魂や情熱を
この戦争中に
つまり私はそのときも
私は
けれども、そのとき、野口冨士男の話に、矢田さんが、原稿を郵送せずに、野口の家へとどけに来たという、矢田さんは美人ですねという野口の話をききながら、私はいささか断腸の思いでもあった。
まだ私たちが初めて知りあい、恋らしいものをして、一日会わずにいると息絶えるような幼稚な情熱のなかで暮していた頃、私たちは子供ではない、と矢田津世子が吐きすてるように云った。それは
あなたは大人であったのか。私は? 私は馬鹿馬鹿しいのだ。何よりも、魂と、情熱の
その頃から、あなたは
私の母は私とあなたが結婚するものだと思いこみ信じていたが、ぐうたらな私に思いを残して、死んでいた。あなたのお母さんは生きていたのだ。あなたの死亡通知の中には、生きているアカシの、お母さんの名があったから。矢田チエという、私は名すら忘れてはいない。私の母以上に、私たちの結婚をのぞんでいた
死亡通知は印刷したハガキにすぎなかったが、矢田チエという、生きているお母さんの名前は私には切なかった。そして、その印刷した文字には「幸うすく」津世子は死んだと知らせてあった。「幸うすく」、あなたは、必ずしも、そうは思っていないだろうと私は思う。人の世の、生きることの、馬鹿馬鹿しさを、あなたは知らぬ筈はない。
けれども、あなたのお母さんは「幸うすく」そう信じているに相違なく、その怒りと
私は、この尤もらしい
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私はそのとき二十七であった。私は新進作家とよばれ、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれていた。
当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払う雑誌などいくつもないから、新人のでる余地がない。そういう時代に、ともかく新進作家となった私は、ところが、生れて三ツほど小説を書いたばかり、私は誘われて同人雑誌にはいりはしたが、どうせ生涯
私は同人雑誌に「風博士」という小説を書いた。散文のファルスで、私はポオの X'ing Paragraph とか Bon Bon などという馬鹿バナシを愛読していたから、
私は
そのころ雑誌の同人六、七人
人間のウヌボレぐらいタヨリないものはない。私はその時以来、昨日までの自信のないのは忘れてしまって、ほめられるのは当り前だと思っていた。そのとき二十六だった。七月頃であった。そしてその月に文藝春秋へ小説を書かされ、それ以来、新進作家で、私の軽率なウヌボレは二十七の年齢にも、つづいていた。
そのころ、春陽堂から「文科」という半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、
この同人が行きつけの酒場があった。ウヰンザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のようなものでもあったせいらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気がよかったが、他の我々は大いに貧乏であった。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立って飲むことが多かった。私が酒を飲みだしたのは牧野信一と知ってからで、私の処女作は「
ある夜更け、河上と私がこの店の二人の女給をつれて、飲み歩き、河上の家へ泊ったことがある。河上は下心があったので、女の一人をつれて別室へ去ったが、残された私は大いに迷惑した。なぜなら、実は私も河上の連れ去った娘の方にオボシメシがあったからで、残された女は好きではない。オボシメシと
その翌朝、河上の奥さんが憤然と、牛乳とパンを捧げて持ってきてくれたが、シラフで別れるわけにも行かず、四人で朝からどこかで飲んで別れたのだが、そのとき、実は俺はお前の方が好きなんだと十七の娘に言ったら、私もよ、と云って、だらしなく仲がよくなってしまったのである。
この娘はひどい酒飲みだった。私がこんなに
私は処女ではないのよ、と娘は言う。そのくせ処女とは
そのくせ、ただ、単に、いつまでも抱きあっていたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそいに来て、娘は私を思うあまり、神経衰弱の気味であった。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなったものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがって泊りに行かなくなったことを、娘は理解しなかった。
中原中也はこの娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。
とびかかったとはいうものの、実は二、三
オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言って中也は常に嘆いており、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかかげたり、けれども弟子はたった一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を
