江戸八百八町が、たった四
「わッ、たまらねえ、何処かこう
一陣の
「あッ、待ちなよ、そのなりで家の中へ入られちゃたまらない||大丈夫、鬢の毛も顎の先も別条はねえ、
平次は乾いた手拭を持って来て、ザッと八五郎の身体を拭かせ、お静が持って来た
全く焦げ付きそうな
「驚きましたよ、あっしはもうやられるものと思い込んで、四つん
「間抜けだからな、自分の臍を覗いて見る格好なんてものは、色気のある図じゃないぜ、第一お前の出臍なんか抜いたって、使い物にならないとよ、味噌が利き過ぎて居るから」
掛け合い話の馬鹿々々しさに、お静はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱えて笑いを殺して居ます。
いいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるような雨だけが、未練がましく町の屋並を掃いて去るのでした。
「それにしても大変なことでしたね、御存じの通り、あっしは雷鳴様は嫌いでしょう」
「|雷鳴は鳴る時にだけ
「散々見られましたよ、何しろ明日の神田祭だ、宵宮の今晩から、華々しくやる積りの踊り舞台にポツリ/\と降って来た夕立の走りを避けて居ると、あの江戸
「江戸
「兎も角も、そのでっかいのが、グヮラグヮラドシンと来ると、舞台に居た六、七人の踊り子が、||ワッ怖いッ||てんで、皆んなあっしの首っ玉にブラ下ったんだから
「罰の当った野郎だ」
「そのまま鳴り続けてくれたら、あっしは三年も我慢する気で居ましたよ、||ところが続いてあの大夕立でしょう、ブチまけるようにどっと来ると、女の子はあっしの首っ玉より自分の衣裳の方が大事だから、チリ/\バラ/\になっては近所の家へ飛込んでしまいましたよ、一人位はあっしと一緒に濡れる覚悟のがあってもいいと思いますがね」
「
「空っぽの舞台で、大の男が濡れ鼠になるのも気がきかねえから、川越をする気分で、雨の中を掻きわけ/\、四つん這いになって此処まで辿りつきましたよ」
「何が面白くて、空模様に構わず、手踊りの舞台にねばって居たんだ」
「六、七人の女の子が、いきなりあっしの首っ玉に噛り付きそうな空合でしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があったんですよ、女と女の
「それは手踊り番組か」
「なァに、実は小唄の師匠のお組と、踊りの師匠のお園の掴み合いで、いやその激しいということは、親分にも見せ度い位のものでしたよ、あっしも女と女の命がけの喧嘩というのを、生れて始めて見たが||」
「そいつも江戸
「飛んでもない、あんなのは神武以来ですよ、最初はネチ/\といや味の言い合いから、だんだん
「何んだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ、
八五郎の説明は、面白可笑しく手振りが入るのです。
「そんな大喧嘩始めるには、深いワケがあるだろう、言葉の行き違いと言った、手軽なことじゃあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ、食物の怨みや酒の上じゃ、あんなにまで耻も外聞も忘れて、引っ掻いたり噛み付いたり、命がけで揉み合えるものじゃありません」
「男のことか」
「図星、さすがは銭形の親分」
「馬鹿にしちゃいけねえ」
「
「で?」
八五郎の話術に引入れられて、平次も少しばかり興が動いたようです。
「それからグヮラ/\ドシンの、六、七人あっしの首っ玉に噛り付いて匂わせの、大夕立と来たわけで、敵も味方も何処へ散ったか、あとは四つん這いの、借着の
こんな調子で筋を売る八五郎でした。
昔の江戸は、非常に
電気事業の発達は、雷鳴や夕立を非常に少なくしたことは、敢て故老を
その雷鳴や夕立は、どんなに一般人の恐怖と尊崇の的であったか、宝井其角が「
八五郎が踊り舞台の女の喧嘩の話を、面白可笑しく続けて居るうちに、大夕立も漸く
「あれ、八五郎さん、まだお帰りじゃないでしょうね、今お燗が付いたばかりですのに」
モゾ/\と腰をあげかける八五郎に、お静は声を掛けました。
「ヘェ、一杯御馳走して下さるんですか」
「不思議そうな顔をするなよ、俺のところだって年中粉煙草ばかりが御馳走じゃない||明日は年に一度の明神様のお祭だ」
平次は盃を挙げました。大きい膳に並べた料理は、ひどく貧乏臭いものですが、お静の心尽しが隅々まで行亘って、妙にこうホカ/\とした暖かいものを感じさせるのです。
「明神様の宵祭か||一升提げて来るんでしたな、親分」
八五郎は鼻水を横なぐりに拭いて、盃を頂くのです。この涙もろい男は、どうかしたらもう湿っぽくなって居るのかも知れません。
でも、二つ三つ傾けると、陶然として、天下泰平になる八五郎です。
「親分、ちょいと来て下さい」
入口の格子を叩いたのは、顔見知りの隣町の指物職人というよりは、小
「何んだ、何があったんだ」
平次は盃を置いて中腰になって居ります。小三郎の隠やかな調子のうちには、ガラ八の「大変」以上の緊迫したものを感じさせるのです。
「横町の師匠がやられましたよ」
「横町の師匠?」
此辺は師匠だらけ、生花、茶の湯から、手踊り、小唄、琴、三味線、尺八まで軒を並べて居るので、平次も
「踊りの師匠||江戸屋園吉のお園さんで」
「お園さんが殺された?」
八五郎は横から口を出しました、少しホロリと来て居ります。
「そうなんです、親分」
「お園が||?
