「お父さんが、なくなられたと、いうじゃないか」
「ウン」
「
だが、君は、今朝の○○新聞の記事を読んだかい。一体あれは、事実なのかい」
「············」
「オイ、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。何とかいえよ」
「ウン、有難う。······別にいうことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ、
「それで、昨日、学校へ来なかったのだね。······そして、犯人はつかまったのかい」
「ウン、嫌疑者は二三人あげられた様だ。しかしまだ、どれが本当の犯人だか分らない」
「お父さんはそんな、
「それは、していたかも知れない」
「商売上の······」
「そんな気のきいたんじゃないよ。親父のことなら、どうせ酒の上の喧嘩が元だろうよ」
「酒の上って、お父さんは酒くせでも悪かったのかい」
「············」
「オイ、君は、どうかしたんじゃないかい。······アア、泣いているね」
「············」
「運が悪かったのだよ。運が悪かったのだよ」
「······おれはくやしいのだ。生きている間は、さんざんお袋やおれ達を苦しめておいて、それ
「本当に、君は、今日は、どうかしている」
「君に分らないのは
「············」
「おれは、昨日から、何ともいえない変てこな気持なんだ。親身の父親が死んだのを悲しむことが出来ない。······いくらあんな父親でも、死んだとなれば、定めし悲しかろう。おれはそう思っていた。ところが、おれは今、少しも悲しくないんだよ。
「本当の息子から、そんな風に思われるお父さんは、しかし、不幸な人だね」
「そうだ、あれがどうすることも出来ない親父の運命だったとしたら、考えて見れば、気の毒な人だ。だが、今、おれにはそんな風に考える余裕なんかない。ただ、いまいましいばかりだ」
「そんなに······」
「親父は、じいさんが残して行った、
「そんなに、ひどかったのかい」
「そりゃ君達には、とても想像も出来やしないよ。この頃では、
「お父さんは、いくつなんだい」
「五十だ、君はきっと、その年でと
「············」
「兄貴は、君も知っていた通り、毎日
「ひどいんだねえ」
「おとといの晩だったて[#「晩だったて」はママ]、そうだ。親父は珍しくどこへも出ないで、その代りに朝起きるとから、もう酒だ。一日中ぐずぐず
「············」
「若しこの先、何年もああいう状態が続くのだったら、おれ達は到底堪え切れなかったかも知れない。母親なんか、その為に死んで
「お父さんがなくなったのは、昨日の朝なんだね」
「発見したのが五時頃だったよ、妹が一番早く目を覚したんだ。そして、気がつくと、縁側の戸が一枚開いている。親父の寝床がからっぽだったので、てっきり親父が起きて庭へ出ているのだろうと思った
「じゃ、そこからお父さんを殺した男が、はいったんだね」
「そうじゃないよ。親父は庭でやられたんだよ。その前の晩に、母親が気絶する様な騒ぎがあったので、さすがの親父も眠れなかったと見えて、夜中に起きて、庭へ涼みに出たらしいのだ。次の部屋に寝ていた母親や妹は、ちっとも気がつかなかった相だけれど、そういう風に、夜中に庭へ出て、そこにおいてある、大きな切石の上に腰かけて涼むのが親父のくせだったから、そうしている所をうしろから、やられたに相違ない」
「突いたのかい」
「後頭部を、余り鋭くない刄物で、なぐりつけたんだ、斧とかなたとかいう種類のものらしいのだ、そういう警察の鑑定なんだ」
「それじゃ兇器が、まだ見つからないのだね」
「妹が母親を起して、二人が声をそろえて、二階に寝ていた兄貴とおれを呼んだよ。うわずった、その声の調子で、おれは、親父の
