おもいもかけない大地震は、ささやかな彼の借家と、堂々たる隣の家との境界を取払ってしまった。
いい家だけれど、あの塀があんまり高くて、陰気で、しめっぽくていけないと、引越して来た日から舌うちしていた
金貸をして、一代で身上をつくったという隣の家の先代は、名前の上に鬼という余計な字をくっつけて呼ばれた人間だった。高く廻らした煉瓦塀も、人の
日光を
「お隣はうちなんかと違って、
妻は未見の世界を発見したもの珍しさで、突然目の前に展開された庭を幾度となく眺めてあきないのであった。それは自分の手の届かないものに対する
「あら、
「どこに。え、ママ、どこだったらさ。」
「あすこんとこよ。
「ああわかった。やあい、石燈籠が倒れてら。」
子供を相手に、妻が裏口で話している声が、近々と聞える。
「賢ちゃん、いけない事よ。お隣に行ったりなんかして。叱られてよ。」
妻のたしなめる声の下をくぐって、子供は倒れた煉瓦の上にかけ上り、ともすると子供一流の好奇心から、一歩でも隣の土を踏みたがるのであった。
「あら、お隣にはあんな可愛らしい子がいたんですかねえ。ついぞ見かけた事もなかったのに。」
妻もその女の子のメリンスのきものを、木の間を透かして見る時は、特別の興味で活気づくのであった。
町内のつきあいもなく、高い煉瓦塀の中にかくれて住んでいるような隣人について、引越して来て間のない彼等は多くの知識を持っていなかった。
馬鹿馬鹿しく高い塀の
子供には子供の誘惑が働いて、いつの間にか境界は自由に踏越えられていた。
「おい、どけよ、そこは箱根山なんだよ。地震が来ると谷底におっこっちゃうんだから、女なんて行くとこじゃあないんだよ。」
「いいのよ。ここあたしんちなのよ。」
「駄目だい。君んちはここだよ。そんな山の上にうちなんてあるもんか。」
のぞいて見ると、賢一が兄貴ぶって指図しているのに、従がったり、半分従がわなかったりして、隣の女の子が、崩れた塀を山に見たてたり、谷底に見たてたりして遊んでいた。おかっぱの髪をふわりふわりさせながら、女の子は女らしく、裾の乱れを気にしながら、賢一のするままに、高い所から下へ飛び下りたり、
「お隣の子ねえ、学校に行かないんですって。」
「だってまだちいさいじゃあないか。」
「いいえ、あれで賢一と
「へえ、
「ところがそうじゃあないんですって。お父さんが学校なんか行かなくたっていいって云うんですとさ。」
「どうしてだい。」
「どうしてですかねえ。なんだかお隣は気味の悪いうちじゃありませんか。」
「お母さんはいないのか。」
「なくなったらしいんですよ。可愛そうだから
「そういえば奉公人らしい者も見かけないなあ。」
「婆やが一人いるっきりですとさ、あんな広いうちなのに。掃除だけでも大変でしょうねえ。」
「この頃賢一が毎日遊びに行くんですよ。いいんでしょうか、うっちゃっといて。」
「ひとのうちへ
「でも、なんだか気味が悪いのよ。あの女の子のお父さんていうのが、恐い顔して、一言も口をきかずに見ているんですって。」
「余程変なうちだなあ。」
「変ですとも。第一こんなにひとのうちに塀が倒れ込んでいるのに、
「いいじゃあないか。目の前に高い塀がつっ立っているよりも、広々としてこのままの方がいいぜ。」
「だって不用心だわ。」
「用心の悪いのはお隣さ。こっちは泥棒が入ったって盗まれる物もありゃあしないや。」
そうは云いながら、彼とてもその崩れた煉瓦塀がいつまでもそのままで、やがて秋めいて来た景色の、段々わびしくなるのを見て、時折気にする事もなくはなかった。
彼は新聞と雑誌に続物を引受けていて、毎日机の
「ごめん下さい。」
耳馴れない男の声が庭先に聞えた。
「私は井原です。宅の塀が倒れたままになっているので、大変御困りだと承りましたが、申訳ありません。早速とりかたづけさせるつもりですが、東京中やられてしまったので、職人の手が足りず、ついそのままになっているのです。決してわざとうっちゃって置くわけではありませんです。」
「いや、私共の方は、どうせ庭らしい庭でもありませんから、このままでも構いませんが、とんだ御災難でしたなあ。しかしお互に命拾いをしたのは
相手が人に圧迫感を与える
「今朝早くでした。お宅の家主だという方が見えまして、ひどく叱られました。あなたが大層御立腹だという事で。」
