「あれを聴いたでしょうね、親分」
ガラッ八の八五郎は、この薄寒い日に、鼻の頭に汗を掻いて飛込んで来たのです。
「聴いたよ、新造に
銭形平次は立て続けに煙管を叩いて、ニヤリニヤリとして居るのです。
「そんなつまらねえ話じゃありませんよ。親分も聴いたでしょう、近頃大騒ぎになって居る、
「そうだってね、新吉原の土手で、遊びに行く武家がポンポン髷を切られるんだってね、||大きい声じゃ言えねえが、『人は武士なぜ
町人平次||お上の御用を勤めているには相違ありませんが、武士の髷切り騒ぎには、内々
その頃江戸中の評判になった、この髷切りの
誰が一体、何んの意趣でそんな悪戯をするのか、全く見当もつきません。髷を切られるのは武家に限り、二本差でないものは、どんなに酔払って居ても、たった一人で通っても、何の
切られた者の話によると、足音も立てずに忍び寄って、恐ろしい手際で
その切られた髷は、幾つかずつ縄で編んで場所もあろうに、五十間の右手の高札場、丁度見返り柳と相対して、
「あっ、今日は三つだ」
「昨日は二つだったが、||切られた奴の顔が見度いネ」
「あれが千になると大願成就だとよ」
「何んの願を掛けて居るんだろう」
指さして笑うのは、切られる心配のない町人共で、武士は苦々しく横眼で睨んで通るのです。
「面白がって居ちゃ困りますよ。昨日八丁堀へ顔を出すと、笹野の旦那がひどくお困りの様子で、||平次は何をして居るんだ、髷切りを放って置くと、八方から文句が来て、大困りだが||とこぼして居ましたよ」
「成程な、考えて見ると笹野の旦那も、二本差に違いはない。
「ところで親分、その髷切りの曲者は誰だと思います」
「それが解らないから不思議だよ、
銭形平次の智恵も其処から先は何うしようもありません。
「此節急に
「それも考えられないことはないが||」
武家の
「江戸の町奴の中に、あんな腕の出来る奴があるかな」
平次が疑うのはその点でした。
「
「三次郎の早業と、弁吉の小太刀の腕前を一人で持っていれば出来ないこともあるまい。が||」
平次はこんなことを考えて居るのでした。
「お客様ですよ、||お武家様がお二人」
平次の女房のお静、相変らず若くて優しいのが、障子の外から声をかけました。
「両刀が二人か||髷を切らた[#「切らた」はママ]のじゃありませんか」
八五郎が側から口を出します。
「シッ、黙って居ろ、||お前はお勝手へでも消えるが良い」
「消えるんですか。ヘエ、行きますよ」
八五郎を台所へ追いやった後へ、
「拙者はさる御直参大身の用人、
「拙者は佐々見
「折入って平次殿にお願いがあって参ったが、聴き入れては下さるまいか」
打ち上がったような、
「どんな事か存じませんが、私は町方の御用を
平次はツイ尻ごみするのです。
「それはわかって居るが、先ず聴いて下さらぬか、平次殿」
「ヘエ」
「何を隠そう、拙者の主人、||名前を申上げても差支えあるまい、||どうせ
「||||」
「その主人、青江
「えッ」
「昨日、||散々お
「||||」
「日本
「ほんの
大里貫之助と佐々見左仲は、斯う念入りに説明して行くのです。
「その時、他に見て居る者はございませんでしたか」
平次は問いを
「編笠茶屋の評判者、||お妻とか申したな||あの美しい娘が、横の方からそれを見て居たと思う。外には人通りも
「で?」
「何やらヒラリと闇の中に動いたと思うと、殿の御
「申すまでもございませんが、其辺をよく御覧になった事でしょうな」
「見た、||闇の中とは申しても、二間や三間先の物はかすかに見える。編笠茶屋の
「?」
