「お嬢さん、あなたはヴァイオリンをひきますか」
隣席の西洋人は、かなり上手な日本語で、
「ハ、イーエ、私のでは御座いません、これは兄ので||」
信子は少しドギマギしながら、ヴァイオリンの革箱を
「お兄様というと?」
中年輩の立派な西洋人は、その優しい青眼をまたたいて、腑に落ちないような顔をして居ります。
軽井沢を宵に発った汽車が、
「僕です」
「失礼しました。楽器を持っていらっしゃる方を見ると、ツイ懐しくなります||
見ると
「ですから||」
西洋人は続けて申します。
夜汽車のつれづれもあったでしょうが、この西洋人の眼には、それ以上に、何んとも言えぬ人なつかしさが動いて居るのでした。
「ヴァイオリンをひく方を見ると、他人のようには思いません。御免下さい||突然知らない方に話しかけるのは、お国ばかりでなく、
「よくわかりました、お察しいたします、私もつい
芸術家らしい感激が、こう語るうちに、幾久雄の立派な顔を輝やかしく染めます。
「有難う、そう言って頂くと本当に嬉しい、こんな場所で、重ね重ね失礼ですが、
西洋人の顔にも、人懐かしさと、やるせなさが、ほのかに動きます。
「有難う、ミスター・ベーカー、私は立花幾久雄と申すヴァイオリンひき、これは信子と言って、私の本当の妹でもあり、私の大事な伴奏
「お、お、よく知って居ります。近頃天才兄妹として有名な、立花幾久雄さんと信子さんというのはあなたでしたか、それはいい方にお目にかかりました」
「そう
「
「いや、軽井沢に居る友人を訪ねて来ました、非常に悲しいような、その癖この上もなく嬉しいような事件で||」
「悲しいような嬉しい事||それは一体どういう意味ですか、
「エ、喜んでお話しましょう||」
汽車は高崎へ着くと、その二等車からも二三人降りて、ベーカーの側にも一つの席が空きました。幾久雄は大急ぎでその席に移って、妹と二人でベーカーを挟んで坐ると、幾久雄の今まで居た向う側の席へは、同じ箱の中に居たらしい、二人の西洋人がやって来て、いそいそと腰を下しました。一人は眼の鋭い毛の赤い、
「私の友人というのは、金持で病身で、そして私と同じように音楽を愛する男です」
幾久雄はこう話し始めました。
「
「お、お、ストラドヴァリウス、それは珍らしい事です」
ベーカーも
読者の中には、知って居られる方も沢山あるでしょうが、ストラドヴァリウスというのは、今から二百六七十年前のイタリーに住んで居た人で、ヴァイオリン作りとしては、古今独歩の名人と言われた人です。
この人の作ったヴァイオリンで、今の世に残って居るのは登録されたように、数や持主までも判って居る位ですから、一つ売物が出たと言っても、音楽家の騒は大変なものです。
余談はさておき||
「私の友人はその名器を三万円で手に入れ、命よりも大事に日本へ持って帰りましたが、何んとした不幸でしょう。永い間の旅行で
「お気の毒なことです、名器の尊いことを知るのは、本当の芸術家だけですが、私も何んかしら、お友達の悲しい心持がお察し出来るような気がします」
「有難う、ミスター・ベーカー、友人の心持が解って、同情して下さる方が一人でもあったら、友人もどんなにか心安く死んで行けるでしょう」
「死ぬ? その友人が亡くなられたのですか」
「そうです。可哀相に||そのヴァイオリンを痩せ衰えた手で撫でながら、三日前にとうとう死んでしまいました」
「それは、お気の毒な」
「死ぬ前に私を病床へ呼んで、
(このヴァイオリンを、私が死んだら君へ形見にやり
こう私の友人は言うのです。私はそんな心持にはなれませんでしたが、友人の最後の望みに
幾久雄の瞼には、真珠のような涙が溢れました。信子はもうハンケチに顔を埋めて、
「お気の毒な事です、
ベーカーも眼をしばたたいて、この純情に燃える兄妹を、愛撫するような眼ざしで見廻しました。
「友人を葬ったのは今日、私共は、形見のストラドヴァリウスを持って、大急ぎでこの夜汽車に乗らなければなりませんでした。明日の午後、私は帝劇でヴァイオリン独奏会を開くことになって居るのです。この日取はもう三ヶ月も前から決って居て、今更変えるわけには行きません、友人を葬ってすぐ軽井沢を発ったのはその為です。その代り私は、亡くなった友人の好意で、日本での私の最初の独奏会に、日本にたった一つしかない、このストラドヴァリウスの名器で演奏することが出来るのです、悲しみの中の喜びと申したのは、斯ういうわけです」
