「そんな気味の悪いお話はお
と話題の転換に骨を折って居るのは、主人石井
が、その美しい夫人の魅力を以てしても、
「マア、そう言うなよ」
主人の馨之助は、丸々と肥った手を振って美しい夫人を婦人客の方へ追いやり
「物を盗まれるのは油断があるからで、盗む方ばかり責められないと同じ筆法で、私は殺される人間もあまり賢こくないと思いますよ、つまり殺される方に油断があるから、ツイ殺し手の方も誘惑されると言ったわけでしょう、そんなもんじゃありませんかネ、ハッハッハハ」
見事に禿げ上った前額を撫で上げ乍ら、ビール樽のような腹を揺り上げて、カラカラと笑いました。
「イヤそんな事はありません、御主人のお説が本当なら、殺される人間は皆馬鹿で、
と言うのは、此邸へ毎日のように出入して居る、芦名
「私は石井さんのお説に賛成し
医学博士の酒井洪造は、楔形の顎髭を捻り乍ら、さすがに学者らしい事を言います。
「お前は
「············」
主人の馨之助に声を掛けられて、ハッと息を呑んだのは、
主人の甥に当るそうで、子供の時から此邸で育ちましたが、
「僕に、そんな事はわかりません」
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、君は動物学のことしか解らない人間だっけ」
馨之助は、甥の困り抜いたような顔を見て、
一座はほんの七八人、外に隣室に退いて、この物騒な話題から遠ざかって居る婦人客を加えて、皆んなで十人もあったでしょうか。石井夫妻の客好きがさせる恒例の晩餐会は、自慢のコックに存分の腕を揮わせた後、別室で軽い西洋酒を
「御主人は相変らずウイスキーばかりですか」
「糖尿病には日本酒と
つまらないところで
「それはどうも御馳走様で||」
「いやもう、私がうっかり菓子でもつまもうものなら、大変な騒ぎで」
「ハッハッハハハ、これは益々たまらん」
笑の大爆発に、例の陰惨な「人殺しの話」も吹飛ばされてしまいそうです。
「大層お賑やかですこと、何んか、
と境の
「聞えましたか」
「ウ、ファッファッファッ」
小西老人は独りで悦に入って居ります。
「それはそうと、
「
「
石井馨之助が、尚も殺人論へ話を持って行こうとすると、客間の
「お父様、お時間で御座います」
ソッと貴族的な感じのする美しい顔。娘の美保子と言って十八歳、先妻の子で継母の濤子とは十二三しか違いませんが、濤子が咲き誇る牡丹のように美しいのに対して、これはまた、露草のように淋しく、たよりなく、そして可憐な娘でした。
「もうそんな時間かい、相変らず酒井博士は頑固で、私にどんな事があっても十時には寝なければいかんと言うのです。あとは家内がお相手しますから、どうぞいつものように御ゆるりと願います、御免下さい」
それでも残り惜しそうに、娘の美保子に伴われて寝室に退きます。
こんな事には馴れて居るものと見えて、一座の人達は別に不思議に思う様子もありません。年取った主人の存在は、若い者勝ちなこの座には
石井邸の晩餐会のプログラムは、それから後で本筋に入るのでした。男客と女客との隔ては撤回されて、遊戯と談話が、年齢も時間も超越して、夜と共に取り交されるのでした。
女盛りの豊満な美しさに溢るる石井夫人は、一座の女
十一時頃にはもう、すっかり調子づいて、ワッワッという騒ぎ||、
「タ、大変、お、奥様!」
不意に、廊下の外へ恐ろしい悲鳴が響きます。歓楽の渦はピタリと停って、皆んなの表情は一瞬||恐怖に
「奥様ッ、旦那様が、タ、大変で御座います」
「
濤子夫人が一番に廊下に出ると、続いて酒井博士が飛び出しました。
やがて、その後を追おうとする男女の来客の
「御主人が急病だそうです、
男女の来客は、スゴスゴと元の客間に引返しました。夫人と主治医の博士が引受けた上は、来客達は押してもというわけには行きません。
それから三十分もすると、客の半分は帰ってしまいました。千種十次郎も何遍か立ちかけましたが、妙に新聞記者の第六感が働いて、
やがて、
「聞きましたよ」
安楽椅子の中へ、深々と埋まって居る千種十次郎の耳の傍へ来て、物々しい塩辛声を潜めます。
「············」
「御主人は自殺されたらしい」
「エッ?」
これは千種ばかりではありません。
