「
それにしても、その典麗な顔をネジ曲げるような、不安とも
「
「こんな場所へ引張って来たら、さぞ不思議に思うだろうが、
「············」
「千種君、君は私と旧藩の関係はあるが、公人としては東京第一という敏腕な新聞記者だ。私の話を聞いたら、その中から、キット事件の核心を掴んで、この私の不安を一掃してくれるに相違ない||」
「お言葉中ですが伯爵、私は関東新報の社会部長をして居るだけで、決して敏腕な記者でも何んでもありません、十日ばかり前お屋敷の書生さんが変死されたということですが、そんな事件に絡んでの問題でしたら、警察の方へ
「御忠告は有難う。
伯爵の容易ならぬ顔色を見ると、私はそれ以上耳を塞いで逃げるわけにも行きません。
「
「それは言うまでも無い」
二人は
「十日ばかり前宅の書生の大川というのが、場所もあろうに、私の書斎||これは仕事をするのに気が散らないように、私の好みで特別に小さく作らせてあるが||その中で死んで居たのだ。然も朝の九時頃で、私はブラブラ食後の散歩をして居ると、家の中が急に騒がしくなったから、驚いてこの庭口から帰って見ると、書斎を掃除に来た女中が発見して、大変な騒ぎになって居た。君も知っての通り、私の小さい書斎は、この庭に面して一つ出入口が付いて居る。私が
「予告? 書生さんが死ぬという予告ですか」
「いや、書生の大川は
「エッ」
「予告は私にだけわかるような一種の形式で、あの日私に危害を加えるという事が書いてあったのだ」
「何んかお間違いではありませんか」
「イヤ断じて」
「もう少し詳しくお話し下さい」
「予告の文句は非常に簡単だが、私に復讐するという意味には
伯爵の手から受取って、明るい午後の陽の光で読むと、
二十三年目の三月三日、死を以て償 え、
という十六字が二行に書き流され、別に伯爵の宛名を書いた安い西洋封筒があります。誰でも気の付くことですが、念のために消印を見ると、明瞭に東京中央とあって、封筒の文字も中のカードの文字も、郵便局備付の非常に粗末な墨汁を使って書いてあります。
「どうして書生さんが死んだ時、これを警官へお見せにならなかったのです」
「そう言われると誠に恥じ入るが、そのカードはどうも人に見せられない」
「それはどういうわけです」
「何も彼も言ってしまおう||こう言うわけだ||」
暫らく躊躇した伯爵は、思い切った様子で又話しはじめました。
「その二十三年前の三月三日という文字には、重大な意味がある。外の人が見ては解らんが、私が見ると、それだけの文字が一つ一つ茨になって、私の心臓を刺し貫くような気がする||」
恥を言わなければ解らんが、その日私は、一人の女を葬ったのだ。葬ったと言うと語弊があるが、仔細あって捨ててしまったのだ。今となっては後悔もして居るが、その時は青年の
簡単に言うと、海原伯爵家の次男に生れた私が、ある許されない女と、神戸へ逃げて
「その婦人が伯爵の素性を突き止めて、二十三年後に至って復讐を計画したと
「そうでも考えなければ、外に考えようが無いではないか」
「そんな小説のような事が、この世の中に実際あり得ることでしょうか」
「サア、それを君に鑑定してもらい度いのだ。兎も角、そんな事情であって見れば、そのカードを警官に提出して、こんなわけと打開けては言い難い」
伯爵の恐れるところも体面を極端に重んずる大名華族としては、無理のないことかもわかりません。
「で、書生さんの死体には、他に何んか異状は無かったでしょうか」
「無い、何んにも無い。炭酸
「兇器とか、特別の器具とかはありませんでしたか」
