その夜僕も酔っていたが、あの男も酔っていたと思う。
僕は省線電車に乗っていた。寒くて仕方がなかったところから見れば、酔いも幾分醒めかかっていたに違いない。窓硝子の破れから寒風が襟もとに痛く吹き入る。外套を着ていないから僕の
「何を小刻みに動いているんだ」
とその声が言った。幅の広い
「ふるえているのだ」と僕は眼を閉じたまま言い返した。「寒いから止むを得ずふるえているんだ。それが悪いかね」
それから
「お前は外套を持たんのか」
「売って酒手にかえたよ」
「だから酔ってるんだな。何を飲んだんだね」
「全く余計なお世話だが、聞きたければ教えてやろう。
軽蔑したように鼻を鳴らす音がした。
「清酒を飲まずに代用焼酎で我慢しようという精神は悪い精神だ。止したが良かろう」
まことに横柄な言い方だが口振りは淡々としていた。そういえば隣の呼気は清酒のにおいのような気もした。
「飲むものはインチキでも酔いは本物だからな。お前は何か勘違いしてるよ」
僕はそう言いながら眼を開いて隣を見た。僕より一廻り大きな男である。眉の濃い鼻筋の通った良い顔だ。三十四五になるかも知れない。黒い暖かそうな外套の襟を立てていたが、赤く濁った眼で僕を見返した。膝の間から掌を抜いて僕は男の外套に触れて見た。
「良い外套を着ているじゃないか。これなら小刻みに動く必要もなかろう」
男は
「この外套、要るならやるよ」
「何故くれるんだね」
「だってお前は寒いのだろう」
「そうか。ではくれ」
いささか驚いたことには男は立ってさっさと外套を脱ぎ出した。下には黒っぽい背広を着ていたがネクタイは締めていなかった。男は外套を丸めると僕の膝にどさりと置いた。
「さあ、暖まりなよ」
「じゃ貰っとくよ。しかし全く||」僕は外套に腕を通し
男はふと顔を上げて聞き
「これは俺に
「まだ憂鬱じゃないよ。しかし外套脱ぐと恐しく寒いな。明朝のことは知らんが後悔するような予感もするよ」
「それならくれなきゃ良いじゃないか」
「俺は人から貰う側よりやる方になりたいと思う。そう自分に言い聞かしているんだ。お前はどういう気持で貰ったんだ」
「俺か」僕は指で釦をまさぐりながら答えた。「これで今の寒さがしのげると思ったから貰ったよ。降りる時かえしてやろうか。この釦は面白い形だな」
「かえして貰わなくても良いよ」
しかし男は寒そうに肩をすくめて眉根を暗く寄せた。男の裸の
「今日何処で飲んだのだね」
「何処ってあそこだよ」男は遠くを見るような目になり、「今日は会社の解散式よ。潰れたんだ。さばさばしたよ。明日から俺一人だ。で、お前は何で粕取など飲んだんだ」
「俺は退屈だからよ」と僕は答えた。
「退屈だとお前は飲むのか」と男が聞き返した。
「そうだよ」
「何故退屈するんだ」
「
それからはっきり覚えていないが、駅に降りて彼と別れたような気がする。翌朝眼が覚めたら外套はちゃんと枕もとにあった。たいへん寒い朝で、昨夜脱ぎ捨てた靴下がごわごわに凍っていた。昨夜の男はどうしただろうと考えたら直ぐ、鶏の皮のように粟立った男の頸のことが頭に来た。僕は部屋の中で外套を着てみた。
二三日経った。僕は通りで行列に加わり、バスを待っていた。僕の前にいる男の後姿がどこか見覚えあるので考えていると、ふとその男が振返った。それがあの省線の中の男だった。僕を見て戸惑いしたようににやにやしたから、僕も一緒ににやにや笑った。勿論僕はあの外套を着用していたのである。すると男は急に怒ったような顔になって向うをむいたが、
「なかなか立派な外套でござんすね」
彼は皮肉な調子で言った。
「どういたしまして。お粗末なもんですよ」と僕は言い返してやった。彼は少しまぶしそうな顔をして僕の外套を上から下まで眺め廻した。その時気がついたんだが彼の背広はあちこち
「家はこの近くかい」そんなことも聞いたようだった。
バスが来たので僕等は乗り込んだ。席は並んで取れたのだが、彼は婆さんに席をゆずったから自然僕の前に立ちふさがる破目となった。バスが動き出すと彼は片手を伸ばして僕の外套の
