五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の
五郎は視線を右のエンジンに移した。
〈まだ
と思う。
それが這っているのを見つけたのは、
病院に入る前、五郎にはしばしばその経験があった。白い壁に
五郎は機内を見廻した。乗客は五人しかいない。
羽田を発つ時には、四十人近く乗っていた。高松で半分ぐらいが降り、すこし乗って来た。大分でごそりと降り、五人だけになってしまった。羽田から大分までは、いい天気であった。海の
航空機が滑走を開始した時の五人の乗客の配置。五郎と並んで三十四、五の男。斜めうしろに若い男と女。そのうしろの席に男が一人。それだけであった。四十ぐらい座席があるので、ばらばらに乗って手足を伸ばせばいい。そう思うが、実際には固まってしまう。立って席を変えたいけれども、五郎の席は外側で、通路に出るには
隣の客はいつ乗り込んで来たのか知らない。五郎は飛行機旅行は初めてなので、ずっと景色ばかりを眺めていた。
「乗ると不安を感じるかな?」
羽田で待っている時、ちらとそう考えたが、乗ってみるとそうでなかった。不安がなかったが、別に驚きもなかった。下方の風景を、見るだけの眼で、ぼんやりと見おろしていた。
隣の男が週刊誌から頭を上げた。髪油のにおいがただよい揺れた。男は窓外に眼を動かした。じっと発動機を見ている。黒い点を見つけたらしい。五郎は黙って煙草をふかしていた。二分ほど経った。
「へんだね」
男はひとりごとのように言った。そして五郎の
「ねえ。ちょっと見て下さい」
「さっきから見ているよ」
五郎は答えた。
「次々に這い出して来るんだ」
「這い出す?」
男は短い笑い声を立てた。
「まるで虫か鼠みたいですね」
「では、虫じゃないのかな」
「そうじゃないでしょう。虫があんなところに
五郎はエンジンを見た。急にその粒々が殖えて来た。粒々ではなくて、くっついて筋になって来る。翼の表面からフラップにつながり、果ては風圧でちりぢりに吹飛ぶらしい。虫でないことはそれで判った。また幻覚でないことも。
二人はしばらくその黒い筋に、視線を固定させていた。やがて男はごそごそと動いて、不安げな口調で名刺をさし出した。
「僕はこういうもんです」
名刺には『丹尾章次』とあった。肩書はある映画会社の営業部になっている。五郎は自分の名刺をさがしたが、ポケットのどこにもなかった。
「そうですか」
五郎は名刺をしげしげと見ながら言った。
「何と読むんです? この姓は?」
「ニオ」
「めずらしい名前ですね」
「めずらしいですか。僕は福井県の
「わたしは名刺を持ってない」
五郎はいった。口で名乗った。
「散歩に出たついでに、飛行機に乗りたくなったんで、何も持っていない」
外出を許されたわけではない。こっそりと背広に着換え、入院費に予定した金を内ポケットに入れ、マスクをかけて病院を出た。外来患者や見舞人にまぎれて気付かれなかった。煙草を買い、喫茶店に入り、濃いコーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーは彼の眠ったような情緒を刺戟し、
〈そうだ。あそこに行こう〉
前から考えていたことなのか、今思いついたのか、五郎にはよく判らなかった。
「そうのようですね」
丹尾は
「ぶらりと乗ったんですね」
「なぜ判る?」
「あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪や
「いえ。初めて」
「この航空路は、割に危険なんですよ」
丹尾はエンジンに眼を
「この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した」
「ああ。知っている。新聞で読んだ」
五郎はうなずいた。
「着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?」
「映画を売りに。おや。だんだん
五郎もエンジンを見た。細い黒筋がだんだん太くなる。太くなるだけでなく、途中で支流をつくって、二筋になっている。五郎は眼を細めて、その動きを見極めようとした。しかし飛行機の知識がないので、それが何であるか、何を意味するのか、判断が出来かねた。五郎はつぶやいた。
「あれは流体だね。たしか」
「油ですよ」
丹尾はへんに乾いた声で言った。
「こわいですか?」
五郎は
「いや。別に」
五郎は答えた。
「映画を売りに? 映画って売れるもんですか?」
「売れなきゃ商売になりませんよ」
丹尾はまた短い笑い声を立てた。
「映画をつくるのには金がかかる。売って
「なるほどね」
そう言ったけれども、
「映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か||」
「冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?」
その時傍の窓ガラスの面に、音もなく黒い
「これ、何だね?」
「
「このままで、いいのかい?」
スチュワーデスは返事をしなかった。じっとエンジンの方を見詰めていた。その真剣な横顔に、五郎はふと魅力を感じた。やがてエンジンの形も見にくくなった。黒い
スチュワーデスは何も言わないで、足早に前方に歩いた。
〈今頃騒いでいるだろうな〉
五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。一番古顔は四十がらみの男で、電信柱から落っこちて頭をいためた。この男はもう直っているにもかかわらず、退院しない。会社の給料か保険かの関係で、入院している方が得なのだと、付添婦が教えて呉れた。電信柱というあだ名がついている。
「図々しい男だよ。この人は」
「うそだよ。そんなこたぁないよ」
その男はにやにやしながら弁明した。
その次は爺さん。チンドン屋に会うと、気持が変になって入って来る。何度も入って来るから、
〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉
喫茶店でコーヒーを飲む前から、
スチュワーデスが操縦室から、つかつかと出て来た。彼等に背をかがめて言った。
「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」
そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。
「席を変えましょうか」
「そうだね」
五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。
「あんたはいくつです?」
座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手が
「ぼくは三十四です」
「四十五」
五郎は答えた。
「潤滑油って、燃えるものかね」
「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」
丹尾はポケットから洋酒の小瓶を取出して
「どうです?」
五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。
「こわいですか。顔色が悪い」
「いや。くたびれたんだろう」
こわくはなかったが、体のどこかが震えているのが判る。手や足でなく、内部のもの。気分と関係なく、何かが律動している。そんな感じがあった。
機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立って来た。
外は明るかった。南国なので、光線がつよいのだ。タラップを降りる時、
「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」
やや
「あんなことって、何でしょう?」
「あれを見なさい」
丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし
「君に言ったって、しようのないことだが||」
「枕崎の方に行くんですか?」
車で航空会社の事務所まで送られた。その前の食堂に入り、丹尾は酒を注文し、五郎はうどんを頼んだ。あまりきれいな食堂ではなかった。機上でサンドイッチを食べたので、食慾はほとんどない。
「そうだよ」
五郎はうどんを一筋つまんで、口に入れた。耳の具合はすでに直っていた。
「どうです。一杯」
空いた
「これはただの酒じゃないね」
「
「もう一杯
五郎は
「ああ。これは戦争中、二、三度飲んだことがある。どこで飲んだのかな。思い出せない。もっと強かったような気がするが||」
「割らないで、
丹尾はまた注いだ。盃は大ぶりで、縁もたっぷり厚かった。
「ぼくも枕崎に行こうかな」
丹尾はまっすぐ彼を見て言った。五郎の顔は瞬間ややこわばった。ごまかすために、またうどんを一筋つまんだ。
「なぜわたしについて来るんだね?」
「ついて行くんじゃない。あそこあたりから商売を始めようと思って」
「商売って、映画の?」
そろそろ警戒し始めながら、五郎は丸椅子をがたがたとずらした。
「そうですよ」
丹尾は手をたたいて、また酒を注文した。
「直営館なら問題はないけどね、田舎には系統のない小屋があるでしょう。面白くて安けりゃ、どの社のでも買う。そこに売込みに行くわけだ。解説書やプログラムを持って、これはここ向きの作品だ。値段はいくらいくらだとね。すると向うは値切って来る。折合いがつけば、交渉成立です。そこがセールスマンの腕だ。各社の競争が烈しいんですよ」
「いい商売だね」
「なぜ?」
「あちこち歩けてさ」
五郎は盃をあけながら答えた。
「わたしはこの一箇月余り、一つ部屋の中に閉じこもっていた。一歩も外に出なかったんだよ。いや、出なかったんじゃなく、出られなかったんだ」
「なぜ?」
丹尾はきつい眼付きになった。
「なぜって、そうなっているんだ。二階だったし||」
病室は二階にあったし、窓の外にはヒマラヤ杉がそびえて、外界をさえぎっていた。別に逃げ出す気持も理由もなかった。友人のはからいで、初めは個室に入ったが、入った日から睡眠治療が始まったらしい。日に三回、白い散薬を
「気分はどうですか。落着きましたか?」
「いいえ」
と五郎は答えた。
「まだ治療は始めないんですか?」
まだ憂欝と悲哀の情緒が、彼の中に続いていた。
「へんだぜ。顔色が悪いぞ」
「気分がおかしいんだ」
座布団を二つに折って横になった。やがて医者が来る。血圧がすこし高かった。根をつめて碁を打ったせいだろうと医師は言い、注射をして帰る。痙攣は間もなく治った。それに似た
いつ発作が起きるかという不安と緊張があった。常住ではなく、波のように時々押し寄せて来る。押し寄せるきっかけは、別にない。気分や体調と関係なくやって来た。すると五郎は酒を飲む。ベッドの中で、あるいはテレビを見ながら。ふっと気がつくと、考えていることは『死』であった。死といっても、死について哲学的
「······北風寒き千早城」
それにつづいて、
「楠公父子の真心に、鬼神もいかで泣かざらん」
楠公父子が『暗号符字』に、いつか彼の中ですり変えられている。暗号符字の真心に鬼神もいかで泣かざらん。彼は苦笑いとともに思う。これがおれの
「もう始まっていますよ。今日はすこし血を
医師がそう言った。注射管の中にたまる血の色を見ながら、五郎は同じようなことを考えていた。しかし、幻覚のことは、どうなるのか?
