『猿沢佐介の背中には、きっと一つの
いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。
ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと
『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに······』
それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや
しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。
『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一
つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。
蟹江四郎は、猿沢佐介の裸の背中を、まだ見たことがありません。いや、見たことはあるかも知れませんが、どうもその印象が
蟹江四郎が猿沢佐介と知合いになったのは、もうずいぶん以前です。かれこれ二年にもなるでしょうか。しかしそれは、知合いになるのが当然であって、しかも初めはなんとなく顔見知りになり、やがてある夜、あることを中心として突然近付きになったのです。この二人の男は、ごく近くに住み合っている、近隣同士の間柄なのでした。お互いの玄関まで、歩いて三分とかからない、まったく同じ
それは戦争中、某軍需会社の社宅だったという話でした。一面の畠のまんなかに、四角に土地を
なにしろ畠のまんなかにぽつんと孤立した部落で、肉屋に三町、風呂屋に五町という不便なところですが、そうかといってこの部落の人々は、別段お互いによりそったり、団結したりする気持はないらしい。いつまで経ってもばらばらで、にがりを入れ忘れた豆腐みたいに、いっこうに固まる気配はないようです。結局それがお互いに気楽なのでしょう。そのくせ、近隣の動静に、全然無関心というわけではありません。表面では
そんな噂話のひとつに、猿沢佐介のことがあります。猿沢佐介という男は、戦争前、ある小さなサーカス団長をやっていた。そういう噂なのです。噂というよりは、今ではもう、伝説といった方がいいかも知れません。当人もそれを否定しませんし、それらしく振舞っている傾向さえあります。団長らしい派手なジャケツを着て、
「ほんとに団長そっくりね」
「まったくね。あのだんだら模様のジャケツの色なんかもね」
まさかその噂を助長させる目的で、そんな恰好をしているのでもないでしょうが、それでも時々、動物を調練する具合に鞭をヒュッと振ったり、口笛をピュウと鳴らしたりするのです。まったく板についた
「あの人の奥さんも、ひょっとすると、サーカス娘だったかも知れないわね」
「あ、そうだ。きっとそうよ。こないだあそこの
「ふん。じゃ綱渡りの要領というわけね」
噂の発生とは簡単なもので、これで猿沢夫人の前身は、すっかり綱渡り娘ということになってしまうのです。
猿沢夫妻の間には、子供が一人あります。まだ赤ん坊です。その赤ん坊に、近頃猿沢佐介は『おあずけ』を仕込んでいるという話でした。赤ん坊の眼の前にお菓子をおいて、そして猿沢がするどい声で、
「おあずけ!」
と命令する。するとその赤ん坊は、出しかけた手を直ぐ引っこめて、おとなしくかしこまるということです。それを見た人がいるというのですから、本当なのかも知れません。この話に対して、部落の人々の間では、これは赤児の基本的人権の無視であるという非難と、さすがはサーカスの元団長だという賞讃と、二つの説に分れていました。賞讃説の方は、もっぱら女の方に多いようです。猿沢佐介は
猿沢佐介は、もう四十位になるでしょうか。しかしいつも派手な身なりをしているので、若々しく見えます。手足の皮膚もつやつやしていて、まるで青年みたいです。しかし顔だけは、つやつやと言うより、てらてらと赤く光っているのです。ことに鼻の頭などは、すっかりトマト色になっていました。これは言うまでもなく、酒焼けというやつです。猿沢佐介はおそらく部落きっての飲み手でした。毎晩酒の
蟹江四郎が猿沢佐介と口を利き合うようになったのも、駅近くのある飲み屋ででした。その飲み屋の名は『すみれ』というのです。その優雅な名前にも似ず、それは
蟹江も酒は大好きでした。しかし安月給の身なので、毎日毎晩飲むというわけには行かない。五日に一度とか、一週間に一度とか、せいぜいその程度にしか飲めません。どんなに彼は毎晩飲みたかったことでしょう。しかしそれは出来ないことでした。歯を食いしばるようにして『すみれ』の前を通り過ぎ、暗い畠中道を黙々と家に戻ってくる。駅から彼の家まで、五六町ほどもあるのです。この道のりが、別の事情もあって、