「酒井博士は、亜砒酸中毒だと言うそうですが、そうすると、他殺の疑いもある||」
「エ、エ?」
千種十次郎は弾き上げられたように起ち上りました。もう殺傷事件の外交をするような若い記者ではありませんが、眼と鼻の間で起った事件というと、昔取った
十次郎が二階へ行った時は、まだ係官は来て居りません。驚きのうちにも、職業的冷静さを取り戻した酒井博士は、これも案外
「お、千種君か、とうとう君の方の種になったが、この際だから大眼に見てやってくれ給え」
酒井博士はチラと顧みて、名記者の
「書く書かないは別問題で、事件があると
「そうだろうね、隠しても仕様があるまいから、御主人の命に万一の事が無い限りは新聞へは書かぬという条件で、君の職業意識が満足するまで見て行くさ」
「||で、御主人はどうなされたのです、自殺なんて事は考えられないが」
「
「で||?」
「僕は他殺では無いかと思う||、手当を加え乍ら此辺を見ると、半分開けた
「············」
「夫人に聞くと、一向知らなかったと言われる、糖尿病患者は、ヒドく甘い物を欲しがるから、これは多分、夫人にも隠して、時々そっと
「誰が、
「それは私にもわからない、今夫人の承諾を得て電話を掛けたから、やがて係官が来て調べてくれるだろう。私は唯御主人の症状が亜砒酸中毒で、
「で、容態は?」
「非常に悪い、亜砒酸は大抵吐いてしまったが、心臓が弱いから||多分||」
酒井博士はソッと千種の耳に囁いて眉をひそめました。
顔
寝台を隠すように引いたカーテンの裏には、半死半生の主人石井馨之助が横たわって、派手な夫人の濤子と、淋しい娘の美保子と、すっかり面喰ってしまった甥の庄平とが、一生懸命看護に骨を折って居る様子が手に取るように判ります。
折から玄関の方に自動車の音、やがて多数の足音が、ドヤドヤと敷台にかかった様子です。
「警官が来たらしい、千種君は遠慮した方が
「············」
千種十次郎は、黙って引下るより外はありませんでした。入れ違いに所轄署から来た、警察医と警官の一行、これも黙々として寝室へ入って行きます。
「どうでした千種さん、矢張り他殺でしょう」
と顔を出す小西老人、その背後から、芦名兵三郎の青い顔が神経質に覗いて居ります。
「······らしい」
「で、下手人は?」
小西老人は年配柄、こんな古風な言葉を使いますが、
「そんな事は判らない」
「············」
再び恐ろしい沈黙が一座を支配しました。
それから又三十分ばかり経ちました。
「到頭いけなかったそうだ」
「エ?」
「あの通り肥って居たから、心臓麻痺を起して亡くなったそうだ||」
主人の死んだ噂が、
「ハイ、お気の毒なことで御座います」
頑固そうな老執事は、言葉少なに眼をしばたくばかりです。
石井馨之助氏が毒死したと聞いては、酒井博士の口止めがあったところで、新聞記者が黙って居るわけに行きません。千種は早速玄関へ行って、新聞社へ電話をかけ、宿直の者に
「オーライ、兄貴しっかりしろ、今俺が飛んで行くぞッ」
足の勇こと、早坂勇のハチ切れそうな声がどんなに千種を心強くさせたことでしょう。
客間へ引っ返して来ると、踏み止った客は
「お嬢さんが怪しいそうだ」
と言うのは、消息通らしい芦名兵三郎の声です。
「チョコレートは、今日の午前にお嬢さんが竹屋から買って来て上げたのだそうだ」
話は次第に具体的になります。最後に、
「お嬢さんは
この恐ろしい話を背に聞かせて、千種十次郎は廊下に出て居りました。あの月見草のように淋しく美しい美保子が、どんな事情があったにしろ、父親を殺す気になろうとは思えません。
「そんな馬鹿な事が||」
と打消す下から、物々しい噂が、誰が伝えるともなく、次第に具体的に、後から後から客間へ伝わります。
折柄、飛ぶように階段を降りる人影、サッと十次郎の前に立ったのを見ると、蒼白い顔を少し亢奮させて、ワクワク
「千種さん、どうしましょう、
何んと言う事でしょう。
「美保子さんどうしたんです、エ、エ?」
「私は恐い、何んにもわからないんです」
父親の不意の死や、自分に降りかかる恐ろしい疑いなどに
「サア、落付いて、もう少し詳しく話して御覧なさい」
十次郎は娘の
「お父様は死んでしまいました。だけど、私は何んにも知らないんです。千種さん、怖い」