「この釦は俺の祖父さんが、撃取った鹿の骨だ。九州は背振山よ。六角形してるだろ。いい職人だったぜ。そこらの釦とは違うんだ」
「お前の祖父さんが猟師だったとは知らなかったよ」
と僕が言った。しかし彼は聞かない振りして、そして今度は大声でこの外套の由来や来歴について講釈を始めたのだ。大きな声だから皆が此方を見る。自分の外套ならともかく他人が着用している外套について講釈するのだから、着ている当人の僕だって居心地がよくない。皆が僕の顔を見て笑っているようである。その時になって僕は、彼が外套を手離したのを口惜しがっていることに気がついたのだ。
バスが終点についた時僕は言ってやった。
「口惜しがるのは止せ。欲しければくれてやるよ」
「俺は他人の慈善は受けん」と彼は憤然とした口調で答えた。「俺は物貰いじゃない」
「じゃこの外套は永遠に俺のものだな」
「そう簡単には行かん。俺が欲しくなれば、お前から貰うのは厭だから力ずくで
「へへえ」と僕は少し驚いた。「この間の
「そうよ。俺はお前の言うような星菫派じゃない」
成程あれに
その夜僕は少し粕取を飲過ぎた。何処をどう歩いたのか判らない。気がついた時は僕は堅いものの上に寝ていて、誰かが外套を脱がせようとしているところだった。奇特な人がいるものだ、と遠く頭のすみで考えながら又眠りに落ちようとしたが、外套を脱がせるために体をぐいぐい小突かれるから今度ははっきりと眼を覚ました。
「何をするんだ」
僕はそう言いながら
「お前外套を取る気か」
ふらふらする頭を定めて僕が怒鳴った。怒鳴った積りだけれど
「そうよ」あいつは平気な顔でそう言った。「明日船橋に用事で行くんだ。外套がないと都合が悪い」
「じゃお前は追剥だな」
「追剥」彼は一寸手を休めたが「追剥、で結構だよ。俺は追剥だよ」
下から見上げているのではっきり判らないが、その時彼はおそろしく悲しそうな顔をした。その声も泣いているのじゃないかと思った位だ。僕は急に力が抜けてどうでもいいやという気分になった。僕は自然に両手を後ろに伸ばして外套を脱がせ易い姿勢をとっていた。
「此処は何処だね」そのままで僕が聞いた。
「渋谷だよ。地下鉄の終点だよ」
男の声は矢張傷ついた獣のように苦しそうだったが、それでも僕から脱がせる作業の手は休めなかった。そういえば上の方に歩廊の天蓋が見えた。僕は歩廊の壁にあるベンチに寝ているらしい。
外套を剥取ると男は一寸僕の額に掌をあてて、元気で家に帰れよ、と言ったらしかった。そして歩廊を踏む靴
翌朝のしらしら明けに眼が覚めたら、寒いの寒くないのってありやしない。僕の身体は洗濯板みたいにコチコチになって、
しかし口惜しかったのはその朝だけで、昼からはすぐ忘れてしまった。寒い街角を曲る時などにふとあの外套の感触や黄色い
今日は彼は
「釦はどうしたね」
と僕は訊ねた。彼もうつむいて釦の箇所をちらと見た。
「うん。剥取られたよ」
「喧嘩でもしたのかい」
「喧嘩、じゃない。もっと面白い話があるんだ。何なら聞かしてやろうか」
「たいして聞きたくもないけれど、その外套も一度は俺の物だったんだからな。一応
男が行こうというので僕も連れ立って街角の喫茶店に入った。
「翌日船橋に行くと言ってたが、行ったのかね」
「行ったよ。話は其処から始まるんだ」と彼が答えた。以下が珈琲をすすりながら彼が物語った話である。||
「船橋という町には俺は始めてだが、あれは
断って置くが俺は何も船橋くんだりまで物見
俺は自分が呟いた言葉の内容に驚いたのではない。亢奮すれば人間はどんなことでも口走るものだ。俺が愕然としたのは、その言葉を現実に裏打ちするような兇暴なものが、その時俺の心の中にはっきり動いているのが判ったからだ。お前は笑うかも知れないが、闇屋に落ちるには俺は良識や教養があり過ぎる、と俺はその時まで漠然と