それは、蟹江が猿沢と知合いになった頃、つまり今から二年ほど前のことです。
その時分、そのような貧しい蟹江にとって、猿沢の存在がどう感じられていたか。もちろん近所同士ではあるし、目に立つような恰好をしているから、蟹江は猿沢の顔や名をよく知っていました。どんな職業に従事しているのか知らないが、いつも派手な身なりをして、そこらをぶらぶら散歩したり、しかも毎晩『すみれ』なんかで酒を飲んでいるようだ。得体の知れない、へんな男だな。その程度の感じだったとも言えましょう。しかし、あるいはその頃すでに、彼は猿沢に対して、もっと深い感じを持っていたのかも知れません。つまり、それは言い換えれば、漠然たるわだかまりといったようなものです。
俺が飲むや飲まずの生活をしているのに、あいつは派手に毎晩飲んでいる。わだかまりの感じのひとつは、そういうことでもありました。すなわち、猿沢という男に対する、ぼんやりした隣人的嫉妬。そういう風に表現してもいいでしょう。この世に
猿沢と初めて口を利いたのは、ある寒い冬の夜のことでした。その夜蟹江は『すみれ』の一隅に腰をおろして、ひとりちびちびと
店の奥の
猿沢が飲んでいるのは、一級酒の
猿沢はしずかに
「裏白の魚なんて、おかしなもんだねえ」
蟹江の酔った耳は、ふいとその呟きを聞きとがめました。それにいい加減酔いが廻って、話し相手が欲しくもなっていたので、彼はうっかりと顔をあげて問い返しました。
「なんだって。裏白の魚だって?」
「そうさ」と猿沢は、初めて蟹江の存在に気付いたような顔をよそおって、しごく
「そりゃ仕方がないさ。生れつきだもの」と蟹江は頬をふくらませて、鰈のために弁護しました。「僕なんかはこの魚が大好きだよ。味も良いし、やわらかだし、栄養も豊富だしさ」
「栄養たっぷりかも知れないが、顔が歪んでひねくれてるねえ」猿沢はライターを取出して、カチッと火をつけました。「うちでは、その魚は、もっぱら猫が食べる」
その時奥の椅子で久美子が、かすかに笑ったような声を立てたものですから、蟹江は急に面白くないような気分になって、箸を置こうとしました。すると
「いや、失礼、失礼。べつに君の肴に、ケチをつけるつもりじゃなかったんだ」
「僕だって、ケチをつけられたとは、思っていないよ、猿沢君」
ついうっかり相手の名を言ってしまって、蟹江は照れかくしにコップをぐいとあおりました。猿沢は笑いを浮べたまま、その動作をじっと見守っていましたが、やがて蟹江がコップを卓へ置くと、こんどは視線をそこに移して、コップの中で揺れる透明な焼酎の色を、もの珍らしそうに眺め始めました。その眼付や真赤になった鼻の色からしても、猿沢はもう相当に酔っているらしいのでした。
「ねえ」やがて猿沢は視線をそこに定めたまま、相談でももちかけるように、低い調子で口を開きました。「もしもだね、メチルで
その時の猿沢の顔がへんにまじめな表情だったので、蟹江はふと返答にまごつきました。
「仮定の問題には、ちょっとお答え出来ないけれど||」なんだか圧迫されるような気分になりながら彼はどもりました。「な、なぜそんなことを聞くんだね?」
「いや、今ふっと思いついたのさ」と猿沢は視線をゆっくりともどしながら、妙な笑い方をしました。「二つのものから一つを選ぶということは、これはなかなか大変なことだからね。つまり、芸術家か、生活人か、という問題だ」
「じゃ君なら、どちらを選ぶ?」
俺のコップを眺めながらそんなことを思い付くなんて、まるでこの焼酎がメチルみたいじゃないかと、やっとその時そう気がついて、蟹江はすこし
「僕かい? 僕はね||」
猿沢はそこでふいに言葉を切り、自分の徳利をちょっと振ってみて、ずるそうににやりと笑いました。なにか魂胆ありげな表情なのです。そして奥へ顔をむけ、いやらしい猫撫で声を出して、久美子に呼びかけました。
「お久美ちゃん。お銚子をどうぞもう一本」
「はい」
返事をして調理場に入ってゆく久美子の後姿を、猿沢の眼がじっと追っていました。なんだか妙に粘っこい眼付だと、蟹江はすこし厭な気持になりました。厭な気持になる理由が少しはあったのです。そして思わず、ぐふんと鼻を鳴らしました。すると猿沢は急に顔をこちらにむけ、まるで怒ったみたいな表情になり、押しつけるような低声でささやきました。
「君はお久美が好きなんだろ。え、蟹江君」
ちゃんとこちらの名前も知っているのです。蟹江の肩はぴくりと動き、見る見る顔がまっかになりました。それはまったく図星だったからです。すると猿沢はにやりと顔をくずし、押っかぶせるように、わけの判らないことを言いました。
「それじゃ彼女も、二者択一というわけだ」