「何んにも無い」
「外から人の入った形跡は?」
「それもあり得ない事だ。庭の出入口の前には私が居たし、廊下の方には、あのお
「すると、もし殺されたものとすれば、
「まあそうだ」
「部屋へ入る前に、異状は無かったでしょうか」
「それも無いらしい。廊下に居る姪と家政婦に、冗談を言い
「外に、何んにも変ったことが無かったでしょうか」
「たった一つある」
「············」
「死体の
「手紙? 伯爵へ来た手紙でしょうか、それとも自分の手紙だったでしょうか」
「茶色いハトロンの安封筒だったと思うから、私へ来た手紙ではあるまい。||ことによると、姪がよく知って居るだろう、あ、丁度いいところへ来た」
この時、
「何? 私?」
伯父伯爵が
「あら、千種さん、
美しい素顔を
「何んという行儀だ。第一に挨拶をしないか、いきなり敵を討つなんて、いやな言葉じゃないか」
伯爵は妙なところへ神経を尖らせます。
「テニスの事よ」
「何んだつまらない」
「伯父様、どんな御用?」
可愛らしく首をかしげて、ラケットに頬ずりしそうなポーズになります。空色の薄いセーターに、運動靴、短かく刈り込んだ柔かい毛が春の光を
「瑛子さんは、死んだ大川が手に持って居た手紙の事を詳しく知って居たようだネ」
「まア、そんな話をして入らっしゃるの。千種さんは
「新聞記者ではなくて、今日は探偵なんです。その手紙というのを詳しく説明して頂けませんか」
「エ、じゃお話しましょう」
急に
「ハトロンの封筒で、字はたしかに大川が自分で書いたのよ。
「それが、
「まあ、変な探偵さんね、そんな事がわかれば、失くしなんかしないワ。私がお医者へ電話をかけて、もう一度書斎へ飛んで帰ると、その時はもう大勢の人が入って居て、大変な騒をやって居たようでしたが、たしか、その時はもう手紙は無くなって居たようよ」
「それだけか」
「エエ」
「じゃ、もう宜しい、
「まアー」
伯爵がローンの方を
「探偵さん探偵さん、お話が済んだら入らっしゃい、テニスで油を取って上げるから」
「あれだ、この節の女は本当に仕様が無い」
伯爵は、いとも苦々し気にその後ろを見送って居ります。
「それだけですか伯爵」
「イヤ、これだけなら、別に私も驚かない。世の中には随分暗合というものがあるから、どんな間違いでこんな事が起こらないものでも無いとあきらめて仕舞ったかも知れない。ところが、例の予告の手紙が、又今日も私の手元へ配達された」
「エッ」
「これを読んでくれたまえ」
伯爵の差出したのは、前のと同じような西洋封筒、同じような粗末なカードに、同じような郵便局の墨汁で、
十日生き延びた、三月十三日には容赦をせぬぞ。
(二十三年前の女より)
少し言葉も多くなって居りますが、伯爵の身代りに大川を殺したのは、この無名の復讐者に取っても、甚だ不本意だったことは明かです。(二十三年前の女より)
「三月十三日と言うと」
「明日だ」
「これは捨て置けません、警察へそう言って、直ぐにも手配をしなければ」
「いやいやこんな昔の恥を
二十三年前の放埒な生活に思いを馳せたのでしょう。伯爵は思わず端麗な顔を伏せて、眼をつぶりました。
「それでは
「そのために、君をお願して、名記者千種十次郎君の手腕に信頼して、私は一切をお任せしようと思う」
「············」
私は思わず爪を噛みました。
「どうだろう、私の願いを聴き入れてはくれまいか」
「私で出来るだけの事はいたしましょう。が、助手を一人呼んで頂き度いと思います。早坂勇と言って、私の部下の外交記者ですが、非常に忠実な男で、頭や筆より足で種を取るから、『足の勇』という愉快な