その年の春、私は一ヶ月あまり京都へ旅行した。河上の紹介で、そのころまだ京大の学生だった大岡昇平が自分の下宿へ部屋を用意しておいてくれたが、そのとき加藤英倫と友達になった。彼は毎晩、私を京都の飲み屋へ案内してくれて、一週間ほど神戸へも一緒に旅行した。加藤英倫も京大生で、スエデン人の母を持つアイノコで、端麗な
これは蛇足だが、この神戸の旅行で、私はヘルマンの廃屋とかいう深山の中腹の五階建かの大洋館へ案内された。ヘルマン氏は元来マドロスか何かで、貧乏なのんだくれであったが、兄が大金満家で、これが死に、遺産がころがりこんで一躍大金持になったのだそうで、そこでここに大邸宅をつくり、五階の上に塔をたて、この塔の中に探照燈を据えつけ、自分の汽車が西の宮駅へつくと、山の中腹の塔の上から探照燈をてらす。ヘルマン氏光の中へ現われ、光の中なる自動車に乗る。この自動車が邸宅へはいるまで、自動車と共に探照燈の光が山を動いて行くのだそうで、この探照燈は私が行ったとき、まだ廃屋の塔の中にそのまま置かれていた。軍艦などの探照燈と全く同じ
もう一つ、ブッタマゲルのはヘルマン先生の酒倉だ。庭の中の山の中腹へ横穴をあけて、当時の金で八万円の洋酒をとりよせ、穴の中へつめこんだ。驚くべき大穴倉だが、実に驚くべき洋酒の山で、私が行ったときも、ギッシリアキビンの山がつまっていたが、奥には本物もあったかも知れぬ。そこでヘルマン先生は、かねて飲み仲間の親友マドロスに隣地へ小意気なバンガローをたててやり、二人でひねもす、よもすがら、飲んでいたそうで、ヘルマン先生なりふり構わず、ボロ服に、貧乏時代からのマドロスパイプをくわえたまま、酒の
独探のケンギを受けて、大正五年だかに国外退去を命じられたという。無実のケンギで、探照燈がたたって怪しまれたという話であったが、快男子を無益に苦しめたものである。飲み仲間のいたバンガローに当時は日本人の老画家が住んでいて、廃屋廃園に、私達を案内してくれ、ヘルマン氏の思い出をきかせてくれたのであった。廃屋は各階
矢田津世子は加藤英倫の友達であった。私は東京へ帰ってきた。加藤英倫も東京へ来た。たぶん彼の夏休みではなかったのか。私には、もはや時日も季節も分らない。とにかく、私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウヰンザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二、三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。
★
さて、私は
私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」というのを一つ書いただけで、発表する雑誌もなくなってしまったのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であった。つまり、矢田津世子に就てであった。
私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑っていた。ただ、私は、矢田津世子に就て書くことによって、何物かが書かれ、何物かが明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるようにならなければいけないのだと考えていたのであった。
始めからハッキリ言ってしまうと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかった。然し、メチルドを思うスタンダールのような純一な思いは私にはない。私はただ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかった。接吻したことすら、恋し合うようになって、五年目の三十一の冬の夜にただ一度。彼女の顔は死のように
そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会いたくない、私はあなたの肉体が
その後、私は、まるで彼女の肉体に
私は戦争中、ある人妻と遊んでいた。その
この女は常にはただニヤニヤしているばかりの凡そだらしない、はりあいのない女であったが、遊びの時の
然し、
魅力のこもった肉体は、わびしいものだ。私はその後、娼婦あがりの全く肉体の感動を知らない女と知ると、微妙な女の肉体とあいびきするのが、気がすすまぬようになっていた。
娼婦あがりの感動を知らない肉体は、妙に清潔であった。私は始め無感動が物足りないと思ったのだが、だんだんそうではなくなって、遊びの途中に私自身もふとボンヤリして、物思いに
「憎んでいる?」
女はただモノうげに首をふったり、時には全然返事をせず、目をそらしたり、首をそらしたりする。それを見ていること自体が、まるで私はなつかしいような気持であった。遊び自体がまったく無関心であり、他人であること、それは静寂で、澄んでいて、騒音のない感じであった。
そして私は矢田津世子の肉体を知らないことを喜んだ。その肉体は、この二人の女ほど微妙な魅力もこもっておらず、静寂で、無関心である筈はない。私にとって、女体の不完全な騒音は、助平根性をのぞけば、
私は先ほどスタンダールのメチルドのことにふれたが、あれはどうも、ひどい誇張で、本心であるとは思われない。私にとって、矢田津世子はもはや特別な女ではなく、私は今に、もっとバカげた、犬のような惚れ方を、どこかの女にするような予感がつきまとっている。そのくせ私は、惚れることには、ひどく退屈しているのだが。
