尚昌侯は私の同級生でした。幾度かの機会に沖縄の品々を見ていたく心を打たれた私は、ついにその研究を志すに至り、
侯爵にこの相談をしたことがあります。あらゆる便宜を計るからとの答です、私も旅の用意をあれこれとしていたのですが、思いがけなくもほどなく侯爵は他界されてしまったのです。それは大正十二年のことでした。このことは私の沖縄行を
挫折させました。時折思い出しては、機会を失ったことを惜しく思いました。ただ様々にその島のことを胸に描くのみでありました。
ある人たちの話では、島の生活ももう変ってしまって、既に時期がおそく、別にこれとて見るべきものも残ってはいないだろうとのことでありました。しかしその頃よく渡って来た「びん型」などを見ると、ただただ驚きで不思議で、この島の持つ魅力はいや増すばかりでありました。
間もなく関東の震災が起ったり、居を京都に移したり、また外遊したりしている間に、早くも十年ほど過ぎてしまいました。しかしその頃日本民藝館の設立に志して、種々な材料を集めていたので、必然に沖縄のことが思い出され一度はどうしても行きたいと、その願いを強めるばかりでした。ついにそれが果されるに至ったのは、
偶々沖縄県の学務部長に赴任された山口泉氏からの
招聘があったからによるのであります。私は心を
躍らせて海を渡りました。それは昭和十三年の暮のことでありました。そうしてこの最初の訪問は、引き続き再度三度の訪問を誘わないではおきませんでした。中でも民藝協会の人たちと協同して、一軒の家を借り調査に研究に製作にいそしんだ数カ月間の滞在は、私たちを
一入この島の人たちや風物に近づけました。私たちはまるで宝の山に入ったような想いでありました。
なぜなら日本のどの地方に行ったとて、この島においてほど、固有の文化が濃く残っている所を見出すことが出来なかったからであります。それも日本の古い文化が、昔の姿のままで今も活きているのであります。それには驚きました。しかも材料は豊富でした。民俗学的な魅力はもとよりでしょうが、言語や文学や音楽や舞踊や建築や彫刻や、もろもろの工藝に至るまで、心を打つものが山ほどもあるのですから、眼も忙しく心もせきたてられる想いでありました。
例えば
那覇には二つの劇場がありましたが、ともかく沖縄固有の踊やら芝居やら音楽やらを、年中毎日上演しているのです。そんな場面は日本のどの県のどの市や町に行っても見られません。地方的な芝居一つだってほとんどない有様ですが、沖縄ではそれが日々のことなのですから驚きました。それがまたとても美しいのですから
尚更のことであります。
民謡も日本では、地方によってかなり盛ですしまた
佳いものがありますが、しかし沖縄の前に出ては、到底比べものにならないことを知りました。特に
八重山の如きは、民謡の王国といってもよいでありましょう。何しろ沖縄の音楽や踊は日々の暮しの中に
滲み込んでいて、むしろ暮しがそれらのものの中にあるのだといってよいと思います。近頃の東京などでは、音楽は音楽会の音楽で、家庭の音楽ではありません。まして日々の暮しが音楽の中にあるのではありません。バッハとかベートーベンとかを云々する知識人は多くても、それは生活とは別のことで、何か遠いものです。ところが沖縄では音楽や踊が身に滲み渡っていて、それがない所に、暮しがない有様です。これを見ていると、吾々は何か音楽についての考えを改めねばならないように強く感じました。
それにつれても非常に私どもの心を惹いたのは、詩歌と音楽と舞踊とが、まだこの島では一体になっていることでありました。多くの文明国ではそれが早くもはっきりと三つに分れてしまいました。文学者は音楽者ではありませんし、また舞踊家はそれらの二つとも異なっています。各々が
明かに分業的な職業となっております。ところが沖縄では、しばしば文学は音楽や舞踊なくしては現れず、また音楽は舞踊や詩歌を必然に伴うのであります。つまり一つの和歌を作るのに
唱いながらまた踊りながら作るのであります。ただ紙に
推敲して書くというのではありません。実際文字の読めぬ人が素晴らしい作歌をなすのはそのためであります。その不思議な
韻律は、曲と踊とが常に一緒に現れるからに依るのだと思います、あの悠大な沖縄の女詩人
恩納なべの作の如き、全くそうであります。彼女は文字を知らない人だったといいます。
これにつれて、はたと想い起すのは『万葉集』の歌人のことであります。中には
柿本人麿とか