俺はその朝、またもとの俺の外套のつもりでそれを身体に着け、そして此処までやって来た。歩いていながら、どうもぴったりしない。何か食違ったもの、何かそぐわぬものを俺は、不透明な膜の向うに感じ続けていたのだ。この襟が
||俺は
俺にはその時この外套が
切符を買って乗込んだ電車は満員だった。荷物と人間が重なり合って、あの鋼鉄車が外から見るとふくらんで見えた位だ。俺は次第次第に反対側の扉の方に押されていた。ところがふと見るとその扉口には扉がないのだ。あけっぱなしなんだ。そこに矢張り闇屋らしい若い女がいて、ついにたまりかねたか、そんなに押しちゃ落ちるわ、と悲鳴をあげた。
そんな時にはどこの世界にも義侠心の過剰な人物が出るもので、この時も一人の頑丈な四十位のおっさんが出て来たんだ。なりは闇屋だが
||わしが代ってやる。もっともっと混んで来るんだ。
混んでるのを身体を入れ替え入れ替えしてそのおっさんが栓の位置に頑張ることになった。娘はやっと車内に入れたわけさ。俺か。俺は押されておっさんと身体を接する破目となった。おっさんは片手で車体の
俺は揺られながら、先刻の気持を
会社に勤めていた時、俺は真面目な会社員だった。俺は良く働いた。俺は悪いことをしなかった。誰からも後ろ指をさされなかった。俺は適度に出世し皆からも好かれた。そしたらいきなり会社が解散と来やがら。涙金を頂戴してそれでお終いよ。しかし俺はまだ絶望はしなかった。あの晩が解散会よ。解散のどさくさで誰が何を持ち出した、誰がいくら
駅に着いて電車の中に老人を押し込んだ時、扉がしまる一寸前だったが、老人は黄色い歯をむき出して俺にささやいた。お前さんは善い男だよ、ってな。
俺を歩廊に残して電車は出て行った。俺は何故か醜く亢奮してやたらに線路に唾をはき散らしていた。俺は酒のせいか
翌朝俺が外套の件で後悔したとお前は思うか。
それよりも渋谷の駅のことをお前に話そう。あの時俺は偶然酔い倒れているお前を見つけたのだ。お前というより外套を。お前からあの時、追剥だと言われた時、俺は実は身体のすくむような戦慄が身体を
人がだんだん立ち込めて来た。とにかく身動きができないのだ。始め扉口にいたあの娘な、あれが俺の脇にいたが、曲った俺の姿勢から俺の眼は、女の下半身が一部分見えるのだ。女はやはり人にはさまれて動けないらしいが、どういう加減かスカアトが
||にいさん、ちょ、ちょっと。押さ、押さないで。このリュックを······
そして又ぐっと来た。おっさんはその時は既に真蒼になっていた。俺だってどうすることもできやしない。反対側にかしいだ時おっさんは棒を
||落ちたぞ。誰か落ちたぞ。
其処らで声が叫んだ。しかしおっさんが落ちたために、扉口の辺はいくらか
||落ちたって何が落ちたんだい。
奥の方でそんなのんびりした声が聞えた。
||人間だよ。
と誰かが応じた。誰だ、誰が落ちたというんだ、ざわめく声の中で、
||誰だっていいじゃねえか。明日の新聞読めば判るよ。
あののんびりした声だった。どっと笑い声が起った。俺の近くでも皆笑った。
お前はその言葉をユウモアだと思うか。
俺は思わん。思わんが俺も笑い出していたのだ。俺は
終点に着いたら潮を引くように人々はぞろぞろ降りて行った。おっさんのことなど皆忘れ果てた顔付で、我先に車を出て行った。俺は最後まで残っていた。そして俺はおっさんが残したあのリュックを、うんとこさと背中にかつぎあげたのだ。おそろしく持ち重りのするリュックだった。俺はそれをかついで山手線に乗り換え、そして家にたどりついた。帰り着くまでに何度このリュックを捨てようと思ったか知れやしない。それほどずしりと重かった。俺は腰を曲げて歩きながら次第に気持が沈鬱になって行った。
家に着くと女房が出て来た。俺の女房というのは至極無感動な女で、何事にも驚いたためしがないのだ。俺がかついで来たリュックを開いて、あら、ひじみだよ。と落着いた声で言った。
||しじみだよ、と俺は怒鳴った。なるほど
女房は両掌でザクザク蜆をすくいながら、俺の怒鳴ったのも気にも止めないふうで、
