十月の初め、急に
樺太〔サハリン〕へ行くことになった。
目的は、樺太の北、
敷香〔ポロナイスク〕の町近いあるツンドラ地帯で、冬期間の
凍上を防止したいという問題が起って、その予備調査をしようというのであった。一行は某省のA技師と、私と、私の方で凍上の実験を主としてやっているS君との三人であった。
十月の
宗谷海峡は、もう海の色も
冷く、
浪がざわざわとざわめいていた。朝八時に
稚内を立って、夕方の四時に
大泊〔コルサコフ〕に着くまでの間、私は
御免を
蒙って、ベッドの中にもぐり込んでいた。そして今度の仕事について、ゆっくりと、シベリヤにおけるロシアの凍上対策のことなどを思いみていた。
幸い天候に比較的恵まれていたので、大体予定の時刻に大泊に着いた。船の上から見た大泊の町は、
禿山の低い連山を背景にもった、荒れた色の港町であった。
大泊から樺太庁の鉄道にのりかえた私たちは、薄暗がりの中に
豊原〔ユジノサハリンスク〕へついた。敷香の方へ行く旅客たちは、夜行列車というものがないので、どうしても豊原で一泊しなければならない。私たちも駅前の三階建の大きい宿屋に泊ることにした。夕暮の豊原の街は、広い道路をはさんで、何か乾燥したような色彩の家が並び、満州の新しい街のような感じがした。
豊原から敷香まで、オホーツク海の沿岸を縫って脈々とつづいている鉄道は、地図の上では大した距離にも見えない。しかし樺太の汽車は、この間を十一時間かかって走るのである。朝八時に豊原を立った私たちは、どうしても夕方暗くなるまで、このごとごとと走って行く汽車の中でじっとしているより仕方なかった。それでも二等車はほとんど満員で、乗客の多くは、この事変で新しく活動を開始した樺太の工業に関係した人々のように見えた。
スチームのない客車のこととて、ストーブが設えつけてあったが、それにはまだ火がはいっていなかった。朝もう薄氷のはり始めた樺太では、この火の
気のないストーブの鉄の肌が、妙にうす寒く見えた。
豊原を出ると間もなく、汽車はもう荒れた未開墾の
原野の中を走っていた。S君の話によると、領有当時の樺太は、このあたりは
勿論、大泊のすぐ近くまで、野も丘も一面に亭々たる針葉樹の密林に埋めつくされていたのだそうであるが、今はその面影もない。「このあたりは、更生後十年くらいのものでしょう」という話であったが、この天然更生の途上にある荒野の姿は、私には物珍しく、またその色彩が非常に美しく見えた。
ちょうど晴れていたので、樺太の晩秋の
陽が、高緯度の土地に特有な景色を鮮かに描き出していた。草原の草は既に
土黄色に枯れ、陽の当った所は
鬱金色に光っていた。ところどころには
灌木の茂みがあって、それも
代赭の色に枯れかかっているのに、稀にまじる
白樺と柳だけが、とび抜けて鮮かな色彩をもっていた。白樺も柳も烈しい北国の自然と闘いながら、その細い幹を辛うじて伸ばしているように見えたが、その葉の色には、さすがに若木の喜びがあった。絵具をもってきたら、あの青磁色を中につつんで、外側を
淡卵色にぼかした柳の姿をうつしてみたかったと思うくらいであった。
この
華かではあるが落着いた色彩の絵巻に、強いタッチを与えるものは、グイ松の濃い緑であった。グイ松は樺太の特にツンドラ地帯に特有な
落葉松であるが、この原野のものはどれも
背丈けは一間か二間に満たないもので、眺めの邪魔になることはなかった。そしてどれも均整のとれた姿であった。
この開墾をするには惜しいような美しい荒地の景色を窓外に眺めながら、私は駅で買ってきた樺太叢書の『ツンドラ』を読みかけた。樺太叢書といえば、前の長官の棟居さんの話を思い出した。棟居さんは樺太の美しさを愛し、こういう土地に住む人たちに新しい文化をつくり出させ、そしてこの土地に落付かせねばならないと色々努力をされたそうである。樺太叢書などもその一つの仕事であって、いつか棟居さんから、「岩波新書で
貴方の『雪』を読みましたよ。ああいう本を是非樺太でも出したいと思って樺太叢書を作りました」という話をきいた。それでこの叢書は、岩波新書と、形も印刷も体裁も、定価までも全く同じなのである。