「さあ。そろそろ出かけましょうか」
丹尾は盃を伏せて立ち上った。徳利の三分の一は、五郎が飲んだ。
「汽車の時間はどうかな。駅で待たせられるかな」
「おれは車で行くよ」
五郎はそっけなく答えた。
「待たせられるのは、いやだ」
五郎は先に外に出た。航空事務所の隣が、ハイヤーの営業所になっていた。そこに入って行った。空港から乗って来た車の運転手が、車体をぼろ布で掃除していた。五郎の姿を見て、細い眼で笑いかけた。
「枕崎まで行くかね」
「行きますよ。どうぞ」
運転手はドアをあけた。五郎は座席に腰をおろした。丹尾は店からまだ出て来ない。運転手が乗り込んで来た。
「一人ですか?」
うなずこうとしたとたん、のれんを分けて丹尾があたふたと出て来て、五郎の傍にころがり込んだ。
「ぼくも乗せてもらいますよ。汽車は時間的に都合が悪いらしい」
丹尾は運転手の横にトランクを投げ込んだ。運転手が答えた。
「あれは開通したばかりで、日に何本も出ないのです」
〈戻るのか〉
と五郎は思った。車はさっき乗って来た
「さっきね、何か
丹尾が言った。
「ほんとにそう思ったんですか?」
「そう」
「ふしぎだとは思わなかったんですか?」
「ふしぎ? いや」
五郎は居心地悪く答えた。
「見違いかと思ってたんだ。君が気がついたから、見違いじゃないと判ったけれどね」
丹尾は黙っていた。
「もっともあそこから虫が這い出しても、ふしぎだとは思わない。世の中にそんなことは、ざらにあると思う」
車は市街を通り抜けた。しだいに家並がまばらになり、海岸通りに出た。桜島が青い海に浮び、頂上から白い煙をはいていた。
「ところで||」
五郎は視線を前路に戻しながら言った。
「君は東京から飛行機に乗ったのかね?」
「そうですよ。気がつかなかったんですか?」
丹尾は答えた。
「羽田からずっとあんたの横に坐っていましたよ。二度話しかけたけれど、あんたは返事しなかった」
「二度も?」
「ええ。初めは瀬戸内海の上空で、二度目は大分空港の待合室で。待合室では煙草の火を借りた。あんたは肩布をかけた代議士らしい男の方を見ていたね」
「ああ。そんなのがいたね。迎え人がたくさん来ていた。あれ、代議士か」
「そうでしょうね。大分からは、五人になってしまった」
待てよ、と五郎は考えた。五人ならもう座席指定でなく、どこにも腰かけられる筈だ。それなのに横の座席に
「たかが五人乗せて、商売になるもんですかねえ」
「わたしはぼんやりしてたんだ。久しぶりに
「娑婆? するとあんたは||」
丹尾は言いにくそうに発音した。
「それまで留置場かどこかに、入ってたんだね」
「留置場?」
五郎は丹尾の顔を見た。
「留置場、じゃないさ。君は知っているんだろ」
丹尾は首を振った。
「何も知らないよ。ちょっと様子がへんなんで、注意していただけです。いけないですか?」
五郎は急に頭に痛みを覚えた。痛みというより、たがのようなものでしめつけられるような感じであった。彼は両手をこめかみに当てて、
「ひどく頭が痛いことがありますか?」
入院する前に医師が訊ねたことがある。その医者は三田村(碁を打っていた友人だ)の
「いいえ」
五郎は答えた。
「痛くはないけれど、悲しいような憂欝な感じがあるんです」
「ずっと続けてですか?」
「いえ。続けてじゃない。時々強く浪のように盛り上って来るのです。いや、やはり続いているのかな」
五郎は首をかしげて、ぽつりぽつりと発言した。
「漠然とした不安感がありましてね、外出するのがいやになる。顔が震えそうだし、皆がぼくを見張っているようで、うちに閉じこもってばかりいます」
「閉じこもって、何をしているんですか」
「寝ころんで本を読んだり、テレビを見たり、歌をうたったり||」
「歌を?」
医者は手帳を出して、何か書き込んだ。
「どんな本を読むんです?」
「おもに旅行記とか週刊誌のたぐいです。むずかしいのはだめですね」
「旅行記ね」
医者は探るような眼をした。
「テレビはあまり見ない方がいいですよ。眼が疲れるから。眼が疲れると、精神もいらいらして疲れます」
「そうですか。そう見たくもないんです」
五郎はテレビを見る。おかしい場面が出て来る。五郎は笑わない。おかしくないからだ。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのだが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には
「幻覚があるんじゃないか」
「幻覚? テレビのことか?」
「いや。ブザーのことだ」
「ブザーのことって、何ですか?」
医者が質問した。
「いや。時々、時ならぬ時に、玄関のブザーが鳴るのです。出て行っても誰もいない」
「時ならぬ時というと?」
「真夜中なんかです。どうも誰かがいたずらをするらしい」
五郎は幻覚のことを、たとえばブザーのことや壁に這う
それにもう一つの疑念があった。
〈この男は
実際に病院の中で、白い診察衣を着て、
〈あなたはほんものの医者ですか?〉
と聞きたい衝動が起きる。しかしもしほんものだった場合、こちらがほんものの気違いだと思われるおそれがある。それではまずいので言葉にしない。
医者の質問はなおも続いた。そして結論みたいに言った。
「やはり抑圧があるようですな」
「抑圧と言いますと?」
「いろんなものが、重いものが、頭にかぶさっているのです。それを取除かねばならない」
「重いものがね」
美容院の前を通ると、女たちが白い
「ああ。つまり脱げばいいんですね」
「まあそういうことです」
「なるほど。しかし||」
兜をかぶっているのが常人で、今のおれの場合は兜を脱ぎ捨てた状態じゃないのか。頭がむき出しになっているから、普通人が持たない感覚を持ち、感じないものを感じているのではないか。生きているつらさが、直接肌身に迫って来るのではないか。その点おれが正常人の筈だ。瞬間そう考えたけれども、五郎は口に出さなかった。
「健康と不健康との境目は||」
「健康といいますとね、緊張と
医者は自信ありげに、煙草に火をつけた。
「大体人間というものはね、自分の心の
「すると抑圧をとるには?」
「いろいろ方法があるわけですね。電気ショックとか持続睡眠療法とか||」
「電気ショック?」
五郎は思わず声を高くした。
「やはり椅子に腰かけてやるんですか?」
「死刑台じゃないんだよ」
三田村が横から口を出して笑った。
「こいつはね、電気をこわがるんだ。昔から」
「いや、こわいとか、こわくないとかは、関係がない」
五郎は
「電流は体には作用する。しかし、心や感情に作用するかどうか||」
「じゃ酒はどうだね。酒はただの物質だが、感情を左右するよ」
「では睡眠療法の方がいいでしょう」
医者は煙草を
「いつでもいいですよ。病室の用意をしておきます」
「様子がへんかね?」
五郎は丹尾に言った。ハイヤーは海岸道から折れて、山間に入っていた。折れたところから道がでこぼこになり、車は揺れた。
「どんな風にへんなのか」
「ええ。足がふらふらしているようだし、初めは酔っぱらってるのかと思いましたよ。話しかけても返事をしないしね」
「ああ。まだ薬が体に残ってんだ。それにしばらく歩かなかったもんだから、足がもつれる」
「病院ですか。留置場じゃなかったのか?」
「うん、病院で寝ていた。睡眠剤を
丹尾はしばらくして言った。
「自殺をくわだてたんですか?」
「いや。病院に入ってから、毎日服んだ。治療のために服まされたんだ。毎日のことだから、だんだん
さっき飲んだ焼酎が、車体の振動につれて、体のすみずみまで廻って来る。しゃべり過ぎると思いながら、五郎はしゃべっていた。
「なぜ酩酊させるんですか?」
「不安や緊張を取除くためさ」
「なるほど。酔っぱらうと、そんなのがなくなるね」
丹尾は合点合点をした。
「それでもう
五郎は首を振った。睡眠薬の供給は中止されたと、五郎は思う。白い散薬、ズルフォナールという名だが、それが全然来なくなった。しかし服用中の
「どうかしたんですか?」
「いや。何でもない」
五郎はネクタイを結ぼうと努力しながら答えた。ネクタイの結び方を忘れて、すぐにずっこける。抑圧がとれると、物忘れしやすくなるのだ。と同時に、色情的になる。酔っぱらいが酒場で醜態を見せると同じことだ。その点ではズルフォナールは酒よりも強く作用する。やっとネクタイが結べて、彼は脱出した。
「いや。まだ醒めていないんだ」
五郎は丹尾に答えた。
「しかし不安や緊張は幾分解けたようだ。飛行機に乗る時、気分がへんになりやしないかと思ったんだが、別にその
飛行中はぼんやりした無為しかなかった。潤滑油が
「へんな病院ですね」
丹尾がいった。
「そんな療法、聞いたことがない。どこの病院です?」
「もうここらが
運転手がぽつんと言った。
「葉煙草の産地でね、昔は陸軍特攻隊の基地でした」
それきり会話が跡絶えて、車内はしんとなった。丹尾は洋酒の小瓶をポケットから出して、残りを一息にあおった。窓ガラスをあけて、道端にぽいと放る。ちらと見た丹尾の掌は異常に赤かった。
「ぼくは昔、戦時中に知覧に来たことがある」
レインコートの袖で口を拭きながら、丹尾は誰にともなくいった。
「おやじと兄嫁に連れられてね」
「なぜ知覧に来たのかね?」
五郎は訊ねた。
「兵隊としてか?」
「いえ。兄貴がね、飛行機乗りとして、ここにいた。別れを告げに来たのさ」
丹尾は眼を据えて、窓外の景色を眺めていた。いぶかしげに言った。
「運転手君。これが飛行場か?」
舗装されたかなり広い道が、まっすぐ伸びている。両側は一面の畠で、陽光がうらうらと射し、遠くに豆粒ほどの人々が働いていた。
「ええ。そうです」
運転手は車を徐行させながら答えた。
「この道が昔の滑走路だったそうですよ。私は戦争中のことは知らないが」
「もっともうっと広かった。畠などなかった」
丹尾は両手を拡げた。あまり拡げ過ぎたために、丹尾の右腕は五郎の胸に触れ、圧迫した。それから両手を元におさめた。
「こんな畠なんか、なかった。一面の平地だった!」
丹尾の声は怒っているように聞えた。五郎も
「その時、君はいくつだった?」
「十三、いや、十四だった」
「
まだ若い、化粧もしない顔、もんぺに包まれたすべすべした姿体、それだけが幻の風景の中に動いて、五郎の内部の病的な情念を
「ちょっとここらで停めて呉れないか」
車が停って、二人は降りた。つづいて運転手も。丹尾は掌をかざして、あちこちを見廻した。やがてカメラを取出した。映画などで見た特攻隊の若い未亡人の姿を想像しながら、五郎は訊ねた。
「その時
病院の二階の突き当りに、付添婦たちの
逆光線のために看護婦の白衣が透けて、体の形が見えた。女体の輪郭が黒く浮き上っている。それが突然五郎の情感をこすり上げる。眺めるのに絶好の位置だったし、女が体躯を動かすにつれて、肉や皮膚のすれ合いが、自分自身の感触のようになまなましく感じられた。そういう情の動きは、この一年ほどの間、全然五郎にはなかった。
〈これだな。医者が言ってたのは〉
抑圧がとれると、押えたものが露出して来る。入院して日が浅いから、どの看護婦か判らない。五郎は気持を押えようとした。医者の予言した通りに、あるいは薬の言うままになってたまるか! 入院の時から、五郎は心の片隅で決心していたのだ。
〈おれはそこらの人間とは違う。ふつうの人間と同じ反応は示してやらないぞ!〉
五郎は力んでいた。無用の力みで入院して来た。やがて気持をもて余しながらも、ねじ伏せるようにして、そろそろと梯子段を降りた。部屋に戻ると、古い週刊誌を読んでいた中年の付添婦が、五郎の顔を見て言った。
「どうしたんです。眼がへんですよ」
「今朝からものが二重に見えるんだ」
五郎はベッドにもぐり込みながら答えた。
「お薬のせいですよ」
付添婦はふつうの声で言った。
「もっとちらちらして来ますよ」
五郎は毛布を額まで引き上げて、眼をつむっていた。欲情と嫉妬が、しきりに胸に突き上げて来た。彼は毛布の耳をつかみながら、低くうめいた。瞬間、彼は
「ぼくの写真をとって呉れませんか」
畠を背景にして立って、丹尾はカメラを五郎に手渡した。
「ただそのポッチを押せばいいんです」
五郎はカメラを眼に持って行き、ファインダーの真中に丹尾を置いた。そして姿を片隅にずらした。ポッチを押す。丹尾の顔の半分と、広漠たる畠が写ったと思う。それから位置をかえて三枚とる。丹尾はあまり面白くなさそうにカメラを取り戻した。
「あんたも写して上げよう」
「御免だね」
五郎ははっきりと断った。
「こんなとこで写してもらいたくない。君はこんなとこを写して、どうするんだ?」
「兄貴にやるんですよ」
「兄貴? 生きているのかい?」
「ええ」
丹尾が先に車に這い込んだ。
「何だか運よく他の基地に廻されてね、その中戦争が終ってしまった。今は
車が動き出した。特攻隊からペンキ屋か。ふん、という気持がある。でも誰にもそれをとがめ立てする権利はない。そうと知ってはいるが、五郎はかすかに舌打ちをした。
「幸福かね?」
ぎょっとしたように、丹尾は五郎の方を見た。
「幸福に見えますか?」
丹尾は表情を
「一箇月前にね、妻子を交通事故でうしなってしまった。都電の安全地帯にいたのに、トラックの端っこが引っかけたんだ」
丹尾は笑おうとしたが、声が震えて笑いにはならなかった。
「それで元のもくあみさ。以来酒びたりだよ。それで会社に頼んで、本社勤めをやめ、南九州のセールスマンに廻してもらった。いや。廻されたんだ。なぜぼくが羽田で、あんたに興味を持ったか、知らせてやろうか?」
「誰のことを言ってんだね?」
「あんたのことさ。あんたは自殺をする気じゃなかったのかい?」
「おれが?」
五郎は座席の隅に身体を押しつけた。丹尾の眼は凶暴に血走っていた。
「そんな風に見えたのか」
しばらく五郎は丹尾の眼を見返していた。
「おれは自殺しようとは全然思っていない。おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいるけどね。しかし、奥さんを死なしたのは、君のことか?」
丹尾は
「ぼくのことじゃなかったのか?」
「そうだよ。君のことなんか聞いてやしない」
五郎は警戒の姿勢を解かなかった。他人の気分に巻き込まれるのは、今のところ心が重かった。
「武生のペンキ屋さんのことだ」
「ああ。あれか」
がっくりと肩を落した。
「あれは幸福ですよ。兄嫁との間に四人も子供をつくってさ。しかし兄貴が幸福であろうとなかろうと、今のぼくには関係ない」
「誰だって他の人とは関係ないさ」
五郎はなぐさめるように言った。四人も子供を産んだ中年の女を考えたが、索漠として想像までには結ばなかった。
「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」
運転手は会話を耳にしているのかどうか、黙ってハンドルを動かしている。赤い両掌で丹尾は顔をおおった。十分ほどそうしていた。五郎は窓外を眺めていた。丹尾は掌を離した。
「鹿児島一円を廻ったら、熊本に行く。阿蘇に登るつもりです」
「阿蘇にも映画館があるのかい?」
「阿蘇にはありませんよ。山だから」
丹尾は言った。
「あんな雄大な風景を見たら、ぼくの気分も変るかも知れない。そうぼくは思う」
「うまく行けばいいがね」
枕崎で車を降りた。五郎は空腹を感じた。機上食と、鹿児島でうどんを少量。口にしたのはそれだけで、車で長いこと揺られて来た。日はまだ高い。緯度の関係で、日没は東京より一時間ほど遅いのだ。しかし空腹はそのためだけでない。病院の安静の一日と違って、今日は大幅に動き廻った。何か食べましょうや、と丹尾は話しかけた。さっきの激情から、やっと自分を取戻したらしい。
「宿屋の飯を食うほど、ばかげたことはない。それがセールスマンの心がけですよ」
トランクを提げて、先に歩き出した。後姿はずんぐりして、いかにもこのなまぐさい街の風物にぴったりだ。トランクだけが独立した生物のように上下動する。
〈SN氏のトランク、か〉
五郎の頬に隠微な笑いが上って来る。何もかも間違いだらけだ。おれも、あのトランクも、ここに来るべきじゃなかったのではないか。しかしすぐに笑いは消えてしまう。
今まで車で眺めて来たいくつかの小部落は、緑の樹々の間に沈んでいた。小川がそばを流れていた。今見る枕崎の街は、ほとんど木がない。むき出しにした木造家屋だけである。かろうじて柳の街路樹があるが、幹の太さが手首ぐらいで、潮風にいためられてか葉もしなびている。ふり返ると町並の向うに、開聞岳の山容が見える。魚の臭いでいっぱいだ。庭内にむしろを敷いて、一面に茶褐色の
「ここに入ろうよ」
食堂に入る。チャンポンと割焼酎を注文する。焼酎の方が先に来た。
「割焼酎というのはね」
丹尾が五郎の
「水で割るんじゃない」
「何で割るのかね?」
「清酒。いや、合成酒でしょう。水で割ると、かえってにおいが鼻につく」
つまみの塩辛を掌に受けて、丹尾は焼酎とともに口に放り込む。盃を傾けながら、五郎はその赤い掌を見ていた。
「君。肝臓が相当いかれているようだね」
「そうですか」
丹尾は平気な顔で答えた。
「そうでしょうな。あれから毎日酒ばかりで、アル中気味だ」
「酒で悲しさが減るかい?」