「それでさっきのメチルのことは||」
蟹江はすっかりどぎまぎして、こんなとんちんかんなことを言いました。そこへ久美子が徳利を持って出てきたものですから、猿沢もにわかに態度をつくろって、それに調子を合わせるような言葉つきになりました。
「僕はアンマだね。まあそういうことだ。ところで君は芸術派なんだろう?」
猿沢の盃にお酌する久美子の小麦色の横顔が、急にまぶしいような気がして、蟹江は黙って眼をぱちぱちさせました。すると猿沢は戸の
「さあ。これを御縁に、君と友達になることにしよう。いいだろうね、蟹江君」
その夜のことを考えると、蟹江はどうもうまくはかられたような、そんな気がしてならないのでした。ちゃんと会話のだんどりをつけ、こちらを充分混乱させ、そしてずばりと図星をさして来た。その
『あいつも久美子に
そのことを思うと、蟹江はいても立っても居られないような気持に、駆り立てられてくるのです。それはまだ、当の久美子にも打ちあけてないのですが、蟹江の胸中に、半年前からはぐくまれていた恋なのでした。それを今更、横合いからうまうまと奪い取られては、全くたまった話ではありません。
『早いとこどうにかしなければならない』
と蟹江は本気で思う。どうにかしなければ、と言うのは、機会をとらえて久美子に結婚を申し込み、夫婦になってしまうということでした。つまり蟹江はその頃、独身だったのです。
三十六歳にもなって独身だというのも、少々わけがありました。実は蟹江にもかつては妻があったのですが、兵隊で五年も外地に引っぱられ、やっとのことで復員してくると、妻は見知らぬ男と一緒に生活していたのです。復員姿のその蟹江にむかって、彼女は平然と言いました。
「なんだ、生きてたの。死んだとばかり思ってたのに。でも、もう遅いわ。ぜんぜん遅刻だわ」
ぜんぜん遅刻だわとは何事だと、蟹江はたいそう腹を立てましたが、もう仕方がありません。そこでこの薄情な先妻を断念して、余儀なく独り身となったのです。独身生活も初めこそさばさばして、楽しいようなところもあったのですが、その
蟹江の勤め先は、ある私立図書館です。彼はそこの貸出係りでした。古ぼけて小さな図書館ですから、入館者の数もすくない。したがって貸出係りも、しごく閑散な仕事でした。貸出台の向うに坐って、一時間のうち一度か二度立って書庫に入るだけで、あとはただじっとして居ればいいのです。蟹江はこの職場が気に入っていました。
久美子は暖国の生れらしく、色のあさぐろい眼のぱっちりした女でした。顔立ちは面長で、多肉果実の種みたいにすべすべした肌をしています。しかも割に無口で、おとなしそうな感じなのでした。蟹江が久美子に好意を感じたのも、別れた先妻があまりおしゃべりでガラガラ女でしたから、反射的にそんな久美子に心が動いたのかも知れません。
『あんな女を女房にしたら、具合よくゆくかも知れないな』
二三度『すみれ』に通ううち、もはや蟹江はそう思うようになっていました。平穏なる家庭的平和。蟹江がぼんやりと望んでいるのは、それなのでした。久美子に求婚し、家庭へ迎え入れる。それをさまたげる事情は何もないのに、半年も蟹江がためらっていたというのも、実は彼は自分の容姿その他に自信がなかったからでした。自分は背も低いし、その癖いかり肩だし、眼はぎょろりと飛び出ているし、あまり取り柄のない男ぶりだということは、彼もちゃんと自覚していました。だからその点において、『すみれ』における猿沢の存在は、彼の胸をおびやかすに充分なのでした。
『しかしあいつには女房がいるではないか。全くけしからん』
相手の男に女房がいても、女心は動くものだろうか。小説なんかで見ると、動いたりすることも
蟹江がそう考えるのは、こんなことがあったからでした。メチル問答の夜から二十日ほど前、彼が『すみれ』でひとり飲んでいると、久美子が何を思ったのか彼の傍につかつかと近づいてきました。そして、しずかな声でこう言ったのです。
「あら、ボタンがとれかかってるわ」
電車でもみくちゃにされて、
「あたしが縫いつけてあげるわ」
そして針と糸でつくろってくれる間、蟹江は身体があたたかくなるような気分で、久美子の指の動きを眺めていました。心がうきうきして焼酎がいつもの倍ほども
「ありがとう。君は裁縫もうまいんだね」
ほほほ、と久美子は笑いました。そして親しそうな調子で言いました。
「あなた、独身なの?」
「ああ、そうだよ」
「不便でしょうね、ひとりだと」
そこで二人は独身ということについて、少しばかり会話を交しました。店の中はこの二人きりで、他には誰もいなかったのです。そのせいで無口な久美子も、彼に話しかける気持になったらしいのです。言葉を交しているうちに、
『あの時、俺と久美子が親しげに話してるのを見て、猿沢は俺に