このささやかな因縁を思いながら、私は『ツンドラ』を熱心に勉強した。半生をツンドラの研究に捧げた菅原氏のこの本は、小冊子ながら、ちゃんとした正統な知識を与えてくれた。樺太のツンドラは、シベリア奥地のツンドラなどとは少しちがって、むしろ
高位泥炭土といった方がよいものであることも初めて知った。
何万年もあるいは何十万年もの太古のこの北の国の
荒原を心に描いてみる。緻密な粘土の層で排水をさまたげられた痩せた土地に、冷い水がたまる。寒くて湿気の多いこの土地では、土壌は苛烈な風化作用を受けて強い酸性となり、植物の生長を
阻もうとする。しかしそこにもなお生命を求めて、
みずごけや
すげのような
可憐な植物が、湿地を
蔽うて繁茂する。やがて
厳霜のおとずれとともに、これらの草々も白く枯れるであろう。そして
晩い春を待って、またその上に緑が萌え出てくる。こういう風にして積り重った植物の遺骸は、気温が低いために腐敗することも出来なくて、年ごとにその厚みを増して行く。
このようにして出来たツンドラの層は、樺太でも厚い所では十メートルにも達している。そしてその底部のものは、上からの圧力でじっとおされたまま、長い年月の間に、徐々に炭化して、泥炭にかわって行く。植物の
遺骸がいつまでも腐敗することなく、唯年月の力によってのみ、いつの間にか徐々に炭化してゆくというようなことは、別に何ということでもないが、妙に私には心に残るのであった。
落合〔ドリンスク〕をすぎると、急に線路が悪くなる。何でも最近私鉄を買収したばかりで、手入れがまだ出来ていないということである。今朝、手に入れた樺太の新聞の片隅に、それに関した面白い記事を見つけて、三人でちょっと愉快になった。それは、豊原・敷香間に夜行を通してくれ、そうすれば内地へ直行が出来て一晩助かるからという要求に対しての、鉄道の答えであるが、線路がまだ悪くて「夜間運転の如き危険なる」ことは到底出来ないというのである。なるほど夜行列車の危険は
匪賊ばかりとは限らないのだと知って、皆で苦笑した。
汽車はこのあたりから、
内淵川流域のツンドラ地帯にかかる。
車窓から見たツンドラの広原は、非常に清らかな感じのものであった。この感じは、その後ツンドラの中へ踏み入ってみて、益々深められたのであるが、実に意外であった。見渡す限りの平坦な草原は、濃い橙黄色を基調として、ところどころに茶褐色と
白緑との斑点が、ぼかし染めに染め出されていた。茶褐色のところは、
阿寒の国立公園で珍重されているいそつつじの
灌木の叢であり、白緑の色はみずごけが
毛氈のようにふくらみ茂っているところである。その間にグイ松のかなり大きい立木が、ツンドラの
絨毯をつきぬけたように、乱立して無雑作に立っていた。そのグイ松のほとんど全部が、立枯れの木であって、樹皮はもういつの昔かにとれてしまって、灰色にしゃれた木の骨だけが立っていた。中には風雨に倒されて、ツンドラの草原の中に、半ば埋れて横たわっているものもあった。
これらの立ち枯れのグイ松たちは、いつかの樺太の全山を襲った松毛虫の被害の
名残りだということである。しかしこの美しいツンドラの中に、遠い昔の繁栄を思わせる廃墟の石のように、静かに立っている灰色の木の遺骸を見ていると、ツンドラ生成時代の大古の夢が心の中に蘇ってくる。
この土地のツンドラが、まだ今日のように発達しなかった以前には、これらのグイ松は
蒼々と繁って、この平原を蔽っていたことであろう。
沼沢地に初めに出来た低位泥炭の上に、これらのいわゆる過渡森林が発生し、それが密林となって土地を蔽って繁茂していた時代には、誰か今日の姿を思いみたことであろう。しかししげりにしげった森林の下には既に暗い陰影が出来ていたのである。繁茂した枝葉の陰影のために、土地は再び湿潤となり、植物の遺体の堆積は益々厚く緻密になって行く。そして植物の栄養分に乏しい状態が再び訪れると、前の日のグイ松たちは、もうその覇権を名もなきみずごけどもにゆずって、この土地からその姿を消して行くのである。
こういう目に見えない恐ろしい時の力と自然の力とを車窓から眺めながら私は『ツンドラ』を読みつづけた。晩秋の樺太のうつりやすい天候は、もう空一面を