「へえ、家主がうかがいましたか、あの老人は向ういきの強い先生ですから、さぞかし一人でまくしたてたでしょうが、私自身はこのままでも決して
「倒れればいいとですか。」
隣人は思いがけなく破顔した。
「まさかそうでもありませんが、しかしこうなって見ると、お宅の広々としたお庭が見渡せて、非常に結構です。実際、垣根だとか塀だとかいうものは、お互が侵入さえしなければ不必要なものかと思いますが。」
「そう、そういう考え方もありますでしょう。ですが、隣同志
隣人は
「いかがです、こちらへおかけになりませんか。」
彼は多分の好奇心をもって、縁側へ
ところが隣人は、
「失礼します。」
といいながら、
「あなたは昨今こちらへお引越になったようですから、御存じないかもしれませんが、この煉瓦塀は、私の父の遺産のひとつです。」
腰かけるとすぐに、挑戦するような語気でいうのであった。
「私の父というのは田舎者で、極貧の家に生れたのです。一年中朝から晩まで働いても、満足には喰えないのが定められた運命でした。貧乏人にとっては、それを甘受するのがいい人間と呼ばるべきでしょうが、私の父は運命の前に頭を下げる事を拒みました。東京に出て来て、幾年間か、奴隷に等しい生活をしたあげく、父は世の中を憎み、金を愛する人間になってしまいました。金だ。金さえあればという考えは、親譲りの財産があったり、地位とか名誉とかいうものに手の届く人間には、さほど強くは起らないかもしれませんが、貧乏の悲惨をしみじみ
隣人はひどく興奮し、声がつづかなくなるまで一気に話した。
「ああ、久しぶりで
と云って苦笑した。
彼は胸が迫って、何と
天変によって取除かれた煉瓦塀の崩れから、井原富吉氏と彼との交通は自然に開けた。自分の家の者以外はすべて敵だと堅く信じて来た隣人は、本と新聞によって養われた知識に一切の判断を托していた。都下の新聞はすべて読み、その報道の嘘もまことも、そのまま
「そうして見ると、小説なんてものは、全然想像で書くものなのですか。そんなら高塀の中に閉籠っている人間でも、書いて書けない事はないのですなあ。」
大きな発見をしたように云って、彼を微笑させた。
塀の外の広い世間を敵と見ていたにも
「お隣の御主人いい方じゃありませんか、世間では鬼だとか何だとかいってるけれど。」
「そうさ。悪口をいう奴だって、一人一人あの人を知ってるわけではないんだ。因業なおやじのおかげで、不当ないじめ方をされてるのさ。それだって金さえ持っていなければ、ああまで憎まれもしないのだろうが、金があるからいけないんだよ。だからうちなんかが一番平和でいいんだ。」
「何いってるの。少し位憎まれたってお金のある方がいいわ。ほしいものも買えないくらしなんか鬼に喰われてしまえだ。」
妻は、この間ねだった子供の洋服を、震災後の
だんだん寒くなると泥棒が横行するから、戸ごとに一人ずつ夜番を出し、町内の安全をはかろうという議が起った。町内の口ききの、肉屋と米屋と
妻と子供の外に奉公人もなく、自分は昼でも夜でも根気の続く限り机に向って原稿をかかなければならない彼は、最初からこの提議に対して不服だった。夜が
「皆さんとこみたように若い衆はいないし、私の外には屈強の者はいないのだから、たとえ毎晩ではないにしても、徹夜の警戒は困りますなあ。そんな事をするよりも、みんなで応分の寄附をして、専門の夜番を雇う方が利口じゃありませんか。」
「それは一応
「つまり町内の共存共栄のためにですなあ······」
「では、
「ですが、お隣の井原さんなんかもお困りではないでしょうか。」
口きき連が辞去しようとするのを呼止めて、まだ決心のつかない自分のいいわけに、隣人の名を借りたのであった。
「え、お隣の鬼富ですかい。あんなわけのわからねえ奴あありませんや。吾々が顔を揃えて行ったのに、めいめい自分んちだけ守ればよくはないかとぬかしゃあがってね、あっしゃあ気が短けえから、みなさんがとめて下さらなけりゃあ、横ずっ
「あの人には社会奉仕って精神がわからないんだ。自分さえよければいいっていうんじゃあ国家は立って行きませんや。みなさんとごいっしょに、理解のいくように話をしてやって、結局明日まで回答留保という事になったんです。尤も回答留保ったって、先方がいうんじゃあないんで、こっちが胸をさすって、それまで