「気が立っていて、首でも縊りそうな見幕だったそうです」
「兎も角、行って見ることだ」
平次は手早く支度をすると、夕立の上ったばかりの街へ、足駄のまま飛出しました。それに続いたのは、借着のままの八五郎と、投げ節の小三郎。
明日の神田祭を控えて、九月十四日の明神下||御台所町、同朋町から金沢町へかけては、全く
日枝神社の山王祭と共に、御用祭又は天下祭と言われ、隔年に行われたこの威儀は、氏子中の町々を興奮の
前夜の宵宮も、一種の情緒を持った賑わいで、江戸で無ければならぬ面白さでしたが、その日は
「此処ですよ」
小三郎はお園の家へ案内し、格子の前で立ち淀みました。中は内弟子と近所の衆で、何やら取留めもなく騒いで居ります。
入口の格子の横手は少しばかりの空地で其処には小唄の師匠、坂東久美治こと、お組の舞台が掛けてあり、大夕立に叩かれて、見る影もなく
「御免よ」
平次と八五郎は、その中へ入りました。
「ま、親分さん方」
出迎えたのは五十五、六の老母、それは殺されたお園の養い親で、お
「師匠ら||気の毒だったね」
「親分、どうしましょう、私はもう木から落ちた猿で」
お槇は日頃の因業さをかなぐり捨てて、ひどく打ち
たった三間の小さい家、その一番奥の六畳に、殺された師匠のお園が、血だらけの死体を横たえて居るのでした。
平次と八五郎の姿を見ると、弟子達も近所の衆も、遠慮して縁側に立去り、凄惨な死の姿が、覆うところもなく二人の眼に
「こいつはひどい」
八五郎は音をあげました。
股や裾は、母親の手で僅かに隠されましたが、床を敷いて
死顔は、さしたる苦悩もなく、お園の美しさは、血の洗礼も奪う由はありません。引締ったクリーム色の肌、美しい生え際、大きい眼は見開いて居りますが、それは極めて無心な死の苦悩の無いもので、ほのかに開いた唇から、真珠色の白い歯の見えるのも、妙な
胸は少しはだけて、乳のふくらみはほの見えるのも、踏みはだけたらしい股に、血潮に染んで大きい掌の跡らしいものの残るのも、下手人の性格を暗示して居るようで歪んだ
「師匠が一人で居たのか」
あれほどの殺しを||いかに大夕立の中と言っても、隣の部屋の者が知らない筈はありません。
「大変な見幕でした、あんまり怖いので、お弟子さん方も帰ってしまい、私もお隣の菓子屋さんへ行って、夕立の止むまで無駄話をして居りました。外の雷鳴より、内の雷鳴の方が怖かったんです」
母親のお槇は言うのです、口辺に漂う苦笑を、あわてて掻き消して、精一杯の真剣な顔になるのは、かなりの
お園の美しさと、その激しいヒステリーの発作のことは、平次も聴かないではありませんが、小唄の師匠のお組と掴み合いの喧嘩をした後の
「縁側は開いて居たんだね」
平次は重ねて訊きました。
「あの
腹を立てると起きては居られない女||その激しいヒステリー性の怒りの発作が、この女を殺させる原因になったのかもしれません。「刃物は?」
平次は四方を見廻しました。其処には此女を突殺したような、鋭利な刃物などは転がって居そうもありません。
「雨が止んでから、御近所の子供衆がこれを拾って来ました、庭に捨ててあったんだそうです」
母親は四つ折の手拭に畳み込んだ
手に取って見ると、よく光っては居りますが、泥と夕立に洗われながらも、血脂のべッとり浮いた、刃渡り六、七寸の、凄い匕首です。
「こいつは誰のだ。持主はわかって居るだろう」
平次は物の気配に後ろを振り向きました。其処には、平次と一緒に来た「投げ節の小三郎」が、真っ蒼になって突っ立って居るのです。「||」
「お前のだろう」
「先刻踊り舞台の楽屋へ忘れて来たんです||あっしじゃありませんよ、師匠を殺したのは」
小三郎は、
「親分、妙なものが来ましたぜ」
八五郎が
「誰だえ?」
「喧嘩の相手、小唄の師匠のお組が、お悔みに来たんだから大変でしょう」
八五郎は存分に面白そうです。この男の守り本尊の
「町内附き合いだもの、お悔みにも来るだろうよ」
平次は大して気もしない様子ですが、入口の方では、ヒソ/\と声を忍ばせながらも風雲の唯ならぬものを感じさせます。
「でも、お前さんからお悔みを言って貰う筋合はありませんよ」
それは母親のお槇の声でした。
「私は悪うございました、師匠とつまらない喧嘩なんかして。でも、元々つまらないことなんで、日頃仲の良かった師匠が死んだと聞くと、じっとしては居られなかったんですもの、せめて、仏様の前で、一と言詫を言わして下さいな、おっ母さん」
お組の声はすっかり
「おっ母さんなんて、言って貰い度かァありませんよ、
「でも」
「さァ、帰って下さい、大夕立が来なきゃ、舞台の上で、お前さんが掴み殺したかも知れないじゃないか」
母親のお槇は、頑として関所を据えるのです。
「八、放って置くと、又何が始まるかわからない、お前が口をきいて、お組師匠を隣の部屋まで通して貰うがいい」
平次は見兼ねて仲裁案を出しました。それから一と揉みの後、八五郎のとぼけた調子が、どうにか母親を
「師匠、大層な萎れようだね」
平次は近々と膝を寄せました。
「でも、私と喧嘩をして、間もなく死んだと聴いて、私はもう、居ても起ってもいられなかったんですもの」
お組は顔を挙げました、
殺されたお園より一つ二つ若くて、三十前後と聴きましたが、磨き抜かれた肌の美しさや、よく整った顔立は、どう見ても二十四、五としか見えず、お園のややブロークンな道具立の魅力に比べて、それは端正な古典的な美しさとでも言えるでしょう。
「何んだって又、女だてらに掴み合いの喧嘩なんかしたんだ」