「いや。やはりだめだね。やけをおこして、いっそのこと死のうかと思うけれど||」
チャンポンが来た。丹尾は
「さっき飛行機で、油が流れ始めたでしょう。ぎょっとしたね。あの航空機はあぶないんでね」
「あぶないことは知ってたんだろ」
「知ってたよ。
「名刺をね。どうして?」
「海に
五郎はポケットから丹尾の名刺を出して、裏表を眺めた。
「判ってどうなるんだ?」
「あとで考えてみると、どうもなりゃしない。恐怖で動転してたんだね。あんたはほんとにこわくなかったんですか?」
五郎はしばらく返事をしなかった。チャンポンの具のイカの脚をつまんで食べていた。イカは新鮮で、しこしこしてうまかった。
「こわくはなかった。いや、こわいということは感じなかった。第一、
「そうですか」
丹尾はまた盃をあおった。
「あんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」
「そりゃ君と関係ないことだよ」
彼はつっぱねて、チャンポンに箸をつけた。
「今日はここに泊るんでしょう」
「多分ね」
「ぼくと同宿しませんか」
丹尾は五郎を上目で見た。
「立神館という宿屋があった。あれがよさそうです。出ましょうか」
丹尾はチャンポンを、半分ほど食べ残し、立ち上った。
「ぼくはその前に、映画館を一廻りして来ます。あんたは?」
「そうだな」
五郎は答えた。
「海でも見て来ようかな。いや、その前に床屋にでも||」
五郎はそう言いながら、丹尾の顔を見た。
「君もその鼻
「あの日から剃らないんですよ」
左の人差指でチョビ髭をなで、丹尾は沈んだ声で言った。
「髭を立てたんじゃない。その部分だけ剃らなかっただけだ。記念というわけじゃないけどね」
床屋に行く気持は、初めから全然なかった。丹尾の後姿がかなたに遠ざかると、五郎は身をひるがえして酒屋に入り、万一の用にそなえて、酒の二合瓶と紙コップを買う。途中で発作がおきると困るのだ。それからバスの発着場に歩き、休憩中の女車掌に声をかけた。
「坊に行くには、たしかあの道を、まっすぐ行けばいいんだね」
「はい。一筋道です」
車掌は壁時計を見上げた。
「あと二十五分でバスが出ます」
五郎も見上げてうなずいた。そしてそこらを五、六歩動き廻って外に出た。何気ないふりで、バス道を歩く。すこしずつ急ぎ足になった。
〈誰かがおれを追っている〉
そんな感じが背中にある。その〈誰〉には実体がなかった。入院の前に、外出すると、いつもその感じにとらわれ、振向き振向きしながら歩いた。その時にくらべると、感じとしては淡いけれども、つけられている気配はたしかにある。
家並の切れる頃から、人通りはだんだん少くなって来た。おおかたはバスを利用するのであろう。道に沿って、ぽつんぽつんと農家がある。
〈おれを見張っているのではない〉
五郎は自分に言い聞かせる。不精髭を生やした背広姿の男が、バスにも乗らず、酒瓶を
やがて小さなバスが砂煙を立てて、五郎を追い越した。彼は切通しの崖にくっつき、顔をかくしていた。おそらく乗っていたのは、先刻の女車掌だろう。それに顔を見せたくなかった。砂塵がおさまって、五郎はまた歩き出した。バス代を惜しんだわけではない。この道は、彼にとって、足で歩かねばならなかったのだ。しだいに呼吸が荒くなる。
「あ!」
彼は思わず立ちすくんだ。
「これだ。これだったんだな」
数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い
〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉
頭のしびれるような
「そうじゃない。ここだったのだ」
五郎は海に面した
「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」
その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉
感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。
しばらく歩く。
やっと風景が切れ、林の中に入る。道はだんだん下り坂になる。すこし疲れが出て来た。一杯の酒のために、体を動かすことがもの
『天にあふるるその誠
地にみなぎれるその正義
暗号符字のまごつきに
鬼神もいかで泣かざらむ』
替歌をつくったのは、福という名の兵長である。福は地にみなぎれるその正義
暗号符字のまごつきに
鬼神もいかで泣かざらむ』
〈天にあふるるこの錯誤。仁にみなぎれるその戦死······〉
やがて家がぽつぽつと見え始めたと思うと、その屋根のかなたに海の色があった。さきほどの
||
町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮んで来た。湾に沿った一筋町である。家々の屋根は総じて低い。昔は島津藩の密貿易の港であったので、展望のきく建物は禁じられていた。その風習が今でも残っている。戦災にはあわなかったせいで、町のたたずまいは古ぼけている。彼はふと戸惑う。
〈これがおれの軍務に服していた町なのか?〉
五郎はこの基地に、三週間ほどしかいなかった。吹上浜のある基地からここに移って来て、すぐに戦いは終ったのである。今見る町の様相は、見覚えがあるようでもあったし、ないようでもあった。しかし五郎はたしかにここにいたのだ。二十年前、気力も体力も充実した青年として、ひりひりと生を感じながら生きていた。今は
||道に行き交う人々は、名をも知らない者ばかり。
頭に荷物を乗せた女が通る。女学生、小学生が通る。長い釣竿をかついだ男が通る。夕方になったので、磯釣りを終った土地の男だろう。
〈たしかここらに松林があった筈だが||〉
あの頃松林の中に、海軍航空用一号アルコールのドラム缶が、三十本ぐらい転がっていた。
「お前があけたんだろう」
「冗談でしょう」
福も笑いながら答えた。
「自然にあいたんです」
「それ、飲めるのかい?」
「ええ、原料はたしか芋です。水で割れば多分飲めますよ」
「そうか。飲みに行くか」
五郎は福兵長と、
もちろん航空用のアルコールを飲むのは、
〈あれはどこに行ったのか?〉
十本ばかりの木がばらばら生えているだけで、昔の松林の面影はほとんどない。その木に交って、白い大きな花をぶら下げた、南国風の木がある。その花の名は忘れたが、色や形にはたしかに見覚えがあった。日はすでに入り、あたり一面は
「こんばんは」
五郎は道を見上げた。道には女が立っていた。軽装で、手に
「こんばんは」
五郎もあいさつを返した。女はスカートの裾を押えるようにして、斜面を降りて来た。
「何をしているの?」
女は人慣れた口調で言った。香料のにおいがただよった。
「さっきから見てたんですよ。あなたはここの人じゃないね」
五郎はうなずいた。
「遠くからやって来たんだよ。時にこの花、何という名前だったかな」
「ダチュラ」
女はすぐに答えた。唇には濃めに口紅を塗ってある。商売女かな、と彼は一瞬考えた。
「原名は、エンゼルズトランペット」
「エンゼルズトランペット?」
五郎は花に視線を
『ダスラ(この土地ではゼンソクタバコと呼ぶ)の白い花などが目につく』
と書いてあったと思う。
「ダスラじゃないのかね?」
「いいえ。ダチュラ」
五郎はまだ考えていた。口の中で言ってみた。
「エンゼルズトランペット」
「ゼンソクタバコ」
「なにをぶつぶつ言ってるの?」
「いや。何でもない」
「遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?」
それは君と関係ないと、いつもならつっぱねる筈だが、時は黄昏だし、女の言葉や態度が開放的だったので、つい五郎は応じる気になった。
「まあ、見物かな」
五郎は湾の方を指差した。
「あの岩の島の名は、何だったかしら」
「双剣石よ」
二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。
「君はここの生れかい。戦時中、どこにいた?」
「ここにいました」
「じゃ戦争の終りに、この湾で
「覚えてる。覚えているわ」
女は遠くを見る眼付きになった。
「あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜があった筈よ」
「そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ」
「まあ、あんたもあの時の海軍さん?」
五郎はうなずいた。女は五郎の頭から足まで、確めるように眺めた。
「あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花は
「そういう花なのよ。これは」
「しかしなぜ死体を国民学校なんかに運んだんだろう」
「あそこはもともとお寺だったのよ。一乗寺と言ってね。明治の初めに廃寺になったの。その後に石造の仁王像が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ」
「それは気が付かなかった。もっともここには三週間しかいなかったし、学校内に入ったのも、その時だけだからね。二十年ぶりにやって来ると、おれはまったく旅人だ」
「そうねえ。あの頃の海軍さんとは、とても見えないわ」
女は憐れむような、また切ないような眼で、五郎を見た。
「でも、あたしも小学生じゃない。三十を過ぎちまった」
「君の家は、坊にあるのかね?」
「いいえ。
女はその方向を指した。
「谷崎潤一郎の『台所太平記』を読んだことがある?」
「いや」
「あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ」
「ほう。女中さんの産地なのか?」
「あたしも行ったわ。学校を卒業して、すぐ東京へ」
女は両掌で自分の頬をはさんだ。
「ある家に奉公して、そこの世話である男といっしょになって、それからその男と生活がいやになって||」
「戻って来たのか?」
「そう」
女は笑おうとしたが、声にはならなかった。
「一箇月前にね。
「泊にかい?」
「いえ。小学校へよ。あなたはそんなことを確めに来たんじゃない? 二十年前の思い出なんかを」
「思い出?」
五郎ははき捨てるように言った。
「思い出なんてもんじゃない。そんな感傷は、おれは嫌いだよ。でも、折角のお申出だから、案内していただこうかな」
「ずいぶんもったいぶるわね」
今度は声に出して笑った。
「じゃ参りましょう」
五郎は女のうしろについて、道へ上った。夕焼が色
「見覚えないな」
「これ、ミツギという樹なのよ」
女は説明した。
「あたしの小学校の時も、同じ大ききで、同じ形で立っていた。ずいぶん古くから生えてるわけね。何百年も」
「そうだろうな。別におれと関係ないことだけど」
五郎はその樹の下に腰をおろした。女も
「飲まないか」
「ええ。いただきます」
女は素直に受取った。五郎は指差した。
「あそこの林は、松の木がもっともっと生えていた。そしてアルコール缶が、いくつも転がっていたよ」
「そう。十年ぐらい前に切り倒して、キャンプ場にしたらしいの」
女は酒に口をつけた。
「ところがいっぺんあそこにキャンプを張った人は、翌年は絶対に来ないのよ」
「なぜ? 景色もいいし、水もきれいで泳げるのに」
「やぶ
「ああ。やぶ蚊か。おれたちもずいぶん刺された」
「おれたちって?」
「うん。暗くなるとあそこに行って、アルコールを水で割ってこっそり飲んだんだ。仲間三人だったけれど、福が一番強かった」
「福って、人の名?」
「そう。奄美大島出身の兵長でね。器用な男だった。芭蕉の葉で芭蕉扇をつくって呉れた。それでばたばたあおぎながら、アルコールを飲んだ。皆若かったね。あの頃は」
五郎は酒瓶を直接口に持って行って、残りを飲み干し、
「死んだ水兵というのは、福のことだよ」
「そうなの」
女もコップ酒を飲み干した。
「どうしてその人が溺れたの?」
「うん。アルコールを飲んだ
五郎は指差した。
「あの双剣石まで、泳ごうとしたんだ」
「双剣石まで?」
わずかな明るさを背にして、双剣石はくろぐろとそびえ立っていた。それは墓標の形に似ていた。
泳ごうと言い出したのは、福であった。どんなきっかけだか、五郎は覚えていない。泳ぎの話になった。福は自慢した。
「泳ぎならうまいですよ。今は沖縄だが、生れは
「お前んちは
「漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ」
「五キロなら、おれだって泳げそうだな」
五郎は答えた。五郎も海辺の町で育ったので、水泳には自信があった。
「じゃやりましょうか。あの双剣石まで」
五郎はアルコールを含みながら、その方角を見た。彼等の宴の場所は、松林をすこし離れた大きな岩かげで、すぐ下から暗い海がひろがっている。時々思い出したように、しずかな波がやって来て、砂を洗う。海のところどころ、筋になったりかたまったり、ぼんやりと明るいのは、夜光虫のせいだろう。
「泳いでもいいな」
五郎は答えた。
「あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない」
「やめなよ」
「泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ」
「泳ぎたいんですよ。興梠二曹」
福は
「おれも泳ぐよ」
福に張り合う気持は毛頭なかった。ただその暗い海に身をひたし、抱かれたいという気持だけがあった。興梠は投げ出すように言った。
「じゃ行きな。海行かば
「大丈夫ですよ」
福は五郎に白い歯を見せて笑った。それからよろよろと砂浜に降り、海へ入った。彼もつづいて足を水に踏み入れた。
しばらく海の浅さがつづき、急に深くなった。五郎は平泳で前進し、そして背泳ぎに移り、やがて手足の動きを中止した。顔だけを空気にさらし、全身から力を抜く。水はつめたくなかった。生ぬるくねっとりとして、彼の体を包んだ。彼は『母胎』という言葉に似たものを感じながら、十分間ほどゆらゆらと
〈何ならここで死んでもいいな〉
倦怠と虚脱感がそこまで進んだ時、五郎は突然ある危険を感じて、姿勢を元に戻した。
「もう戻って来たのか?」
「うん。途中まで行ったんだが||」
五郎は片足飛びで、耳の内の水を出した。
「戻って来たよ」
「福は?」
「見うしなった。先に行ったんだろう」
やはり体が冷え、酔いも醒めていた。五郎は衣服をつけ、掌をこすり合わせた後、食器のアルコールを飲んだ。三十分経っても、福は戻って来なかった。
「もう帰ろうや」
缶詰類を水に放り、二人は宿舎に戻ったが、福の姿は見えなかった。海水のため体がべたべたするので、五郎はまた外に出て、真水で全身を拭う。海を眺めながら、さっきの
翌朝、福の死体が波打際で発見され、早速医務室に運ばれた。水を飲んでいる様子がないところから、心臓麻痺と診断された。福の戦病死は、暗号『仁』によって、本隊に報告された。暗号文は五郎がつくった。
『仁にみなぎれるその戦死||』
福がつくった替歌の文句は、福にとって真実となった。
「溺れたんじゃなく、心臓麻痺だった」
五郎は女に言った。
「強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ」
「そう知ってて、どうして泳いだの?」
「悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押し切れると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな」
福兵長はその年の三月頃から、五郎と行動を共にしていた。沖縄から『仁』の電文が届く。それを翻訳する。仁は次のような文章から始まる。
『本日ノ戦死者氏名左ノ通リ』
そして兵籍番号と名前が出て来る。福が翻訳した名前の一人に、彼の弟の名があった。ずいぶん後になって、福は告白した。
「いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった」
「可哀そうだなあ」
死んだ福の弟が可哀そうか、それを翻訳した福が可哀そうなのか、はっきりしないまま五郎は同感した。福は他のさまざまの電文で、彼の一家のある地帯がやられたこと、守備隊が全滅したことなどを知っていたらしい。あぶり字があぶられて出て来るように、自らの翻訳によって故郷の実況が出て来るのだから、つらい思いがしたに違いない。五郎もその頃しばしば、ト連送の電文を見た。
『トトトト』
ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終った時が、一つの命がうしなわれた時なのだ。福の通夜の時、五郎はじっと考えていた。
〈あいつ、自殺するつもりじゃなかったのか〉
積極的に自殺を願ったのではないかも知れないが、五郎が感じたように、ここらで死んでもいいな、という気分は動いただろうと思う。それに福は酔い過ぎていた。気持が放漫になって、泳ぎ着ければそれでいいし、途中でだめならそれでもいい。泳ぎ出すことだけが自分の意志で、あとは運命に任せる。その気分の動き。
女が舌たるく聞いた。
