温かい、香ばしい
そう感じて深井少年は眼を開きました。
多分今まで気を
「気がおつきになって? まあよかった」
紅芙蓉の花弁と思ったのは、額口へ近々と寄った、この女の唇だったかも知れません。しかも、その美しい唇から、ビロードのようなタッチの滑らかな言葉が、深井少年をいたわるように、
「随分心配したワ、これっ切り死なれたら、
深井少年の頭には、
そこまでは知って居りますが、それから先は何んにもわかりません。
自動車に擽かれたという記憶が蘇えると同時に、深井少年は本能的に
「マアそんなに手足を動かして、亀の子のようよ||、でも
深井少年は長椅子から飛降りるように、すっくと立上って見ました。
この婦人は無遠慮に「坊っちゃん、坊っちゃん」と言いますが、深井少年は今年からもう大学生なのです。
「僕、深井清一というんです」
「あら御免なさいネ、ツイあんまり可愛らしかったんで、そう言ってしまったんです、そうお立ちになると、全く立派な大学生さんだワ、坊っちゃんなんて、すまないワネ」
まことに操縦自在です。深井少年などでは歯の立つこっちゃありません。
「だけど、本当によかったワネ、あなたが、自動車の前へ引っくり返って、目を廻しなすった時は、私本当にどうしようかと思ったワ、幸い家が近かったから、運転手と助手に、ここまで運んでもらって、今しがた先生へ電話をかけたばかりのとこよ、そう早く直るとは思わなかったんですもの······そりゃ随分びっくりしたワ、ネ、こんなよ、御覧なさいな、私の心臓はフォックス・トロットを踊ってるでしょう」
深井清一の手を取って、胸のあたりにかざすと、肌も匂うばかりの青磁色の薄い洋装の下に、なるほど女の心臓は活溌に踊って居るようであります。
それにしてもこれは、何んという人を
「あなたは、駒······」
危うく言おうとして、深井少年は言葉を半分呑み込んでしまいました。
自分と相対して居るこの妖艶無比な女は、まぎれもなく、近頃評判の歌い手、あの洋行帰りの
ファラーの声は非常に魅惑的で、男性を悩殺しなければ止まない、不思議な響を持って居りますが、駒鳥絹枝の声にも、それに似た
それに、この歌い手の異常な美しさが、いやが上にもその人気を高めて、この女の周囲には、
「マア嬉しい、あなた、私を御存じ、そう独唱会で? 音楽はお好き? そう嬉しいワネ」
女はそう言い乍ら、深井少年の手を取らぬばかりに、押し並んで深々と長椅子にかけました。
「あの、何んか飲物を持って来て······それから運転手へ、
テキパキと用事を言い付ける内も、白い柔かい手は、椅子の
この様子で見ると、この女の持つ魅惑力は、あの素晴らしいメツォ・ソプラノから来るのばかりでは無いかも知れません。美しい小間使は、モザイックの床とドアーの引手以外は「私は何んにも見ません」と言った恰好で、たしなみ深く
「こうしては居られません、僕は帰らなければ······」
というのを押えて、
「まあ、もうお帰りですって、いけませんワ、命拾いのお祝いですもの、死んだ積りなら、一晩位ここへお泊りになったって構わないでしょう」
この有名な歌姫は、ただ
「何んという
「お坊ちゃんだけは
「悪いわネエ、お坊ちゃんなんて······だけど、私のところに入らっしゃる男の方は、随分
小間使の持って来た飲み物というのは、コーヒーや紅茶ではなくて思いもよらぬ珍酒の数々でした。
「お酒だけは上等よ||女のくせに、随分でしょう、でも私は沢山はいけないの、これでも歌い手ですから、いくら自堕落なようでも、喉を大事にすることだけは知ってるワ。そうそう
か細い手が、チョコレート色の壜にかかるのを止めて、
「あれは何んでしょう」
コップを
窓の下のあたりから、不意に、かなり節奏の巧みな、ハーモニカの音がして来たのです。
「ホッホホホ、気がお付きになって、カルメンの
「あなたに?」
「ええ、素晴らしい伴奏でしょう、私がどうかして歌ってやらないと、何遍でも何遍でも窓下を往ったり来たり、往ったり来たり、日が暮れたって、夜が更けたって動きやしません」
「何んです、それは、不良少年ですか、僕が行って追っ払って来ましょうか」
「イエ、そんな
「あなたのパトロンが、ハーモニカを?」
「エ、エ、まあ、
「どうしたんです、ハーモニカの伴奏で、あなたに歌わせるのは、失礼じゃありませんか」
「ちっとも失礼なことなんかありはしないワ、日本の伴奏者には、おたまじゃくしの通りピアノを叩いても、あのハーモニカ程も気分の出ない方が沢山あるワ、ハーモニカは幼稚な厄介な楽器には相違ありませんが、あれだけ魂をこめて吹くと、そんなに軽蔑したものでもないでしょう」