「殿には、そのまま御帰館になったが、
「
「
大里貫之助の素直な調子には、
間もなく平次は、八五郎と一緒に観音様を横目に拝んで、新鳥越から日本
「いよいよ、髷切りを挙げるつもりですかえ、親分」
此辺まで来ると、仲町の空気が||ドブ臭く酒臭く香って、八五郎の鼻は
「武家の髷節なんざ、
江戸開府以来と言われた御用聞、銭形平次は弱気で引っ込み思案の癖に、妙に
「そう来なくちゃ面白くない」
八五郎はすっかり
山谷から
土手の両側は一段低い町家で、土手の上には、
「曲者が
平次は
「土手の外へ転げ込むより外に工夫はありませんが、道傍の柳は植えたばかりのヒョロヒョロで人間を一人隠せそうもないし、所々にある茶屋は、夜っぴて
「そう言ったものかな」
平次は土手の両側を覗いたりして居ります。
「変な坊主が居ますよ、親分」
八五郎は柳の下の、小汚ない乞食坊主を指さしました。
「土手の
平次は懐中を捜して青銭を二三枚掴み出すと、乞食坊主の
「南無、南無、南無」
乞食坊主は何やら口の中でブツブツ言って居ります。五十前後、或は六十近いかも知れません。何を食べて生きて居るかわかりませんが、骨と皮ばかりの青黒く
心も空に、吉原へ飛んで行く
「少し訊き度いことがあるんだがな」
「ヘエ」
自分の前にしゃがんだ、大枚十二文の
「近頃此土手で、変なことがあるそうだが、お前は知って居るだろうな」
「ヘエ?」
「武家の
「ヘエ」
「此土手に住んでいるお前が、その曲者を見ない筈はないと思うが、どうだえ」
「ヘエ、||それらしいのを見ないわけじゃございませんが」
「それを聴き度かったんだ。その髷切りの曲者は、どんな野郎だ。若いか、年寄か、
「それを言うと、私は殺されるかもわかりませんが」
「えッ?」
乞食坊主の言葉はまことに予想外でした。
「でも、人助けのために思い切って申上げましょう。私はもう此処から引揚げて、もう少し
「?」
「髷切りの曲者は、お武家でございますよ、||立派なお武家で、四十五六にもなりますか、背の低い、少し
乞食坊主の鑑哲の言葉は恐ろしいほどはっきりして居りました。
「それは有難い、宜い話を聴いた、||八、跛足で背の低い体術の名人というのを君前は知って居るか」
「橋場に町道場を開いて居る
「フーム、評判の良い先生だな」
「あの人は髷なんか切りそうもありませんね」
「ところで||」
平次はまた乞食坊主の方に顔を向けました。
「ヘエ、ヘエ」
「その髷切りの曲者は、||
「土手の下へ転げるように逃げ込みますよ」
「そんな事が出来るかな」
「其処が体術の名人で」
「有難う、それだけ聴かして貰えば大助かりだ」
平次は乞食坊主に丁寧過ぎる礼を言って、小粒を一つ、鉄鉢の中へ追加してやりました。
「橋場の俵右門とわかれば、あとは調べにも及ばないでしょう。引返して道場へ踏込みましょうか」
「威勢は良いが、俺とお前と二人でヤットウの道場へ踏込んだところで、弱い武者修行ほどの働きもむずかしかろう。まアまア黙って俺に付いて来るが宜い」
「ヘエ」
其処から直ぐ、左手に軒を並べて、
「御免よ、お前一人か」
柳屋というのへ八五郎が長んがい
「あら八五郎親分」
店火鉢を離れて立ったのは、お妻という土手一番の評判娘でした。十九というにしては少し
「お妻坊、相変らず綺麗だなア、お前が土手に居るんで、仲町は火の消えたようだって言うぜ」
「あら、親分、御冗談ばっかり」
打つ真似をした手をそっと引込めて、パッと赤くなると言った、
「ところで、今日は銭形の親分をつれて来たが昨夜の髷切りの一件を
「でも、私、何にも知らないんですもの」
