夜中の十二時||電気時計の針は音もなく
「さア、これでお
千種はガードの熱いおでんと、中野のアパートの温いベッドと||
「千種さん電話ですよ」
給仕の声と電話の
「
「早坂さんの声ですよ、||部長さんが居ないかっ||て」
「勇
「駄目ですよ、向うへ千種さんの声が聞えるんですもの」
給仕は送話器を掌で塞いで、
「仕様が無いなア、||又軍用金の徴発だろう」
千種十次郎は卓上電話のコードを
「||大将||、大変な事が||」
外交記者中の
「何をあわてるんだ、勇、新聞記者に大変な事なんかあるものか、||
「そんな馬鹿な事じゃ無い、長島若菜が殺されたんだ」
「何? あの流行歌手の若菜が!」
千種十次郎は噛んで居たピースを、糊壺の中へ捻じ込むと
「自分の
「君は今
「若菜の
「馬鹿だなア、||死骸なんかを眺めてぼんやりして居たんじゃあるまいな、||他社の連中は
「玄関で揉み合って居るよ、幸い中へ潜り込んだのは俺一人だ」
「よしッ、その電話から離れるな、順序を立てて話せ、市内版を下すのを待って居るから」
千種十次郎は統一部の方を振り返って、締切延期を手で合図し
「長島若菜は二度目の外遊を企てて、今晩その別れのお茶の会を自分の家で開いたんだ、七時頃から客が集まって、散々騒いだ挙句、十時半頃には大概帰ってしまって、残ったのは、有名なアミで伴奏弾きの藤井薫と、その夫人の
「フム||待ってくれ勇、その三人と若菜の写真を用意させるから||調査部と整理部の連中が帰り支度をしている様子だ||オイ、給仕、誰も居ないか、仕様が無いなア、十二時が過ぎると、気を揃えて消えて無くなる||オイ、調査部へ行って、長島若菜と藤井薫とその夫人の鳥子と、岡崎敬之助の写真を持って来てくれ、||長島若菜のは
千種は時間も疲れも超越して、三面六
「岡崎は隣室で、カクテルを
「それから」
「ピアノの
「フム、それから||」
千種十次郎の鉛筆は、恐ろしいスピードで動きます。早坂勇の電話が、
「起して見ると
「兇器は?」
「ピアノから一間ばかり後ろ、入口の
「フム」
「幸い岡崎敬之助はアマチュアだが探偵小説も書くので、死骸にも
「医者は呼ばなかったのか」
「それから医者を呼んだが、心臓を射貫かれて居るから、助かりっこは無い」
「電話は警察が先で、医者が後だね、確かに」
千種十次郎はフトこの矛盾に気が付いたのです。
「間違いは無い||」
「取調べの模様は?」
「大きな声じゃ言えないよ、帰って書こう」
「いや、帰っちゃいけない、夜明けまで頑張れ」
「電話を警官へ明け渡さなきゃならない、||じゃ頼むぜ、頑張るだけ頑張って見るから、それから若菜の先の主人||音響学者の長島長太郎博士へ人をやったら、何んか変った話が取れるかも知れない||今鳥子が調べられて居るよ」
早坂勇の声は途切れ途切れで、恐ろしく面喰って居りました、多分後ろから警官に電話の明け渡しをせき立てられて居るのでしょう。
「勇、おい、早坂ッ、切っちゃいけない、おい、勇!」
が、どんなに騒いでも電話はそれっ切り、
「畜生ッ、||もう三分話せば、朝刊の早版へ三段以上は書けたのに」
千種十次郎がガチャリと受話器を
「あ、織戸さん、
「えッ、あの
「早坂が電話で送っただけは書けたが、これじゃ朝刊が淋しい、警視庁へもう一人、所轄署へ一人、それから代官山の現場へ写真班と記者を二人ずつやって下さい、楽壇方面||大御所の天野さんと、レコード会社の文芸部主任と、
「有難う、それで大体
「二年も前に別れたんでしょう、あの甘酸ぱい女が学者の女房で納まって居るものですか」
「いや、別居はして居るが、離縁にはなっていない筈だ、誰かやり
「勇もそれを気にしていましたよ、||僕が行って来ましょう」
「君が?」