「随分変な議論ですネ」
「まあ、議論はあとでするとして、
駒鳥絹枝は、ツと立ち上って、長椅子の上の窓掛を引きました。暑い西日が斜に入って、
立ち上って、絹枝の
見ると、なるほどその生垣にもたれる様に、一人の若い男が立って居ります。が、その姿を一目見て、深井少年はすっかり面喰ってしまいました。世界的歌手の窓下で、ハーモニカを吹く大胆者は、多分少し低能な不良少年で、ラッパ形のズボンでもはいて、カウボーイ風の帽子でも冠っているだろうと思ったのですが、実物を見ると、どうしてどうしてそんな厭らしいものではありません。
菜葉色になった、洗いざらしの
青々と剃った坊主頭を打振り乍ら、
「ネ、私のパトロンは素的でしょう」
近々と寄り添う頬の温かみ、香料と異性の血の匂いが、深井少年をうっとりさせます。
「ですから、時々私はピアノを弾きながら、あの按摩さんの為に歌ってやるんです······ピアノを窓際へ置くのは、陽が当って悪いことは百も承知ですが、私の一番の崇拝者に聴かせるように、こんなに窓際までピアノを引張って来たんです」
この歌い手は何んという不思議な女でしょう。深井少年は、驚きと好奇とちゃんぽんになった心持で、改めて自分と並んで居る美しい横顔を見詰めました。
一切の脂っ気を抜いてしまった髪||一番上等のビロードを思わせるような、清らかな髪||は、コテの跡もなく自然に渦を巻いて、少し小さい可愛らしい顔のためにそれが黒檀の額縁になって居ります。
真珠色の皮膚には、
「そんなに私の顔ばかり御覧になっちゃ厭、でも、随分美しいでしょう、ホッホホホホ」
正面を向いて、こうあでやかに笑われた時は、深井少年、北海道の
「まあ、そんなに
と言い乍ら、窓から乗り出すように、
「按摩さん、何んかお聞かせしましょうか、
そんな事を言いながら、グランドピアノの蓋を払って、シューベルトのものを二つ||最初は「
駒鳥絹枝の歌の美しさを、今更申し上げるのは愚かな事です。シューベルトは清純なもので、駒鳥絹枝のような、魅惑的な歌い手に向かないではないかという人もあるでしょうが、それは、駒鳥絹枝のシューベルトを、聴いた事の無い人の言うことです。「
「······さすらい旅路の、果はいずこ······幸の国は遠しと、ささやく······」と歌い
「嬉しいワ、あなたは私のヴァンダラーを聴いて、泣いて下さるのネ」
ピアノの前から起って、こう言う駒鳥絹枝の眼にも、涙が宿って居ることを、深井少年は見のがしませんでした。
けれども、一番感動したのは、何んといっても窓の外に立って居る按摩さんでした。その百鬼夜行の図にありそうなグロテスクな顔が、夕日を一杯に受けて、歌のメロデーのままに歪み、
「御覧になって······あんな熱心な聴衆は、どこのコンサートにあるでしょう、私の一番素晴らしい讃美者はあの按摩さんでなくて誰でしょう、ハーモニカの伴奏で、喜んで歌って上げる、上等のパトロンという意味はおわかりになって?」
身も魂も打ちひしがれたように、夕日を浴びて立ち尽す、奇怪なる按摩の姿||ノートルダムの怪像にも似た姿||を見て深井少年は、一ステージ何万円でなければ歌わないという駒鳥絹枝が、惜し気もなくその歌を聴かしてやる心持がわかるような気がしました。
「カム・イン」
ノックして入って来たのは、モーニングを着た、
「遅れてすみません、御病人は?」
「まあ先生、病人はもう直りましたよ、電話でそう申すのを、うっかり忘れて居たんです」
「ホウ||」
「この方が私の自動車と衝突して、気絶なすったので、驚いて先生をお呼びしたのですが、間もなく正気に
「イヤなに私に用事の無くなる方が、どんなに結構だかわかりません、では失礼」
「あれ、今お茶が入ります、御用事が無ければ、どうぞ御ゆっくりお話し下さいませ」
「有難う、もう宅へ帰るばかりで、用事も回診もありません、では暫くお邪魔をさして頂きましょうか」
「ご紹介いたしましょう、この方は深井······さん、こちらは、高木博士」
「よろしく」
「············」
三人は客間の小卓を挟んで、
「お邪魔では? ······」
「いいえ、どうぞこちらへ、今お茶を入れて、お話を新らしくしようという、丁度いいところです、高木博士は御存じでしたネ、深井さん御紹介いたしましょう、こちらは
錦木家の跡取りで、近頃売り出しの小説家錦木
「相変らずお盛んで」