「どうか、その辺の事はよろしくやってもらい度い」
「では直ぐ使をやりましょう」
「何んの用事だい」
使を出してから三時間目に、「足の勇」は伯爵家の応接間に入って参りました。
少し柄が大きい癖に、ダブダブの洋服を着て、お小遣はあまり持って居た
「大層遅かったじゃないか、
「上野さ。ポン引きの心理研究をやって居たんだ。面白いぜ、あれは君一種の芸術だね」
「何をつまらない、それより伯爵へ挨拶をしないか」
「あ、そうか、私は早坂勇です」
「私は海原、千種君には昔から御懇意に願って居ります。どうぞ宜しく。今回は又飛んだ面倒な事をお願いするかも知れんが||」
「
「何をつまらない事を言うんだ」
「つまらない事って奴は無いよ、サア、聞こう、どんな話だ」
「足の勇」へどんな事を話したか、
「さて、
伯爵の言葉を押えるように、
「ナニ、御心配はありませんよ。頭の悪い犯罪者ほど、
「早坂、大層君は賢こそうになったじゃないか」
「賢こいのは俺の地だよ。
「四十五六にもなるでしょうか」
「その婦人は、雇人か何んかに化けて、此屋敷の中へ紛れ込んで居るような事はありませんか」
「それはあり得ません」
「その婦人の身寄とか親類とか言う者は?」
「それもありません。近頃は身許の確かなものでないと決して採らないことにしてありますから」
「兎も角、書斎を一応拝見さして頂き度い」
「どうぞ」
伯爵に案内されて書斎へ行って見ましたが、
「こんな品は一つも紛失しませんでしょうな」
「無くなったものはありません」
「現金は」
「現金はこの書斎へは置かないのです」
急所急所を斯う問い乍ら、「足の勇」の眼と手は、
「書生さんは、手紙を左の手に持って死んで居たと言いましたね」
「そうです。たしかに左でした」
「左利きでは無かったのですか」
「いや、そんな事はありません。左利きの書生は、先刻テニスをやって居た小村という方で、死んだ大川は、
「
「足の勇」は、眼を半眼に
「何が
「そうじゃないか。君は新聞作りはうまいが、探偵の真似事はまるっきり駄目だね。いいか、左利きでなくて、左に封筒を持つのは、どんな時だ。君のいい頭で考えて見てくれ」
「封筒を書く時か||封を切る時か||」
「もう一つある」
「切手を貼る時か||」
「そうだそうだ、サア面白くなって来たぞ」
「足の勇」の活動は目覚ましいものでした。
「失礼ですが伯爵、郵便切手は
「
「ありません、伯爵、切手入れの中は空っぽです、思い違いではありませんか」
「そんな事は無い、私は毎日手紙を出すが、切手は必ず二三十枚は用意してある。現に大川が死んだ日の朝も、切手箱には切手が沢山入って居たのを記憶して居る||」
「そこで、伯爵は切手を
「そんな事はしません」
「サア、
切手入れの古雅な塗物の中に、「足の勇」が言う通り、ほのかに、杏の香いが籠って居るような気がいたします。
「青酸だ!」
「そうだ、千種さんは気が付いたか。伯爵を狙う者は、誰だかわからないが、兎に角、伯爵の書斎に忍び込んで、切手入れの中の切手全部の裏へ、青酸を塗って置いたのだ。ところが、伯爵は切手の裏を舐めるような下品なことはされないから、
何んと言う、「足の勇」の頭のよさでしょう。私も伯爵も、あっけに取られて、その現場を見て居たような、素晴らしい仮説に傾聴してしまいました。
「ところで、人間が青酸を口の中に入れると、人間の五体を流れて居るヘモクロビン[#「ヘモクロビン」はママ](血色素)がその酸素又は二酸化炭素を失って、青酸と結合し、
伯爵が無言に頷くのを見て、「足の勇」は長大息しました。
