝあります。今の蒲原五郡の平地が、大部分は陸地と水との中間にあるといつてもよろしい。少しく雨の多い時は稻穗を沒する位の水が漲つて、到底舟でなければ田の中を歩くことが出來ない有樣であります。
△潟の生成變遷する地文上の趨向 此地方を歩いて見ますると、潟が出來てはまた無くなる地文上の趨向が善くわかるのです。全體に南から北へ海岸線に沿うて吹く風が常に多いと見えまして、信濃川でも阿賀川でも、川口が皆屈曲して西北に向つて水が入つて居ります。さうして漸次に左岸を飛砂の爲に壓迫されて、川筋を曲げつゝ行つた形跡がよくわかるのであります。
現に信濃川の如きも、上流十數里にある三條の町が、海岸を距ること僅かに三里計でありまして、其下流が殆と海岸と平行して流れて居るのです。隨つて此から下流の海岸は、彌彦の神山を除くの外は、總て砂丘から成立つといつても、差支がない。是を以て見ましても、同じ埋立の新田でも、廣島や蟹江の新田とは趣が異つて居ることがわかるのであります。
東海岸の新田は川口が吐く泥で出來る。北海岸は砂で先づ天然の潮除堤を作つて、その中が次第に干くやうになつて居ります。
△潟を見ざる越中の國 越中は、立山山脈の餘波を受けて、海岸までが傾斜地となつて居ります。汽車で海岸線を通過しますると、大小の河が、皆河上で突つ立つて眼前に駢列して居つて、地勢の頗る越後と異るものあるを示して居ります。隨つて海岸に陷沒地を作る餘地がありませぬから、潟が一つもありませぬが、能登から加賀へ移つて行きますと、又澤山な潟が現はれて居るのであります。
△能登の邑知潟と七尾灣 能登の邑知潟の如きは東西の二方から砂山で壓し付けられたやうな形で、以前能登半島が一の島であつた面影が、未だに歴然として殘つて居るのであります。能登の國府といふのは、丁度島の繼ぎ目に當つて居るのであります。七尾灣を船で歩いて見ますと、灣が深く入つて居る外、大小の島々が灣口に横はつて、如何にも潟の生成した有樣がよく分るのであります。幾千年か、數萬年の後かには、確に潟となるの運命を有すると思はれるのであります。
△加賀の河北潟と三湖 加賀の河北潟は北見の猿間湖と其状勢が酷似して居つて、殆と異る所を見ないのであります。海に通ずる口が小さくなれば久しからずして淡水の湖水となつて仕舞ふと思はれます。それから南に下つて三湖の如きも、成立の順序が少しも外の潟と異らない。海岸の丘陵、樹林、民家等が相錯綜して、遺憾なく潟の美點を發揮して居るのであります。しかも湖水の縁を水田が侵蝕して居る模樣は、天然と人間との交渉を研究するに於て非常に趣味があるのです。此地の景色は實に天下の美景で、北國人が大に誇とすべき所であらうと思ひます。
昔の安宅の關所趾が海中に沒して居るといふ説がありますが、予は北陸の海岸ではさういふ事があるとは思へない。もう少し南にあると信ずるのであります。
△北國門徒の聖地たりし吉崎の今昔 それから一つ下ると吉崎の北潟が、越前と加賀との境上に立つて大聖寺川の餘勢を借り、學問上非常に意味深い地形を作つて居る樣に見えるのです。吉崎の道場は、北國の門徒に取つては、恰かも基督教徒に於けるゼルサレムの樣な聖地であつて、今行つて見ても城廓のやうなお寺があるのです。吉崎が斯かる勢力を得た主なる原因は、此地が平調な北國の海岸に、稀に見るの港場であつて、交通の上から、中世の繁華を一手に集めて居つたからであります。然るに今日では海との縁が殆と絶えて唯寂寞たる門前町に變化して仕舞つたのです。土地の者に聞くと、此著しい變遷は主として近年福井侯が港口を占切つたからといつて居りますが、予には能く了解することが出來ない。兎に角海の口に横はつて居る鹿島と對岸なる濱坂の丘陵との間は、百年の昔までは