平次は静かに言い進みました。
「お隣の空地へ、踊り舞台を
「それっ切りか」
「あとは、髪へさわったとか、変な眼で見たとか、||女同士の喧嘩の種は、殿方にはわかりゃしません」
お組はさり気なく言って、ほろ苦く笑うのです。
「
八五郎は横合から口を出しました。相手が何人であろうと、これを言わずには居られない八五郎です。
「飛んでもない、八五郎親分」
「いや、平野屋の若旦那を
「一頃は、そんなこともありました。でも近頃平野屋の若旦那は、
「平野屋の若旦那と仲の良いのは私の方で、そんなことで殺されるなら私の方が殺されなきゃなりません」
お組はこうはっきり言い切るのです。
「それに||」
お組は尚おも続けました。
「私は雷鳴が大嫌いで、鳴り出すともう生きた空もありません、家へ帰ると雨戸を締め切って
お組はそう言って、自分の雷鳴嫌いを証明してくれる相手を捜すように、そっと四方を見ました。
「気が悪いぜ師匠、誰もお前さんが、お園師匠を殺したとは言やしない」
平次はさり気ない調子でした。
「それで安心しましたよ、嘘だと思うなら、私の家へ行って訊いて見て下さい。あの大夕立の間、私はもう死んだもののようになって寝て居たんですもの」
「お前の家というのは、此処からは遠い筈じゃないか、よく濡れずに駆けて行ったことだな」
「表から廻れば遠いようでも、路地を抜けて、
お組の報告は詳し過ぎます。
「ところで、師匠には心当りがあるだろう、お園を怨んで居る者は誰だ」
「第一番は投げ節の親分」
お組はそっと四方を見ました。
「それから?」
「御浪人の阿星右太五郎様」
「お園を追い廻して居るという噂があったな」
「平野屋の若旦那は、お園さんを怨んでは居ないが、邪魔にはして居ましたよ。もっとも許嫁のお夏さんは、心から怨んで居たようで」
「そんな事かな」
「お新さんだって、お円さんだって、お園さんを怨んで居ないとは限りません、町内の若い男を皆んな手なづけて、狼の遠吠みたいな声を出させるんですもの」
お組はチラリと
「何んだとえ、狼の遠吠で悪かったね、そう言うお前こそ、
母親のお槇は我慢のならぬ顔を次の間から覗かせるのです。
「もういい、仏様の前だ、お互に喧嘩はたしなむことだ」
平次はもう一度、この女同士||老いたると若いのとの喧嘩を引分けなければならなかったのです。
「親分」
何処かを
「何んだ、八」
「変なことを聴込みましたよ」
「?」
「あの大夕立の真っ最中に、平野屋の若旦那の金之助が、お園に逢いに来たらしく、濡れ鼠になって、此処から帰って行ったのを見た者がありますよ」
「そいつは手掛りだ、一寸平野屋まで行って見よう」
「あっしも」
「待ちなよ、お前には用事がある」
平次は八五郎の耳へ、何やら囁きました。
「成る程そいつは良い考えだ」
八五郎は話を半分聴いて飛んで行きます。
「師匠、折角此処へ来たんだ、お袋と仲直りをした上、暫く手伝って、仏様の始末をして行くがいい、あのままじゃ通夜もなるめえ」
平次は隣の部屋の死体を痛々しく振り返るのでした。
「私もその積りで参りました、おっ母さんさえ承知して下されば」
お組はいそ/\と立上りました。生前の深酷な恋敵、ツイ先刻掴み合いの喧嘩までした仲ですが、生死境を隔てると、昔の昔の、幼な友達のお組とお園になるのでしょう。血に塗れた死骸の側に膝をついて、ツイ涙に暮れるお組を見極めると、平次はもう次の活動の舞台へ踏出して居りました。
「あれは?」
夕明りの中にしょんぼり立っている十七、八の娘、町の一角を、ほの/″\と明るくしたような、それは言うに言われぬ可憐な姿でした。
「お園の内弟子で、お菊という娘ですよ、ちょいと良いでしょう親分」
八五郎は小戻りして教えてくれます。こと
「お前はお組の家へ行ってくれ、急ぐんだ、あの女が帰る前に||」
平次は家の中に居るお組に気を兼ねて、八五郎の道草をたしなめます。
「お菊坊の口を開けさせることなら、あっしの方が心得てますよ、親分」
「わかったよ||俺は
「ヘェ」
八五郎が未練らしく姿を隠すと、平次は改めてお菊の前へ||精一杯さり気ない顔で立ちました。
「お前にちょいと
お菊は顔を挙げました。隣町に住んで居て、銭形平次の顔も知って居り、その評判も心得て居りますが、名ある御用聞にこう声を掛けられると、十八娘の心臓が高鳴るらしく、道具の
この臆病らしい小娘から、筋の通った話を引出すのは、平次にしても容易ならぬ手数でしたが、でも、
「そのうちで、師匠が一番好きだったのは誰だえ?」
「若旦那の金之助さんでしょうか知ら、||小三郎さんはよくいらっしゃるけれど、嫌われてばかり、帰ると塩を撒いて掃き出すんですもの」
などとお菊は可笑しがるのです。
「御浪人の阿星右太五郎様は、もう四十過ぎの年配じゃないか」
隣町に住んでいる
「あの阿星右太五郎様の一人息子の右之助様は、師匠と良い仲だと言われて居りましたが、今年の春お勤めの不首尾とやらで、甲府で腹を切ったとか聞いて居ります。師匠もそれを話しては気の毒がって居りましたが」
平次もそれは薄々聴かないではありませんでしたが、お菊の口から改めて聴かされると、お園の死と何んかしら、一脈の関係がありそうにも思えるのです。
「お前はあの
「お向うの店先に雨宿りをして居ました。お師匠さんが怖かったんですもの、||大変な見幕で」
お組と掴み合いの喧嘩をした後の紛々たる忿怒は、全く雷鳴以上の怖ろしいものがあったに違いありません。
「お向うの唐物屋の店先から、お師匠さんの家はよく見えるわけだな」