山部赤人とか学問のあった人も無論いたでありましょうが、「読み人知らず」の歌の中には必ずや文字の読めぬ作者もいたに違いありません。しかし彼らは韻律の高い歌を作り得たのであります。それは唱いながら踊りながら、歌を作ったからによるのだと思います。きっと『万葉』の時代は、文学と音楽と詩歌とがまだはっきり分れてはいなかったでしょう。それ故あれほど高い香りの韻律が現れたのだと思います。今の万葉風な歌人とは、歩き方がどんなに違っているでしょう。ところが沖縄ではその万葉時代が今も活きているのであります。
これにつけても沖縄の文学のことが思い出されます。方言で
綴ってあるため、また古語が多いため、日本の学者たちにはたやすく読めないのであります。それが原因して今日まで日本文学史にほとんど載りませんが、私の見るところでは、近い将来、沖縄文学は日本の貴重な古典として、やかましくいわれるでありましょう。その美しさ悠大さにおいて『万葉』に匹敵するものが充分にあり、また文学の形式としては『古事記』より一時代前と思われるものがあります。実は『万葉』の研究といえども、沖縄文学を顧みずしては出来ないはずです。そこに含まれている難解な古語で、今も沖縄人が日常用いているものが、少くないでしょう。何しても沖縄はその文学において大した国であります。少くとも日本のどんな地方に旅したとて、それほど立派な固有な文学をしかも沢山持っている所は他にはありません。沖縄の人たちはその文学や言語を充分誇ってよいのであります。
それにつれても沖縄の言語問題に私たちは一番思い出が深いのであります。計らずも私たちはこの問題で県庁と対立し、時の淵上知事や渡辺学務部長や山内警察部長などと激しい論争になりました。ついには官権が悪用され、私たちを抑圧するという態度に出ました。事の起りは県の方針として沖縄語の絶滅を計り、ただ標準語一式に改めようとしたことに対し、私たちはその無謀に反対して立ったのであります。その趣旨は標準語を学ぶべきであるのと同時に、方言の価値をも尊重せよということでありました。私どもには常識に近いこの考えを、
真向から反対されたので、私たちはそれをよい機会に一つの文化問題として取上げ、公開状を発しました。当時学校の試験問題に「なぜ方言は悪いか」という問いが出て、もし悪いと書かなければ落第さされてしまいます。小学校の生徒で方言を遣うと、
頸から札を掛けられ、いわゆる「
札附」にさされる始末でありました。その当時の学務課は随分乱暴な行政をしたものであります。しかし沖縄人の中でも多少は方言罪悪論者がいるのには驚きました。沖縄人としての自負心のない証拠でした。しかしこの論争は、波紋が段々大きくなり、私たちの方言価値論に味方する者は非常に
殖え、日本本土でもやかましい問題になりました。今から想うと、私たちはお蔭で、良い一つの文化運動をさせてもらったわけであります。またこれが沖縄文化擁護の運動ともなり、有難いことでありました。民藝協会の人々が沖縄に渡った
甲斐があったと今も時折語り合います。それに当時、新聞社長であった又吉康和氏が蔭で私たちのために色々尽して下さったことも忘れられません。この事件は沖縄人と私たちとをとても親密にさせました。今も私たちは沖縄に行きたくてたまらない想いにしばしば
襲われます。
那覇に滞在していた頃、八重山のおばさんで、とても
謡の上手な人がいました。声も立派でした。その人によく来てもらっては謡を聞かせてもらいました。真に美しく見事なものでありました。幾種類位の民謡を知っているかと尋ねましたら「三百ぐらい」と答えました。驚くほかありません。謡に活き謡に死んで行った人たちの話も色々聞かせてくれました。私は今も想うのですが、死ぬ時、誰か沖縄の民謡を唱ってくれたらばと思います。あの「とばるま」でも聞きながら死んだらば、どんなに幸いかと思うのであります。
玉城盛重翁は真に名優でありました。私は幾度もその技に見とれました。顔も美しい顔でした。しかし七十歳を越えていたので、健康を気づかっていましたが戦争中亡くなられた由を知って、実に惜しい気がしました。誰が
衣鉢を
嗣ぐのでしょうか。かつて那覇の
珊瑚座に八重山から星某という人が来ましたが、素晴らしい踊手で、あの「
鷲の
鳥節」を舞った時は、その気品のある格の高い藝に全く
恍惚としました。今でも健在でしょうか。ああいう藝は世界に知らせたいものです。珊瑚座といえば、
真境名由康氏はどこに今
居られるでしょうか。優れた藝でした。可愛い二人の娘さんたちも、今も
組踊を続けているでしょうか。小屋が焼かれてその後どうなっているのかと思います。
那覇といえば、毎夕六時頃から開かれる