鼠色の雲で蔽っていた。
少しつかれて眼をとじていた私を、A氏がよんでくれた。「白鳥湖が見えます」というのである。今少しすると白鳥が群れきて遊ぶというこの湖は、ただ一面の鉛色に静まりかえっていた。そしてその周囲には茶色に枯れた
よしが密生していた。
渚と名づくべきものが少しも見られない湖は、
如何にも人界から離れた感じを与えるものである。そういえば、この湖の姿も色も、全体の調子が生命の世界から遠く離れたものであった。よしの切れ間に白い水が光って、その辺に白骨のようにしゃれた流木が沢山漂っていたことも、この感じを強めるのに役立っていたのであろう。白鳥などという鳥は、
巴里の公園の池の中よりも、こういう湖に置いた方が、ずっと綺麗に見えることであろう。あるいは今に白鳥がこなくなって、この湖に白鳥湖という名だけが残った方が、もっとふさわしいかもしれないとも思ってみた。
落合を出てから、名ばかりの駅と、その周囲の淋しい町との外は、人間の手の入った痕がほとんど見られない土地を、汽車はごとごとと走って行った。そして
漸くにしてオホーツクの海へ出た。しかしその海も鉄色に暗く、
浪だけが白く荒れていた。
敷香へ大分近くなって、
知取〔マカロフ〕という町へ着いた頃は、もうすっかり夕暮の景色になっていた。ここはこの附近では比較的大きい港町とかで、プラットホームから防波堤なども見えた。海は益々荒れていた。厚い層雲がひくく全天を蔽い、ただ水平線の近くだけが晴れていた。その
晴間は、薄紫を帯びて青く光り、冷くて透明な感じに見えた。この高緯度の土地に特有な美しい色の空と鉛色に重い層雲との境は、ひどくきわ立っていた。
プラットホームに下り立ってみると、風は寒かった。ホームの石畳の上には沢山の荷物が投げ出してあった。ランプのほやが
藁づとの隙間から見えていたのも、樺太らしい印象であったが、それよりも私には、野菜を入れた籠の方が強く心に残った。籠の中には、
萎びた玉葱と、半分腐った茄子とが一杯詰っていた。もうこの時期から、このように野菜に苦しんでいるようでは、冬のことが思いやられる。厳寒地の生鮮
蔬菜の貯蔵の問題は、満州などでも大分騒がれているようであるが、樺太の北の
果ではどうなっているのであろう。その研究が低温科学の一つの問題として、本式に採り上げられる日を、そう便々としては待っていられないような気持になった。
目的地に着いた時は、もう真暗であった。闇の中で迎えの馬車に乗せられて、これもまた真暗な道を大分行って、やっと宿へ着いた時には、さすがにほっとした。
宿は案外にちゃんとした家であった。つい近頃まではすっかり
淋れ切っていたそうで、部屋などもひどく
傷んではいたが、調度や立て付けの端々に、昔のこの町の繁栄の
名残がしのばれるような家であった。恐ろしく立派な木を使った
一間幅の板戸がはいっていて、その板目が黒ずんで光っていた。風呂が沸いているというので、三人は大喜びで風呂場へ行った。その洗面所の流しにも銅がはってあり、傍に立派な厚い銅の湯沸しが置いてあった。思いがけない土地に、思いがけぬものを見たという感じであった。
次の日は朝早く起きた。
空は一点の雲もない快晴であったが、地の面には一面に霜が真白くおりていた。風のない
清々しい冷さの朝であった。
色々用事だの打合せだのをすませて、いよいよツンドラ地帯の工事場へ出た時は、小春の陽が背にあたたかい、恵まれた日になっていた。工事場はもうツンドラを
剥がして、下の真黒い泥炭がむき出しになっていて、
凸凹と歩きにくかった。それでも今が樺太で一番の乾燥期で、この時期なればこそツンドラ地帯に踏み入ることも出来るが、雨期になると、ずぶずぶと足が沈んでどうにもならぬ土地だという話であった。
ツンドラを剥がすと、その中には、グイ松の枯れた根が縦横に走っていた。これらの根も、いつの昔からもうその生命を断っていたのか分らないが、ツンドラの中では、腐食することもなくて、昔のままの姿で掘り出されていた。腐植酸のために酸性の強められた水が下の泥炭層に浸みているので、グイ松の根はなるべくその場所をさけて、地表すれすれに新しいツンドラ層の中を長くのびて走っていた。それで沢山の長い根は、その木の根本を中心にして放射状に水平にひろがり、