「表の格子のところはよく見えます」
「誰か来たことだろうと思うが||」
「阿星右太五郎様が格子を開けかけましたが、思い直した様子で、木戸をあけて裏へ廻り、暫くして出て来ました||まだ雨が降る前で、ひどく雷鳴が鳴って居ました」
「傘はさして居たのか」
「お師匠さんの家を出るとザーッと降って来たので、阿星さんは傘をさして、大急ぎで帰った様子です」
「それから」
「若旦那の金之助さんが、格子から入って暫くして出て来ました。これは傘も何んにも無く、ひどい風をして、濡れ鼠になって帰って行きました」
「それっ切りか」
「三人目は小三郎さんで||これは雨が小止みになってから、格子の中へ入ったと思うと、大きな声を立てて、気違いのようになって出て来ました。お師匠さんが殺されているのを見て、びっくりしたんですって」
お菊は表情的な眼を大きく開いて、びっくりして見せるのです。
「唐物屋の店に、その時誰も居なかったのか」
「大変な嵐でした。雷鳴と稲妻と、雨と風と、||家中の人は皆んな奥へ引込んで、
「外に何んにも見えなかったのか」
「雨がひどかったんですもの、でも、どしゃ降りの中で||」
お菊の眼は、空を仰ぐように、
「何があったんだ」
「私の眼の迷いかも知れないんですもの」
お菊はぞっと自分の胸を掻い抱くように、それっ切り口を
「どんなものを見たんだ」
「||」
平次は重ねて訊きました。が、娘の閉じた口を開かせることは、平次の知恵でも、十手
「変だと思うことがあったら、そっと俺に話してくれ、今でなくてもいい、明日でも、明後日でも、気が向いたら」
「それにお前は、何んだってこんなところに立っているんだ」
若い娘が、何時までも門口に立っている不自然さに平次は気が付きました。
「だって、私、
十八娘のデリケートな神経は、血だらけな死骸に
平次は其処から直ぐ、金沢町の平野屋へ行ったことは言うまでもありません。今までに調べたところでは、お園を殺し得る機会を持った者は、浪人阿星右太五郎でなければ、平野屋の若旦那金之助でなければ、投げ節の小三郎の
平野屋は地主で家作持で、
どちらも、金が目当てだったことは言う迄もありませんが、それでも、お園とお組が、掴み合いの
色白で、
母親のお早は持て余したあげく、親類中での褒めものの娘、お夏という十九になるのを娘分にして貰い受け、
お夏は可憐で楚々として、充分に美しい娘でしたが、性根もなか/\に
「若旦那は居るかえ」
平次が店からヌッと入ると、出逢い頭の可愛らしい娘が、ヒラリと奥へ姿を隠してしまいました。金之助の
「おや、銭形の親分。まァ、どうぞ」
などと、お夏と入れ替りに出て来た、若旦那金之助は如才がありません。
「あっしの用向はお察しだろうが、ね、若旦那」
隣町附き合いで、十手捕縄の手前はあるにしても、平次にも少しは遠慮があります。
「ヘェ」
「お前さんは、あの大雨の中で、ズブ濡れになって、お園の家へ行き、間もなく雨の中へ飛出したということだが||」
「其処ですよ、銭形の親分||乾いたものと着換えて、さて落着いて考えて見ると、黙って居た私が悪かったと思います。矢張りこれは、銭形の親分にでも申上げて、良い知恵を拝借するのが本当だった||と漸く
「それは? どういうわけで?」
「私は、お園の死骸を見て、驚いて飛出したのですよ」
平次は黙って先を促しました。何も彼も見通して居るような態度です。
「始めから順序を立てて申しましょう||私はあの時明神様へ行って居りました。空模様が怪しくなったので、大急ぎで帰ろうとすると、鳥居をくぐった頃からもうどしゃ降りで、お台所町へ[#「お台所町へ」は底本では「お墓所町へ」]降りた時は、先の見通しもつかない程の大雨です。その上にあの大雷鳴ですから、日頃雷鳴嫌いのお園がどうして居ることか、ぐしょ濡れの姿ですが、雨宿りかた/″\覗いて見る気になりました」
「||」
平次は黙って先を促します。
「声を掛けても返事は無いし、少し心配になりましたので、ザッと入口の雑巾で足を拭いて、濡れてボト/\雫の垂れるまま、奥へ入って見ると||」
「||」
金之助はその時の凄まじさを思い出したらしく、ゴクリと
「お園は血だらけになって死んで居るじゃありませんか。その時はもう夢中で、息が通っているかどうか、見定める暇もありません。薄情なようですが、追っ駆けられるような心持で、大雨の中に飛出し、無我夢中で家に戻りましたが」
「お園の寝て居るのを、部屋の外から覗いたのだね」
「そうなんです。唐紙を開けると、たった一と眼であの姿が見えました」
「部屋へも入らず、向う側の||雨戸の開いて居た縁側へも廻らなかったことだろうな」
「それどころではございません。一と眼見て、四つん這いになるようにして、元の入口へ戻りました」
「どうしてそれを今まで人に話さなかったんだ」
「私は怖かったんですよ、親分」
若旦那金之助はその時の事を思い出すと、歯の根も合わない心持になるのでした。
「
裏と表の二つの足跡は、部屋の入口から死骸のところまで縁が切れて居る。お前さんは表から入って表から出たことは、見て居た者があって確かだから、お園を殺したのは、外の者ということになるのだ。畳の上をひどく濡らした足跡が、お前さんの命を救ってくれたよ、若旦那」
平次は自分へ言い聴かせるように、こう言い切るのでした。
「私の言うことに間違いはありません、ね、親分、もう一度行ってみて下さいな」
若旦那金之助は重荷をおろした心持でひどくはしゃぐのです。