しかし猿沢が久美子に興味を持っていようとは、彼は別に思ってもいなかったものですから、あのメチル問答の夜のことは、蟹江には相当のショックでした。
その夜以来、蟹江は二日か三日に一度くらいの割で、無理して『すみれ』に立ち寄るのですが、その度に必ず猿沢がでんと腰をおろしていて、
「やあ、蟹江君」
などと機嫌のいい、聞きようによっては勝ち誇ったような声で、あいさつをします。だから蟹江も自然と彼の傍にかける羽目となり、飲みながら世間話をするような恰好になってしまいます。しかし久美子のことについてはあの夜以来、一度も猿沢は口には出さないのでした。ただ態度でもって、蟹江を圧迫しようとする気配があるようでした。つまり蟹江の目の前で、久美子にむかって、わざとらしい親しげな口をきいてみたり、蟹江が
こういう具合ないきさつで、日が経つにつれ、蟹江がいらいらしたり不安になったりしてきたのも、その巧妙な戦術に引っかかったのかも知れません。
昼間、貸出台に坐っていても、久美子と猿沢のことを考えると、彼は急に胸がどきどきしたり、背筋がつめたくなってきたりするのです。あの小麦色の久美子の肉体を、すでに猿沢のやつがものにしたかも知れないぞ、などと思うと、わっと叫び出したくなってくる程なのです。だからなるべくそんなことを考えまいとして、貸出台にしがみついて、面白そうな小説本などを読み
久美子にたいする控え目な慕情が、猿沢の出現以来、しゃにむにといった具合の
『よし』そんなある日蟹江ははっきりと心に決めました。『ひとつ談判して、あいつにすっかり手を引かせてやる』
猿沢が素直に手を引くかどうか。それはいささか疑問でしたが、蟹江はいろいろ考えて、ひとつの切札のようなものを発見していました。それはあの、以前綱渡り娘だったなどと噂されている、猿沢夫人のことでした。
猿沢夫人は痩せぎすの、
この蟹江のねらいは、見事に成功したらしいのです。というのは、それから二三日後の夜のことでした。
勤めの帰りに『すみれ』に立ち寄って見ると、やはりその夜も猿沢が横柄な恰好で、しきりに酒を飲んでいました。あの夜以来、猿沢はここに毎晩入りびたっているらしい
それから一時間ばかり、蟹江は猿沢といっしょに酒を飲みました。胸に
蟹江が猿沢にれいの談判を切り出したのは、その帰途、『すみれ』から二町ほど来た畠中道でした。彼はいきなりこう言ったのです。
「僕は久美子さんが好きなんだ。だから君は手を引いて貰いたい。だいいち僕の方が早いんだぞ」
十三夜の月明の畠中道を、猿沢はふらふらと歩いていましたが、いきなりそう切り出されて、さすがにぎくりとしたように振り返りました。しかし声だけは元気に言いかえしました。
「どちらが早いか、どうして判るんだ」
「こちらは半年前からだぞ。それに僕は真剣なのだ。君のは浮気に過ぎんじゃないか」
「なんだな」と猿沢はぐいと肩をそびやかすようにしました。「君は僕の自由を束縛するつもりだな」
「束縛するつもりではない」そして蟹江は効果をはかるように、一語々々をはっきりと発音しました。「とにかく、僕は、このことを、君の奥さんとも、相談しようと、思うんだ」
猿沢は黙って棒のように立っていました。しめた、と蟹江は思いました。すぐ返事が出来ないのは、相当にこたえたからに違いない。そうにらんだからです。しかし猿沢は、やがて気をとり直したように、大声で笑い出しました。気のせいか、それはなんだか虚勢をはったような響きでした。
「よろしい。君の真剣さは判った」と猿沢は笑いのあいまに言いました。「それほど言うなら、僕は手を引こう。しかしそれには、交換条件がある」
「どんな条件だ?」
「君たちが結婚するとき、僕を
「ふん。まだあるのか?」
「そうさ。僕の『すみれ』の
こんどは蟹江が黙りこんで、月明りのなかに
「よろしい。承知した」
蟹江がためらっていたのは、その条件を呑んで、しかも久美子に求婚を断られたら、背負わされた借金額だけまるまる損になる、その計算を考えていたからでした。すると猿沢も手をにゅっと出して、二人の掌はひたと握り合わされました。猿沢は念を押すように言いました。
「借金の方は、大丈夫払って呉れるだろうな」
「払ってやる。その代りあそこには、もう足踏みするなよ」
こうして話合いは成立したのです。つめたい夜気のなかで、瞬間蟹江は英雄的な感激をさえ覚えました。この男もなかなかいい奴だ。友達になってやってもいいな。そんなことを本気でちらと考えたりした程です。頭上の暗雲が吹き払われたような、久しぶりに晴れ晴れとした心持でした。
さて、その翌晩のことです。『すみれ』に立ち寄ってコップを傾けながら、さりげなく、猿沢の借金額を訊ねてみると、なんと一万二千円もたまっているというのです。せいぜい千円か二千円と予想していた蟹江は、すっかり動転して、箸ではさんだ