市のことが思い出されます。市場では食べ物から日常の雑貨に至るまで色々と店を張りますが、私どもに一番魅力があったのは、野天の広場にかかる古着の市でした。私が行ったのは昭和十三、四、五年頃ですが、その頃でも古着の市は見ものでした。(もっと以前だったら大変なものだったでしょう)。沖縄は元来
染や
織の島といってもよく、実に美しい数々のものを作りましたが、それが無造作に古着として売られているのです。私は滞在中雨の降る日以外は、他に約束のない限りは、いつも夕方の六時を心待ちしました。素晴らしい
絣や
縞や
浮織の着物が色々と
茣蓙の上に拡げてあります。それがまた安いので
勿体ない想いで集められるだけ集めました。市場では喜久山おみとさんの世話を受けたことも、忘れ難い想い出であります。
紅型の方は早くから評判があって、沢山内地に渡ったためか、そう
目星しいものは数ありませんでしたが、これに引きかえ織物の方はほとんど未踏地と呼んでもよく、
贅沢な選択を楽々と致しました。今の民藝館の貴重な
蒐集はその大部分がこの市場での収穫であります。後になって立派なものを県外に持出したといって、非難する者が出ましたが、吾々が集めた当時、その批評家は那覇にいたにかかわらず、それらの古着を振り向きもしなかったのです。まだ非常に安かったので、誰だとて集め得たはずであります。しかし私どもが集めるまでは、その価値を見つめる人はほとんどいませんでした。今日沖縄があれほど
潰えたので、よい時期によい蒐集をし、よい保護をしたと今も想います。今は公開して、民藝館はそれらのものを度々展示しております。そうして陳列して眺める毎に想うのですが、染物や織物の世界でも、沖縄に匹敵し得る地方は、日本の
何処にもありません。いくら八丈島の
黄八丈は美しく、
小千谷の
縮は美しいといっても、沖縄ほど多様な多彩な趣きは示しません。誠に圧倒的な仕事であると申さねばなりません。どうしてああまで美しく作り得たのかと思うほどであります。さながら染めや織りの天国とも思われるほどであります。
首里の仕事を筆頭に、八重山の
白絣や
宮古の
紺絣、それに
久米島の久米
紬など、実は百花の美を競う有様であります。染物では「びん型」の他に「うちゃくい」(風呂敷)がありますが、これまた見事な出来栄えであります。これらのものがある限り、沖縄の名は消えないでありましょう。「びん型」が早く衰えたのは惜しみてもなお余りあることですが、織物は今なお織手が昔の腕をこすっているのですから、再び栄える日の来ることを望んで
止みません。見事な
芭蕉布が今も庶民の着物として作られているのは力強い限りであります。
壺屋は戦禍を免れたよし聞き及びましたが、仕事が無事に続くよう祈って止みません。何しても特色ある
窯場で、少くとも伝統を守っているものは、一つとして醜いものはありませんでした。特に
釉薬はその土地の材料を巧みに活かしていて、暖かい穏かな美しさであります。
紋様にも
線彫にも、
活々したものがあって、日本の焼物全般に絵附の衰えた今日、沖縄ばかりは今も力があるのでありますから、貴重な存在であります。いわゆる「
南蛮」にも「
上焼」にも見るべきものが豊かにあります。この壺屋の作は、日本陶磁史の中にもっと高い位置が当然認められるべきだと思います、それにしても陶工
新垣栄徳氏の死を惜しく思います。戦争中に亡くなりました。
沖縄の漆器もその
堆金や
沈金で名があり、また
朱塗で眼を惹くものがありました。この技は新しい発展も試みられましたが、やはり在来の伝統的な作の方に、ずっと美しいものがありました。特に形においてそうでありました。私の家では今も
茶盆を日々愛用して離しません。
聞くところによると、あの首里の町は、ほとんど跡方もなくなった由で、沖縄人ならずとも、私の涙を誘います。
あの
鬱蒼として
聳える「はんたん山」の森から、城壁に沿うて続く、世にも美しい路は、この世から消えたのでしょうか。古城の南陰にある金城(かなぐすく)の坂路はどうなったでしょう。
遥か
識名の丘を前に見て、歴史に実に美しい都でした。
玉御殿始め、
城趾や寺院や拝所や、それに
尚侯邸も今は昔語りかと思うと、泣くに泣かれません。あの偉大な尚真王代の
遺蹟は、真に国宝に列するもので、とりわけ石彫の美は四百年後の今日も昔のままの姿で、美しく立派なものでありました。玉御殿も
墳墓として世にも厳粛なものでありました。あの塔の上の怪物はもう写真にだけよりないのでしょうか。あの
世持橋の
欄杆はどうなったでしょう。素敵な魚介の紋様が浮彫にされていましたが。あの円覚寺の
石矼は安全に残ったのでしょうか。あの尚家の
石燈籠は無事でしょうか。あの
園比屋武嶽の運命は如何、
崇元寺の石門は如何。いずれも石工品として素晴らしいものばかりでした。