「いや、そんな事に見落しがあるものか||一応は見て置いたが、いずれ乾くまでには間があるだろう。もう一度誰かに見せて置くとしようよ。ところで||その時、裏の縁側の方に何んにも見えなかったのかな」
「あわてて居たんで、何んにも見ませんよ。でも、庇のあたりに、チラリとしたものを見たような気もしますが||」
それはしかし、はなはだ頼りない証拠です。取込み忘れた
「ところで、若旦那は、お園とお組と、二人の師匠にチヤホヤされて居たということだが||」
「面目次第もございません」
「今でも何んか、あの二人に引っ掛りがあったのかな」
「私はもう、あんな女達に掛り合うのを
「それが、どうしてお園のところへ寄る気になったのだ」
「雨宿りで、場所の選り嫌いは言って居られませんでした。それに、お園は恐ろしく雷鳴が嫌いだったので、フト覗いてやろうという気になったのです」
「お組は?」
「あれは、雷鳴を好きでは無かったにしてもお園ほどは怖がらなかったようで」
「すると、若旦那は、あの二人の女と手を切って居たのか」
「いえ、改めて手を切るとなると、又一騒ぎですから、別にそう言ったわけではありません」
蛇の半殺しで、愚図々々に二人女から遠ざかって良い子になろうという金之助の態度に潔癖な平次は、
遊びくたびれた若旦那の金之助は、二人の年増女に遠ざかって、あの新鮮で清潔で、馥郁たる魅力の持主||お夏に興味を持っていることは事実で、二人の師匠が、鞘当筋で喧嘩をしたとしたら、金之助にとって、それはまことに、迷惑千万なことだったに違いありません。
平次は平野屋を切上げて、店口から出ようとして、何心なく振り返りました。
次は、同じ金沢町の浪人、阿星右太五郎の家へ||と思いましたが、フト八五郎のことが気になって、もう一度お台所町に[#「お台所町に」は底本では「お墓所町に」]引返して、お組の家を覗いて見る気になりました。
お園の家とは隣路地の背中合せで、急造の舞台はその間に挟まって空地を
「ブル/\畜生奴、ひどい事をしやがる」
飛出して来た八五郎と、鉢合せしたようにハタと逢いました。
「どうした、八」
「どうもこうもありゃしませんよ、この通り」
八五郎の
「夕立は
「水をブッ掛けられたんですよ。飛んでもねえ女だ。犬がつるんだんじゃねえやい」
「其処で
「親分の言い付けられた通り、お組の留守を狙ってあの家へ忍び込んで見ましたよ。あの女の家の中に、夕立でズブ濡れになった着物があれば、先ず間違いもなく、お園殺しの下手人だ。ツイ夕立の来る前まで、お園と掴み合いをした女だ。それ位の事はあるに違えねえと思ったが||」
「あったか」
「ありませんよ、濡れた
「そいつは大笑えだ」
「笑い事じゃありませんよ、頭から水をブッ掛けられて御覧なさい」
「怒るな、八||それからどうした」
「あっしと気がつくと||あら八五郎親分、
「でも、お組の家に、濡れた着物が一枚も無いとわかれば、それでいいのだよ。あの大夕立の中で、お園を殺して逃げた者は、間違いもなくズブ濡れになって居る筈だ」
「もっとも、
「それ位のことはあるだろう」
「あの
などと、又他愛も無い掛け合いになりそうです。
「ところで、喧嘩の後でお組は、何処を通って自分の家へ帰ったんだ」
「あの女が言ってる通り、路地の突当りの木戸を開けて、
八五郎の答は水も漏らしません。
八五郎の肩の濡れは、立ち話のうちに大分乾いてしまいました。
二人は予定の順序を踏んで、もう一度金沢町に取って返し、浪人者、阿星右太五郎の家を訪ねたのです。
「銭形の親分か||いや
有徳の浪人阿星右太五郎は、ひどく心得顔に、平次と八五郎を迎えたのです。
何処でどう金を溜めたのか、阿星右太五郎はなか/\の富を貯え、高い利子でそれを運用して、気楽な生活をしている浪人でしたが、そんな蓄財癖が、この人を浪人にさしたのだという噂も、決して火の無いところの煙では無さそうです。
四十五、六||充分に円熟した肉体と知恵の持主らしく、如才ないくせに、いかにももっともらしい阿星右太五郎でした。
「打ち開けてお話し下さいますか、阿星様」
平次はひどく
「それはもう銭形の親分、あの女が死んでしまえば、誰
「何を
「私は||何を隠そう、あの女を殺そうと思って居たのだよ」
「え?」
それは実に、銭形平次も予期しない言葉でした。後ろで聴いている八五郎の口が、拳固が一つ丸ごと入る位、ポカリと大きく開いたほどです。
「驚くだろう、銭形の親分、||口惜しいことに、誰かが先を潜って、あの女を殺してしまった||私はこんな手持無沙汰な心持になったことは無い」
阿星右太五郎はこんな途方もないことを、
「それはまた、どういうわけです、阿星様」
「聴いてくれ、私には、たった一人の
「||」
「どうせ株を買った御家人だから、最初から良い役付を狙うわけに行かない。閑職の甲府勤番になるのも、出世の
「||」
「が、
「お気の毒な」
平次もツイこう言わなければならなかったのです。此上もなく
「父親の私に打ちあけてくれさえすれば、それは一応は小言を申したかも知れぬが、
「||」
「千万無量の怨みを包んで、私があの女に接近したのは、折を見て一刀の下に斬り捨てようため||だが、折はあっても、
浪人阿星右太五郎の述懐は、想像も及ばぬ奇怪なものでしたが、その真実性は、顔にも涙にも溢れるのでした。
いや、そればかりでなく、隣の部屋で
阿星右太五郎が雨の寸前にお園の家を覗いたのは事実ですが、腹立ち紛れに横になって居るお園は、右太五郎が縁側から声をかけても、返事もしなかったので、そのまま帰ったという言葉に、恐らくは嘘は無かったでしょう。