★
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行った。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいう飜訳本であった。私はそれが、その本をとどけるために、遊びに来いという
然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であったSという家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来しており、私も子供の頃は
その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。
この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たために幾度かが眠り得なかった苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいずれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、
そのころ「桜」という雑誌がでることになった。大島というインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、
私たちは屡々会った。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会っているときだけが幸福だった。顔を見ているだけで、みちたりていた。別れると、別れた瞬間から苦痛であった。
「桜」はインチキな雑誌であったが、井上、田村、河田はいずれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらったのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じていたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せただけで
インチキな雑誌であったが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の
ある日、酔っ払った寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾ったのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアイビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てで、ポケットへもぐしこんだという。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋していることは知らないのだ。居合せたのが誰々だったか忘れたが、みんな声をたてて笑った。私が、笑い得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。
私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会った日、矢田津世子の同伴した男というのが、
「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいということの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされていた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思いだした。彼は後日、作家となった笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に
寅さんの話は思い当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられていたのである。
如何なる力がともかく私を支え得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であった。
★
私はまったく臆病になった。手紙は三日目ぐらいに来つづけていた。同人の会でも会ったし、その他の場所でも会っていた。
Wのことは同人間でも公然知れわたっていた。彼等は私の心事を察して、私の前では決してそれに触れぬようにいたわってくれたが、いたわりすらも、私には苦痛であった。
創刊号の同人の座談会で、私は例の鼻ッ柱で威勢よく先輩諸先生の作品に
校正の日、同人全部印刷所へつめていたが、まさしくその日は日曜であり、矢田津世子のみ、真杉静枝か河田かに校正をたのみ、姿を見せていなかった。その日曜が矢田津世子にどういう日かは、あらゆる同人が知っていたのだ。
座談会の例の一言に、河田だか、田村だか、井上だか、ふきだして、これは
私は然し、わが身の如くに、切なかったのだ。私が憎まれているが如くに。私は矢田津世子をあわれみ、真杉静枝をむしろ呪った。同時に真杉静枝に内心深く感謝したのは、私も切に、この言葉のケズられざらんことを
その一言は、私にとっては、絶望の中の灯であったのだ。悲しい願いがあるものだ。この一言が地上に形をとどめて残ってくれますように。せめて、この一言のみが、