「······それで、いつ頃だろう、実際兇行の演じられたのは」
「一時頃っていうんだよ」
「真夜中だね。で、嫌疑者というのは」
「親父をにくんでいたものは沢山ある。だが、殺す程もにくんでいたかどうか。
「しかし、おかしいね。夜中に、大勢家族のある所へ、忍び込むなんて、
「表の戸締りが開いていたのだ。かんぬきがかかっていなかったのだ、そして、そこから、庭へ通ずる
「足跡は」
「それは駄目だよ。このお天気で、地面がすっかりかわいているんだから」
「······君の所には、やとい
「いないよ······ア、では、君は、犯人は外部からはいったのではないと。······そんな、そんなことが、いくらなんでも、そんな恐ろしいことが。きっとあいつだよ。その親父になぐられた男だよ。労働者の、命知らずなら、危険なんか考えてやしないよ」
「それは分らないね、でも······」
「ああ君、もうこんな話は
「それじゃ、君は、お父さんを殺した者が、君の家族の
「君は、この間、犯人は外からはいったのではないという様な
「で、つまり、だれを
「兄貴だよ。おれにとっては血を分けた兄弟で、死んだ親父にとっては、真実の息子である、兄貴を疑っているのだ」
「嫌疑者は白状したのか」
「白状しないのみか、次から次へと、反証が現れて来るのだ。裁判所でも手こずっているというのだ。よく刑事がたずねて来ては、そんな話をして帰る。それが
「だが、君は少し神経が鋭敏になり過ぎてやしないのかい」
「神経だけの問題なら、おれはこんなに悩まされやしない。事実があるんだ。······この間は、そんなものが事件に関係を持っていようとは思わず、殆ど忘れていた位で、君にも話さなかったが、おれはあの朝、親父の
「だが、お父さんが、どうかしてそれを持っていられたという様な······」
「そんなことはない。親父は、
「······しかし、若しそれが兄さんのハンカチだったとしても、必ずしもお父さんの殺された時に落したものとは限るまい。前日に落したのかも知れない。もっと前から落ちていたのかも知れない」
「ところが、その庭は、一日おき位に、妹が綺麗に掃除することになっていて、ちょうど、事件の前日の夕方も、その掃除をしたのだ。それから、皆が寝るまで、兄貴が一度も庭へ下りなかったことも分っている」
「じゃ、そのハンカチを
「それは駄目だ。おれはその時だれにも見せないで、すぐ便所へほうり込んでしまった。何だかけがらわしい様な気がしたものだから。······だが、兄貴を疑う理由はそれだけじゃないんだよ。まだまだ色々な事実があるんだ。兄貴とおれとは、部屋が違うけれど、同じ二階に寝ているのだが、あの晩一時頃には、どういう訳だったかおれは寝床の中で目を覚していて、丁度その時、兄貴が階段を下りて行く音を聞いたのだ。当時は便所へ行ったのだろう位に思って、別段気にとめなかったが、それから階段を上る跫音を聞くまでには
「君に話しを聞いていると怖くなる。だが、そんなことはないだろう。まさか兄さんが······君は実際鋭敏過ぎるよ。取こし苦労だよ」
「いや、決してそうじゃない。おれの気のせいばかりではない。もし理由がなければだが、兄貴には、親父を殺すだけの、ちゃんと理由がある。兄貴が親父の為にどれ程苦しめられていたか、
「············」
「············」
「恐しいことだ、だが、まだ断定は出来ないね」
「だからね、おれは一層堪まらないのだ。どちらかに、たとえ悪い方にでも、きまって
「············」
「オイ、Sじゃないか。どこへ行くの」
「アア······別に······」
「馬鹿にしょうすいしているじゃないか。例のこと、まだ解決しないの?」
「ウン······」
「あんまり学校へ来ないものだから、今日はこれから、君の所をたずねようと思っていたのさ。どっかへ行く所かい」
「イヤ······そうでもない」