「あ、親分、た、大変ですぜ」
竹の木戸につかまって、八五郎は張上げるのです。
「何んだえ、相変らず騒々しい野郎だ」
「殺されましたよ、あの綺麗なのが||」
「誰だえ」
「お菊ですよ、お園の内弟子、あの可愛らしい娘が、昨夜のお通夜の後で、路地の奥で絞め殺されて居るのを、今朝早く見付けて大騒ぎになり、あっしが見張らせて置いた下っ引の忠吉が飛んで来て教えてくれましたよ」
「成程、それは大変だ」
「ね、親分、こいつが大変で無かった日にゃ」
「よし、わかった」
平次は猿屋の揚子を井戸の柱に突っ立てると、仕度もそこ/\、朝飯のことばかり心配するお静の声を
「寄るな/\見せ物じゃねえ、あんまり見て居ると眼が潰れるぞ」
下っ引の忠吉が精一杯骨を折って、野次馬を追っ払っている中へ、平次と八五郎が飛込んだのです。
野次馬が容易に動かないのも無理のないことでした。若くて可愛らしいお菊の死は痛々しくも色っぽく、眼にしみるようなものを感じさせたのです。
「可哀想に、何んか掛けてやりゃいいのに」
平次は死骸に近づくと、大手を拡げて、多勢の眼から、それを
露の深い路地、下水に半分身を落して、乙女の身体は斜に歪み、
首に巻いたのは、真新しい手拭、顔は痛々しく苦悩に歪んで、その端正さを失いましたが、それがまた一つの破壊された美しさで、野次馬の同情と好奇心をかき立てるのでした。
「八、此処に置くまでもあるめえ、家の中へ入れてやろう、手を借せ」
平次は膝を折って、娘の首にそっと腕を廻しました。
お菊の死骸は家の中へ
「親分、憎いじゃありませんか、こんな小娘に、怨みがある筈は無いのに||」
「お菊は何んか知って居たに違いないよ、昨日の夕方、此家の入口で俺と逢った時、何んか言いかけて急に口を
「すると、この娘を殺したのは、お園を殺した人間の仕業ですね」
「先ず、そうきめて間違いはあるまいよ」
平次の胸の中には、次第に下手人の仮想図が、はっきり浮んで来る様子です。
「ところで、親分、お菊を
「その小三郎が
「ヘェ」
八五郎は飛んで行くと、平次は其辺に居る者一人一人をつかまえて、昨夜のお通夜の模様を念入に調べ始めました。
「
お園の母親のお
「小三郎は?」
「何んか御用があるとかで、そわ/\して居りましたが、
「その小三郎の
「若旦那の金之助さんと、それからお組さんの間に
「あの手拭を持っていたのに気が付いたことだろうな」
「柄の変った手拭で、誰でも気が付きます」
大きく「鎌」と[輪」と「ぬ」の字を染め抜いた手拭、それはひどく意気な
「その手拭を、小三郎は持って帰ったことだろうな」
「いえ、忘れて帰りました。座布団の
母親がこれだけでも記憶して居たのは見付けものでした。が、その上り
「それから?」
平次は糸をたぐるように、静かにその後を促します。
「小三郎さんが帰ったのは一番先で、それから皆さんが帰り、若旦那の金之助さんと、小唄の師匠のお組さんが一番後まで残りましたが、それも帰ってしまったのは、
母親のお槇は思いの外記憶もよく、時間と事件の関係など、極めて要領よく話してくれます。
もっとも年の頃もまだ四十七、八、昔は芳町あたりで嬌名を馳せたことがあると言われ、お園が踊りの師匠として一本立ちになってからは、その蔭に隠れて、お園の成功に大きな役目を果して居た母親だったのです。
近所附き合いで、お組もお園も平次はよく知って居りますが、今から五、六年前までは、この土地では先輩のお組は手踊りの師匠として鳴らし、多勢の弟子も取って居りましたが、お園が此処へ移り住んで、同じ手踊りの師匠として看板をあげると、お組はその競争を避けて、二枚看板の小唄の方に重点を置き、両虎互に傷つかずに、二年三年と過して来た仲でした。
そんな内部工作は、お園の母親のお槇の賢さから産み出されたもので、娘に死なれた大きな悲しみと落胆の中でも、こう冷静に物事を整理して行く、老女の聡明さは、どんなに平次の探索を助けてくれたかわかりません。
「ところで、銭形の親分さん」
「何んだえ、おっ母さん」
お槇は
「お菊は昨日、銭形の親分のことばかり申して居りましたよ」
「?」
相手は十七、八の女の子、恋でも物好きでも無い筈とわかっているだけに、平次は変な気持になりました。
「お菊は、
「||」
「きっと、何んか大変なことを知っていたに違いありません、どうかしたら||」
「お園を殺した下手人を知っていたとでも言うのか」
平次はさすがに気が廻ります。
「これは私だけの考えですが、あの大夕立の時、娘が腹を立てて寄りつけないので、私はお隣へ逃げて行き、お菊はお向うの唐物屋さんの店先で、雨の止むのを待って居りました」
「?」
「私は少し耳が遠いので、
老母お槇の知恵のよく廻るのに、平次は褒めてやり度いような心持でした。恐らくたった一人の、杖とも柱とも思う娘お園を殺された、大きな悲歎の底から、一世一代の知恵の灯が燃え立ったのでしょう。
「そんな事もあるだろうな」
平次は、それ以上のことまで考えて居るのですが、
「でも、私は、みす/\娘を殺した相手が居るのに、それをどうすることも出来ないようでは、娘も行くところへ行けないと思いまして||」
お槇は母親の愚に返って、サメ/″\と泣くのです。
「まァ、心配しない方がよかろう、人を二人まで殺して、百まで生きていられる筈は無い||ところで、お園を怨んでいた者が、二人や三人はあったようだが」
「それは、あったことでしょう、あの通りの気象者で、どうかすると、産みの母親の私でさえ、側へ寄れないこともあった位ですから」