「一万二千円だって?」
「ええ、そうよ。この頃毎晩なんですもの」と久美子はいぶかしげに答えました。「何故そんなことを気にするの。他人のことじゃないの」
「それが、まったく、ひとごとじゃないんだ」
と蟹江は眼をぎょろぎょろさせて、唇をかるく噛みました。その唇の端にふき出た唾の泡を見ながら、久美子は再びやさしく訊ねました。
「なぜひとごとじゃないの。あなたが払うとでも言うの?」
「実はそうなんだ」
「どういうわけなの、それは」
蟹江は困惑した風にうつむいて、黙り込んでしまいました。しんとした沈黙がきて、夜風が軒をわたる音だけが、さらさらさらと鳴っています。うつむいた蟹江の視線は、うすぐらい土間におちていました。そこには先刻取落した鰈が、ぐしゃっと潰れたようなみじめな顔付で、蟹江をしずかに見上げているのでした。
腹の中が急に熱くなるような気がして、蟹江はぐいと顔を上げました。そして背後から駆り立てられるみたいに、勢いこんで顔を充血させ、ぺらぺらとしゃべり始めました。
その夜遅く、蟹江四郎は日記帳に、次の如く書き込みました。
『夜すみれにおもむき、久美子に予が
実際なんだかがっかりしたような気分でした。なんでそんな気分になるのか、自分でもはっきりしないのでした。それから彼は、しきりに考え考えしながら、更につづけて書き入れました。
『思うにこの世は仮の世なり。約束の上においてのみ成立するものなり。すなわち人生は演技なり。それには舞台装置も少々必要とするなり』
なんだか妙にむずかしくなって、何を書いているのか我ながら判らなくなってきたものですから、彼は舌打ちをして、日記帳をばたりと閉じました。そしてうっとうしい顔付になって、大きく背伸びをしました。実はこの日記文の古風なスタイルは、某文豪の日記の文体の
それから日が経って、すこしずつ暖かくなってきました。
あれ以来、猿沢佐介は感心にも約束を守って、『すみれ』ののれんをくぐらない様子でした。それと同時に蟹江四郎の姿も、ひと頃ほどしげしげとは出入りしなくなったのです。それは猿沢の借金を支払うために、勤め先で金を借りたものですから、月々の給料からそれをさし引かれ、飲み代が
やっと春になって、二人はめでたく結婚式をあげました。結婚といっても、
こうして蟹江と久美子の生活が始まったわけです。しかしその生活も、一年半ほどつづいただけで、突然ぴたりと終りを告げました。と言うのは、久美子が秋口の風邪をこじらせて、とうとう肺炎をおこし、はかなくも死んでしまったからです。
この非運に際して、もちろんのこと蟹江は嘆き悲しみました。涙がはてしなく流出して
『おれも良き夫であったが||』と悲しみの底で彼はしみじみ
悲哀がいつか疲労にかわり、その味気ない疲労にもやがて慣れ、そして一箇月ほど過ぎました。
ある日曜の昼間、久美子の遺品を整理していると、行李の中から、一冊の帳面が出てきました。表紙を見ると、『かりそめ日記・蟹江久美子』と書いてあります。久美子の日記帳らしいのでした。その字を見ると、蟹江はとつぜん涙が出そうになってきて、あわてて天井を向いたり、外の景色を眺めたりしました。そして二三分して、やっとその頁をめくり始めました。
ある頁までくると、いろいろ動いていた蟹江の表情が急に
『私はSを愛している』
とその頁には書いてあるのでした。
『Sは私の不幸をなぐさめて呉れる。そのなぐさめによって、やっと私は生きている』
蟹江は胸に不吉な鼓動をかんじながら、先に読み進みました。
すると次の頁の中頃に、日付がかわって、
『七月十五日。本日は晴天なり。
昼間よその黒猫が来て、台所から
そして一行あけて、
『あたしはSの背中が好きだ。Sの背中は広くてがっしりしている。
その背中のまんなかあたりに、小さな茶色の
痣には表情がある。悲しい表情。うれしい表情』
また一行あけて、こんどは詩みたいな形式で、
『痣は背中のまんなかだ。
痣は背中の
あたしの愛の表章だ』
胸がわくわく鳴り、背筋がじんじんしびれてきたものですから、蟹江は思わず視線を宙に浮かせました。眼がぎょろりと不安げに光って、それはまったく沈鬱な表情でした。それからなにか
『どうも俺には理解できないようだ』と彼は口の中でもそもそ呟きました。『S。Sとは何だろう?』
突然耐えがたくなってきたものですから、蟹江は大あわてで日記を閉じ、それを行李の中にもどしました。そして行李を押入れの中に入れてしまうと、また部屋のまんなかに戻ってきて、肩をそびやかして大あぐらをかきました。そうしても何だか不安で、追い立てられるような気持はやみませんでした。
『結婚。結婚とは何だろう。何だったのだろう?』