青年の顔には、悲しみのうちにも、包み切れない
ベーカーと幾久雄兄妹は、
大宮を過ぎてから、車室に帰って来ると、先刻向う側に陣取った赤毛の西洋人と、混血美人とが、幾久雄と信子の席を奪って、ベーカーを挟んで両方に坐り込み、幾久雄兄妹が入って来ても、素知らぬ顔をして動こうともしません。それを見ると、
「アッ」
信子は思わず驚きの声をあげました。
赤毛の西洋人の膝の上に持ったハンケチの下には、紛れも無い
幾久雄兄妹は、黙って向う側の空席に着き、網棚から自分達の荷物などを移しました。ベーカーは、
汽車が上野へ着いたのは、もう夜半近い頃でした。兄妹はベーカーに目礼して別れを告げ、ベーカーも
「お兄様、今日はまあ
信子は片手に楽譜を持ったまま、追いすがるように斯う申しました。
「解らん、俺には何も彼も解らん」
狭い演奏者休憩室の椅子に、
「お兄様、
「解らん、
新帰朝の天才提琴家という振れこみで、帝劇一杯に客を呼んで、この日の演奏会は、まるで予想もしなかった不出来で、三階の奥の方には、口笛を吹く客さえある始末でした。
それに、
「何んという下手だろう」
「セザール・フランクのソナタを虐殺するようなものですね」
「まるで滅茶滅茶だ」
「ヴォイングが非常に悪い」
「あれ位は縁日の書生節でもひきますよ」
知るも知らぬも、
幾久雄は元よりそれを覚らないわけはありません。
「信ちゃん、僕はもう出ない、このまま帰って
立ち上ろうとするのを、
「あれ、お兄様、そんな事を
たった十六になる信子は、思慮深くこう兄をなだめて居ります。
今日はお
「悪いと言えば、このヴァイオリンだよ、軽井沢でひいた時はこんなでなかったが、今朝
パッと振り上げたヴァイオリン、三万円の名器を柱に叩き付けようとする手に、信子は
「あれ、お兄様、そんな事をなすってはいけません。大急ぎで家から
晴衣の紋付の袖も厭わず、涙は
「エッ、どうともなれ、俺の名も、芸術も、何も彼もおしまいだ、この演奏会がすんだら、すぐ又ドイツへでも飛んで行こう||もう日本へ帰らない積りで||」
幾久雄は椅子の中へ埋まって、しばらくは涙も出ないような恐ろしい絶望のドン底に沈んでしまいました。
「どうした、どうした」
いきなり入って来たのは、逞ましい様子をした、幾久雄と同年輩の青年。
「何んという事だい、君があんなに下手だとはどうしても信じられない、一体どうしたのだ」
椅子の側に寄って幾久雄の肩に手をかけます。
「
「何? 演奏を止す、そんな馬鹿な事が出来るものじゃない、プログラムだけはやらなければ、君は嘘を
「エ、これがそうなんです、兄さんは怒ってそれを柱へ叩き付けようとなさるんです」
「そんな無茶をしちゃいけない、三万円もするヴァイオリンだと言うじゃないか、どれどれ僕に見せな」
香椎六郎は幾久雄と幼な友達でしたが、幾久雄がヴァイオリンに夢中になる頃から、物理学に熱中して、幾久雄が音楽学校へ入った頃は高等学校へ、幾久雄が洋行から帰った頃は、新しい理学士になって、大学の助手を勤めて居りました。
生れつき研究心が強い上に、妙に探偵的な事が好きで、今までもいろいろ友人や
幾久雄が持って居るストラドヴァリウスに、まさか何事もあろうとは思いませんが、念の為に、フト取上げて見ようという気になったのも、日頃の探偵癖が顔を出した為でしょう。
暫らくヴァイオリンをいじくり廻して居た香椎六郎、
「これは君、真赤な偽物だよ」
勝誇ったような声を出します。
「何?」
椅子から立ち上る幾久雄の鼻先へ、ヴァイオリンのf字穴を覗かせて、
「見たまえ、そら胴の中へストラドヴァリウスと名を書いてはあるが、これは君二百六七十年前に書いたものではない。少くとも二十世紀のアメリカあたりで造る
「何、何? そんな事があるもんか」
ヴァイオリンの胴の中を覗くと、
「このヴァイオリンには、未だ外におかしな点がある。偽物とわかったら
「
「アレお兄様」