「じゃ、散歩っていう訳かい。それにしても、妙にフラフラしているじゃないか」
「············」
「丁度いい。その辺までつきあわないか。歩きながら話そう。······で、君はまだ何か
「おれはもう、どうしたらいいのか、考える力も何も、なくなってしまった。まるで地獄だ。家に居るのが恐しい······」
「まだ犯人がきまらないのだね。そして、やっぱり兄さんを疑っているの」
「もう、その話は止してくれ
「だって、一人でくよくよしてたってつまらないよ。話して見給え、僕にだってまたいい
「話せといっても、話せるような事柄じゃない。家中の者が、お互同志疑いあっているのだ。四人の者が一つ家にいて、口もきかないで、にらみあっているのだ。そして、たまに口をきけば、刑事か、裁判官のように、相手の秘密を、さぐり出そう、としているのだ。それが、みんな血を分けた肉親同志なんだ。そして、その内のだれか一人が、人殺し||親殺しか、夫殺し||なんだ」
「それはひどい。そんな馬鹿なことがあるものじゃない。きっと君はどうかしているんだ。神経衰弱の妄想かも知れない」
「イイヤ、決して妄想じゃない、そうであって呉れると助かるのだが」
「············」
「君が信じないのは無理もない。こんな地獄が、この世にあろうとは、たれにしたって想像も出来ないことだからな。おれ自身も、何だか悪夢にうなされているような気がする。このおれが、親殺しの嫌疑で、刑事に尾行されるなんて。······シッ、うしろを向いちゃいけない。すぐそこにいるんだ。この二三日、おれが外に出れば、きっとあとをつけている」
「······どうしたというのだ。君が嫌疑を受けているのだって?」
「おればかりじゃない。兄きでも妹でも、みんな尾行がつくのだ。家中が疑われているのだ。そして、家の中でもお互が疑いあっているのだ」
「そいつは······だが、そんな疑いあう様な新しい事情でも出来たのかい」
「確証というものは一つもない。ただ疑いなんだ。嫌疑者がみんな放免になってしまったのだ。あとには、家内の者でも疑う
「この間は、君はひどく兄さんを疑っていた様だが······」
「もっと低い声でいってくれ給え、うしろの奴に聞えるといけない。······ところが、その兄きは兄きで、たれかを疑っている。それがどうも、母親らしいのだ。兄きがさも何気ない風で、母親に聞いていたことがある。お母さん
「············」
「それ以来、おれは母親の一挙一動に注意する様になった。何という浅ましいことだろう。息子が母親を探偵するなんて。おれはまる二日の間というもの、蛇のように目を光らせて、隅の方から母親を監視していた。恐しいことだ。母親のそぶりは、どう考えて見てもおかしいのだ。何となくソワソワと落ちつかないのだ。君、この気持が想像出来るか。自分の母親が自分の親父を殺したかも知れないという疑い。それがどんなに恐しいものだか。······おれはよっぽど兄きに聞いて見ようかと思った。兄きはもっと外のことを知っているかも知れないのだから。だが、どうにも、そんなことを聞く気にはなれない。それに、兄きの方でも、何だかおれの質問を恐れでもするように、近頃はおれから逃げているのだ」
「何だか耳にふたしたい様な話しだ。聞いている僕がそうなんだから、話している君の方は、どんなにか不愉快だろう」
「不愉快という様な感じは、もう通り越して
「だが君、たしかお父さんの殺された場所には、兄さんのハンカチが落ちていたのではないか」
「そうだ。だから、まるきり兄きに対する疑いがはれた訳ではないのだ。それに、母親にしたって、疑っていいのか、どうか、はっきりは分らない。妙なことには、母親は母親で、また、たれかを疑っているのだ。まるで、いたちごっこだ。
「············」
「君、そこに何があったと思う。その方角には、若い杉の
「············」