二階の寝室の
「サア、早く、聴きましょう、落付いてその次を話して下さい」
「どんな事があっても、私を信じて下さい、千種さん、疑いはみんな私へかかるようになって居るんです」
「で||?」
「万一の事があったら、姉へ知らせて下さい、||あッ誰か来る、||姉は竹屋||マネキン||」
美保子の言葉は
「サッ、もう一度来て下さい、聞く事がある」
冷たい、鉄のような言葉の下に、美保子の
「その人に罪は無い、そんな恐ろしい事が、そんな恐ろしい事||が、美保ちゃんに出来るわけは無い」
警官と美保子の間へ、必死の身を躍らせて入ったのは、美保子には遠い
「コラ、何をする」
一喝と共に警官の逞ましい腕が横に動くと、田庄平の
実業家石井馨之助の怪死は、関東新報の大特種で、
ボツボツ弔問の客が見え始めた九時半前後、一台の自動車が玄関前に停ると、その中から恐ろしい派手作りな若い女が一人降りました。
「あ、お嬢様」
偶然取次に出た老執事は、飛上るほどに驚いて、
「爺やかい、||お父様が亡くなったって本当かえ」
「本当にも何も、お嬢様、その上お妹様が下手人だなんて、そんな間違った話があるものじゃ御座いません」
「え、え? 美保ちゃんがかえ?」
「左様で御座いますよ、お嬢様」
事態容易ならずと見た若い女が、
「
ピタリと立ちはだかったのは、今日からは未亡人になった夫人の濤子、亢奮と不眠に少し
「奥様、大きいお嬢様の関子様でいらっしゃいます」
「············」
老執事の取なし顔な言葉を
内気で淋しい妹の美保子に比べると、姉の関子は美しさも情の
そんな事で関子は、
そんな事から、美しくて健康で、そして勝気な、少しばかり放浪性のある関子は、世間並の眼から見れば、危険とも何んとも言いようのない生活へ陥ちて行きました。最初は女記者、それから女優、近頃ではデパートで、万人に生き身をさらすマネキンガールまでやって居るという噂でした。
黄色い洋装と不思議な化粧はこのマネキンガールの様子を、
「何んと言う卑しい風でしょう、そんな恥かしい様子をして入ってはいけません」
「············」
「亡くなったお父様の恥になります」
「············」
「マネキンなどを娘に持っては居ません、お帰りなさいッ」
「············」
「帰んなさい」
継母の烈しい言葉の前に、関子は
「お父様にたった一目お逢いすることも出来ないのですか」
「帰んなさい」
関子の眼からは、大粒の涙がポロポロとこぼれました。が、其儘継母へ背を向けて、物をも言わずにプイと外へ飛出します。
濤子はそれを見ると、張りつめた気が
「勇、あの娘の後をつけるんだ」
「合点」
物蔭から此様子を見て居た千種十次郎は、応援に来て居た足の勇を顧みて斯う言います。
三日目に、美保子は釈放されました。最初は疑いが濃厚で、関東新報以外の新聞は、筆を揃えて真犯人扱いにしましたが、千種十次郎は、不安がる
事件の中へ、名探偵の
この簡単な算術は、美保子の汚名を完全に救いました。三日目に帰って来ると、さすがに継母の濤子も喜んでくれましたが、一番喜んだのは
犯人は美保子でないとすると、事件は迷宮に入ってしまいます。花房一郎は多量の亜砒酸の入って来た経路を調べて居るようでしたが、それも容易にはわかりません。
葬儀万端済んでしまって、石井家も
「芦名という男は、園芸に趣味を持って居るそうだネ」
花房一郎は不意にこんな事を十次郎に訊きます。
「そうだって言うよ、あの男は今でこそ貧乏して居るが、先代の時代は大変な景気で、屋敷だけでも何万坪とかあるそうだ、||
「亜砒酸や青酸やニコチンなどは、園芸家が害虫駆除に使うだろう」
「エ?」
花房一郎の恐ろしい頭の働きは、芦名兵三郎の上に一抹の疑いを掛けて居るのでしょうか。
「ナニ、
新聞記者と刑事と、材料の交換はよくあることですが、名探偵の花房一郎と名記者の千種十次郎の交際は、そんな浅墓なものでなく、利害を離れた友情になって居るので、お互に信頼し合う結果が、ツイ斯うした打明け話にもなるのでした。
併し花房一郎は