私は然し、私の必死の希願に就て、自ら一語も発することができなかった。私はただ、幸いに残り得た一語のいのちを胸にだきしめていたのである。ああ、これは残そう。これは面白い言葉じゃよ、とそれに答えた河田の言葉を私は今も忘れることができないほどである。
私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいということを母に言った。母も即座にうなずいていたが、やがて
然し、三日にあげず手紙が来ているのだから、母は私の言葉を
その頃だった。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになって、足もとをフラフラさせ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行こうよ、お金は私が持っているから、と言う。暮れがたであった。私は仕事があって今夜は酒がのめないからと嘘をつき、ともかく、そのへんまで送ろうと一緒に歩くと、女は憑かれたようにとりとめもなく口走り、せつなげな笑いが仮面のようにその顔にはりついている。そのうちに、ふと、知ってるわ、矢田さんに惚れたんでしょう、と言った。恨む声ではなかった。せつなげな笑いが、まだ、はりついていた。気象の激しい娘であった。モナミだか
「片思いなの?」
娘は私の顔をのぞいた。それは、優しい心によって語られた、愛情にみちた言葉であった。恨む心はミジンもなく、いたわる心だけなのだ。私は答える言葉もなく、答えたい心もなかった。
このへんで別れようと私が言うと、ウン、娘はうなずいて、私の手を握り、まだつづいているあの切なげな笑いで、仕事がすんだら、又、のもうよね、そう言って、娘は手をふり、素直に闇の底へ消えてしまった。これが娘と私との最後の別れであった。
私も、亦、矢田津世子を恨む心はなかった。なじる心もなかった。矢田津世子は、私に向い、一緒に旅行しましょうよ、登山したい、山の温泉へ泊りたい、と言う。私はただ笑い顔によって答え得るだけだ。その笑い顔は、私の心はあなたのことで一ぱいだ、いつもあなたを思いつづけている、然し、私はあなたと旅行はできない。旅行して、あなたの肉体を知ると、私はWと同じ男に成り下るような気がするから。あなたにとって、私が成り下るのではなく、私自身にとって、Wが私と同格になるから。私はあなたに
河田誠一が矢田津世子を訪ねたのも、その頃だ。なぜ坂口と結婚しないか、それをすすめるために。その話を、私は河田から告げられず、矢田津世子から、きかされたのだ。
その知らせには、たしかに意味があった。なぜあなたは結婚しようと言わないのか。言ってくれれば、私はいつでも結婚するのに、という意味が。矢田津世子のあらゆる讃辞が、河田誠一にささげられて、私の前に述べられている。その心のあたたかさと、まじめさと、友情の深さに就て。それは、すべて、河田の彼女への忠告を彼女がうけいれたというアカシであり、私に対するサイソクであった。私はそれに対しても、ただ、笑い顔によってのみ、答えていた。
私の心は、かたくなであった。石の如くに結ぼれていた。
要するに、私は自分の心情に従順ではなかったのである、本心とウラハラなことをせざるを得なくなる。それが私の性格的な遊びのようなもので、自虐的のようでもあるが、要するに、遊びだ。私はそのころ牧野信一の家で、
矢田津世子と私は「桜」をやめた。二号目ぐらいで、菱山もやめた筈だ。私はもう、あのころのことは殆ど記憶にない。雑誌のことも、矢田津世子のことも。私は特に彼女のことをつとめて忘れようとした長い期間があるのだから。
そのころのことで変に鮮明に覚えているのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、||それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかっていたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先ずこういうセキバライをしておもむろに嘲笑にかかるのである)ジョルジュ・サンドにふられて戻ってきたか、と言った。銀座でしたたかよっぱらって吉原へきて時間があるのでバーでのむと、ここの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがって一枚ずつ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になって、ねてしまった。彼は酔っ払うと、ハダカになって寝てしまう悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと
「ヤヨ、女はおらぬか、女は」
と叫んで、キョロキョロすると、
「何を言ってるのさ。この酔っ払い」
娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひっくりかえってしまった。それを眺めて、私達は戻ったのである。
私が連れこまれた女のアパートは、窓の外に医院があって薬品の匂いの漂う部屋であった。女はううんと背伸びをして、ふと気がついて、背伸びをしたいなと思う時でも、する気にならない時があるわね、と言った。ほかに意味も
窓をあけて青空を眺めたら、私は急に旅行に行きたくなった。女も大賛成で、私は人から貰って三日目ばかりの時計、これは全く私に縁がないようにその宿命が仕組まれていたとしか思われないほど高級品であったから、女は大いに気をきかし、勇み立ち、この質屋、あの古物商、知りあいの商店の