「あんた、それで責任を感じたの?」
「責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ」
五郎は空を見上げながら、何気なく左手を女の肩に廻した。女は体をびくと震わせたが、拒否の気配は見せなかった。
「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが||」
押えていた
「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」
「今朝退院したの?」
「そうだ」
五郎は腕に力を入れて、女を抱き寄せた。女はすこしあらがった。
「そんなことをしてもいいの?」
唇が離れた後、女はすこし怒ったような声を出した。
「いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛らしいお下げ髪だったんだろう」
「そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど」
女は自分の頬に掌を当てた。
「すこし酔って来たわ」
「どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」
ずいぶん身勝手な理屈をこねている。その自覚は五郎にはあった。枕崎で飲んだ焼酎、峠であおったコップ酒が、彼の
「おれは今、何かにすがりたいんだ」
五郎は女にささやいた。その言葉は、全然うそではない。四分の一ぐらいはほんとであった。彼はさらに腕に力をこめた。
「つながりを確めたいんだ。死んだ福や、双剣石や、その他いろんなものとの||」
「ああ」
女は胸を反らしながら、かすかにうめいた。それはやや絶望的な響きを帯びた。
「いいだろ」
相手をもどろどろしたものの中に引きずり入れたい。今はその
時間が泡立ち、揺れながら過ぎた。やがて静かな流れに戻った。五郎は立ち上り、ミツギのざらざらした幹に、しばらく背をもたせ、暗い海を見ていた。
「今夜、君の家に泊めて呉れないか」
かすれた声で五郎は言った。
「行き当りばったりで、泊るところがないんだ」
「うちはだめ!」
身づくろいをしながら、女は答えた。
「あたしだけでも、いづらいんだから」
「そうだろうね」
その返事は予期していた。ただ訊ねてみただけであった。
「では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう」
「坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか」
女は立ち上った。地も空も
「寝る部屋に置いとくといいわよ」
花を五郎に手渡した。
「部屋が匂いでいっぱいになるわ」
その口調に残酷さがあった。福の通夜のことを実感として思い出せというのか。しかし五郎は素直に返事した。
「ありがとう。きっと君の夢を見るよ」
そのまま町の方に歩いた。すでに戸を立てた家も多い。すべて屋根が低いので、町は暗がりの底に、へばりついているようだ。ラジオの音や話声が、家の中から聞えて来る。
「この町の人は、ずいぶん早寝だね」
「不景気だからよ」
女は言った。なぜ不景気なのかは説明しなかった。
女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋
「この人、泊めて上げて」
女が言った。
「二十年前、海軍でここにいた人よ」
主人はするどい眼付きで五郎を見た。五郎が靴を脱いでいる間に、女はいなくなった。主人が言った。
「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」
言葉は電撃のように、五郎の背中を
「ど、どうしてそれを知っているんだ?」
五郎はどもった。
「二十年前||」
「いや。いや」
主人は視線をやわらげて、空気を両手で押えつけるようにした。
「いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相
「丹尾という男ですね」
「はあ。着いたら電話を呉れと||」
「電話なんかしなくてもいいんですよ」
やっと
「風呂に入れますか。ああ。この花をぼくの部屋に||」
ダチュラはもう
五郎の注文で、湯はぬるめにしてもらった。福のようなことになったら、たいへんだ。その
主人に借りた
「恥知らず!」
五郎は周囲を見廻した。誰もいない。壁だけだ。壁が口をきくわけがない。
〈また幻聴が出て来たな〉
と思う。聞き慣れた声だが、誰のでもない。抑揚も感情もない声である。
「なるほどね」
しばらくして五郎はつぶやいた。
「言葉を使ったからな。使わねばただの痴漢で済んだが、屁理屈をこねたばかりに、恥知らずか」
五郎は今日一日の重さをどっと感じながら、背中を鉄の壁に押しつけていた。熱さがじんじんと伝わって来る。今朝の病院脱出のことを考えていた。あれは
〈正常人が異常心理になるのを恐怖するように、異常心理者は正常に戻るのをおそれるんじゃないか?〉
そんな考えが浮んで来た。正常と異常は、紙一重の差に過ぎないだろう。しかしその差を乗り越える時、性格や感情ががらりと変ってしまう。おれにとって、それがこわかったのではないのか。それで東京を出て、数百里もある薩摩半島につっ走り、今ひっそりかんと五右衛門風呂に沈んでいる。
鉄の壁につけた背中が、やがて耐えがたく熱くなって来た。背を引き
「夕食はどげんしもすか」
「ええ」
五郎は考えて答えた。
「軽いものを。酒もすこし」
部屋に上る。へんな感じの部屋だ。天井は低く、舟底型だ。下着を海に面した手すりに乾し、部屋の真中に坐る。どうも感じがへんだ。宿屋の造りではない。第一がらんとし過ぎる。他に泊り客もないようだし、いるのは老人夫妻だけのようだ。真中にちゃぶ台があり、ダチュラの花が瓶にさしてある。ちょっと棺桶みたいな感じの部屋だ。それが五郎の居心地を悪くさせていた。五郎が坐った左側、つまり海と反対側に、明り障子が立ててある。五郎は膝でにじり寄り、そっとあけてみて驚いた。
そこには部屋がないのである。
部屋がなくて、ぽかんと
「いらっしゃいませ」
膳を置き、老婦人はていねいに頭を下げた。
「お疲れでございましたろ。
老婦人が階段を降りて行くと、入れ違いに、主人が登って来た。手に
「どら。
主人はカラカラから薩摩焼の器に注ぎ分けた。聞くまでもなく、甘ったるい匂いで、芋焼酎と知れた。食膳は割に豊富である。三種類の刺身を次々箸にはさんだ。
「もう、しおれましたな」
主人はダチュラを指でつついた。
「こいじゃから
「何だか陰気な感じのする花ですな」
五郎は水いかを食べながら、相槌を打った。
「二十年前もそう思った。葬式花みたいだとね」
二十年前の話になった。主人の言では、この家屋は軍に接収され、泊へ疎開していた。だから戦中の坊のことは、あまり知らない。
「妙な造りの部屋でしょう」
主人は立って説明した。一見壁に見えるところを開くと、かくし部屋がある。そして障子をあける。
「階段から敵がのぼって来ると、ここから飛び降りて逃げる」
「なぜ逃げるんです?」
五郎は冗談めかして言った。
「わたしには逃げる必要はないですよ」
「いや。密貿易の時代の名残りですよ」
主人は笑いながら、座に戻って来た。
「ここが島津藩の密貿易港では、最大のものでしてな。大陸に行ったり、沖縄や南西諸島に行ったり、ああ、このダチュラも、種子が船に乗ってやって来たんでしょう。どこで
「わたしが摘んだんじゃない。さっきの女のひとが||」
「ああ」
主人はうなずいて酒盃をあけた。
「どこで知合いやした?」
「キャンプ場の近くでね」
「あいも勝気過ぎって、不幸な
「泊って、女中の産地らしいですね」
「そや昔の話ですよ。あしこは近頃
主人はふたたび立って、海にむかう窓を開いた。五郎も傍に立った。
「この坊の家々も、全部
だんだんさびれて、峠を隔てた二つの部落は人口が減り、ついに消失してしまう。五郎はそんなことを考えていた。しかし主人の語調は淡々として、感傷の気配は
「
「どのくらいいるんですか?」
「約二千羽。あそこに
主人は右の方の山を指した。
「今は少し減っておるかも知れん。魚の量が減っていますでのう」
主人は窓をしめ、座に戻った。盃を手にして、じっと五郎の顔を見た。
「あんた、誰かに追われとるのじゃなかか。眼が血走っちょる」
「さっきの電話のことですか。ありゃ何でもない。途中で知合いになった男です」
五郎はわらった。
「疲れているんですよ」
「そうですか。相当お疲れのようですな」
主人は盃をあけた。
「明日はお早えかな」
「いや。寝たいだけ寝かしてもらいますよ」
五郎は答えながら、刺身のツマの大根を食べていた。千六本は適当に甘くからく、水気があってうまかった。主人は笑った。
「よほど
「ええ。二十年前にはね」
五郎は箸をおろし、盃に手をやった。
「ここで部隊は解散してね、わたしは復員荷物を背負って、枕崎へ歩いた。峠のだらだら坂を登り切ると、いきなり海が見えた。海がぎらぎらと光っていた」
五郎は盃を一気にあおり、口をつぐんだ。すこし経って主人がうながした。
「そいで?」
「あ」
五郎は放心から
「それから枕崎に出て、故郷に戻りましたよ。汽車のダイヤがめちゃめちゃで、家に着くのに、二日二晩かかった」
「苦労しやしたな。明日は苦労は要らん。バスがあっから」
「いや。明日は
「歩って行くのは無理ですな」
主人ははっきり言った。
「明日そっちに行くトラックの便があっから、そいを利用しゃんせ。わしがとこの荷を取りに行くんだ」
主人は掌を叩いて、老妻を呼んだ。
「もうお寝みになったが、ええじゃろ。ひどく疲れておらるるようだ」
老妻の手によって、食膳が下げられ、寝具の用意が出来た。淡い灯の光だけになった。ダチュラの匂いは、まだただよっている。彼は掛布団を顎まで引き上げる。女のことを思い出していた。熱い
〈便所に行く時に、あの障子をあけないこと〉
〈絶対にあけないこと。階段を利用すること〉
五郎の体は宙に浮いて、ただよい始めた。ゆるやかに、ゆるやかに、波打際の方に。||五郎は福の体になっている。すっかり福になって、しずかに流れている。そう感じたのも束の間で、次の瞬間に五郎は眠りに入っていた。
今朝、彼は密航者であった。
十時に朝食をとったが、眼が覚めたのは、ずっと以前である。やかましい音がする。五郎は掛布団を頭までかぶる。
〈うるさいじゃないか。病院だというのに!〉
布団の重さや感触の違うことに、すぐ気がつく。五郎は布団をはねて飛び起きた。窓をあけると、数え切れぬほどの
〈これはまるで鴉の町じゃないか〉
乾いた下着を取入れ、五郎は窓をしめ、寝床にとって返した。しかしもう眠る気がしない。また窓を細めにあけ、外の様子をうかがう。こんなにかしましい鳴声は、記憶にない。二千羽いるとのことだが、戦後急に
五郎は低い中二階の突上窓から顔をのぞかせ、しばらく外の様子をうかがっていた。この宿は坊のメインストリートから、すこし山手になっているので、家の屋根屋根が見える。瓦は関東などと違って、きめがこまかく、しっとりした微妙な美しさをたたえている。道が見えるが、人通りはほとんどない。まだ戸をしめている家さえある。五郎は眼を
〈おれは密航者だ〉
だんだんそんな気分になって来る。この部屋だって、そうだ。あかずの間やかくれ
庭に面した部屋で朝食をとる。庭にはサボテン、
「あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな」
「ええ」
あの女がしゃべったな、と思いながら五郎はうなずいた。主人はそれだけで、あとは追求しなかった。やがてトラックがやって来た。彼は弁当を受取り、主人の贈物のサイダー瓶に入った芋焼酎をかかえ、トラックの荷台に飛び乗る。宿賃は意外に安かった。手を振って、トラックは動き出した。
荷台の上のカンバスをたたんで腰掛け代りにする。しかし道が悪いので車は揺れ、時々ずしんと腰を突き上げて来る。昨夜は
「この車、泊を通るのかね?」
「はい。通ります」
ちゃんとした標準語で答える。こちらの言葉を理解し、きちんと返事が出来るのだ。ふたたび若者同士の会話になると、
〈おれはあまりしゃべらない方がいいらしいな〉
泊の町に入った時、五郎は背を丸め、何かをねらう眼付きになって、町並や通行人の動きに注意を集中した。しかし町並は短く、あっという間に通り過ぎた。五郎は緊張を解き、背を伸ばした。
それからしばらく、五郎は膝を立てて手を組み、車の揺れに体を任していた。日がうらうらと照り、左手の方向に海が見えたりかくれたりする。右手はずっとシラス台地で、ところどころに部落があり、時には煙突が見え、合同焼酎製造工場という文字なども読めた。やがてトラックは橋を渡った。
「これが万瀬川です」
聞きもしないのに、若者が教えて呉れた。
「ここらから吹上浜になるんです」
「君はどこの生れかね?」
「わたくしの生家は伊作です」
若者は白い歯を見せて笑った。
「アメリカ軍が吹上浜に上陸して来るというので、あの頃は皆びくびくしていましたよ。二十年前ね」
「君はいくつ?」
「二十八歳です」
「じゃ国民学校の頃だね」
「はい。八歳の時です」
トラックを乗り捨て、まっすぐ浜の方へ歩く。防風林を抜けると砂丘となり、海浜植物が茂っている。植物の名は知らないが、
しんとしている。
いや、しんしんと、耳鳴りがしている。
鴉の声、トラックの振動音、それから一挙に解放され、耳がバカになったようだ。砂浜は大きく
「隠密だの、密航者だのと||」
「おれもちょっと甘ったれているな」
波打際に出て、五郎は靴を脱いだ。靴と弁当を振り分けにして肩にかけ、ズボンをまくり上げる。サイダー瓶を下げたまま、海の中に歩み入る。
五郎は北に向って歩き出した。
歩くにつれて、右手の風景、防風林や砂丘の形は、次々に変化するが、左手の海はほとんど変らない。砂は白く粒がこまやかで、ところどころに貝殻が散らばっている。片貝や巻貝。砂や浪に磨き上げられ、真白に輝いている。五郎は時々立ち止り、珍しい形や美しいのを拾い上げて、ポケットに入れる。
約二キロ歩いた。
砂丘に上って、腰をおろす。ふり返ると、彼の足跡が浜に一筋つながっている。それを眺めていると、眼がまぶしく、すこし眠くなって来る。疲れて来たのだ。
「すこし飲むか」
まだ弁当を開くほど腹は減ってない。彼は上衣を脱いだ。背中がすこし汗ばんでいる。瓶が少々
五郎はポケットから、貝殻をざくざくつかみ出して、そこに並べる。ついでにもう一口飲んだ。
風景が急に活き活きと、立体感を持ち始めて来た。ぼんやりと明るい風光が、むしろ蒼然と輪郭をはっきりして来る。背中が微風でひやりとする。
「何だかだと言いながら||」
考えが呟きになって出て来る。酔いがすこし廻って来たのだ。やっとその頃、手や足の先がじんとして来る。
「皆どうにかやってるじゃないか」
トランク男の丹尾や昨夜の女のことを思い出しながら、そう言ってみる。次に、ヒマラヤ杉に囲まれた精神科病室のことが、胸によみがえって来る。五郎は貝殻を掌に乗せて、しげしげと眺める。どうせおれもあの病室に戻らねばならないだろう。瞬間、五郎は
五郎は追われていた。いつの時か、どこの場所かも定かでない。青年の時だったような気がする。なぜ追われていたか、それもはっきりしない。そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じた
追われて五郎は砂浜を歩いていた。追う者の正体は判らず、姿も見えなかった。しかし追われていることだけは、確かであった。その実感が五郎の全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。
漁村があった。浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。磯には海藻が打ち上げられている。岩かげなどにとくにたまっている。大潮の時に打ち上げられ、そのまま浪に持って行かれなくなったのだろう。その藻の
〈イヤだな。ああ、イヤだ〉
五郎はそう思いながら、漁家の方に近づいて行った。水汲場があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。五郎はふと放心して、その傍に立ちどまり、洗濯の様子を眺めていた。
「だめだ。どうしてもだめだ。このままじゃ、だめになってしまう」
そんな風に聞えた。同じことを繰返し、繰返しして呟いている。砂浜には誰の姿も見えなかった。白い犬が一匹、網のそばに寝そべっているだけだ。
〈へんだな〉
五郎は思った。何がへんなのか、自分でもよく判らなかった。
「小母さん」
女はびっくりしたように呟きをやめ、五郎を見上げた。それまで五郎が傍に立っていることに、女はあきらかに気付いていなかった。
「何だね?」
女はとげのある声で答えた。
「あたしゃムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでお呉れ」
「ぼく、追っかけられているんです」
「誰に? 警察にかい? 悪いことをすれば、追っかけられるのは、あたりまえだよ」