「どうも仕方が無い||伯爵の代りに書生が死んだ。書生の手にある手紙の切手には、まだ青酸が残って居る。犯人はドサクサに紛れて死体から手紙をむしり取り、
「すると、此家の中に、私の命を狙う者が居ると言うことになるわけですな」
「お気の毒ですが、そうより外に考えられません」
三人は狭い書斎の
「この上は御家族の方は勿論、奉公人もすべて、この家に住んで居る者全部にお引合せを願い度い」
勇は伯爵に、こんな事を
「早坂様と
「エー、此方は殿様のお姪御様で瑛子様と
「厭な長谷部、年なんか言うものじゃなくてよ」
ツンとした瑛子は、赤い燃え立つような絹のブラウスを着て
「千種さん、何て馬鹿な事をなさるの。随分滑稽ね。この方は一体どなた、人をジロジロ見て何と言う失礼な方でしょう。アラそう、
言うだけ言って瑛子はサッサと出て行きます。
「この方は鏡照子さん、当家の家政婦で御座います。お生れは北海道、お年は||あッ、それを申しては失礼だとか言いましたな」
これも、「足の勇」の不遠慮な視線に射すくめられて、脅えた小鳥のように逃帰ってしまいました。
「あれは可愛相な娘です。両親を失って路頭に迷って居るのを、紹介する人があって引取りましたが、あの通り
長谷部老人は
「次は」
「園丁の
四十前後の植木屋夫婦、別に取立てて言うほどのことはありません。
続いて、書生二人、女中五人、運転手、助手、その中には変った人間も居りますが、これとても言うほどのことはありません。
最後に出て来たのは、二十二三歳と見える、
「若様、敬太郎様で御座います」
それでも
「やア、失敬。君は何んかい。探偵君かい。なに新聞記者? ホウ、そうか、何んか面白いことはありますか、近頃の新聞はどうも面白くないネ||」
弁じ立てそうにするのを、
「もういい、帰れ」
父伯爵が追い返してしまいます。
伯爵の不安と懊悩を見兼ねて、私も「足の勇」も到頭伯爵家に泊り込んでしまいました。幸い社の方にも忙しい仕事はなく、間がよく行けば、この種が大物になるかも知れなかったので、編輯長の諒解を得て、暫らくは此事件に没頭することになったのです。
三月十三日は、斯うして賑やかに暮れてしまいました。伯爵令嗣の敬太郎というのは、実は養子で、実子の無い伯爵は、これを姪の瑛子と一緒にする積りで居るようですが、どう言うものか、この二人は全く性が合いません。
併し遊び友達には、どちらも誠に結構な人物でした。屋外遊戯の部に属するものは、瑛子は何んでも心得、屋内遊戯に属するものは、敬太郎が何んでも相手になってくれます。
夕刻まで、
「お風呂をお召し遊ばせ」
と女中が来たのは四時頃、一応私と「足の勇」に勧めましたが、たって辞退すると、
「それでは御免蒙ろう」
伯爵は鷹揚に起って風呂場の方へ行ってしまいました。
後に残ったのは、私と「足の勇」と瑛子だけ、暫らく話に夢中になって居ると、急に、実に急に、風呂場の方から唯ならぬ絶叫が聞えます。
ハッと驚いて飛んで行くと、お勝手の真後ろにある風呂場はもう人間一パイ。
「早く電話を、先生へだ、博士へ」
「もういけない」
「兎も角お
大変な騒をやって居ります。
私と「足の勇」は、ハット顔を見合せました。一日見張って居た甲斐もなく、ほんの少しばかりの油断で、伯爵がやられたのでは無いかと思ったのですが、人をかき分けて中の様子を見ると、風呂の中で卒倒したのは、伯爵ではなくて、あの
「どうした、何? 敬太郎が||」
二階の大きい書斎の方から降りて来た伯爵は、此場の様子にサッと顔色を変えました。
「あツ、とうとう」