蛸が八方へ足をのばしたような恰好になっていた。このようにしてまで、その最後の生命を護りつづけていたグイ松たちも、ついにみずごけなどの遺骸のために窒息させられることになったのであろう。
掘り出されたグイ松の根は、うず高くつみあげられ、そういう堆積が所々方々に出来ていた。それらは焼却するのが一番良い方法だということで、それぞれ火がつけられていた。火勢が強くなると、その中に剥がされたツンドラがどんどん放り込まれていた。
ツンドラの平原は、見渡す限りどこまでも平らであった。そしてところどころに見える立枯れのグイ松の遺骸の外には、眼に入るものとては何もなかった。それは人間の生活からは全くかけ離れた景色であって、全平原が生命にみちているはずなのに、全く生命のない荒野という感じであった。ツンドラを焼く煙は、その荒野の表面を這って、低く流れていた。空はいつの間にか、また鉛色の雲で蔽われていた。それはいかにも、いつのことかも知られぬ遠い昔の植物の遺骸を火葬に附しているという景色であった。
現場の調査も終え、泥炭やその下の緻密な粘土層、それは『ツンドラ』で知り得たところの水を通さぬ基底地層のことであるが、それらの標本も採った。それから土工たちの激しい労働の様も見た。土工たちはこの時期にもなお半裸体の上半身に汗をかいていた。そしてトロッコのきしる鋭い音と、親方の激しい声とがもつれ合って、働く人たちの間を縫って流れた。案内のA氏は、「これでも今は大変良くなっているので、皆喜んで働いていますが、昔ならさしずめ監獄部屋というところでしょうね」と説明してくれた。
目的の仕事は大半片づいたので、少し高みの方にあるまだ手のつかぬツンドラ地帯を見に行くことにした。
夕闇は大分迫っていたが、このツンドラ平原に足を踏み入れた時に、私はその美しさに魅せられて、思わず立ちどまった。
遠くから見た時には、一望平滑の土地とのみ思いこんでいたが、きてみると、
僅かばかりの
軟いふくらみの連続になっていた。それはみずごけやすぎごけが
団阜状に堆積しながら生長するために出来たものらしい。その上を歩くとふかふかと柔くしずんで、ちょうど厚い
蒲団の上を歩くのと同じ感じである。それは正に綿の上を歩くのと同じはずである。案内の人がツンドラの表層を深さ二尺くらいに掘り起して見せてくれた。それはほとんど長くのびたみずごけばかりの集積で、その一本を見ると、下の方は勿論遺骸であって、白く
晒された繊維になっていた。そしてその上端だけが薄緑に生きていた。ある京都の商人がこのツンドラの表層の綺麗なところだけを集めて、脱脂綿の代用品として売り出しているという話であるが、それだと、文字通りに数尺もつみ上げた脱脂綿の上を歩いているわけである。
薄緑のみずごけの毛氈の上には、ところどころに
丈けひくい
いそつつじと木フレップとが、入り乱れて生えている。木フレップというのは、
こけももの一種で、ちょうどこの時期には、丸い真赤な実を沢山つけていた。それにところどころにまじるすぎごけの団阜が、藍白の
生毛を見せていた。
グイ松も沢山あった。この土地へくると、グイ松は高さ三、四尺がとまりで、葉はもう真黄色になっていた。どれも高山植物に特有な、ととのった形をしていて、そのまま盆栽になるような姿であった。みずごけの中には、実生のグイ松も沢山あった。背丈けが四、五寸にも達しないこれらの可憐なグイ松も、すっかり
黄葉していた。みずごけの薄緑と、すぎごけの藍白とが地の色をなし、その中にいそつつじの褐色とグイ松の黄がまじり、木フレップの真赤な実が
点綴されているこの景色は、全体に夕暮の
錆びを帯びていた。それは、中欧の古城に秘められた、ゴブランの壁掛けを連想させる景色であった。
その外にも、名の知れぬ高山植物めいた草が、灌木のかげなどに沢山あった。考えてみれば、これらは皆雑草なのであるが、その中に