「いいえ。違います」
五郎は懸命に弁解した。
「悪者に追っかけられているんです」
「悪い者なんか、この世にいるもんかね」
女はいらだたしげに言いながら、力んで脚をひろげるようにした。五郎はまぶしくて、思わず視線を海の方にそらした。水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。そのために舟が出ないのだと、五郎は思った。
「いや」
女は言いそこないに気がついた。
「悪くないやつなんて、この世にいてたまるもんかね」
「だから、かくまって下さい」
「だから? だからだって?」
女はびっくりしたように立ち上って、眼を五郎に
「余計なこと、しないどくれ」
「ぼくはかくれたいんです」
五郎は必死になって言った。その瞬間の気持に、うそいつわりはなかった。吹きさらしの、どこからでも見えるこの場所にいるのが、こわくてこわくて、たまらなかった。女はじろりと五郎を見た。
「そんなにかくれたいのかい?」
五郎はうなずいた。とたんに涙がぽろぽろとこぼれて来た。女の声は少しやさしくなった。
「じゃそこらにかくれな。ああ、ムシムシする」
五郎は手で涙を押えながら、その傍の小屋によろよろと歩んだ。小屋の入口には
「まだまだ」
と五郎は呟いて、あたりを見廻した。
「油断出来ないぞ」
五郎はごそごそと這い廻り、小屋の構造を調べ始めた。柱はわりに太かった。しかし砂地なので、土台がしっかりしていないらしく、押すとぐらぐら揺れる。柱は何の木か知らないが、長年の潮風にさらされ、材質のやわらかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上っている。板の間の一番奥に、
〈何が写るか判らない!〉
その恐怖で、五郎にはとてもその布をめくる勇気が出ない。鏡台には
毛髪がへばりついた
「なにしてんだい!」
ぎくりとして振り返ると、先ほどの洗濯女が土間につっ立っていた。もう半分ほど眼がつり上っている。五郎は返事に
「
女は立ったまま、両手で五郎を引きずり倒した。女の腕は太かった。筋肉がもりもりして、男の腕のようだ。五郎は押えつけられながら、あやまった。
「許して下さい。許して下さい。もう絶対に小探しはしませんから」
「許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない」
女は手をゆるめなかった。小荷物を扱うように、五郎を乱暴にとり扱った。それはまるで器械体操のようなものであった。観念して全身の力を抜いた時、裏山の方から大勢の歌声がかすかに聞えて来た。意味も何も判らない。一節歌い終る度に、はやし言葉のようなのが聞える。
「はん、はん、はん」
「はん、はん、はん」
そんな具合に五郎の耳には聞き取れた。その歌声がだんだん近づいて来る。||
「だめだ。どうしてもだめだ」
五郎を強引に処理し終って、女は立ち上り、いらだたしげに言った。
「このままじゃ、だめになってしまう」
そして五郎を振り返りもせず、せかせかと裏口から出て行った。独りになると、別の恐怖が彼にこみ上げて来た。
〈ここにいたら、たいへんだ〉
五郎は立ち上り、大急ぎで身づくろいをして、土間に降りた。表の入口の
「今だ!」
五郎は砂浜に飛び出した。浜に上げられた漁舟の
「これで当分、安心だ」
舟底は暗かった。かすかな光が
五郎は、ふっと
眼をつむる。うとうとと眠りに入った。
どのくらい眠っていたか判らないが、何だか首筋や手の骨の痛さで眼が覚めた。
〈誰かがおれに
不機嫌な感じがあって、しぶしぶ眼を見開いた。しばらく木の梢や空を眺めながら、ここはどこだろうと考えていた。そしてゆっくりと上半身を起した。
「ああ。ここで眠っていたんだな」
それが納得出来るまでに、三十秒ほどかかった。誰も理不尽なことをしたわけではない。木の根の固さと不自然な体位が、五郎の体に痛みをもたらしたのだ。彼は手を屈伸し、肩をたたき、体操の真似ごとをした。ふと見るとサイダー瓶は倒れ、栓のすき間からこぼれて砂にしみたらしく、内容は半分ぐらいになっていた。こぼれたって、別に惜しいとは思わない。五郎はそれを拾い上げ、また一口飲んで、もうこぼれないようにしっかり栓をした。そして立ち上る。
「昨日も今日も、昼酒を飲んだな」
五郎は歩き出しながら、大正エビのことを思い出した。大正エビはアル中患者だ。まだ若くて、すっきりした顔で、付添婦や看護婦によくもてた。アル中患者なんてものは、アルコールを断たれると、
「酒、欲しくないか?」
五郎は聞いたことがある。入院して二、三日目のことだ。
「別にそれほど||」
大正エビは彼の眼をうかがいながら答えた。
「あれば飲みますがね」
朝から飲むとのことであった。つまり一日中酒の
〈今のおれとよく似ている〉
五郎は思う。歩きながら、左手の海のひろがりが何となく気になる。いったん波打際に行くが、歩いている中に、しだいに足が防風林の方に寄って行く。振り返ると、足跡がそうなっている。やがて川にぶつかった。川口は南方は
「さて」
五郎は岸壁がこわかった。生れて最初に水死人を見た所が、これによく似た岸であった。材木を三本、三脚式に立て、結合部から綱が数本水に垂れている。その綱で水死体をからめようとするのだが、なかなかひっかからない。浪は荒れていた。流れ込む淡水と海水が混り合って、三角波を立てている。五郎は小学生で、お
「子供たちゃあ邪魔だから、あっちいけ!」
「ごそごそしていると蹴飛ばすぞ!」
皆気が立っているので、言葉も動作も荒い。そう罵られても放っとけない気がして、五郎はあちこちに頭や肩をぶつけながら、うろうろしていた。水死人が女であることは、作業の男たちの会話で判っていた。
〈お母さんじゃなかろうか〉
五郎はしきりにそんなことを考えていた。しかし五郎の母は、彼が家を出る時、台所であとかたづけをしていた。五郎は家を出てまっすぐここに来たのだから、母である筈がない。やがて死体がひっかかったと見え、作業員の動作が急に慎重になる。綱が引かれる。綱の先にぶら下った死体が見える。
〈なぜお母さんじゃないかと思ったんだろうな〉
五郎はゆっくりと立ち上った。川口を徒歩で渡る気持はなかった。防風林の方にのぼり、小さな木橋を渡り、また砂丘に戻って来た。眠っている中に陽が
「だんだん元に戻ってゆくようだ」
五郎は
「一体おれは、福の死を確めることで、何を得ようとしたのだろう? おれの青春をか?」
結局おれは福の死をだしにして、女を
橋を渡って、また二キロほど歩いた。疲労がやって来た。砂浜は足がばくばく入るので、ふつうの平地を歩くよりずっと疲れるのである。
大きな流木が打ち上げられていた。そこまでたどりつくと、五郎はほっとして腰をおろし、しばらく海を眺めていた。眺めていると言うより、にらんでいた。流木はずいぶん浪に
「このままで||」
と五郎は口に出して言った。
「振出しまで戻るか。それとも
五郎は栓を歯でこじあけ、残りのすべてを
〈まだ大丈夫だ〉
五郎は沖をにらみながら思う。
〈まだその手には乗らないぞ〉
彼はなおも福のことを考えていた。おれは福に友情を感じていたのか。いや。感じていなかった。あるとすれば、
〈あのチンドン爺さんは面白いなあ〉
内山という六十ぐらいの太った爺さんで、街でチンドン屋に会うと気分が変になり、入院して来るのだ。チンドン屋を見ると、なぜ変になるのか。一歩踏み込むと判りそうな気がするのだが、その一歩が踏み込めない。爺さんにも判っていないらしい。一度
「わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ」
「おかしなもんだね」
「うん。おかしなもんだ」
ある日五郎は、大正エビと電信柱と
「チンチンドンドン、チンドンドン」
口で
爺さんはきょとんとした表情で、しばらく五郎たちの動作を眺めていた。それからにやにや笑うと、自分も茶碗を持ってベッドから飛び降り、チンドン行列に参加した。病室は壁が厚いし、床も頑丈に出来ているので、音は外部に
叱られてベッドに
「爺さん。気分がおかしくならないのかい」
「おかしくならないね」
「なぜ?」
「お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ」
と爺さんは答えた。
「初めわしは、お前さんたちが気が狂ったのか、可哀そうに、と思ったよ」
もちろんこの病室の四人は、自分が気が狂っているとは、夢にも思っていないのである。電信柱が舌打ちをしてベッドに戻ると、爺さんは追打ちをかけるように言った。
「しかし、面白かったよ。またやろうや」
五郎はその会話を聞いていた。最後のその言葉には同感であった。自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう。爺さんの言うように、
〈たとえばこんな
五郎は今流木の傍に投げ捨てたサイダー瓶を拾い、ついでに流木の枝を折り取ろうとしたが、
「それっ||」
足を斜めに踏み出しながら、瓶を石でたたく。ひょいひょいと飛び交いながら、
「チンチン、ドンドン」
「チン、ドンドン」
誰も見ていないでもいいのだ。ただ一人五郎は、踊りながら砂浜を行く。しかし三十メートルほど行くと、さすがにくたびれて、足がもつれる。彼は踊りやめた。そのまま腰をおろそうとして、砂丘に眼をやると、そこに見物人が一人いるのを見つけた。子供である。そちらに歩を踏み出すと、その子供はあわてたように、水の中に入った。そこは入洲みたいになっていて、細い水路で
「これは何という魚かね?」
砂上のバケツをのぞこうとすると、子供はあわててじゃぶじゃぶとかけ寄り、バケツの位置を移そうとした。十二、三の男の子で、白い
「小父さんは気違いじゃないんだ。安心しなさい」
少年の眼の警戒の色を見ながら、五郎はやさしい声を出した。
「芋焼酎を飲んだら、踊りたくなったんだ」
少年は思い直したように、バケツから手を離した。五郎と並んで腰をおろした。
「これ、ボラだろう」
五郎は言った。少年は首を振った。しかし五郎にはボラとしか思えなかった。
「ボラだよ」
子供はまた首を振った。濡れた砂の上に指で、ズクラ、と書いた。口がきけないのかな、と五郎は思った。
「ズクラ、というのか。おいしいかね?」
また少年は砂に、ウマイ、と書いた。五郎は突然空腹を感じた。彼は腰にゆわえた弁当の風呂敷を解いた。大きな
「君もお握りを食わないか」
「食う」
初めて口をきいた。立ち上ると自分の服を脱いだ場所にかけて行き、小さな平たい板と小刀と、ビニールに包んだ
「それでもう食えるのかい?」
握り飯をひとつ少年に渡しながら、五郎は言った。少年はうなずいて、肉片に味噌をなすって、五郎に差出す。
「うまいな」
五郎もおかずを差出し、縄タクアンを板の上に乗せた。
「ついでにこれも切って呉れ」
ズクラの刺身と豚煮付けとタクアンで、五郎と少年は並んで食事をした。どれもうまい。野天の豪華な真昼の宴だ。縄タクアンの味は、二十年前の記憶にある。これは壺漬けと言うのだ。薩摩半島でつくられ、軍艦や潜水艦に
「君の家はここらかね?」
「うん」
少年はうなずいた。少年は日焼けして、肌も浅黒かった。眼が大きく、容貌はきりっと引きしまっていた。
「お父さんは、何してる?」
「町で自動車の運転手をしておる」
「町って、どこ?」
「伊作」
「お母さんは?」
「うちにおる」
「ふん」
彼はこの少年の一家のことを考えていた。
「も少しお酒が飲みたいな。君んちで飲ませて呉れないか」
少年は黙っていた。立って服の所に行き、服を着た。もうズクラ獲りはやめる気になったらしい。バケツの中に板と小刀を放り込んだ。五郎は性欲を感じた。少年に対してではない。海や雲や風の中で、自然発生的に浮んで来たのだ。酔いのせいもあった。流木のところであおった焼酎の酔いが、そのまま動かなきゃ暗く沈むところを、チンドン屋の真似をしたり、少年と話を交わしたばかりに、外に発散した。海からの誘惑は、もう消失していた。少年がぽつんと答えた。
「うちは困ッ」
「なぜ?」
「うちは酒屋じゃなか」
それは知っているが、と言いかけて、五郎は口をつぐんだ。少年の家に押しかけて行くべき理由は、何もないのだ。彼はサイダー瓶を防風林へ投げ、弁当の殻や包み紙はまとめて火をつけた。透き通った炎を上げ、すぐに焼け
「伊作って遠いのかい?」
「ちっと遠い」
「案内して呉れるかね?」
少年はうなずいた。立ち上らざるを得ない。
松林に入る。しばらく歩くと、林の中に大きな縄が置いてある。長さ二十メートルばかり。立ち止って調べると、松根を
「これで何をするんだね?」
「綱引き」
「綱引き? 両方から引っぱり合うのか」
少年はうなずく。
「なるほどね」
五郎は答えたが、
「ちょっとここで休憩しよう」
少年は
「あそこに茶店があるだろう。ジュースを二本買って来て呉れ、咽喉が乾いた」
少年はちょっとためらったが、五郎は無理に
「もし伊作に泊るとすると||」
その分をポケットに入れた。残りの金では、とても東京まで戻れない。しばらく掌に乗せたまま、考えていた。
「熊本まで行って、三田村に電報を打って、送金してもらうか」
三田村と言うのは、病院を紹介して呉れた友人のことだ。今は画廊を経営している。五郎は熊本で学生生活を四年送ったことがある。三田村はその時からの友人であった。熊本から電報を打つという思いつきは、そこから出た。三田村ならためらわず送金して呉れるだろう。学生時代にそば屋だった店があり、二人ともそこによく通い、酒を飲みそばを食べた。それが戦後旅館に転向して
〈そうだ。丹尾も阿蘇に登ると言っていたな〉
五郎は枕崎までの同行者を思い出した。別に丹尾に再会したいとは思わないが、金が送られて来るまでに、時間がかかるだろう。阿蘇に登ってもいいな、と五郎は考えた。彼は学生時代、二度阿蘇に登ったことがある。しかし二度とも、
〈しかしほとんど危険は感じなかった〉
と五郎は思う。まだ若くて、生命力にあふれていたのだろう。生命に対して自信があったのだ。今とは違う。
三田村は五郎の良友であると同時に、悪友でもあった。酒色を本格的に教えたのは三田村である。いつだったか、盛り場で酒を飲み、下宿に戻る途中、
「この店にだけは泊るなよ。あとできっと後悔するから」
「なぜ?」
「理由はどうでもいい。泊るなというだけだ」
三田村は同年輩のくせに、へんに老成し、先輩ぶりたがるところがあった。五郎はそれがいやだったし、その時も心の中で反撥を感じた。
〈そこは私娼だから、病気を恐れろという意味なのか?〉
それならそうとはっきり言えばいい、と五郎は思った。しかしも一度聞き直すのは、彼の自尊心が許さなかった。それから一週間後、一人で酒を飲み、夜
「そのひと、あいてる?」
「はい」
女は娼婦らしくなく、小学生のように素直な声を出した。五郎は靴を脱いで、二階に上った。ここに勤め始めて二箇月だそうで、女の体はまだ未熟なように思えた。
「何でここに泊ってはいけないのだろう?」
そのわけは翌朝になって判った。七時過ぎに眼がさめ、服を着て窓をあけた。窓の下を人が通っている。五郎ははっとした。通行人のほとんどが学生であり、彼の同窓生であった。
「なるほど。これは困ったな」
五郎は窓をしめ、また細めにあけた。今朝の坊の宿と同じ姿勢で、妓の持って来た茶をすすりながら、道を見おろしていた。道を通る人は前方ばかり注意して、案外上を見ないことに彼は気がついた。
それは五郎が教わっている松井というドイツ語の教授であった。中年にして頭の
にらみ合いに勝った、という感じは全然なかった。打ちのめされたような敗北感だけがあった。彼は震えながら、女に酒を頼んだ。熱いコップ酒に口をつけながら呟いた。
「不潔なやつだな。あいつは!」
不潔なのは自分であることは、理屈では判っていた。しかし実感としては、教授の方が不潔でいやらしいと思う。教授が窓を見上げねば、不潔感は生じなかった。見上げたばかりに、
〈やはりおれの負けだったんだ〉
太縄の
「栓抜きはないのか」
「忘れた」
「だめじゃないか。借りておいで」
そして五郎は言い直した。
「借りて来なくてもいい。向うであけてもらって来いよ」
「栓抜きがなくても、歯であける」
あれは寒い夜で、たしか三学期の初めであった。九時過ぎに
松井教授に対する不潔感は、まだながく残っていた。どうしても教授の講義を聞く気がしない。で、その学期中、五郎は松井の講義に出席しなかった。学期末、五郎はとうとう落第した。実際に点数が足りなかったのか、松井教授が彼を憎んだのか、今もって判らない。もう教授も死んだ筈だし、問いただすすべはないのだ。赤提灯の一件は、三田村にも話さなかった。
少年が歯で抜いたジュースは、なまぬるかった。陽光にさらしていたのか、甘さに日向くささがある。半分ほど飲み、五郎は少年に話しかけた。
「伊作に床屋があるかい?」
「ある」
瓶から口を離して、少年は声を力ませた。
「床屋ぐらいはある!」
「ああ、そうだ」
トラックの荷台の若者との会話を思い出した。伊作の生れだと聞いた。
「近くに温泉があるそうだね」
「うん」
飲み干した瓶を、少年はていねいに松の根にもたせかけた。
「湯之浦温泉」
「近いのか」
「ちっと遠い」