「おれは、自分でそのほこらのうしろを探って見ようと思った。そして、昨日の夕方から今しがたまで、一生懸命にそのおりを待っていた。だが、どうしても機会がないのだ。第一母親の目が油断なくおれのあとを追っている。一寸便所へはいっても、用を済ませて出て来ると、ちゃんと母親が縁側へ出て、それとなく監視している。これはおれの
君も知っている通り、おれはよく学校を
それに、たとえ機会が与えられたとしても、
「············」
「つまらないことをいっている間に、妙な所へ来て
「············」
「おれはとうとう見た。例のほこらのうしろを見た······」
「何があった?」
「恐しいものが隠してあった。昨夜、皆の寝しずまるのを待って、おれは思い切って庭へ出た。下の縁側からは、母親と妹がすぐそばで寝ているので、とても出られない。そうかといって表口から廻るにも、彼等のまくら
おれは
「斧が?」
「うん、斧が」
「それを、君の妹さんが、そこへ隠しておいたというのか」
「そうとしか考えられない」
「でも、まさか妹さんが
「それは分らない。たれだって疑えば疑えるのだ。母親でも、兄でも、妹でも、またおれ自身でも、みんなが親父には恨を抱いていたのだ。そして、恐らくみんなが親父の死を願っていたのだ」
「君のいい方は、あんまりひどい。君や兄さんは
「それが、おれの場合は例外なんだ。ちっとも悲しくないんだ。母にしろ、兄にしろ、妹にしろ、たれ一人悲しんでやしないんだ。非常に恥しいことだが、実際だ。悲しむよりも恐れているのだ。自分達の肉親から、夫殺しなり親殺しなりの、重罪人を出さねばならぬことを恐れているのだ。外の事を考える余裕なんかはないのだ」
「その点は、本当に同情するけれど、······」
「だが、兇器は見つかったけれど、下手人がだれであるかは少しも分らない。やっぱり
「じゃ君は昨夜寝なかったのだね。道理で何だかこう
「おれは平気な顔をしている方がいいのかも知れない。妹が兇器を土に埋めた様に、この発見を、心の底へ埋めてしまった方がいいのかも知れない。だが、どうしても、そんな気になれないのだ。無論、世間に対しては絶対に秘密にしておかねばならぬけれど、少くともおれ丈けは、事の真相を知りたいのだ。知らねばどうしても安心が出来ないのだ。毎日毎日家中のものが、お
「今更いっても無駄だけれど、君は一体、そんな恐しい事柄を、他人のおれに
「君は構わない。君がおれを裏切ろうとは
「そうか、それならいいけれど。で、君はこれから、どうしようというのだい」
「分らない。何もかも分らない、妹自身が下手人かも知れない。それとも、母親か、兄きか、どっちかをかばう為に兇器を隠したのかも知れない。それから、分らないのは妹がおれを疑っている様なそぶりだ。どういう訳で、奴はおれを疑うのだろう。あいつの目つきを思い出すと、おれはゾーッとする。若い丈けに敏感な妹は、何かの空気を感じているのかも知れない」
「············」
「どうも、そうらしい。だが、それが何だか少しも分らないのだ。おれの心の奥の奥で、ブツブツブツブツつぶやいている奴がある。その声を聞くと不安で堪まらない。おれ自身には分らないけれど、妹丈けには何かが分っているのかも知れない」
「いよいよ君は変だ。なぞみたいなことをいっている。さっき君もいった通り、お父さんの殺されなすった時刻に、君自身がチャンと目をさましていたとすれば、そして、君の部屋に寝ていたとすれば、君が疑われる理由は少しだってないはずではないか」
「理窟ではそういうことになるね。だが、どうした訳か、おれは、兄や妹を疑う一方では、自分自身までが、妙に不安になり出した。全然父の死に関係がないとはいい切れない様な気がする。そんな気がどっかでする」