千種はもう社会部長の地位も忘れて、外套と帽子を取って居りました。はやり切った猟犬のような心理です。
理学博士長島長太郎は、別居している妻の若菜とは、全く異った世界に住むような人種でした。若菜が世にも悩ましく美しく||これは化粧効果を形容した言葉で、若菜の顔の生理的評価ではありません||やるせなき様子に対して、長太郎博士は、言いようも無くむくつけき、
同棲五年の後二人は、あまりにも、違い過ぎた人生観と、生活様式の調和を見出し兼ねて、二年ばかり前から、公然と別居しました。その提議は若菜の方から出たには相違ありませんが、新聞に現われたところでは、お互の学問と芸術を
長太郎博士は二丁ばかり離れた小高い丘の上の研究室に籠って、それっ切り顔を見せませんでした。たった一人の婆やを使って、
長島博士の
伴奏のピアノを弾いている藤井薫は、有名な鳥子夫人があるにも拘らず、若菜のアミであり、仕事の上の||芸術上のとは言えませんが、
こんな社会の消息なら、誰よりもよく
木立の蔭、研究室と
もう一時を過ぎたでしょう。
千種十次郎は、妙な期待に軽い興奮を覚え乍ら、二度、三度、
玄関の
「どなた?」
変なところから声を掛けた者があります。振り返ると、お勝手の窓が開いて、六十恰好の婆さんが、臆病そうな顔を出して居るではありませんか。
「関東新報の者ですがネ、先生に
千種は延び上りました。
「もう一時過ぎですが||明日の事にして下さいませんか、先生もお休みになったかも知れません」
「いや、まだ起きてますよ、あの通り
「||||」
婆やさんは渋りました。門灯の光で、千種の[#「千種の」は底本では「千草の」]
「警察の方が見えましたか」
「いえ」
婆やさんは胡麻塩の頭を振り乍らも、そう言われると、事件の重大性に脅えた様子です。
「何んだ、婆や、||客が来たのか、少し遅いな、何? 新聞記者? なら逢ってやろう」
長島博士は婆やに指図して玄関の
「先生、遅くなってすみませんが、少し重大な事が起ったんです」
千種は名刺を出しましたが、長島博士はそれをチラリと見ただけ、受取ろうともしません。学者らしい無頓着さです。
「
導かれたのは、裏の方に突出した研究室、広さは三間四方位あるでしょう。真ん中に明るい
「||||」
千種十次郎も、何んとなく恐怖とも、不安とも付かぬものを感じました。部屋の中の空気がラジオの真空管の中のように、一種の微光を帯びて震動し、馴れない千種の、不安と焦躁をかき立てるのです。
茶卓を挟んで腰をおろした、主人の長島博士も変って居ります。この薄寒い真夜中に、白いメリヤスらしいシャツ一枚、
「この器械は? 先生」
あまりの変った情景に押されるともなく、千種十次郎はツイこんな無駄口を訊くのでした。
「音響学の方から割出した、大変な器械だよ」
「何をするんです」
「君、テレミンというのを知ってるだろう、日本へも来たことがある。電気||二つの高周波振動電流を重ねて、思うままの音を出させる楽器だ、この原理を応用した電気振動にする楽器は、過去十年間に世界で二三十種発明されたよ、テレミン、ディナフォン、マルトウノ、ラジオフォネット、オンディオム、||皆同じようなものだ」
「あの、先生」
千種はこの講義を止めようとしましたが、学者らしい熱心と、気違い染みた調子で説いて行く、長島博士の雄弁の腰を折りようがありません。痩せて黒ずんだ博士の顔には、少し病的に見える興奮が燃えて、時間も相手も構わず
「僕の発明したのは、この機械自体が一つの大管弦楽団の代りになるのだ、ほんの簡単な操作で、ベートーヴェンの大シンフォニーでも、バッハの大ミサでも何んでも聴かれるのだよ、陪音の操作が微妙だから、||人間と同じように歌わせることだけは
「||||」
「メカニズムが音楽界を支配する時代は