少年は初めて笑いを見せた。
「自動車で行くと直ぐじゃ」
父親の職業を思い出したのだろう。陽を受けて額に汗の玉が出ている。
〈今夜はそこに泊ろうかな〉
五郎は海を見ながら考えた。立ち上ってジュースの残りを砂にぶちまける。
〈床屋に行って、さっぱりして||〉
五郎は流木の方を眺めていた。流木からの足跡がまだ残っている。きちんと並んでいるのでなく、じぐざぐに乱れている。チンドン屋の真似をしたためだ。流木の彼方の足跡は、もう定かではない。武蔵野の
「行こう」
五郎は瓶を捨て、少年をうながした。巨大な海と陽に背を向け、二人はゆっくりと歩き出す。
熊本の宿で、五郎は女指圧師に
部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹を描いた宮本武蔵の
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
彼は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
彼女は揉み始めた。
「お客さんの体は、妙なこり方をしとるね」
「そうらしいな」
五郎は腹
「昨夜もそう言われたよ」
「誰から?」
「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」
五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩が
昨日五郎と少年は吹上浜をあとにして、伊作の町の方に歩いた。自動車一台が通れるほどのせまい路で、両側に畠がひろがっている。少年はしだいに彼に親近感を深めるらしく、自分から進んで、あちこちの風景を説明したりした。いっしょに食事したことが、そんな変化を少年にもたらしたのか。やがて彼は少年を、少年が彼に持つ関心を、うるさく感じ始めていた。
しばらく歩くと、家並が見えて来る。床屋があった。だんだら模様の
「おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい」
「もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ」
「小父さんはここでいいんだ」
彼は強引に床屋に入る。少年は頬をふくらまし、彼につづいて土間に足を踏み入れた。どこまでもついて来る気か、と彼は思う。少年は理髪師に声をかけた。
「こんちゃ。漫画本を読ませって下さい」
五郎は理髪台に乗った。髪を刈っている間、少年は背を曲げるようにして、漫画本に見入っている。時々声を立てて笑う。鏡の中のその様子を、彼は警戒の眼色で見ていた。
散髪が終って、台の背が倒され、
「小父さん。お父さんの車を呼ん来たど」
車? 車だって? 五郎は軽いめまいを感じ、そばの電柱につかまった。おれはハイヤーを頼んだ覚えはない。自動車で行けば直ぐだと、少年の口から聞いただけだ。何をかん違いしたのだろう。
「さあ。どうぞ」
実直そうな角刈りの父親が、既定の事実のように後部のドアを中から押す。彼は吸い込まれるように、ふらふらと乗ってしまった。
「湯之浦温泉でっね」
返事も待たずに車は動き出した。五郎はだんだん腹が立って来た。うかうかと乗り込んだ自分自身に対してだ。
「お客さあ」
運転手がハンドルを切りながら言った。
「湯之浦に泊っとですか?」
「まだはっきり決めてない」
「泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい」
「なぜ?」
「あたしの
五郎は黙っていた。間もなく湯之浦に着く。黙ったまま、代金を支払った。貧寒な温泉宿の一軒をえらび、部屋に入る。着換えして温泉につかると、あとはもう何もすることがない。焼酎を注文して部屋に坐り、じっと飲んでいる。その彼の心を、遠くから脅して来るものがある。
〈なぜおれが佐土原というあんまを呼ばなくちゃいけないのか?〉
あの少年と浜で出会った時から、妙な段取りがつけられて、うまくそれに乗せられたような気がする。自分の意志と関係のない、何か陰謀めいたものが、煙のように彼を取巻いている。彼はしばらく食膳のものをつつきながら考えていた。考えるというより、ともすればこみ上げて来る不安感を、つぶそうつぶそうとしていた。彼は呟いた。
「状態がどうもよくないな」
彼は決然と床柱から背を剥がし、
「佐土原というあんまさんがいるそうだね」
「はい。おいもす」
「呼んで呉れ」
「はい」
女中は手早に布団をしき、出て行った。あんまはすぐにやって来た。痩せて背が高く、盲目のようである。かんはいいらしく、独りで手探りしながら、部屋に入って来た。五郎はあわてて膳を部屋の隅に押しやり、布団に寝そべりながら言った。
「ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理な
「へ、へへえ」
あいまいな返事をして、老人の指は彼の
「
「どんな具合に?」
あまり人が
「
「うん。いや」
あんまというやつは、どうもくすぐったい。くすぐったい反面に、いまいましい感じがある。向うが自由にこちらの体を動かす。こちらの自主的な姿勢は許されない。あんまに奉仕しているみたいだ。それが第一に
「病院にしばらく入っていたんだ。ほとんど寝たっきりでね」
心は癪にさわっているけれども、肉体はくすぐったく、笑いたがっている。口も肉体の一部だから、ふつうの声を出すのに苦労をした。笑い声になりそうなのだ。
「はあ。ないほどね」
ずっと寝たきりで、運動といえば病院の廊下を歩く程度で、外出は許されてなかった。それを昨日脱出して、警戒したり力んだりして旅行した。その力んだ部分が妙な凝り方をしたのだろう。全身を揉み終ったあと、老人はまた彼にうつ伏せの姿勢を命じた。彼は枕に顔を当てて、素直にそれにしたがった。背中と腰の間のところが、急に圧迫された。拳や
〈何で押しているんだろう〉
彼はいぶかしく思い、顔を横にして、さらに横眼を遣って見上げた。するとあんまの顔が、おそろしく高いところに見えた。
「おい、おい。あんまさん」
五郎はつぶれた声で言った。
「お前さん、どこに立ってんだね?」
「お客さあの背中いですよ」
「冗、冗談じゃないよ」
とたんに腹が立って来た。
「おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにして呉れ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か」
「踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす」
あんまはかるく足踏みをした。
「よか気持でしょう」
そう言いながら、あんまはそろそろと降りた。五郎は憤然と起き上って、寝具の上にあぐらをかいた。あんまは今度は頭の皮膚のマッサージに取りかかった。頭の皮はきゅとしごかれ、その度に眼が
「揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ」
「揺り返し?」
「揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。
「いや。明晩はここにいない」
「あ。そうござしたな。では次の旅先で||」
そう言いながら、あんまは手をうろうろさせた。
「お客さあ。灰皿をひとつ、貸して下さいもせ」
彼は灰皿を取ってやり、じっと老あんまの動作を見守っていた。あんまは煙草を出し、器用にマッチをつけた。彼は言った。
「あんたは全くのめくらじゃないね」
「はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね」
五郎も煙草を出して、気分を落着かせるために火をつけた。
「今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった」
「ああ。十五夜綱引のことですな」
「綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?」
「皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな」
「どんな意味があるんだね?」
老若男女が綱をにぎって、エイヤエイヤと引っぱり合う。その夜の情景は
「お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな」
「なに?」
同じ質問をあんまは繰り返した。
「誰にそんなことを聞いた?」
「運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな」
あんまは煙草をもみ消して、耳にはさんだ。
「踊いもやっとござす。町中総出で」
沈黙が来た。少年が彼の無意味な踊りを見る。髭剃りの途中に伊作まで走り、父親にそのことを報告する。父親があんまに告げ口をする。少年はどんな報告を父親にしたのだろう。父親を
「もういい。いくらだね」
自然ととげの立った声になる。言われた通りの代金を支払う。あんまが出て行ったあと、彼は膳を引寄せ、布団に腹這いになった。
「お
彼は
「踊ろうと踊るまいと、おれの勝手だ。他人から四の五の言われる筋合はない!」
少年が彼に親しみを見せたのは、いっしょに食事をしたせいではない。秘密を共有したという気持から、彼につきまとったのだ。共有。いや、共有でない。
〈おれの秘密を見たことで、あの子供は妙な優越感を持ったのだろう。おれという
彼は眼を閉じて、少年の風貌を思い浮べた。肌は浅黒く、眼が大きく、頭の鉢は開いていた。あの大きな眼で、どんな風に彼を眺めていたのだろうか。酔っぱらいと思ったのか、気違いだと判断したのか。とにかくそのおかげで、ハイヤーに乗せられ、あんまに背中を踏んづけられる羽目におちいった。すべてが誤解の上に成立っている。彼がチンドン屋の
「なあ。子供よ」
茶碗の焼酎をぐっとあおり、彼は少年の顔を思い浮べながら呼びかけた。
「おれたちはあの時、判り合っていたんじゃないのか。お前は独りでズクラを獲り、おれは独りで踊っていた。それだけの話じゃなかったのか」
不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着換えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。
「おれは
怒りのあまり、布団の
「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」
朝早く伊作を発ったので、昼前に熊本に着いた。駅は人の動きや汽笛やスピーカーで騒々しい。駅の構内に入ると、どうして人間はこのように足早になるのだろう。そう思いながら、五郎の足もしだいに早くなる。皆せき立てられた鶏のようだ。肩と肩とが時々ぶつかり合う。
改札を出ると、案内所に寄り、旅館の名を確める。次いで郵便局に寄り、東京の三田村に電報を打った。
『東京に戻るから旅費を送って呉れ』
という意味のもので、旅館の町番地を書き、そこの気付にした。東京に戻る気持は、昨日からきざしていた。この電報を打てば、決定してしまう。それが一瞬彼をためらわせた。
〈しかし電報を打たなきゃ、金はどうする?〉
エイという気合で、彼は窓口に
「揺り返しか。地震みたいだな」
鎮痛剤を
「やはり怒ったのがいけなかったのかな」
怒ると筋肉が緊張する。それが
「つまりおれは、怒りという媒体がないと、世の中に入って行けないのだな」
この論理は間違っていた。世の人間関係に巻き込まれたから怒ったのであって、彼が怒りを持って参加したのではない。五郎はうすうすとそれを知っていたが、前者には眼を閉じ耳をふさぎ、後者に
ポークカツを切り刻み、ソースをだぶだぶかける。ビールと交互に口に運びながら、大きな窓ガラス越しに、外を眺めていた。駅舎には相変らず人々が忙しげに出入りし、駅前にはタクシーやバスが着いたり、走り出したりしている。五郎は昔から、駅の雰囲気は好きであった。各人がお互いにつながりを持たず、自分の目的に向って、ばらばらに動き廻っている。総体的にはまとまりがない。盲目の意志とでも言ったものが、人間をちょこちょこと動かしている。それが彼の気に入っていた。
〈電報を打つのは、早過ぎたかな〉
その考えがちらと頭を通り過ぎる。フォークを皿に置き、コップの残りを飲み干す。ゆっくりと立ち上った。
広場を横切り、駅の前でタクシーを拾った。
「東京屋にやって呉れ」
今夜泊る予定の宿屋である。鎮痛剤がきいて来たのか、
「今夜泊りたいんだがね」
五郎は言った。
「お
「お内儀さんって、何じゃろ?」
「そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の
男は黙って、五郎の頭から足先まで眺めた。職業的な視線でなめ廻した。
「ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが||」
「そりゃムリたい」
「なぜ?」
「うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?」
「二十七、八年前、学生時代だ」
五郎はハンカチで額を拭いた。
「会えば判ると思うんだがね」
「そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい」
眺め廻すのをやめて、男はまっすぐ五郎の顔を見た。どの程度の客か、判定し終ったらしい。
「なぜ? 病気なのかい?」
「うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい」
額をぐいと押された感じで、五郎は黙った。こめかみがびくびく動くのが判る。何で早くそれを言わないのか。やがて男が心配そうに言った。
「気分がわるかと?」
「いや。別に」
「そればってん、顔が||」
「この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る」
ハンカチをしまいながら、五郎はかすれた声を出した。
「それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね」
「ん。まあね」
気のなさそうな返事をした。
「泊めんのが、商売だもん」
男は手を打って女中を呼んだ。
「お荷物は?」
「あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといて呉れ」
「そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん」
五郎は横町を出て、街路に出る。やはり顔がこわばっている。荷物は持たないし、服もきちんとしていないし、靴もよごれている。上客ではない。言われなくても、自分で知っている。しかしあの番頭の客あしらいは、
〈金はいくら残っているのかな〉
五郎は感情を制しながら、ポケットに手をつっ込み、指先で勘定した。眼で見ないで、指で数えられるほどの少額である。老練な客引や番頭になると、顔や服装を見ただけで、客の持ち金をほぼ正確に言い当てるという。
「ふん」
五郎は肩を落し、三分間ほど曲り角に
〈イヤだな。歩き廻るのはよそうか〉
と思っても、今宿屋に戻る気はしない。
天気はよかった。空気は乾いていた。光はあまねく街に降っていた。
ここを離れて、五郎は時々この土地のことを思い出し、また夢にまで見た。それはいつも青春の楽しさや愚行につながっていた。楽しさや愚行に都合のいいように、街の相は彼の頭の中で、修正されているかも知れない。その修正と、現実の街の変貌が一致しない。それが五郎には面白くない。
五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。
〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉
入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が
〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで||〉
しかも
歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の
「たしかここらの||」
五郎は用心深く視線を動かした。
「この建物じゃないか?」
大きな
しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶に
〈こんな具合に||〉
五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は
それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。
〈まずいな。これは意味ないな〉
こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。