最初に、高木博士が口を切ります。
「イーエ、もう」
「第一、あなたの崇拝者の多いのには驚きましたよ、どこのサロンへ行っても、近頃はあなたの話で持ち切りです」
「まあ先生
高木博士は
「あれは、ハーモニカでは無いですか」
「え、ハーモニカですワ、あのハーモニカを吹いてる按摩の小僧さんが、私の一番大事なパトロンなんです」
「ほう、それは面白い、深い
美しい歌い手とドクトルが、こんな話をして居る間に、錦木家の若様は、そっと窓へ行って、ハーモニカを吹いて居るパトロンの姿を見て居ましたが、やがて酢っぱいような顔をして座に戻って来ました。
「大変な按摩の子ですね」
「大変······そう大変といえば大変ネ、けれども、あんなに私の音楽に感動してくれて、私の心持を掴む聴き手は無いんです、あの按摩の子一人の為に、私はリサイタルを開いても、決して惜しいとは思いません」
「······それは結構なお心掛けで······」
錦木幸麿の
「有難う」
駒鳥絹枝の
「あなたらしい面白いことですね······私は医者で、芸術の事はわかりませんが、多くの患者を手がけて居る内に、近頃不思議な事を発見しました······それはこんな事を申すと、錦木さんなどのお叱りを受けるかも知れませんが······すべて人は、許されないもの、禁じられたものに対して、異常のあこがれや欲求を持つという事なのです」
「そんな事もあるでしょうね、
錦木幸麿は少し反抗的な調子ですが、高木博士は委細構わず話を進めて参ります。
「アルコールを禁ぜられたアルコール中毒の患者が、アルコールに対して異常な執着を持ち、甘い物を止められた糖尿病の患者が、お菓子を命がけで欲しがるのは申すまでもありません。耳の悪い人が音楽を好み、目の悪い人が絵画を熱愛する例を、私は沢山見て居ります。視力なり聴力なりが、失われかけて居る時が特にそれが烈しいのです、これは駒鳥さんの畑ですが、ベートーヴェンは
「有難う御座いました、先生は御商売柄と申しては失礼ですが、なかなか思いやりがおありで、心の病までも見抜いていらっしゃる」
「冷かしてはいけません」
「あら、冷かしなんかじゃありませんワ」
「失礼ですが||」
苦々しそうにして居た錦木幸麿は、不思議な微笑を浮べて、こう口を出しました。
「駒鳥さん、||私はもう我慢が出来ません、何も
激情家らしい若い作家の顔は、亢奮に蒼ざめて、
「マア、
「あなたの
「············」
「私は今日という今日、最後のお返事を伺う為に、あなたに夢中になって居る一団の若い人達を代表してやって来たのです」
「マア······」
「お驚きになるには及びません、私は、イヤ私共は、もう我慢が出来なくなったのです······お客のある席で、こんな事を申しては、誠に済みません、無礼は百も承知して居りますが、私はもうそんな事に遠慮しては居られないのです、恐らく日比谷公園の音楽堂のステージに立っても、私はもう大きい声であなたに問を発するでしょう。駒鳥さん、あなたはどうなさる積りです。尤もこう申したからと言って、是非私と結婚して下さいと言うのではありません、||それが出来れば、この上の幸福は無いのですが、今の場合、とてもそれは望めそうもありません」
「マアマア、そんなお話は、いずれ又の時になすったら
高木博士は立ち上って
「どうぞ放って置いて下さい、私は友人達を代表して、駒鳥さんの態度を確かめる為にやって来たのです。誰とでも
錦木幸麿の言葉は激越を極めました。その辺に人が居ようが居まいが、思い詰めた貴公子の眼中にはそんな者は無かったのです。
最初の内は、巧みに鋭鋒を避けて、錦木の言葉をはぐらかそうとして居た駒鳥絹枝も、遂にはその熱情的な言葉に引入れられて、
「錦木さん、お許し下さい、私はわけがあって、どなたも選ぶことが出来ないのです」
「エッ、何を言われるのです、それは
「わけは申し上げられません、が、あなたがお苦しいように、私の胸も張り裂けるような思いです」
世にも美しい歌い手は、声をあげてその場に泣き崩れてしまいました。青磁色の
何時間かの後、駒鳥絹枝は、漸くその涙にぬれた顔をあげました。
客間には電灯が入って、華麗な調度を明るく照し出して居りますが、そこにはもう、高木博士も錦木幸麿も見えません。少し離れた所から、深井少年の気遣わしげな眼だけ、この「歎きの歌姫」の、底知れぬ悲歎の様を、いたわるように眺め入って居るのでした。
「