彼は苦しそうにうめきました。四五日前、図書館で読んだ哲人の書物のなかに、結婚とは人間のグレガリアスハビット(群居性)の一形式に過ぎない、とあったのを、ふと思い出したのです。それから突然立ち上って、部屋の隅の机の引出しから何かを取出し、またそこにへたへたと坐りこみました。それは蟹江自身の日記帳でした。
「たしか七月十五日だったな」
そう呟きながら、彼は自分の日記帳をぺらぺらと忙しくめくりました。七月十五日のところをあけると、彼はじっとそこに眼を
『七月十五日。晴。暑き日なり。
帰途、電車の中にて、臼井君と一緒になる。あいたずさえて駅を降り、畠中道を家路に急ぐとき、一陣の風来たりて、臼井君のカンカン帽を吹き飛ばす。臼井君大いに
予すなわち抱腹絶倒せり』
俺が何も知らずに抱腹絶倒などしていた同じ日に、久美子はSの背中の痣をまさぐったりしたのだな。悲痛な色をうかべて、蟹江はそう思わざるを得ませんでした。するとあのおとなしそうな、あさぐろい久美子の顔が、今までとは違った印象として、胸に浮び上ってきました。その顔は彼の想像のなかで、にこやかにわらっているのでした。悲嘆と
それ以来彼は、ぼんやりしている時とか、印刷物の中にSという活字を見た時などに、ふとそのことを思い出して、そっと唇を噛むのでした。誰かに相談したり、打ち明けたりする訳にも行かないのです。それは自分の愚かさを相手に知らせるだけだからです。とにかく自分だけで、Sの正体を
こうして、猿沢佐介の存在が、ふたたびひとつのわだかまりとして、彼の胸に登場して来たわけでした。
何時からSという字が、猿沢佐介の影像とむすびついたのか、蟹江にもよく判らないのです。ふと気がついてみると、彼は心のなかで、猿沢佐介をSという字に代置して、ぼんやりと考えているのでした。あるいはそれは夢の中でむすびついて、それがそのまま起きている意識に、引きつがれたのかも知れません。いつかの夜、そんな夢を見たような気がする。そう思って、いろいろ記憶を探ってみるのですが、どうも憶い出せない。はっきりしないのでした。
『しかしそれが結びついた以上||』と彼は考えたりするのです。『俺はいつの瞬間か意識の奥底で、猿沢佐介をはっきりと想定したに違いない』
想定した根拠は判然しないとしても、考えてみると、いろいろ疑わしい怪しいような
仲人をして貰った関係上、蟹江夫妻は猿沢夫妻とかなり親しくなり、お互いの家にも訪問し合うようになっていたのでした。土曜日の夜などは、必ず、猿沢家を訪問して、
猿沢夫妻は、ことに猿沢佐介は、久美子にたいして大層親切でした。久美子がトップになると、猿沢は愉快そうに笑ったり、お見事お見事とほめたりするのです。ところが、蟹江がまぐれ当りして一位になっても、猿沢は決してほめたり笑ったりしない。ふん、といった顔をするだけなのです。
仲人になって貰って以来、親しくつき合うようになっても、今思うと、猿沢佐介はどうも蟹江に対して、妙な隔てがあるようでした。つまり、わだかまりみたいなものが、猿沢にはあったようです。その頃は、蟹江は、それをあまり気にかけていませんでした。照れくさがっているのだろう、と思っていたのです。まさか俺を嫉妬したり、憎悪したりするわけはないだろう。ちゃんと借金も払ってやったのだからな。しかも一万二千円も!
ところがその猿沢佐介が、久美子が死んで以来というものは、彼に妙に親切めいた言葉をかけたり、慣れ慣れしく動作したりするようになったのでした。あの久美子が死んだ日も、猿沢は彼の家にやってきて、泣いている彼の背中をたたきながら、
「ああ、泣くがいい。泣くがいい。泣いて悲しみをすっかり流してしまえばいいんだよ」
などと、猫撫で声でなぐさめて呉れたのです。その言葉に
『どうもこいつは怪しいぞ!』
勤め先の貸出台に坐っていても、そんなことを考えてばかりいるものですから、さっぱりと読書の能率もあがりません。そして口の中で、もぞもぞと呟いていたりするのです。
『猿沢佐介の背中には、きっとひとつの痣がある。しかも縮れた毛が三本······』
自分が信じていた幸福が、全部
『とにかく一度こいつの背中を見ねばならぬ』
ある土曜日、猿沢の家で酒の馳走になりながら、彼は強くそう思いました。久美子の死後も、それまでの慣習上、彼は毎土曜猿沢家を訪問し、夕飯や酒を御馳走になっていたのでした。
『それも早急にだ。来年の夏まで待つというわけには行かない』
食卓のそばでは猿沢夫人が、子供を寝巻に着換えさせていました。もうそろそろ夜は寒いので、それはネル地の寝巻です。猿沢好みの派手な柄でした。その時ちらと子供の背中が見えたのです。すべすべと柔かそうな、しみひとつない小さな背中です。それから直ぐ猿沢佐介の背中を
「背中が出たよ。早く着せなさい、風邪を引いてしまう」