「どうした。何度見舞に行っても、あわないというものだから、随分心配した。気でも変になったのじゃないかと思ってね。ハハハハハ。だが、やせたもんだな。君の家の人も妙で、くわしいことを教えてくれなかったが、一体どこが悪かったのだい」
「フフフフフフ。まるでゆうれいみたいだろう。今日も鏡を見ていて恐しくなったよ。精神的の苦痛というものが、こうも人間をいたいたしくするものかと思ってね、おれはもう長くないよ。こうして君の家へ歩いて来るのがやっとだ。妙に体に力がなくて、まるで雲にでも乗っている様な気持だ」
「そして病名は?」
「何だかしらない。医者はいい加減のことをいっている。神経衰弱のひどいのだって。妙なせきが出るのだよ。ひょっとしたら肺病かも知れない。いやひょっとしたらじゃない。九分九厘そうだと思っている」
「お株を始めた。君の様に神経をやんでいたんではたまらないね。きっとまた例のお父さんの問題で考え過ぎたんだろう。あんなこと、もういい加減に忘れてしまったらどうだ」
「イヤ、あれはもういい。すっかり解決した。それについて、実は君の所へ報告に来た訳なんだが······」
「ああ、そうか。それはよかった。うっかり新聞も注意していなかったが、つまり犯人が分ったのだね」
「そうだよ。ところが、その犯人というのが、驚いちゃいけない、このおれだったのだよ」
「エッ、君がお父さんを殺したのだって。······君、もうその話は止そう。それよりも、どうだい、その辺をブラブラ散歩でもしようじゃないか。そして、もっと陽気な話をしようじゃないか」
「イヤ、イヤ、君、まあすわってくれたまえ。兎に角
「だって、君自身が親殺しの犯人だなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいことをいうからさ。そんなことは色々な事情を考え合せて、全然不可能じゃないか」
「不可能? 君はそう思うかい」
「そうだろう、お父さんの死なれた時間には君は自分の部屋の蒲団の中で、目をさましていたというじゃないか。一人の人間が、同時に二ヶ所にいるということは、どうしたって不可能じゃないか」
「それは不可能だね」
「じゃ、それでいいだろう。君が犯人であるはずはない」
「だが、部屋の中の蒲団の上に寝ていたって、戸外の人が殺せないとはきまらない。これは、一寸だれでも気付かない事だ、おれも最近まで、まるでそんなことは考えていなかった。ところが、つい二三日前の晩のことだ。ふっとそこへ気がついた。というのは、やっぱり親父の殺された時刻の一時頃だったがね、二階の窓の外で、いやに猫が騒ぐのだ。二匹の猫が長い間、まるで天地のひっくり返る様なひどい騒ぎをやっているんだ。あんまりやかましいので、窓を開けておっ払らうつもりで、おき上ったのだが、そのとたんハッと気づいた。人間の心理作用なんて、実に妙なものだね。非常に重大なことを、すっかり忘れて平気でいる。それがどうかした偶然の機会に、ふっとよみがえって来る、墓場の中からゆう
「それで、結局どうしたというのだ」
「まあ聞きたまえ。その時おれは、親父の殺された晩、一時頃に、なぜおれが目をさましていたかという理由を思出したのだ。今度の事件で、これが最も重大な点だ。一体おれは、一度寝ついたら朝まで目をさまさないたちだ。それが
「猫に何か関係でもあったのかい」
「まあ、あったんだ。ところで、君はフロイドのアンコンシャスというものを知っているかしら。兎も角、簡単に説明するとね、我々の心に絶えず起って来る慾望というものは、その大部分は
その一派の学説に『物忘れの説』というものがあるのだ。分り切ったことをふと忘れて、どうしても思い出せない、俗に
かつてある人が、スイッツルの神経学者ヘラグースという名を忘れて、どうしても思出せなかったが、数時間の後に偶然心にうかんで来た。日頃熟知している名前を、どうして忘れたのかと不思議に思って聯想の順序をたどって見た所、ヘラグース||ヘラバット・バット(浴場)||