「御浪人の阿星右太五郎さんも怨んでいたし、やくざ者の投げ節の小三郎も怨んでいたかも知れない。商売敵の師匠のお組だって、好い心持でなかったことだろう」
「そう言えば、夕立の来る前、お組さんと掴み合いの喧嘩をして居たそうですが、||お組さんの株を取って、踊りの師匠の看板をあげた時から、娘とあの人は敵同士のようなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことも
そんな事はしかし、お槇が説明するまでもなく、平次はことごとく承知して居ります。
「話は違うが、今朝、お菊の死んでいるのを見付けたのは、お前さんだと言ったね」
「ハイ、格子を開けて、いつものように木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が||可哀想に首に手拭を巻いたまま、下水に半分落ちて居りました」
「木戸は締って居たのだな、間違いもなく」
「間違いはございません、私が此手で開けたのですから」
「もう一つ、お菊の首を絞めた手拭は、確かに小三郎のものだと言ったね」
「あんな変な
「その手拭を||」
「ゆうべ、小三郎さんが忘れて行ったのを、お菊は持って追っ駆けましたが、追いつき兼ねて、此上り
入口の
それは紛れもなく昨夜投げ節の小三郎が忘れて行った「鎌、輪、ぬ」と染めた手拭に紛れもなかったのです。
「どれ」
平次はお槇の手から手拭を受取りました。切り立ての手拭ですが、いくらか
お菊の死骸の首に捲きついていたのは、同じ「鎌、輪、ぬ」の模様ですが、それは死骸の首から外して、別に証拠の一つとして、町役人に預けてあるので、それが沓脱の下に紛れ込む筈もなく、此処で明かに不思議な
「今朝小三郎が来なかったのか」
「まだ薄暗い時間に||私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見付けて大騒をしている時、一寸顔を見せましたが||その辺をウロ/\して直ぐ帰ってしまいました」
そう聞くと、もし小三郎が昨夜此手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑いは、真っ直ぐに手拭の持主の小三郎に
手拭を忘れて行ったばかりに小三郎は、此恐ろしい疑いから免れて、恐ろしく知恵の廻る下手人が、小三郎と同じ柄の手拭を買って来て、お菊を絞め殺したという結論に導かれるのです。
「鎌、輪、ぬ」の柄は好んで手拭にも
「親分、いろ/\面白いことがわかりましたよ」
そんな中へ、八五郎は飛んで来ました。
「大層早かったじゃないか、何処を歩いて来たんだ」
「何処も歩きやしません、投げ節の小三郎に逢って、一ぺんにわかっただけで」
「何が||?」
「第一に先ず小三郎は
「それから?」
「これからが大変で、||
「誰がそんな事をしたというのだ、誰にしてもグショ濡れになる筈だが||」
「
「?」
「大夕立に叩かれて、曲者の身体は人魚のように綺麗だったそうですよ、||もっとも、湯もじ一つだけは締めていたが||」
「小唄の師匠のお組が下手人だという積りか、お前は?」
「外にお園を殺しそうな人間は無いじゃありませんか、||お組の家を捜しても、濡れた着物は無かった筈で||裸体でやったんですもの。三十になったばかりの
八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩を
「誰がそんな事を言ったんだ」
「もっぱら世上の
「町内の人が皆んな口を開いて眺めていたわけじゃあるめえ、お前は口留めされたんだろう」
平次は早くも八五郎にこの話を吹込んだもののことを考えて居る様子です。
「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見て居たんですよ」
「お菊が?」
「此家の前で、親分に話そうとしたが、奥にお組が居るから||私は怖い||とか何んとか言って、口を
「フーム」
「それを、娘の心の中に畳み兼ねて、昨日うっかり人に話してしまい、それがお組の耳に入って、昨夜この路地で殺されたんでしょう」
「お菊を殺したのも、お組だというのか」
「そうとしか思えませんよ、木戸は締っているが、お組は元踊りの師匠をした位で、恐ろしく身軽だから、板塀に飛付いて、踊り舞台の足場に登り、大夕立の時と逆に、自分の家へ帰り、素知らぬ顔をしていたんでしょう」
「||」
「小三郎が忘れて行った「
「だが、待てよ、八」
平次は漸く八五郎の
「あの大夕立の中を、
「そこはそれ、風呂敷か何んか
「風呂敷や手拭であの夕立が
「ヘェ?」
「若い女が、あの
「もっとも若い女は、それ程でもない癖に、
八五郎は大に弁じますが、平次は黙って考え込んでしまいました。
「そいつは一応面白そうだ、お組のところへ行って臍が無事かどうか、
平次はもうお園の家を出て路地に立って居りました。袋路地の入口、一方は板塀で、踊り舞台の足場が、塀の上へ高々と組みあげてありますが、此処からお組の家へ行くためには、路地の奥の木戸を開けて、大家の
平次と八五郎が行った時は、お組は一と息入れて、これから又お園の家へ出かけようという時でした。
何処かで祭の太鼓、まだ朝のうちだというのに、
「あら、親分、何んか御用? こんなに早く」
などと、お組の磨き抜かれた顔は如才もない愛嬌がこぼれます。引締った三十女、古典的な眼鼻立、お園のような不均整な顔の道具から来る魅力はありませんが、いかにも自尊心に充ちた人柄です。