||ひおしがりして来たの。
と聞いたのだ。俺は
で、俺は床に入ったのだ。もう日は暮れていたが食慾はなかった。女房は枕許で針仕事を始めるらしい。リュックはそのまま床の間に置いてあった。俺は蒲団に
妙な話だが、おっさんのリュックをかついで来たことについて、俺は何の背徳感も感じていなかったのだ。気持の抵抗も全然なかった。俺は自分の持物のようにリュックを
あのおっさんはどんな家庭を持っているのだろう。どんな女房や子供を持ち、どんな家に住んでいるのだろう。あんな気紛れな義侠心を起した代償に彼が得たものは、ひとつの外套の釦と、それと
プチプチという
||何を舐めてんだ。
||何も舐めてなんかいないわよ。
女房の声が答えた。音は止まない。俺はついにむっくり床の上に起き直った。
||あの音は何だ。
女房も針を休めて、俺と一緒に耳を澄ました。音は床の間の方らしい。注意深く音を探りながら、俺は身体をそちらにずらした。
蜆が鳴くことをお前は知っているか。俺は知らなかった。俺は驚いた。リュックの中で何千という蜆が押合いへし合いしながら、そして幽かにプチプチと
おぼろげながら今掴めて来たのだ。俺が今まで赴こうと努めて来た善が、すべて偽物であったことを。喜びを伴わぬ善はありはしない。それは擬態だ。悪だ。日本は敗れたんだ。こんな狭い地帯にこんな沢山の人が生きなければならない。リュックの蜆だ。満員電車だ。日本人の幸福の総量は極限されてんだ。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているのだ。丁度おっさんが落ちたために残った俺達にゆとりができたようなものだ。俺達は自分の幸福を願うより、他人の不幸を希うべきなのだ。ありもしない幸福を探すより、先ず身近な人を不幸に突き落すのだ。俺達が生物である以上生き抜くことが最高のことで、その他の思念は感傷なのだ。
此処で話を途切らせると、男は卓の上の冷えた珈琲をぐっと飲んだ。外には何時しか夕闇が深くおちかかっていた。
「||それで」と僕がうながした。
「翌日」と男は袖で唇を拭きながら「俺はリュックを持って出かけ、ある街角にそれを拡げたのだ。一時間足らずの中に俺は皆売り尽して相当の金を得た。予想よりもずっと大きな金額だった。俺はそれから又船橋に出かけ、蜆を買って来た。今日も既にさばいて来たのだ。この空のリュックがそうよ。||これで話はお終いだ」
男は言い終ると顔をあげ、
「||お前が言う程の面白い話でもなかったが、しかしまあ退屈はしなかったよ」と僕が言った。「お前の新しい出発について、俺はこの冷えた珈琲で乾杯しようと思うよ」
「待ってくれ」と男は手をあげた。「もう彼岸も遠くないし、俺もこんな
「それも良いだろう」と僕は答えた。「全くお前は良い処に気がつくよ。しかし売るについては、その前にその外套を、も一度だけ俺に着せてくれないか」
僕は男が脱いだ外套に手を通してみた。あの柔かい重量感がしっかりと肩によみがえって来た。僕はポケットに手をつっこんだ。何か堅い小さなものが幾つも指にふれた。
「蜆だ」
取り出して卓に並べると十箇ほどもあった。それから気付いて男は自分の背広のポケットを探ったら其処からも出て来た。ズボンの折目からも二箇ばかり出て来た。
「へんだな。どこからこんなに忍び込んでいたのだろう」
男はそう言いながら一寸厭な顔をした。
それから僕等は喫茶店を出て、広場に面した小さな古着屋でその外套を売払った。あの取れかかっていた釦はその店で僕が引きちぎって、背広のポケットに収めた。
その夜、僕等は飲屋で先刻の蜆を出して味噌汁を作って貰い、それを
その後僕は彼に会わない。彼はその後平凡な闇屋になっただろうと思う。会いたい気持も別段起らない。
あの夜僕がポケットに収めた黄六角の釦は、別に用途もないから机の上に放って置いたら、先日下宿の子供が来て玩具にくれと言うからやってしまった。お