と猿沢が盃をふくみながら、夫人に注意をしました。猿沢が『背中』という言葉を発音した時、蟹江はかすかな身慄いをかんじました。
少し経って、蟹江はわざとらしくせきばらいをして、掌を肩にあてぐりぐり
「どうも近頃、肩が
「揉んで呉れる人がいなくなって、気の毒だね」
と猿沢はかるく受けました。猿沢の顔は、鼻を中心として、もう相当あかくなっていました。そろそろ酔っている証拠です。
「背中ってやつは、どうも厭だよ。ほんとに意味がない」
と蟹江は遠過しに背中に話題を持ってゆきました。
「なぜだい?」
「なぜというとだね||」蟹江はちょっと考えて「背中ってものは、人間の身体のなかで、一番広い面積を占めているだろう。人間の表面積の四分の一はあるだろうね」
「そう言えばそうだね。地球におけるシベリヤみたいだね」
「それだのに、だ」と蟹江はすこし勢い込みました。「背中というものは、ほとんど人間の役に立たない。僕たちが背中を使用するのは、椅子によりかかる時と、寝る時位なものだ。それも、椅子なんかに腰かけないで、坐れば済むことだし、寝る時も、横向きに寝れば、背中は使わずに済む。そいじゃ背中というのは、何のためにあるんだ?」
「しかしだね」と猿沢は年長者らしい落着きを見せて言いました。「背中がないと、人間は困りはしないかな。胃や肝臓や
「ほんとに意味ないよ、背中というやつは」と蟹江は横眼を使って、猿沢の様子をじろりと
猿沢夫人が傍でくすくすと笑いました。そこで蟹江は追い討ちをかけるように、言葉をつぎました。
「もっとも人によっては、あるかも知れないね。たとえばホクロみたいな||」
「そりゃあるかも知れないね」と猿沢は退屈そうに小さく
もう一息というところで、話題がそっちに行ってしまったものですから、背中のことはお流れになってしまいました。蟹江はすこし残念でした。あの猿沢夫人のくすくす笑いはどうも意味ありげだったな。ひょっとすると、亭主の
この夜あたりをさかいとして、蟹江の生きている情熱は、はっきりとひとつの形の目標にそそがれるようになったようです。つまり、猿沢の背中に痣があるかないか、その一点なのでした。人間の生活の情熱というものは、あちこちに分散する傾向よりも、ひとつの核にまとまりたがる傾向が、強いのではないでしょうか。たとえば真珠貝の体液が、なにか異物をとらえて、真珠玉を形づくりたがるような具合です。しかもその異物は、
『とにかく一度、猿沢の背中を見ねばならぬ』
しだいに冬が近づくし、そうすればだんだん厚着になるし、裸の背中をのぞき見る機会は、ますますなくなってくるのです。その点において、蟹江は一種のあせりを感じていました。あるいは彼は、自分でも意識しないところにおいて、そのあせりを楽しんでいたのではないでしょうか。知ってしまえばそれまでで、すべては終ってしまうのです。だからこそ蟹江の胸には、猿沢の背中を見たくないような気持も、うすぐろい
平穏に、無事に、日々が過ぎて行きました。
ある土曜日の夜九時頃、猿沢家の居間の長火鉢をはさんで、猿沢夫妻がこんな会話を交しておりました。
「蟹江さんも、奥さんがなくなってから、すこし変ね。なんだか気味が悪いわ」
「そうだね。元からちょいと変な男だったが、この頃はとくに妙だね」
「あんまりガッカリしたので、頭のねじが狂ったんじゃないかしら。時々突拍子もないことを言い出したりしてさ」
「あのぎろぎろした眼付が、第一おかしいね。しばらく相手にしないがいいかも知れないな」
「だって向うからやって来るんですもの」
「だからサービスを悪くするんだな。あの男はすこし甘えているよ。世の中はそんな甘くないことを教えた方がいいと思うね」
そこへ玄関ががらがらとあいて、ごめん下さいと言う声と共に、当の蟹江四郎が入ってきました。それはすこしばかり浮き浮きしたような声でした。そのままのこのこと居間にあがってきました。すこし酔っているようです。
「あら、いらっしゃい」
と猿沢夫人は愛想いい口調で答えました。猿沢はちょっと
「寒いね」と蟹江はにこにこしながら長火鉢に手をかざしました。「しずかな淋しい晩だねえ」
「そうだね。久美子さんでもいれば」と猿沢は爪楊枝を襟につきさして答えました。「麻雀でもやるところだが」
「三人ではねえ」と夫人は残念そうに口をそえました。「麻雀もできないし」
「ほんとに残念だ」と蟹江が
「やりたいけれど」と猿沢。「碁盤がないんでねえ」
「あっ、そうか。じゃ君は将棋は指せるだろう」
「そりゃ指せるさ。そう言えば、君とはまだ指したことがないな。ひとつ指してみたいもんだねえ。でもねえ||」
「駒も盤も実はないんですのよ」と夫人が引きとりました。「買っとけばよかったですね」
「駒は僕が持ってきたよ」
蟹江はにこにこしながら、ポケットから紙箱を取出しました。見ると、それは