また精神分析学者ジョオンスの実験談にこういうのがある。その人は煙草ずきだったが、こんなに煙草をのんではいけないなと思うと、そのしゅん
おれ自身も、実は飛んだことを胴忘れしていたんだ。親父を殺した下手人が、このおれであったということをね······」
「どうも、学問のある奴の妄想にはこまるね。世にも馬鹿馬鹿しい事柄を、さも
「まあまて、話をしまい
「いよいよ変だなあ。猫が松の木に飛びついたのが、死因の本筋とどんな関係があるんだい。どうも僕は心配だよ。君の正気がさ······」
「松の木というのは、君も知っているだろう。おれの家の目印になるような、あの馬鹿に
「じゃ、そこに斧がのっかっていたとでもいうのか」
「そうだ。
「だって、それじゃ偶然の変事という丈けで、別に君の罪でも何でもないではないか」
「ところが、その斧をのせておいたのが、このおれなんだ。そいつを、つい二三日前まで、すっかり忘れてしまっていたのだ。その点が
今年の春、松の枯れ枝を切る為に斧やのこぎりを持って、その上へ登った。枝に
そして、その石に腰をかけて休むのが親父の癖なのだ。おれは思わず知らず、親父を殺害することを考えていたんだ。ただ心の中で思ったばかりだけれど、おれは思わずハッと青くなったね。どんな悪い人間にしろ、仮りにも親を殺そうと考えるなんて、何という
「どうもむずかしくてよくわからないが、何だか故意に悪人になりたがっている様な気がするな」
「いや。そうじゃない。若し君がフロイドの説を知っていたら決してそんな事は云わないだろう。第一、斧のことを半年の間も、どうして忘れ切っていたか。現に血のついた同じ斧を目撃さえしているじゃないか。これは普通の人間としてあり得ないことだ。第二に、何故、そんな場所へ、しかも危いことを知りながら、斧を忘れて来たか。第三に、何故、殊更にその危い場所をえらんで斧をおいたか。三つの不自然なことがそろっている。これでも悪意がなかったといえるだろうか。ただ忘却していたという丈けで、その悪意が帳消しになるだろうか」
「それで、君はこれからどうしようというのだ」
「無論自首して出るつもりだ」
「それもよかろう。だが、どんな裁判官だって、君を有罪にするはずはあるまい。その点はまあ安心だけれど。で、この間から、君のいっていた、色々な証拠物はどうなったのだい。ハンカチだとか、お母さんの櫛だとか」
「ハンカチはおれ自身の物だった。松の枝を切る時に、斧の柄にまきつけたのを、そのままおき忘れた。それがあの晩斧と一緒に落ちたのだ。櫛は、はっきりしたことは分らないけれど、多分、母親が最初親父の死体を見つけた時に落したのだろう。それを兄貴がかばいだてに隠してやったものに相違ない」
「それから妹さんが斧を隠したのは」
「妹が最初の発見者だったから、十分隠すひまがあったのだ。一目で自分の家の斧だと分ったので、きっと家内のだれかが下手人だと思い込み、兎も角、第一の証拠物を隠す気になったのだろう。一寸気転の利く娘だからね。それから、刑事の家宅捜索などがはじまったので、並の隠し場所では安心が出来なくなり、例のほこらの裏を選んで隠しかえたものに相違ない」
「家内中の者を疑った末、結局、犯人は自分だということがわかった訳だね。
「その馬鹿馬鹿しい思違いだ。それが恐しいのだ。ほんとうに喜劇だ。だが、喜劇と見える程間が抜けている所が、単純な物忘れなどでない証拠なんだ」
「いって見れば、そんなものかも知れない。しかし、おれは、君の告白を悲しむというよりも、数日の疑雲がはれたことを祝い度い様な気がしているよ」
「その点は、おれもせいせいした。皆が疑い合ったのは、実はかばい合っていたので、だれもあんな親父をさえ殺す程の悪人はいなかったのだ。そろいもそろって無類の善人ばかりだった。その中で、たった一人の悪人は、皆を疑っていたこのおれだ。その疑惑の心の強い点だけでも、おれは正に悪党だった」