古い石畳の路が美しい曲線を描いて下に下ってゆきます。私はその景観に見とれて何度
佇んだことでしょう。私はその道を撮影したばかりに、
間謀の嫌疑を受け、度々検事に取調べられる
憂目を見ました。例の方言問題の最中のこととて、たくらまれたいやがらせでした。しかしこの事件は私にかえって幾多の味方を与え、慰労の宴さえ設けられ恐縮したことがあります。
今となっては私どもの撮った写真は貴重なものとなりました。千種近くもあるでしょうか。運命の車は不思議な
廻り方をするものであります。これらの写真が日本の国家からまた世界から感謝される日はきっと来るでありましょう。私どもが試みた沖縄風物の映画も小作品に過ぎませんが、当時皮肉にもベスト・テンに入ったため、発禁にならなかったのはもっけの幸いでありました。
誠に惜しまれるのは
尚順男の運命であります。報道が
区々でよく分りませんが、ともかく戦禍のため一家全滅された由を聞きます。同
男は最後の
尚泰王の令弟で、明治この方の沖縄の変遷史をよく身を以て体験された方でありました。非難する人もありますが、たしかに
稀有な人物でありました。博覧強記で学識があり識見があり、漢学の
造詣にも深いものがありました。それに
蒐集家で書画、
古硯、古陶、染織等の類は、見るべき品が数々ありました。ともかく沖縄の王様にも等しく、
我儘なところもあったでしょうが、実に風格があって、同男に
太刀打出来る人物は、いませんでした。琉歌のことでも、
音曲のことでも、楽器のことでも、実に
詳しい知識をもっていました。それに大の料理通で、私は長夜の宴に列する栄を度々得たことでした。もし誰かが出て、同男の生涯を記録したら、それこそ興味深い読みものになることと思います。実に沖縄の活きた字引でありました。今度の戦争が、あの
桃原の邸宅を壊し、あの蒐集を灰にし、休らう住家を与えなかったとすれば、老齢の男爵には、余命を続ける意味も失われていたのかもしれません。同男の死を耳にした時、
哀悼の念に堪えませんでした。
惜しいといえば、那覇にあった図書館であります。地方的特色ある図書館としては、たしかに日本随一のものでありました。どんな沖縄学者も、この図書館を訪れることなくして、正しい研究を
遂げることは出来ませんでした。それほど沖縄に関する文献は、
完璧に近く、世にも貴重な蒐集でありました。それというのも三代に渡って沖縄第一の学者が、館長になっておられたからであります。
真境名安興、
伊波普猷、
島袋全発の三氏の名は記憶されねばなりません。その最後の島袋氏が知事の
命で
罷免された時は、私どもさえ腹立たしく思いました。余りその図書館を沖縄文献に片よらせ過ぎるというのが、非難の一つだったということであります。しかしこの特色があってこそ存在理由を持つ図書館でありました。代って館長になったのは無学なただの役人でした。その頃からこの図書館の運命は傾きかけたのであります。ついに戦禍に対する保護も充分に講ぜず、あたら
灰燼にまかせてしまったのは、実に惜しんでも惜しみきれません。どこまでも充全な保護を加えるべきでした。充分に時間の余裕があったのですから、それに尚家に保存されていた沢山の貴重な古記録、例えば
厖大な「
家譜」など
湮滅してしまったと聞きました。最も大切な「おもろ」の原本は、一米人が強引に持ち去った由ですが、
行衛が心配です。
これらの焼失紛失は、沖縄学にとって大きな
蹉跌であります。東京で沖縄文献の蒐集と保存とが講じられているのは、実に有難く『沖縄論叢』の
上梓もその資を得るためといわれます。今後の努力を祈って止まない次第であります。
私たちの敬愛すべき沖縄の多くの友達は今どうしているのでしょうか。安泰を祈って止みません。想うに沖縄の復興は経済や政治の面も必要に違いありませんが、しかし真に沖縄を立ち直らしめるものは、その文化の力でなければなりません。それに沖縄の方々が、沖縄人たることの
矜持の念を失われぬようにすることであります。卓越した文化を持っていた歴史的自負を失わないことであります。沖縄に生を受けたことへの誇りであります。これなくしてどうして沖縄の未来が開かれるでありましょう。限りない苦しみの中にも、過去において育てた文化の伝統を正しく保持されることであります。沖縄人はどこまでも誇り得る文学を持ち、音楽を持ち、舞踊を持ち、工藝を持っていることを忘るべきではないと思います。そうしてそれらのものこそ、何にも増して文化の大きな基礎なのだということを省みるべきだと思います。
沖縄に栄えあれと叫びつつこの短い筆を
擱きます。(昭和二十三年)