何んと言う悲痛な言葉でしょう。いきなり駈け寄って、敬太郎の濡れた
間もなく医者が来ました。診断の結果、病名は心臓麻痺、何んの変哲もなく、そんな簡単な文字で、青年一人の命を片付けられてしまいましたが、伯爵と「足の勇」と、私の胸はそれでは納まりません。
「
「何んだ」
「足の勇」が重大そうな顔をして私の枕元に立って居ります。
「
「よし」
私がガバと飛起きました。昨日の
「風呂場へ行くんだ」
「足の勇」はグングン私を引張って、
「なア、千種君、感電して死んだ人間の
「電紋とか樹枝状紋とか言うのが現われるそうだな。俺は見たわけでは無いが、物の本で読んだ事があるよ」
早朝から人を叩き起して不思議な事を聞く男ですが、その真剣な顔を見ると、怒ることもならず
「その通りだ。血液や神経の経過に従って、高圧の電気が
「解らないな」
「俺もそれが解らないので、
「足の勇」の
「何んだ、これは」
「この裏は直ぐお勝手だ。電熱器から火箸で、蛇口へ電気を伝えさえすればいい。湯を少し熱くして置けば、頼まなくとも、風呂へ入って居る人は蛇口へ手をかけるよ。百ボルトの電気でも、全身湯につかって居る人の手から伝われば、心臓の弱い人なら決して殺せないことは無い。伯爵はあの通り肥って、心臓の弱いのを気にして居るし、身代りになった坊ちゃんは、それにもまして、ビードロのような
「アッ、本当か、そんな事が出来るのか」
「出来るか出来ないか、兎に角昨日は三月三十日だ。そして、風呂へはあの時伯爵が入る筈だったんだ。女中に呼ばれて来て見ると、坊ちゃんの方がお先へ失敬して入って居るから、伯爵はそのまま二階の書斎へ行き、可哀相に養子は、その身代りにビリビリとやられてしまったのだよ。実に恐ろしい事を考える人間があったものだ」
私は
「大変だ、直ぐにも警察へ」
「駄目だよ。博士は心臓麻痺だって診断したし、伯爵はあの予告をどうしても発表しないだろうし、騒いだって何んにもならないよ、低圧電気で死んだ死体は、解剖したってわかるわけは無い、もう少し見て居よう、今度はどんな事があったって逃さないぞ」
不意に
飛付くように障子を開けると、女中達が二三人、生
その日の午後。
私と「足の勇」に宛てて、不思議な手紙が舞い込みました。例のカードへ拙劣極まる字で、
命が惜しくば手を引け。
これだけ書いてあるのです。消印はツイ近所の郵便局、明らかに脅迫ですが、何を考えたか「足の勇」は、その不思議な敵の命令に一番驚いたのは伯爵でしたが、この上たって引止めるわけにも行かず、又引止めたところで、「足の勇」は聴入れそうもありません。万一何か重大な変化のあった時は、直ぐ駈け付けるという約束で、一先ず二人は伯爵邸を出ることになったのです。
「警官をお頼みになっては」
別れる時、私はくれぐれも伯爵に忠告しましたが、この尊大な貴族はどうしても聴入れようとしません。
「そればかりは君の忠告に従われない。どうか又、お願いしたら直ぐ来てくれ給え」
伯爵の顔にも隠し切れない悲痛な色が動きます。
伯爵にもまして心細がったのは、姪の瑛子と、家政婦の照子でした。併しこの美しい二人の懇請も「足の勇」の決心を動かすには足りません。
それから七八日、不安の
九日目の晩、伯爵家から、あわただしく電話がかかって来ました。用件は言わずに、兎も角、二人で大急ぎでやって来てくれと言うのです。
心待ちに待って居たらしい、「足の勇」を促して、円タクで伯爵邸に乗り付けたのは、やがて真夜中近い時分でした。玄関まで迎えに出た伯爵は、直ぐ二人を二階の大きな居間へ案内して、座も定まらぬ内から、