その内に、又一つの新しい事件が起りました。それは、濤子に辱しめられて、亡き父に最後の暇乞をすることも出来なかった関子は、法律上は依然として石井馨之助の長女で、廃嫡も何んにもされて居なかったのを幸い、継母の濤子を相手取って、遺産引渡しの訴訟を、何んかの形式で提起しようとして居ることがわかったのです。
こんな事がわかると、世の中は面白がって
さすがの関子も驚いて、マネキンを止し
「あの女が関子と言うんだとよ」
「成程大変なシャンだ」
「殺された石井馨之助の娘だぜ」
「フーム」
「オイオイ前の方は帽子を取ってくれ」
「後ろは拝めねえぜ」
こんな騒ぎが、マネキンの出る時間に幾度も幾度も繰り返します。
恐ろしく贅沢な婚礼道具を一面に飾り立てた中に、白い
洋風の高雅な化粧で、全く純白に装われた関子の花嫁姿は、世にも美しく
「こいつは全く素敵だ」
「
「アッ」
ざわめく大群集を前にして、
「ウーム」
と一と声、美しい顔は苦悶に歪んで、サッと藍のように真っ蒼になると、そのまま白百合のように崩折れて、後へはサッと咲いたような血潮、見る見る
夥しい群集は、暫らく水を打ったように静まり返りました。あまりの物凄い
「ワーッ」
「ワーッ」
という重く鈍い大合唱が、恐ろしい金切声の悲鳴を交えて、暫らく続きます。
刑事が来る、医者が来る、群集を追い出して、
婚礼道具陳列場の後ろは、幔幕を張って臨時の通路にして居たので、誰が通ったかわかりません。それにマネキンの顔を見せる時間は、群集は皆んな前へ廻って、幕の後は空っぽになってしまいますから、どんな人間がやったか、誰も見て居た者が無かったのです。
刺した得物は、外国出来の鋭利な短刀で、鑑定家に言わせると、コルシカあたりで出来たものだろうと言うことです。
「石井家の関係者だ」
遺産引渡の訴訟が噂に上った頃だったので、世間では直ぐそう言いました。世間で気が付く位ですから、当局も専らその方針で、いろいろ調査の歩を進めて行きましたが、サテわかりません。
石井馨之助を毒殺したのと、同じ人間の手だろうという点は、だれでも一致しましたが、土台石井馨之助を殺した手がわからないのですから手の付けようが無かったのです。
||あの短刀は、芦名兵三郎のものだ||
||未亡人の濤子は、芦名を使って関子を刺させたのだ||
斯う言った投書が、全く違った手跡で、二通も三通も警察へ舞い込みました。それを見るまでもなく、先年南フランスからイタリーあたりへ長い旅をした事もある芦名兵三郎は、其日の内に警察へ呼出されて、峻烈な訊問を受けました。
「この短刀はお前のか」
「そうです、私のに相違ありません」
「どうして解る、同じような短刀はいくらもあるだろうと思うが||」
「これはコルシカの名物屋で買ったんですから、世間には同じ短刀は
血染の短刀を前にして、芦名兵三郎は平気でこんな事を言って居ります。
「では、
「それはわかりません、私は此短刀を一ヶ月も前に盗まれたんです」
「それは本当か、誰かその事を証明する者があるか」
「残念乍ら、ありません、つまらないものですから届出もせず、人にも言わなかったのです」
此調子では、芦名兵三郎に対する疑いは深まるばかりですが、本人もそれを意識し乍ら、
「あの日、石井関子が殺された時刻||丁度午後二時と三時の間だ||お前は
「銀座を散歩して居ました」
「誰かに逢わなかったか」
「逢ったような記憶はありません」
何んと言うたより無さでしょう、これでは
芦名兵三郎は其まま、留置されてしまいました。
一方花房一郎は、関子の刺された現場を一応調べてから、直ぐ石井家へ引返して、暫らく自由に調べて見度いから、当分泊り込むかも知れないと言い出しました。未亡人の濤子は、それを拒む理由もないので、
「どうぞ御自由に」
と承諾しました。が、何んか腑に落ちないところがある様子で、あまり口もききません。美保子は、花房一郎に恩があるので、何くれとなく世話を焼き、美保子の機嫌ばかり心配して居るような田庄平も、それにつき合って、何くれと花房一郎に好意を示しました。
それから二三日たった或日の午後、千種十次郎が石井家へ訪ねて行くと、花房一郎は
「あの人は、悪者は外から入って来て、チョコレートへ毒を入れたと思って居るようですよ」
美しい濤子夫人は、かなり激しい敵意を持った口調で、斯う言い乍ら、塀の穴などを探して居る、花房一郎の間延びのした姿を窓から指しました。