△若越の海岸と三方湖 越前の海岸は山脈が海に迫つて居つて、自から別樣の風景を示して居りますが、再び敦賀に參りますと、又非常に深い海灣が羅列して居るのです。殊に若狹に入りますと、岬と灣とは送迎に遑がない位で、然かも灣口は風向に僅かな差違のある事と、附近に澤山の砂を作る川のない事とによつて、海から鎖されることを免れて居るのであります。就中三方湖の如きは、古い時代に同一の手順を以て作られた潟であつて、郡の名が示す如く此潟が餘程著しい地方の特色をなして居るのであります。三方とは稱しまするが、實は潟が四つあるのです。唯其一は小さくて少しかけ離れて居りまするが、他の三つは連珠のやうに、南北に駢列して、海岸で幅三間計の川で以て海に續いて居るのであります。以前は此三湖の水が、各

此潟は四圍が稍

△天橋の風景 若狹から丹後にかけては、略


△天橋の意義と傳説 此に行つて予の心付いた事は、天の橋立なるものが、松の生えて居る長い砂嘴を意味して居るかどうか疑はしい事であります。古語の「ハシ」は、水平の橋梁を意味するの外、梯とか、石階とかを意味して居つたのであります。さらば「ハシタテ」といふ以上は、常に雲梯(山に登る道)を意味して居るものであります。それで「丹後風土記」を見ますると、神樣が天に懸けようとした橋が、倒れて海上に横はつたのであると書いてありますが、此のやうな傳説によるの外は、あれを橋立といふことが當らぬ。それよりも、今では山頂の寺の名になつて居りますが、成相寺の成相といふ語が、もとは成合であつて、即ち兩陸の相接續することを意味することで、此方が寧ろ適當な名であると思はれます。
成相寺の眺望が異つて居る點は、眞の橋立が山蔭になつて見えずに、更に對岸の岬角が、別に大きな橋立を作つて居ることであります。
△橋立と經濟上の關係 橋立の潟を經濟上の關係から詳しく調べて見ると面白いと思ふ。水面の占有が二三部落に專屬して居る事で、此等村々の漁業が、圓滿に行つて居つて、共同して養殖事業をやつて居るのです。例へば外海から鰯を取つて來て放したり鰻の子を放したりして、一種の養魚地に當てゝ居るのであります。先年牡蠣の養殖を試みましたが、是は失敗に歸したのであります。
△久美濱も亦一の天橋立なり 更に西に進むと、但馬境の久美濱が、又一種變はつた風景で、海岸に橋立よりは稍



△但馬の地勢 國境を越えて但馬に入りますと此國は有名な山國であつて、無數の小さい谿を抱いた山彙に過ぎないのでありますが、しかも此にも一の横長い潟が作られております。それは屡

城崎温泉場の附近は、川といふより寧ろ入江といふ方が適當である樣に、深く且廣いので、害のある代りに、交通を助けて居る。
總じて北海の川は、長さの割に川口が廣い。由良川の如きも、海口由良の湊即ち山莊太夫が故地の近邊で、海上から見ると如何なる大河かと思はるゝ位川幅が廣い。洪水を以て上流地方を禍することは、能く丸山川に似て居る。
△出雲國宍道湖、中の海は共に一の潟に過ぎず 但馬以西はまだ踏査しない地方だから、地圖に就て調査するより外はないのですが、同種の潟も隨分多い樣で、因幡、石見にも漸次小さい潟はありますが、殊に著しいのは出雲の海で、宍道湖は湖といひ、中の海は海といつて居ります。しかし是亦潟に外ならぬのであります。
△伯耆の夜見ヶ濱も亦一の天橋なり 有名な伯耆の夜見濱が、亦他の與謝、久美濱と同じく一の天橋であります。宍道湖の水は僅か水道によつて東西の海と交通して居つて、島根の半島が、昔は海であつたことを證據立てまするのみならず、「出雲風土記」に見えたる、素盞嗚尊が國曳の古傳説も、眞に自然の發生に適合したものであります。
△九州の海岸 九州に入つても、矢張り同じ樣な關係を見ることが出來る。古代史で關係の深い洞海は、其關係が全く天橋と同じでありまして、今日では其沿岸が大分乾いて陸になつて居ります。それから西は博多灣の如きも、志賀島の突出して居る工合が、全く天橋と同一趣向になつて居るのであります。
西松浦灣の方になりますと、海岸の陷沒地が澤山あつて、此にまた多島海を現出して居るのです。
要するに日本海岸の風景に於る特色は、他の何を以て答ふるよりも、潟といふ一言で盡きる。之を研究するならば、單に天然を樂む上からいつても、民政との關係からいつても、優に地理學者の一省に値するものであると思ふ。
常陸の霞ヶ浦、北浦の風景は東京人の熟知する所でありますが、西北岸には之よりもモツト複雜した地形が、南北六百里の間に連接して、殆と旅行者をして倦ましめないのであります。