長椅子の背に、なよやかな腕を投げかけて、その上に、ぬれた大輪の花とも見られる、優れて美しい顔をがっくり載せました。精も根も尽き果てた美女の姿は、ビアズレも、歌麿も知らなかった、不思議な悩ましさを描き出します。
「深井さん、あなたはまだ帰るとは言わないでしょうネ、帰っちゃイヤ······私の側へ寄って、そう、そう、そして、もう少しここに居て下さるワネ。私に逢って、何んとか厭らしい事を言わない男は、
歌姫の顔に刻まれた深刻な悩みが、明るい
「私には、恐ろしい秘密があるの、素振りにも表わすことの出来ない、それはそれは恐ろしい秘密よ。出来ることなら私は、その秘密を抱いて、このまま死んで行き度い、けれども、それさえ今は許されて居ないんです······人間は、一生秘密を守り通せるものではない『王様のお耳は驢馬の耳』という童話があるでしょう、丁度ああ言った具合に、自分の身の破滅になるような恐ろしい秘密でも、土へ穴を掘っても言わずには居られないのですネ、······深井さん、聴いて下さる、そう、有難いワネ、あなたは、私というものの悪い噂を沢山お聞きになったでしょう。男という男を迷わして、いざという時になると、残酷に放り出すといった様な話をネ、全くその通りよ。私は随分いろんな男を迷わしたワ、私の為に身を亡ぼした男が、五人、十人、いえいえそんな事ではありません、けれども誰も私というものを手に入れた男が無かったでしょう。世の中の人達は『あの女は利口だ、結婚すれば人気が落ちるにきまって居るから』とこう言ったでしょう。それがまあ世間並の観察ネ。けれども、私はそうじゃないの。歌い手に不似合な、
もう夜もいいかげん更けました。深井少年には帰らなければならない時刻が迫って居るのですが、歌姫||悩める駒鳥絹枝||は、深井少年を長椅子の上へ引き据えて、どうしても帰そうとはしません。
「まあ、いいワ、そんなにもじもじしなくとも、泊っていらっしゃいよ。あなたはどうせ下宿住いでしょう、宿へは電話かなんかかけさせるワ、大丈夫、取って食いもどうもしませんから」
ニッコリ、それでも苦悩を刻んだ顔に、ほのか乍ら微笑が走ります。
「お話の続きをしましょうネ。||
恐ろしい圧迫は、深井少年を捕えてしまいました、避けることも逃げることも出来ない、それは凄まじい宿命的な力でした。青磁色の
「秘密というのは······それを話す前に、あなたは『
歌姫はフラフラと立ち上りました。青磁色の
「サア」
手を取って導かれたのは、奥の奥の、美しく整った小室、真珠色の光の漲って居る中です。
「深井さん、私の恐ろしい秘密をよく見て置いて下さい、私はこんなに美しく生れついて、千万人に恋い慕われ乍ら、一つもその恋を受け入れることの出来なかったのは、こうした秘密があったからです」
ピンと
「アッ」
と言う間もありません。
「オッ」
と声をあげて、両手に顔を埋めたまま、めり込むように安楽椅子の中へ倒れました。
深井少年は密室で何を見せられたか、もとより詳しい事はわかりませんが、後に人に漏らした
学者の意見を聴くと、それは象皮病のような一種の皮膚病ではないかということでしたが、深井少年は、その鱗は、「病気という性質のものではなく、自然に生えた真珠色の本物の鱗に相違ない」と主張して居るのです。
人間の頭に鳥の骨があったり、猿の目があったりする例があるなら、鱗の生えた人間があり得ないとは言い切れません。何万年前の脊椎動物は
それは兎に角、その恐ろしい秘密を見せてしまった、歌姫の駒鳥絹枝は、もう一度ガウンを着ると、気違染みた態度で言い続けるのです。
「私に、恋も結婚も禁じられて居た事は、よく判ったでしょう、禁じられたものに対する熱望で、私はどんなに恋の遊戯に
美しい歌姫は、そのしなやかな両手を、不思議な
その夜深井少年は、逃げるようにして、駒鳥絹枝の家を抜け出しました。が、事件はそれでお仕舞になったのではありません。明る日の東京中の夕刊は、思いもよらぬ惨事を載せて世聞を驚かしたのです。
それは、有名な歌手駒鳥絹枝嬢の宏荘な邸宅が焼けて、世界的名ソプラノにして、花の如く美しかった嬢は、その焼跡から真黒焦の死体になって現われたという記事でした。放火の嫌疑者として、若い按摩が一人、現場から挙げられました。
猛火が邸宅を嘗め尽して、最後に三階の一角を残した時、白衣の絹枝嬢はバルコニーに立ち現われて、渦巻く火焔に包まれ乍ら歌い狂ったとも伝えて居ります。逃げれば逃げられた命を、我から進んで猛火の中に果したのは、
思い合せるとそれは、深井少年が逃げ帰ってから、三時間ばかり後に起った、世にも恐ろしいシーンだったのです。