〈降りて来るかな〉
へんな中年男が
めずらしくかき氷屋があった。東京ならもう
「氷イチゴ!」
また背中のあちこちが痛み始めていた。
「それに、水一ぱい」
痛いというより、熱っぽく
「このすこし向うの||」
店番をしている婆さんに、彼は何気なく聞いた。
「雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?」
「学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる」
「ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな」
赤い氷を彼は口に入れた。さっきのにらみ合いは、二十秒ぐらいであった。松井教授のもそれくらいだっただろう。松井教授はあの時、あの窓に何を見たのか。もうそれを知るすべはない。ただその結果、五郎はきたないものを踏んづけた気分になり、きりきり舞いをして、落第した。
「お婆さん。ここら空襲を受けなかったのかい」
彼はまた呼びかけた。
「あの家は、昔から下宿屋だったのかい?」
「はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい」
「大水? 戦前に?」
「いいえ。それがあんた、戦後の昭和||」
「二十八年よ」
少女が補足した。
「六月二十六日」
「ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、よなを溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯
今のおれには関係ないな、と思いながら、五郎は老女の話に聞き入っていた。老女の話方には熱がこもっていて、彼の耳をひきつけた。
「そん都度に家が揺れ、
「旦那さんは?」
「はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチン
「パチンコ屋にも?」
「そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、
「泥水を?」
「泥水が飲めるもんですか。こやし臭うして。水道ですたい」
「水道は菊池の方から来るとです」
少女が口を入れた。
「泥水がひいち、水道ん栓ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと」
「どうしてそんな大洪水がおこったんだろう?」
五郎は最後の一
「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです」
「ひどかでしたばい」
婆さんは口をとがらせた。口から泡を吹くような調子で、
「あいからあたしゃリューマチにかかって、まだ直りきらんとです」
十年以上前のことを、老女は昨日の出来事のように熱っぽく語る。その情熱は、どこから来るのだろう。あの建物の二階にいる青年は何者か。それを調べて写されたネガを取戻したい。そう思ってこの店に入ったのだけれども、
「そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂ですばい」
「そうかね」
彼はしばらく白川べりの
「いくらだね?」
代金を払う。昼食べたのがソースにひたしたポークカツなので、まだ
〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを!〉
西日が五郎の背中を照りつける。
そこには昔の面影は、全然なかった。かつては畠もあったし、樹も生えていた。家もあった。五郎がいた素人下宿は、一番奥で、その先は白川の河原になっていた。河原の水たまりから蚊がたくさん発生して、学生の彼をひどく悩ませた。
〈やはり洪水にやられたんだな〉
ここらは割に土地が低いので、河原からあふれ出た泥水が、ものすごい勢いで家を
〈道を間違えたんじゃないか〉
その
彼は一歩一歩、河原の方に歩く。途中でつき当った。護岸工事がほどこしてあり、河原には降りられない。気のせいか、川幅もずっと広くなった。護岸の上には、人が落っこちないように、コンクリートのガードがある。五郎はそこに腰をおろして、煙草を取出した。彼がいた下宿の場所も、向日葵が咲いているあたりだと思うが、はっきりは判らない。
「あの
六師団付の軍人に
五郎は女将から一度だけ誘惑されたことがある。元亭主の軍人が再婚して、披露宴の招待状が来た。そのやり口に腹を立てて、彼女は
「催眠薬を上げようか」
女将は催眠薬を酒といっしょに飲み、彼を誘惑した。彼は拒否した。
「小母さん。あんたはいつか僕のことを、中途半端な人間だと言っただろう。無理をしないで生きて行けとも言った。お説の通り、おれは無理をしたくないんだ」
今にしてみれば、いくらか残酷で散文的な断り方だったと思う。しかし彼にも言い分はあった。級友の西東という男と、女将は関係を持っていたからだ。||
煙草は乾いた口に
西東はそのためかどうか、落第した。中傷の手紙が行き、西東は熊本に戻らず、私学に入る予定で、東京に
「あの手紙を書いたのは、あんたでしょ」
女将は酔って彼にからんだ。
「あのおかげで西東は、熊本に戻れず、結局戦死してしまったのよ」
「書きゃしないよ、そんなもの」
彼は驚いて抗弁した。
「君等を
結局西東は、犯人が彼であるかないか、半信半疑で出征したという。彼は暗然とした。
〈あそこらの猫の額ぐらいの土地で、おれたちは何をじたばたしていたのか〉
おれの青春はひねこびて小さく、華やかそうに見えて、裏には悪夢のようなものがぎっしりと積み重なっている。向日葵の方向を眺めながら、五郎は考えた。
同級に小城という男がいた。彼にこの下宿を紹介したのは、小城だ。紹介というより、
「
「どんな客だね?」
「身内のものだ」
と小城は答えたけれども、実際にやって来たのは、身内のものでなかった。小学校の女教師で、五郎の部屋で情事がおこなわれた。五郎がそのこまかい
「入る時はあんなに頼んでおきながら、おれにあいさつもなく転居した」
それが五郎には面白くなかった。信用出来ないという印象だけが、彼に残った。
〈信用出来ないのではなく、裏切られたという感じだったな〉
五郎は煙草を捨て、ぶらぶらと歩き出した。ここを見る意味はなくなっていた。
戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年経って、彼にまとまった金を借りに来た。
「何に使うんだね?」
「家を建てたいんだ」
「まだあの人といっしょかね?」
「あの人って?」
「紫の袴をはいていた女さ」
「ああ」
小城はちょっと顔をあからめた。
「あれは今、ぼくの女房だ」
小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。
「金のことなら、お断りするよ」
五郎は言った。
「そんな金はない」
「そうかね」
小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ
私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。
それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。
「そういう男なんだ。あいつは!」
三田村ははき捨てるように言った。
「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」
五郎は何となく、
「何が何でも!」
終末的な力みだけで、枝が花を支えているように見えた。
宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団部屋に使っているのではないか。
「いい部屋だね」
彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。
「あんまか指圧師を呼んで呉れないか」
「御食事前にですと?」
「そうだ」
「聞いち来ますけん」
女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。
〈昨日今日とよく歩き回ったからな。野良犬みたいに!〉
五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。||少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。
〈真底くたびれたな〉
障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。
「どうぞ、ここに||」
女中は言った。
「指圧はすぐ来ますばい」
偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。
「ズクラ」
と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。
戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの
〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉
そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。
やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。
「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」
「仕方がないんだ」
五郎は答えた。
「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」
上衣を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。
妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中が
「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり||」
彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。
「ここに来て、ズクラになった」
「ズクラ?」
「いや。何でもないんだ。おれの
「熊本は初めて?」
「うん。いや。昔いたことがある」
「いつ頃?」
「君がまだ生れる前さ」
「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」
「うん。よく判るね」
彼はうそをついた。
「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」
「どぎゃん
「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと||」
彼は半身をひねりながら言った。
「言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな」
「乗るもんですか。いやらしか」
女は
「乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ」
「そ、それはかん違いだよ」
五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。
「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が
その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信
『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』
そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。
〈はれものにさわるような文章だな〉
「よか部屋があきましたばい||」
老女中は言った。
「お移りになりますか?」
五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。
〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉
捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。
「今日、子飼橋を見て来た」
彼はかすれた声で言った。
「ずいぶん変ったね。あの橋も」
「洪水のためですげな」
「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに
「兵隊の頃?」
「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の||」
女の指の動きがとまった。
「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」
にがい笑いがこみ上げて来た。女の指が
「どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?」
「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」
子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。
〈あれは何が悲しかったんだろう?〉
学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって
「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」
五郎は低い声で言った。
「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」
「よか天気でしたなあ。今日は」
女は五郎の体を表にした。腹
「明日、阿蘇に登ってみようかな」
思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっきの橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。||
〈よし。登ってやる!〉
三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、
「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」
「保証するのかい」
「保証しますたい」
女は笑いながら、彼の
〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉
背中より
「ここの空港は、どこにあるんだね?」
「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」
「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」
名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。
「朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね」
「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」
三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。
「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ||」
「友達?」
女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺激的な運動であった。
「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」
「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」
「持っち行く?」
女は妙な顔をした。
「まっで荷物んごだんね」
「荷物だよ。おれは」
「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」
五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかく
〈こんなものだ〉
彼は声にならないうめきを洩らしながら思う。
〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの||〉