「とうとう来ましたよ、三回目の予告が」
さすがに顔色を変えて居ります。
「エッ、本当ですか」
「これを見て下さい」
伯爵の手から渡されたのは、例のカードに例の悪筆で、
三月二十三日が最後だ。今度は逃さぬぞ。
と「もう犠牲者を二人出した。今度はいよいよ私かも知れない」
さすが一時政界の怪物扱をされた伯爵も、こんな心弱い事を言っておびえ切った瞳を
「いよいよ警察の力を借りる時ではありませんか」
「いや、それは困る」
伯爵の決心はまだ動かすべくもありません。
「それでは、二人で兎も角明日一日警戒して見ましょう」
「どうか、そう言うことに願い度い、外に方法は無い」
「伯爵||私に少しばかり、考がありますが、容れて下さるでしょうか」
「足の勇」は思い定めた様子で申します。
「どうぞ、何んなりと、決して私は
「それでは、明日一日、私に一切の命令権をお譲り下すって、一挙手、一投足も、
「それ位の事は何んでもない」
「御家族や雇人の方にも、明日一日だけ絶対に私の命令に従うということを誓わせて頂き度いのです」
「お易いことじゃ」
不思議な約束は、斯うして成り立ちました。
「足の勇」の専横は、三月二十三日の夜が明けると同時に始まりました。実に横暴極まる主人で、雇人は申すまでもなく、瑛子も、照子も朝の食事の時は、もうすっかりこの新主人「足の勇」の気違い染みた専断に腹を立ててしまいました。
「相手は非常に危険な人物だ、容易の事では勝てない」
というのが「足の勇」の意見で、伯爵以下家族奉公人全部を、階下の大サロンに集め、四方の門は勿論、玄関も、勝手口も、あらゆる窓と云う窓を悉く閉め切ってしまいました。
サロンに集まった人間は全部で十五名、これがこの家に住む全員です。食事一切はパンと缶詰物で間に合せ、女中をお勝手へも立たせません。十五名全部に対して厳重に身体検査をして、兇器薬品類を持って居ない事を確めたことは申すまでもなく、
「何だってこんな事をなさるの坊ちゃん」
勝気者の瑛子は一番先に「足の勇」に喰ってかかりました。
「見えざる敵に備えるためです」
「そんな者は
「書生の大川と、敬太郎さんがその敵にやられました。お嬢さん今日一日だけ我慢なすって下さい」
「いやですよ、こんな牢のようなところへ入れて、私は一日外へ出ないと病気になるんです」
この娘では、なるほど
「千種さん笑いましたネ、覚えて
「サア」
「照子さん、私共二人だけ出して貰おうじゃありませんか」
今度は家政婦の鏡照子を誘いかかります。
それでも、
雇人達はそれでも神妙にして居りますが、瑛子の
此時||
「こんな事をして、何んかの足しになるでしょうか」
不意に不思議な晩餐の席から、嘲るような声が起こりました。若い女の美しいアクセントですが、瑛子ではありません。
「見えざる敵とやらが、こんな事で恐れ入って引込んで居るでしょうか」
何んと言う妙な言い廻しでしょう。ゾッとした心持で声のした方を見ると、果物の皿を持って、食卓の人達に食後の果物を分けてやろうとして居る、家政婦の鏡照子の口から物凄い言葉が出て居るのです。
髪を一束につかねた、黒っぽい洋装の娘が、沈鬱な眼をあげると、鼻筋の通った、口元の締った美しい顔が、異常な魅力を発散して、一座の人を惑乱しそうです。
「何? 何を言う」
伯爵は愕然として起ち上りました。化物の正体を今初めて見た人の驚きは、その顔を藍のように真青にさせます。
「お前か」
伯爵は家政婦の顔を指さして、僅にこれだけ言いました。真直ぐに突き出した指はワナワナ
「何んだ何んだ、何をするんだ」