「先生、それより、大変な事が||」
「そうだ、大変な事がある、この機械で君、人が殺せるのだよ、人が||」
「えッ」
「驚くだろう、||殺人光線の発見は、今世界の科学者達の目ざしている一番大きなゴールだ、が、人を殺す光線が、そんなに簡単に発見されるわけは無い、僕はその前に、殺人音響を発見したのだ」
「||||」
「尤も、それはまだ試して見たわけでは無いが、人間の耳では聴くことの出来ない、或る振動数の音響を、特定の方向に送るのだ、||六つかしいと言うのか、君は。エーテルの振動によって伝わる光線さえ、反射鏡を利用して、特定の場所へ送れるのに、空気の振動で伝わる音響を、或程度まで特定の場所へ送れないと言う理窟はあるまい」
「||||」
「一九〇九年にバーソンズはオウゼトフォンというものを作った。これは圧搾空気と、金属弁を利用した音響学的な装置で、或特定の楽器の音を、選択協和して、音色を美しく、音響を絶大にするのだ。これを電磁気的に扱って、遥か遠方から送られた、人間の可聴範囲を遥かに越えた音響を、絶大猛烈にして作用させるのだ、その人が心臓が弱ければ心臓麻痺を起す、神経が弱ければ気違いになる」
「そんな事が出来るでしょうか」
「出来る、確かに出来る、昨夜も今晩も、私は宵から夜中までこの音響を送る試験をしたが、||」
博士は顔を挙げて、一方だけ
「先生、||奥さん||若菜さんが殺されましたよ」
「何?」
「私はそれをお知らせに来たのです」
千種十次郎は到頭言う
「本当か、それは?
長島博士はいきなり立上ると、窓枠に手を掛けて、遥か、若菜の家の方を見据えて居ります。
「今から二時間ほど前、丁度十一時だった相です」
「あの時だ、俺はこの機械の試験を十時から始めた、十一時は丁度性能を一パイに働かせた時だ、それから少しずつ弱くした」
「先生」
「見るが
長島博士は千種十次郎の肩へ手を掛けて、
巨大な機械は、相変らず、小さいが強大な唸りを続けて居ります。
「勇、御苦労だったな、編輯局長は大喜びだぞ、社長から電話でうんと褒めて来た相だよ、他の新聞は二三十行しか書けなかったのを、うちの新聞は半
「その代りヒドイ目に逢ったぜ、ろくに寝ないのは我慢するとして、あの家を出て来ると、他社の連中の包囲攻撃だ、袋叩にされなかったのは見付ものさ」
千種十次郎と早坂勇は、
「まあ、愚痴を言うな、特別賞与ものだよ、今度と言う今度は、洋服屋へ三年越の月賦が払えるだろう」
「特賞を月賦に廻す奴があるものか、月賦は三年遅れても月賦さ」
「呆れた野郎だ、ところで、材料は?」
「お願いだから今日の夕刊は俺に一
「大きく出やがったな」
「もう一つ特賞を貰って、家を建てる」
「馬鹿だなア」
「アパートから追い立てを食ってるんだ」
「ところで、鳥子が自白したのか」
千種十次郎は
「知らぬ存ぜぬ||さ、廊下に立って居たには相違ないが、それは夫と若菜が連弾して居るのが気になったからで、殺す積りは毛頭無かったと言うんだ」
「
「若菜の持物だ、近頃収入が多いので、街の紳士やギャング達に悩まされ、大骨折で許可願が通って、この秋買ったんだ相だ。尤も夏鎌倉でさらわれてうんと絞られた事があるんで其筋でも携帯を許可したらしい、人気歌手も楽じゃないね」
「
「部屋の隅の三角戸棚の上さ、象牙細工の豪華な箱に入って居たんだ相だ、その場所は女中も、藤井も、岡崎も知って居る」
「入口から手を伸して、その
「取れない事はあるまいが、少し六づかしいな」
「藤井が気が付いた時、入口の
「それは解らない、何しろ面喰って居たらしいから」
「指紋は?」
「
「角度は、||
「三角戸棚の方だ、その点で鳥子は救われる、廊下から
「藤井薫の方からだね」
「藤井は疑の外に居るよ、連弾し乍ら相手を撃つのは六づかしいし、それに、手袋や