「なあに、あっしゃああんな鬼畜に等しい
町内の口ききは、めいめい自分の存在を
「困った事になったなあ。自分達は頭を使わない商売だし、翌日昼寝でもしていればいいんだろうが、夜どおし
後に控えていた妻を顧みて頭を
「なんなら誰か人を頼んで、代って
「だって誰もそんな役を引受けはしないぜ。」
「そりゃあただ頼んだって引受けやしないけれど、車屋の若衆でも雇ったらいいじゃありませんか。」
「車屋か。いくら位やったらいいものかしら。」
「いくらもくれとはいわないでしょ。」
「そうでないよ。この頃は二三丁かけただけでも五十銭はくれというからね。それに外の家では主人が出るというのに、大きな屋敷かなんかならまだしもだけれど、俺んとこで代理を出したなんていうと、近所の口がうるさいぞ。」
夫婦は面白くない会話をやりとりした。
彼にはどうしてもその企てが
その午後、隣人は又しても倒れた塀のあとかたづけの遅れたいいわけに来た。いよいよ数日のうちには人夫が来て、きれいにする事になった。その後には、こちらとの境界に限って簡単な垣根にしようかと考えていると語った。
「地震のおかげで、私も父の遺産の塀の外に出て来ました。御迷惑でも時々寄せて頂きたいと思いまして。」
「どうです、思い切ってもう一歩天下の大道に踏み出しては。」
彼は隣人の世にも珍しい片意地と、その数奇な生活に興味と同情を持っていたが、同時に広い世の中の人と、悲喜哀楽を共にする事が、しあわせを
「手近い話が、町内の申合せだという夜番にも参加するんですねえ。実は私もあんな事は不賛成です。不賛成というよりも大切な夜の時間を奪われるので閉口しますが、これも人間の世の中の面白い所だと考えれば我慢出来ますよ。第一地震このかた、社会の秩序が乱れて、人間が乱暴になっていますから、うっかり拒絶すると何をするかわかりません。罪もなく人間を斬ったり突いたりした位だから、ぶちこわしでも火つけでも
妻を相手にこぼしていたのとはうって変って、この
隣人は、町内の者が何をしでかすかわからないという暴力の脅迫に対しては、かえって反抗の気勢を示し兼ねなかったが、彼と共に拍子木を打って夜廻をするという事は、微笑をもって聞いたのである。
「もし又あなた自身出て行くのがいやな時は、人を雇って代らせたって構わないのです。」
「いや、人を雇うなんて事はしません。そういう仲間に加わるなら、勿論自分でやりますよ。」
「そんならいっしょに出て行きましょう。あなたが
彼の調子が
夜番の番が廻って来た。
「今晩は。」
と入って行くと、
「御苦労さま。」
と受けてくれた。彼と隣人の外に、仕立屋と駄菓子屋が当番だった。だが、詰所にはもっと多勢集っていた。町内の口きき連から、用のないてあいが、
その意地の悪い、衆を頼むまなざしを、隣人は
前の晩の連中のしわざであろう、そこいらには
当番の四人は二人ずつに分れて、交代で町内を廻った。彼と隣人の組も、交互に提灯を持ち、拍子木を叩いて廻った。彼は、内心馬鹿馬鹿しく思いながらも、隣人の心を引立てるために、無駄口をきいたり、はしゃいで見せたりしたが、隣人はあたかも彼の煉瓦の高塀の中に閉籠っていた精神そのもののように頑固に沈黙を守り、明白にこの往還へ出て来た事を
夜が
「さあ、頂こうじゃありませんか。」
「いかがです。」
「毎晩こういう風に何か御届物があるんですか。」
「こちらの御屋敷では、この御長屋を
「もっともここのうちが一番夜廻の恩恵に浴すわけだな。貸家は
「なあにこの御屋敷ばかりじゃあないんですよ。外にも方々から、いろんなものを持って来ますがね。昨夜なんざあ床屋さんだの魚定の親方の組で、町内の顔役揃いだったから、刺身が出る、酒が出る、まるでお祭でしたよ。」
駄菓子屋も仕立屋も、昨夜の御馳走には及ばない事を深く感じながら、しかし感謝してすいとんの
「さあいかがです。あったかいうちに頂こうじゃありませんか。」
彼は何となく不快に感じはしたが、異をたて、気取っていると云われそうなので、相手の心持を
「いかが。」
何かしら気の毒な感じをいだきながらささやいて見たが、隣人は首を振って拒んだ。
「お前さんは頂かないんですかい。もったいない。せっかく下さったもんだ。半分つにして頂いちまいましょうや。」
駄菓子屋は隣人の分を、仕立屋と分けて片づけてしまった。