「
「お園さんが死んでしまって、あの踊り舞台をどうしようもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張り切っているし、娘達の仕度も大変でしょう、||お園さんのお母さんと相談して、昔は踊りを教えたことがあるから、兎も角も後の始末は私が引受けて、格好だけはつけることにしました。せめて今日一日だけでも、あの舞台で皆んなを踊らせれば死んだお園さんも浮べるというものでしょう」
お組はホロリとするのです。
「掴み合いの喧嘩までした師匠がねェ、大した心掛けじゃないか」
「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ、これで踊りの師匠を又始める気じゃ、そんなお節介は出来ないけれど、どうせたった一日だけの代役で、私はもう二度と舞扇を持つ
「えらいな師匠、その心掛が気に入ったよ、||ところが、その気持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知って居るお菊までも、絞め殺して口を
平次はとうとう言うべきことを言ってしまいました。
「まァ、まァ、それは本当ですか、親分、誰がそんな事を||第一あの大夕立の中を||」
お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの仕草も、これほどまでには効果的でなかったでしょう。眼を大きく見張って、唇の色までがサッと変ったのです。
「あの大夕立の中を、お前は腰巻一つの
「まァ、そんな事が||」
「お前の家に濡れた着物が一枚も無かったと聴いて、作者がそんな事を
「それで、あの時八五郎親分が、私の家の風呂場でウロ/\して居たわけなんですね」
お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなっている八五郎を
「まァ、怒るな、八に風呂場を見るように言い付けたのは此俺だ」
「そんな事が出来るかどうか、考えてもみて下さい。いくら大夕立の中だって、真っ昼間の屋根の上を、若い女が
「それはわかって居る」
「第一、
お組の爆発する
「いい、わかったよ、師匠、お前が怪しいと思えば、わざ/\やって来て、こんな事を言いやしない||ところで」
平次は一応
「お菊さんが殺された時だって、私は若旦那の金之助さんと一緒に帰り、若旦那を此処へつれて来て||恥を言わなきゃわからないけれど、
「それはもういい、が、一つだけ、小三郎が踊り舞台の後ろの楽屋へ、匕首を忘れて来たと言ってるが、それを師匠は見なかったのか」
平次はお組の怒りをやり過して、新しい問いを持出しました。
「見ましたよ、多勢居る前で、帯を締め直すんだとか言って、不気味な匕首を取出し、皆んなに見えるように
「お前は本当に
「好きじゃないが、そんなに嫌いでもありませんよ、でも、若い女が雷鳴が
こんな秘密までは、平次も気が付きません。
「八、どうだ、見当は付いたか」
お組の家を出ると、平次は面白そうに八五郎を振り返りました。
「驚きましたね、あの女が下手人じゃ無いんですか」
「どうも、そうらしくないよ。お園の死骸の
「女の下手人が、自分の掌を動かして、わざと、あんな大きな手形をつけたんじゃありませんか」
「動かしながらつけた手形なら、指先の渦巻や、手の平の
「すると、どんな事になりましょう」
「お前にお組が下手人に違いないと教えたのは誰だ」
「小三郎ですよ、||
「そんな事だろうと思った||おや、お園の家へ小三郎が来て居るようだ、お前は外で待って居てくれ、いいか」
平次は何やら八五郎に
「小三郎
「へえ? 銭形の親分ですか、ちょいと待って下さい」
小三郎は殊勝らしく仏様の前で線香などを上げて居りましたが、
「小三郎兄哥、お組の家の屋根は、すっかり腐っていて、人間は歩けそうも無いぜ」
「えッ?」
「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見ていた、||それを俺に教えようとしたとき、俺の側に居て眼顔で留めたのは、小三郎兄哥、||お前じゃなかったのか」
「||」
「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ
「親分、そんな事が、と、飛んでもない」
「お前がお通夜の席から帰ったのは
「||」
「自分の匕首を楽屋に忘れて来て、それを皆んなに見せて置き後から行ってその匕首を持出してお園を殺し、夕立に濡れたのを胡魔化すために、夕立が晴れ切らぬうちに、皆んなに見えるようにお園の家を覗いて、大声で騒ぎ出したのは
「||」
「お菊を殺すために、手拭を二本用意し、一本をわざと忘れて出たのも巧い手だが、今朝早くお園の家を覗いて、忘れた方の手拭を持出そうとして見付からなかったのは
平次の
「野郎、
其処に待機していた八五郎が、
この捕物は少しばかり汗を
* *
「でも念入にイヤな野郎さ、女に嫌われてそれを殺すのに、あんな細工をするというのは」
事件が落着してから、平次はツク/″\言うのでした。
「でも、あの大夕立の中を、神田一番の
「馬鹿だなァ」
「安やくざの小三郎が下手人じゃ、一向つまりませんね、親分」
「その代り、神田一番の結構な年増が、飛んだ
「そこで、あっしもこれから小唄の稽古でも始めようかしら」
そんな事を言って長んがい