「||||」
「もう一つ、
二人の話は途切れました、夕刊の記事を、
「ところで、面白いことがあるんだ、勇」
今度は千種の番です。
「何んだ」
「長島博士は今朝自首して出たよ」
「ヘエー」
「若菜を殺したのは、この長島長太郎に相違ない||と」
「気が違ったのか」
「若菜は
「オンパ?」
「音の波だぞ、||博士は音響学上の大発見をして、音楽家の職業を皆んな奪うと言う大変な機械を
「それは正気の沙汰かい」
「警視庁で精神鑑定をしたが、少し学者らしい
「で、留置でもしたのかい」
「飛んでもない、
「だが、新聞種には面白いな」
「その新聞に出したものか
「博士は本当に
「それは間違いの無いことだ、音響殺人が不可能なよりも、博士が研究室を
研究室内の明るさ、窓の高さ、絶えず操作を要する機械||等のことを考えると、あの部屋を脱出すことは、どう考えてもあり得ないことです。
「夕刊が済んだら、もう一度行って見よう」
「そうしようか」
二人は長大な原稿に取りかかりました。
代官山の若菜の家には、遠い親類や、楽壇の知友達が入れ代わり立ち代り来ましたが、日頃良い付き合をしていなかったのと、「変死」ということが頭にこびり付いて居るので、
千種十次郎と早坂勇は、大勢の新聞記者達と一緒に、手伝うような、邪魔をするような、不得要領な動き方をして、鵜の目鷹の目で「種」をあさって居りました。
「早坂さん、
一緒に
「そんな事は警察の方には言えませんがね、私はね、あの
「||||」
岡崎敬之助の言葉の意味は明かでした。早坂勇は思わず、顔を挙げて非難するともなくその反らした眼を追います。
「連弾を左手だけに預けて、右手に
「そんなに近くから発射すれば、死骸に焼痕が残りますよ」
「三尺位は離せると思うが」
「それでも着物位は焦げるでしょう、あの通り肌の隠れるだけの薄い洋装だったし」
早坂勇は反感を抗議と一緒にさらけ出しました。
「が、
「焼け焦のある
「兎に角、近頃若菜が僕と親しくなるので、ひどく神経を立てて居た者のあることを記憶して下さい、||僕は若菜の
「||||」
早坂勇は爪を噛みました、警官へは言わずに、新聞記者の自分に言う真意が判らなかったのです。
丁度その時、疑が晴れて帰された鳥子も、夫の藤井薫と一緒に世間体だけの手伝いに来て居りましたが、顔見知りの千種十次郎に逢うと、
「ちょいと、相談に乗って下さいな、千種さん」
「何んだい、鳥子さん」
千種は誘わるるまま、裏庭に立って居りました。生垣と建物の蔭で、
「千種さん、私は本当に口惜しいワ||こんな疑まで受けて」
鳥子はポロポロ涙を流して居りました。二十五六の豊満な肢体から、憤怒と魅力が一ぺんに放散するような女で、狭い物の隅に押し付けられた千種は、何んか息苦しいような圧迫を感じます。
「私は若菜を怨んで居たには違いないけれど、あんな下等な女を殺して、私の首へ縄の付くような馬鹿なことはしない」
「||||」
若菜が下等か、鳥子が上等か、それは千種にも判りませんが、兎に角、負けず劣らずコケティシュで、国際婦人と歌い手の違いはあっても、一種の美しさと、人気とには、さしたる違いの無い二人だったのです。
「警察の方へ言ったけれど、信用して下さらない、||若菜を殺したのは、確かに岡崎さんですよ」
「そんな事が||」
「千種さん、あんたもそう思うでしょう。でも隣の部屋でカクテルを
「でも、隣の部屋からでは、
と千種十次郎。
「だから甘い||と言うじゃありませんか、
「すると犯人は外から手を出して||」
「え、その通りよ、千種さんはさすがに頭が良いワ、窓の外から手を入れて象牙の箱の
「それを鳥子は見たと言うのかえ」
「見たも同様に」