私達は足掛け八日旅行した。たしか八日だったと思う。八日帰りがなんとか言ったが、金がなくなってしまったので、女が大いにケンヤクを主張して安温泉を廻って歩き、ヒルメシはカツドンばかり食わされた。私がおかしくて仕方がなかったのは、この女は人の顔の品定めなどテンからやらぬたちなのだが、バスに乗った時に限って女車掌の品定めをして、あら、あの子、凄いシャンだ、と言う。一向にシャンでもないから、君の会社はよっぽどデブばかり
私が旅館でふと思うのは、矢田津世子もWとこんなところへ来るのだろうな、ということだった。尤も、我々の旅館よりは高級であるに相違ない。待合であるかも知れぬ。尚それよりも怖れたのは、この旅先で、矢田津世子とWの姿を見かけないか、ということだった。私と女が見られることへの怖れではなかった。純一に、彼等の姿を見かけることの、その事実を
私はそのころ、路上でふと立ちすくむことがあった。胸は唐突にしめつけられ、呼吸が一瞬とまっている。私はふりむいて一目散に逃げる衝動にかられているのだ。私は街角を怖れた。又、街角から曲って出てくる人を怖れた。私は矢田津世子の幻覚におびえていたのだ。よく見れば似つかぬ女が、見た瞬間には矢田津世子に思われ、私は屡々路上に立ちすくんでいたのであった。
別して私は温泉で、矢田津世子とWの幻覚になやまされた。こんな安宿に彼等が泊る筈はないと信じながら、廊下で見かける人影に、とつぜん胸がしめつけられ、息がつまって、立ちすくむ。隣の男女の話声の、よくきけば凡そ似つかぬ女の声が、始めてきこえた一瞬だけは矢田津世子の声にきこえてしまう。
私は女給と泊り歩いている私が、矢田津世子への復讐であるような心は、ミジンもなかった。私は今、すぐこの足で、矢田津世子を訪ねて、結婚しましょう、と言えば、結婚することもできるのだった。それは疑うべからざることで、そのことだけでは、一とかけの疑念も不安もなかったのだ。もとより、憎む時間はあった。然し、私があの人の影におびえて立ちすくむとき、私自身の恐怖の中には、あの人に苦痛と
同時に私はWを憎んでもいなかった。矢田津世子とW。矢田津世子と私。私の心には、この二つを対比し、対立させる考え方が欠けているか、或いは非常に
私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしまう。結婚すれば、私は勝ちうる。果して、勝ちうるであろうか。私はむしろ、対立と、自分の低さ、位置の低さを自覚するばかりではないか。
私は然し、そのように考えていたわけではない。そのように考えることの必要が、必要すらも、欠けていたのだ。即ち、私は、すでに結婚を諦めていた。時に軽率な情念のそれをめぐって動くことをとめる
私はむしろ、この明るいオッチョコチョイの女給をつれて、矢田津世子が一緒に行こうと云った山々、
「あなたは奥さんないの? アラ、うそ。あるでしょう」と、女がきく。
「あるよ」
「お子さんは」
「一人だけ」
「あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ」
「どうして、分る」
「ほら、当ったでしょう。私の経験なのよ。私みたいな変チクリンなお多福を可愛がる人の奥さんは、御美人よ。私、何人も、その奥さんの顔を見てやったわ。美人女給を
「ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあわない。私、このへんの酒場で女給になって、稼ぐから」
「チップで
「ああ、そうか」女はひどくガッカリした。もとより、それは気まぐれだった。気まぐれ千万な女なのだ。私を愛しているせいなどでは毛頭ない。然し、気まぐれながら、いくらかシンミリしているので、それが珍らしいことだったから、私は今も何か侘しさを思いだす。私はその後、よく旅先の宿屋の部屋の
「このくらい遊んで帰ると、私だって、ちょっと、ぐあいが悪いのよ。あとは野となれ、山となれ、か。あなたの奥さん、さぞ怒っているだろうな。ねえ、マダム、怖い?」女の顔はいつもと違って、まじめであった。
「もう十日、もうひと月、ねえ、私、このへんで稼いで、一緒にいたいな。あなたのマダムをうんと怒らしてやりたいのよ。私、どこかのマダムを二、三人、殺してやりたいわ。厭になっちまうな」と言った。そして笑った。それはもう、いつもの通りの女であった。シンからお人好しの女でも、そんな残酷な気持があるのかな、と、私は面白かった。顔も知らない対象にまで嫉妬だか癇癪だか起している、そのくせ、はっきりした対象にはむしろ嫉妬を起しそうもない女であった。
私はそのとき、矢田津世子は死んでくれれば一番よいのだ、ということをハッキリ気附いた。そして、そんなことを祈っている私の心の低さ、卑しさ、あわれさ、私はうんざりしていた。まったく一と思いに、この女とこのへんの土地で、しばらく住んでみようかと、女には
★
私の心の何物か、大いなる諦め。その暗い泥のような広い澱みは、いわば、一つの疲れのようなものであった。その大いなる澱みの中では、矢田津世子は、たしかに片隅の一ときれの小さな影にすぎなかったが、その澱みの暗い厚さを深めたもの、大きな疲れを与えたものは、あるいは、矢田津世子であるかも知れぬと考える。
私はそのころから、有名な作家などにはならなくともよい、どうにとなれ、と考えた。元々私は、文学の始めから、落伍者の文学を考えていた。それは青年の、むしろ気鋭な
私はもう、矢田津世子に会わなかった。まる三年後、矢田津世子が、私を訪ねて、現われるまで。