「知ってるだけで宜いよ。三人の武家に気のつかないことでも、側に見ていたお前には気のついた事が沢山あった筈だ」
平次は八五郎の後ろから、穏かな調子で||が
「あの、何んにも気が付きませんが||」
三人の武家に見えないことが、この十九の娘に見える筈もあるまい||、平次はフトそんな心持にもなりましたが、
「だが、髷切りは、よく此辺に出るようだ。二度や三度はお前も騒ぎを見て居るだろう」
「||||」
「昨夜の青江備前守様は、何処に居たか、私を其処へ立たして見てくれ」
「此辺でございました、||
「二人の御家来は||八五郎、お前は大里さんと佐々見さんの二た役勤めるんだ」
「ヘエ||」
お妻は心得て八五郎を平次の前に立たせると、商売物の編笠などを持たせて、その時の恰好をさせるのです。
「二人の御家来は、店に
「此辺でございました」
お妻は店先||二人の家来から少し離れて立って見せました。
「灯は
「そう言えば、何にかチラリと見たようにも思いますが」
「若い眼で、これだけの灯で、見えない筈はない||遠慮することはない、曲者の様子を言って見るが宜い」
「||||」
「お前は
平次の言葉は条理を尽します。
「若い男でした||背の高い」
「武家か、町人か」
「チラと見ただけで、よくはわかりませんが、遊び人風の」
「そして何処へ逃げたのだ」
「土手の下へ、転げるように逃げました。でも、その辺は真っ暗で、夜分は覗いても何んにも見えません」
「切った髷は、曲者が拾って行ったのだな」
「え」
「そんな
それは重大な疑問でしたが、お妻も
「親分」
「何んだ八、袖なんか引っ張って」
「曲者は
「先刻は俵右門とかいうヤットウの先生だと言ったじゃないか」
「ヘエ」
平次と八五郎は、お妻の茶屋を出ると、
「驚きましたね、親分。こんなわけもない事が、どうしてわからないんでしょう」
「思いの外
二人は高札場の番屋へ寄って、切られた髷を見せて貰いました。浅ましくも
「不思議なことにこの
番人はそう言って笑い乍ら、真っ黒な髷をかき廻して見せます。
「尤も、そいつは返して貰っても、
「黙って居ろ、八。少しは切られた者の身にもなって見るが宜い」
「ヘエ」
「ところで、高札場へ
「そうですよ、不思議なことに、あとはどれが誰のか名前はわかりません」
高札番屋の番人はこう言うのでした。
「面白いな、八。下っ引を六七人集めて、
「親分は?」
「俺は青江備前守の身持を調べ抜くよ、||それからお前には外に頼み度いことがある。耳を貸せ」
それから五日目の朝、
「わッ、驚いたの驚かねえの」
相変らずの調子で飛込んできたのはガラッ八の八五郎でした。
「何うした、見せろ、髷は無事か」、
平次も釣られて、八五郎の
「髷は無事ですがね、驚いたの何んの||全く
「馬鹿野郎、宜い気のものだ」
「それからグイと
「||||」
聴いて居る平次もツイ
「足音も何んにも見えねえ、サッと太刀風が襟をかすめたと思うと、髷はポロリと落ちた||気合も何んにも掛けずに、いきなり背後からピカリとやるんだから、凄いなア、親分」
「待てよ、八。髷がポロリと落ちたと言ったが、お前の髷は切られもどうもしないじゃないか」
「其処が
「?」
「あっしの
「ハッハッハッ、そいつは上出来だ」
平次も思わず笑ってしまいました。
「どうです、うまい工夫でしょう」
「工夫は良いが、曲者の姿でも
「何んにも見やしませんよ。口惜しいが、サッ、ポロリだ。あわてて其辺中捜し廻ったが、犬の子一匹居ねエ。ありゃ魔物ですね、親分、||その
「フーム」
「あんまり