「あの男は非常に良い頭を持って居ますから、今にキット犯人を探し出すでしょう」
「ですから、あんなトボケた様子をするのが憎らしいんです。
夫人の美しい眉は、ピリリと神経的にひそみます。花房一郎が自分を疑って居ると思うことが、この美しい未亡人に取っては、たまらない不愉快な事だったのでしょう。
十分ばかり後、千種は夫人の素晴らしい魅力と
「オイオイ、大分夫人の御機嫌が悪いよ」
千種は庭を横切って、花房探偵の方へ近寄って行きました。かなり宏壮な庭園で、此辺へ来ると、
「放っとけ放っとけ、今にわかる」
「犯人の目星は付いたのか」
「イヤ、一向」
花房一郎は、ケロリと
「併し芦名兵三郎でない事だけは確かだよ」
「エ? 本当かえそれは」
「本当とも。芦名が犯人なら、いくら何んでも自分を陥れる為にあんなに
「············」
「だから、今朝僕が証明して釈放してやったよ」
「で、これから
「網を作って居るところだよ、大きい大きい網だ。僕が斯うして歩いたところが、呪文の網になるんだよ、分らないかね。ハッハッハハハ」
「············」
全く何を言い出すかわかりません。千種は
「君にだけソッと言って置くが||、今晩何んとかうまく話をつけて、爺やの
「犯人が
「まアね、
「············」
千種十次郎の胸は期待に高鳴ります。
「わかったか、一度左様ならをして外へ出るんだ、そして、ホラ、此穴からそっと入るんだ」
花房一郎は足の先でソッと生垣の穴を指します。
「君は?」
「僕も一度帰る、花房一郎が此家に居ては、魚は網にかからない」
花房一郎は斯う言い捨てて、後ろも振り向かずに歩み去りました。
生垣の穴を一体幾つ探す気でしょう。
その晩、二時頃、奥から恐ろしい物音が聞えました。爺やの
「
花房一郎の声が、思いもよらぬ美保子の
「サア、これが犯人だ、悪魔の顔を見給え」
と懐中電灯の光の中へ、組み伏せた殺人鬼の顔をさらしました。
「アッ、田||」
花房の膝の下に敷かれて、醜怪な怒と失望に燃えて居るのは、あの、臆病で内気で病身な、田庄平の顔に相違ありませんが、日頃の憂鬱な優し気な表情などは
「とうとう網にかかったよ、恐ろしい魚だ」
未亡人も、爺やも、美保子も、事情を察して飛んで来たものと見えて、廊下に固まって、
「もう大丈夫」
庄平を縛り上げて、埃を払った花房一郎は、電灯を
「
自分が今まで横になって居たらしい、美保子の寝台に近付いて、枕を
花房一郎が近付いて、紐の一端を取って引いて見ると、反対の方の端は、寝台の向う側の鉄の棒に、しっかりと結んである様子です。
「私は今日の午後フトした事から此仕掛けを見付けたので、急にお嬢さんに寝室を明け渡して貰って、身代りに私が寝て居たのです。すると思った通り、二時を聞いて間もなく、此奴がソッとやって来て、真っ暗な中で敷布の下から紐の端を探り出し、私の首を越して、向う側へ一度くぐらせて引こうとしたのです。そんな事だろうと思って居たので、私はすぐ首を引いて、此奴を床に叩き付けました、本当に危いところでしたよ||、これがお嬢さんだったら、一とたまりもなかったでしょう。御覧の通り紐は細くて丈夫で六尺もあるし、一端を向う側の棒に結んで置けば、相手に目を覚させずに細工が出来ます、実際、臆病で、非情な悪人の、考え出しそうな、うまい方法ではありませんか」
「············」
花房一郎の説明を聴いて、あまりの恐ろしさに、美保子はヨロヨロと継母の腕に倒れかけました。
「お嬢さん、もう大丈夫です、あれで何も彼も解決したのです。ところで奥さん、この紐は誰のでしょう||」
「アッ、それは私のです」
美しい未亡人も、美保子を抱いたまま其場へヘタヘタと倒れそうになります。
今度は、千種十次郎が飛んで行って支えてやらなければなりませんでした。
「そうでしょう、||お解りですか奥さん、もう少しで
濤子未亡人と美保子の感謝を後に、二人は夜明けの街を丸の内へと引揚げました。
「亜砒酸の出所? 何んでも無いよ、田の道楽は動物学で、時々動物の剥製を作るから、亜砒酸は研究所へフンダンに用意してあるんだ。私はそれよりも、美保子さんに疑のかかるように仕組んだ
二人の乗った車はもう丸の内に着いて居りました。