宮崎は人口七万ばかりの小さな町で、附近に官幣大社宮崎神宮や、熱帯植物の青島があること以外、殆んど世間に知られていない。しかし、そのくせ一度脚を運んだ人は、必ず言いあわせたように、
「いい町ですね、静かで、のんびりしていて······」
言い残してゆくのが普通である。
先頃、僕たちがその土地を訪ねた時は、宮崎を根城にして日向一円を巡遊したのであるが、その町に帰ると、みんな母親の胸に帰ったような、安らかな思いに落ちつくのがいつものことであった。みんな故里に帰ったような気がすると言い、中でも上泉秀信さんなどはそういう町を故里にもっている僕が羨ましいと繰り返していた。
いったいどこの土地でも勝れた景観に欠くことのできないのは水の要素であるが、宮崎の町が訪ねる人の心を、そのように安らかな境地に誘いこむのも、一つには大淀川の流れが町の中央を貫いているからである。
大淀川は霧島山の山麓に源を発し黄濁した体で日向の平原をうねりくねり、末は太平洋に注いでいる三十余里もある長い大きな川である。
僕の郷家はその河ぷちに在り、幼い頃僕はその河で泳いだり、ダクマ蝦を釣ったり、なつかしい記憶をもっているが、先頃の旅行では他の諸家とともに、対岸の神田橋旅館に泊った。
旅館は古く田山花袋が旅日記にも推賞している家で、部屋のすぐま下に川面が迫ってきている。欄干から半身を乗りだして上の方を仰ぐと、霧島の霊峰が木の葉の色に薄らと聳えて居り、遥か下手の方、今は廃れた港赤江の浜からは太平洋の潮騒いの音が幽かに聞えてくる。二百余間もある河はばを越えて対岸を眺めると、樟や、杉などの南方植物につつまれた家々の屋根がまぶしい陽のなかにきらめいて、その奥遥か遠くに
すると、朝靄がようやく
祖国振興隊というのは今日向一円に幾つも結成されている勤労奉仕の団体で、橋をわたる婦人たちは先頭に、古風な、日本的な隊旗を掲げ、各々は白いエプロンのりりしい姿に、めいめい肩にホウキをかついでいる。その姿を遠望するだけでも、僕たちはなにか身うちの緊きしまるような感動を覚え、遠く神の国に来た感慨が湧くのであった。
僕たちがその土地を訪ねた時は丁度ま夏の季節で、神社に参拝する時以外は洋服の上衣も着て居られない位の暑さであったが、南も端の方に在るこの土地には、冬でも雪が降らない。雪を見たことのない町びともいくたりかいる位で、僕が雪を知ったのも十歳前後の頃の正月、父に連れられて隣県の人吉温泉に行った時が始めてであった。
そういう土地であるから、町の植樹にも竜舌蘭、楠、杉、などの南方植物が多く、一行が訪れた県庁の表玄関には、丈余を超える見事なフェニックスと、蘇鉄の樹とが植っていた。
県庁は鉄筋コンクリートの白亜の建物で、それが地方には珍らしい近代的な様式をもっているのだが、どっしりと卑俗に堕していないことで一同を喜ばした。
町には電車がなく、田園につつまれた、県政と文化とだけを中心に生きている静かな町を、更に喧騒から救っているのである。町の交通は参宮バスが一手に掌握している。
車体のゆったりした大型の遊覧バスは目貫きの通りから、宮崎神宮、高等農林、神武天皇御皇居の跡、阿波岐ヶ原等土地の名所や霊蹟やを走っているが、更に路線は熱帯植物の青島から遠く官幣大社鵜戸神宮迄へと延びている。いったいにバスガールの説明というものは、なにか若い年齢には痛々しく、聞くに耐え得ない思いに人を導くのが普通であるが、幸いにここの少女たちはそういう悲哀な感情に人をつき落すことをしない。
説明の文章が文学的に気品がある上に、少女たちの顔つきや、服装も清楚で気もちがいいのである。宮崎の町は日本で他に比較するところなし、と推賞した一行中の尾崎士郎さんは、宮崎の女には余情がある、と語っていた。口では言い得ないところを、一種の表情によって伝える独得の表現力をもっているというのである。但し、一行どの人の誰もがそういう余情を汲みとることはしなかった。紀元二千六百年を控えて、神罰を恐れるがためではなかった。