下り立った者の眼には、周囲の景色が、雑草の一本もないよく手入れされた庭園のように見えた。私たちは、その中を遠くまで歩いて行った。ツンドラの草原は、どこまで行っても、清潔で美しかった。京都の
苔寺の庭から人間的要素を全部取り去ったならば、この晩秋のツンドラの原に似たものになるであろう。
陽が落ちて、地平線の上はまた薄紫に染り、その上が青磁色にぼけていた。私たちは暗くならぬうちに宿へ帰るべく道を急いだ。宿の近くになって、広い道を正面に見るところへきたら、風がその道を
真直に、私たちの方へ向って吹いてきた。そして夕闇の行手のむこうに、さっきの土工たちが、一列になってこの道を横切るのが見えた。宿舎へ帰るのであろうが、それにしては、余りはずんだ足取りでもなかった。広い道も、両側の背のひくい家も、道を横切る土工の列も、皆一色に黒ずんで、色彩のない世界であった。間もなくその列も姿を消し、あとは私たちの外には、ほとんど人通りのない広い道であった。
宿へ帰って、またツンドラ地帯に特有な、
醤油色に黒ずんだ水の風呂にはいった。ツンドラ地帯では、排水溝に流れる水も、所々にあるたまり池の水も、この地帯を流れる川までも、皆赤黒く色がついているのである。多量の有機分が
膠質状にとけこんでいたり、腐植酸が沢山含まれているためだということである。この土地に住む人たちは、外に水が得られないので、飲料水としてもこの水を使っている。別に有毒ということもないそうであるが、余り気持のよいものではない。
次の日は朝早く、この附近にある小さい測候所へ、気温と地中温度との資料を貰いに行った。測候所だけに、建物はこじんまりと綺麗に出来ていたが、ちゃんとした観測者は、まだ若い所長さん一人だけであった。あとは小学校を出たくらいのほんの手伝いの子供たちが、男女合せて三人ばかり居るだけのように見えた。
訪ねた時は、その所長の人は、ちょうど無線の気象電報を受けているところだという話であった。しばらくして出て来られたので、私は来意をのべて、そして「お一人で無線も受け、観測もされ、資料もまとめられるのは大変でしょうね」ときいてみた。「こんなところですからそれも仕方ありません」と言いながら、所長さんは、冬の観測のつらさを語ってくれた。地中温度などは、雪をとりのけておいて測った観測値も必要なのであるが、それはとても出来ないということであった。それどころでなく、朝の六時の観測の時などは、真暗な中を、
吹雪をついて、吹き溜りの中を泳ぐようにして、やっと露場へたどり着くこともあるそうである。そして懐中電灯の弱い光をたよりに冷い雪を何尺も掻きわけて、地中温度用の寒暖計を埋めてある場所を、やっとの思いで探しあてる始末だという話であった。
地中温度表の中には、一つ二つ少し妙な値のものもあった。その表を説明しながら、所長さんは、それらの値を気にして、色々と弁解の言葉を、主として私を案内してきてくれた人たちに向ってつらねていた。「何分人手が足りないものですから」とか、「ここは風の向きがちょうど悪いので」とか、一所懸命に弁解風な説明をしているその所長さんの横顔を眺めながら、私は日本の気象学の発達と、その下積の石となっている人たちの労苦とを思いはかってみた。この淋れた町の、しかもはずれにあるその測候所の窓からは、人家は勿論耕地も見えず、ただ荒れた原野の向うに、落葉松の
疎林が見えただけであった。
その日私達は、敷香の試験場に『ツンドラ』の著者の菅原氏を訪ねた。敷香の町は砂を被ったツンドラの上に立った町であった。そして町の中をも、醤油色の
幌内川の河口をも、荒涼たる風が吹き抜けていた。
敷香で一泊した私たちは、翌日の朝早く六時五十分の汽車で帰途についた。相変らず霜は真白におりて、道の上の水溜りは堅く凍っていた。仕事がどうにか片付いた気安さに、私はこの遅い樺太の汽車の中で、ゆっくり腰を落ちつけて、もってきた『大唐西域記』をよんだ。谷川さんの好意で、やっと手に入ったこの本が、ちょうど出発前に届いたので、鞄の中に入れてきたのであるが、この汽車の中で読むには、いかにもふさわしい本であった。時々少しつかれた眼を窓外にやると、冬を間近にひかえた樺太の野と山とが、人間とは全く無関係な姿で次ぎつぎと動いていた。