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種紙の青む頃

前田夕暮




 私は学校から帰るや否や、包みをそこに放り出しておいて、勝手元に駈けあがり、板の間にお膳を持ち出して、おおきな茶碗をかかえるようにしながら、飯櫃から冷たい飯を手盛りにしては、湯をかけて、さらさらと流し込むのである。二杯ばかりはいつか知らぬまに胃袋のなかに流れ込んでいる。三杯目をさらさらと食べながら、障子をあけはなしてある座敷越しに、遠く田圃向うの畑を見渡すと、菜の花が黄いろく咲いている。その菜の花のなかを大きな人の頭が動いてとおる。その人の頭が此方をみて鳥渡お辞儀をしたと思ったら、つと見えなくなる。するとそのあとから白い手拭をかぶった若い女が矢張りお辞儀をして行く。それは庭に立っている父に往還を通る人が挨拶して行ったのだとわかる。で、私はまたさらさらと茶漬をかき込む。

 笊に間引いた京菜を入れて、上の畑から母が帰えってくる。

「おや、この子は御飯をたべているの。」

「俺はお腹が空いたから三杯食べたよ。それからね······。」

「もっと食べようと思って考えているの。」

「でも何にもお菜がないんだもの。」

「お菜なしで三杯もたべられたら沢山じゃありませんか。余り食べるとまた胃病になりますよ。」

 と話しているところへ、父が種紙を二三枚さげて座敷にあがってくる。

「種紙がすっかり青くなったぞ。」

「それじゃもう蚕が発生かえるの。」

「もう一週間もすると発生かえる。」

「桑の芽がすっかりふくらんで、日あたりのよいところはもうほぐれていますよ。」

 と母は手拭を頭からとりながら、土間に立って父の方を見ている。

「それでは畑の桑を見に行こう、おまえも一緒に行け。」

 と父は私を誘う。私は箸を膳の上に投げ出すようにして、土間にとびおりて草履をはく。父はもう竹藪のなかの坂路をあがりかけている。

「おい、お父さんを後から押してくれ。」

「ようし。」と私は父のふっくらとした腰のあたりに両手をあてて、後から押しあげる。父は故意わざと背を反らすようにして私を困まらせようとする。私は全身に力を入れて押しあげようとする。が、父の体はどっしりして重く、手がしなうようになる。怺らえきれなくなって、つと手をはなして横の方へとびのくと、父はよろよろと後ろに二三歩よろけて、青竹を捉えて倒れようとした体の位置をとりかえす。そして、ははははと大きな声で笑う。

「駄目、駄目、そんなことじゃ。では今度はお父様がおまえを押上げてやろう。」

 と言って父は私を先きにして、背なかを両手で軽く押さえて、ぐんぐんと押上げてくれる。

 私は後ろにのけぞり返るようにして、両足にあるかぎりの力を入れてふん張っても、ひょろひょろと前に体が出て行く。枝垂れていた笹の葉が顔にさらさらと触わる。と、もう藪の出口で、日が明るく照っている。とうとう私は藪上の桑畑の畦まで押しあげられる。

「や、おもいおもい、汗が出た。」

「お父さんは駄目だなア、俺は汗などちっともかかないに。」

 ははははと父はいかにも快げに笑う。その高い笑い声が筒ぬけに向うにとんで行って、うす烟っている榛の林にぶつかると、鳩が二羽はたはたと羽ばたいて飛びたつ。

 眼の前の桑は、もうすっかりうすみどりに芽をふき、ゆうべ近い日の光が淀んでその梢を霞ませている。畦には野びるが冷たく葉をのばしている。

「此桑畠は何反あるの。」

「此畠は昔から三反畠と言っていたが、余り大きいから二つにしてある。」

「俺は此桑畑のなかを駈け抜けたいな。」

 私は蚕が上簇近くなる頃、此桑畠に赤く桑の実のあるのを想像して父の顔を何となく下から仰いでみる。

 父は何かうっとりと考えている。






底本:「日本の名随筆17 春」作品社

   1984(昭和59)年3月25日第1刷発行

   1989(平成元)年1月25日第9刷発行

底本の親本:「前田夕暮全集」角川書店

   1972(昭和47)年9月

入力:M.M.

校正:川山隆

2014年10月13日作成

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