二度目の番が廻って来た。彼は又隣人と組んで忠実に役目をつとめた。大名華族からは又うどんかけの振舞いがあり、駄菓子屋と仕立屋と彼は
更けるとめっきり寒くなった。火鉢を囲んで話す者には何のかかわりもなく、隣人は暗く黙していた。彼の勧説にしたがって、この夜廻に
彼と隣人とが、幾度目かの提灯をさげ、拍子木を叩いて一巡して来ると、詰所の中から多勢の高声が往来へあふれていた。
「御苦労さま。」
「お疲れでしょう。」
あいそのいい声をかける者もあった。駄菓子屋と仕立屋の外に、数人弥次馬が集っていた。みんな酒気を帯びていた。
「
「それから、こいつもついでに話して置かなくちゃあならないんだが、昨日あっしが御屋敷によばれてね、殿様の御顔を当りに上ったんだが、そん時じきじきの御話で、町内の人が夜警にあたってくれるのは結構な事だから、少しだが何かのたしにしてくれってんで、大枚の御金を頂いたんだ。頂いたっていうとおかしいが、あっしが町内のみんなに代って預っているのさ。それで早速
床屋の親方は風呂敷包を解いて、中から青年団式の雨外套と、カアキイ色の白線の入った兵隊式の帽子を取出し、いきなり仕立屋の頭へかぶせた。
「こいつあいいや。」
「似合うぜ。」
口々に何か気の利いた事を云おうとする弥次馬に取囲まれ、当の仕立屋は他意なくげらげら笑うのであった。
「ありがてえじゃあねえか。あっしなんざあ学がねえから、
親方は自分の
「え、ありがてえじゃあねえか。こっちからくれったってくれねえのが当節なのにさ、さきさまからふんだんに下さろうって心持がありがてえじゃあねえか。え、途方もねえ高利の金を貸しやあがってさ、土百姓から一代のうちに、何十万とか何百万とかの金をつくったくせに、
一座には、親方のおきまりのしつっこさに多少閉口している者もあったが、それよりも隣人に対する平素の不満が強くゆきわたっていた。意地の悪い視線は、その人の上に直射した。
「さあ、もう一廻して来ようか。」
彼は自分達の順番ではないと承知の上で、隣人の立場のあやうさを救うために、みずから拍子木を持って立上った。
「今度は私共の番ですよ。」
「いいえ、よござんす。いい月夜だから、もう一廻して来ましょう。」
彼は隣人を促して立上った。
「あ、
肉屋は二人を呼止めた。
「ええ、みなさん御賛成なら、応分の事は致します。」
彼は隣人をかばって、二人分答えた
「井原さんも御賛成下さるんですね。」
肉屋は皮肉に念を押した。隣人は
「そうです。」
彼はとっさに
「お、一寸待っとくんなさい。」
又うしろから床屋が声をかけた。
「ここの御屋敷の殿様が下さったんだ。今晩から夜警の者は、こいつを着て、こいつをかぶって
青年団式の外套と兵隊式の帽子を持って追かけて来た。
「それには及ばないでしょう。」
彼は一応断って見た。
「いけねえ、いけねえ。しっこしのねえなりをしていちゃあ威勢が悪くて
みさかいもなく兵隊式の帽子を彼の頭にのせ、彼の着ていた外套を無理に脱がせ、青年団式の
「さ、お前さんもお
親方の態度は、彼に対するよりも隣人に対して遥かに圧制的であり、
いけない||何か切迫した危険を感じて、彼が身をもって割って入ろうとした時、
「何をしやがんでえ。」
「たたんじまえ。」
「やっつけろ。」
「高利貸。」
「社会の敵。」
「鬼。」
「畜生。」
口々に何か
格闘は一瞬間にして終った。虚弱な、かつて遊び友達もなかったから、従って喧嘩の修練も積んでいない「社会の敵」は、たちまち地べたにへたばってしまった。
「よせ、よせ、手むかいしないものに乱暴するな。」
彼の言葉は、言葉としては立派だったが、その調子は、全く
ようやく勘弁して貰って、いつまでも地べたにへたばっている隣人を助け起した。隣人は青ざめ、何一言もいわなかった。彼もただ心の中で謝罪する外に途もなく、とぼとぼと歩を運んだ。井原と書いたちいさい表札の出ている門柱の中に、傷ついたあるじを送り込んだ。
翌日隣家へ見舞に行ったが、顔面筋肉のちっとも動かない雇人の老婆が出て来て、主人は寝ていて御目にかかれませんと断ると、
どうもすみません。下らない往来なんかに
数日後、人足が来て、崩れた塀の煉瓦をとりかたづけたが、間もなく、井原富吉氏が先代五郎右衛門氏の遺産として幾十万円だか幾百万円だかの財産と共に譲られた煉瓦の高塀は、以前にも増して