「だが、容易でない相手だな、||ところで、見張りを付けて置いた三人はどうした」
「安宅の弁吉も、小人の三次郎も、俵右門も此四五日は神妙に家に居て、一寸も敷居の外へ出ませんよ」
「フーム、いよいよむずかしい、今度は俺が髷を切られる番かな」
「親分が侍姿で出かけるんですか、||
「そんな
「所で、青江備前守の方の調べはどうです」
「あの殿様は身持がよくないな。髷を切られた噂は、公儀のお耳にも入ったようだから、いずれ八千五百石の大身代は持ちきれまいよ」
「ヘエ」
「何人となく
「それじゃ髷で仕合せで、首を切られても不思議はありませんね」
其晩銭形平次は、侍姿に化けて、土手から衣紋坂をブラリブラリと歩きました。
「意気過ぎますぜ、親分は。まるで島田重三郎か白井権八の
「馬鹿、お前は顔を出さない方が宜い、鳥越の勘六の家で待って居ろ」
うるさく跟いて来る八五郎を追っ払って、平次はもう一度編笠茶屋の方へ引返します。
「精が出るな。
立止ったのは、乞食坊主の
「おや、親分さんで、妙な
鑑哲は
「なアにお茶番だよ、誰にも言うな。ところで、もう
「ヘエ、でも、本当の貰いはこれからで御座います。
乞食坊主はブツブツ言い乍ら、思い出したように小さい
平次はそれから衣紋坂へ、幾度歩いたことでしょう。髷切りの噂に
丁度五回目、編笠茶屋を過ぎて、衣紋坂へ近くなった頃でした。と、ある空茶屋の軒下を廻ると、不意に、
「||||」
サッと太刀風、平次の頭にカチと鳴って、あとは不気味に静まり返ります。
「親分」
道でバタリと逢ったのは、八五郎のあわてた顔でした。親分の平次を案じてやって来たのでしょう。
「出たよ、八。兎も角勘六の家へ引返そう」
二人は其処からツイ鼻の先の下っ引勘六の家へ引返しました。
「おや、銭形の親分」
「挨拶は後だ、||
平次は勘六の持出した手燈の側へ、右手に持って居た三尺あまりの
「親分、これは?」
「曲者の着物だよ、||少し
「何処です、親分」
「色の
「あッ、あの乞食坊主?」
平次と八五郎と勘六は、
「親分、聴いて下さい。私は逃げも隠れもしません||これには深いわけがある」
縄を掛けられ乍ら、乞食坊主の鑑哲は声を絞りました。
「よし、そのわけは俺も聞き度い、此処で言うが宜い」
勘六の家へ引立てて来ると、平次は此坊主の言い分を聴いて見度くなったのです。
「私はこれでも武士の端くれだ。が、二本差がいやになって、こんな姿になってしまったのだ。そのわけは、主人筋の青江
乞食坊主の
「よいよい、人を
「フーム」
「解ったら帰れ。娘が心配して、外で待っている様子だ、||土手に居てはろくな事があるまい。巣を変えろ、宜いか」
「有難い、||さすがは銭形の親分だ。それじゃ、土手ともお別れだ。八五郎親分、勘六親分、長い間世話になったなア」
「まア、父さん、無事で」
飛付くように鑑哲に取りすがったのは、編笠茶屋のお妻でなくて誰であるものでしょう。
× ×
それを見送って、真っ暗な道を山の宿の方へ
「変な捕物でしたが、あのお妻が乞食坊主の娘とは気が付きませんでしたよ」
八五郎は口を切ります。
「切った髷を拾ったのがお妻さ、||此間
「
「曲者はどうしても姿は見せないと言うから、編笠茶屋や空茶屋の屋根の上から、通りすがりの武家の髷を切るのだと解ったよ。それから
「それにしても、親分も髷は無事じゃありませんか。付け髷でも用意したんですか」
「そんな間抜けたものを用意するものか。俺のは女房の
「成程そいつは気が付かなかった、||
「そのうちに良いのを見付けてやるよ」
二人は他愛もない事を言い乍ら、軽い心持で家路へ急ぎました。