鳥子は少ししどろもどろになりましたが、頭の中で証拠を組み立てようとする必死の眼が焼き付くように、千種に迫ります。
「それも面白い考ようだが出来ない事が二つある」
「||||」
「一つは岡崎さんが隣の部屋から窓の外へ廻るには、鳥子さんの立っている廊下か、女中達の居るお勝手を通らなければならない」
「窓からだって飛降りられるでしょう」
「窓から飛降りて庭をグルリと廻って人を殺して元の窓から帰ったんでは、あの騒に駆け付けるのが遅くなる筈だ||ところが、皆んな一緒に駆け付けた||と女中達も、鳥子さん自身も証言している」
「||||」
「それから、窓は相当に高いから、背の低い岡崎さんでは、三角棚の上から
「踏台をしたら?」
「洋館で外はあんなに綺麗に取片付けられている。あの辺には踏み台になるものは一つも無い」
千種はほんの一時間ばかりの間に、鳥子の疑を突き崩すだけの材料を集めて居たのです。
「まア、
「そんな事は無い」
「
それが多分、鳥子の本音だったでしょう。
「本当かそれは」
千種十次郎は急に熱心になりました。
「本当ですとも、私は眼が良いのが自慢なんです」
夫と若菜の連弾を覗いた鳥子、それ位のことを本当に見たのかも知れません。
「よし、それでは考え直そう、踏台さえ見付かれば
「||||」
「窓は本当に開いて居たんだろうな」
と千種十次郎。
「若菜さんは熱がりで、ピアノや歌の稽古の時は、
千種十次郎の顔は次第に真剣になります、
「勇、やり直しだ、少し手伝ってくれ」
暮れかかる夕陽を惜むように、千種十次郎は、新聞記者の控室から、早坂勇を誘い出しました。
「それは
早坂勇はキョトンとして居ります。
「本当かい、それは」
「岡崎敬之助が告発したのさ、||俺に言った通りの事を言えば、警官は一応調べなければなるまい」
「仕様の無い奴だな」
「世間では若菜の愛が藤井から岡崎へ移りかけて居たように言うが、どうも、それは岡崎のデマらしいよ、藤井はあの通りの美男で、その上伴奏
「シッ、本人が来る」
「桑原桑原」
二人は警戒の警官に挨拶して、犯行のあった部屋へ入れて貰いました。何んにも手を触れさえしなければ、という、厳重な条件付で許されたことは言う迄もありません。
「俺は
「すると」
千種十次郎の疑は真っ直ぐに岡崎敬之助へ向うのを、早坂勇も呑込みました。
「ね、千種さん」
後ろから覗いたのは鳥子でした。夫の藤井薫が
「鳥子さん、うまく行けば藤井さんを救えるかも知れない、||オペラ・グラスがあったら見付けて来て下さい」
「え」
鳥子は出て行きましたが、やがて、若菜の愛用だったらしい、象牙に金の柄の付いた、豪勢なオペラグラスを持って来ました。
「
「
「長島博士の研究室へだ、||夫人が死んでも、
千種十次郎と早坂勇は、
小春日の妙に温かい日です。
「御研究中で、
婆やの言うのを押し返して、
「奥さんを殺した犯人が捕まりました、それを申上げに参ったんだと伝えて下さい」
千種のこの駈引は見事に成功して、間もなく二人は、前の晩の研究室に通されました。
まだ昼で明るい電灯はありませんが、不気味に振動する巨大な機械の傍に、小卓を前にして、何やら考えている博士の顔は深沈として居ります。
「又来たのか」
四十五六というところが精々でしょうか、
「先生、藤井薫が縛られて行きました」
「そうか」
何んと言う気の無い声でしょう。
「
「行き度くない、||私は研究者だ、あんな事に
「奥さんの告別式にも」
「||||」
二年前に自分を捨てて、男から男へと、放縦な生活を続けて行った若菜、死んだというだけで、踏み付けられた夫の胸から、
「
千種は話頭を転じました。
「困ったことによく見えたよ」
「
「||||」
千種はオペラ・グラスを眼に当てて、窓から熱心に向うを見やります。
「あの晩、十一時頃、
「||||」