猿沢夫妻はちょっと顔を見合わせました。しかし蟹江がぱちぱちと駒を並べ始めたものですから、猿沢もやおら体を動かして、蟹江に向き合いました。
「さて、いくら賭けるかな」
決心をつけたと見えて、猿沢がそう言いました。いどむような声でした。
「そうさねえ。金を賭けるのも、もう
「変ったものって、何だね?」
「たとえばだね」蟹江はちょっと考え込むふりをしながら、やがてぽつんと言いました。「負けた方が裸になって見せる、なんていうのはどうだろうね」
「裸?」猿沢はにやりと笑いました。とたんに蟹江の裸の
「いや、寒いから踊らなくてもいいだろう。そこらを一廻りするだけにしよう」
「お止しなさいよ。ばかばかしい」と猿沢夫人がきんきんした声でさえぎりました。「あんた方の裸を見たってぜんぜん面白くないわ。それよか、やはり一局二百円ということにしなさいよ」
「うん。それにしよう」
蟹江が口を開く前に、猿沢がそう言ってしまったものですから、蟹江は口をもごもごさせて、不承々々黙ってしまいました。顔がぽっとあかくなって、なんだかとたんに面白くなくなったような表情です。
それでも先ず蟹江が
猿沢夫人は編棒をとり出して来て、傍で編み物を始めていました。部屋の中はしんとして、駒を動かす音だけが、時々さらさらとひびくだけです。ふとその音が途絶えたので、夫人が顔を上げて見ると、猿沢佐介は困惑と口惜しさを押しかくした老獪な微笑をたたえ、じっと盤面をにらんだり、蟹江の手許に置かれた持駒をにらんだりしていました。どうも形勢が悪いらしい風でした。
やがて猿沢は、蟹江の持駒にじろりと
「蟹江君。君のその
蟹江はびっくりしたように顔を上げました。それから盤面を見渡して、何かしきりに計算している様子でしたが、しばらくして思い切ったように答えました。
「よかろう。その代り、現金だよ」
そこで猿沢は十円札を三枚ぱっと出して、桂馬を買い取り、それをパチッと盤面に打ちました。
それから少し経って、猿沢はまた現金を出して、蟹江の銀と歩を買いました。それからまたまた、
それから三十分ほど経ちました。編み物をしていた夫人がまた顔を上げると、こんどは蟹江が深刻な顔をして考えふけっていて、見ると猿沢の手許には、十枚余りの持駒がうずたかく積まれているのでした。猿沢は得意げに天井を向いて、
「猿沢君」やがて蟹江はいくらか口惜しげな調子で言いました。「桂馬をひとつ、ゆずって呉れないか」
「ああ、いいだろう。五十円だよ」
「五十円?」と蟹江は眼をぎょろりとさせました。「そりゃすごく高いな」
「うちじゃそんな値段なんだよ」
と猿沢は平気な声で言いました。蟹江はすこしためらっていましたが、しぶしぶ五十円出して、桂馬を受取りました。
それからも形勢はあまり良くならないと見えて、蟹江はしきりに身もだえして、その度に香車を買ったり歩を買ったりしました。それにも
それから盤面がどしどし変化し、二十分後には、駒をいくつも買った甲斐もなく、蟹江の王様はほとんど裸になってしまいました。蟹江は唇を噛んだり、低くうなってみたり、すっかり頭が充血して、あたりもはっきり判らないような風でした。盤面をぎろりと睨みつけたまま、うめくような声で訊ねました。
「
蟹江の王様は王手がかかっていて、なにか強力な合駒が必要なのです。猿沢はちょっと考えて、そして落着いた声で答えました。
「金は、すこし高いよ。百十五円ぐらいかな」
「そりゃあ高いなあ。ちょっと高すぎるよ」
「でもそんな相場なんだよ」
「それじゃ訊ねるけれど、角なんかは?」
「角は百四十円で、飛車は、そうだねえ、百六十五円だ。王様は、これは持駒じゃないが、もし売るとすれば、二百五十円ぐらいに負けとこう」
「なに。二百五十円?」
そう言いながら、蟹江は猿沢の王様を、にくにくしそうに見詰めました。見詰めているうちに、その王将の駒が、ふと猿沢の顔に見えてきたのです。その王将をつまみ上げ、その背中をしらべてみたい、そんな衝動がちらと蟹江の胸を走って、ふっと手が出そうになったのです。その時猿沢の落着いた声がもどってきました。
「そう。二百五十円だね。なにしろ王様だからね」
よっぽど二百五十円を出して、敵の王様を買い取ってやろうかと蟹江は思ったのですが、なにしろ勝負の賭け金が二百円ですから、その損得を考えて、やっと踏みとどまったのです。
傍で猿沢夫人が、大きなあくびをしながら、うんざりしたような声を出しました。
「まだ勝負がつかないの。ずいぶん長い勝負ねえ。あたしお先にやすませていただこうかしら」
||蟹江と猿沢の土曜日の会合は、近頃は大体こんなものです。こんな調子ですから、蟹江が猿沢の背中を見るのは、ちょっと
でも、もう蟹江は、猿沢の背中は見ない方が、いいのではないでしょうか。猿沢の背中に