「信ちゃんは黙ってるがいい、そして、代りのヴァイオリンを大急ぎで取り寄せてくれ」
客席の方からは、
「それ見ろ」
ヴァイオリンの胴を
一々胴裏から剥して、なめし革から出すと、五十カラット近い白色のダイヤが一つ、三十カラット程の、やや青色を帯びたのと、淡黄色を帯びたダイヤが一つずつ、五六カラットから、十カラット前後のが七つ、全部で十箇の見事なダイヤが、このヴァイオリンの胴の中に隠されてあるのでした。
「オウ、これは
「ウーム」
「大変な事になったネ、このダイヤは何百万円の値打があるか知らないが、兎に角、我々では、見当もつかない大身代だぜ、これだけあれば、ストラドヴァリウスは百も買えるだろう、君はたった一と晩で夢のような大富豪になったんだ。お目出度う||」
香椎六郎はこう言って
「だけれど、ストラドヴァリウスはどうしたんだ、昨日まで確かに
幾久雄はまだあきらめ切れません。
「馬鹿だなア、そんなものは諦めてしまいたまえ、ストラドヴァリウスなんか、百も買えると言ったじゃないか」
「だが、あれは
客席からは、開幕を促す拍手が、一分
「仕様が無いなア、入場料を払い戻して、帰って貰えばいいじゃないか」
「そんな事は出来ない、そんな事は||」
幾久雄の心は、永久に失われた名器ストラドヴァリウスを追って、この何百万円にも積られる、見事な十箇の宝石も眼には入りませんでした。
「お兄様、お兄様」
信子だけが、この兄の心持を知って居るのでしょう。宝石よりも貴い涙が、
この時||
「立花さん、すみませんでした||」
あわただしく楽屋へ飛込んで来たのは、昨夜汽車の中で一緒になった外人、フランツ・ベーカーです。
「勘弁して下さい、私は、国の為に、あなたに飛んだ御迷惑をかけました」
「············」
誰も返事をする人はありませんが、ベーカーは、早くも香椎六郎の前に、むき出しに並べた
「おお、気が付きましたか、ヴァイオリンの中から出したのですね」
万事呑込んだ様子で、かき集めもし兼ねない風です、香椎六郎は驚いてそれを止め乍ら
「お待ち下さい、それは一体どうした事なのです、このダイヤは
「え、私の、それに相違ありません。私のダイヤと言うよりは、私の国のダイヤと言った方がいいかもわかりません。御不審もあるようですから、詳しくお話しましょう||」
ベーカーの話というのは、大変入り組んで居りましたが、簡単に書くと、斯うなります。
ベーカーの故郷というのは、中央
ところで、このフランツ・ベーカーというのは、その国でも非常に有力な愛国者で、自分の母国を独立させるについては、大変な大きい費用をかけて、世界の強国を説いて歩いて居たのです。ことに米国の輿論を動かすには、どれだけお金がかかるかわかりません。
それかと言って、保護して居る強国に睨まれて居りますから、そんな大金を本国から持ち出すわけにも行かず、
「それを嗅ぎ付けたのは、世界を
ベーカーはこう申します。
「あいつ等は、私の身につけて居るものは、何も彼もしらべました。帽子から靴から、
ベーカーの顔には、よしや相手が、冷たい石っころでも感動せずには居られないような、火のような真情が燃えて居ります。
「わかりました。ベーカーさん、
「有難う立花さん」
二人は固く固く手を握り合って、その上に、熱い涙をさえふりそそぎました。
「本当のストラドヴァリウスは
「そのダイヤ
「
「左様なら皆さん」
ベーカーの姿は昼も薄暗い道具裏へ消えてしまいました。
「あの西洋人もエライが、君もエライ、今日という今日、俺は本当の愛国者と、それから本当の芸術家と、それから本当に兄を思う美しい妹を見たよ」
香椎六郎も、感歎の声をあげて、友人の高貴な顔を仰ぎました。そして信子の可憐な清純な姿にその濡れた眼を移しました。
十五分の休憩が一時間近くなって、聴衆は割れ返るような騒ぎでしたが、
その日の第二部「メンデルソンのホ短調の司伴楽」の美しさに、帝劇一杯の客は、涙ぐましいまでの感激に打たれました。
第三部の小曲の美しさも、言うまでもありません。第一部があんなに悪かったのは、多分、日本に於ける初ステージで、立花君も少しあがった為だろうと、新聞の音楽批評は書きました。
信子嬢の伴奏が、兄幾久雄のヴァイオリンにも