「此研究室には入口がたった一つですね」
「そうだよ」
「玄関の鍵は」
「婆やが持っている」
「すると、夜外へ出るには、此窓から飛降りるより外に道はありませんね」
「窓は高いよ||、それに私は運動家じゃない」
博士はフト釣られるように斯んな事を言って、我にもあらずカラカラと笑いました。
「でも、この窓枠には、縄
「||||」
「八寸ばかりの距離で、二つの爪の跡これは、間違いもなく縄
「えッ」
驚いたのは博士ばかりではありません、早坂勇さえも愕然として、窓枠の方へ飛付いたほどです。
「それはどう言う意味だ、千種君とか言ったね、君は?」
「何んでもありません。窓枠の傷跡は、ナイフでも付けられます。人を陥れるには、この上もない手段ではありませんか」
「||||」
「縄
「||||」
「クリーム色のペンキの付いた手袋が見付かっても、立派な証拠になりますね」
「それは何んの意味だ」
博士は
「それに、この機械は
「||||」
「
「君は、私が若菜を殺したと言う積りか」
博士は立上って居りました。カッと大きい眼を見開くと
「飛んでもない、||ただ、これだけの事は言い切れると思います。奥さんとピアノを連弾して居る藤井は、ピアノの前面の黒漆塗の鏡板に映る、犯人の顔を見たのです。||窓から
「||||」
恐ろしい沈黙、それを載せて、大気をゆるがすように巨大な機械は唸ります。
「自分が万一疑いをかけられて、言い解く道が無くなれば、背に腹は代えられぬから、ピアノの鏡板に映った顔、あの
「||||」
「その藤井が重大な容疑者として縛られて行きました。今頃はもう、真犯人の名を打ち明けて居るかも知れません」
「もうよい、解った、||俺はこれから警察へ行って、
「博士」
「着換して来る、
博士は静かに、本当に静かに研究室の外へ出て行きました。
「さア、解らない、犯人は誰だ、博士か、岡崎か、それとも||」
早坂勇の言うのを叩き消すように、
「あッ、博士は婆やを外へ出した。危ないッ」
「何をするのだ」
「外へ出るんだ」
千種は早坂勇の手を引いて、窓から転がるように外へ飛降りました。
同時に、
ジーンと全身に響く怪音、振り返ると研究室は、カーッと白光に充たされて、床も羽目も、
「あッ」
千種十次郎と早坂勇は、五六間
千種十次郎はそれっきり三日社を休んでしまいました。
「
その肩を叩いた早坂勇、この外交記者と社会部長の仲は、腕の人と頭の人との違いはありますが、随分長い間の相棒だったのです。
「俺はもう新聞記者がいやになったよ」
「何を発心したんだ」
「研究室の一件さ」
「俺には解らない事ばかりだ、其筋でも、若菜殺しを博士と覚った様子で、藤井薫を釈放した相だが||」
「博士に違いあるまい、||俺は最初からそんな気がしたよ。音波の殺人なんて、飛んでもない事を言って
千種十次郎は説き進みます。
「でもあんなに沢山博士に不利な証拠があったじゃないか」
と早坂勇、
「皆んな嘘だよ、||若菜の殺された家の窓枠は古くて木が荒れて居るから、縄
「||||」
「驚いたろう」
「驚くよ、でもピアノの鏡板に映った顔は?」
「それも嘘だ、
「ひどい事を言ったものだね、君は」
早坂勇も呆れ返りました。
「だから俺は新聞記者を止そうと言ったのさ、博士が犯人だという事が判ると、何んでも
「||||」
「今から考えて見ると、博士よりも悪いのは、若菜と、若菜をめぐる不良共さ」
「||||」
千種十次郎の打ち
「お互にもう
「||||」
そんな事を話して居る最中、重役室では千種十次郎と早坂勇をどう褒めたものか評議して居りました。
「千種さん、早坂さん、重役室までお出下さい」
給仕が呼んで居ります。
「辞表は後で出すとして、口頭で
「
二人は顔を見合せて淋しくうなずきました。