「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」
「だから明日は山に登るんだ」
「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」
女は足から降りた。
「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」
五郎は正座に戻り、女の顔を見た。
「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」
「暇は暇ですばってん||」
女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨は動かない。皮と骨の間に
「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」
女はしばらく黙っていた。すこし経って、
「悪かことば聞いてんよかね?」
「いいさ」
「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」
五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。
「よく判るね」
皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。
「どうして判る?」
「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」
「そうか。
「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来るっとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」
得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。
「だから登るんだよ」
「なして?」
「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が||」
「しばし別れの||」
「うん。そうだ」
女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。
五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。
「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」
九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。
〈やはり来なかったな〉
弁当二人分が入った包みを網棚に乗せながら、五郎は思った。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈はない。
〈しかも
昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。
今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。
「化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」
彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのももの
駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。
彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。
昨夜の一時的の躁状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重く
〈あれはうらやましいな。無責任で〉
医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、
「昨夜はよく眠れたかね」
すると青年はすぐ言い返す。
「昨夜はよく眠れたかね」
何を訊ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。
答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。
一時間余りで、阿蘇駅に着いた。
駅前はごたごたしている。土産物屋や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい
〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉
〈登らなくてはならないのか?〉
五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。
バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。
草千里というところで、ちょっと停車した。
〈あれは映画セールスマンじゃないか〉
そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経ってからである。その
〈なぜ丹尾が阿蘇へ||〉
彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。||
バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。
「あ!」
丹尾は黒眼鏡を
「また逢ったね」
「あんた、まだ生きてたんですか?」
君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。
「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」
「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」
「坊津に行ったよ」
「おかしいな」
丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし
「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」
「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」
丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。
「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」
「君には関係ないことだよ」
以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。
「君はケーブルカーに乗るんだろ」
「どうしようかと、今考えているところです」
丹尾はトランクを下に置いた。
「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」
「ケーブルが切れて
五郎は言った。
「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという||」
「そ、そりゃ出来てますよ」
丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。
「じゃケーブルに乗りましょう」
ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面茶褐色の岩や石だけである。
終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。
火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ
「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」
五郎は黙っていた。
〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉
羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度々訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼には
「馬はどうです?」
馬子が馬をひいて近づいて来た。
「火口を一周しますよ」
五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。
「弁当を食べないか?」
「弁当?」
いぶかしげに丹尾は反問した。
「弁当、持ってんですか?」
「持ってるよ。二人前」
彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕した。
「ぼくの分もつくって来たんですか?」
彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。
「そうだよ」
少し経って彼はうなずいた。
「ひとつは君の分だ」
「ど、どうしてぼくが||」
丹尾はどもった。どもって、絶句した。
火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。
「どうです。いっぱい」
「いや。おれも持っている」
彼はポケットから自分のを取出した。
「これ、駅弁じゃないね」
丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。
「駅弁にしては、豪華過ぎる」
「君はずいぶん酔っぱらってるね」
「酔っちゃいけないかね」
「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」
「どこの?」
「熊本」
五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。
「どうもいけないね」
丹尾は箸を置きながら言った。
「どうもあの穴を食べそうな気になる」
彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。
「ねえ。賭けをやりませんか?」
「賭け?」
「ええ。金の賭けですよ」
顔が赤黒く染まり、手がすこし慄えている。
「ぼくは火口を一周して来ます」
「どうぞ」
「それでだ」
弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。
「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか||」
「それを賭けるというのか」
「そうです」
五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。
「君は自分の生命を賭けようとするのか?」
「笑ってるね」
丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。
「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」
五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々湧いて、彼の下腹を
「しかし||」
彼は下腹を押えながら言った。
「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」
「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」
「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」
「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」
「なるほど」
なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉を
「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」
彼は頬杖をつき、すこし考えて言った。
「賭けの金額は、いくらだね?」
「五万円でどうです?」
「五万? そんなに持ってない」
「いくら持ってんですか?」
「二万円」
三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。
「二万円?」
丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅ぎ取った。
〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉
おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。
「いいでしょう、二万円」
丹尾はあきらめるように言った。
「じゃ二万円、出しなさい」
「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」
「どういうことですか?」
「君に預けると、君は飛び込まないで||」
彼は根子岳の方を指した。
「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を
「そんなに信用がないのかなあ」
「では君は、おれを信用しているのか?」
丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍を、見物人が通り、また写真を撮ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。
「よろしい。いい方法がある」
丹尾はトランクを開いて、
「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」
残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩いた。
「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」
「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」
「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」
「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」
丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。
「トランクも持って行くのかい?」
「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」
「だって自殺するんだろう」
「自殺するとは言いませんよ」
丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。
「火口を
「そうか。そうか」
五郎は合点合点をした。
「ではここで待っているよ」
丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。
〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉
後姿がだんだん小さくなって行く。動悸がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗が
五郎の
五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという
無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く
〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉
眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。
丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが
「しっかり歩け。元気出して歩け!」
もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。······また歩き出す。······立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。||