書生、運転手、園丁など、屈強な男達は、主人の大事と見て立ち上りました。いざと言わば、この
「騒ぐと為にならないよ、
驚いたというわけでも無かったでしょうが、競い立った男達も思わず顔見合せて息を呑みました。
「伯爵、サア、私の顔をよく御覧。二十三年前に捨てた
一座はもう口をきく人もありません、家政婦の
「私の先生の科学者は、いろいろなことを私に教えてくれた。それを一つ一つお前の命へ試みるのだ。青酸と、電気と、二度までは身代りを殺して助かったろうが、今日はどんな事があっても逃がさないぞ。サア、伯爵、覚悟はいいだろうな。私の脈管には、世を呪い人を呪う親譲りの悪血が渦を巻いて居る。容赦や手加減というものは、私のようなもののする事ではない。伯爵と一緒に死に度い奴は皆な一緒に集まるんだ」
青白い
サロンの中に居る、十五人の驚きは言葉にも尽きません。この一番無難らしく見えた、淋しい美しい婦人は、世にも恐ろしい殺人鬼の仮面に過ぎなかったのです。
「ワッ」
と言う恐ろしい
「逃げられまい。あの馬鹿な坊ちゃんが、四方の
と罵りたける女の前へ、ぼんやり突っ立って居るのは「足の勇」です。此騒ぎの中、此男ばかりは
「オイオイ女、その切り札と言うのを投げて見ろよ。丁度食後に一つ欲しいところだ、皮を
「何?」
「遠慮することは無いよ、
「
飾皿の中の
「アッ」
「あるまい、なア女、お前の最後の切り札というのは、博物の標本に作った張子の林檎の中に精巧な爆弾を仕込んで、その皿の本当の林檎の中へ忍ばしてあったんだろう。それならばとうの昔に俺が取って、安全な場所へ隠してしまったよ。その中にあるのは本当の林檎ばかりだ、遠慮することは無い。威勢よく
一座はシーンとして「足の勇」の話に聞き入りました。爆弾を隠したと聞いた安心に、がっかりして動けなくなったのかも知れません。「足の勇」は言葉を続けて、
「そんな無法な復讐は許されない事だ。お前はお前の無法な復讐の犠牲に、償をしなければならない。警官はもう来る筈だ。それ、あの門を入って来る足音がお前にも聞えるだろう、気の毒ではあるが、お前のような殺人鬼はこの世の中へ放し飼にして置くわけには行かない||それッ」
後ろ手に
「やア遅れてすまなかった。警官は直ぐ後から来る筈だ」
先の「足の勇」の方がいくらか年を取って居るようですが、服装から態度から口調まで、並べて見ても紛れるほどよく似て居ります。
「お前は何んだ、お前は?」
驚きと怖れと、激しい憤怒におののく女の眼の前へ、
「わからないか。俺は警視庁の
「アッ」
驚いたのは照子ばかりではありません、思いもよらぬ名探偵の出現に、一座は開いた口も塞がりません。
「エッ
花房一郎の方の「足の勇」が飛び付く暇もなく、女の手は素早く口へ、
「アッ、まだ青酸
言いも終らぬに、殺人鬼鏡照子の
最初伯爵の話を聞いた時、私||千種十次郎||は、この事件の容易でないことを知りましたが、伯爵はどうしても警察の手に委ねる事を拒んだので、懇意な名探偵花房一郎の隠れ家に手紙をやって、「足の勇」に化けて海原伯爵邸へ入り込ましたのです。
この私の勝手な処置については、くれぐれも伯爵に詫びましたが、これ程の重大事件と解って見れば、私のやった事に対して、却って伯爵は感謝するばかりでした。
後で、どうして殺人鬼の正体を突きとめたかと花房探偵に聞くと、
「何んでも無いよ。犯人は家の中に居ることは確かだから、一番身許の不明なあの女を調べたんだ。紹介者から知人を
そんな事を言って居ります。
それから間もなく、私と二人の「足の勇」に、瑛子を加えて、内緒で慰労会を開きました。その時の馬鹿馬鹿しさと面白さは、